政府が民間賃金を上げさせる方法

社会主義者たちの自民・公明連立政権がもくろむ、民間の賃金を上げるということの「ばかばかしさ」は、勘違いを超えて、まったく資本主義をしらない幼稚さのあらわれだ。

だから、社会主義者は共産主義者からバカにされるのである。

こうした発言に対する反応として、もっと驚くのは、いまの「財界」が、「歓迎」の表明をするか「無反応」なことだ。

高度成長期の財界なら、こんなことをいう政治家が出てきたら、すぐさま財界総理が直接面談して、面と向かって「阿呆か?」と、とくとくと解説したことだろう。

たとえば、絶対主義時代の国王が、「インフレよ静まれ」といって、インフレが収まるなんて考えるのもバカバカしい。
どんな時代でも、経済は誰かひとりの人間やらで動いているような代物ではない。

このブログでも何度か紹介している(おそらくこれからもしつこく)、ミーゼスが、とっくのとうに、「社会主義経済計算=計画経済」の不可能を証明している。
それが、ロシア革命から3年後の1920年、『社会主義共同体における経済計算』であった。

わが国は、あんがいと早くから「左傾化」していて、ミーゼスの著作はこれまでにたった4冊しか邦訳がないのである。
気分を入れ替えれば、4冊を読む「だけ」で、社会主義のまずさがわかる、としておこう。

さて、岸田政権なる社会主義政権は、トンチンカンな社会主義を目指した「アベノミクス」より、もっと「左」の政策を打ち出すことが期待されている。
にもかかわらず、党政調会長に再任された女性議員は、「保守の看板」を装っているのだ。

この「人事」は一体どういうことか?
安倍政権は、岸信介=福田赳夫の譜系「細田派:この度晴れて安倍派になった」で、岸田政権は、吉田茂=池田勇人=大平正芳の譜系「宏池会」なのだ。

総裁選での「協力」に、ただ応じたものか?
それとも、深遠なる考慮があるのか?
はっきりしないのも、岸田氏らしい。

自由競争をもってする側からの「妄想」を言えば、政府が民間に賃金を上げさせる方法は、かつての民主党・鳩山由紀夫内閣がやった、「最低賃金引上げ」という「王様の命令」ではない。
この方式を韓国の文政権が真似たのは、社会主義同士の意気通じる共通がある。

もっとも簡単な方法は、すべての公務員(地方も含む)の賃金を、1.5倍とか2倍にすればよく、さらに、中途採用の条件に、企業のリストラ対象者を指定すればいい。

「優秀な人材」は民間に、そうでないひとは公務員にさせるのが正しい。

けれども、上の方法では、優秀な人材は公務員になりたがる、という第一段階がやってくることに批判があるだろう。
しかしながら、「賃金の高さ」だけで公務員という職業人生の判断をするような人材は、じっさいに優秀だと高い評価ができるのか?

ここに、競争が発生して、優秀な人材を民間が本気で求めるなら、なにをもって公務員と競争するのか?ということになるのである。

リストラ対象者は、割増退職金をもらって、さらに「楽勝」な公務員になって、元の企業より倍数がかかる賃金を得られれば、「ラッキー」このうえない、と発想するひとたちである。
これはこれでいい。

では、企業に残るひとたちは「損」なのか?

どうしたら、この競争にうち勝つのか?を考えないといけないのだ。

つまり、この「妄想」で見えてくるのは、今の「物言わぬ財界人」とは、競争にうち勝つという気概も自信もない、という情けない姿なのである。

実際に韓国政府がやった、最低賃金の「大幅」引上げで、なにが起きたのか?
若年者層を中心にした、大失業の到来だった。
どういう根拠かしらない、政府が決める「最低賃金」が、アウトプットに見合わない、という水準になれば、どの国だって同じことが起きる。

そのアウトプットに見合わない、と判断するのが、政治家や役人がバカにしてはばからない中小零細の経営者だ。
なにも財界人だけが経営者ではない。

最初に、パートやアルバイトが解雇される。
世の中でもっとも弱い立場から、犠牲になるのである。
しかし、この社会主義的政策は、共産主義からみたら、やっぱり中途半端なので、ここで終わる。

犠牲者を救済する方策が用意されない。

そこで、共産主義者は、「ベーシックインカム」を言い出すのだ。
しかし、国民の過半がこの対象になったら、こんどは国家経済が立ちゆかない。
制御不能のインフレになったら、元も子もないのである。

いま、ほんとうに優秀な人材は、「起業」する。
学校を出たら大企業に就職する、というパターンは、すでに「古い」ばかりか、害悪になっている。

だから、本来であれば、学校における教育も「起業」に基準を置かないといけない。
しかしながら、制度設計をするおとなも、現場の教師たちも、古い発想で凝り固まっている。

これが、ほんとうの賃金引上げの源泉なのに。
すると、ますます、大企業経営者がつくる「クラブ」である、財界の「古さ」が浮き彫りになるのだ。

そして、「起業」に適した「金融」がないことが、致命的なのである。

世界で唯一、30年以上も賃金が横ばいのわが国政府がやってきた「経済政策」の、無意味を超えた、「実質マイナス」という「結果」をみれば、もういい加減に政府に依存することが、いかほどに「損」なのかを国民が気づけないままでいることが、もっと致命的なのだった。

「IWC」脱退から2年ちょい

IWC(International Whaling Commission:国際捕鯨委員会)が発足したのは、1946年に国際捕鯨取締条約が採択されて、48年に同条約の効力が発生し、翌年に第1回の年次会合が開催されたことによる。
わが国は、独立回復前の51年(昭和26年)に加盟した。

