施餓鬼会のないお盆

お盆だって、ほんとうは「盂蘭盆(うらぼん)」で、これを「裏」と書いたから「表盆」はいつだ?ということになる。
サンスクリット語という古代インド・アーリア語が仏教典のオリジナルだ。
これを三蔵法師が漢語に訳して「お経」になった。

外来語を表記するのに、わが国ではふつうカタカナが使われる。
集合でいうと、外来語∈カタカナ語、と書けて、外来語はカタカナ語に属することを意味する。
りんごの英語Appleをふつう「アップル」と書くけれど、「あっぷる」とも書くこともあるからややこしい。

アルファベットを使う国や地域では、オリジナルの発音に真似た表記で外来語も書くしかない。
この意味で、漢語をつくる漢字でも、外来語はアルファベットと同様にオリジナルと似せた発音の文字を使う。

けれども、我々もよくしる漢字には、「表音」だけでなく「表意」の機能もある。
それで、発音表記のために書いたものに、なんだか「意味」があるように思えてしまうのだ。

ようは、当て字に意味を見出すという効果が発生する、ということである。

だから、「名訳」は、オリジナルの意味に合致した漢字をあてて、その発音までオリジナルに近いと、まったく自国語のようにすることを意識したものだ。この確率はかなり低いだろうけど、当て字に意味があると思い込むことになる。

日本の高校で習う漢文の「読み下し」とは、もっとすぐれた方法で、オリジナルの漢語で書かれた文章を「レ点」をつけて後から、とか、「而」の文字を目印に、そのまま「訓読み」すなわち、日本語にして読み進むという恐るべきものである。

漢語という外国語を日本語に翻訳するのではなく、日本語として直接読みこなすのである。
この読み下しのための「行ったり来たり」を、英語の長文読解でもやるというのは、江戸から明治の「漢籍の素養」があるひとの英語習得法を、現代の漢籍の素養がないひとにもやっているということである。

まさか、英語を読み下そうとしたのではなかろうか?

さて、「盂蘭盆会」には、「施餓鬼の法要」がおこなわれる地域がある。
地域と宗派によるのだけれど、これに「新盆」も含まれる。
亡くなったひとの初めての「盂蘭盆」のことである。

そもそも「お盆」とは、先祖の霊をお迎えしてこれを祀ることをいう。
迎え火でキュウリを馬に、送り火は茄子を牛に見立てるのは、早く来てゆっくりお帰りいただくための風習である。
有名な「大文字焼き」や盛大な夏の「花火大会」は、迎え火と送り火の「過剰」な形なのである。

また、「施餓鬼」とは、ご先祖には関係ないが、無縁仏などの不幸な魂を供養して、善行を積むことでいま生きているひとの魂を磨き、それで将来自分が死んだとき、成仏しようという儀式である。

生まれたからには必ず死ぬ。
だから、仏教徒のばあい、人生の究極目標は、成仏すること、一点に絞られるのだ。

だいたい、8月15日を中心に前後の日にちを「お盆」としていたけれど、大戦争の停戦日が同じになったので、戦争犠牲者たちの「鎮魂」も兼ねるようになった。
国際的に正式な戦争の終結日は、降伏文書に署名した9月2日である。

そんなわけで、毎年8月は、わが国が宗教国家であることを世界に知らしめる。それは、「お盆休み」という長期休暇があって、近代化や工業化のために集団就職やらで地方から出てきたひとたちが、ご先祖様のために帰省する「大移動」が風物詩にもなるからであった。

「夏休み」=「お盆休み」が、外国の「バカンス」にならない理由がここにある。

これを破壊するのが、わが国「保守政治」なのだからどうかしている。
さらに、既存宗教がなんの役にもたたないばかりか、そんな政治に異議も唱えずひたすら追随するのはいかがなものか?

わが家に届いたお寺からの案内に驚愕した。
今年は盂蘭盆会も施餓鬼の法要も新盆も中止します。
理由は、「三密」がいけないからだとあった。

おいおい、わが家の宗派は「密教」でなかったか?
比叡山参拝はなんだったのか?

