自動スリッパ

日産が自動駐車システムを応用して,スリッパやテレビ・エアコンのリモコンを「自動」で整列させる技術を開発した.しかし,商品化の予定はない,という.

「もの」でアピールするというのは,お金さえあればだれでもできるので,「競争」のためとしては,あまりお勧めできない.ただし,「コンセプト」から発したものであれば,それは「必然」にかわるから,今度は「なければならない」になる.

下足番

むかしの旅館は,玄関にスリッパが敷きつめてあって,お客は自分の履物をぬいで,適当に選んで履いた.ぬいだ履物は,下足番が奥の下駄箱にしまっていた.
外出しようとすると,下足番が,だまってそのひとの履物をだしてくれた.
どこでどうやって記憶しているか不思議におもうほどの「業」だった.

そういえば,いつのまにかおおくの宿で,そのままお上がりください,と一段上がったきれいな絨毯の上を履き替えずに歩けるようになった.
下足番を廃止したのだと,玄関横をみればその名残があるからわかる.
だから,温泉街だと,あんがい浴衣姿に自分の靴というしまらない格好になるから,わざわざ私服に着替えて散策に出たりする.みんながそうなると,ひなびた風情のあった街が,急にふるぼけた表情になる.

さいきんの花火大会は,浴衣で行くとさまざまな特典が用意されている.カップルともに浴衣だと,さらなる特典があるから,中高年より若者のほうが男女ともに浴衣姿がめだつようになった.
主催者の思惑どおり,浴衣姿がふえると,近代的な都会の花火大会なのに,「情緒」が醸し出されるのは不思議である.

昔のような「下足番」の復活ではなくても,温泉街に浴衣と下駄を履いてでかけてもらうだけで,ずいぶんちがった「観光地」になるだろう.

スリッパの履き心地

上記の自動スリッパを紹介した記事やビデオでは,履き散らかしたスリッパが自動で整列することに注目があつまった.たしかに,つぎに履こうとしたときに履きやすいだろう.
しかし,履き心地,についてのレポートがなかった.

スリッパもそうだが,「最高」を求めてしらべると,いがいなものが見つかる.
検索で簡単にみつける,という方法もあるのだが,デパートにあしを運ぶのも伝統的な方法だろう.町歩きでみかける「専門店」という発見もあるから,「足を使う」ことは,「アンテナ」を高くはるイメージがないと,ただの散歩になってしまう.

デパートや専門店にいく理由は,もうひとつある.
その店の「顧客層」と,自分の「顧客層」を比較できるからだ.
「高級」をめざしているわけでもない「旅館」が,スリッパだけ「高級」で,それが「競争」の役に立つのか?というのは,基本的な問いだろう.すると,「コンセプト」の重要性にはなしが戻る.

人手不足で人件費が高騰するであろうから,必然的に「高級」にして単価をあげないとやっていけない,とかんがえれば,意外性が目立つ「もの」から投資したくなるのだろうが,それだけ?でいいものか.ということは,じっくりかんがえていただくとして,スリッパのはなしだ.

デパートや専門店という実店舗の「顧客層」が,自社の「顧客層」と一致するとなると,もので補えるならはやく補うことが重要になる.この顧客層の生活の標準になってしまっている可能性があるからだ.

そこで,これらのひとが,なぜこの「スリッパ」を選んでいるのか?ということを確認したくなる.単なる「履き心地」なのか?なんなのか?
その「こだわり」の視点で,「旅館」という商品をみていることに注目せねばなるまい.

つまり,旅館にとっての「こだわり」は,お客の生活レベルへの「こだわり」であって,本稿のばあい,スリッパへの「こだわり」ではない.生活レベルから,自動的にみちびかれて選定したのが,このスリッパでしたという結果の表現にすぎない.

これが,スリッパだけに注視してしまうと,お客の生活レベルからの距離感がわからなくなってしまうから,独りよがり,という結果になる可能性が出てくる.それが,「おもてなし依存」ということだ.

かんがえる訓練つきのアルバイト

現役学生さんにアドバイスできることのひとつに,将来役に立つバイト先の選定がある.

優先順位

「学生アルバイト」といっても,しっかり稼ぎたい,とか,効率的にお金を得る,という優先順位を設定するのは当然だろう.
いまどき,学生は学業が優先で,アルバイトなどしなくてよい,といってくれる親がいたら,それは相当に境遇がよい.

学生は学業が優先だが,自分の小遣いぐらいは自分で稼いで欲しい,という親御さんの割合が高いのではないかと推測する.
そもそも,なんのために「学業」があるのかといえば,ちゃんとした職を得て,ひとり立ちして送れる人生のためだ.

だから、学生アルバイトは,なるべくたくさんの経験を積んだほうが,将来の役に立つ可能性が高い.
ここで,「将来役に立つ」という優先順位をお勧めしたい.

「労働市場がない国」における時給

ほとんどの「大人」もかんがえていないが,この国には「労働市場」がない.
職業斡旋業者に登録すれば,職場を紹介してくれる,というのは,ここでいう「労働市場」ではない.
労働者が自分の労働力を売る,ということと,事業者が労働者の労働力を買う,という関係を「労働市場」という.
だから,労働者は,自己の労働力の価値を知っているのが前提になる.
買う側も,どんな労働力をいくらで欲しいということを前提にしている.お互いが一致して,はじめて「売買」が成立し,このとき,「労働契約」が締結されるのだ.