つまり、占領軍によって、加盟させられた、ともいえるから、最初から「カモ」だった。

食糧不足が深刻だったわが国では、当然に「栄養不足」という問題が社会全体を覆っていた。
特に、学校で昼食の弁当が食べられない「欠食児童」が、栄養失調で青鼻を垂らすふつうがあった。

冬場、お古のセーターの腕周りが、ぬぐった鼻水で固まってテカテカと光っていた同級生が何人もいた。

学校給食がある学校では、アメリカから緊急輸入した「脱脂粉乳」が、牛乳の代わりに提供されて、戦中は「代用食」と呼んでいたコッペパンには「人造バター」と呼んでいたマーガリンを付けていた。

アメリカで脱脂粉乳が日本への緊急援助として輸出が決まったことの報道をみて、対日戦で戦死や負傷した息子を持つ各地の主婦たちが、大反対運動を開始した。

「日本人は餓死しそうだという報道があるのに、豚の餌を大量に送るとは何事か!贅沢にも肉を食うのは未だ早い」というのが理由だった。
しかし、それが「人間の子供」の給食のためだと判って、寄付運動に変わったというエピソードがある。

アメリカ人にとって、脱脂粉乳とはあくまでも、豚の餌以外に考えられなかったのである。

そんな状態だから、学校が斡旋して『肝油ドロップ』の販売申込みを、学級単位でやっていた。
お菓子のようにおいしかったから、つい食べ過ぎて「薬なんだよ」と叱られたものだ。

クジラは給食の定番で、竜田揚げか大和煮がよく出たものだ。
なんとも硬くて、獣肉の匂いがしたから、わたしは苦手であったけど、不思議と缶詰の大和煮は、大好きだった。
いまでは、考えられないほどの高級品になってしまった。

もちろん、「クジラ」が高級品になったのは、IWCによる捕鯨の制限があったからである。
南氷洋を捕鯨船団が行く姿は、もう見ることはできない。

ナガスクジラの捕獲禁止は、1976年のことで、文楽人形のバネに使っていたクジラの「ヒゲ」は、在庫限りという状況に追いこまれたと新聞に出た。
人工の材料では代わりがない。

結局のところ、「反捕鯨」という政治運動で、にっちもさっちも行かなくなって、戦後の日本が初めて大決断したのが、「IWCからの脱退」だった。
2019年6月30日、わが国は正式に脱退した。

「全方位外交」という名の、どっちつかずという大方針を曲げなくてはならないほどに、加盟メリットがないということが理由だ。
「いい子」をやめたら途端に不良になるのかと、各国は疑念を持っていたらしいのは、「どっちつかず」がやっぱり「信用されない」ということだ。

それでも、わが国は「不良」にならずに自己規制して、世界のルールを守っている「いい子」だった。
「調査捕鯨」すら、南氷洋から撤退したけど、「調査結果」も提出しなくなったら、クジラ資源の実態が誰にもわからなくなるという事態になった。

わが国の「加盟費」という収入を失ったIWCは、資料さえも作成できなくなったのである。

ならば、わが国は次に、「WHO」からも脱退したらどうか。
ついでに、「国連」そのものからも脱退したら、なんだかスッキリするのである。

なにも、戦前の「国際連盟」ように、振られる前に振ってやるという若い男女の痴話げんかのような、これ見よがしの「脱退劇」をしなくともいい。
静かに、誰にも気づかれないように、フェードアウトするがごとく、消えていく。

どうせ、他の各国が気づくのは、「加盟費の振込がない」というタイミングでしかないだろう。
大騒ぎするのは、外務省だけだ。

国連大使のポストやら、大使館員のポストやらが不要になって、職員が余るのが困ると、国民は困らないのに「困ったふり」をするだろうからである。
ついでに各省庁からの「出向」で、国際機関の長になるポストがなくなると扇動して、これに「記者クラブ」のマスコミが加担する。

IWCのときもそうだった。
マスコミが、とにかく「脱退するな」と騒いだのである。
まさに、国民にとって、「逆神」になった。
正しさは、マスコミの「逆」にある、ということだ。

国際機関からの「脱退」は、ソ連が崩壊して大喜びした「逆」になる。

あのときは、「独立国家共同体」になって、バルト三国や中央アジアを中心に、「国」が増えたのだった。
勢い余って、ユーゴスラビアも分裂してくれた。
だから、「自動的」に、滅多にない大使のポストが増えたのである。

国民にとって、国際機関は必要なのか?というシミュレーションすら、外務省はやっていない。
やるはずもないのは、外交官試験に合格したひとたちがつくる、コミュニティになっているだけだからである。

なんとまぁ、このコミュニティは、婚姻による親戚関係ばかりが「上層部」なのである。

「第二国連」を作ってやる、という気概がない。
国民は、華やかな「国際」に欺されてはいけない。

とはいえ、戦後全方位外交の「成果」からすれば、たかが国際機関を脱退しても、外務省は胸を張って「大丈夫だぁ!」と、故志村けんのように、言ってこそ、なのである。

いまこそ、「成果」を国民に披露するときだ。

それができないのは、どっちつかずというお気軽のコミュニティであったと告白するも同然だ。
じつは、世界のどこにも「お友達」なんていないし、つくる気もない。
省内の仲間うちで楽しければそれでよかったし、そうしないと昇格できないからである。

左翼と保守が結合する?

アメリカ民主党が小さな分裂をはじめている。

ことのきっかけは、「3.5兆ドルの『分配』予算」であった。
共和党の「反対」は当然として、民主党内で意見が割れて、「1.5兆ドル」程にまで縮小された「案」になってきた。
わが国の左翼、自民党はどんな「分配」を用意するのだろうか?

