1957年に、テレビを対象として、「一億白痴化」と評したのは、大宅壮一であった。
このオリジナルに「総」をつけて、「一億総白痴化」としたのは、松本清張だったという。
いまは、政府が、「一億総活躍担当大臣」を置いたり置かなかったりして、まるで「全体主義」が顔を出したり引っ込めたりしている、変な時代である。
もちろん、全体主義は、社会主義と共産主義からしか生まれない、とドラッカーがわざわざ言ったように、自由主義から生まれるはずがないけれど、これをやり出したのが安倍内閣で、次の菅内閣もやっていたが、岸田内閣で廃止したのは、「各閣僚がやる」という意味だから、強化されたのである。
大日本帝国憲法では、内閣総理大臣の職務権限はとくに規定されておらず、国務大臣と「同格扱い」という哀しさで、閣僚の解任すらできなかった(ために総辞職した)のに、民主的という日本国憲法では、内閣総理大臣の職務権限は、無限大に近しいほどに強化・拡大されている。
残念ながら、民主主義のための流血の伝統もないわが国では、英国のような「不文憲法」は通用しないので、「成文」形式とするしかない。
また、「十七条憲法」は、またこれも残念ながら、近代憲法とはいえないので、有効無効論争すら無駄である。
民主主義体制の近代憲法とは、国民から政府への命令書、という位置づけだからである。
聖徳太子の実在云々は別として、為政者が政府に向けた文章を、近代民主主義の憲法とは定義できないのである。
それなのに、いまの与党(自民党と公明党)がいう、憲法が単純に「最高法規」であるから、これをもって国民の権利に制約を持たせるのは、あまりにもポンコツ過ぎて話にもならないが、これを、「憲法学者」が放置するポンコツも半端じゃない。
ようは、いまの与党による「憲法改正案」とは、十七条憲法よりも内容が陳腐なのだ。
これを、退化と言わずしてなんというのか。
もう、大学で「法学」とか、「憲法」を履修する意味が失われていて、かえって学生の脳に毒になる。
どこの民主社会に、国民が政府に国民の権利をなくせ、と命令するものか。
いまや、日本国民は、はなからポンコツな日本国憲法の停止を求めてもよいくらいのこともできないポンコツ状態になっているのに、これをご苦労にも後生大事にしているだけで、その態度は「反日」だといえる。
新しい憲法には、「反日の禁止」を明文化しなければならない。
そうすると、駅や電車、あるいは飛行場までのリムジンバスなどで、日本語以外に外国語の掲示をやらせる「行政指導」も反日的なので「役人に対して」やるな、と命じるのが憲法の威力となる。
運行する企業体が、自分で、乗客へのサービスの最適化をさせればいいのである。
また、その評価は、利用客と株主が決めることである。
よくわからないのが、このところ出てきた、「電車に乗るとポイントがたまる」というキャンペーンだ。
およそ、「運賃」についても、国土交通省すなわち「運輸局」が、あれこれと命じているものであるのに、この事実上の「返金システム」が成り立つ法的根拠はなにか?
もちろん、運輸局があれこれ運賃を決める法的根拠も、どこまで利用者のためだかわからないが、こんな返金システムを許可するなら、どうして運賃そのものを安くしないのか?という問題に、経済学者はどのような見解をもっているのか?
残念ながら、「経済人」をまだ信じている、ふつうの経済学者はかなり程度が低いので、心理学を重視する、「経営学」とは雲泥の差となっている。
だから、このケースの場合のご意見番も、本来ならば、経営学者に求めるべきところのものなのである。
ICカードとか、モバイル・アプリに誘導するためだけなのかなんなのか?を疑うのは、たまにしか電車に乗らないひとへの差別になるからである。
差別は悪だと口ではいいながら、平然と差別するこの分裂症状は、イジメはいけないと言いながらやめないのとおなじで、じつは現代社会の構造的な問題なのである。
なんでもポイント還元されるのを、「お得」だとかんがえる、乞食が横行しているとこのブログでは書いているが、それでもって、盗られる情報の重みに気づかないのは、盗られる側にも犯罪的だという評価があっていい。
なぜならば、そうして普及が進めば、決済方法の選択肢がなくなるからである。
まだICカードごときなら問題ない、ということが問題なのは、こうやって「慣らせる」ことが、多数から警戒心を奪うからである。
まさに一億総奴隷化のはじまりなのである。
もはや、よい社会を後世に残すという高齢者が小数派になって、自分たちは逃げおおせることができてラッキーだとかんがえている無責任世代が、かつての全共闘世代だとおもっている。
その「無責任」を笑いに託したのが、クレイジーキャッツの役割であり、植木等というキャラがやった、『無責任シリーズ』だったけど、皮肉ったはずが、安逸な無責任を国民が受け入れてしまったのである。
しかし、その子や孫が、そんな無責任の生活習慣的発想まで受け継いで、多数派になっているのは、いまだにテレビを観ているからである。
大宅壮一、松本清張のいう、白痴たちの楽園が、いまの日本国なのであった。