日本では,以上の「契約」が成立していない.
その会社に時給いくらで就職する,というかんがえ方だから,仕事内容は入ってみないとわからない.
だから,高校生なら時給いくら,大学生や成人ならいくら,というように,おなじ仕事内容での募集のはずなのに時給単価がちがうという現象がふつうにある.仕事の価値に対応した労働力を求めていない,ということだ.

つまり,アルバイトをしたい側は,「時給の相場」という指標しか情報がない.
募集する会社も,「同業者や同一地域の相場」という指標しかない.それで,だいたい10円単位で「差」をもうけることをして,「獲得競争」をしているふうをよそおう.

ちなみに,いつもどこでもなんどでも,トンチンカンな介入をする「国」は,「最低賃金」というものを都道府県ごとに定めさせているが,これが「労働市場」成立のらちがいにあることに注目しよう.なお,日本の最低賃金制度を作ったのは,岸信介内閣である.

外国企業には絶体に用意されているはずの,「ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)」が日本企業にはない.この書類は,業務設計から導かれるから,この書類に対応した人材を募集している.
日本企業が,とりあえず採用して,各職場に配置してゆく方法とは真逆なのだ.
もちろん,この書類にある能力のあるひとを採用しなければならないから,ここで「相場」がきまるのだ.
採用とななれば,男女・年齢にかかわらず,「ジョブ・ディスクリプション」に対応した「賃金」しか払われない.だから,募集時に,「条件」としてあきらかにされる.

なるべくシスティマックな企業に応募しよう

日本的「相場」では,外資のアルバイトだとすこし時給が少ないとおもうかも知れない.
しかし,アルバイトの優先順位,にもどってかんがえると,お金をもらいながら訓練してもらえるという価値がくわわるとすれば,案外おとくなのだ.もちろん,採用する側は,訓練経費を差し引いているから,「安く」みえる.これが,労働市場がある場合の賃金の見かたである.

最大のハンバーガー・チェーンしかり,大人気の遊園地しかりである.
日本企業なら,最大のコンビニ・チェーンも容赦なく訓練してくれるはずだ.

では,いったい,なにを訓練してくれるのか?
それは,「自分でかんがえる」ことだ.

かれらが作って運用している「マニュアル」は,日本の「人的サービス業」のおじさんやおばさんが想像する機械的で無機質な「マニュアル」ではない.
むしろ,人間にしかできない,その場でかんがえて最善を導き出すように仕向ける,というものになっている.
そうでなければ,AI(人工頭脳)をつかったほうがよい.しかし,こまかな店舗管理は,人間のほうがすぐれている.それを,自分のからだで覚えられるのだ.

これからの若いひとこそ,こうした訓練をお金をもらって受けられるアルバイトをお勧めしたい.
将来,本業として,さまざまな職業に就くことになったときに,このときの訓練が,人生の役に立つことにいつかはかならず気がつくときがくるだろう.

エルサレム・シンドロームとパリ・シンドローム

世の中には,理解が深すぎて病気になるときと,理解が甘くて病気になるときとがある.
どちらも,「観光」が関わっているから書いておく.

エルサレム・シンドローム

その「歴史」や「宗教的威厳」に圧倒されて,精神に異常をきたすことをいう.
世界三大宗教の「聖地」,とくに歴史遺産とともにそこにひとが住んでいる「旧市街」で発症するという.
およそのパターンは,ふつうのひとが突然,「預言者」になったり「救世主」になったりする.
それで,この街には,これらの患者を収容するための「特別な病院」も用意されている.

入院して,専門家に診てもらうことになるが,概ね二つの解決策がある.
一つは,エルサレムから外に出ること.
一つは,自宅に帰ること.
どちらも,エルサレムの旧市街から出ること,が重要だ.それで「自然に治る」らしい.
ふつうのひとがふつうの生活に戻ると治るのだから,極度の興奮が原因とされる.
それにしても,発症者は,およそ年間100人というから,バカにできない数だ.

旧市街はいまでも発掘がつづいていて,とにかく掘ればかならずなにか出てくる.
北東に20kmもいくと,いまは,パレスチナになるエリコ(ジェリコ)の遺跡がある.
ここは,紀元前7,000年前,人類最古の街ともいわれる.

エルサレム旧市街も遺跡の街である.
ふと,いま歩いている石畳を,十字架を背負ったイエスが歩いた道だとおもうと,その石畳の減り方に,キリスト教徒でなくてもおもわず見入ってしまうこともしばしばだ.
雨が降らない土地だから,ひとが踏んで減るしかない.

生半可な知識でエルサレムを歩いていると,たいへん不安になってくる.
自分がいま観ている景色,建造物,そして住人たちの心の中にあるはずの歴史知識と信仰そして風習.
宗教的な服装のひとをおおく見かけるが,何派のひとたちだからこの先のエリアには絶体に行かないとか,説明を聞いても深く理解はできない.これらの意味が,わからない,という不安なのだ.
ところが,一方で,それがどうした?という開き直りもある.これが日本人だ.

エルサレム・シンドロームを発症するひとの内面で,なにが起きたのか?は知るよしもないが,そこまでの「深い理解」ができるのは,たいしたものだと感心する.

パリ・シンドローム

これを発症するのは,なんと日本人だ.しかも,女性におおいという.さいきんでは,中国人にもみられる病気だというから興味深い.
フランス人にいわせると,「なんで?」ということになるのは当然だ.

