大相撲とオリンピック

【東京2020開催記念】

どちらも「神事」としての「興行」である。

大相撲は神社の境内で八百万神を、オリンピックはオリンポスの山々におわす神々を祀って「奉納」したものだ。
大相撲では、塩で清め、オリンピックは火で清める。
火をもってするのは、ゾロアスター教の影響だと前に書いた。

その大相撲が、戦後になって、「スポーツ競技」だと定義された。
この定義を促したのは、公共放送の意向もあったろう。
国民資産の電波を使って、受信料をとる公共放送が「国技」といいながら、「興行」を放送するのはいかがなものか?と。

その一方で、おなじ国民資産の電波をつかって、「興行」のプロレスを中継したのは民放だ。
「興行」だから、シナリオがあって、「競技」とみせかけて盛り上げる。

その第一が、あくどい白人レスラーたちが繰り出す「反則技」をものともせずに、正々堂々と勝利する日本人レスラー、という構図をつくったことだった。
これが、「敗戦」の意趣返しとなって、国民を熱狂させた。

つまりは、ガス抜きである。

GHQが仕組んだのか、どうなのかは知らないけれど、まんまと作戦どおりに、プロレスに熱狂させることに成功させたら、翌日は気分良く働いたのが日本人だった。
「アメリカ何するものぞ」とアメリカにやらされた。

これぞ、アングロサクソンの腹黒さなのである。

大相撲を廃止させようとしている、という「噂」は、「皇国史観」と「神道」の「罪」と解釈された。
もちろん、「昭和天皇の退位」という現実の大問題もあったからである。
日本から皇室を奪うこともできるのが、戦勝者たるGHQの絶対権力だった。

困ったことに、日本人は「(欧米的)絶対権力」に馴染みがない。
あたかも、徳川将軍家がそれにあたる、とプロパガンダしたのは、国民的ドラマ『水戸黄門』が作ったフィクションである。
絶対権力に正義が結合したら、歯向かうものを皆殺しに切り捨てて良い、というのは、欧米的革命思想なのだ。

すると、絶対に間違っている、と戦後定義されてしまった「皇国史観」と「神道」の「正統性」がみえてくる。
少なくとも、いまやタブーとされた「神話」だって、本当は日本人には重要すぎるから学校教育で禁止の扱いがされているのだ。

いまはとっくに「死語」となった、「大和民族」は、一体いつから言わなくなったのか?
なお、大和民族は、アイヌも琉球も含まれる一般用法だから注意がいる。
「分断」を画策する政治的活動を第一とする学者が、これら民族を分けている。

そもそも、日本人はどこからきたのか?は、いまだにわかっていない。
ルーツとされる、縄文人がどこからきたのかわからないのだ。
そして、琉球人もアイヌも縄文人の系統にあるのはわかっているから、大和民族の血が濃い部類に逆になるのだ。

そんなわけで、大相撲がスポーツ競技になったから、八百長が「いけないこと」になった。
スポーツは、実力の差だという「新しい神話」をつくった。
神様を楽しませるために「奉納」していたオリジナルからの裏切りである。

もう一つ、八百長がいけないというのは、「賭け事」をしている人からの意見だということに注目すれば、大相撲は、その筋で「大相撲賭博」をしていれば、たしかに掛金を差し出す側は、「八百長」は困るのだけど、胴元が仕掛けているのだろうか?という疑問もある。

八百長が相撲取りの世界の内輪での単なる「星取り」のため、ならば、賭博参加者は、そのことも含めた「予想」が必要になる。
すると、どこが問題なのか?
「興行」だから、その「場所」が盛り上がって盛況ならそれでよい。

一番の問題は、大相撲を管理する「相撲協会」という団体が、なにをとち狂ったか、「公益財団法人」になっていることだ。
それなのに、この財団を仕切るには、歴史的「親方株」という、お金と人脈で得る権利証がないといけない。

プロレスのように、株式会社にするか、神社としての宗教法人になればよかった。
それもこれも、興行収入に対する「免税」を最優先にさせて、監督官庁の文部科学省(公営ギャンブルのサッカーくじをやっている)に媚びへつらったからだろう。

結局のところ、近代オリンピックも、国際オリンピック委員会という世界最強の民間団体が、ヨーロッパ貴族のための「興行」として立ち上げたものを、絶対権力化させることに成功した。

オリンピックの収益にまつわる税金は、国際的にどのように扱われるのか?
先に決した、国際課税における「ビッグテック企業」の扱いが、オリンピックの収益とは関係なく議論されたのである。

この特別扱い。
開催するかしないか、という「浅い」議論ではなく、この委員会の不思議が議論されることがない不思議がある。

開催国には開催中止の権限がなく、これが決定権は国際オリンピック委員会にあるとされ、多額の違約金を払う羽目になるのが嫌だ(損だ)という、「損切り」の発想もないままに、「無観客興行」となったのは、テレビ放映権のおかげであった。

大相撲もオリンピックも、テレビあっての「興行」なのだ。
開催国であろうが、世界同時テレビ中継を観る、という「平等」が、コロナ禍のごとく実現した。
これで、「復興記念」が「祈念」になるなら、それはそれで、「神事」だ。

すると、テレビが廃れたら、これからは一体どうなるのか?が興味深い。

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