本来の「三密」とは、「身密:手に諸尊の印相を結ぶ」、「口密(語密):口に真言を読誦する」、「心密:心に曼荼羅の諸尊を観想する」の「身・口・心」(しん・こう・しん)のことなのである。
「信仰心」という漢字が浮かべば、完璧な漢語の翻訳者だ。

なお、ここでも「密」という漢字は「表音」のために使われているのであって、漢字がもつ意味とは関係ないことに注意を要する。
コロナ対策の「三密」は、対策としての意味はないが、「密」という漢字の意味は有効である。

物質的な今般流行のウィルスに感染・発病予防のために、無理にご参集いただくことはありません。
宗教行事ですので、檀家各位がご判断ください。
寺としては、毎年同様の法要をいたします。
ご参集いただけなくても、同日・同時刻に、ご自宅の仏壇にてご供養をされますようお勧めいたします。
なお、当日はユーチューブでのリアルタイム配信をいたします。

こんな案内ならまだわかる。

果たして、わが国の宗教は、人間を幸せにしてくれるものなのか?
過剰な社会に警鐘を鳴らせない宗教にもこまったものである。
宗教国家なのに宗教が弱体化するなら、本格的な衰退といえよう。

東京の中心で「変」を叫ぶ

千代田区が荒れている。

区長と議会の対立は、区長が議会の解散を宣告し、これを区の選管と総務大臣が無効と言ったら、区長は裁判所の判断を仰ぐという。
また、初当選した3年前の選挙では、都知事の応援があったけど、この騒動で都知事は「区のこと」としている。

報道によると、事の発端は、区長が家族で購入した区内マンションが「抽選外」で購入できて、その理由にある「特別」とはどうやら「容積率の割り増し」という貢献をしたからだという。
区長権限の個人への悪用ではないか?という疑いがうまれた。

そこで、区議会は区長の証言をとろうとしたが、埒もないので100条委員会という伝家の宝刀を抜いた。
この委員会での「偽証」をもって、区長は「刑事告発議決」をくらった。
それで、刑事告発議決をすること=不信任議決だという「解釈」をして、地方自治法178条をもって議会解散を告げたのである。

ところが、この「お告げ文」を議長に手渡しても、議長は断固として受け取らなかった。
このときのシチュエーションは、春先に「やらない」と区長が公言した、コロナ見舞金(12万円/区民)を「やる」といいだしから、区の予算委員会も紛糾し、その「休憩時間」という間隙をついたものだった。

さらに、突然議長室に区長がやってきて、この「お告げ文」を差し出してからの押し問答のやりとりは映像記録されている。
議長がしきりに「総務省見解」をたてに拒否しているので、冒頭の総務大臣の発言は、とっくにあった見解の「追認」をしただけなのだろう。

というわけで、わが国の中心である東京の、そのまた中心である千代田区で、「変」が起きている。

さいきんの記憶で、千代田区といえば、内田なにがしという都議会議員が知事をもしのぐ「都のドン」だったことぐらいだったけど、とっくに引退している。
ただし、このひとの女婿は現職の千代田区議でもある。

「区長」対「全議員(25名)」という構図は、わが国ではなかなか珍しい。

当然だがマスコミは、発端となった「疑惑」があるから、区長が悪だと暗示させるような報道姿勢である。
首長のこんな横暴がまかり通るなら、全国の自治体がおかしくなる、といってあおっている。

しかし、「賽は投げられた」のだから、どうかんがえるべきかを別の視点から論じてみたい。
人生には取り返しのつかないことがある、からである。

本件では、「区長が議会解散を告げた」という事実が、取り返しのつかないことにあたる。
また、これ以前に、「議会が刑事告発の議決をした」という事実も、取り返しがつかないことなのだ。

そして、議会は総務省に依っていて、区長は裁判所に依っている。

三権分立しているといいながら、本当は三権分立していないわが国で、三権分立しているはずだと主張する区長の態度は、正義に満ちている。
25人もいる議員の全員が、この区長に対峙していて行政当局の元締めである総務省に依るのは、いったいどういう了見なのか?

それは、「従来秩序の維持」という常識が、25人の区議にあるのだといえる。この意味で、千代田区民の常識が議員にひとりの洩れもなく具現化されているのである。
けれども、「従来秩序の維持」がすべての前提にあるということは何を意味するのか?

