日本で大統領選挙はなじまない

「首相公選制」とは、首相を直接選挙で選ぶ、という発想で、このたび「半国葬」となった、中曽根康弘氏が最初に提案したけど、当時も誰からも相手にされず、いまに至っている。
ようは、わが国を、「大統領制」にしたい、ということだった。

故人に鞭打つようになるのは本意ではないけれど、中曽根氏の胡散臭さは、弱小派閥の長が総裁になるためのプロセスにもあった。
ただ、このひとのラッキーは、「行政改革」がブームになりはじめた中で、当時の行政管理庁長官のポストが与えられたことによる。

それで、当時は発言力があった経団連から、しかも人格高邁な土光敏男氏を引きずり出すことに成功したことが、その後の「首相」への最短ルートをつくりだした。

「万事は人事」の典型例である。

このときの財界は、いまとは違う、経済4団体だった。
経団連と日経連とがあって、日本商工会議所と経済同友会であわせて4団体となる。
2002年に、経団連と日経連が合併したから、3団体になった。その後、2012年に楽天の三木谷氏が発起人となって、「新経済連盟」を発足させたから、あえて本稿では、「4団体」といいたい。

新経済連盟は、既存の経済団体の「古さ」に対する「アンチ」からスタートしているところが特徴である。
なお、経団連は、大正11年に発足の「日本経済聯盟会」が母体で、国家総動員法の成立の後、「重要産業統制団体懇談会」となった。

また、合併によって名称が消えた、「日経連」は、財界の「労務部」といわれるほどに、労働組合と対峙し、春闘における財界側の交渉相手でもあった。
いわば、経団連が「力業」をもってするのに対して、「頭脳集団」であったのだ。

だから、わが国の労働組合をかたるとき、一方の日経連の存在は無視できない。
むしろ、わたしは、日経連が経団連に合併されたのは、労働組合にとっても、わが国にはよからぬことになったとかんがえている。

それはさておき、中曽根氏の胡散臭さは、やっぱりその経歴にある。
海軍主計少佐で敗戦を迎えたとは、その「思想背景」を疑うからである。
すなわち、海軍ならずも陸軍もしかりの、軍組織内における共産主義の蔓延を指す。

教科書に記載されていても、昭和史は授業におけるタブーになっているから、三学期になってもここはやらない。
「教科書検定」という世界にまれに見る「因習」で、大騒ぎになるのは、授業でやらない範囲の記述ばかりとなっている。

陸軍参謀本部中佐だった瀬島龍三氏は、中曽根内閣の首相顧問として、ふたたび「参謀」を勤めた人物であり、「評伝」として、『不毛地帯』の主人公と信じられてきている。

    

これは、『忠臣蔵』と同じく、「講談ばなし」なので、主人公を瀬島氏だと信じてはいけない。
巧妙に、史実と作りばなしを混ぜているから、ようは「作りばなし」の「エンタメ小説」なのである。

そんなわけで、この二人の元「少佐」と「中佐」は、「海軍」と「陸軍」ではあるけれど、怪しいオーラが輝いている。
中曽根氏は、常にマスコミから「タカ派」といわれていたことも、宣伝工作(プロパガンダ)なのだと思うと、妙に辻褄があうのである。

たまたま、世界で「大統領」が揺れている。
辞任に追いこまれるひとや、その座にしがみ付いているばかりに長期デモが止まない国もある。

日本に大統領制がなじまないのは、国民に民主主義の精神がないからであるけれど、そんなことを熟知しているはずの中曽根氏が、どうして「大統領制」をいいだしたのか?不思議である。
言動は「右翼」とされたけど、やっぱり「じつは、、、」の部類におもえてならない。

世界を仕切るアメリカ合衆国大統領選挙では、バイデン親子の所業に関する、驚愕の電子メールが出てきたし、前回の選挙にあたって、オバマ大統領、クリントン国務長官の政権による、トランプ氏をおとしめるべく捏造した「ロシア疑惑」を指示するメールも公開されたので、大スキャンダルの曝露がある。

こんなことがわが国の選挙で起きたなら、マスコミがどんな反応を示すのか?
アメリカの大手と同様に、都合がよければ大キャンペーンを張り、都合が悪ければ報道しない自由を選択して、ほんとうに報道しないだろう。

すなわち、アメリカでさえ、ということをかんがえると、日本で大統領選挙をやる素地がないのは、マスコミ報道の公平・公正がぜんぜん期待できないからである。
ただし、わが国と違って、議会がすでに調査を開始している。この点、「さすが」といえるのだ。

それに、アメリカのメディアは立ち位置を明確にして示していることにある。
「我が社の論説は民主党支持です」とか、「共和党支持です」と書くので、読者をミスリードすることすら、一種の「正直さ」を残している。

また、読者だって旗幟を鮮明にするのは当然なので、自分の「見たい、聞きたい」記事を買いたがるのは、どこの国民もおなじだ。
ようは、「売文」が「エンタメ文化」になっている。

わが国は、「売文」が「啓蒙」の上から目線で、これを有難く「天の声」とするので、話しにならないのである。

フードファディズムからの異常行動

フードファディズム(Food Faddism)とは、食べ物や栄養が健康に及ぼす影響を過大に評価する考えのことだ。
これが嵩じると、「食品の善し悪しを単純に決めつけ」て、これらを「過度に食べ分けるような行為を誘発」してしまう。

つまり、「過大」と「単純」と「過度」という三点セットを発想の元にさせて、人間行動をある一定の方向へ「誘発」するのだから、本人は「間違いはない」と思い込んでいても、他人からすると、あるいは、「論理的に考えると」、大変おかしなことをしでかしているように見えるのである。

そもそも、「◯◯を食べる(飲む)と、どこそこの細胞やら臓器が活性化して、健康になる」というたぐいの情報のほとんどが、「フードファディズム」そのものを「誘発」しているのである。
しかも、これが、あんがいと「専門的な用語」でオブラートされている。

物質の成り立ちからはじまって、様々な「結合」や「反応」により、あたらしい物質がつくられるのを、われわれは中学の「理科」や、高校の「化学」で学ぶことになっている。
高校全入といわれて久しいけれど、だからといって、フードファディズムが流行るのだから、知識が「身についている」とはいえないのである。

逆にいえば、知っているつもり、がかえって助長させているのだろう。
食べものの「消化」とは、化学反応によって行われるが、それが生体内でどうなっているのか?は、とうてい全部解明されてなどしていない。

もうすぐ出版から20年にもなる、高橋久仁子『食べもの神話の落とし穴』(ブルーバックス、2003年)という本には、わかりやすい説明があふれている。
こういう本を書くひとが「専門家」なのである。