どうやら事前期待と実際のギャップが原因のようだ.
事前期待とは,女性誌におけるファッションの情報が過多であるとか,美しいはずの街並みとかに対する憧れである.ところが,「きたない」道路,さらに,言語や自由と個人主義思想のあまりの強さに,くたびれてしまうのだ.

フランス人医師は,これは,あまりにも「甘い理解」が原因だと指摘する.
フランス革命はなにを求めて血を流し,なにを失い,なにを得たのか?という理解もなく,フランス人は有名ブランドの服しか着ていない,と思い込んだら,たしかにどうかしている.

また,フランス語の発音の一部が,日本語的には「舌打ち」の「チッ」に聞こえて,自分はバカにされていると思い込むのも,典型的な症状だという.これは,中級以上のフランス語づかいになってから現地入りすると,ほとんどあらわれない症状だから,渡仏まえによく勉強しろということで解決するという解説がある.「なんだかなぁ」だ.

「短小軽薄」は,90年代の日本経済のスローガンだったが,「単なるちょっとした知識でただただ『軽薄』」というのが日本の国民性としてフランス医学界にしられているとは,嘆かわしいことだ.

「エルサレム・シンドローム」を発症しえない,という日本人の一人として,自分も考えなおすことはおおい.

伊勢神宮・シンドロームとか,出雲大社・シンドローム,あるいは,京都・シンドロームとか,東京・シンドロームを聞いたことがない.
深い理解もなく,甘いことでもない,ということか?
これを「慶事」とするには,ちとさびしい気もする.

世界最大の客船がこない

現在,もっともおおきい客船は,「ハーモニー・オブ・ザ・シーズ」という名前をもっている.
長さ 362.12m 総トン数 226,963トン 船幅 47.42m 高さ 72m 最高速度 46km/h
定員最大 6,780名 乗務員数 2,190名 建造費 1,350億円 就航年 2016年

横浜港にある,かつての太平洋の女王「氷川丸」のスペックは,
長さ 163.3m 総トン数 11,622トン 船幅 20.12m 最高速度33.725km/h
定員 331名 就航年 1930年(昭和5年)

ほら,やっぱりくらべものにならないではないか!
早合点はちょっとまってほしい.
昭和5年に,ホノルルまで一等250ドル(1,050円)という記録がある.
当時の1円は,いまの10,000円ぐらいだから,片道でホノルルまでの運賃が1,000万円を超える計算になる.
あたりまえだが,当時外国に行けたのは,特別なひとたちだけだった.

一方で,世界最大客船の料金は,二人一室7泊8日で$3,100(海側客室・食事付き,二名)+寄港地でのツアーだから,高価ではあるが「驚くほど高価」ではない.
もっとも,日本からの乗船なら,出発地までの交通費がばかにならない.
それで,この船の経験者は日本ではすくないだろう.

世界最大の客船内にはどんな施設があるのだろうか?
プールや劇場は定番で当然だが,カジノも忘れてはいけない.
「国際海洋法条約」で,日本船籍の場合は,カジノが国内違法なので公海上でも禁止であるが,外国船籍では,籍のある国の法に従うため「合法」になる.日本では「カジノ法」は成立したが,「実施法」がまだなので,当面は「禁止」だろう.
だから,この船が「IR(統合型リゾート)」である.
この手の船は,めったにこないが.
日本のリゾート業界は,それで助かっている.

ところで,かつての造船大国から転落したわが国だが,この船の建造はフランスなのだ.
建造費を定員で割ると,お客様ひとりあたり2,000万円程度になる.
日本で地上に建てるホテルより,安いのではないか?

最大客船のグレードは低い

ホテルにもグレードがあるように,客船にもグレードがあってこれを「クラス」という.
最高は,「ラグジュアリー・クラス」,中位は,「プレミアム・クラス」,そして,「カジュアル・クラス」の三種類だ.

「世界最大の豪華客船」は,当然に「ラグジュアリー」だとおもったらそうではなく,「カジュアル」に位置する.
「大きいことはいいこと」ではなかった.
入港できる港の大きさや深さといった制約があるし,大量のお客を乗せるのだから,サービスのきめも荒いという.

かつての氷川丸と比較すべきは,「ラグジュアリー・クラス」なのだ.

「カボタージュ」というルール

「サボタージュ」ではない.「カ」である.
これは,国内輸送を国内業者に限定する制度をいう.
例えば,外国籍の船による国際クルーズで,横浜港と神戸港を出発して香港に向かう場合,横浜から乗船したひとは,神戸で下船できない,ということだ.

飛行機は,カボタージュの規制緩和がすすんでいる.
「コードシェア便」というやり方を考えだした.
だから,この規制はもっぱら「海上輸送」にかかわる.

オーストラリアとニュージーランドが,この規制を撤廃したら,内航輸送の国内業者は壊滅的打撃をうけたという.これら政府は,コスト軽減を選んだのだ.
横浜市も,規制緩和を国に要請している.
客船も,コンテナも,「国際的」な経路から外れるという問題があるからだ.
「豪華客船」がめったにこなくなった理由のひとつでもある.

業界団体である,日本内航海運組合総連合会は当然強く規制緩和に反対している.

カボタージュは,国際的に認められている規制なので,概ね「維持すべし」ということなのだろうが,国民経済という視点から議論がおこなわれているようだ.
外の目からすると,この議論に抜けているのは,人口減少,である.
日本人の「船員」が,今後確保できるのか?

