さいきんは「聖徳太子」といってはいけなくて、「厩戸皇子」といわないと歴史のテストで減点される。
亡くなってからおくられる「諱(いみな)」が「聖徳太子」だから、生きているときの業績をいうなら「厩戸皇子」でないといけないということらしい。
日本の歴史学会というのは、なにかあやしい。
では、なんのために「諱」をおくるのか?
後世の人びとに、その人物の功績をつたえるためではないか?
ならば、諱をつかってなにがいけないのか?
明治天皇も、大正天皇も昭和天皇も、諱である。
昭和時代の昭和天皇をふりかえって、裕仁天皇と呼べとでもいうのだろうか?
今月4日、元号「令和」を考案した国文学者の中西進氏が講演で、令和の「和」が、十七条の憲法における「和を以て貴しとなす」の「和」だとして、この憲法の趣旨を現在の宰相にも求める、と発言したことが新聞記事になっていた。
国文学者の自由な発言をさまたげるものではないが、このひとはたいへんな勘違いをしていないか?
そうおもうと、まことに残念である。
ゴールデンウィークの「憲法記念日」にちなんで、書いておこうとおもう。
日本語の表記として「憲法」とあるから、よくよく混同されているが、飛鳥時代の「憲法」と、近代国家の「憲法」は、まったくの別物である。
わが国の歴史では、11世紀末の白河上皇の院政までをもって「古代」とするから、聖徳太子=厩戸皇子のいきた飛鳥時代は、まちがいなく「古代」になる。
ちなみに、大化の改新は、太子死後のできごとで、中央政府に権力を集中させるための「改新」であるし、その後の壬申の乱は、天智系と天武系の系統争いとなる古代最大の内乱だった。
一般に、「十七条の憲法」は、じゅうななじょうのけんぽう、とか、じゅうしちじょうのけんぽう、と読まれているが、当時の大和言葉では「じゅうしちじょうの『いつくしきのり』」という。
つまりそもそもが、けんぽう、とは読まない。
こんなことを、国文学者の中西進氏がしらないはずはないから、彼の発言は、そうおうに政治的である。
つまり、「わざと」だろう。
いうまでもないが、近代民主国家の憲法とは、国民主権という概念が中心にある。「民主」だから国「民主」権なのだ。
古代の「いつくしきのり」にある、十七の条文に、国民主権の概念などあろうはずがない。
つまり、穿った見方をすれば、中西氏は国民主権よりも、「和」という概念を優先させろという主張にもきこえるから、じつはたいへん危険なことをいっているのだ。
すなわち、「和」を優先させるなら、独裁者でもいいと。
ここに、この記事をのせた新聞社の「偽善」もみてとれる。
ほんとうに、日本を代表すると自認している新聞社が、この程度の「政権批判」でも、政権批判ならなんでも掲載するというだけでいいのか?
昨今の部数激減の意味が、よくわかるというものだ。
いわゆる「護憲派」というひとたちの、絶望的な薄っぺらさがみえてくるのである。
それは、利敵行為そのものだからだ。
誤解がないようにいえば、わたしは安倍政権を支持してはいないけれど、だ。
永世中立がゆらいだからか、スイスの仕組みが日本でいわれなくなった。
56年前の1963年に、スイス連邦法で、個人宅に核シェルターの設置が義務づけられたので、スイスにおける核シェルターの人口あたり普及率はすでに100%を達成している。
世界ではもう一カ国、イスラエルが100%を達成している。
ちなみに、わが国は0.02%だという。
この法律ができたとき、キューバ危機という大問題があったのだが、スイスを取り囲む周辺国のひとびとは、眉をひそめたものだった。
自分たちだけが生きのこればいい、というかんがえはいかがかと。
そんなわけで、いがいにもスイスはヨーロッパの「嫌われ者」なのである。
「合理的すぎる」、「すべてに計算をしている」ということが、人生は楽しむべきで人間らしくない、というのは隣国イタリア人の弁である。
一国だけでも生きのこる、このスイスの覚悟の真逆がわが国である。
それは、憲法前文にある、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」にあるとおり、他人まかせを決めたからだ。
だから、日米安全保障条約は、この前文を書いた時点で憲法の趣旨どおりになっている。
むしろ、アメリカによる「片務的」な日本防衛こそが、憲法のねらいなのであって、それが「属国」といわれようが「決意」したことだ、とかいてある。
トランプ大統領が、ならばカネを出せ、というのは、「片務的」だからこそだと主張しなければならないのがわが国の立場であるから、「相互的」になってはいけない。
これが、野党のいう「集団的自衛権」の問題だろう。
ならば、護憲派はアメリカではない国に「片務的」に防衛をお願いしたいとかんがえるひとたちだと定義すれば、素直だろう。
「九条」ではなく、「前文」をまもっているからで、だったら、もっと素直に「親中国追従」「親北追従」と自称したほうがいさぎよい。
拉致問題を独立国として解決できないのも、この他人まかせの決意によるからだ。
すると、わが国はほんとうに「独立国」なのか?
おそらく、リヒテンシュタインのような「独立国」なのだろう。
けれども、世界第三位の経済大国で、歴史上アメリカと宣戦布告をともなうサシの戦争をした唯一の外国であるわが国が、かってに「他人依存」を決めたのだといっても、世界の常識からかけはなれてしまった概念だからだれも信じない。
それにしても、よく読めば、この前文は、「和を以て貴しとなす」そのものではないか?
すると、日本人は、外国人にも「和を以て貴しとなす」を強要しているのだとわかる。
この「独善」は、ある種、傲慢でもある。
なるほど、スイスとは真逆に周辺国から尊敬もされず嫌われる理由だろう。