畏敬の対象を喪失すると堕落する

地震雷火事親父,これは恐いものの総称だった.
さいごの,「親父」がいつから怖くなくなったのか?いまでは,すっかり「ファミリー・パパ」である.
天災と親父が同列にあつかわれることのすごさは,親父側もたいへんだったろうと推測できる.
1968年に放送された,「親父太鼓」というテレビ・ドラマは,進藤英太郎演じる親父が,最後の抵抗をコミカルにみせてくれた.

家長制につながる,という批判はおいて,尊敬できる人物の存在,というのはたいへん重要なものだ.
「家庭」という,もっとも身近な空間における,尊敬,があるというのは,望ましいことではないか.ただし,それが権威主義にならない,ほんとうの「尊敬」であれば,である.

社内に尊敬できる先輩がいるか?

子どもは学校という集団において,社会化の訓練もうけている.
犬でさえ,生後すぐに母犬から引き離されると,社会化の教育をうけないから,一生にわたってむづかしい犬になる可能性が指摘されている.

おおくの国の教育制度が,小中高校と,それぞれ成長の年齢にあわせて学校をかわるようにできているのは,環境適応ということがあるはずである.
それでも,子どもにとって学校での一年はながいから,一学年の差でも,おおきな違いがある.
この時期,すさまじいスピードで「成長」しているからだろう.

三年間しかない,とかんがえるか,三年もある,とかんがえるかで,悩みの深刻度もかわるだろうに,たいがいは三年間もある,になってしまう.
尊敬できる友人・先輩や教師に出会えるか?は,そのひとの人生に影響をあたえる.損得ではない交遊というのは,ひとに豊かさを提供してくれるものだ.

就職というイベントをつうじて,一生お世話になる可能性がある会社という集団にはいって,職業人としてのスタートを切る.
このひとの職業人生を豊かにするかのひとつの決め手は,尊敬できる先輩の存在である.

こうしてみると,いい学校やいい会社というのは,尊敬できる可能性のあるひとの密度が高い集団を指すのではないかとおもう.

ABC分析における犠牲商品

飲食業界ではおなじみのABC分析だが,よくある失敗は,「売れていない」Cランクの商品を全部撤廃してしまうことで発生する.このCランク商品のなかに,Aランク商品へお客を誘導するための「犠牲商品」というものがもぐりこんでいる可能性があるからだ.

「犠牲商品」は,それ自体が売れるものではない.しかし,売れ筋商品へと誘導するための「みせもの」だから,「売れない」といって廃盤にすると,売れていた商品も売れなくなってしまうことがあるのだ.それで,「犠牲」という.

では,どうやって「犠牲商品」をみつけだすのか?というと,お客がなにをもってAランクのとある商品を選んだのか?を観察することになる.メニューをみながら,なにと比較したか?だ.
同系統のメニューの中にあるかもしれないし,別系統のメニューの中にあるかもしれない.
たとえば,麺類とご飯類とかである.

メニュー改訂をするとき,ABC分析の結果から仮説をたてて,ふだんから注意していないと,わからないものだ.

尊敬できる「犠牲商品」

このことの高度の応用は,「犠牲商品」をつくる,という作戦だ.
買って欲しい商品に誘導するための商品をつくる.

ポイントカードを発行して,そのポイント交換のパンフレットをつくるとき,データをみながら交換できる商品を選定することは当然として,いったい上限のポイント数をどうするか?という問題がある.
まじめな担当者は,最高ポイントを持っている人のポイント数を上限にしてしまう.
そうではなく,もっと上のポイント数にすれば,じっさいに交換できるひとはいなくても,パンフレットをみたひとが,こんなに購入実績があるひとがいるものかと感心してくれる.

人間は不思議な動物で,畏敬の対象があると気づくと敬虔な気持になるのだ.
音楽でも,素晴らしい「レクイエム」を聴けば涙し,「行進曲」なら歩き出す,とベートーベンが言ったとか.

尊敬できる人物が身近にいないひとは不幸である.
それは,犠牲商品の存在に気づかないで,いつもコントロールされる側にいるようなものだからだ.

ヒヤリとハット

事故がなく安全な状態を維持するのは,あんがい難しい.
ちゃんとしようとすると,ちゃんとコストがかかるようになっている.そこで,ほどほど,におちつくのだが,その「ほどほど」でほんとうに大丈夫なのか?となると,わからない.