もしかすると,カボタージュは維持したいができない,ということになりかねない.
従来どおりの前提条件で,議論してもはじまらない事例のひとつである.

さいきんの「官庁文学」を読む

昨年6月9日,「未来投資戦略2017」というタイトルの「官庁文学」が閣議決定されている.

もう半年以上が経過するが,めだった批判がない.
これは,気持ち悪いので,ここで書いておこうとおもう.

199ページにわたる大著である

官庁文学というジャンルでもっとも有名なのは,「白書」シリーズである.
これは,毎年,定期的にでるから,愛読者もおおいだろう.ただし,「政府」という,かならず間違ったことをする組織の宣伝文だから,読者に相当な読解力を要求される「現代文学」のひとつである.

「未来投資戦略2017」というのは,その,かならず間違ったことをする政府が,厚顔無恥にも大上段で発信している,官庁文学のなかでも「プロパガンダ文学」というジャンルになる.
「プロパガンダ」という分野では,圧倒的にナチスのヨーゼフ・ゲッペルスという天才による完璧な「教義強制」の実績がしられ,これをスターリンや毛沢東も参考に自国で応用した.

残念ながらというよりも幸運にもか?,日本人は,教義を強制される,という方法ではなく,GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって国民を痴呆化させる,という方法のために,たとえ強制されても理解できない,という方向にむいている.しかし,その前に,政府の貧弱な宣伝力のせいで,最新作である「未来投資戦略2017」を国民一般が読んでいない.
だが,興味もない,となると,それは自分も「白痴化しているかもしれない」と疑うとよい.

この際だからせめて,「第1 ポイント 基本的な考え方」の10ページだけでもいいから目を通しておくとよいだろう.
「Society 5.0 に向けた戦略分野」として,以下の5項目があげられている.国民生活のほとんどをカバーしているので,まさにソ連型全体主義体制を彷彿とさせる.
観光系は,4にしめされているが,つぎの5では電子決済が目標化されている.
5は,「キャッシュレス化」をいうだけで,政府の「通貨発行益」にかかわる記述が「ない」ことに注目したい.これは,国民からハイエクの「通貨発行自由化論」を隠し,「通貨発行益」を死守するという表明でもある.
1 .健康寿命の延伸
2 .移動革命の実現
3 .サプライチェーンの次世代化
4 .快適なインフラ・まちづくり
5 .FinTech
「Society 5.0」というのは,「①狩猟社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会に続く、人類史上5番目の新しい社会。新しい価値やサービスが次々と創出され、社会の主体たる人々に豊かさをもたらしていく」と,なんと「脚注」で説明されている.

「未来投資戦略2017」という政府の主張をつらぬく前提となる基本的価値観が,この「Society 5.0」なのであるが,「脚注」で処理しておわり,ということからして論理の飛躍がある.
つまり,本書は「SF」という分野に分類されるのではないか?通常の「SF」は,Science Fiction だが,本書は前提から Science を無視しているから,本書の「S」は,Social だろう.

つまり,本書は新分野の文学に位置づけられようが,内容はかなり「白日夢」的で,妖しい雰囲気を醸し出している.
「Society 5.0」は人類史における「第四次産業革命」だという.それで,日本政府は,産業革命をさせようというのだ.過去の産業革命は,一度も,政府主導のものなどなかったことを知らないらしい.政府や政治が主導したのは,「社会破壊」のほんとうの「革命」しかない.

ところで,この「基本的な考え方」には,5つしか項目がないが,本文でもある「具体的施策」になると,いきなり「6」が出現する.それは,「エネルギー」であって,「安全が確認された原子力の活用」とある.みごとな科学の否定.数千年オーダーの福島の後始末を「7」で挙げるべきだろう.
それにしても目次からはずすとは,政府は必ず間違えるだけでなく,姑息なことをする,と覚えておきたい.

このままガラパゴス化してしまう

「Society 5.0」を推進すると,「適切な人材投資と雇用シフト」という労働の付け替えをしなければならない.それは,「生産性の抜本的改善を伴うことから失業問題を引き起こす」が,「日本は長期的に労働力人口が減少し続けることから」,「他の先進国のような社会的摩擦を回避できる」そうだ.
これを「眉唾」といわなければ,たんなる「希望」だろう.「SF」の「F」は,Fiction のはずだが,Fantasy も掛けてあるから,和歌の伝統までも受け継ぐみごとさだ.

「第4次産業革命のイノベーションは、予測困難なスピードと経路で進んでいくことから、対応が遅れたり大胆な変革を 躊躇(ちゅうちょ)したりすると、世界の先行企業の下請け化して、中間層が崩壊してしまうおそれがある。」
「日本は先行企業の下請け化するかガラパゴス化するしかなくなってしまう。」
と,二度も「下請け化してしまう」と心配している.
著者は,「下請け」がよほど嫌なのだろうが,それでは,中小企業庁の立場がないではないか.

世界の先行企業は,「水平分業」にシフトしており,「下請け,孫請け,曾孫請け」をやめられない日本は,いまだに「垂直分業」体制だ.その,体制を維持し,「水平分業」化を邪魔しているのが政府の規制や,その意向でしか動けない「業界団体」の「自主規制」ではなかったか.さらに,脆弱でかわいそうな中小・零細企業は「守らなければならない」から,「支援」と称して補助金漬けにする.こうして,むりやり「下請け」のままに固定させるのが,中小企業庁のお役目ではないか.