このブログで何度も主張してきた、「国家行政による支配」を意味する。
すなわち、わが国に事実上「地方自治」なんて存在せず、旧自治省=現総務省のいいなり、ということを「よし」とするかんがえにほかならない。
その旧自治省とは、さらにさかのぼれば旧内務省のことである。

敗戦を境に中央省庁の看板の掛け替えがおこなわれた。
現在最強とされる大蔵省は、このとき看板は掛け替えず、いまの財務省になったのは「不適切な接待」とか「金融危機」による。
大蔵省解体論があるけれど、職員をクビにしたわけではなく、金融庁を創設しただけだった。

ほんとうの「最強」は、旧内務省なのである。
鳩山内閣で廃止した「事務次官会議」も、いまは「次官連絡会議」になっているけど、この会議の議長こそ、官僚の中の官僚、わが国の筆頭官僚が務めるポストなのだ。

それは、事務担当内閣官房副長官であって、歴代おおむね旧内務省・旧自治省事務次官経験者が就任することになっている。
そして、事務次官なら一般職だけど、内閣官房副長官は認証官なのである。
このちがい、お分かりか?

個人が家族をつくり、家族の集団が町内会・自治会で地域を支え、その集合体が自治体となるなら、日本全国の自治体を支配するとは、わが国民を支配するということになる。
これが、旧内務省・旧自治省で、いまでいう総務省の行政なのだ。

だから、たまたまとはいえ、わが国の中心地・千代田区で起きていることは、総務省支配の終焉か、継続か?ということでもなく、もはや裁判所に委ねるということが、蟻の一穴を意味するのである。
総務省見解 → 選挙委員会の解散無効判断 → 総務大臣の解散無効見解を無視した区長の、司法判断優先とは、まさに反乱の意味の「変」なのである。

さては、司法の判断とは、三権分立に向かうのか?
それとも、国家行政当局の支配継続を維持するのか?

「大変」なことになっている。

“Kabuki Play”の世の中

じつは「政治用語」になっているのが「Kabuki play(カブキ・プレイ)」だ。「型にはまった表面上の議論」という意味で、かなり皮肉をこめている。
わが国を代表する伝統芸能の理解が、英語圏でもたいへん深まっているのである。

『日曜劇場』といえば、『サザエさん』と並ぶかつては東芝単独提供の看板番組であった。
これに対抗したのが、『ナショナル劇場』で、あの『水戸黄門』や『大岡越前』などのシリーズがある。

日曜日は、「光る光る東芝~♫」で終わり、月曜日は、「明るいナショナル~♫」ではじまった。
『水戸黄門』の夕方の再放送が、本放送の視聴率を超えるという椿事が起きたのは、定年後の元サラリーマンたちが、現役のときの残業で本放送を観られなかったことと、早寝の習慣による。

いまの『日曜劇場』は、『半沢直樹』が高視聴率をたたき出している。
最初の放送は、2013年だったから、7年ぶりの第二シリーズだ。
主な出演者たちが、歌舞伎界からこぞって出てきているので、「現代カブキ」だと思えば楽しみも増す。

そもそも「傾奇者(かぶき者)」といえば、奇抜で目立ちたがり屋にして粋人をいった。その典型が、加賀百万石の始祖・前田利家の甥、前田利益(慶次郎)であろう。
もちろん、現代のブームの発端となったのは、『花の慶次』の原作、隆慶一郎の『一夢庵風流記』である。

 

小説家としては、10年、実動わずか5年という短さが残念でならない。
「全集」にしかない作品もあるけれど、絶筆が多数のためフラストレーションがたまるのは仕方がない。

「おもしろさ」と「資料の読み込み」という点から、司馬遼太郎の熱血ファンには失礼だが、目ではないとわたしはおもっている。
「再構築」という作業を、圧倒的なダイナミックさで実現しているからである。

もちろん、「小説」なのだから、「決めつけ」ということも大切で、そのわかりやすさと主人公の表現が「贔屓」なだけでなく、「エコ」がつくほどに持ち上げるところが絶妙なのである。
いわゆる、キャラを立てるのは、本職だった脚本家としての血なのだろう。

