ハムラビ法典のブーメラン

お騒がせな「あいちトリエンナーレ」が閉会した。
芸術とはなにか?とか、芸術の原理について先月書いたが、とうとうブーメランを投げつけるひとがあらわれた。

主催者は、「人物の肖像を燃やしてその灰を踏みつける映像」が「芸術」なのだという。
ならばと、この催しの実行委員会委員長である愛知県知事の顔写真を「燃やしてみる」という動画がアップされている。

さらに、文化庁からの補助金がなくなったことを、同じく愛知県知事が非難していることにかこつけて、この「芸術動画」について愛知県からの補助金を申請するという。

「噴飯物」に対して「噴飯物」で応じるのは、ハムラビ法典の論理そのものである。

この、おなじことの応酬(「同害報復」という)は、おなじ身分間でのこと、という限定があったので、現代日本の「身分がない」価値観では、かえってだれにでも通用できるという意味になる。

ここに、あんがい「誤解」がうまれるのは、古代と現代の価値観を混同するからだ。
ハムラビ法典はいけない法典だというひとは、時代の区別ができないことを告白している。

一方で、大ヒットした『半沢直樹』が応酬する「倍返し」というのはハムラビ法典の趣旨に反する。
すなわち、倍返しとは「過剰な報復」になるからで、その意味で「同等」におさめることをあらかじめ定めている「刑罰法定主義」のハムラビ法典は近代法とおなじくするからたいしたものなのである。

ドラマで頭取が半沢直樹を諫めるのは、この「過剰な報復」をもって「やりすぎ」といわしめた。
もしかしたら視聴者には「興ざめ」だったかもしれないが、きわめてバランス感にたけているセリフなのである。

現代社会で刑罰法定主義がこわれたら、目も当てられない暗黒社会になってしまう。
その意味で、半沢直樹の思想は危険なのである。
ゆえに「エンタメ」としての成功があるのだろう。

もとの動画にはなしをもどすと、コメント欄には「より過激な動画をもとめる」ひとがおおいようだ。
その過激さとは、芸術監督をしたひとの顔写真を対象にすべきとか、ちゃんと灰を踏みつけるようにうながすものだった。

しかしながら、動画をつくった本人は倫理観がつよいのか、かなり「躊躇」しているのである。「同害報復」を承知しながら、なんだか「優しい報復」をしている。
だから、コメント欄で過激さをもとめるひとには、「だったら自分でやってみたら?」という感想をもつ。

いずれにせよ、これで主催側のダブル・スタンダードがはっきりしてきた。
愛知県知事の写真を燃やすのもありですよね?というTwitterでの質問(念押し)に、当の知事は「アカウント・ブロック」をして、その理由に「誹謗中傷はみとめない」と書いた。

自分以外ならいいということだし、自分の写真なら誹謗中傷になるというのは、ずいぶんわかりやすいダブル・スタンダードである。
それに、文化庁の決定に「強く対抗する」ということは、ようは「お金」がほしいのだという本音も暴露された。

何のことはない、「芸術」とか「表現の自由」というのはたんなる「箔つけ」の修飾語である。
憲法を持ちだすと、あやしいと思え、が常識になるだろう。

ところで、愛知県や名古屋市のひとたちは、住民監査請求を出さないのはなぜか?
県や市の支出が「不適正」となったとき、知事は自費で費用負担する覚悟はあるのか?

それに、この催しの収支決算がどうなのかはまだわからないが、おそらく赤字であろう。

この「赤字」をだれが埋めるのか?

どんどん下世話になっていくのは、もともと筋がわるいからだが、ある特定の「思想」をもったひとたちからすれば、話題になって壊れることが目的でもあるだろう。

しかし、ダブル・スタンダードがばれてしまえば、ただの「お粗末」に回帰するだけだ。

すると、まさかの「同害報復」だったことになる。
あんがい主催者にとって「灯台もと暗し」だったとすれば、「お粗末」な同害報復動画であることが、より一層の「お粗末」を際だたせる効果があるというものだ。

ハムラビ法典の智恵、おそるべし。

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