法治から人治への体制転換

わが国は「法治国家」だと思い込まされてきていたけれど、国民はぜんぜんそんなことを信じてなんかいない。
それよりも、政治家による「人治主義」をおそれ、それを嫌悪していることだけがみえてきた。

これが一連の「検察庁」問題である。
不要不急のことはするなと国民に要請するくせに、どさくさに紛れるようなことをするから、ヒステリックな反応にもなるのである。

内閣を仕切る「役所」となっている、「官邸」の関与が、検察官の人事に悪影響を及ぼして、ときの政権の思いのままの人物が検察幹部となるのを嫌う、という「運動」になって、とうとう賭け麻雀の自爆テロで収束ができた。

この処分に、はたまた官邸の関与などをいうのは、事大の潔癖症がそうさせる。
すっかり手指の消毒に慣れ親しんだ国民が、物理ではなく宗教的な「禊ぎ」までしなと気がすまないのは、卑弥呼からの伝統である。

さてそれで、クールダウンしてあえて反論をしようとおもう。
こんなかんがえ方だってある、という「例示」のことである。

民主主義というのは、選挙における国民の投票という行為によって成立している。
その結果が、国でも地方でも「政権」をつくらせる。

国なら、多数を占める議員の集まりから、生まれてくるのは、内閣でありその首班の首相もふくむ。
地方なら、内閣はないが知事は直接選挙で生まれる。
議会の多数から知事が生まれるのではないから、国と地方はぜんぜんちがう組織になっている。

ここで、さいきんようやく気がつきだした、民主主義の欧米先進国と「政党」の定義の違いがある。
つまり、選挙結果ではなく、「プロセス」の問題がある。

欧米先進国では、政党はみずから「シンクタンク」の役割をもっている。
政策論争には、官僚は関与しない。
与党だけでなく野党も、「シンクタンク」になっているからである。

しかし、わが国は、急造りだったからか?政党にシンクタンクの役割も機能もない。
いるのは当選した議員だけで、専門にかんがえて提言するひとたちが常時いないのである。

この機能を、政党から見れば自分たちで養うことがない安上がりの「官僚」とその「機構」に放り投げた。
だから、平時には官僚が「政府委員」として国会に出てくるし、委員会から呼ばれるのである。

今回のような緊急時には、だれが組織したかわからない「諮問委員会」に放り投げてみせて、いつもの審議会のように、官僚のシナリオ通りでことを運ぶだけである。

民主党政権時代に、小沢一郎議員ががんばって、政府委員を廃止しようとしたがあっさり失敗したのは、自分たちの政党にかんがえる人を用意しないで、ただ政府委員を廃止したから、どうすればいいかわからなくなっただけである。

そんな程度の小沢一郎議員が、政権与党の幹事長として首相よりも強大な権力をほしいままにできた、という構造は、まったく国民にとっても、ご本人にとっても「不幸」であった。

組織をつくる技術が政治家にない。

それがいまだにないために、わが国の「政党政治」は、立候補する議員の「個人事業」になってしまって、汚職や腐敗を生むのである。
世界一高額な「供託金」をだれが負担するのか?ということにもなっているから、めったなことで一般人が立候補もできない。

供託金は得票数がなければ、没収されるのだけれども、町村議会のみが「ゼロ円」で、市区議会で30万円、国会の比例区なら600万円を法務局に供託しないといけない。
つまりは、票数を得て落選して返金されても、まずは資金がないと立候補もままならない。

そんなわけで、いちばん得票数を得た者が当選するのだから、民主主義において「投票しない」ということは、「罪」なのだ。
それで、選挙投票を国民の「権利」ではなくて、「義務」としている国もある。

結局、自分の好みとちがう政党が政権をとっても、それが「民意」ならば従わざるをえないのが、民主主義のルールとなっている。

さて、そうかんがえると、検察とはなにか?
官庁において、事務方のトップは「事務次官」ということになっているが、これは「一般職」というくくりの中での地位である。
公務員にはもうひとつ、「特別職」というくくりがある。

外務省には、事務次官のつぎに「アメリカ合衆国駐箚特命全権大使」という「特別職」がある。
特命全権大使や特命全権公使じたいが、「特別職」ではあるけれど。
すると、外務省キャリアだけしか「大使・公使」にはなれないのか?といえばそんなことはない。

今回話題になった、法務省という役所は、法務事務次官の上に三職の特別職がある。
検事総長、次長検事、検事長である。
「検事」「検察」は、「行政」なのだ。

すると、行政をつかさどる内閣が、国会の監視をうける構造になっている唯一の機構だから、むしろこれら三職の人事が行政官のなかで決められることの方が、民主主義国家として「問題」ではないのか?
法務大臣すら関与できないなら、大丈夫なのか?ということだ。

つまり、国民は、大臣や内閣、あるいは国会よりも、行政官僚にすべてをまかせるほうがいい、という運動をやったことになったのであって、大臣や内閣、あるいは国会の敗北となった「事件」なのだ。

つまりは、わが国の民主主義は完全に形骸化し、若いときの一回だけの試験に受かったひとたちに「全権委任する」という選択がおこなわれたともいえる。

法治から人治への体制転換が成功したのだ。

なるほど、それで、世界的風邪の原発地の国家主席を、懲りずにまたまた「国賓」にしたい理由がわかった。
あの国は、みごとな「人治主義」を達成しているからである。

という意見もあるやもしれぬ。

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