若いひとには知る由もないけど、ずいぶん前からフードファディズムの事象は発生している。
上記の本では、以下の3種類があるとされている。
まずは、第1種が、
1.健康効果をうたう食品の爆発的流行
 「紅茶きのこ」(1977年頃)
 「酢大豆」(1988年頃)
 「野菜スープ」(1994年頃)
 「ココア」(1996年)
 「低インスリンダイエット」(2002年頃) などである。

なんだか懐かしいのが、紅茶きのこである。
わが家でも、ガラス瓶に自家製のを作っていて、おとなたちがこれを有り難がって飲んでいた。
子どもには、実に奇妙な光景であった。

昼の「ワイドショー」で毎日、別々の食品を「特集」していて、店からなくなったのが「ココア」とか「黒砂糖」だった。
気の利いた個人商店主は、朝刊でテレビ欄を確認して、大量発注していたものだけど、そのうち「記載」がなくなったので、いちばん熱心に番組を観ていたのは個人商店主だった。

流行ったのが、10年毎からだんだん短くなってきている、という特徴も、「情報化」といえるのだろう。
ただし、廃れるのもはやい。
「次」に飛びつくからである。

たとえば、「プロテイン」。
日本語にすればただの「タンパク質」のことである。
これが、次の2種類目や3種類目にも関係する。

2.いわゆる健康食品(栄養補助食品)
 ほかの努力はいっさい不要で、「それ」を食べさえすれば、「元気になる」、「若返る」、「病気が治る」。

今日もおおくの「通販番組」で紹介されているし、ネット上での広告も飛び交っている「現役」そのものの「商品」である。
消費者庁が管轄する、「特定保健用食品(トクホ)」だって、この仲間に入っているから、50歩100歩なのである。

3.食品に対する不安の扇動
 食生活を全体としてとらえることなく、特定の食品を身体に悪いと決めつけ、非難攻撃し排斥する一方で、ある食品は身体によいとして推薦したり万能薬視したりすること。

特に3をこの著者は、「不安扇動ビジネス」、「不安便乗ビジネス」を呼んでいる。

なんだか、いまだに終息しない「コロナ」に似ている。
コロナ感染者(といっても「無症状」の検査陽性者)の排斥や、ペラペラのマスクが感染予防に万能だとして、マスク着用の事実上の「義務化」といった愚策が、民間でおこなわれている。

都会より、地方で厳格なのだから、これも「不安の扇動」による効果だといわざるをえないものの、むしろ、「コロナの時代」とは、とっくにフードファディズムが「素地」を社会に作り上げていたのではないかとおもう。

「永遠の生命」を求めた逸話は、世界の歴史に刻まれている。
たとえば、古代バビロニアのくさび型文字に残された、『ギルガメシュ叙事詩』や、エジプトのミイラ、それに、秦の始皇帝の命を受け、日本に不老不死の仙薬を探しに来た徐福のはなしなど。

しかし、これらの例は、英雄や特定の身分にあった為政者個人の願望をかなえるための物語であって、こうしたはなしを一般人は「愚かなこと」として嗤っていたのである。
なぜなら、この世に生を受けたものは、一人残らずいつか死を迎え、誰も免れ得ない真実だと知っていたからだ。

ところが、20世紀の後半から、人類史でまれに見る「中産階級の繁栄」を経験したわが国では、ほとんどの国民が「永遠の生命」を希求するという、人類史のはじめてが社会現象になったのである。
かつての戦争犠牲者を、「精霊」といわずに「犬死に」といえる根拠であろう。

それは、個々人の「精神」を尊ぶ個人主義では到底なくて、「物質的」にただ生きのびたいという「犬も考えぬ」ことを希求する、貧困なる精神からやってくるのである。
経済的に貧困であったかつての日本人は、しかし思想では、尊かったのである。

人間は、機械のように食べものを「消化」しているのではない。
著者は、フードファディズムに対抗すべく、「さしたる根拠もないまま」に続けて「多様な食品の摂取」を勧めてきたことの「裏付け作業」が着々と進行している、という。

たまには、根拠のないことが正しいこともある。

風評被害の原因

いわゆる、「デマ」のことである。
あたかも「真実」のように伝わって、ひとびとを間違った方向へ誘導し、結果的におおきな被害をもたらす。

1923年の関東大震災では、「朝鮮人が攻めてくる」とか、「井戸に毒をいれた」とか、「おさまらない火災は朝鮮人が放火しているからだ」といって、何人だかわからないひとたちがリンチ(私的制裁)され、命を落とした。

ほとんど100年前のことだけど、いまだってふつうに「デマ」は跋扈している。
むかしは「口コミ」と「ビラ」だったのが、いまは「SNS」という便利さが、安易なデマを大量生産している。

学校などの小さなコミュニティなどでの、特定個人を狙った誹謗中傷や、感染症の「陽性反応」というだけで責められ、自殺や転居を余儀なくされるのも、「デマ」による一種の被害者である。

これが通用する社会は、臆病で野蛮である。

すると、現代社会はあんがいと野蛮な未熟社会なのである。
だから、かっこよくメディアで「成熟社会」と発言するひとは、「デマ」のなかの聞き心地がいい「美辞麗句」を流している張本人のひとりだと特定できるのである。

おそらく、こういうひとが発する言葉は、空疎で中身がないに違いない。
視聴者は、心して聞かないと欺されるのである。

こうしたデマによる風評被害は、真実との闘いのなかで生まれる。
しかし、おおくの場合、真実が意図的に隠されていたりすることからの、不安がつくりだす。
だから、それらしくて皆が欺されるのである。

政府がつくったデマの最たるものは、「大本営発表」の「戦果」であった。
ほんとうは大敗しているのに、あたかもわが方が勝利したごとく。
ありもしない敵との会合における戦闘の、ありもしない戦果。
勝っているはずなのに、どんどん厳しくなる生活物資の困窮があるのに、それでも、勝っていると信じ込ませる情報統制。

負けたら負けたで、今度は占領軍による情報統制がはじまって、なぜかそのまま現在に至っている。
そのコンセプトは、「正義」は占領軍にあり、に統合(インテグラル)されているから「高度」なのだ。

その都度都度に対応した嘘を重ねた「大本営発表」とは、規模も精密さも段違いである。
カジノを「博打場」としかかんがえないのは、大本営的発想の継承である。
「IR」の「I」こそ、インテグラルなのである。

つまり、われわれ日本人は、インテグラルな情報操作のなかで70年以上生きてきた。
そう考えれば、『オバQ』の「ドロンパ」も、プロレスも、わずかな空間で許された、アメリカに対する「ガス抜き」であった。

