夏休み 城崎から その3

伊賀から伊勢長島の遊園地を横目に,桶狭間へと向かう.

どちらも信長に関係するが,桶狭間に向かおうというのは,城崎の途中,長浜に向かう国道21号にあった「桶狭間タンメン」の岐阜県庁前店に入った縁からである.
昨年11月にできたというから,ご当地でも新参者なのだろうが,どうして「桶狭間」なのかの説明はないし,すでに5店舗あるものの,桶狭間地元の名古屋市に店舗はない.

だから,おそろしく地名とは関係ないネーミングなのである.
それでか,略して「桶タン」と自称していた.
しかし,期待の上はあるもので,以上のことをなんにもしらないで食べてみたら,なかなか関東ではない味で,空腹分のアドバンテージはあるけれど美味だった.

どこまでブランドとして浸透しているかはわからないが,店内はあんがいジモティーでも初心者がおおく,店員のファーストコンタクト的な説明を受けているひとがめだった.
繁盛店として,これからどのような展開になるのか楽しみな店ではある.
意表を突くネーミングから,ブランドへの成長,という意味である.

これで,「帰りには本当の『桶狭間』に行こう」となったのである.
だから,伊賀から亀山,鈴鹿とすすんで,長島スパーランドをみたときに,いっそう「桶狭間」への期待がふくらんだ.
長島は木曽川の河口中州島である.この巨大遊園地から10キロほど遡ると,信長による長島一向一揆鎮圧の悲劇の地,「長島城」跡地がある.
「一向宗」を「真宗」にしたのは家康だから,ネーミングの威力を家康はしっていた.この一揆鎮圧の無残さと住民パワーを忘れさせるためだろう.それで,すっかり「真宗」がブランドになった.

その信長をして,信長たらしめたのが「桶狭間」だ.
伊勢湾岸自動車道から名古屋南JCTで名古屋第二環状線にはいってすぐ,有松でおりて東海道に入るとあっけないほど近くの桶狭間交差点に「桶狭間古戦場公園」(右)の案内標識がみえてくる.
案内どおりに進むと,そこはなんと「ふつうの児童公園」だった.
しかも,公園の目のまえがホームセンターの駐車場である.

「えっ,ここ?」
桶狭間はぜんぜん「狹間」でなく,むしろよくあるなだらかな住宅地だ.
この場所に来た道の反対,国道1号の「桶狭間」交差点から「左」,名鉄本線の有松駅側がまさに「狹間」になっている.

学校でならった,えらい狹間の谷に休憩していた,というはなしではなく,山の丘陵地に本陣を構えたのが今川義元だ.これはセオリーどおりではないか.
桶狭間とは単純に地域の地名であって,歴史の現場が「狹間」だったのではないことにはじめて気がついたから,理由はなんであれ来てみなければわからない.

それにしても,織田家存亡をかけた一戦で勝利したことにちがいはない.
どうして信長が勝ったのか?
これはいろいろ調べてみなければ.
すると,逆に,なぜ今川義元が討ち取られたのか?
という問いも反対側にあるから,ますます興味深くなった.

現代の経済活動も,おなじ業界なのに成功する会社と衰退する会社がある.
こたえは単純で,「戦い方がちがう」からだ.
しかし,単純なこたえの中は単純ではない.
どうちがうのかが問題なのである.

一口で言えば,今川の「慢心」と織田の「真剣」ではないかとおもう.
これは、こころのありようである.つまり,心理であって気概でもある.
企業再生現場とたいへんよく似ている.

テクニックに優れているからといって,再生がかならずうまくいくことはない.
経営者と従業員のこころのありようが,決定的に明暗をわけるものだ.
今川はいまでいえば大企業.織田は新興の中小企業である.
両者は,「戦国大名」というおなじ業界に属していた.

ところで,鉄砲伝来は1540年ごろ.桶狭間の戦いは,1560年だから,鉄砲はどうした?ということが気になる.
しかし,当日はすさまじい雷雨だったというから,火縄銃の出る幕はなかったかもしれないし,雨上がりに今川軍が大混乱に陥ったのは,ありえない数発の銃声だったのかもしれない.

どちらにせよ,両軍は,伝統的な武器というおなじ条件で戦ったことになりそうだ.
数では今川圧倒的有利というが,義元の直衛部隊は織田よりやや多い程度だったらしい.
だから,守りよりも奇襲側が有利となる.

ところが,このような当日の現場での情勢は,その前日に用意されていた.
城攻めの今川方の行動が織田に把握されていて,義元直衛部隊から兵力を分散,城に引きつけるための捨て駒たる織田側部隊が「計画どおり」全滅している.
これに気をよくした今川義元は,慢心して直衛兵力の薄くなった本陣にて酒を飲むにいたった.

狹間を避け,高台にて本陣を構えた今川は,いわれてきたような凡将ではない.
しかし,常識を常識にしないのが信長だった.
「桶狭間」は,現地に行ってみて理解できた.
現代の経営者に,たいへんなヒントをくれることだろう.

それにしても,児童公園にホームセンターの駐車場だったのにはたまげた.
ただ,そこには目立たないように尾張藩士を父に持つ陸軍大将松井石根揮毫の碑もあった.昭和8年だという.

この年,松井は時代に抗う日中提携を主旨とする大亜細亜協会を設立し会頭となって,翌年予備役にはいっている.故郷を訪ねたおりの桶狭間だったのか?
しかし,時代は彼の隠居をゆるさず,上海派遣軍司令官になり,南京入城を果たす.
かくして,亜細亜主義を貫いたひとは「南京事件の責任」で死刑となった.

「桶タン」ではいかにも軽すぎるが,意外な味のある場所が「桶狭間古戦場」であった.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください