国家統計不正の後始末方法

「国が溶けだす」のは、いろんなところからゆったりとはじまるので、最初は「過小評価」されるものだ。
ルイ16世とマリー・アントワネット夫妻が断頭台の露と消えたのも、先々代の「太陽王」ルイ14世の絶対王政における「絶頂」からの凋落が原因だ。

まさに、平家物語がいう「おごれるものは久しからず、盛者必衰のことわりをあらわす」という、普遍的なことばどおりだ。

話題になった映画『ルイ14世の死』では、最期の病床にあるルイ14世がのちのルイ15世(5歳)をベッドによんで、「公共事業に大金を投じるな」とさとす場面がある。
ルイ16世の時代、すでに王朝の財政が破たんしていたのは、この遺言を15世が守らなかったからである。

わが国の「絶頂」は、まちがいなく「バブル期」である。
国民が敗戦という精神的ショックからぜんぜんぬけだせず、福沢諭吉のいう「独立自尊の精神」をすっかりわすれたはての「絶頂」だった。
根っこをなくした浮き草国民になったのだ。

「おカネこそがすべて」の価値になったのは、70年代の「エコノミック・アニマル」が、歯をむき出したすがたなのだが、その「エコノミック・アニマル」の原因が、完膚無きまで破壊されたゆえに継続した「アメリカ憎し」の精神の代替である「経済競争」になったというウソがある。

第二次大戦後、すぐにはじまった「冷戦」で、ソ連圏との対立に軍事的にわが国(吉田茂)が独立自尊を「放棄」してアメリカに依存したのは、あとづけの「吉田ドクトリン」なぞではなく、たんに、生きのこった旧帝国陸海軍の将校たちが「アカ」かったから、武器を持たせたら「まずい」と判断したのだった。

日本国憲法第九条で放棄したのは、戦力などではなく、むしろ、独立自尊の精神、そのものである。
この精神を、日本人はその後とりかえしてはいない。

アメリカから食料援助がなくては国民が餓死するこの時期、大量の脱脂粉乳が学校給食で供されていたが、これをしったアメリカ本国では食料援助中止運動がおこる。
脱脂粉乳は「豚のエサ」が常識だったから、日本人はすでに大量の豚肉を食べていると誰もがおもったのだった。

しかし、これを人間が、しかもそだちざかりの子どもが食べているとわかって、アメリカ国民は衝撃をうける。
だから、「経済力」でアメリカに対抗しようなどと、バカなことをかんがえる日本人はだれもいなかった。
あとづけの「神話」にすぎないことを信じている。

戦前の政府司令塔だった企画院から転じた経済安定本部(安本)が、商工省とくっついてできたのが経済企画庁と通商産業省で、傾斜生産方式という経済統制を強力に実施した。
そのお先棒を担いだのが、第二政府の日銀だった。

国内のすくない外貨や資本を、効率的につかう、方法が、役所による統制だったこと自体が、本来は笑止であるのに、これを日本人は賞賛するからはなしがおかしくなる。
日銀が政府から独立したのは、なんと平成9年の日銀法改正による。

しかし、統制・規制に味をしめた役人は、ずる賢いのが万国共通だから、ぜんぶの役所に「やり方」をコピーする。
こうして、誰のため=国民のため、という根本をわすれ、省益=自分たちのため、をひたすら追求するようになるのは、高度成長時代に確立する。

これを仕切った政治家が、田中角栄だった。
角栄なき後のいまも、わが国は角栄がつくった制度のうえにあるままだから、これをもって「政官癒着」というのはただしい。
自民党が「ダメ」になったのは、すべての派閥が「家元角栄流」になったからだ。

役所はコピーのたまもので、縦割りだから、省庁ごとに「管轄」する分野に「統計」もある。
今回バレたのは、旧労働省の管轄だけど、全省庁に不正もコピーされている可能性がある。

企業の不祥事でもいえるのが、「第三者委員会」という素性のわからない組織がでてきて、「調査報告」をすることになっている。
今回は、国が「特別」にたのんだひとたちが、あんまり詳しく調べていない疑惑にまで発展した。

しかし、こうしたことがナンセンスなのは、組織の統治と統制が自分でできない、ということだからで、調べた結果の正当性ではない。
民間なら、株主が損をかぶることになるが、官庁なら国民が損をする。
けれども、損だけではこまるのが「統計サービスの回復」をしないといけないからだ。

だから、今回の不正の「原因」をさぐって「処分」するはなしと、「サービス回復」のはなしは別である。
すくなくても、厚生労働省という役所には当事者能力がないとわかったのだから、かれらに引き続き業務をまかせるのは妥当ではない。

「選択と集中」ということでいえば、かつての「総理府統計局」のように、「内閣府統計局」にまかせるのがよい。
この方法は、全省庁がコピーすべきだ。

これは、「政争」ではなく、統計行政の統合だから、かつて政権をになった野党も反対できないはずだ。
不正は、民主党政権の時代の前からだったからで、いま彼らが政府を批判するのは「痴呆」をうたがわれる。
政治家には、さっさとこれを決めて、「原因」と「処分」の方は別にじっくりおやりになればよろしかろう。

国民へのサービスの回復が一番、責任論は二番である。
なのに、責任論を優先させるのは、回復を後回しにすることだから、一種の国民サービスへの破壊行為である。

司法試験をとおった野党の党首は、確信犯で、責任回避の与党側は、やっぱり「家元角栄流」を役人と一緒に踊りつづけたいらしい。

国家の溶解は解けきるまでつづく。

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