しらない世界にふれることは、やすやすとできることではないから、それなりに覚悟がいるのだが、「映画鑑賞」というお手軽さに託せば容易である。
半世紀以上いきてきて、おそらく「生まれて初めて」、フィンランド映画というものを観た。
フィンランドといえば、オーロラや森林、それに『東郷ビール』という伝説があったことをイメージする国だ。
往年の日本での「うわさ」では、日本海海戦に勝利した東郷平八郎提督の肖像画をラベルにしたビールのシェアは7割もあって、それは、日本における「キリンビール」のシェアと似ていた。
しかし、情報化時代には、あっさりと調査・研究報告をみることができて、じっさいは「世界の提督シリーズ」のひとつだったし、販売していたメーカーはとっくに倒産している。
この「ラベル」をつかったビールが、いまでも日本国内で販売されているから、あたかもフィンランド人の常識的なビールだと錯覚してしまうけれど、はたしてこれを「復刻」といえるのかといえば、きびしくはないか?
しかし、ロシアに圧迫されつづけているフィンランドにあっては、「フィンランド化」ということばができたほど、第二次大戦後はソ連の準衛星国にされたから、革命前とはいえ、東洋の小国がロシア帝国を打ち負かしたとされる日露戦争の評価はたかい。
彼の国の国民的作曲家シベリウスの代表作『交響詩フィンランディア』は、あまりにも国民感情をたかめるという理由で、ソ連時代には演奏が禁止されていたという歴史をもつ。
その「フィンランド化」を、日本もするべきだという積極的準衛星国論を書いたのが、日本では有名な評論家、加藤周一(1919年-2008年)だった。
一般的に親日のポーランド人が口にする、日本は「隣国である」という感覚は、大嫌いで広大なロシアさえなければ、という条件がつくが、それはフィンランド人にもいえるようで、じっさいフィンランドも親日国であるのはポーランドやトルコ同様に「明治」のおかげである。
そんなフィンランドを代表して、アメリカのアカデミー賞にノミネートされたのが『トム・オブ・フィンランド』(2017年)である。
本名は、トウコ・ラークソネン。
自身もゲイを表明したが、時代背景をかんがえれば、本人だけでなく家族や周辺にも厳しい批判があったことは容易に想像できる。
じっさい、この映画における彼の半生は、「苦悩」しかない。
男性のゲイをあつかう映画だから、ほとんど女性が登場しない。
彼自身は「画家」として世界的な芸術家になるのだが、戦後はヘルシンキのシベリウス音楽院でピアノを専攻している。
それで、ピアノを弾くシーンがさりげなく多い。
映画では「ソ連支配の時代」がとくだん強調されてはいないが、「ベルリン」という街の背景にナチス時代を彷彿させる警察権力が、個人宅にまで入りこむ恐怖の現実が表現されている。
もちろん、ここは西ベルリンではなく東ベルリンのことである。
はたして「風紀を乱す」とはなにか?
そういえば、むかし中学校にも「風紀委員会」があった。
いまはどうなのだろうか?
おそらく、日本文化として残存しているにちがいない。
ヨーロッパの学校事情は、その国の「自由意識」という基盤に乗っているから、国によってさまざまな「形態」となってあらわれる。
学校依存が強いのはフランスで、プロである教師、なかでも校長の役割は重大で、親といえども校長の事前許可なく学校敷地にはいることすら許されないし、指導面の相談もすべて校長との面談となる。
問題のある子どもの親はすぐ校長に呼び出される。
逆に、旧東欧社会主義圏では、学校はあくまで「勉学の場所」と割り切っていて、生徒の生活指導をする場所ではない。
生活指導の場は、家庭と地域のクラブ活動になっている。
そうかんがえると、日本はえらく中途半端なフランス式で、あんまり中途半端だから「日本式」とあえていうのであろう。
ただし、国や自治体が支配していることになっていながら、首長の指示を無視する教育委員会がでてくるから、めちゃくちゃになっている。
あらためて「LGBT」とは、Lesbian(レズビアン、女性同性愛者)、Gay(ゲイ、男性同性愛者)、Bisexual(バイセクシュアル、両性愛者)、Transgender(トランスジェンダー、性別越境者)の頭文字である。
性的指向のうち、異性愛を意味する「ストレート」というのは、異性愛者側からの表現ではない。
すなわち、性的指向の多様性とはいうものの、前提が異性愛であることを認めていることにもなっているから、これも批判の対象だ。
さいきんは、各種ある「申込み書」の記入欄における男女の選択に「なし」という選択肢をみかけるようになった。
はたしてこれを「ビッグデータ」として収集すること間違いない。
すると、LGBTに「S」をつけることで、選択させるほうがより正確ではないのか?
すでに、「LGBT市場」という有力な市場がうまれている。
しかしてそれは、国家権力による個人への介入を許さない、という一面があることを、しっていたほうがいい。