インテグラルな戦略のマネジメントができるアメリカと、相変わらず場あたり的なわが国では、もはや勝負にならない。
その理由は、上記のとおり、インテグラルな戦略策定能力の欠如と、インテグラルな戦略実行(マネジメント)能力の欠如というふたつの能力とも、彼我の差が大きすぎるからである。

これは、政府が民間能力に劣るアメリカ政府(軍を含む)との比較だから、政府が民間よりはるかに高い能力のはずのわが国にすれば、どうにもならない力量の差として、民間企業の経営力に現れる。

一社に数人の優れた経営者なら、日本企業にだっている。
しかし、圧倒的な彼我の差は、組織全体のなかにいる、ということでの勝負なのだ。
いわば、戦略策定の「頭脳」と、実行のための「筋肉」と「神経系統」の機能が、違いすぎるということだ。

そんなわけで、偏った頭脳しかないわが国政府は、福島での放射能汚染水の海洋投棄をはじめるという。
例によって、政府は、その「安全性」についての「デマ」も一緒に垂れ流すに違いない。

政府がいうと想定される理由は次の二点だ。
⑴ 廃棄するのはトリチウム汚染水だけだ。
⑵ 低レベルなので環境に影響しない。
これらは、「デマ」である。

⑴は、トリチウム「だけ」ではないはずだ。
 だから、原液の成分詳細をいわない。
⑵は、どうして「低レベル」なのか?
 原液のレベルをいわない。つまり、「水で薄める」からではないのか?
 それに、トリチウムの危険性=安全性について、どこまでわかっているのか?を説明しない。

わかっているのは、「風評被害対策」という補助金を出す、ということなのだ。
かつての、原子力の街を骨抜きにした「補助金」という麻薬で、再び現地のひとたちを麻痺させようというのは、あまりにもワンパターンで、ぜんぜんインテグラルでない。

なんのことはない。
風評被害をつくっている犯人は、「大本営発表」しかしない、政府なのである。

高濃度廃棄物は、濃度を薄めて海に棄ててはならないというのが、規制法の精神である。
どんなに薄めようが、結局のところ原液全部を海に棄てたなら、同じ話である。子どもにもわかることだ。

国内の工場は、この規制法を遵守している。
どうして、放射能汚染水の海洋投棄だと許すのか?
根拠法はなにか?
民間工場でモラル・ハザードが起きないとする理由はなにか?

政府が「法治」をやめようとしている。
その理由は、タンクが一杯になっちゃったからしょーがあんめえ、だろう。
この荒っぽさで、「安全性が確認された原子力発電」と臆面もなく紙に書けるのである。

わかっちゃいるけどやめられない、では困るのである。

日本は「金融大国」になれない

他人の悲劇的な状況を横目に、そのひとたちが作り上げた繁栄の根拠となる業務を横取りしようとするのは、かなり「恥ずかしいこと」である。
むかしなら、「切磋琢磨」を宗として互いに研鑽しようという気概があったけど、バブルに浮かれて崩壊して以来、相手の敵ではなくなってしまった凋落を、ここぞと取り返そうとする態度は尊敬に値しないどころではない。

まさに、卑しい、のである。

しかし、その卑しさゆえに、相手の強みの本質すら理解していないのではないかと疑わざるをえない。
その本質とは、「自由」のことである。
もちろん、「香港」の成功は、華僑独特の「拝金主義」があったからでもない。

裏返せば、バブルの失敗こそに、日本人の「拝金主義」があったのだ。
その反省もなく、2007年のわが国は、9月のリーマンショックまで、「金融バブル」を経験していた。
そして、いまでも、年収の多寡で人生の「勝ち負け」を語る、「拝金主義」が横行している。まったく反省しないからである。

こうした、「拝金主義」にまみれたひとたちが、その罪を払拭するためにいう、「ポスト資本主義」や「新自由主義批判」こそ、安全地帯からの「偽善」なのである。
これは、アメリカでもっと盛んだ。

それが、東西海岸地域における、圧倒的な民主党支持である。
かれらこそ、根っからの「拝金主義」なのである。
じぶんたちが、いいひとで「ありたい」のではなく、いいひとに「見せかけたい」のだ。

そうやって、拝金主義がつくる歪んだ資本主義からの恩恵を、ぜったいに手放したくないし、じっさいに手放さない。
拝金主義だから、富の独り占めをしたいのである。
だから、本来的な資本主義である、「新自由主義」を徹底的に批判する。
新自由主義を、「歪んだ資本主義」といって歪めるのである。

つまり、「用語」の意味を勝手に都合よく「変換」してしまう。
これも、一種の「ルール化」なのだ。
拝金主義の多数派は、言葉の意味まで変えるのである。

もちろん、じぶんたちが儲かる仕組みにどんどん変えるのは、彼らがかかわるスポーツも同じだ。
勝てば人気がでて儲かるのなら、勝てるようなルールにする。
こうして、国際競技だってつくられている。

「スポーツ庁」の無意味とはこれであって、さらに国家が国民を縛るのは、まったく社会主義国同然なのだ。

日本が金融大国になる。
どこから、こんな発想がやってくるのか?
『待ちぼうけ』だろう。

それっぽい「金融業」があれば、ある日獲物がやってきて、たっぷり儲けさせてくれる。
そんな「カモねぎ」を待つこと20年。
いまだに現れないどころか、「金融業」が疲弊・困窮してきてしまった。

東京がダメなら、関西や九州で。
日本政府の発想の安易さは、スポーツ庁と同じでとめどをしらない。
国内で優秀と評価されている大学を出て、一度も社会で稼いだことがない役人が、「金融業界」に「店を開けさせる」けど、儲からないのは民間人がバカだと思っているからである。

業界人に「箸の上げ下げ」まで指導(じつは命令)するのは、客前に立ったことのない役人が臆面もなくやっている。
その役人を上手に出しぬく業界人が、視聴者の溜飲を下げるのはどういうことか?を、おなじ視聴者の役人は気にもとめない。

だって、それがお仕事なんだもん。

金融には二種類の機能がある。
・通貨の安定
・資金の融通

通貨の安定は、中央銀行たる日本銀行の業務である。
バブル後にできた、日銀を政府から独立させた「新日銀法」は、ほんらいバブルの反省の意味が込められていた。

これを、安倍内閣は、「旧法に戻す」と脅して、政府に従順させる画策と圧力を日銀にかけた。
もちろん、新日銀法は変えていない。なので、「正式に」政府には、「通貨の安定」を担当する部署も役人もいないことになっている。

いわゆる、「アジアの金融センター」とは、資金の融通の機能をいう。
1986年、イギリスのサッチャー首相が打ち出して、これを実行させたのが、「金融ビッグバン」だった。