昭和23年に発足して以来,わが国中小企業の経営環境が,この役所の存在によって大きく改善されたという証拠がどこにあるのか?
即刻解散させて,現在の定員195名を直接中小企業に勤務させた方が,よほど為になるかもしれない.ただし,これらの人たちを採用したいとおもう中小企業があればだ.

この手法は,農業政策や医療分野などとそっくりおなじである.つまり,おなじパターンで全産業を,「固定」してきたのが政府である.
それを否定しようとは,みごとなまでのダブルスタンダード.
まさに「文学」でしかない,世迷い言である.

「ガラケー」に象徴されるように,この国が世界標準から別世界にむかったのは,世界は「消費者利益優先」を選択したのに,役所の『産業優先』という戦中からの「政策」と,利権がともなう「規制」のたまものだったことぐらいは,だれでも知っている.それを,いまさら,だれのせいにしようとしているのだろうか?

ついでにいえば,政府がすきな「日本版◯◯」というときの「日本版」には,「ガラパゴス化」が含まれている.つまり,日本の「ガラパゴス化」をもっとも強力に推進してきた張本人が政府である.
その政府が,上記のような言い分をして,しらっとしていられる神経は,もはやまともではない.

重要なのは,「第4次産業革命のイノベーションは、予測困難なスピードと経路で進んでいく」という,正しい認識を示し,さらに,「Society 5.0を実現する主役はあくまで民間の活力であり、全ての産業で、従来型システムから舵を切り、知識集約型に産業構造を転換するための大胆な事業ポートフォリオの転換を断行する勇気と行動が求められる。」というように,「主役はあくまで民間」といっていることである.

「予測困難」だから、硬直的な行動しかとれない政府は役に立たない.
だから、政府は民間の行動の邪魔をしてはいけない.
これが,自由経済の大原則だ.

本書は,責任は民間におしつけながら,政府が徹底的に関与する,という「宣言」になっている.
「さあ,仕事をしよう!」と,役人が腕まくりしている絵図である.財政難という存立基盤をすっかり忘れて,業界支配のための「補助金」が飛び交うことだろう.

これは,国民にとって絶望的な未来がやってくることに「確信」すら得られるとんでもないことだ.この「確信」になった「絶望感」こそ,「少子化」という現象の正体ではないか?
政府こそが,明治以来の開発独裁をやめて,「大胆な事業ポートフォリオの転換を断行する勇気と行動が求められる。」のである,と特大ブーメランで返してやりたい.
その意味で,21世紀の自由経済体制のはずの「日本」における,「社会主義の失敗」として重要な「歴史資料」になるだろう.

すでに,こんな批判をだれも「書けない」社会になってしまったのかもしれない.

アナログをデジタルにする技術

宿泊業で三大経費といえば,人件費,原材料費,水道光熱費である.
この三つで8割ほどにもなるから,事業を左右する重要な費用である.
それぞれに,管理の方法がちがう.

以前,とある宿で月次の資料を見せてもらったことがある.すると,水道光熱費が異様におおい.
これはおかしいと指摘したが,「だいたいこんなものです」と動じない.
水道代は二ヶ月に一回の支払だけど,均すと特に異常はないという.
つまり,相当前から異常になっていることが,気づかずに放置されているにちがいない.
それで,たまたま大浴場の補修のための「閉館」があったから,ついでに専門業者にチェックを依頼したら,水漏れ箇所が発見された.これで,年間数百万が浮いたことがある.

毎日検針していない

電気,水道,ガス,重油など,それぞれには「メーター」がついている.
これを毎日検針するのが,水道光熱費を管理する,といったときの基本である.
しかし,残念な宿では,この基本ができているところがすくない.
だから,請求書のとおりに支払う,ということだけが「業務」になっている.

毎日検針することで,なにがわかるのか?
まず,「使用量」というデータが集まる.
よく,「データは活用されてこそ意味がある」などと耳にする.
じつは,「活用方法がわからない」というのがこの手の事例の問題点である.

しかし,そのことのさらに奥には,「なにがわかるのか?」という興味と想像がない.
だれが使っているのか?をかんがえれば,それはお客様である.
お客様のために,玄関やロビーに電灯がともり,館内には冷暖房がきいている.
お客様のために,お風呂の用意をし,食事の用意をしている.

だから,水道光熱費という費用発生には,「量」が消費されているとかんがえるのが妥当だろう.
であれば,客数との関係はどうなのか?という「関数」が役に立ちそうではないか.

「予想」・「予測」ができるかできないか

おなじ業界なのに,業績に差がつくのはなぜか?を吟味すると,業績のよいところは,「予想」・「予測」が上手で,そうでないところは下手である.
では,なぜ上手い下手というちがいができるのか?
「データの活用力」と一言でいえばこれにつきる.

予想・予測が的確だと,当然に対応が早くなる.この「スピード」こそが分岐点だ.
経営資源はかぎられている.
ひと,もの,かね,情報,というけれど,これに時間がくわわる.
宇宙の存在や地球の自転という,だれにもコントロールできないだけに,時間は貴重だ.

水道光熱費でいえば,予約客数から使用量が予測できる.だから,異常の発見がはやくなるし,請求書がくるまえに支払予測もできるから,資金繰りに直結する.
さらに,季節の変わり目に「判断」を要する,冷暖房の切り替え時期も,独自に計測した温度や湿度のデータが役に立つだろう.

