数学という「言語」

「韓国発の英語教育革命」が、受けているのは、官僚主義的無責任の教師たちによる犯罪的時間のムダづかいだけでなく、現実的に「英語嫌い」という被害者(「英語戦死者」の山)を量産しつづけていることのアンチテーゼだからである。

いってみれば、安かろう悪かろうの極地である。
公立学校の授業料は、義務教育なら無料だし、高等学校でさえ劇的な負担を強いられるものではない。
私立は別だったが、もはや「高かろう悪かろう」にさえなりかけているのは、文科省さまのおかげである。

わが国の就職制度は、新卒だろうが中途だろうが、基本的に世界標準の「ジョブディスクリプション」がない。
それだから、「就『職』」ではなくて、必然的に「就『社』」になる。

会社や役所に採用がきまってから、しごとがきまるし、どんな職場に配属になるのか基本的に本人はしらない。
接客を主とするサービス業でも、おおきな組織になれば、入社したひとの配属先に社長がみずから口をはさむことはなく、人事担当者の裁量にまかせられていることだろう。

これが、生涯つづくから、本人がしらない「ジョブ・ローテーション」が人事部によってかってに組まれて、その育成方針さえも本人には伝えられない。場あたり人事でも、ローテーションだといわれるものだ。

だから、一生懸命と一所懸命が、まざりあって、専門なのか総合なのかわからないのに「総合職」とよばれて、だれも不思議におもわない。
日本企業には「経営(マネジメント)職」がない。

経営は経営陣になってから、という思い込みと身分制で、若いときからの訓練プログラムもないから、素人が経営者に社内昇格して、役員という安全地帯に身をゆだねれば、社長にならずとも優雅なくらしが社内・社外ともにできるようになっている。

なにも、コンサルタントのしごとをふやしたいのではなくて、この状況がわが国の生産性を向上させない、かなり根本にちかい原因だとかんがえている。

それは、ジョブディスクリプションがないことで、社会がどんなしごとを求めているのかがはっきりしないから、専門教育の場も「ぬるま湯」になってしまうからだ。
それが、わが国をむしばむ大学のリゾート化であるし、計画なき人事の正体でもある。

なんとか、下の高等学校がもちこたえているように見えるのは、「受験制度」というダムがあるからだったが、少子化という総需要減少でこのダムの機能がうしなわれそうになっている。
もはや、高校も大学も全入時代、になったからだ。

むかしを単純になつかしむものではないが、高校や大学に行けない、行かないひとたちは、その分の時間で職業人としての訓練をうけていたから、リゾート大学での時間は、社会の生産性を低下させていることも意味する。

日本の高等教育は、もじどおり「高等学校」からはじまる。
中学校と高等学校のレベルのギャップはあんがい大きいし、高等学校の教師たちは、中学校のように手取り足取りといった面倒をみてはくれない。

「高等」なのだから、「自己責任」だといって突っぱねる。
しかし、あとからわかるのは、突っぱねた理由が、ほんとうは質問されても答えられないという現実が、教師の立場をあやうくするからではなかったか?

生半可な勉強で、リゾート大学をでたくらいでは、およそ生徒の質問に即答できるはずがない。
唯一の自慢は、受験制度による上位校に生徒とおなじ年齢のころに合格した、という一点しかない。

日本の高等学校の科目で、最高難易度なのは、「数学」だろう。
「数Ⅲ」まできっちり受講させると、だれも単位がとれなくて卒業できないから、途中で「文系」という逃げ道をつくった。

この「優しさ」は、生徒のためでなく教師のためであることに気づくだろう。
数学嫌いで一生を過ごせたアナログの時代はおわってしまった。

いやがおうにも、サイエンスの基礎的センスがないと、従来の文系分野さえもついていけなくなることを、子どもである生徒がまだ気づかなくても、おとなである教師がしらないはずがないのだが、これがあやしい。

「学校」という狭い世界は、かなり世間から分離されている。
民間企業に勤めた経験が教師には「ない」から、商業高校の簿記の先生すら、企業の経理実務をしらないのだから、普通科高校とて推して知るべし。

そんなことよりも、三年間もかけて簿記検定で生徒たちを最低で二級、数人に一級を取得させれば「おんのじ」なのである。
市中の経理学校は、二級なら三ヶ月コースになっているのはどうしたことか?
生徒をバカにしているか、よほどおしえ方にリアリティがなくて下手なのだ。

ほんとうは、おしえ方がわからない、じつは素人の教師たちをすくうため、採用した教育委員会と文科省が、採用責任を問われる前にさっさと逃げ道をつくったのである。
英語戦死者も、当然に被害者だが、数学戦死者も成長が前提の社会でなくなったとたんに、職探しもままならない状態におとしめられてしまった。

だから、とくに「英・数」の二科目における、怠慢は犯罪的なのである。

中学校からならうことになっていた英語が小学校からになって、その小学校でプログラミングをならうことにもなった。
しかし、一般人に「大丈夫なのか?」と不安がたえないのは、例によってかんがえ方をおしえないで、方法ばかりをおしえないか?ということだ。

最高難易度の数学とは、じっさいには「微分・積分」をいう。
日本における伝統的な数学教育も、計算方法に重心をおくから、生徒にはなにを学んでいるのかがわからなくなって、無味乾燥な授業の強制にふつうは耐えられない。それで「普通科」というのか?

数学をむずかしくさせているのは、表記として簡潔さを追求したはずの「記号」が悪役になっている。
しかし、よくよくかんがえれば、数学における数式は世界共通の表現方法だから、じつは英語よりも強力な世界「言語」なのである。

「微分・積分」は、おどろくほどの応用がされていて、「予測」にもひつようだから、「統計学」とならんで、マーケティングなど、文系ビジネスマンにこそ、しらないではすまされないことになっている。
もちろん、計算はいまどき数千円の関数電卓やパソコンがやってくれるから、なにがって、かんがえ方の理解がいちばん重要なのだ。

ここでも、元予備校講師の著作がやくにたつ。
左側は半日もかからないで読みおわるけど、イメージがわかれば最初の一歩としては十分だ。
あくまで、「言語」における「文法解説」だとして読まれたい。

なお、右側はまだ出版されていないから、「予約」あつかいである。
ユーチューブに「ヨビノリ」(予備校のノリ)で動画をあげている博士課程東大院生によるわかりやすい授業は、15万人がチャンネル登録している。

大学で理系の学生のおおくがついていけなくなる数学・物理・化学は、やはり「おしえ方の問題」だとズバリ指摘している。かれの主張が、ただしいのは、かれの授業がわかりやすいからである。

大学教授にして、おしえ方のプロはすくないのだ。つまり、ほんとうは理解できていないひとが、「研究が主体」だといいわけして教授職におおぜいいるという意味でもある。

 

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