政局報道で、「劇場」ということばが流行ったのは、小泉純一郎時代だったようにおもう。
彼の、明解にして短いフレーズは、前後の文脈と関係なく飛び出したから、より「見出しになった」のである。

つまり、記者たちに「同じ見出し」をつけられるようにしてあげたので、この意味で国民はニュースの選択の自由を失った。
どれをとっても、記事内容だって同じになったからである。
こうして、取材される側が取材する側のコントロールをはじめて、それが成功したのだ。

となると、取材する側がどうして取材される側のコントロール下に無批判かつすすんで入ったのか?という疑問がうまれる。
答はそこに、「安逸さ」という居心地のよさがあるからであろう。
すると、世界に冠たるわが国の「風習」である記者クラブという「倶楽部」のあるべき堕落に気づくのである。

横並び、である。

カネを出して記事を買う「読者」よりも、記者たちの「ムラの安定」が優先なのだ。
これに、広告という収入源が、記事を買うひとたちが支払うより多額になれば、お客様は広告主企業になって読者ではなくなったから、安心して横並びができるし、横並びしないといけなくなる。

それで業界として、抜け駆けは許されないことになった。

郵政大臣だったときに田中角栄が推進したメディアの統合で、新聞社とテレビが合体して「グループ企業」となったから、この構造が放送分野にもひろがって、ぜんぶがひっくるめて読者や視聴者の優先がなくなった。
そんなわけでわが国は、「報道の自由が低い」ということを国際機関がいうようになった。

あたかも、政権や政府が報道をコントロールして、取材側に自由がないと論じるのは、いまさらアリバイ作りにもならない。
むしろ、取材側が望むことを取材される政権や政府がいうので、火に油を注ぐような記事ばかりになるのである。

その証拠が、「Go To」である。
4月の第一次補正予算にあげた計画を、ただ実行しようとする役所が止まらないだけで、政権はこれを止めることができない。
要は、行政機関の行動を、行政をつかさどる内閣がコントロールできない、という状態になっているのだ。

そして、民主党政権のときの大臣経験者たちが静かなのは、どの党のだれが内閣を率いても、行政機関をコントロールできないことを経験したからである。
だからこそ、内閣首班への集中攻撃しかしないのである。詳細に踏み込むと、やぶ蛇になるのだ。

脚本と演出は、事務官たちが書いて、演じるのは政治家の役を引き受けた素人俳優たち、ということが見えてきた。
ところが、国民も演じることに慣れてきている。

効果不明なマスクを、暑い中ガマンして着けているのは、「型にはまった表面上の行動」で倶楽部活動の一員であるとしないと村八分にされる恐怖があるからである。

全体主義は、このようにしてやってくる。

憲法53条による臨時国会の召集

衆議院議長に野党4党(立憲民主、国民民主、共産、社民)の代表たちが、臨時国会の招集を求めることを文書で伝達し、議長は与党の国対委員長を呼んで、「コロナ禍での国会のあるべき姿を与党もよく考えてほしい」と要請したと報道された。

日本国憲法第53条の条文は、以下のとおり。
「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」
主語が、「内閣」であることに注意。

現在の衆議院HPによると、令和2年6月17日現在、総数465名、うち会派名「立憲民主・国民・社保・無所属フォーラム」だけで119名だから26%になって、「四分の一以上の要求がある」ことになる。共産党を加えると、28%だ。

また、報道によると、「ただ、開会時期に定めはなく、実際に開くかどうかは事実上、内閣の意向による。安倍内閣は早期召集に否定的だ」とある。

これはいったいどういうことか?

まず、どうして野党代表者たちは、衆議院議長を訪問したのか?
行くべき先は、官邸ではないのか?
本来なら総理大臣に直接訴えるところだが、すくなくても、内閣官房長官に要求すべき事項であって、「国会対策委員会」で話す内容ではない。

つぎは、報道側が書いている、「実際に開くかどうかは事実上、内閣の意向による」という一文である。
憲法の条文のどこに、こんな「解釈」ができる文字があるのか?

