もっとうまくなりたいのに

オペラをしらないひとでも、「マリア・カラス」の名前だけはしっているということもあるだろう。
20世紀最大のソプラノ歌手のひとりであって、名声と栄光をてにしながらも悲劇的な生涯を送ったひとであった。

ドキュメンタリー映画『私は、マリア・カラス』(2017年、フランス)を観てきた。

彼女の私生活における葛藤が悲劇的なのだが、それを、本人が認識していて告白する映像が冒頭にある。
『わたしは「マリア」なのか「カラス」なのか?』
素顔と職業人としての人格がぶつかり合う。
その両方の人格でなりたっているのが、「マリア・カラス」なのだと。

マリア・カラスにおける数々の「事件」は、その突出したスター性の裏にある「素顔」があってのはなしだから、この映画は表面的な「事件」の詳細ではなく、「素顔」のほうに重きをおく。
これは、当然としても、彼女の表面的な事件をよくしらないひとには、やさしい映画ではない。

観客は、「しっている」ということを前提にしているのだ。
それでも「映画」としてあらたにつくられたのは、プライベート映像の発掘など、新資料がでてきたからである。

「しっている」ひとたちが「納得する」内容だから、「しっている」ひとたちが生きているうちにつくる意義があったのだろう。
彼女が53歳という若さで亡くなったのは、1977年のことである。

映画ではたんに、「パリの自宅で」「心臓発作」というが、その原因がなんだったのかを「しっている」ひとはしっているから、余計なことはいわない。

本編中にも、スキャンダルにまみれたとき、街を散歩できるパリを『余計なことには関心がないフランス人は「マナーの心得」がある。』として親和性を述べているが、これがラストの表現にも掛けてあるのだろう。
いまは、パパラッチの天下であろうが。

美空ひばりは享年52歳、アラブの歌姫ダリダは54歳にして世を去っている。
一世を風靡するような女性歌手は、なぜか50代前半があぶない。

もっともダリダは、エジプトからフランスに国籍をかえてしまってずっとパリ在住だったけれど、和平後の80年代にはパリのスタジオからカイロ放送に出演しても、圧倒的人気と存在感であった。

神経が繊細なマリア・カラスは、家庭への憧れがあって、これが世紀の大歌手にして最大の悩みとなる。
他人からすれば、「ないものねだり」だったのだろうが、本人にはあきらめきれないものだった。
そこに、「人間」をみるのだ。

だからこそ、オペラという非現実のなかに、現実をみたのだろう。
歌唱力だけではなく、役になりきる圧倒的演技は、本人にとって演技をこえた現実の自分だったにちがいない。

かくも、芸術とはおそろしいちからがある。
それはときに「破滅的」なのだ。
どういうわけか、山本周五郎の『虚空遍歴』をおもいだしてしまった。

 

齢をかさねて、若いころの歌い方ではつづかないと、歌唱法の変更をともなう訓練をうける。
長く現役でいたいのと、もっとうまくなりたい、という気持が突き動かしたが、これが困難をきわめたようだ。

「これ以上できない。もっとうまくなりたいのに、なれない。」
それが、一般人に理解できないレベルであっても、本人にとてつもない挫折感をあたえたと想像できる。
「極み」とは、こういうものなのだろう。

あのメトロポリタン歌劇場でさえも、体調によってキャンセルをするマリア・カラスとの契約を打ち切るということをした。
7年後、メトロポリタンオペラ復活公演は大成功をおさめるが、そのチケットを手に入れるために徹夜して並ぶひとたちへのインタビューが、まったくもって「日本的ではない」おどろきがあった。

まずは年齢である。
若い。十代か二十代の若者たちが、他人のためではなく自分のために並んでいる。
そして、公演の目当ては彼女だと明言し、「30分のスタンディングオベーションをやる」と意気込んでいるのだ。
じっさいは、10分間だった。

このワールドツアーは、日本での公演が最後だった。
東京NHKホールで、舞台に寄って握手をもとめるひとびとの熱狂もあった。
70年代までの日本人は、国際的な反応と態度とをしていたのだ。

映画での説明はないが、このあと、札幌公演が途中キャンセルになって、これをもって「引退」したのだった。

逝去後40年以上が経過しても、あたらしいドキュメンタリーがつくられるのは、「個人情報」のかんがえ方がちがうからでもある。

キリスト教社会は、旧約聖書をおなじくするユダヤ教もイスラム教も、いつからいつまで、という区切りの概念がある。
だから、婚礼でも、「死が二人を分かつ『まで』」という「誓い」をたてる。

この「誓い」こそが、結婚契約なのである。
配偶者のどちらかが亡くなった時点で、結婚契約も解消されるというかんがえかたである。
「あの世をふくめた未来永劫」という「誓い」をするわが国とは、ぜんぜんちがう。

婚礼ビジネスは、これを説明しない。
主導権をにぎる新婦も、衣装に興味があって「誓い」の内容には無頓着なのは、子どもの国ならではである。

さいきん、外国人が神前式をもとめて日本での挙式をするのは、ちゃんとそこをしっていての確信犯である。
「犯」というのは,「反キリスト教」という意味である。

それで、守るべき個人情報も、本人が亡くなれば「公開」の対象になる。
生きていてこその個人情報保護であって、亡くなれば制約が解けるのだ。

「偉人」のはなしがなくなった日本に、偉人がでないのは、偉人であっても「もっとうまくなりたい」とおもっていたことをしらないからである。

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