個人ではなく,企業の安全対策は,基本中の基本なのだが,わかっちゃいるけど状態になりがちである.それは,やはりコストの問題があるからだ.

一口に「事故」といってもいろいろある.
そこで,最悪をかんがえることが一番いい.もちろん,最悪な事故は,人身事故で,それも死亡事故になる.
これは二つに分類できて,お客様が被害者になるもの,従業員が被害者になるもの,である.

ひとの命に重みのちがいはないが,お客様と従業員とでは,対応がちがってくるのは否めない.

ここでは,まず従業員の例をかんがえてみたい.

「業務上」という日常

会社の敷地であろうがなかろうが,業務上なら勤務中の事故である.
たいていの勤め人は,一日八時間は拘束されているし,通勤途上という時間もある.休みの日はのぞいても,人生の中における総時間数をかんがえると,たいへんな時間を「仕事」につかっている.
なかには,自分の時間のつかいかたがわからなくて,休日なのに会社にくるひともいるから,十人十色ではある.ただし,休みに出てくるこのひとが,仕事をしているかどうかは定かではない.

いわゆる現業部門という「現場」では,さまざまな工具をつかわないと仕事にならない.
だから,こうした工具が原因の事故はむかしからある.
ところが,いまは,病院で患者が取り違えられたり,ちがう薬をつかわれたりという事故まである.
これらはいちように「ヒューマンエラー」が原因といわれている.

そこで,専門家たちがヒューマンエラーの研究をしている.
この研究でわかったことは,「ヒューマンエラー」はなくならない,であった.
その理由は,「ヒューマンエラー」の原因が「ヒューマンエラー」だから,というものだ.
つまり,人間は間違える,ということにつきる.

だから,「ヒューマンエラー」を減らすには,人間は間違える,ことを前提にする必要がある.

なぜ間違えたのか?

たいていの「ヒューマンエラー」は,「つい」「うっかり」である.
しかし,その「つい」と「うっかり」で,自分の臓器が除去されてはたまらない.

そこで,「つい」と「うっかり」を収集して,「つい」と「うっかり」の原因をさぐってみる.
人間個体の神経の認識ミスなら,五感のうちのどれか?
人間個体の記憶ミスなら,記録の方法はないか?
といったぐあいだ.

結局「なぜ?」をくり返す

これは,「トヨタ生産方式」ではないか.
「つい」「うっかり」も「ヒヤリ」「ハット」も,原因の追及は,「なぜ?」である.

すると,従業員の安全を先にかんがえてみたが,お客のばあいもおなじである.
ただし,お客になるシミュレーションをしないといけない.
これは,テーマを変えるといくらでも応用ができる.
サービス向上になったり,生産性向上になったりする.

こうしたシミュレーションを,短時間単一テーマでおこなうのと,一泊まるまるおこなう方法がある.
一泊まるまるを「試泊」といったりする.
幹部でも,試泊経験が一度もないという宿はおおい.

1978年に世にでた大野耐一著「トヨタ生産方式」,奇しくも今年で40年の超ロングセラーである.
いまでも新刊で手に入る.

この本を「カンバン方式」の「ノウハウ本」だとおもっているひとをたまにみかける.
それで,「たいした本ではないのに」と,名著の理由がわからないらしい.
ただしくいえば,ノウハウ本だとおもって読んだら,なにやら漠然としていた,という感想なのだろう.

この本は,「哲学書」である.
漠然としているのではなく,「思想」が語られているのだ.だから「抽象」である.
「具体」ではないから,いくらでも応用できるのだ.
つまり,業種は問わない.
「ヒューマンエラー」の削減にもつかえるのは,その証明である.

わたしは鸚鵡ではない

くりかえして言うことを「鸚鵡返し」とよぶことがある.
ほんものの鸚鵡は,人間のことばを理解しているかといえば,おそらくそんなことはないだろう.
人間なら,鸚鵡とちがって,理解して返答している,とおもいたいがそうでもないことがある.これを,「機械的」といったりするが,手作業でも「機械的」な単純作業のくりかえしだと飽きてきて,しまいには苦痛にかわる.だから,ことばとして「機械的」に発することをくりかえすと,精神的にまいってきて,しまいには思考停止となる.

ところが,ホテルや旅館では,たとえ「機械的」であっても,くりかえし言わないと仕事にならないことがある.
だから、「機械的」に言わなければならない理由を知っているか知らないかが,その仕事の完成度につながる.すなわち,クレームの発生頻度がかわるということだ.

