冬至祭りのクリスマスと第九

気の早い商店街だと、10月のおわり頃からジングルベルが放送されている。
11月でも早いから、どうしたのだろうとおもうことがある。

星や太陽の運行について、大むかしから観察しているひとがいるとはいうものの、冬至と夏至、春分と秋分によく気がついたものだ。
それに星座の不思議は格別で、どうしてオリオン座がオリオンの姿にみえたのか、まったくわからない。

子どものころ、プラネタリウムで、古代ギリシャ風の絵を重ねる説明があったが、ぜんぜん納得できなかった。
「何万光年」という単位をおそわって、頭の中が混乱するのは、立体的理解ではなく、平面的に終始するからで、オリオン座も立体的に星を配置してみたら、どんな格好をしているものなのだろうか?

向かって左上の赤色巨星、オリオンの絵図にしたら右肩にあたる一等星「ベテルギウス」が、いつ超新星爆発をしてもおかしくないという。
この星と地球の距離は、642光年というから、もしも今日、その爆発を観察できても、それは642年前の出来事である。

そういう意味で,タイムマシンとはこのような「物と事」ではないかとおもう。

星座占いでつかわれる、黄道十二宮の星座も、「むかしから」ということだけしかいまだにわかっておらず、いったい誰がいつからいいだしたのか、さっぱりわかっていない。
わからないから、神秘なのだといわれれば、そのとおりというしかない。

「神秘」とは、わからない「物や事」だといいきれば、世の中は神秘に満ちている。
地震や雷だって、いつ何処で発生するかといわれても、わからない。
そもそも、手にした一枚の紙を手放すと、どこに落ちるのかを予測することすら不可能である。
ひらひらと飛んでみせたり、そのまま落下したりするのをみることができるだけだ。

みることができない音楽も、「神秘」とされる曲はたくさんある。
世界の習慣にない日本独自の習慣になった、暮れの「第九演奏会」は、ベートーヴェンの最後の交響曲を指すが、一年のアカ落しのような感覚で演奏を聴けば、会場をあとにキンとした冬の空気と夜空の星で、「宇宙」を意識してしまう。

ベートーヴェンの物語では、個人的に傑作だとおもっているのは、ゲイリー・オールドマンがみごとに主演した「ベートーヴェン 不滅の恋」(1994年)がある。
このなかで、酔った父からの虐待をのがれる少年が、星空の夏の野を走り、沼に浸かって身をゆだねるシーンが、第九第Ⅳ楽章の有名な器楽フーガにのせてすばらしい映像美をみせてくれた。

 

左は復刻版DVD,右はVHS版である。
ちなみにこの映画のサントラ盤は、クラッシックのジャンルとして、当時の日本で異例のヒットになって、調子にのったレコード会社が「続」まで発売し、これも売れた。
ベートーヴェンの生涯作品の「入門に最適」との評価は当然で、サー・ゲオルク・ショルティ=ロンドン交響楽団による、オリジナル録音だった。

「第九と宇宙」は、「神秘」をつくりだしている。
ヨーロッパなら新年の祝賀とか、春から夏にかけての演奏が主流というが、近年、日本の風習である「年末」に演奏されて、好評だと聞く。

しかし、いわゆる欧米の「年末」といえば、クリスマスがドカンと存在している。
クリスマスがなかった日本では、新たな年を迎えることがなによりも重要だったが、それは、太陽信仰からやってきた。
元旦のご来光こそが、「神秘」だった。

ところで、第九の歌詞はシラー作である。
この歌詞にある、「神」とは「どの」神なのか?をかんがえたくなる。
ふつうは、キリスト教の「神」をいうのだろが、どうなのか?
シラーは、そんな「単純」な人物なのか?

ヨーロッパ近代は、キリスト教否定の歴史でもある。
その代表はニーチェ『アンチクリスト』だ。
キリスト教による「支配」とはなにか?
弱者と強者の関係は?

金融資本主義という意味不明な用語は横にしても、虚業の金融業が実業の産業界を支配し、自己崩壊した象徴がリーマンショック(2008年9月15日)だった。
この時代の「支配の構造」として、『マトリックス』が、1999年に第一作、『ダビンチコード』が小説として2003年、映画として2006年に世にでている。

 

2003年の『マトリックス リローデッド』で破壊された友軍「グノーシス号」のみじかいエピソードが、『ダビンチコード』で一体となった。
初期キリスト教「グノーシス派」のはなしである。

皆殺しになったから、実際のところがほとんど不明なままの「グノーシス派」の神とは、天地創造の神ではなく、その上に位置する「最上の神」だという。
「一神教」に対して、神が複数いて、しかも階層があるとは、たいへんな概念だ。

しかし、シラーの詩でいう「神」とは、もしやこちらの「最上位」の神のことではないか?
すると,第九が「人類」を歌いあげるとは、キリスト教徒だけが人間である、という支配の構造の否定を宣言している意味になる。

歴史的に存在が確認されていない「イエス・キリスト」という人物の実在は、たしかに信じるしかない。
その誕生日が、なぜかくも「冬至」に近いのか?
秋分いらい弱まった太陽のちからが復活をはじめる「冬至」は、きわめて重要な分岐点だ。

第九がこの時期に演奏されるのは、既存の「支配からの脱却」という意味もあるとおもう。
そうかんがえると、シラーもベートーヴェンも、じつは「革命歌」をつくっていた。
それは、フランス革命などという「ちっぽけな」ものではない、人類・宇宙の壮大なはなしなのだ。

格別な夜に格別な「第九」を、じっくり聴いて、来年こそはいい年になりますように。

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