日課ゆえの面倒を楽にする

メーター類は個人の家でも目立たない場所にある.
建て増しをくり返したような旅館では,読み取りに踏み台が必要だったりするから,危険が伴うことがある.
最近の技術は,アナログメーターをカメラで読みとって,それをデジタル化することができる.

これは,表計算ソフトに自動入力してくれる,という意味だ.
それなら,客数や気温など,手軽に計測できるものは手入力でも,ちゃんとデータの活用ができるだろう.

なんのことはない,これがいまはやりの,「IoT:Internet of Things(モノのインターネット)」ではないか?つまり,センサーと通信機能を持ったモノ達,ということだ.
かたひじに力をこめなくても,最先端はそこにあるということだ.

工業技術見本市にサービス・観光業がきていない

昨日から三日間の予定で,パシフィコ横浜にて,恒例の工業技術見本市がはじまった.
テクニカルショウヨコハマ2018(第39回)が正式名称なので,横浜市や神奈川県を中心とした企業が出展しているのだが,どっこい大田区や山梨,新潟からもしっかり参加企業がある.
今月は,これも春恒例の「ホテルレストランショー」がビッグサイトであるから,業界関係者はそちらのほうに目がいっているのだろうか?
いくつかの「ミスマッチ」を感じたので,記述しておきたい.

なんとなくミスマッチ

第一は,あいかわらず『「工業」は「ものづくり」』というミスマッチである.
これは,工業のひとたちが,他社の技術をみてさらになにかあたらしいものを作ろう,ということを否定しているのではない.
いいたいのは,「ものづくり」の限界がとっくにみえているのに,まだ「ものづくり」をしようとしていることである.

「ものづくりの限界」は二つある.
一つは,「デジタル生産」の限界である.これは,アジア新興国の得意分野になった.
二つ目は,「高齢化」による限界である.いわゆる職人技(「ローテク」ともいわれる)の断絶である.デジタル生産だけではできない,これこそが,日本の強みだった.その熟練の技が,高齢化という時間との闘いによってうしなわれようとしている.それを,仕方なく「デジタル」で補おうとするのは,新興国もしっている課題だ.中国の展示ブースが,それを象徴していた.

だから,それでも,歯を食いしばってがんばる姿が,妙に痛々しいのだ.
これは,昭和の成功体験の直線上の継続にすぎない,とおもえるからだ.
つまり,新興国とおなじ土俵でまだ闘おうとしている姿である.
要素価格均等化定理の罠から,でる気がないのか?まったく不思議である.
それを,「行政」が一生懸命支援している.

ワンパターンもここまでくると,滑稽にみえる.
おもえば,「平成」という時代は,とうとう「昭和」の精算すらできなかったのではないか?

工業は「ものづくり」をはやくやめるべきではないか?
わが国でもっとも利益率がたかい製造業企業は,だれでもしっているキーエンスだ.
しかも,かれらは,とっくに自社製造工場を放棄している.「工場」がないのに,製造業に分類されている.
かれらの本業は,製品企画と設計なのだ.
つまり,日本の製造業の将来あるべきすがたは,キーエンスのようになることである.

だから、ミスマッチの二つ目は,「もの」そのもを見ているだけで,「生活」をみているという展示がすくなかったことだ.
どんな「もの」であろうと,さいごは「消費者」によって「消費」される.それで,わざわざ「最終消費者」なるいい方まである.だから、たとえ「B to B」であっても,重要な概念なのだ.
自社は,消費者からみて,どこにいるのか?という演繹の発想がなければならないとおもうのだが,ほとんど感じなかった.

サービス・観光業が,工業を無視しているというミスマッチが強くうかがえた.
「文明の利器」は,ほとんど工業からうみだされている.
利用客に,快適さや利便性を提供するには,日本という先進工業国における工業がいまなにをしているのかをチェックするのは当然とおもうが,そんな発想すらなさそうだ.

しかし,これは工業側もおなじであるのは上述した.「生活」のなかに,サービス・観光業は存在するからだ.

本当に深刻なのはサービス業からの発信がないことだ

どんな便利なものがほしいのか?がわからないのが工業.
こんな便利なものがほしい?がわからないのがサービス業,になっていないか?
サービス業からのニーズに工業がこたえ,それを世界がほしがるというのが,本来の先進国としての役割ではないか?
であれば,製品自体をどこで作るかはどうでもいい.
アップルのような企業が,「見本」なのだ.

サービス業の生産性の低さについては,たびたびこのブログでも触れている.
しかし,そのサービス業が,業界内はもとより,異業種にすら発信していないのではないか?という疑問が,あらためてわいた展示会だった.

ホテルレストランショーで,どんな提案があるのか,確認しなければならない.

幹事の選択

いまでも団体ツアーがほしいという飲食店や宿はおおい.
なにしろ,むかしつくった「箱」がおおきい.
団体をメイン顧客に想定したのは,当時は正しかった.
バブル後,旅行形態が団体から個人にシフトしたから,大箱の施設ほど苦労している.

「団体」と一口にいっても中身はどうだろう.
「募集団体」なら,旅行会社が企画した商品に,たまたま集まった個人客の集団である.
ショッピングセンターの応募企画に当選したひとたちの「団体」もある.
そうかといえば,同窓会やクラス会などの,もともとが集団の団体もある.
「スナック」など,飲食店のお客が集まった「団体」ツアーもよくきくはなしだ.
団体がまったくない,ということではないが,口を開けているだけではそうそうやってこない.

事務は誰がやるのか?