むしろ、「四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない」とは、「できるだけ速やかに」と読むのがふつうであろう。
「開くかどうか」ではなくて、数の要件を満たせば「開会を決定しなければならない」と「憲法」に書いてあるのである。

もちろん、野党の要求なのだから、与党とその内閣としては「やりたくない」というのはわかる。
しかし、だからこそ、憲法で「嫌でもやれ」と規定しているのではないのか?

しかも、野党議員といえども、選挙で選ばれている国会議員、すなわち国民の代表なのである。
それが、ちゃんと数の制約も満たしているのだ。

だから、臨時国会は(できるだけ速やかに)開会しなければならない。

開会後、どんな内容の議論が行われるのか?は関係ないのである。
たしかに、与党側が懸念しているように、野党がなにを目的にして開会を求めているのか?という疑問はある。
しかし、それは開会しないという理由にはならない。

憲法は、議論の内容を定めてはおらず、開会の条件を「四分の一以上」としているだけだからだ。
だから、数が満たされれば、しのごといわずに開会すればいいのだ。

そして、国民は固唾を呑んで天下国家の論戦に聞き入る、という順番になるのである。

つまり、憲法は議論の具体的内容を想定はしていないが、国民を代表する議員が国会の「四分の一以上」で要求することの意味として、国民が固唾を呑んで天下国家の論戦に聞き入るような内容の議論が用意されていることを想定しているのである。

すなわち、不毛の議論をするはずがない、ということだ。
近代民主主義国家の憲法とは、主権者たる国民からの命令書、なのだからこうなる。

それで、野党側は、どうやら「コロナ禍」や「大雨災害」を議論したいらしい。
まことに、タイムリーではないか?

巷には9月解散・総選挙のうわさまであるけれど、このタイミングで仕掛ける野党代表は、政権交代を狙うと公言しているのだから、緊張感がある議論になるにちがいない。
果たしてそれで、万が一「不毛の議論」を野党がやたっら、おおコケ、では済まされない。

どんな周到な準備があって、どんな論法で内閣を追いつめるのか?
はたまた、どんな代案をもって、国民がおもわず膝を叩くような妙案を披露するのか?
まったく、楽しみである。

それでこそ、政権交代の一撃となる。
だから、内閣・与党は、真っ向勝負しなければならないのである。
これぞ、憲法が望む国会のあるべき姿にほかならない。

しかして、嫌な予感がするのは、双方ともに、お粗末極まりないグズグズの論戦だ。
あれ?これは「いつものこと」だった。

それよりも、なによりも、米中間におけるわが国の立ち位置をはっきりさせることが必要だ。
世界大手のわが国自動車メーカーや、台湾資本になったとてわが国を代表する電機メーカーが、この期に及んで大陸に新工場をつくると表明している。

まさか、アメリカから名指しされた首相補佐官の出身母体・経産省が、あちらの国へ投資せよと命じているんじゃあるまいな?
それに、前回のアメリカ合衆国大統領選挙では、事前にヒラリー勝利を確信して、完全に読みを間違えた外務省は、今回も大丈夫なのか?

トランプ、バイデン、どちらが勝とうがわが国外交はちゃんと対応します、なんて寝言をいいだしかねない。

そんなわけで、野党のみなさんには、頑張ってほしい。

「統計」のセンスがないと欺される

「統計学」と聞いたら、なんだか難しそうで面倒に思える。
でも、世の中にあふれている「数字」の多くが、統計処理して出てきたものを「装っている」。
「装っている」のだから、本当はまちがっているかもしれない。

小学校でならう、「平均」が統計のはじまりである。
テストの平均点の出し方がわからないと困るし、理科でならう「開花時期」だって、年毎の平均から予想する。
そのために、グラフを描いて数字を視覚化する工夫もならう。

だから、難しく「統計処理」といったところで、中身は「平均の計算」のことだったりする。

日常生活の場面でも、何気なく「平均」を使っている。
今日は大根が安いとか、豚肉が安いとか、あるいは、電気代が高くなってきたとか。
何に対して安い・高いの判断をしているかといえば、「だいたいこのくらいの値段」という経験からの「平均値」を基準にしているのである。

