「欲望」をもつことは「いいこと」なのか、「わるいこと」なのか?
「清貧の思想」という美学がかつての武士にあった。
しかし、「武士は食わねど高楊枝」というのは、「清貧」をこえてしまった「見栄」でもあるし、庶民からの「ひやかし」でもあった。
日本から日本人が消えていく。
それで記録にのこしておこうと努力したのが、岡倉天心の『茶の本』、新渡戸稲造の『武士道』、そして、内村鑑三の『代表的日本人』だった。
わたしは、この三冊を「明治三部作」と呼んでいる。
三人の出自は、みごとに「武士」階級で一致し、しかも三人とも江戸時代生まれにして、三冊ともに「原著は英語」という共通点がある。
日本に興味をもった外国人が日本研究として読むなかで、どれもが「名著」として有名であるから、もしやいまどき、日本人より外国人の読者の方がおおいかもしれない。
若い世代ほど、これらの本にふれる日本人はすくないだろうと予想する。
これら三冊には、さまざまな関連本があるから、それぞれあたってみることをおすすめするが、上で紹介したものは、講談社インターナショナルからでている「対訳」だから、「原文」にもふれることができる。
また、かれらはなぜ「英語」で書いたのか?
という問いに、滅びゆく日本の記録を世界にのこすため、とする「動機」が指摘されてひさしい。
「悲壮感」を確信したひとたちの著作でもある。
だから、ここにはまだ、「滅亡の美学」がある。
けれども、こうした「悲壮感」すらなく、漠然とあるいは漫然と滅亡するなら、それは愚か者の末路でしかない。
日本の報道機関が「報道しない自由」を満喫しているおかげで、日本人の「ゆでがえる」状態がつづいている。
たとえば、ベトナムではすでに、高度な業務はベトナム人の若者がにない、一般的な事務を日本人がになう、ということが起きている。
このことは、当然だが収入に直結する。
あたりまえだが、高度な業務のほうが高価になるから、日本人駐在員は現地人より低い収入になっている。
日本企業の「金銭出納」を、見張っているのが日本人駐在員ということだが、キャッシュレスの取引が当然な時代のいま、むかしながらの「経理」で「見張り」ができるものか?
デジタル技術に長けていれば、会社の経理システムに侵入をゆるせば、たちどころに完全犯罪が実行される。
その、高度なデジタル技術者が、ベトナム人になっているというはなしである。
こうした技術をみにつけたひとたちのエネルギー源はなにか?と問えば、世界ではあたりまえの「ゆたかになりたい」という「欲望」の感情である。
そして、かれらの欲望をかなえるべく、「高度な教育システム」が用意されている。
ここで勘違いしてはならないのが、「高度な教育システム」とは、「世界標準」という意味とほとんどおなじことである。
ひとむかし前なら、世界標準は各国政府の取り決めで実行された。
そこには、「国境」という枠があって、だれもがこの枠に縛られていたから、政府間のあらゆる取り決めが有効だった。
しかし、マイクロソフトの「MS-DOS」や、これを発展させた「Windows」が世界中のパソコンの「標準」になってしまったことが象徴するように、政府とは関係ない企業が、「デファクトスタンダード(事実上の標準)」を提供できるようになってしまった。
これをうけて、「世界市場」は「一変」した。
すなわち、「世界標準」でなければ、世界で「売れない」のである。
あらゆる分野で「ガラパゴス化」している、わが日本は、国内標準と世界標準の二方面作戦をしいられて、ことごとく討ち死にの憂き目にあっている。
製造業が海外展開して、国内が空洞化しているのが問題の本質なのではない。
安い人件費の海外生産が有利なのではなくて、日本政府が強いる「国内標準」の製品をつくらないで、「国際標準」の製品をつくれることが重要なのである。
これに、労働市場が「ない」という「国内標準」の日本だから、労働市場が「ある」のが当然である「世界標準」の人材教育まで、「国内標準」になっている。
世界標準になった「世界大学ランキング」で、わが国最難関大学の順位が驚くほどひくいのも、ルールづくりの段階での国際会議への招待を無視して、知らぬ間にできた「評価基準」に、いまさらあわてているという体たらくだ。
この事業体はスイスに本部をおくとはいえ「民間団体」だったので、招待状をもらった「文部科学省」の役人が、なんでわれわれが民間の会議に参加しなければならないのだ?と「国内標準」の価値感で放置した結果である。
あの国際オリンピック委員会というのも、民間団体であるということを、文部科学省の役人はしらなかったのか?
もっとも、そんな「国内標準」の価値感しかない高級官僚は、世界大学ランキングで低評価な国内最難関校出身なのだから、まんざら評価基準がまちがっているのではないだろう。
「国際」という文字を、枕詞につければ、なんとなく「国際的」になって、まるで価値が高まるように思い込むのも、無意識における「破滅願望」なのである。
残念だが、無意識の破滅願望には、美学すら存在しない。