この「理由」を新人におしえないで命令でやらせていると,本人はだまって思考停止になる.そのうち,「理由」を説明できるひとがいなくなって,それが,職場全体に広がってくると,職場ごと思考停止になる.こうやって,ことばの発声が「単純作業」になって思考停止になると,人間は思考する動物だから,手をうごかす仕事も,かならず「単純作業」になるから,こころがうわついたサービスがお客に見ぬかれて,衰退という道をすすむことになってしまうおそれまである.

どんなことが「機械的でなければならない」のか?

第一は,「電話予約」における,「お待ちしております」に象徴される,予約承諾のことばである.
一般に「宿泊予約」というのは,厳密には「予約契約」のことをいう.これは,レストランの予約でもおなじことだ.
商法507条が根拠といわれたが,民法の大改正にあわせて,この条文は「削除」が決まった.
つまり,民法の特例法だった商法が,一部民法に先祖返りすることになった.
2020年の4月1日をもって,法律がかわる.

電話の通話は,双方向でつながっている.
そこで,電話で予約を受けるとき,その通話内で予約の申込みを受けて,部屋が空いているからと,「お待ちしております」と,承諾の意思表示をすれば,「予約契約が成立する」のだ.だから、鸚鵡のように,承諾の意思表示のことばを言わなければならない.

ちなみに,予約契約も売買契約である.売買を予約したのだ.売買契約は,売る側は商品を用意して,買う側はその代金を支払う,という約束である.
物質であろうが客室であろうが,売る側は用意しなくてはならず,買う側は代金の支払いをしなければならない.
ここで,買う側が一方的に売買契約を破棄したばあい,キャンセルチャージという違約金の債権債務が発生する.
だから,予約段階でも,その予約契約が成立したのかしなかったのかは,間違いなく伝える必要がある.お客は予約したつもりで,もし部屋が売り切れていたら,宿側が違約金を払わなければならなくなる.

第二は,荷物の預かりだろう.
いまは冬だから,クロークでコートなどを預けることがよくある.このとき,「貴重品類はございませんか?」とかならず聞かれる.たいがいは「ない」とこたえがあって,そのまま引換券をくれるが,もし,「ある」とこたえれば,それは貴重品預かりにと案内されるだろう.

ものを預かることを「寄託(きたく)」という.これは,民法でも商法でも規定があるが,ホテルや旅館,あるいは浴場などは,たとえ「無料」でも,法律は商人として預かったことにされるから,商法の寄託が適用になる.この部分は,商法が健在である.
それで,貴重品があるかないかを問うのは,あると申告されたときと,ないと申告されたときとで対応がことなるからである.簡単にいえば,適用となる条文がちがう.

客側が,うそをついて,貴重品があるのに無いといって,貴重品預かりではなくそのまま預かってしまい,もし紛失しても,文句がいえなくなる.お客が文句をいえないのは,鸚鵡のようにかならず確認することを怠らないためだ.あるときは言って,あるときは言わない,というのでは業務ならない.荷物預かり業務は,徹底的に鸚鵡になる必要がある.その一回ごとに,寄託契約の締結がなされている.

ホテルや旅館の大浴場,あるいはスポーツ施設のシャワールームや銭湯など,必然的に衣類や荷物を預けないとサービスを受けられないばあい,言って確認するのが面倒だから,紙に書いておけばよい,とはならない.
おおくの関係者が勘違いしているので注意が必要だ.

「貴重品は貴重品預かりまたはフロントにてお預けください,万一事故があっても責任は負いません」などという紙を,ポスターのように貼っている施設がある.
たしかに,利用客に貴重品預かりの場所を説明している,という効果はあるが,じっさいに紛失事故がおきたとき,施設側は「免責」にはならない.

商法の「寄託」は,いまだ文語での記述だから読みにくいが,じっくり読んでみることをおすすめする.

なお,駅のコインロッカーは,「賃貸借契約」なので,念のため.

客用トイレをだれが清掃するのか?

外国人がいちように驚くのが,日本の小学校における給食と終業時の清掃であるという.
じっさい,ポーランドでは,給食はおろか,生徒がいっせいに昼食をとる習慣すらないし,教室の清掃は,清掃業者が請け負っているのが世界的には一般的だ.
日本の小学校を取材した,サウジアラビアのテレビ番組をきっかけに,彼の国では「日本方式」が急速に普及しているという.これは,サウジアラビア王国にかぎった話ではない.
「教育」の範囲を,生活習慣にまでひろげれば,日本方式の意味ははっきりしている.