ロンドンのシティがこれで復活したとはいうけど、「ウィンブルドン現象」も発生した。イギリス人のプレーヤーは誰もいないで、「会場」だけが活況だからである。
それでもよし、とするのがイギリス人だ。そうして、政府の規制を撤廃した。

厄介なのは、身も蓋も、中身もない「別物」に、「日本版」という名称を用いて、やっとこさ10年後に「日本版ビッグバン」をやって、それっぽく「見せかけた」ことだ。金融庁の規制と権限はしっかり残した。
「ガラパゴス化」は、携帯電話のことだけではない。

政府主導によって、どちら様の業界にも都合がいいように「調整」する。
だから、「自由化」のはずが、「不自由」になるのである。
かんたんにいえば、「妥協の産物」だ。
もちろん、自由化の「範囲」も狭くて、お国の都合である「税」を動かさないし、外国人の査証も出ない。

結局のところ、「出島」をつくるしかないのだけれど、21世紀につくるべきが「出島」となれば、いかに「鎖国」しているのかが国民にわかってしまう。
これが、「痛い」のだ。

さらに、国際金融のルールを日本人は自分から作れない。
政府がしゃしゃり出るし、なにせ、資本主義はいけないことだと「純粋に」思っているから、大陸の中国人にも劣るのである。

世界にない文系・理系の区別をやめて、「技術大国」にしないといけない。
でもやっぱり、この分野も政府が仕切っている絶望があるのである。

アイスを無断で食べたから

生徒に大怪我をさせてしまったら、「教育的指導」とはいえなくなる。
理由はさておいて、この一点で「傷害事件」になってしまうのは、むかしだって同じだ。

逮捕されたのは柔道部の顧問で、50歳の教諭というから、ベテランである。
相手は、中学1年生の生徒2人。

この事件のどんなことが「事件」なのか?を書いておく。

小学校から「ゆとり教育」がはじまるのが1980年だ。
すると、1年生は1973年生まれとなるから、初代ゆとり世代は、いま53歳になっている。
すると、この教諭は、初期ゆとり世代になることは、ちょっとだけ覚えておきたい。

「キレる」という現象は、べつだん珍しくもなくむかしからあるけれど、往年のいい方は「堪忍袋の緒が切れる」であった。
殿様がやって大事件になったのは、『忠臣蔵』の浅野内匠頭である。

しかしながら、多くの日本人がしっているのは「講談ばなし」の方だから、史実としての解釈には諸説あるし、そもそも内匠頭がなぜに切りつけたのか?は謎のままである。
ときの幕府が、本人から詳細の事情聴取もせずに切腹させてしまった。
それで、幕府陰謀説まで登場する。

けれども、まるで講談ばなしが「史実のようになっている」のは、講談ばなしで敵役の吉良上野介からの「執拗なイジメ」に耐えて、耐えて、、、とうとう「堪忍袋の緒が切れた」という「理由の設定」がリアルだからである。これで日本人のほとんどが納得してしまい、もはやそもそも「イジメの有無」すら誰も顧みないことになっている。

一方で、吉良家の領地では、いまも上野介が「名君」とされている事実は、知識としてしっていても、なにせ「講談ばなし」に流されるのが多数なので、いまのコロナのように、どうにもならないことになっている。
かつての娯楽の花である講談と、いまは「ニュース」がおなじだ。

げにおそろしきは、「世論形成」なのである。

そういうわけで、日本人の行動は「二択」になっていて、「耐えて」「耐えて」、、、「耐え抜く場合」と、「堪忍袋の緒が切れる場合」とがあるけれど、その前に「文句をいう=意思表示をする」という選択をしない。

だから、相手はさっきまでニヤニヤしていた奴に突然殴りかかられることになる。
どうしてニヤニヤしているのかも不明だから、腹黒い欧米列強は理解できない「不思議の国」と日本を表現したのである。

そういえば、言語の構成もちがう。
あちらの言語には、かならず「主語+動詞」からはじまるルールがある。
自分が主語になるのであれば、かならず「I」をいうのだ。
「かならず」だから、省略しない。

しかも、自分を指す言葉が、男も女も「I」しかない。
これを、日本人は「言葉の貧弱」とかんがえるのだ。
もっといえば、人間は言語なくして「論理の構成」ができない。
ひとは論理を言語(ふつう母国語)でかんがえるしかないからである。

だから、ことばの違いは、論理=かんがえ方の違いを生みだす、あんがい深刻なことなのである。
これを一般化して、「文化の違い」ともいうのは、日常生活からすべてが違うといいたいからである。

日本が開国して、欧米化を目指すことになったのは、放置すれば欧米列強の餌食になって、植民地にされることを防ぐため、とふつういわれている。
でも、その前に江戸幕府が鎖国したのも、放置すれば欧米列強の餌食になって、植民地にされることを防ぐためだったから、なんだかおかしい。

種子島に伝来した「鉄砲」も、あっという間に国産化して、しかも、あっという間に世界最多の保有国になって、正確な射法の訓練も十分していた。
もちろん、弾どころか火薬だって国産化したから、安心して鎖国ができたのだ。

島国が、スイスのように「ハリネズミ」のような防御を完成していたのである。
開国の理由は、科学技術の習得にある。
いまの「千人計画」のように、外国人技術者を厚遇で招聘したのだ。

こうやって、「欧米化」を目指したら、「欧米」になってしまった。

戦後さかんにいわれた、「日本語の乱れ」とは、突きつめれば、「論理の乱れ」なのである。
つまり、伝統的な日本人の発想とは違う、日本語を母国語にしているはずなのに欧米の発想をする、という変化の「固定化=定着」がはじまっているのである。

さてそれで、被害者の子どもたちは、なぜ無断でアイスを食べたのか?
あるいは、加害者の教諭が、そのアイスに込めていた「意味」はなにか?

ということをかんがえると、「お預け」というコマンドが効かない訓練不足の犬に似ているかもしれないこと。
つまり、「アイスを食べたい」という自己の欲望が理性を上回った状態を、「通常」とする感覚がみられること。

これこそが、ジャン・ジャック・ルソーのいう「本来の人間」なのだ。

一方で、なんらかの「ご褒美」として用意したかもしれない、「アイス」だから、みんなで食べる(共食=同じ釜の飯)ことの思いにかられて、その裏切り行為に逆上したか、はたまた、「堪忍袋の緒が切れた」なら、相手の「通常」によるふだんからの「波状的」なストレスが、教諭の自己抑制不能になる怒りを誘発したのかもしれない。

柔道の技をどんなふうにかけるとどうなるかをしらないはずがない、という常識が壊れたのは、日本人らしくもあり、らしくもない。
おそらく、アイスを無断で食べた方には、なんら悪びれた様子もなかっただろうから、こちらは日本人らしくない。

「新旧」日本人の分裂が起きているとは、かんがえすぎか?

他人のおでこに電話番号をメモする神経

このブログでは、犬の話をたまにしている。
万年単位で人間と共存している、この動物の不思議があるからである。

犬の脳科学や心理学が発達してきてはいるけれど、人間のそれと同様に、全部がわかったということではない。
それでも、ある程度解明されてきたので、犬型ロボットが商品になった。

けれども、警察犬や猟犬のロボットができないのは、聴覚や嗅覚のセンサー技術が足りないだけでなく、運動能力とそれを支える小型バッテリーがないからだろう。
だから、実用にならない。

とはいえ、犬の本質は、その心理にある。
飼い主の心理と自分の心理とを同調させるという能力は、説明しづらい。
それで、カリスマといわれるドッグトレーナーは、「エネルギーの感知」といって説明するから、なんだか神秘的なのだ。

自分の心理だけを優先させるように育った犬とは、野犬のことである。
保護された野犬を引き取って、人間に奉仕する犬にするには、自分の心理よりも飼い主の心理を優先させて、自分を同調させる訓練がいる。
これが、「けっこう難しい」とプロも認めることである。

さらに、犬には群れをつくる本能があって、そこでの順位を確定させる行動をとる。
だから、飼い主の心理を優先させて自分の心理を同調させる犬がボスの群れに入れると、犬が犬に教育をはじめる。

そんなわけで、人間に一度も頭を打たれたことがなく育った犬は、人間が頭の上から叩く素振りをしても無反応である。また、無防備にみえる。
その逆は、クビをすくめたり、下手をすると逆襲されて噛みつかれる。
これは、防衛本能からの行動だ。

さて、人間の話題である。
ヨーロッパで記録的ベストセラーになったという、「哲学小説」に、『リスボンへの夜行列車』がある。
これは、映画『リスボンに誘われて』(2015年)の原作である。

 

物語のはじまりに、主人公と不思議な女性の出会いがある。
ここはスイス連邦の首都ベルン。
国立歴史博物館は、アーレ川の「ほとり」にあるけど、渓谷といっていいほど川は下に流れている。

主人公が前方にある博物館を眺めて橋を渡るときに、この女性が手紙を読んでいて、それを丸めて放り投げた。
すると、この橋とは「キルフェンフェルト橋」のことだ。
なんだか、35年前の一人旅が記憶に蘇る。

土砂降りの雨の中、主人公はこのひとが飛び込むとみて助けようとする。
手にした傘は、突風で川に消え、上から覗いてみても「あの黒い点は自分の傘なのか?」というほどに橋は高い位置にある。
いまは、欄干の上にもネットが張られ、おいそれと物すら投げられないようだ。

ちなみに、蛇行のためにベルン市を二度横切るアーレ川は、氷河を起点にさいごはライン川に合流する。標高差は1,565m。
また、ベルンも小さな街で、徒歩で30分もすれば横断できるから、およそ日本の大都市とは様相がちがう。

ほうとうにここが、首都なのか?
じつは、アーレ川を天然の堀にした、城郭都市なのであった。

この小説では、すぐにびっくりの場面となる。
助けた女性が、咄嗟に手にしたフェルトペンで主人公の額に電話番号を書き込むのである。
それは、いま棄てた手紙に書いてあったものだという。

そこそこの本を読んできたつもりであったが、赤の他人のおでこに電話番号を書くとは何事か異常なのだけど、気になるのは書かれた主人公の方である。
ふつうは、相手の手をはねのけるのではないのか?

そもそも、フェルトペンを持っていても紙がないなら、自分の手や腕に書くのではないか?
それを、見知らぬひとの手だっておかしなものを、どうして「おでこ」なのか?

そして、書かれた主人公の無防備さこそ、異常ではないのか?
目と目の間の額にこそ、最大の急所がある。

アーユルベーダにおける、温かいオイルを流す額のマッサージは、格別に気持ちいい。
けれども、中世における「拷問」の手段として、水を一滴づつ額に垂らす「刑」をされると、ひとは半日で発狂するという。

だから、書いた方も、書かれた方にも、それぞれの「心の隙間」があったことを表現したのだろう。
小説の出だしとして、これはかなり「神秘的」である。
しかも、「哲学小説」として名高いのだ。

この本が、どれくらい日本で売れたのか?
感覚の違いがわかるからおもしろい。

それが、主人公の職業説明にもある。
彼は、学位こそ無いものの、学校における古典文献学者として、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語の一流の使い手で、しかも生徒から尊敬と人気を得ているのだ。

むしろ、学位があっても無能な学者を軽蔑している。
その主人公が、女性に発した質問は、「あなたは何人ですか?」ではなく、「あなたの母国語はなんですか?」であって、「ポルトガル語」とポルトガル語の発音でいわれたことに感動する。

聞いたことばの音韻。
その心地よさ。
スイス人が感動するヨーロッパ言語があって、その言葉を理解できないという設定に、妙に共感するのだ。

そういえば、ポーランドでは英会話教室が大はやりだった。

でもやっぱり、赤の他人のおでこにメモはしない。
一生しないとおもうのである。
もちろん、自分のおでこに他人にメモなんかさせない。

「RICO法」の破壊力

残念ながら、この法律はわが国のではなくて、アメリカ合衆国の連邦法である。
正式には、Racketeer Influenced and Corrupt Organizations Act という。

「ラケッティア活動(racketeering activity) によって組織的犯罪を行う組織(enterprise) の活動を規制し、犯罪行為に対する刑事罰と被害回復の方法(民事責任)を規定する」と説明があるけど、いささか難解である。

簡単にいえば、マフィアや違法薬物カルテルなどの犯罪組織に限らず、不法行為を行った個人や企業に対する処罰をする法律である。
1970年、リチャード・ニクソン政権において制定された組織犯罪対策法 を含めた組織犯罪取締立法の一環として成立したので、「共和党」の政策が色濃く反映されている。

違反が摘発されると、最高20年の拘禁刑(前提となる犯罪に終身刑が法定刑として規定されていた場合は終身刑)、および、罰金刑に処せられる。罰金の金額は、個人の場合については、25万ドル以下、法人だとその倍の50万ドル以下の罰金か、この犯罪によって得た額または被害額の2倍以下のうち大きい方で、さらに没収刑も別途用意されている。

個人だと、ビザ申請時での虚偽もこれに該当する。
それで、話題になった解放軍空軍の医学研究者の女性について、「最高20年の懲役と、最高25万ドルの罰金が科せられる可能性がある」と報道された。

日本だと、「懲役または罰金」がよくある刑罰なので、両方やってくるアメリカは厳しい。
なぁに、どうせ州ごとに法律が違うと高をくくってはいけないのは、冒頭に書いたように、「連邦法」だからである。
まさに、悪いことをすると、踏んだり蹴ったりになるのである。

米中の「新冷戦」こそが、現代の「新しい生活様式」にふさわしい確定的な生活環境である。
この重大な事実から、ひとびとの目をそらせるために「コロナ」という、ありもしない病原体を利用しているのではなかろうか?

だとすればあたかも、「コロナとの共存」とは、「中共の温存」を隠すのに都合がいいので、こちらも、「新しい左翼用語」となってくる。
惜しむべきは、わが国に「RICO法」がないので、中共の支配下にあった学術会議という組織を、一網打尽にすることができない。

しかしながら、この度の騒動によって、過去の悪事が次々と暴かれることになったのは、国民には幸いである。
いまだに強弁擁護するマスコミを散見するけど、新聞の不買と広告の不出という手段で追放するのに、まことに都合がいいのも彼らにとっては「不都合な真実」であろう。

個人の不買は、日本国民ならかんたんにできる。
しかし、企業の広告の不出は、企業経営者の判断に委ねることになるから、消費者という国民には、もう一つの、不買をすれば経営者は怖れをなすのである。

ここで、自助を旨とするのが本ブログの趣旨ではあるけど、アメリカ議会という他人が、ぜんぜん別のレベルで日本企業にも迫っている。
なので、より現実的な「排除状況」になっていることを書いておく。

それが、「RICO法」の対象に、中共を「指定団体」とする動きがあることだ。
そうなると、「指定団体」には、その支配下にあると認定される企業も含まれるから、こうした相手と商取引している外国企業も、「同類」と見なされてしまうのだ。

つまり、日本企業がアメリカ連邦政府から、突然「ならず者の犯罪企業である」という「指定を受ける」ことになる。
「可能性ではない」ことに注意したい。

すると、「法人」なので、罰金と没収刑とで、いかほどのお支払いを要するのかを問う前に、企業にとって命ともいえる「信用」が失われることになる。無論、アメリカは輸入禁止をする。
アメリカ政府からの「犯罪者指定」が、世界でのビジネスにどう影響するか?はかんがえるまでもない。

まさに、「一巻の終わり」だ。

日本政府は、こうした「リスク」をいかほどに日本企業に伝達し、警告しているのか?
まさか、同盟国の企業を相手にそんなことはしない、と独りよがりしていたら、とんでもない。

アホな官僚が、アメリカ政府に問い合わせて、安心しているかもしれない。
問い合わせるべき相手は、政府ではなく、議会なのである。
この意味で、ワシントンの日本大使館の情報収集力は、大丈夫なのか?
自民党外交部会長になった、ヒゲの隊長佐藤議員にチェックしてほしい。

わが国のIT化に対する「遅れ」には、「IT活用」もあるけれど、経営者の情報収集が、「地上波TV」と「大新聞」では話しにならない。
最低でも、ネット上の各国ニュースを探る必要があるし、とくにアメリカ議会の動きは目が離せない。

残念ながら、わが国の既存マスコミは、このような重大情報ほど無視して報道しない傾向が高まっている。

その意味で、トヨタ自動車があぶない
いまのわが国で、この会社が傷つけば、いかなる範囲で影響がでるものか?
「衰退」ではすまされない事態になるのだ。

心配しすぎ、がちょうどいい。
トヨタ一社への依存とは、高リスク状態を意味するからである。
くれぐれも、「新冷戦」という「新しい日常」がはじまっていることを忘れてはならない。

これは、かつての「米ソ冷戦」より、たちが悪いのである。

妄想・氷川丸運行計画

子どものころ、横浜港大桟橋からの南米移民船の出港を見たことがある。
記憶が曖昧なのは、それが目的だったのか、たまたまだったのかを覚えていないことである。
うっすらと重なるのは、近所のひとの親戚が移民するので一緒に見送りに行ったような、そうでないような。

人生の「出発」には、「別れ」が伴う。

卒業式しかり、転勤しかり、はたまた最期の瞬間しかりである。
駅ホームでの別れも、汽車の時代から特急電車の時代、そして、新幹線の時代となって、だんだん詩情が薄れた。

汽車の時代は、「動きだしてから」も、まだ「間」があって、乗るひとが走れば飛び乗れた。
特急電車の時代は、窓を開けて、何かを渡せた。花や手紙、ときに「言葉」を渡すこともあった。
新幹線の時代は、ご存じのとおりである。

ところが、船となると様相が異なる。
ただの「物見遊山」のクルーズなら、見送るひともあんまりいないだろうけど、移民となれば、「今生の別れ」を覚悟する。
その切羽詰まった人々の気持が、見送るものと見送られるものとを結ぶ、紙テープになったのだ。

音楽隊の蛍の光をバックに、ドラがジャンジャン叩かれて、静かに離岸する船と、ちぎれ行く紙テープのはかなさと絶叫ともいえる声の塊が、子ども心にも哀しくさせた。
それは、まるで、大地が引き裂かれるような光景であった。

あの紙テープは、どうやって回収していたのか?
いまなら、無情なひとたちが、地球環境とか海を汚すなというのだろう。
「あほらしい」
はるか何十年も前のひとたちの方が、よほど文明人である。

横浜に生まれてそろそろ還暦を迎えるけれど、山下公園に散歩にいけば、そこには必ず氷川丸があって、それをマリンタワーが見下ろしていた。
灯台として世界最高の高さを誇ったマリンタワーも、2008年に灯台機能が停止されて、なんだか抜け殻のようになってしまった。

みなとみらいの高層建築がなかったころは、わが家からマリンタワーの赤と緑の灯りが見えて、大晦日の夜0時には港に停泊中の船が一斉に鳴らす霧笛の音が、腹に浸みて除夜の鐘より馴染みがあった。
その霧笛の音も、高層建築に遮られ、外に出て耳をすまさないと聞こえなくなった。

横浜が、ふつうの地方都市になっていく。

国の全国満遍ない開発と統治の仕組みが、横浜から「特別を奪って」、世界一の港町も、いまや「むかしは」をつけないといけなくなった。
「日本三大港」といういい方すら、ハマっ子的には不本意なのである。
実質、横浜市営からいまは国営の港となって、衰退を続けている。

なんとか大型クルーズ船を誘致しようと、ベイブリッジの外側にも着岸できるように横浜市が投資をしている。
どんな投資効果があるのかはしらない。ただ、観光客は大型バスに分乗して、横浜「以外」の観光地に向かうことはしっている。

「横浜港の象徴」ともいわれる氷川丸だって、ホテルもレストランの機能もなくなって、ただの「博物館」になっていることも、衰退する横浜を象徴している。
「文化財」になったから、往年の椅子に座ることもできないで、もっぱら「見学」するだけの施設になっている。

動いていたモノが動かないままで展示されるのは、鉄道博物館だって同じだけども、客席には座れるようにもなっているし、おりあらばSLだって運転されることもある。

ならば、氷川丸を動かす運行計画はできないものか?

できない理由は山ほどどころではない「不可能」があるにちがいない。
そもそも、氷川丸がいまの場所に係留されるにあたって、スクリューが取り外されて、そのためにエンジン・シャフトも一部が撤去されている。

いや、そうではない、『宇宙戦艦ヤマト』のような改装を妄想したいのだ。

博物館の展示品は、陸上の「博物館」に移転させて、最新のテクノロジーを駆使した、氷川丸再生のイメージである。
新造ではなく、あくまでも「大改修」だ。

「復元」という技術は、新作よりも高度な技術を必要とする。
「街ごと復元」する技術に長けているのは、ポーランド人である。
連合国の空襲やドイツ軍の破壊で首都ワルシャワを筆頭に、ほとんどの街ががれきとなった「壊滅」を、驚くほどの根気と技量で、どの街も「旧市街」を完全復元させている。

こんな歴史をしらなければ、観光客はなんの疑念もなく中世からの美しい街並みを撮影するであろう。
しっていれば、その驚愕の復元に、細部までの撮影をするであろう。
この錆びは、本物なのか?復元なのか?すらわからない。

ポーランドの地方都市で泊まったホテルは、外観は典型的な社会主義時代のものだったから、到着したときには期待値がダダ下がりしたけれど、館内の「最新」には呆然とした。
その快適性は、従業員サービスの素晴らしさと融合して、いまだに忘れられない。

街並みを、復元する。
この費用をだれが出したのか?
こたえは簡単で、市民たちであった。
税ではない、寄付や寄贈である。

横浜市は、カジノ問題で市長リコールなどの反対運動がかまびすしい。
けれども、ふるさと納税で失った市税収入の確保のためという「名分」が市当局にある、と書いた。

ならば、ポーランド人のように、市民が資金と技術を出し合って、「妄想の実現」をしたらどうか?
自己犠牲の精神がすこしでも横浜市民に残っていれば、ではあるけれど。
それには、氷川丸という「象徴」がふさわしいとおもう。

もちろん、民間事業であって、公共事業にしてはならない。

一党独裁への愛が強すぎて

オギャーと生まれてから10年あまり、小学校の高学年である5年生や6年生にもなると、クラス運営にあたっての「民主主義」を体得するようになる。
「意見の違い」という問題が噴出するからである。

それが、思春期のはじまりにあたる中学生になると、簡単に収拾が付かない状態になって、「会議のすすめ方」という国語の副読本での解説が妙に役に立ったことを覚えている。
最近では、思春期のはじまりがだいぶ早まってきているだろう。

会議のすすめ方の第一に、「会議の目的」がある。
目的に沿った議論をしないといけないのは「自明のこと」だけど、かんたんに「脱線」するのは、意見のなかに「屁理屈」が入りこむからである。

とくに、自我に目覚めた子どもは、「屁理屈」をいうことが恥ずかしいというレベルに達していないので、こじゃれた子どもほど「屁理屈」をいって、自画自賛する傾向がある。
このままおとなになると、面倒な奴になる。広義の発達障害であろう。

しかし、屁理屈も論理のなかに含めると、論理展開という意味での訓練にはなる。
正しい論理の導き方を学べば、ちゃんとした「理屈」をいうようになるから、「屁」がとれる。

だから、おとなは子どもに、「論理」を教えないといけない。
むかしは、「お天道さまが見ている」といって、道徳を教えて常識人をつくったけれど、これを、さいきんは「ロジカル・シンキング」といっている。
どことなく、無機質なのは「常識」もロジカルでないといけないからだ。

学校なら教師が、家庭なら保護者が、そして、社会がロジカル・シンキングを常識とすれば、「世迷い言」がずいぶん減って、その分、社会も明るくなるはずだ。

コンサルタントの仕事をしていて気づくのは、「いい会社(良い会社ではない)」は、社をあげて常に、ロジカル・シンキングをしていて、その結果をメンバーの誰もがきちんと行動に移していることである。

逆に、うまくない組織は、これがぜんぜんできていないばかりか、ロジカル・シンキングということさえ知らない文化があるものだ。
だから、上からいわれたコトしかしない、ということが日常になる。
メンバーはバラバラで、全体のパフォーマンスが上がらないのである。

しかも、こうした組織のトップは、パフォーマンスが上がらないことの責任を、自分より下の組織メンバーの「資質」に求めるのもよくある話だ。
「うちの従業員たちは、やる気のないバカばかり」という本音は、「いい会社」がどうやって運営されているのかを知らない、自虐的な告白でもある。

さて、これを国家にあてはめて、本来、野党の存在意義はなにかといえば、与党の施策に対する「論理的批判」である。
当たり前に見えるけど、その「論理的批判」のベースに、かならず「政権交代」を意識していることが条件なのが、本来の「当たり前」である。

批判のために批判する、というなら、「評論家」に任せればよい。
野党といえども、メンバーは選挙で選ばれた、「国民の指導者」のひとりなのである。

この度の「日本学術会議」の任命人事について、たいへん興味深い「屁理屈」を展開しているのが、任命拒否された本人たちと野党と、そのシンパと見なされるひとたちである。
人数にすると結構な日本人が、はからずも旗幟を明らかにしているのは、一種の「あぶりだし」のようにもみえる。

また、その「屁理屈」の論理展開が、ちょっと前の「検察人事」のときと似ているばかりか「そっくり」なのである。
やっぱり、同じひとたちが、同じ屁理屈を掲げているのが滑稽なのである。
こういうのを、懲りないというのだろうけど、ぜんぜん反省もしていないから、悪質なのだ。

彼らの「世迷い言」とは、「議院内閣制の否定」がその根底にあるからだ。

わが国では、国政選挙のうち、下院にあたる衆議院議員選挙が行われて、当選者多数の支持を得た政党が、議員のなかから「首班」を選んでつくるのが「内閣」としている。
これを、弁護士でもあり、民主党政権で官房長官をやった、いまの野党党首が知らないはずはない。

しかし、彼らは、「行政官」である「検察官」の人事に、行政当局の、会社にすればいわば「取締役会」にあたる内閣の介入を「無法」だと強烈に批判したのである。
そして、検察官の人事は検察官に任せろと主張した。

検察官の人事に、ときの政権が介入すれば、政権の不法行為を取り締まることができない、と。
しかし、民主主義のルールでは、政権の不法行為を取り締まるのは、検察ではなくて、国会である。そのために、衆参両院という二院制なのだ。

この意味で、一院制ではあぶない。
参議院不要論があるけど、そうではなく、上院としての参議院の権限を強化する必要があるし、もっといえば、選挙方法を変える必要もある。
衆議院のコピーだから、不要論が出てくるのだ。

野党が弱小だから、国会で取り締まれない、ということの論理は、小数の国民しか自分たち野党に投票しないから、でしかない。
つまり、「国民がバカだ」といっているに等しく、どうして国民が支持しないのか?というマーケティングすらしない独りよがりを貫いている。

予算を全部国から得ている学術会議という組織が、組織内部で決めた人事に内閣が口を出すなという論理は、上述の検察官人事と同じなのである。

これは、共産党が決めた人事に政府が口を出すなという論理そのものだ。
わが国が、一党独裁の政治体制ならば、「通る」話しではあるけれど、いまは一党独裁どころか、官僚独裁で政権党は官僚のいいなりだから困るのだ。

つまり、一党独裁への愛が強すぎて、もうすでに一党独裁になっている、という「白日夢」を見ているひとたちが、自分からそれを「告白」しているのが、「学問の自由を守れ」という、人事とは関係のない議論のすり替えをしているにすぎない。

哀れな精神病理がここにある。

トルコにも抜かれた

国民1人あたりのGDPのことである。
前に、韓国に抜かれたことを書いたけど、OECD最新のデータでは、トルコにも追い越されてしまった。
ちなみに、世界トップはアイルランドになっている。

国全体としてのGDPでは、まだ世界第三位ということになっているから、「安心」ということはない。
国民1人あたりのGDPとは、国民の経済力を表す指標なので、この数字が多いほど、「経済的に豊かな生活」だという意味だ。

思わず、国の名前からすれば、「そんなことはなかろう?」といいたくなるかも知れないけれど、まるで「ウサギとカメ」の話しのように、わが国が何もしないで寝ている内に、ドンドコいろんな国に抜かされているのである。
しかも、多くの国民が、この厳然たる事実に気がついていない。

むかしは、こういう眠り方を、「惰眠を貪る」といっていた。

30年間も「惰眠」していれば、そりゃあ下位のはずの国に抜かれて当然である。
日本を追い抜いた、韓国にしろトルコにしても、たいへん喜んでいるに違いない。

トルコ人はもともと、いまのウイグルに住んでいて、それが発展して西に移動した民族である。
だから、途中の中央アジアにいまでも、「トルクメニスタン」というトルコ人の国がある。

どうして西に向かったのか?
チンギスギスハンのモンゴルと、一緒に攻めたてながら移動したのである。
それで、オスマン帝国をつくって、ビザンチンの攻防では「船を山越え」させて、黒海からの攻撃で世界都市ビザンチンの「阿鼻叫喚」と汚名が残る大掠奪をやったのが惜しまれる。

古来、山を越えた軍は強い。
ローマに迫った、ハンニバルのカルタゴ軍はアルプスを越えた。
けれども、まさか「船を山越え」させるとは、さしもの東ローマ帝国にして、気がつかなかったのは、ちゃんと陽動作戦もやっていたからである。

残念ながら、しずしずと勝利を味わうことが、人間にはできないのだ。

織田信長の北陸攻めも、どうする?と怯まざるをえない山を越えないと、敵に攻め込めない。
鉄道であれ自動車であれ、「北陸トンネル」を通るたびに、この頭上の山塊を戦場とする感覚が、やっぱりすごいとおもうのである。

若い頃、ビジネス書のコーナーに、たくさんの「歴史解説」があったのを不思議におもったことがある。
その多くが「指揮官」のリーダーシップ論であった。

使われる側の「兵」には、どんなかんがえがあったのだろう?
意外と、そっち側からの話は少ない。
田村兄弟の長兄、田村高廣が勝新太郎とコンビを演じた『兵隊やくざ』が、使われる側からの「エピソード」になっている。

製作は昭和40年だから、終戦からちょうど20年。
わたしの父は海軍の幼年兵だったので、この映画を好まなかった。
「陸軍」の話であったからだけど、「兵」にして海軍に誇りを持っていて、陸軍を疎ましく思っていたことは間違いない。

それにまだこの頃は、ちゃんと「戦後」が残っていた。
映画館の観客には、元兵士たちも健在だったので、面白おかしい場面でゲラゲラ笑う同世代でも銃後のひとたちをどう観ていたのか?
そんな劇場の雰囲気も、「海軍ならあり得ない」と父はいっていた。

けれども、観客に元兵士という経験者も想定できるから、あんがいとエピソードとして「さもありなん」がなければ、ぜんぜん受け入れられることはなかったろう。
だから、外から組織内部の「理不尽さ」を笑う、醒めた映画でもあるのだ。

ただし、わが家の周辺に陸軍さんがいなかったので、このあたりの心情を直接聞いたことがない。
もう永遠にわからない話になった。

それでも、20年という年月では、やっぱり世の中そう簡単に変わらなかったのは、今のようなデジタル時代ではなかったからである。
潮目は、30年前のソ連崩壊ではあるけれど、ほぼ同時にインターネットがはじまったことに注視したい。

いまなら、インターネットの本質は、そのコンテンツにあると誰でもいえる。

けれども、まずは、物理的「普及」という時代があった。
SMAPメンバーによるNTTのCMで、「64(ろくよん)、64(ろくよん)、128(いちにっぱ)」を連呼していることの意味が不明だった。
若いひとでも、もはや不明の、「ADSL」のことだった。

ところが、あっという間に「携帯電話」がやってきて、「iモード」という意味不明が、たちまちに「常識」になった。

わが国の衰退は、わが国が世界最先端を経験したことにある、と野口悠紀雄氏は断言している。
まるで、かつての東芝が、世界最先端の「真空管技術」を誇っていた矢先に、「トランジスタ」が世の中に普及したのに似ている。

わが国を抜かし去って行く国々の特徴は、IT・デジタル技術の応用という一点において、かつての最先端にこだわるわが国を置いてきぼりにしているのだ。
1人あたりGDPトップのアイルランドは、30年前、西ヨーロッパ最貧国のひとつで、当時はわが国の半分ほどあったのが、いまは「倍」になっている。

だから、いまにしてようやく、「デジタル庁」なのである。

この役所の成功は、国がやることと民間がやることの「区別」ができることによる。
全部が全部、お国への依存となれば、起死回生どころではない。

果たして、どんな山を越えないといけないのか?
それは、まちがいなく人間による「マネジメント力」の高みである。
マネジメント力がITやAIの使い方を決めるからである。

だからこそ、民間が、かんがえて実行しないといけないのであって、政府はそれを「補助」するのが「本分」なのである。