こうして時代は変化する

自動車はどちらさまにも、ふつうの乗り物である。
運転ができるひとも、とっくにふつうになっている。
だから、どうということもないのだが、そこに時代の変化がかくれている。

たとえば、夜間の信号待ちのときにヘッドライトは点灯したままにするか、それとも消灯するかということがある。
たとえ消灯しても、車幅灯は点灯のままにするのがふつうだ。
あんがい、どちらかが「習慣」になっている。

点灯のままのひとは、なにか気になることがなければ消灯しないし、消灯するひとは、なにかに気をとられて消し忘れるくらいだろう。
だから、両派はそれぞれが「習慣」なのだ。

消灯派のひとは、高齢者におおいという。
むかしの自動車は、当然だがいまよりも性能におとる。
とくに、バッテリーの性能がわるかったことから、停車時のアイドリング中にヘッドライトをつけたままだと、バッテリーが劣化して寿命が縮むといわれていた。

それに、点灯したままだと対向車の運転手がまぶしかろうという「思いやり」がくわわって、信号待ちで消灯するのが「習慣」になったとかんがえられている。
まぶしいのはむかしのヘッドランプではなくて、さいきんのLEDランプの方がよほどまぶしい。

しかし、いまでも主流のHIDランプは、黄色みがあるハロゲンランプに取って代わったものだが、つけたり消したりすると寿命が縮むということから、点灯したままということが推奨された。
もちろん、すでにバッテリー性能は気にしなくてよい状態だ。

こうして、バッテリー性能から「消灯」していたものが、ランプの寿命による「点灯」に変化したが、バッテリーの問題とランプのはなしがいれかわっていることがポイントになっている。
まさに、ここに「変化の潮目」があるのだが、どちらも「寿命」をながくしたいという共通点で、この変化をかくしている。

こうして、LEDランプが登場して、圧倒的な寿命のながさがうたわれるようになった。
LEDは、消費電力もすくなくてすむから、いよいよバッテリーの劣化を気にしなくてよい。

だからといって、対向車にまぶしいだろうから「消してあげよう」になっていない。
むしろ、さいきんの機能は、光源をシェードで自動的にかくして、相手がまぶしくないように調整するようになっている。

つまり、運転手がする「思いやり」を、自動車の機能としてするようになったという大変化がおきている。
それで、わが国には2020年の新車から、ヘッドライトの自動点灯機能「義務化」がきまっている。

「義務化」なので、こんどは「点灯」も「消灯」も、運転手がえらべないという意味に変化する。
これも、自動運転化の一部になるのだろう。

だから、2020年をさかいに、すくなくても「消灯派」は駆逐されることがきまった。
運転手の意志とは関係なくなるのだが、それは、スイッチがなくなるということでもあるから、消したくてもできない。

ここから想像できるのは、相手がまぶしかろう、という意識も消えることだ。
だって、自分じゃなにもできないからしょうがない。
そういうことで、まぶしくこちらを照らす相手に「敵意」をおぼえるようになるだろう。

おなじような変化が、かつて、ペットボトル普及時にもおきている。
たった一回の飲み物のために、プラスチックをこんなにつかっていいものか?という「おもい」がじゃまして、ペットボトルの購入には「ためらい」があったのだが、「リサイクルする」ということで爆発的に利用がふえたのだ。

ほんとうに「リサイクル」しているのか?
どうやって「リサイクル」するのか?
ということは、専門家にまかせて、だれも不思議におもわなかった。
じっさいは、中国に輸出したのにだ。

しかし、いちど破れた傘をだれも修理しなくなったように、もどることはできない。
それは、物質的に、物理的なことではなく、ひとの精神がもどれないのである。

たかが、自動車のヘッドライトのはなしだが、価値感はこうやって変化して、それがやがて「時代」をつくる。

それにしても、なぜ「ライトの自動化」が「義務化」されるのだろうか?
またまた、国家による命令である。

車好きから反対の声がきこえない。
たかが、自動車のヘッドライトのはなしだが、自分でライトのスイッチぐらい操作させろというひとはいないのか?

選択の自由がうしなわれる。
これは、けっして大げさなはなしではない。

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