概ね,日本では高等学校まで自分たちで教室やトイレなど校舎や校庭の清掃をするから,おとなになって,専門学校や大学に進学すると,とたんに清掃は外国式に専門業者の仕事になる.
これは企業でも一般的である.

「サービス業」という業種でかんがえると,自社の社員以下がおこなうのと,専門業者に委託するのと,各業態によってちがう.
比較的店舗面積が小さい飲食店などでは,自社の従業員が清掃している.
一方で,大型ホテルでは,業務委託していることだろう.
この中間が,旅館である.

あんがい「おもてなし」をつよく打ち出しているホテルや旅館で,ロビーや客用トイレを業務委託していることはおおい.ばあいによっては,従業員スペースもトイレをふくめ清掃委託している.
「経費」を「単価」でかんがえれば,接客の専門家や商品企画・管理,あるいは営業をプロの従業員が,高単価で業務に従事しているのだから,単純作業は外部の専門業者にまかせることで,単価じたいも安くすむから,合理的であるし,ある意味,そんな業務で有能な従業員の時間をムダにしたくない,というかんがえもあるだろう.

しかし,本来の「おもてなし」という「思想」からかんがえれば,矛盾していないか?

長野県のひとたちが憧れる会社のひとつに,「伊那食品」がある.
この会社は,「寒天」の世界的メーカーで,世界シェアは70%ほどだとおもう.また,前年比で40数年間連続の売上高増加という記録もあるから,ご存じのむきもおおいだろう.

一口に「寒天」というが,なかなかの奥深さで,「寒天」というものの物質特性をかなり研究している.
創業時は和菓子の材料,いまは化粧品や医薬品の分野にまで応用がひろがっている.
その成果が,売上高増の連続記録になったのだが,会社の目的が売上高増加ではないことにも注目をあつめた.それは,社員とお客さまの幸せの追求なのだ.

だから,社員には10時と3時のお茶の時間がある.定年退職すると,子会社に就職して,本社工場内の花壇や農園の仕事がある.その会社にも定年があるから,社員たちは二度退職金がもらえる.
本社工場内の花壇は,美しく整備されていて,工場見学のお客の目をほほえませ,農園の収穫物は「直売」されている.これを近所のひとがこぞって買いに来る.

広大な本社工場の敷地に通勤する社員たちは「右折」をしない.遠回りしてでも「左折」で入場する.「右折」は,後続車の迷惑になるからだという.さらに,朝夕は,工場内の通路を集団で登下校している子どもたちのすがたがある.その先には工場と学校をつなぐ歩道橋がみえる.通学路の敷地内ショートカットを認めただけでなく,歩道橋も会社がつくったという.国道をまたぐ認可を得るのに苦労したというから,本物である.

工場内には見学者のためのレストランがあって,さまざまな寒天料理がたのしめる.
レジをすませて土産物売り場にあるトイレに行った.ふと,違和感を感じたのだが,それがなにかは時間差があってわかった.
トイレ内の水栓や設備は,けっして新しいのではない.しかし,なにか変なのだ.
それは,今日,ここを使うのはわたしが最初か?というほど,どこを見渡しても,水滴の一つもないのだ.
家内をまつために,土産物をながめていたら,目の横を人影が通るのを感じて,あわててふりかえると,そこに家内が立っていた.

いま,女子トイレにだれか入ったかときいたら,誰もこなかったという.
それで疑問がとけた.レジ係のひとが,手があけばトイレの清掃をしているのだ.すると,男子トイレから彼女が出てくるやすぐに女子トイレに入った.
家内も,女子トイレに水の一滴もなかったと驚いていた.

こんな会社みたことない.
それで,たっぷり寒天のお土産を買って,駐車場にむかうと,100mは向こうの通路からなにか叫んでいるひとがいる.
足下から頭まで,すべてが白装束なので,工場のひとだろう.
なにごとかとおもって耳に手をやったら,「ありがとうございました.お気を付けて!」と言っていた.
それで,寒天でいっぱいの荷物のふくろをもちかえて,おおきく手を振った.
なにか,えらいひとになったようで,ここにきてよかったと幸せになれた.

すごい会社があるものだ.