国民的人気を博する作家とは、国民全体の気分のことを言語化できるひとという意味になって、端的にそれを「国民作家」といっていた。
だから、国民の気分が変化すると、いかに国民作家といわれていても、あたかも北極星が別の星に移るがごとく、国民作家も別の表現者になるのである。
しかし、問題は、国民気分の全体的な一致が、分断や個化(=アトム化)によって、分裂からどんどんと細分化されて、とうとう地域や他人との「つながり」が断ち切られると、国民作家というまとまった象徴としての概念も消滅する。
それが、いまの時代にみられる現象になっている。
ようは、「国民」それ自体の消滅が先にあるので、国民作家も存在しなくなるのである。
それで、国民とは「国籍」だけの記号になった。
こうして、移民との区別をしているにすぎないが、そのうち移民が日本国籍を取得するので、ますます「記号化」が促進されることになっている。
それは、あたかも住所だけの記号になった、「郷土」とおなじで、とっくに「ふるさと納税制度」によって、現住所さえ「郷土」から乖離させられているが、さらにマイナンバーによって単なる数字の羅列に変容することにもなっている。
つまり、記号化の記号を、アナログからデジタル化することで、完璧な「個化=アトム化」が完成し、人間から時間感覚をも奪うことになった。
ここでいう時間感覚とは、時系列のつながり、のことで、先祖や子孫にあたるひとたちを無視して、「個我」としての命のある現世の時間だけを意識するようにされているのである。
『旧約聖書』を聖典としている、ユダヤ・キリスト・イスラムの各宗教が、いわゆる「契約社会」なのは、根本に「唯一神との契約」があるからだけど、「期限」についてのかんがえ方も厳密なのである。
たとえば、結婚式における「死がふたりを分かつまで」という言葉は、婚姻関係の終わりについての契約となっていて、日本の神式における「永遠の契り」という概念とはまったく別のものである。
それゆえ、欧米人の「往復書簡」が、当事者双方の死にあって出版(公開)されるのも、プライバシーも「死」によって保護の対象から外れるからである。
ここでも、日本人の「永遠」という発想とまったく別物なのである。
だから、日本における「欧米化」とは、「永遠」から「個人の死まで」という時間範囲の限定という変化が起きていることが、もっといえば、日本の『旧約聖書化』をいうのである。
そうやってみると、過去の日本的価値観は、もはや風前の灯火となっていることが、あらためてわかる。
わたしは司馬遼太郎のよき読者ではなく、むしろこの作家の書いた欺瞞(体制礼賛)が鼻につくので、国民作家というよりも欧米化を推進した体制応援団の団長としてみている。
それよりも、エンタメに徹底した、池波正太郎の方がよほど深いとかんがえている。
ともするとドラマの脚本家だった、橋田壽賀子の「明治女の記録を伸しておきたかった」と動機を述べた『おしん』の一代記や、花登筐のど根性ものが懐かしい。
もう国民作家は現れないかもしれないが、司馬遼太郎が忘れられていくのは、あんがいと悪いことではない。
ただし、「歴史」そのものが忘れられてしまうのは、民族としての滅亡を意味するのである。