昨年6月29日、横浜市役所が新築されて、関内エリアから桜木町エリアに移転して業務を開始した。
「お手盛り」はわかっているけど、市によると、1889年(明治22年)に、「人口11万6千人という小さな市として誕生した」、とある。
これしか表現がないので調べたら、同年に市制施行された「大阪市」の人口は、47万人であった。
ならば、国際港としてのライバル神戸市はというと、同年、13万5千人で市制施行したとある。
役人は、こういう「作文」をするから、読む側が調べる手間を要する。
神戸とそんなに変わらないという事実は、その後の「市役所拡大」ストーリーに都合が悪いのだ。
それが証拠は、やはり国際港として開港し、同年に市制施行した、新潟市の人口は、4万4千人弱である。
なお、どの「市」もみんな明治22年に市制施行されたのは、この年に明治憲法下の「市制及町村制」が施行されたからである。
1965年の「法」によって、市となるための人口要件は、5万人以上、となっていて、2004年の「平成の大合併」では、合併の特例として3万人以上をもって「市」となるから、発足当時の新潟市こそ、今の法による「要件不足」ともいえるし、実際に周辺の村を合併したから、3万人を満たす、というレベルの「小さな市」だったといえる。
この点、横浜市の表現は、創意的感想であって、地方自治体としての「法的要件」を説明したものではない。
関内にあった旧庁舎は、開港100周年を記念して建設された、「7代目の庁舎」で、1959年に竣工した。
設計は、村野藤吾で、現役の宝塚市役所と兄弟になる。
延べ床面積は、約3万㎡。
新築された「8代目」は、地上32階、地下2階で、延べ床面積は、約14万3千㎡あるから、7代目と比較して4.7倍ほど「広くなった」のである。
ただし、7代目は「手狭」になって、周辺の民間ビルに「タコ足」状態で入居していた不便があった。
それで、土木事務所とかを除いて、あらゆる部署を集約させたのが「8代目」のコンセプトだと説明している。
また、この話には、区役所の「新築=拡大」は対象外だ。
「7代目」の設計時は、高度成長期にあたり、市勢も拡大の一途を辿る時期(当時は約170万人:現在は約372万人)だった。
当時の面積要件として設計者に提示された内容は、「本庁舎」としての機能要件から導いたのだと容易に想像できる。
人口増加に伴う役所の業務は、おおくは区役所に割り振られるから、「本庁舎」の機能要件を面積にどのような変換算定をしたのだろうか?
簡単にいえば、人口で約2倍強になったとはいえ、今後、日本一の人口を抱える横浜市とはいえども「急速な人口減少」が予想されているのだ。
それでもって、高度成長期の面積より、4.7倍を要するのは、「行政の肥大化」にほかならない。
もちろん、タコ足も含めた市役所本庁の役人も移転したから、民間のビルオーナーにとっては安定収入を失ったし、近隣の飲食店も「胃袋」を失った。
これがどの程度の経済マイナス効果になるかは、まだわかっていない。
市にとって幸いなことは、コロナ禍によるマイナスだと言い訳ができることだろう。
御用学者を役人が選んで構成する「新庁舎検討会」では、家賃負担分が自前のビルになることで減るという「経済効果」を示していた。
旧市庁舎近隣の衰退を計算しないは、市の会計だけで計算すればできるから、それは役人の仕事であって学者を動員する必要もない。
不思議なのは、このような「検討会」を「市議会」に置かないことだ。
なお、市議会事務局は、市職員とは別の組織として採用も別にすべきであると思う。
日本人に、都道府県・市町村議会が「地方立法府」だという感覚の欠如がある。
そんなわけで、4選にあえなく失敗して落選した現職市長の、歴史に残る業績として、新市庁舎の超高層ビルが残った。
それでも、3期もやった市長をクビにしたのは、あんがいと珍しい出来事である。
さて、行政(役人)は必ず肥大化する。
これは、以前『パーキンソンの法則』として紹介した、欧米ではふつうに有名な「真理」なのである。
ただし、パーキンソン氏は、この法則を役所に限って指摘したのではない。
十分に、民間でも起こりうるのである。
だから、無理やりでも、意識的に肥大化を避けるために業務を圧縮することが必要になる。
外資では、ミーティングの場で「それってパーキンソンの法則になりませんか?」という、部下からの自由意見での指摘に、確実に上司は敏感に反応する。
もしも、指摘通りの事態となったら、直線的に上司としての「無能」が問われることになるからである。
だから、巨大化した日本政府を、いかに「京都御所」の面積に収めるのか?という命題は、検討する価値がある。
もちろん、「紫宸殿を見下げる」なんて不敬は許されないし、コンクリート製だって景観を破壊する。
「必要性」とか「機能」を基点に考えずに、とにかく「収める」という形式にこだわるのである。
政府によるほとんどの「必要性」や「政府機能の充実」とは、国民支配の方便にすぎないことがコロナでわかったではないか。
御所に収める、これが、結果的に効率を生んで、自由社会の日本を発展させるのである。