さて、この「カラクリ」は複雑で、あえていえば「財源」となる「増税」に対する覚悟と嫌悪という闘いになったようである。
「覚悟」しているのは、「分配」を優先させる「社会主義者たち」で、「嫌悪」しているのは、「クリントン=オバマ派」という。

わが国の場合は、姑息なので、「分配」と「財源(=増税)」の話は、タイミングをずらすという、事実上の「欺し」を常套手段としている。
この意味で、アメリカ人はまだ「正直」だといえるけれども、日本人は鈍感すぎないか。

なぜなら、この「増税」の対象が、あからさまな「金持ち」を主たるターゲットとしているからである。
つまり、所得が少ないひとたちには関係のない増税だから、覚悟できるという言い分と、金持ちからの献金をしこたま得てきた「一派」には、すこぶる都合が悪いのである。

特に、オバマ政権で国務長官をやっていた、ヒラリー・クリントンは、元大統領の夫を下にする大豪傑だけど、彼女の在職中の「メール問題」は、国防にも関わる一大スキャンダルだった。
公職にありながら、政府が用意したメールシステムをとうとう一切無視して、自宅にサーバーを設置した「私的メール」しか使わなかったのだ。

しかも、問題発覚後、証拠隠滅として、メール記録の多くを保存ディスクごと、ハンマーで破壊して廃棄もした。
この大問題を世間の耳目からそらすために、トランプ氏への「ロシアゲート疑惑」という、でっち上げを仕組んだという。

すでに、特別検察官は、トランプ氏の無罪(無関与)を公式に認定した。
ただし、民主党の牙城、ニューヨーク州は市とともに、不動産事業者としてのトランプ氏の「不正」を、なにがなんでも暴くという目的で、社内幹部が既に逮捕されるに及んでいることは、しっておいていい。

一方、トランプ政権時代に任命した、「ロシアゲート疑惑へのでっち上げ」を捜査するための「特別検察官」は、政権交代後のいまでも活動していて、先日は「偽証」の疑いで、元英国諜報部員を逮捕した。
金の流れを追いかけると、このひとの背後には、民主党の影が見えてきている。

同じく、「クリントン財団」という団体の金の流れを追いかけると、ヒラリー氏が現職の国務長官の時にも、驚くほどの「入金」があることがわかっていて、その額は「兆円単位」なのだという。
すなわち、メール問題は公務員法に抵触するばかりか、一歩まちがえば「国家反逆罪」にもなりかねない。

余談だが、わが国政治家の逮捕にまつわる、不正の額が、あまりにも小さすぎるのが、なんだか悔しい。
ちまちましていて、でっかいことができないのも、衰退の証なのか。

話を戻すと、「3.5兆ドル法案」のゆくえが、「クリントン=オバマ派」によって、あたかも「共和党」の意図と同じであっても、その中身は「呉越同舟」という複雑がある。

こうしてこの議論は、現在の民主党の二面性をあぶり出した。
それは、真性社会主義者と、偽社会主義者=実は産軍複合体=共和党・主流派、という様相である。
共和党・主流派とは、ブッシュ親子を支えた、「ネオコン」のことだ。

このひとたちは、戦争を求める。
それが、「利益」を産むからである。
いまだに「9.11」が、ブッシュ・ジュニア政権による自作自演ではないのか?と疑われることの背景に、産軍複合体の深さがあるのだ。

もちろん、本人たちの直接的利益ではなく、支持者たちの直接的利益になって、それが、本人たちの利益になるのである。
つまり、支持者たちのために、戦争をする決断をする「スイッチ」の役割を果たすのである。

さて、その一方で、バージニア州での共和党勝利と、ニュージャージー州における、当初予想よりもはるかに共和党が善戦した理由には、「教育問題」があった。
公立高校における、「ジェンダー」にまつわる事件が引き金となったのである。

ふだんからスカートをはいている「自称女子」が、女子トイレで女子をレイプした事件で、被害者の父親が学校と教育委員会に抗議したところ、「国内テロリスト」という理由で、逮捕・拘禁されてしまった。
さらに、教育委員会は、犯人の生徒を別の公立校に、密かに転校させて、その学校でも同様の事件を起こしたが、学校側がこれを隠蔽していたことが発覚したのだ。

あろうことかこれに、連邦司法長官が「教師に逆らう親を、国内テロリストとすることを支持し、FBIに捜査を命じる」事態となった。
もちろん、連邦教育長官もこれを支持し、各地の「学校経営委員会」に「親(日本では「保護者」という)の排除」を命じたのである。

それで、ベルギー国家医療機関の長である医師が、「成長の妨げとなるので、子供にマスクを強要してはならない」とした発言を引用して、マスクを強要している小学校当局に質問したアメリカ人の母親を、「国内テロリスト認定」するという「事件」にもなった。

このことが、今度は「社会主義」に寛容な民主党支持者の「分裂」を呼んで、親として子供を守る権利の再確認を求める「怒り心頭」の運動となって、共和党・保守派支持に一気に乗り換える原動力となっているのである。

つまり、民主党は「四分五裂」をはじめたのである。

さらに、バイデン氏の長女が綴ったという「盗難にあった日記」をめぐる報道で、連邦検察官とFBIが、この日記を入手した報道機関(ここは裏取りができないとして、報道しなかった)の社長や社員の自宅を強制捜査するトンチンカンなこともやっている。

家庭内レイプの地獄を日記にしていたことの「うわさ」が、捜査対象になることで、完全に「事実」となったし、なによりも記述した本人が「ホンモノ」と認めているのである。

だとすると、現職大統領のおぞましい日常を、どうやって弁護するのか?

この一連の動きは、もはや、はなから使い捨てのバイデン氏を、民主党本部が見限った、ということだろう。
それはまた、民主党崩壊の「焦り」の表明でもある。

インド系だから黒人ではない(「全米黒人協会」は、昨年の選挙中に彼女が「黒人」を自称することに正式抗議している)し、いまもまったく不人気の副大統領が、予定より早く大統領に昇格就任して、「初の黒人女性」と嘘見出しが躍ることがみえてきた。

しかし、「新政権」になるからといって、民主党の支持が劇的に高まることを約束はしない。

ますます、「教育問題」が、アメリカ人を目覚めさせている。
それは、あらゆる面で、「人倫にあるまじき不道徳」という目覚めなのである。

人為的医療崩壊と地球環境

わかりやすい「例」がカナダで出てきた。

医療従事者にコロナ・ワクチン接種を強制して、たとえ解雇されても拒否したひとたちが多数になったら、撤回するという、カナダはケベック州とオンタリオ州での話の裏で、ブリティッシュ・コロンビア州では、人為的医療崩壊が起きている。

つまり、医療従事者が解雇され過ぎて、医療現場が人手不足となり、診療所が閉鎖されて「無医村」になったり、都市部でも診察ばかりか手術や検査を受けられなくなる、という現象が発生しているのだ。
ところが、これを命じた、州知事は自身の喉にできたポリープを摘出する手術を受けていたことが発覚して大批判を受けている。

むかし、桜島が噴火して、錦江湾対岸の周囲を走る国道の一部が陥没し、そのまま海に自動車が転落してしまったことがある。
この中の1台に、現職の鹿児島県知事が乗っていた。

漁をしていたひとたちが、すぐさま現場に向かって救助を開始したら、船縁にしがみついた知事が、他人を足で蹴落として先ずは自分だけが助かろうとしたのを、当時でもビデオ撮影したひとがいて、これが地元テレビ局で放送されたら、県民は知事の卑しさに唖然としたのだった。

まことに、人間の本性とは危機の中で現れるものだ。
すぐさま、鹿児島県人永遠の偉人、「西郷どん」と比較され、辞任しても生涯どころか後世になっても、後ろ指をさされることになったのである。
これを嗤っていたのは、当時の小中学生たちなのだ。

「偉人」の偉人たるゆえんを教育することの重要性は、こんなところにも表れるのだ。
この小中学生たちは、誰に命じられることもなく、自分から死ぬまで「教訓」として語り継ぐことになるのである。

しかし、カナダの極左政党は、「人為的医療崩壊を起こすべき」と主張している。
医療現場でのクラスター発生で、一般人が感染することの危険を阻止するには、他の病気や怪我を無視しても構わない、という。

この粗っぽい、そして、優先順位の付け方が異常に偏っている主張は、どこかで聞いたことがある。

それが、地球環境問題だ。

ロジックの構造がソックリ同じなのである。
たとえば、いま開催中の「COP26]では、世界から政治家や経済人が会場のスコットランド・グラスゴーに集まっている。
ここで、「二酸化炭素削減問題」を協議するためだ。

しかしながら、蓋を開けてみれば、このひとたちは、400機ものプライベート・ジェットでやって来た。
そうした人物たちが、「旅客機の運航規制」を議論しているのである。

自分たちは「特別」だから、プライベート・ジェットを乗りまわすのは当然だけど、「一般人」は、効率のよい大型ジェットにも乗ってはいけないと考えている。

ちなみに、昨今の商用ジェット旅客機は「亜音速」で飛行する。
音速のやや手前の速度のことだ。
陸地に対する速度は、800~900㎞/時で、速度は地球自転による上空の「ジェット気流(ストリーム)」に影響される。

「音の壁」を破るため、燃費効率が極端に悪くなる「超音速」にはもうしない。

一方で、超小型のプライベート・ジェットは、せいぜい600~700㎞/時であるから、時速にして200㎞も「遅い」だけでなく、航続距離も短い。
つまり、遅い分、長く飛んで、その分排気ガスも長く出すし、途中途中で着陸して給油を要するのである。

すなわち、公共の交通機関を使いましょう、という理屈でいえば、プライベート・ジェットではなく、最新の大型ジェットにみんなで相乗りしましょう、と叫ぶことの方がはるかに現実的な「環境対策」になる。

けれども、このひとたちは絶対に言わない。
なぜなら、「特別感」がないからである。

プライベート・ジェットの特別感は、空港で味わえる。
特別な飛行機に乗っていることを、見せびらかすことができる満足感。
何よりも、「出入国審査」は、一般人とは別棟のビルで行うのだ。
一般人と同格にされる、ファーストクラスではとうてい満足できない。

まさに、王侯貴族になった気分を味わいたいのだ。

そう、大多数の一般人こそ多少の生活上の不便があっても、地球環境のために貢献すべき、と一方的に主張して、それを命令にしようと画策しているのだ。
そう仕向けるには、「恐怖」を煽ることが効果的だ。

人間が住めない環境になったら、人生も将来も元も子もない、と。

コロナが蔓延したら、人生も将来も元も子もない、と、いうのと「同じ」なのである。

それで、一般人は医療を受けられなくとも、(支配するものたちの)心配には及ばない。
人口が多すぎるから、多少の犠牲はただの「データ」にすぎず、一般人個々人の人生や幸福なんて、自分たちには関係ない。

ましてや、地球人口は多すぎるので、まったく考慮に値しないのである。

一般人が「不安」や「心配」を訴えても、「コロナの蔓延」とか「地球環境が壊れる」とかと、科学を無視して脅迫すればそれで済む。
そのために、マスコミにカネを払っている。

もし、「革命」が起きるとしたら、左翼によるものではなくて、「シン・名誉革命」になる。
なぜなら、大富豪たちが、「コロナ」や「環境」にかこつけて、左翼の革命(全体主義革命)を引き起こしてしまったからである。

まぁ、それ以前に、不道徳極まりないのであるけれど。

選挙予想が当たらない

昨日の続きである。
大統領選挙からちょうど1年。

そして、大統領選挙後にして初の「国政選挙」たる、州知事選挙が東部2州で実施された。
ニュージャージー州とヴァージニア州だ。
アメリカは、ふつうの「国」に当たる「州」が集まってできた「連邦」国家なので、住民目線では「州知事選」こそ、国政選挙なのである。

その州が条約を締結して「連邦」を形成している。
日本人の感覚にはないから、マスコミに欺されやすい。
それに、戦後一貫してアメリカの属国にあるわが国にして、アメリカを教えないという不当な教育がされてきた。
だから、あんがいと日本人はアメリカという国をしらない。

州が独立国なので、「州知事選挙」という言い方すら正しくない。
たとえば、「大統領選挙」だって、連邦上下両院議員選挙を同時にやるから、日本的には「トリプル総選挙」なのである。
州知事選挙には、さまざまな「選挙」が同時にある。
副知事選挙、州司法長官選挙、州務長官選挙、それに州議会選挙や検事も選挙で選ぶし、西部劇でお馴染みの保安官選挙もある。

アメリカは「民主主義の国」だとは知っていても、「長」がつく公職は、ほとんどが「選挙」の対象だと気づかない。
わが国でいう、「都道府県」とは「仕組み」がぜんぜん違うのである。
それに、議会だって、かならず「二院制」である。
わが国の地方議会は、すべて「一院制」だから、これもちがう。

「独裁」になりやすいのが一院制の致命的欠陥なのだ。
それで、面倒だけど、二院制にして、議会同士で牽制しあうように「設計」されている。
これを、「民主主義のコスト」という。
わが国では、議会の権限を議論せずに、議員数を減らすことばかりを議論して「コスト削減」に熱中するけど、お門違いなのだ。

民主主義の「必要経費」として、覚悟しないといけないのが「筋」なのである。
たかだか億円単位のコスト削減の挙げ句、兆円単位の無駄遣いに賛成されたら、国民の負担としてどっちがいいのか?

さてそれで、東部13州という独立建国の時の由緒ある「州」は、いまではほとんどが「民主党」が支配している。
往時の「国境」がそのままなので、広大な北アメリカ大陸の全体地図では、細かくてよくわからない。
現職知事の圧倒的有利、と予想されていたのに、共和党候補と大接戦になったのは、ニュージャージー州知事選だった。
その他の選挙でも、圧倒的なはずの民主党候補者が軒並み「苦戦」を強いられた。

マスコミ報道では、民主党現職の「僅差の勝利」を、あたかも「事実」のごとく言いふらしているけれど、まだ「確定」していない。
それに、例によって例のごとくの「集計マシン」60台以上が、なぜだか同時に不具合となって、不思議な得票数をアウトプットしている。

さらに、日本だと参議院にあたる州議会上院の民主党ベテラン「議長」が、なんとトラック・ドライバー歴25年という新人候補に敗れた。
「敗北宣言」したので、こちらは確定した。
まさかの「大番狂わせ」になったのである。

ちなみに、日本とちがって、「上院」は「下院」より「上」という棲み分けなので、敗北した議長とは、知事に次いで二番目の立ち位置となる。

ヴァージニア州では、もっと凄いことになった。
こちらも民主党元職知事の出馬で、圧倒的民主党有利と予想された選挙だった。

ところが、民主党は「4タテ」の敗北を喰らってしまった。
知事、副知事、司法長官、下院議会(過半数)、がオセロゲームのようにぜんぶ共和党になったのだ。

こないだ終わったばかりの、わが国総選挙と似ていて、アメリカのマスコミも今回の二大選挙の予想を「はずしまくった」ことになる。

これまでと何がどう違って、かくも予想が外れるのか?
日米ともに「統計」の基本を外した、としか考えられない。
すると、マスコミ内部にある「分析機能の劣化」ということになる。
どうして、「分析機能の劣化」が生じたのか?

少なくとも、原因が「マシン」ではないだろう。
むしろ、コンピュータと統計ソフトの進化の方を考えるべきである。
すると、残るは「人間」ということになる。
「大いなるヒューマン・エラー」が、原因としてもっとも有力になるのだ。

おそらく、マスコミ内部で影響力のある人が(複数でも)、「観たいものを見せる」ように要求したのではないか?
民主党の圧倒的勝利を観たい。

しかし、もしや?事前調査に協力した「有権者」が、心にもない回答をしていたら?
「恣意的な報道」を繰り返すマスコミに、一矢報いようとする暗黙の了解が多数の有権者の心にあったとしたら。
集計したデータ自体が、統計的には「汚染されたゴミ」となる。
そして、残念ながら、「ゴミデータ」からは、どんなテクニックを用いても、ゴミしか出ない、のが統計なのだ。

そんなわけで、日米ともに、選挙予測のための調査が、崩壊している可能性がある。

おそるべし、有権者、なのである。

バイデンジャンプから1年

ようやく共和党が選挙で勝った。

しかも、民主党の牙城、バージニア州知事選挙での快挙である。
なお、バージニア州というのは、建国13州のひとつで、首都ワシントンD.C.の「ベッドタウン」として知られる。

バイデン政権の不人気から、絶対的勝利を画した民主党は、「元知事」という強力な候補者を立てた。
このひとは、クリントン夫妻のそれぞれの大統領選挙で、資金調達を担当して頭角を現した。

対する共和党は、元カーライルのCEOで、経済界では有名人だが、政界ではまったく無名の新人だ。
けれども、トランプ氏が「お墨付き」を出して、いわゆる、「共和党・保守派」の候補として党内を制し、出馬に至った人物である。

何度も書くが、アメリカにおける選挙には、民主・共和の両党とも、「党内予備選挙」という手続きを経ないと、「正式候補者」にはなれない。
党員が自腹で党費を出して、党員たる権利を行使したがるのは、党内の候補者選出に参加できることと、自身が候補者になれるかもしれないのとのどちらか一方、または両方の理由があるからである。

昨年、自民党富山県連で、歴史上初の予備選をやって、富山市長選挙の候補者を選出したのは、この意味で「快挙」であったが、この度の衆議院議員選挙では、元の木阿弥になった残念がある。

新総裁にも、新幹事長にも、「予備選挙をやる政党になる」という覚悟も気概もない。
自民党が「国民政党」になれない理由が、これなのだ。

さてそれで、今回のバージニア州知事選は、来年の中間選挙、そしてその先の2024大統領選挙をにらんだ、「前哨戦」という位置づけで注目されていた。

だからこそ、政権党の民主党は、万全を期したのである。
その効があって、選挙緒戦における支持率では、まったくもって共和党候補をものともしない、「圧倒的有利」さを誇っていた。
しかし、投票日5日前ほどになって、情勢が変わり出すのである。

その理由が、公立学校において実施されている「進歩的」教育に関して、親の関与を認めるか認めないかの大議論が湧き起こって、「認めない」とする民主党の主張に、親たちが大反発したからだった。
保守主義の共和党は、当然に親の関与を認める、という立場である。

これが、「討論会」で拡散されて、投票日直前には、攻守が逆転したのであった。
それでも、民主党が得意とする「郵便投票」のキャンペーンは、怠らなかったから、開票が進んでも容易に「敗北を認めない」状況があった。

しかし、これがまた有権者の不信を買って、とうとう「敗北宣言」を出すことになって、決着した。

おそらく、これは、民主党の上層部には相当のショックを与えたはずである。
なので、一層、どんな手を次期選挙に使うものかと、警戒心を高めているのは共和党の方である。

また、この選挙とは別に、オハイオ州では、辞任した連邦下院(衆議院)議員の「補欠選挙」があった。
辞任の詳細な理由は不明だが、共和党でも「反トランプ」の議員で、来年の中間選挙に「勝てない」ことが議員辞職の最大の理由だという。

なぜなら、トランプ氏が推薦する党内候補が、すでに「予備選」に立候補していて、現職が予備選で敗退するという「恥」を避けたのだと解説されている。
本来ならば、中間選挙でのことが、1年も前倒しになったのである。

もちろん、前回の大統領選挙での「不正」がつぎつぎと明らかになってきていて、日本人には「今さら」と写るけど、アメリカ人の怒りはおさまらない。

最近では、ウィスコンシン州で、認知症の老人たちが集団で郵便投票していたことが発覚した。
本人たちにはもう確認できない、というほどの症状があるひとたちだった。

残念だが、自分の名前も、マークシートを塗りつぶすことも、もうできないひとたちなのだ。

気がついたのは家族で、問い詰めたところ、選挙管理委員会が選挙違反をしていたと騒ぎになっている。
こうしたことが、各地で発覚していて、民主党支持者ですら「不正に怒っている」のだ。

こうしたことに小まめに、トランプ氏もコメントを発表している。

それがまた、トランプ支持を拡大している。
反トランプのひとたちが、予備選に立候補すら辞退しないといけないのは、よほどのぶ厚い支持が、わかりやすい状態になっているからにちがいない。

わが国のように、党の幹部が決めるとか、無所属で立候補したのに、当選したら「追加公認」するというのは、予備選がないことのご都合主義が、有権者を無視できるからである。

つまり、自民党もどこもかしこも、ぜんぜん「民主主義」ではないのだ。

こうしたことが、見えてきた1年であった。

クラウド・コンピュータの衝撃

3ヶ月前の8月に、マイクロソフトが『ウインドウズ365』なるサービスを企業向けに開始した。
以前から個人向けにもサービス提供している『マイクロソフト365』(その前は「オフィス365」と呼称していた)は、ワードやエクセルなどの定番ソフトについて、クラウド・ストレージも付けた「サブスクリプション契約」とは異なるものだ。

企業向けなので、もう利用させられているひとも多いにちがいない。

わたしは、『ウインドウズ365』の名前から、その意味がよくわからなかったけど、ようやく少し理解できたので、その記念に書いておこうと思う。

簡単に言えば、クラウド上にウインドウズがある、ということなのだが、サービスメニューをみればわかるように、CPU性能とストレージ容量がセットになって契約するものになっている。

つまり、パソコンがクラウド上にある、ということだ。
それを通信でつないで、自分の目のまえにあるパソコンで使う。

なんだかややこしいのだが、自分の目のまえにあるパソコンは、テレビの受像機のようなものにすぎない、という位置づけになる。
つまり、ロー・スペックなパソコンでも、契約次第でハイ・スペックなパソコンとして機能してしまう、という代物なのだ。

しかも、動かす、という意味は、「ブラウザ」で、ということなので、グーグルやヤフーなどが動くなら、目のまえにあるパソコンが、どんなOSなのかを問わない。

これまでなら、たとえば、Macには「macOS」という「OS(オペレーション・システム)」が入っていて、これがパソコンを制御する。
キーボードを叩くと、画面に文字が表記されるのも、ワープロなどのアプリケーション・ソフト(アプリ)が動くのも、縁の下の力持ちであるOSあってこそのことだった。

アップル社のパソコン、通称「Mac」は、その画像処理能力の高さが買われて、いわゆる、「クリエーター向き」といわれ、一般企業の事務用としてのシェアは振るわなかったし、いまでもそうだ。
ただし、ユーザーフレンドリー(使いやすい)なOSには定評があったのは確か、である。

だから、高校を出て大学生になると、入学時に、もはや必須アイテムとなったパソコン選びで、どのメーカーのどの機種を選ぶかが、最初の関門になる。
それが、Macかウインドウズ・マシンかの「2大選択」である。

おおむね、学校側もウインドウズ・マシンを推奨しているのは、学生が就職したら、まず企業で貸与されるパソコンが、ウインドウズ・マシンだと想定しているからである。
学生時代(特に文系)に、楽ちんなMacを愛用していて、社会人になってウインドウズを強制されたら、それだけでも同期から遅れをとること必定なのである。

つまり、下手をすると、人事評価にも影響してしまう。

そんなわけで、世の中はウインドウズ・マシンで溢れている。
ところが、ウインドウズ・マシンを選択した後、やってくるのはその種類の多さで、メーカー選びにしても大変だ。

リモートワークなる状況で、しかも外国に移転した工場の稼働が下がって「チップ不足」になった。
パソコンが売れに売れまくった後、今度は買いたくても物がない、ということになって、とうとう自動車の生産までも減産を強いられることになった。

Macの世界では、インテル社に依存していた(初期のMacはモトローラ製だった)のが、自社開発という「内製化」で、昨年は爆速の「M1チップ搭載」マシンが新発売されて話題になった。

ついこないだまで、ウインドウズ・マシンも基本はインテル製のCPUばかりだった(今は、アドバンスト・マイクロ・デバイセズ (AMD)製もある)から、「OS]は違えども、Macとウインドウズ・マシンは、「兄弟」のような関係で、MacOSには、なんとウィンドウズ「互換」のためのソフトが「内蔵」されていた。

なので、Mac上でウィンドウズを起動して、「両刀遣い」ができたのである。

しかし、「内製化」された最新マシンではこれができない。
CPUの設計に、OSが依存しているのだ。
そこで、サードパーティーから、Macでウィンドウズを起動させる、アプリケーション・ソフト(MacOSの上で動く)が有料で発売されて話題になっている。

この発売とほぼ同時期に、こんな努力をあざ笑うかのように『ウインドウズ365』が、法人向けに販売されたのだった。
つまり、『ウインドウズ365』を契約すれば、内製化されたMacであろうが、過去のマシンであろうが、ウインドウズが動くのだ。

このことは、古いウインドウズ・マシンでも同じだし、リナックスにもいえる。

もう新規の「高速・高スペックマシン」を購入しないでいい、という意味でもある。もっといえば、そんなマシンを買うのがムダになったのだ。
「個人用」として、月額なり年額なりの使用料が安価に提供されたら、利用者はもう最新のパソコンを必要としない。

ただし、必須となるのは、クラウドと通信で結ばれていないといけない。

ということは、すべてのチップ・メーカーと、これを組み立てるパソコン・メーカーが、こぞって、マイクロソフトに「個人向けはやめてくれ」と叫んでいるはずである。

それでか、法人向けの料金も「微妙に高額」な設定になっている。
往年の「サラリーマン川柳」に、
コンピュータ ソフトがなければ ただの箱
という傑作があった。

まさに、ソフトがすべてを制するのである。

自民党が勝ってよかった?

「株価」がどう動くのか?は、誰にも「わからない」から、皆が平等な市場という「土俵」に資金を投資できる。
わからないことが、前提なのである。

それなので、全員がそれぞれに「予想」や「予測」をするしかない。

その予想方法や予測方法が、「理論」になったり、「販売」されたりするのは、「当たる確率」によっている。
だから大儲けしているひとが書く「私の投資法」が、ベストセラーになって、出版分野でも大儲けしている。

もちろん、読者がその投資法で失敗しても、「自己責任」だから、著者を訴えるひとはいない。
著者は著者で、ちゃんと「自己責任ですよ」と、しっかり著書に書き込んで自己防衛しているものだ。

まことに、お金はお金を呼び込む仕組みになっている。

今回の総選挙を総括する評論はたくさんある。
わたしが注目したいのは、「自民党が勝ってよかった」と安堵の声をあげている「財界トップ」の見識の「低さ」、だ。
一方で、そうはいっても「株価」は急上昇した。

この現象を、批判的に論じたい。

結論から先にいえば、財界人が「乞食(物もらい)」になったのに、それを「恥じない」という恥ずかしさを言いたいのだ。

わたしが若かった頃の財界は、「官」に対抗して、ちゃんとものを言っていた。
それが、「民業圧迫」という一言だった。

ついぞ聞かなくなったのは、民業が官からの補助金「争奪戦」で、それを「得たもの」が勝者だという卑しさが、株主にも認知されたからである。
まことに、民主主義が「腐る」とこうなるという、後世への反面教師になるようなことに心血を注いでいる。

簡単に言えば、乞食がイタリア製の高級生地のスーツを着て、社用車の後部座席にふんぞり返っているのだ。

その昔には、休日の日比谷公園には、わが国を代表する企業の社長が乞食の姿をして、行きゆく人を観察していたものだ。
ふつうの人たちの幸福な顔を見て、自社の社員と比較していた。

いまでこそ、「従業員満足度」なる指標ができたが、往時は社長が自分で確認していた。
乞食の姿をしたのは、ただの変装ではなくて、ふだんの自分が大企業の社長であることを「仮の姿」と自覚していたからである。

