「首相公選制」とは、首相を直接選挙で選ぶ、という発想で、このたび「半国葬」となった、中曽根康弘氏が最初に提案したけど、当時も誰からも相手にされず、いまに至っている。
ようは、わが国を、「大統領制」にしたい、ということだった。
故人に鞭打つようになるのは本意ではないけれど、中曽根氏の胡散臭さは、弱小派閥の長が総裁になるためのプロセスにもあった。
ただ、このひとのラッキーは、「行政改革」がブームになりはじめた中で、当時の行政管理庁長官のポストが与えられたことによる。
それで、当時は発言力があった経団連から、しかも人格高邁な土光敏男氏を引きずり出すことに成功したことが、その後の「首相」への最短ルートをつくりだした。
「万事は人事」の典型例である。
このときの財界は、いまとは違う、経済4団体だった。
経団連と日経連とがあって、日本商工会議所と経済同友会であわせて4団体となる。
2002年に、経団連と日経連が合併したから、3団体になった。その後、2012年に楽天の三木谷氏が発起人となって、「新経済連盟」を発足させたから、あえて本稿では、「4団体」といいたい。
新経済連盟は、既存の経済団体の「古さ」に対する「アンチ」からスタートしているところが特徴である。
なお、経団連は、大正11年に発足の「日本経済聯盟会」が母体で、国家総動員法の成立の後、「重要産業統制団体懇談会」となった。
また、合併によって名称が消えた、「日経連」は、財界の「労務部」といわれるほどに、労働組合と対峙し、春闘における財界側の交渉相手でもあった。
いわば、経団連が「力業」をもってするのに対して、「頭脳集団」であったのだ。
だから、わが国の労働組合をかたるとき、一方の日経連の存在は無視できない。
むしろ、わたしは、日経連が経団連に合併されたのは、労働組合にとっても、わが国にはよからぬことになったとかんがえている。
それはさておき、中曽根氏の胡散臭さは、やっぱりその経歴にある。
海軍主計少佐で敗戦を迎えたとは、その「思想背景」を疑うからである。
すなわち、海軍ならずも陸軍もしかりの、軍組織内における共産主義の蔓延を指す。
教科書に記載されていても、昭和史は授業におけるタブーになっているから、三学期になってもここはやらない。
「教科書検定」という世界にまれに見る「因習」で、大騒ぎになるのは、授業でやらない範囲の記述ばかりとなっている。
陸軍参謀本部中佐だった瀬島龍三氏は、中曽根内閣の首相顧問として、ふたたび「参謀」を勤めた人物であり、「評伝」として、『不毛地帯』の主人公と信じられてきている。
これは、『忠臣蔵』と同じく、「講談ばなし」なので、主人公を瀬島氏だと信じてはいけない。
巧妙に、史実と作りばなしを混ぜているから、ようは「作りばなし」の「エンタメ小説」なのである。
そんなわけで、この二人の元「少佐」と「中佐」は、「海軍」と「陸軍」ではあるけれど、怪しいオーラが輝いている。
中曽根氏は、常にマスコミから「タカ派」といわれていたことも、宣伝工作(プロパガンダ)なのだと思うと、妙に辻褄があうのである。
たまたま、世界で「大統領」が揺れている。
辞任に追いこまれるひとや、その座にしがみ付いているばかりに長期デモが止まない国もある。
日本に大統領制がなじまないのは、国民に民主主義の精神がないからであるけれど、そんなことを熟知しているはずの中曽根氏が、どうして「大統領制」をいいだしたのか?不思議である。
言動は「右翼」とされたけど、やっぱり「じつは、、、」の部類におもえてならない。
世界を仕切るアメリカ合衆国大統領選挙では、バイデン親子の所業に関する、驚愕の電子メールが出てきたし、前回の選挙にあたって、オバマ大統領、クリントン国務長官の政権による、トランプ氏をおとしめるべく捏造した「ロシア疑惑」を指示するメールも公開されたので、大スキャンダルの曝露がある。
こんなことがわが国の選挙で起きたなら、マスコミがどんな反応を示すのか?
アメリカの大手と同様に、都合がよければ大キャンペーンを張り、都合が悪ければ報道しない自由を選択して、ほんとうに報道しないだろう。
すなわち、アメリカでさえ、ということをかんがえると、日本で大統領選挙をやる素地がないのは、マスコミ報道の公平・公正がぜんぜん期待できないからである。
ただし、わが国と違って、議会がすでに調査を開始している。この点、「さすが」といえるのだ。
それに、アメリカのメディアは立ち位置を明確にして示していることにある。
「我が社の論説は民主党支持です」とか、「共和党支持です」と書くので、読者をミスリードすることすら、一種の「正直さ」を残している。
また、読者だって旗幟を鮮明にするのは当然なので、自分の「見たい、聞きたい」記事を買いたがるのは、どこの国民もおなじだ。
ようは、「売文」が「エンタメ文化」になっている。
わが国は、「売文」が「啓蒙」の上から目線で、これを有難く「天の声」とするので、話しにならないのである。