犬が犬になる訓練

犬は生まれながらにして「犬」である。
ひとも生まれながらにして「ひと」である。

ほんとうだろうか?

見た目は、まったく「犬」であり「ひと」であるのだが、ちゃんとした「犬」や「ひと」になるには、ちゃんとした生育と教育がぜったいにひつようだといえば、ルソー信奉者いがい異論はあるまい。

このときの「犬」とは、「飼い犬」のことである。
いまは、「飼い犬」といえば「ペット(愛玩)犬」のことをさすようになったが、ちょっとまえまでなら「使役犬」がふつうであった。

「使役犬」とは、「番犬」、「牧羊犬」、「猟犬」や「警察犬」、「軍用犬」、「麻薬犬」に「盲導犬」などなど、しごとを持った犬をいう。
それで、そのしごとに向いた「犬種」を「つくる」という努力をひとがして、さまざまな犬種ができてきたのは周知のとおりだ。

だから、「愛玩用」という「犬種」も、おもに室内で飼いやすい小型犬でつくられるようになった。
江戸時代、「お犬様」でしられた御殿用に「狆」がいたのが、はじまりだろう。

その「愛玩用」の犬でさえ、ちゃんと「しつけ」を飼い主であるひとがおこなわないと、「反抗的」どころか「攻撃的」な犬になってしまう。
いわゆる「飼い犬に手をかまれる」ということが、全国的に「ふつうに」なってしまった。

つまり、「ちゃんとした『犬』」になっていない。
これを、ひとは、「問題犬」といったり、ちょっとまえなら「バカ犬」といった。

おカネがあるいま、その問題犬を「ひとのいうことをききわける『犬』」にしてくれる訓練士が、人気の職業になっている。
愛玩用の犬を、愛玩用の犬にする、ということだ。

しかし、これはひとからの目線である。
犬自体の目線からすると、いったいどういうことなのか?
しつけがなっていない犬は、犬にとってどういうことなのか?

すると,これは、犬の幸福論、というはなしになる。

人間も野山をかけて、獲物をとって生活していた時代があった。
おそらく、こうした時代には、ひとの猟をてつだう犬は生活に必要不可欠だったのではないかとおもう。
だから、獲物のわけまえをもらえる犬は、運動量と引換に食餌がとれた。

こうした期間が、万年単位であった。
そのまえ、ひとがひととして地球上の生物に進化するまえから、犬はオオカミとして群れで生きていた。

ひとが、どういったながれでいまの「頭脳」をてにいれたのかわかっていないが、犬の頭脳がひとほどおおきく進化しなかったのもなぜなのだろうか?
ひつようがなかった、とかんがえるのが妥当だろう。

しかし、犬はひとよりはるかに進化した嗅覚をもっていることは、子どもでもしっているし、くわしいひとなら、「感情を読み解く能力」に長けていることも指摘されている。

この「感情を読み解く能力」が、ボスにとっての群れの維持と従属する仲間にとっての「秩序」に不可欠だということなのだが、あいての脳内電流の変化も感じとっているのではないかと感じているひともいる。
それで、国家レベルでの「テレパシー」の実験までしているのだ。

つまり、じつは、われわれ人類は、犬という生きものがどんなものなのかを、くわしくしっているというレベルにないのである。

さて、そうすると、しっている、ということに、「段階」があることがわかる。
飼い犬に手をかまれるひとは、初歩段階だし、使役犬の訓練ができるひとは第二段階、愛玩犬の訓練ができるひとは第三段階というようにいえるのではなかろうか。

愛玩犬は、ひとあつかい=偏愛、される傾向がつよいから、ひとではない犬にはたいへんなストレスになることがわかってきている。
ひとでも軽いストレスは成長に好ましいものにもなるが、重度となれば変調や不調をきたして、さいごは病気になってしまう。

だから、犬が感じるストレスが、犬をして犬でいられなくなる原因にもなる。
愛玩犬の訓練ができるひとが、使役犬より上位レベルになるのは、犬への訓練だけでなく、飼い主への訓練もひつようになるからである。

じつは、この「飼い主への訓練」が、もっとも重要かつ困難なのである。
犬をひとあつかい=偏愛するという飼い主の行動は、「愛玩用」という目的と短距離で合致するからである。

愛玩犬の訓練士はさいしょに、飼い主の満足対象を、「犬のしあわせの理解」へと変換させ、じぶんのしあわせは、犬がしあわせだからだ、にしなければならない。

このへりくだった感情を、犬を飼うことの目的にさせるのは、いうほど簡単ではないのである。
初歩段階にいるふつうの飼い主たちの単純な飼育動機が、じぶんのしあわせのために犬を飼うことからきているからだ。

参考になるのは、カリスマトレーナーとして、世界的有名人シーザー・ミラン『犬が教えてくれる大切なこと』(日経ナショナルジオグラフィック社、2017年)がある。

上司と部下の関係とかへの応用になるし、著者が「不法移民」だったことからも、いろいろかんがえさせられる。

「群れ=組織」の動機が不純のままだと、大手不動産会社のアパート問題のような「事件」にもなるし、それを管轄する省庁が、どうやって言い逃れしようかという無体なすがたをさらすものだ。

犬は放置しても「犬」にはならない。
これは、ひとの社会でもおなじなのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください