たまげる映画「原子力戦争」

40年前の1978年(昭和53年)の作品である.

だから,監督も出演者のほとんどがすでに鬼籍にある.健在なのは風吹ジュンひとりか.
原作者は,こちらも健在の田原総一郎氏.これは,もしかしたら氏の生涯における傑作かもしれない.残念ながら,わたしは氏の作品の読者ではないが.

舞台はあの,「福島第一原発」とその城下街である.
この映画には,わが国の世の中の構造が,みごとに圧縮して描かれている.
税収と街の行政,国家の意思としての警察,町民の暮らしと漁協,そして体制内の新聞社.
突撃撮影した原発入口での映像部分は,アポなし「ドキュメンタリー」であるという.
そこにいる,本物の警備員の対応のなんと「現代的」なことか.

DVD映像特典の田原氏によれば,このとき,監督は主演の原田芳雄が「逮捕されればよかった」と思っていたのではといい,本物のパトカーが何台も来たら迫力があったろう,と回想している.
物語は,連続殺人事件と原発事故の隠蔽工作が重なりながら進行する.
ラストにおける「犯人」の種明かしの衝撃.
なんとも盛りだくさんな映画である.

1973年(昭和48年)の石油危機は,翌年の74年になって日本に波及した.
このブログにも書いたが,「オイルショック」が高度経済成長を止めてはいない.本当は,田中角栄内閣による,無用のバラマキというムダが日本経済の成長を阻害したのである.

そして,イラン革命による「第二次石油ショック」は,1979年(昭和54年)におきるから,この映画はその直前にできた.
ちなみに,日本は優秀な経済官僚たちのおかげで,世界で唯一この危機を乗り切って,80年代の絶頂へと向かったことになっている.
しかし,実態はホンダ・シビックが象徴するように,経済官僚からのさまざまな嫌がらせを克服して開発し大成功したのだから,嫌がらせがなかったらもっとよかったろう.

岡田英次演じるところの「原子力の大権威」の台詞は,まさに電気事業連合会と経産省の主張そのもので,通産官僚だった堺屋太一の出世作「油断」は,すでに1975年に発表されていた.

2011年3月11日の地震の前と後とで,この映画の鑑賞における条件がかわるのはいうまでもない.
「前」なら,さもありなんの「反原発」を描いた社会派サスペンスになるのだろう.
ところが,現実が突きつきた「悪夢」以上の,人類史上「最悪」を目撃し,その始末がどうなるのか「わからない」まま,生きているわれわれに,この映画が突きつけるものは,「まだ甘い」のである.

専門家によると,後始末の時間単位は,「千年」から「万年」.
期待できる新技術に「百年」という単位がつかわれている.
費用は,計算できない.
しかし,もっとも深刻なのは技術者の育成で,「廃炉」の専門家のなり手がいないことだ.「百年」から「千年」単位で,どうやって技術者を引き継いでいくのか?
にもかかわらず,政府は「原子力の安全性は確認された」というからおそれいる.

福島第一原発は白くそびえ,それは科学技術という権威の象徴でもある.
対比される街は貧しい漁村だが,原発からの税収と,なんだかわからないけど,「事故」のたびにでてくる「漁業補償」という金づるは,工事関係者というよそ者の流入もくわえて,他に産業がない街の夜までも賑やかにする.

漁業をしなくても漁業でたべていけるようになれば,麻薬中毒より快適な暮らしである.
しかし,映像の街は,もうない.
だから,この映画の映像は,「かつて」の街の様子を撮影した「資料」にもなっているはずだ.

完全なる「依存」.
それは,戦前・戦中の「英米撃つべし」という民衆の大合唱に迎合した政府が決断し,敗れれば,政府の無責任をして,責任を転嫁するパターンのごとくでもある.
それで政府は,いかに「依存」させるかが,政策の成否の決め手であることを熟知している.
これを,古来「アメとムチ」といった.

忘れるのはいつも民衆のほうである.
「アメ」しかみない.
「アメ」しかみせないやり方に,まんまとはまるのである.
これを「利益誘導」というけれど,えさにつられて罠にはまる獣のような扱いをうけているのに,あとから「ムチ」で打たれてはじめて気がつくから,これらの人びとを「愚民」という.
それに,なんどもおなじやり方(政府はこの方法しかしらない)で,痛いめにあいつづけているから,ぜんぜん学習しないのである.

つまり,問われているのは「社会システム」そのものである.
この映画は「警告」にすぎなかった.
しかし,現実が物語をいとも簡単にこえたいま,「警告」として済ますことはできない.

大権威の岡田英次の博士はいう.
「(確率論から「メルトダウン」なんて)隕石にぶつかるようなものだ」
われわれは,隕石にぶつかってしまったのか?

そうではない.
「隠蔽体質」という習慣が,非常時にマニュアルの存在を忘れさせた.
われわれには,巨大な原発を製造できても,原発という巨大システムを運転することができない.
「ものづくり」の限界がここにある.

それにしても,登場人物がそろいもそろってよくたばこを吸うから煙たい映画でもある.
これも,現代の「禁煙ファシズム」を予感したのだろうか?

たまには,こうした重い映画で「たまげる」のもいいだろう.

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