生活の数字にうといひと、たとえば、ふだん自炊をしないでいるひとが、たまにスーパーに行くと、安いか高いかの判断がつかないことがある。
これは、買い物経験からの「平均値」がわからないことが原因だ。
それで、やけに高い買い物になって、外食の方が楽で安いと確信したりするのである。

主婦や主夫から笑われそうだが、生涯独身者が増加すると、あんがいこうした「外食派」が多数になる世の中になるだろう。
すると、「基準」というものの重要性がみえてくる。
自炊があたりまえのひとの基準と、そうでないひとの基準は、ぜんぜんちがう。

これが顕著になると、「価値観」ということになって、そのちがいは「相容れないレベル」にまで発展することがある。
そして、「個の尊重」と結合すれば、あらゆる分野での「多様化」が発生し、とうとう収拾がつかなくなって「発散」する。

いまは、価値の多様化をこえて、価値発散の時代といわれる理由である。

なんだか、「超新星爆発」に似ているのである。
水素の核融合によって何十億年も輝いていた星が燃え尽きるとき、自分の中心に向かって崩壊し、自重に耐えられなくなって大爆発を起こす。残った星屑は、とてつもなく小さいのに、とてつもなく重いか、元の星が巨大ならブラックホールになる。

いわば、この星屑になった状態が「オタク」であるし、SNSで「いいね」を大量にかせぐなら、それはブラックホールに例えられるのではないか?
「いいね」の集まりとは、「他人の欲望を欲望する」からだと東浩紀が『観光客の哲学』で解説している。それが、わたしには「ブラックホール的現象」に思えるのだ。

さてそれで、「基準」に話をもどす。
平均を出すばあいでも、大根なら大根の、豚肉なら豚肉の値段を基準にしないとおかしなことになる。

今日の大根は安いとか、高いと思うのは、大根の購買経験からいうのであって、豚肉の値段から大根のことをかんがえることはない。
ただし、豚バラの大根煮がどうしても食べたいとか、今夜のおかずはブリ大根しかないと想ったら別である。

だから、集めてくる元の数字が、おなじルールによっていないと、平均ということをかんがえるにもまちがってしまうのだ。
ふつうなら、このようなまちがいをするひとはいない。
けれども、なんだか世の中には怪しい数字がたくさんあって、それが「もっともらしい」形で並んでいるから欺されるのだ。

たとえば、しつこいが「感染者」と「PCR検査陽性者」が、いつの間にかに「イコール」の関係になってしまっている。
「感染とはなにか?」、「この検査の陽性とはなにか?」という「定義」を、曖昧なまま放置したから、ヘンテコな基準になってしまった。

このヘンテコな基準をもとに、飲食業とかに行政があれこれ命じたり、そうしたことを一般人が正当だと信じ込まされてしまったから、どうにもこうにもならなくなってしまって、「こっくりさん」が仕切る社会になった。

レジ袋の有料化が地球環境のためという理由も、「プラスチックは悪だ」という粗っぽくてヘンテコな基準があるために世の中にまかり通っている。
世の中のプラスチックはレジ袋だけではないし、プラスチック全体のわずかな部分でしかないのがレジ袋なのだから、論理破綻もはなはだしいのに、罰則付きなのである。

これらは21世紀の「生類憐みの令」だから、未来の人々からわれわれは「令和時代の愚か者」との烙印を押されること確実である。

すると、あろうことか気象庁が、昨日7月31日より、大雨特別警報の「基準を変える」というから要注意である。
つまり、一昨日までとはちがう基準となるのだから、おなじ「大雨特別警報」でも意味がちがう。

変える理由は一見もっともらしいけれども、ほとんど国民をバカにしている。
発端は、2013年の伊豆大島の大雨で、死者・行方不明者が多数でたのに、「大雨特別警報」を出さなかったことにあるという。

こんな警報が出ようが出まいが、そこにいるひとならどんな状態の雨がどのくらいの時間降っているかぐらいじぶんでわかる。
むしろ、そんな状況で避難しろといわれても、かえって危ないとかんがえるのが人間だし、避難させる側だって躊躇する。

「予報」でなんとかしろ、というのが筋であるし、逃げ方の研究と逃げる先の確保がよほど重要である。

基準を変える理由は、観測機器に予算を大枚つかった後の責任回避だけだとおもわれる。