統計不正の後始末

えらい評論家になると、実務からとおざかってしまうので、なんだかピントはずれな議論をするけど、「えらい」からだれも文句はいわない。
それで、そのままピントはずれなはなしを毎日きかされていると、そのうちそれがもっともなはなしになる。

うそも100回いえば真実になる。

まさに、名言。

厚生労働省の統計に不正があるのは、「問題」だ。
けれど、不正をした役人が悪い、というはなしだけで、この「問題」は解決しない。
こんご、不正をおこさないための対策のはなしでもない。

なにかといえば、給料に連動する社会保障費がふえるからだ。
この国の「社会保障費」は、税金「だけ」でまかなわれてはいない。
半分は、企業負担なのだ。

だから、給料の統計値がちがうなら、その大元データがどうなっていたのかが問題で、社会保障費を節約していた分があるのではないか?
ならば、企業がインチキをしたのかというとそうではない。
制度上の欠陥があったのではないか?というはなしである。

企業は、じぶんで負担する社会保障費について、たいがいは社会保険労務士に計算を依頼しているばかりか、簡単にいえば「丸投げ」している。
これは、前に書いた「岡っ引き」のはなしのとおり、社会保険労務「士」という「士業」の収入を確保するのも、管轄するお役所の大切な業務だからである。

では、プロである「士業」がまちがえたのか?
やはり、そうではないから、制度の問題にいきつくのである。

そうすると、「数字を正す」と、社会保障費がふえる。
すると、それは、自動的に「企業負担がふえる」ことを意味するのである。

どうしてくれるのか?
という経営者に、政府は「払え」ということになる。
ますます、それでは「損」をした気分が高まるから、そのうちこれでは選挙に勝てない、となるだろう。

それで、まさか税金からまかなうことになると、前代未聞の「全額政府支出」という前例ができる。
この論法がつうじるのは、じぶん以外のだれかが負担するなら、得になる、とかんがえるからだ。

しかし、その「財源」が、税金だとなると、はなしがちがう。
にもかかわらず、「得」だとかんがえるひとがおおければ、「一体改革」の大義名分のもと、社会保障費は「税」になれる。
そうしたらもっと、「増税できる」と役人たちは喜々とするだろう。

アメリカがイギリスから独立をしようとしたきっかけは、「(紅)茶税」の課税問題だった。
イギリス本国の王様が、植民地アメリカの住民に意見をきかず「勝手に」決めたことが、「独立戦争」にまでなった。

それで、いまでもアメリカの「保守本流」は、共和党のなかで「茶会党」を名乗っている。
このひとたちが、紅茶をたしなみながら、社会問題を議論しているのは、ただの「茶会」ではなく、「独立自尊」のいわれをまもっているからなのである。

対して、わが国では、明治政府の「開発独裁」と、江戸幕藩体制と連結した「お上」という発想が伝統になっているから、自分たちでなにかを決めるという概念が希薄なのである。

お上が決めたことを、守ること、こそが国民の美徳にまでなっている。
これは、一種の「マゾヒズム」である。
三島由紀夫をして、「戦後日本文学の『金字塔』」とまで絶賛させた、『家畜人ヤプー』の、おぞましくも本質をついた物語は、おとななら読んでいたい作品だ。

    

ちなみに、この作品は、巨匠、石ノ森章太郎による「劇画版」も復刻されている。

   

日本の有能なサラリーマン諸氏も、ある意味「マゾヒズム」に染まっていて、みずから有給休暇を取得できないことを「自慢する」体質がある。
来月からの、「有給休暇取得義務化」という「強制」が、「効く」とすれば、いよいよ証明になるのである。

もっとも、祝日の年間日数で、わが国は世界一レベルだから、とっくに「休み」が「強制」されている。

そんなわけで、じぶんが負担したくないものは、とにかく他人にふり向けるということが、「リスク回避」であると信じるのは、残念ながら世界のなかでは「異常」なことであって、ましてや、それが「税」にからめば、それこそ「回避したがる」のが世界の常識なのである。

役人は、価値をつくらない、というのも世界の常識だ。

そろそろ、国家依存はいけないとかんがえないと、なにをされるかわからない。

行政機能が肥大しすぎていることをしるべきである。
それがまた、企業活動を活性化させる、じつは切り札なのである。

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