世の中には,理解が深すぎて病気になるときと,理解が甘くて病気になるときとがある.
どちらも,「観光」が関わっているから書いておく.
エルサレム・シンドローム
その「歴史」や「宗教的威厳」に圧倒されて,精神に異常をきたすことをいう.
世界三大宗教の「聖地」,とくに歴史遺産とともにそこにひとが住んでいる「旧市街」で発症するという.
およそのパターンは,ふつうのひとが突然,「預言者」になったり「救世主」になったりする.
それで,この街には,これらの患者を収容するための「特別な病院」も用意されている.
入院して,専門家に診てもらうことになるが,概ね二つの解決策がある.
一つは,エルサレムから外に出ること.
一つは,自宅に帰ること.
どちらも,エルサレムの旧市街から出ること,が重要だ.それで「自然に治る」らしい.
ふつうのひとがふつうの生活に戻ると治るのだから,極度の興奮が原因とされる.
それにしても,発症者は,およそ年間100人というから,バカにできない数だ.
旧市街はいまでも発掘がつづいていて,とにかく掘ればかならずなにか出てくる.
北東に20kmもいくと,いまは,パレスチナになるエリコ(ジェリコ)の遺跡がある.
ここは,紀元前7,000年前,人類最古の街ともいわれる.
エルサレム旧市街も遺跡の街である.
ふと,いま歩いている石畳を,十字架を背負ったイエスが歩いた道だとおもうと,その石畳の減り方に,キリスト教徒でなくてもおもわず見入ってしまうこともしばしばだ.
雨が降らない土地だから,ひとが踏んで減るしかない.
生半可な知識でエルサレムを歩いていると,たいへん不安になってくる.
自分がいま観ている景色,建造物,そして住人たちの心の中にあるはずの歴史知識と信仰そして風習.
宗教的な服装のひとをおおく見かけるが,何派のひとたちだからこの先のエリアには絶体に行かないとか,説明を聞いても深く理解はできない.これらの意味が,わからない,という不安なのだ.
ところが,一方で,それがどうした?という開き直りもある.これが日本人だ.
エルサレム・シンドロームを発症するひとの内面で,なにが起きたのか?は知るよしもないが,そこまでの「深い理解」ができるのは,たいしたものだと感心する.
パリ・シンドローム
これを発症するのは,なんと日本人だ.しかも,女性におおいという.さいきんでは,中国人にもみられる病気だというから興味深い.
フランス人にいわせると,「なんで?」ということになるのは当然だ.
どうやら事前期待と実際のギャップが原因のようだ.
事前期待とは,女性誌におけるファッションの情報が過多であるとか,美しいはずの街並みとかに対する憧れである.ところが,「きたない」道路,さらに,言語や自由と個人主義思想のあまりの強さに,くたびれてしまうのだ.
フランス人医師は,これは,あまりにも「甘い理解」が原因だと指摘する.
フランス革命はなにを求めて血を流し,なにを失い,なにを得たのか?という理解もなく,フランス人は有名ブランドの服しか着ていない,と思い込んだら,たしかにどうかしている.
また,フランス語の発音の一部が,日本語的には「舌打ち」の「チッ」に聞こえて,自分はバカにされていると思い込むのも,典型的な症状だという.これは,中級以上のフランス語づかいになってから現地入りすると,ほとんどあらわれない症状だから,渡仏まえによく勉強しろということで解決するという解説がある.「なんだかなぁ」だ.
「短小軽薄」は,90年代の日本経済のスローガンだったが,「単なるちょっとした知識でただただ『軽薄』」というのが日本の国民性としてフランス医学界にしられているとは,嘆かわしいことだ.
「エルサレム・シンドローム」を発症しえない,という日本人の一人として,自分も考えなおすことはおおい.
伊勢神宮・シンドロームとか,出雲大社・シンドローム,あるいは,京都・シンドロームとか,東京・シンドロームを聞いたことがない.
深い理解もなく,甘いことでもない,ということか?
これを「慶事」とするには,ちとさびしい気もする.