過去最長のゴールデンウィークである。
わが国の「祝日」が、世界でもっともたくさんあるのは、自慢できることなのかどうなのか?
「生産性をあげるため」のはずの「働きかた改革」が、単なる残業削減に陥って、「森」と「木」が逆転したのは、企業経営者がかんがえなければならないことを、政府が命令したからだったが、「休日」も政府が「祝日」を指定して休めと命令しないと休めないのが日本人になった。
有給休暇も「強制取得」の時代になった。
これは、政府もあきれたうえのでのことかもしれない。
もちろん、全員ではないが、日本の経営者に「有給をとるのは悪」という発想がある。
「担当者がいないからわかりません」
この一言が、どれほど人間をバカにしていることなのか、その本人だって気づいていない。
お決まりの「お役所ことば」だったはずが、しっかり民間に伝染して、いまではどちらさまでも聞くことができる。
とうとう、「責任者」不在の無責任が、「担当者」にまで拡大した。
そのうち、それは当社の業務ではありません、というようになるだろう。
どちらの会社も、みんなでそういえば、いわれた側は対処の方法をうしなって、あきらめるしかない。
まさに、「赤信号みんなでわたればこわくない」が現実となった怖い社会の到来を予想させる。
これに、いつだれがどのように「キレル」のか、予想がつかないことになったから、「触らぬ神に祟りなし」という古来の伝統が現代に生きる社会にもなっている。
サリン事件という化学テロが世界ではじめて発生してから、もうすぐ四半世紀にならんとしているけれども、公共の場から撤去されたゴミ箱が復活しない。
さいきんでは、一部コンビニからもゴミ箱がきえて、売りっぱなしの無責任がはじまった。
ほったらかしでいいのだ。
というのが「自由」でかつ「平等」だということを信じて、生まれたばかりのじぶんの子どもを真冬の外気にさらして死なせたのは、ジャン・ジャック・ルソーだった。
教科書裁判で有名になった家永三郎は、戦中の体制派だったころに「ルソーは重度の分裂病」だと記述している。
精神を病んで、偉大な哲学者といわれるひとはおおいから、なにもルソーだけを特別視してはいけないのだろうが、事実上の子殺しまで(しかも繰返し)しているのだから、わたしにはまったくの狂人にみえる。
そんな人物の「教育論」を、欧米でまともなひとに読まれることはないというが、なぜか戦後の日本では、教職課程なら必読とされつづけているのが『エミール』である。
ついでに、『人間不平等起源論』では、むこうから歩いてきた女性がじぶんの好みなら、その場で犯してもよいという「説」まであって、読むに堪えない。
これが、「啓蒙主義」のかくされた本性である。
じつは、「自由」と「平等」が「権利」になって、一歩まちがうととんでもないことになるのである。
そのとんでもいないことのひとつが、さいきんでは「あおり運転」や、その結末としての悲惨な事故だった。
そんなわけで、もはやドライブレコーダーは、自動車の「必要装備」になった。
これまでとちがうのは、カーステレオやカーエアコンのように、利用者の利便性向上のための「必要装備」なのではなく、いつ被害者になるかわからないことへの準備となっていることだ。
公共の場所として、もっとも無防備なのは温浴施設である。
「裸のつき合い」とは、マスコミ用語であって、べつに知らないひとと「裸のつき合い」なんてしていない。
こういうひとたちにかぎって、自宅の浴室にたっぷりおカネをかけて、それは優雅な入浴タイムをたのしんでいて、公共浴場など行ったこともないから、平気でそんなことをいえるのである。
それで、大浴槽で泳いだり潜水したりしている子どもをみたこともないから、「他人の子どもを注意してくれるおとな」がいて「教育にもいい」などというたわごとがいえるのだ。
「注意」すべきは、「親」自身であって、他人はかんけいない。
じぶんの子どもの行為について、いいかわるいかも、他人のおとなにいってもらわないといけないなら、まさにルソーのような状態になっている。
他人のおとなは、たんに迷惑をこうむっているだけで、浴槽でじっとガマンをしているのである。
そして、「早くでろ、このバカ親子」と念じている。
そのうち、浴場で「裸同士」の事件がおきて、それを「裸のつきあいのもつれ」などと報道するのだろうか?
そして、監視がだいすきなひとたちが、とうとう浴場内に監視カメラを設置して、その映像がネットにアップされる事件もおきるのだろう。
たとえルソーを読んでも、その気になってはいけない。
「いけないこと」が書いてあるのだ。
であるからこそ、すくなくても、教育者たちは、『エミール』を棄てるべきである。
そうしないと、いつかじぶんが被害者になる。
「こどもの日」のこどもがおとなになってしまった国である。