「薬害」を授業で語る

「薬」が、「薬草」から進化したので、むかしばなしによく出てくる「煎じて飲む」の意味がよくわからなかった。

ようは、煮出して飲む、という意味である。

古い家には火鉢があって、たいがいその家の主人が正面に座っていたし、火鉢には夏でも火があって、ヤカンがかかっていた。

それで、おもむろにその火からキセルに着火して、うまそうにたばこの煙をはいていた。

わが家のある路地には、何年だかに一回、自転車を押して「羅宇屋」がピーピーと蒸気の音を立ててやってきていた。

それで、近所のお爺さんが出てきて何本かのキセルを掃除してもらうのを、おもしろくて眺めていたものである。
羅宇屋さんの手早い職人技と、蒸気の勢いが合致して、いまでいう「スゴ技」だったのである。

いまからしたら、この家のヤカンには、お茶ではなくて、なにかの薬草を煎じていたのだとおもうが、それがなんだったのか?がはっきり思い出せないが、そこのお婆さんが、庭でクコの実を育てて縁側で干していた記憶から、クコの実茶だったかと思う。

このお婆さんは、ずっと元気で、当時としてはずいぶんと長生きしたかと思うけど、もしやクコの実茶の効果があったのかもしれぬ。

さて、名古屋市立大学の薬学部で、医師でもある教授が、政府が推奨しまくった「注射」について、とうとう「薬害」を言い出して、授業にしていることが中部日本放送(CBC)も取り上げて話題になっている。

テーマがテーマだけに、「勇気ある教授」とされるのを、ご本人は意に介していないのは、学者としてのエビデンスをもって、「当然」という自負があるからだろう。

むしろ、「勇気がある」という表現をしないといけなくなった、社会の方がどうかしているのだといっているのだ。

いまとなっては、「ただの風邪」であるし、「特に死亡率が高いものでもない」ことが、じゅうぶんにわかってきている。
むしろ、「被害状況」の深刻さが、わかってきたのである。

国の救済が決定した死亡件数は、すでに400人超、副作用では6000人になっている。
これを、「薬害事件」といわずに、なんというのか?

番組では、受講した学生が、「自ら厚労省に入省して、この役所を中から変えたい」と正義感あふれる発言をしたことに賞賛のコメントをしていたが、そんなことができるはずもないというのが、「組織」の恐ろしさなのである。

それをいうなら、是非、議員を目指して欲しいとコメントしたらよかった。

アメリカでは、ファウチ博士を糾弾する動きが止まってはおらず、連邦上院で激しく追いつめていた、共和党ランド・ポール議員は医師である。

残念ながらわが国の歴史では、外国で薬害認定されても、国内適用されて使用中止決定がされるまで、数年間のタイムラグがかならずある。

これをもって、日本人はモルモットにされているという議論もあるが、それの原因は、被征服国で独立国ではないからなのである。

ヤカンにいれて煎じて入れるものだって、体質にあわなければ毒になる。
「毛生え薬」と「風邪薬」が発明されたらノーベル賞だといっていたむかしがなつかしい。

mRNAのお薬は、もうノーベル賞をとっているけど、まことにあやしいものなのだと、薬ではなくノーベル賞があやしいと気づけば、それはそれで、人類の進歩に貢献する「発見」なのであった。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください