他人のおでこに電話番号をメモする神経

このブログでは、犬の話をたまにしている。
万年単位で人間と共存している、この動物の不思議があるからである。

犬の脳科学や心理学が発達してきてはいるけれど、人間のそれと同様に、全部がわかったということではない。
それでも、ある程度解明されてきたので、犬型ロボットが商品になった。

けれども、警察犬や猟犬のロボットができないのは、聴覚や嗅覚のセンサー技術が足りないだけでなく、運動能力とそれを支える小型バッテリーがないからだろう。
だから、実用にならない。

とはいえ、犬の本質は、その心理にある。
飼い主の心理と自分の心理とを同調させるという能力は、説明しづらい。
それで、カリスマといわれるドッグトレーナーは、「エネルギーの感知」といって説明するから、なんだか神秘的なのだ。

自分の心理だけを優先させるように育った犬とは、野犬のことである。
保護された野犬を引き取って、人間に奉仕する犬にするには、自分の心理よりも飼い主の心理を優先させて、自分を同調させる訓練がいる。
これが、「けっこう難しい」とプロも認めることである。

さらに、犬には群れをつくる本能があって、そこでの順位を確定させる行動をとる。
だから、飼い主の心理を優先させて自分の心理を同調させる犬がボスの群れに入れると、犬が犬に教育をはじめる。

そんなわけで、人間に一度も頭を打たれたことがなく育った犬は、人間が頭の上から叩く素振りをしても無反応である。また、無防備にみえる。
その逆は、クビをすくめたり、下手をすると逆襲されて噛みつかれる。
これは、防衛本能からの行動だ。

さて、人間の話題である。
ヨーロッパで記録的ベストセラーになったという、「哲学小説」に、『リスボンへの夜行列車』がある。
これは、映画『リスボンに誘われて』(2015年)の原作である。

 

物語のはじまりに、主人公と不思議な女性の出会いがある。
ここはスイス連邦の首都ベルン。
国立歴史博物館は、アーレ川の「ほとり」にあるけど、渓谷といっていいほど川は下に流れている。

主人公が前方にある博物館を眺めて橋を渡るときに、この女性が手紙を読んでいて、それを丸めて放り投げた。
すると、この橋とは「キルフェンフェルト橋」のことだ。
なんだか、35年前の一人旅が記憶に蘇る。

土砂降りの雨の中、主人公はこのひとが飛び込むとみて助けようとする。
手にした傘は、突風で川に消え、上から覗いてみても「あの黒い点は自分の傘なのか?」というほどに橋は高い位置にある。
いまは、欄干の上にもネットが張られ、おいそれと物すら投げられないようだ。

ちなみに、蛇行のためにベルン市を二度横切るアーレ川は、氷河を起点にさいごはライン川に合流する。標高差は1,565m。
また、ベルンも小さな街で、徒歩で30分もすれば横断できるから、およそ日本の大都市とは様相がちがう。

ほうとうにここが、首都なのか?
じつは、アーレ川を天然の堀にした、城郭都市なのであった。

この小説では、すぐにびっくりの場面となる。
助けた女性が、咄嗟に手にしたフェルトペンで主人公の額に電話番号を書き込むのである。
それは、いま棄てた手紙に書いてあったものだという。

そこそこの本を読んできたつもりであったが、赤の他人のおでこに電話番号を書くとは何事か異常なのだけど、気になるのは書かれた主人公の方である。
ふつうは、相手の手をはねのけるのではないのか?

そもそも、フェルトペンを持っていても紙がないなら、自分の手や腕に書くのではないか?
それを、見知らぬひとの手だっておかしなものを、どうして「おでこ」なのか?

そして、書かれた主人公の無防備さこそ、異常ではないのか?
目と目の間の額にこそ、最大の急所がある。

アーユルベーダにおける、温かいオイルを流す額のマッサージは、格別に気持ちいい。
けれども、中世における「拷問」の手段として、水を一滴づつ額に垂らす「刑」をされると、ひとは半日で発狂するという。

だから、書いた方も、書かれた方にも、それぞれの「心の隙間」があったことを表現したのだろう。
小説の出だしとして、これはかなり「神秘的」である。
しかも、「哲学小説」として名高いのだ。

この本が、どれくらい日本で売れたのか?
感覚の違いがわかるからおもしろい。

それが、主人公の職業説明にもある。
彼は、学位こそ無いものの、学校における古典文献学者として、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語の一流の使い手で、しかも生徒から尊敬と人気を得ているのだ。

むしろ、学位があっても無能な学者を軽蔑している。
その主人公が、女性に発した質問は、「あなたは何人ですか?」ではなく、「あなたの母国語はなんですか?」であって、「ポルトガル語」とポルトガル語の発音でいわれたことに感動する。

聞いたことばの音韻。
その心地よさ。
スイス人が感動するヨーロッパ言語があって、その言葉を理解できないという設定に、妙に共感するのだ。

そういえば、ポーランドでは英会話教室が大はやりだった。

でもやっぱり、赤の他人のおでこにメモはしない。
一生しないとおもうのである。
もちろん、自分のおでこに他人にメモなんかさせない。

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