募集団体や企画団体は,ある意味むかしからあったから,営業の方法もむかしからと変わらないだろう.いわゆる,エージェントまわりである.
個人が膨らんで団体になったのが同窓会やクラス会,それに個人経営のお店の宴集会である.
だから,これらの団体には,幹事という個人が存在する.
この個人こそが,決定権者だ.
同窓会やクラス会の幹事は,だいたい卒業前から変わらない.元学級委員が引き受けている.
あんがい一生つづくしごとである.
50代から,急に頻度をますのが学校関係の集まりだ.
元学級委員だった幹事は,それなりに出世しているはずで,事務能力がある.しかし,現役だと結構いそがしい.また,リタイヤといってもいろいろやることがある人物だと想像できる.企業の役員になっているかも知れない.
だから、手配の事務は負担である.

事務代行という営業

栃木県那須町にある芦野温泉には,「湯行会」という組織が各地に組織されている.
この会の分布密度は,ほとんど町内会なみで,自分の住所の比較的ちかくに「支部長」がいる.
ぜんぜん知らないひとだが,宿の壁にはズラーッと各地の「湯行会」支部長の顔写真と自宅の電話番号が掲示されている.
もはや個人情報保護法という国民孤立化政策を完全無視しているような鷹揚さで,むしろ清々しさまで感じるが,自宅のちかくにこんな「会」があるとは,おどろいたものだ.

この「会」は,支部長の都合で成立しているというから,またおどろきである.
支部に登録すると,支部長の都合できまった芦野温泉行きのツアー連絡がとどく.
日程(たいてい数泊の連泊を基本としている)と集合時間,場所が指定された連絡書で申し込む.

これらの手配は宿がしている.
支部長は,自分の行きたい日程を宿に伝えると,支部会員宛の連絡事務で出欠の確認をおこなって,それから,バス会社に連絡し,貸し切りバスを仕立てるというから,支部長本人がすることは,いつからいつまで行きたい,という希望を宿につたえることだけである.

おおくの会員は,万難を排して参加するという.はなしだけではにわかに信じられない.それで,ためしに現地へ行ってみて宿泊したら,本当だった.何回目かのおどろきである.
最初は,町内の老人会かとおもったら,そうではなく「湯行会」だという.本当の老人会も来るけれど,「湯行会」は少しはなれた人たちだから,「近所のしがらみがない」分,心底楽しめるらしい.

このビジネスモデルをまねる団体向きの宿を聞かないのも不思議である.
おそらく,「事務」ができないのだろう.
接客サービスばかりが「サービス」だというひとがいるけど,本当は「事務」というサービスがありがたい.
幹事をやればわかることだ.

観るだけの観光

光を観ると書いて「観光」だから,明治のひとは「Sightseeing」を訳したのだろう.じっくり観る感じがする.
「Tourism」は,これとはちがって,「名所巡り」という系統だろうから動きがある感じがする.お正月の「七福神巡り」も,指定された寺院に行くことが目的になるから,あんがい周辺をじっくり観る「観光」はパスしてしまう.
「団体ツアー」の絵はがき旅行も「観る観光」の観点から批判があるけれども,しらない土地での名所旧跡を「効率的」にまわれるから「ツアー」であって,個人的には嫌いではない.気に入ったら,あとでゆっくり個人旅行で「Sightseeing」をすればいい.

日本語は便利すぎて,どちらも「観光」で片づくが,どうやら「観光」と「名所巡り」は外国語のように分けたほうがよさそうだ.
名所巡りをしていても,目的地の名所を観光するとなると,いろんなものを「観る」ことになる.
このところ,「体験型の観光」が注目されているが,基本は「観光」という概念のなかにふくまれるだろう.

「観る」という場面で限定すれば,博物館や美術館は,もっぱら「観る」ものばかりである.
そこで,どんなものかと解説書きを読むのだが,有名な展示品については,「音声ガイド」という便利なものも普及してきた.しかし,これはすべての展示品が対象ではないから,音声ガイドの端末を借りたら,たいていは音声ガイドのあるものだけを「巡る」ことになる.それで,館内「ツアー」になる.

世界的に有名な博物館や美術館なら,じっくり「観光」すると毎日通っても一週間ではたりないかもしれない.
むかし,スペインのプラド美術館に三日通ったが,わたしの脳は画像データの消化不良で頭がぼんやりして気分が悪くなってしまった.日程の都合から三日で済まそうとしたのがいけなかったのだろう.完全に情報過多だった.
そういう意味でも,館内「ツアー」は効率的である.おそらく,二時間もあれば全館を巡るのだろう.
しかし,残念ながら印象に残ることはすくないから,どうしても「行ってきた」ということで終わってしまう.
だから,「観光」と「ツアー」は,トレードオフの関係にあるようにおもう.

観る観光は高い教養を要求されるから難易度が高い

テレビ番組で,美術をあつかったものはおおくないが,ある作家とか,一枚の絵とかと,対象をかなり絞り込んだ内容で構成されているから,視聴者はかなり深く情報をえることができる.
どんなに有名な作家で,どんなに有名な作品であろうが,そうした背景をしっていて鑑賞するのと,ただ観るのとでは雲泥の差である.

国内海外問わず,博物館・美術館,神社仏閣・名所旧跡を「観光」しようとすると,「教養」という壁がたちはだかる.
たとえば,観光の対象が自然の景観であるとしても,ただ観て「きれい」とか「すばらしい」で済まして,写真に記録を残すだけならそれでおしまいである.これが,従来の「観光」であった.
しかし,その景観がどうやってできたのか?地球物理学的な観察の説明や樹木や動物の特徴といった生態学,とか,そこで暮らす人がのこしてきた民話などという情報がつながると,がぜん価値が磨かれる.
これらを,どうやってスマートに情報提供するか?というのが,観光地にもとめられるのだろう.

地元のひとたちの教養が難易度を下げる

どういった解説・説明があるといいのか?
それを表現する方法で,もっともうまい方法はなにか?
そもそも,想定客はだれか?

残念な観光地には,おざなりで貧弱な説明しかない.これは世界共通である.
しかし,先進国と呼ばれる国では,あまりみかけない.
しっかり「観る」に集中させたら,つぎにはしっかり消費させるような段取りが組まれている.
そういったプログラムの構成は,役所のプロデュースではできない.

農産物輸出と駐車場

まったくちがう分野の話題にみえるのだが,昨日2月4日の新聞で注目の「共通記事」だ.

結論をさきにいえば,どちらも「政府の失敗」である.
丁寧にいえば,典型的なソ連型計画経済の失敗という意味だ.
民間の自由をうばって,政府が経済に命令するとこうなる,という旧東欧社会主義圏の住人なら,21世紀の日本でこんな政策がまだおこなわれていて,それを新聞が批判しないことに,唖然とするか,ノスタルジーすら感じるひともいるのではなかろうか.

日本政府のダブルスタンダードここにあり

「生産性向上」のために「働きかた改革」を打ち出してみたりと,なにかやっている振りをしているが,そもそもおおきなお世話である.
その一方で,あらゆる分野に命令し,ことごとく失敗しているのは政府である.
お願いだから,政府は邪魔な「経済政策」というお節介を,一日もはやくやめてほしい.
たったそれだけ,政府が退場すれば,この国の経済はよくなるだろう.

記事によると,農産物輸出が不調の理由は,「HACCP」という世界共通規格が日本で普及していない,という.
また,「グローバルGAP」という農産物の国際認証が,日本ではほとんど普及していないのが問題だとしている.
しかしこれは,農業鎖国政策の結果でしかない.それを,こんどは,企業や農家のせいにする.

東京オリンピック選手村での食事提供は大丈夫なのか?

数年前から指摘されている問題である.
上述の「輸出の不調」は,「選手村」という江戸時代の長崎の出島のような「想定の国外」でも発生する可能性と同意である.
つまり,各国選手には,グローバルな規格や認証を経たものしか口に入れたくない,というニーズがある.

「より速く,より高く,より強く」を,ドーピングなしで実現するための「食事」は,おそろしくナイーブな問題だ.
これを,「いなかのおばあちゃんがつくる野菜はおいしい」というレベルと一緒にするのは,「倒錯」といわれても仕方がない.日本は「メルヘン国家」になった.
それで,まずいと気がついた役人が責任転嫁しようというのがこの記事に透けてみえる.

おそらく,各国しかも「有力国」の「有力競技団体」との打ち合わせで,世界標準を要求されてしまっているのではないか?当然だが.
あと二年程度ではできないから,選手村での提供食材はほとんどが輸入食材になる可能性がある.

選手たちが楽しそうに,お好み焼きやラーメンなど,日本での食事をしている場面がテレビにでるだろうが,それは競技終了後の緊張が解けたアトラクションにすぎないはずだ.
テレビは,あたかも毎日,各国選手たちが「日本食」を楽しんでいるかのような印象操作をするのではないか?とひそかに期待している.

駐車場規制と人口減少

都心の駐車場が余っているから,駐車場規制をゆるめる,という内容の報道である.なぜ余っているかというと,公共交通機関が発達していることと,人口減少が原因だという.それで,稼働が二割しかない駐車場がでてきた.

駐車場という「箱物」を,ビルの地下なりにつくらせておいて,都心部は公共交通機関があるし,人口減少だからと「緩和」したところで,既存のビルオーナーはどうしろというのだろう?

「法」で規制すれば一律になる.
どのくらいのビルが新築されるか?を都内二十三区内ですら予想などできない.
だから、この規制は最初から適当なのだ.

そもそも,ビルの駐車場は誰のための施設かといえば,業務用と客用がほとんどだろう.
すると,ビルの設計において,規制が基準なのではなく,いかなる収益をもたらすかが基準になるのは当然だ.

これを,むりやり「規制」という基準にさせるから,民間は仕方なく規制にしたがう.それで,駐車場利用者がいないと「想定外」などという無責任用語を駆使して,緩和してあげる,という.
まるまる損をかぶるのは民間である.わざわざいうまでもないが,生産性が低い理由だ.
緩和でなく,最初から規制というお節介をしなくてよい.
収益の主体は民間だから,自分の事業にあわせた駐車場台数にして,損も得も民間に任せれば,すむことだ.

農業をやったことがない役人が,農業経営にお節介して農業鎖国をしてきたら,いつのまにかそら「輸出」だということに対応できない.
政府が経済活動に介入し命令すると,ろくなことがない.
伸びるべき生産性まで低下させる.そんなことを何十年もやってきて,まだ政府は自分が万能だという夢から覚めもせず,生産性をあげろ,と命令する.

霞ヶ関のファンタジーに翻弄される民間こそ迷惑千万.
これを経済団体が「支持する」という「倒錯」こそ,この三十年の閉塞感の正体である.