こんなトップが仕切る社業は発展した。
どんな時代でも、「業界トップ」には簡単にはなれない。
そんなリーダーをいただいた業界人は、一緒になって盛り上げて、業界自体の発展に寄与したのである。

そして、そんな空気の中に、「官」への対抗もあったのだ。

それは、「官」の「習性」ともいえる、勘違いのエリート意識から発する、ヘンテコな「オーラ」ともいえる「腐臭」であった。
もっといえば、根拠なき自信、であろう。
それは、「歴史」をも無視する傲慢ぶりをみせながら、自身の内輪では「有職故実」の前例主義を貫く、「ダブル・スタンダード」でもある。

典型は、官がみせる「民」への蔑みだ。
にもかかわらず、ダブル・スタンダードだから、平気に「民間の知恵を拝借」と言ってのける。
そこには、民間に知恵などありもしない、という自負がある。

しかしながら、まだ明治人の「官」はわかりやすかった。
西の「八幡製鉄所」にしても、東の「富岡製糸場」にしても、官営では大赤字であったものを、「民」へ払い下げたら黒字になって事業はその後100年も続くのである。

もちろん、不透明な払い下げ時の不正の匂いはプンプンするけど、「民」に引き渡したら「官」はあっさり手をひいた。
田中角栄内閣の時代に「完成」した、わが国の官僚機構は、もはや「あっさり」手を引くなんて「もったいない」ことはしない。

「民」が倒れるまで、そのうまみの汁を吸い尽くす。

そして、あたかも「ちっ」と舌打ちしながら、巨大な規模の企業なら「嫌々」の態度をみせながら、税金という他人のカネを注入して、さも自分たちのおかげとして、さらなる汁を吸うのである。
社会問題にならないような企業なら、あっさり見捨てて、経営陣の無能を叱るのだ。

ほとんどが法学部のエリートを気取るから、「会計学」には目もくれない。
それで、財務諸表もわからないのが「本当」なのだ。
それがこないだの、わが国を代表する「総合雑誌」で、財務次官が「告白」してしまったことだった。

ユーチューブには、国債と税金の国民から見た意味を、懇切丁寧に「簿記で解説」するひとがいる。
なるほど、国債は「政府の借金」ではあるけれど、国民には「資産」だ。
だから、増税をして政府の借金を返済する、とは、国民にはダブル・パンチなのだ。

もちろん、選挙に勝った政権は、これから「大型の景気対策」をするだろうから、「株価」が上がるという理屈は「正常」である。
けれども、その「重点配分」を「政府が決める」のだから、「争奪戦」になるのである。

しかして、それが「付加価値を生む」活動資金ではなく、「無駄金を遣う」方に重点があるから、特定企業にカネが回ることを意味する。
それが、「SDGs」の正体である。

どこにも、「持続性」なんてない。
政府の補助金が絶えたとき、SDGsも達成できず、やってくるのは「増税」ということになっている。

乞食になった財界人は、増税を望んでいる、という言うも等しい。
こんな愚か者たちを仰ぐ社員たちこそ、いい面の皮である。
自分の取り分はさておいて、従業員の給料を減らす努力をしながら、増税も望むとは。

日本が元気だった頃、こんな卑しい財界人はどこにもいなかった。
「減税」と、「官」の横暴に文句をいうのが、乞食の姿をした財界人だったのである。
そして、株主たちは、そうしたトップを尊敬して投資したのだ。

いまはもう昔になれない。

AI化する日本人

夢のコンピュータ、それが「人口頭脳」だ。
しかし、あの傑作『2001年宇宙の旅』(1968年)で「活躍」した、「HAL9000」のようなコンピュータはいまだに実現していない。

これにはれっきとした技術的な理由がある。

それは、現代のAI技術でコンピュータに文章や音声言語の「意味」を理解させる方法がない、からである。
つまり、いま我々が「AI」と呼んでいる機械は、人間の言語を理解しているわけではなく、数多ある「パターン」(データ・ベース)から、単に「照合」して、あらかじめ用意してある「回答集」から、最適な解を示しているに過ぎない。

だから、言語の「文法」が、単純かつ厳格な「英語」をもって、もっとも先進的な研究がされてきたし、その英語に「似ている」と評価される、中国語(北京語)において「最先端」と言われるようになってきた。
もちろん、中国における政治特性から、自国民の生活を本人たちに遠慮なく「実験」できる、というアドバンテージがあることは否めない。

「自由圏」では、絶対にできないことが、「社会実験」だと断る必要もなく、淡々と実施されて、先行開発の有利さを享受している。
その「有利」は、為政者垂涎の的になるもので、被支配者にとっては「恐怖」の到来を意味するけれど。

これを、自由圏の民間企業が政府より先に手に入れた。

コンピュータに文字を表示させるのに、英語などは「1ビット」で済むが、複雑な「漢字」などのためには「2ビット」を要する。
我が国語の日本語もこれにあたるために、初期の頃のコンピュータでは、日本語表示すら厄介だった。

しかし、そこは技術の進歩で克服した。
けれども、文法が複雑で曖昧な「ゆらぎ:1/f」を特徴とする日本語は、その言語特性のために、もっともAIが不得意とする言語となっている。

家庭にある「AI」として、「スマートスピーカー」がいち早く製品化されたけど、「呪文」のような合図を持ってスイッチが入るのではなくて、全部の会話を聞き取っている。
その中から、特定の「呪文」を見つけると、あたかもスイッチが入って、人間を相手にしているような気の利いた会話をしている気になる。

言葉の意味を理解しないから、単に人間が発する音声の周波数をデータベースに照合しているだけなのだけど、そのさらに向こう側にいる、こうした製品を販売した側の人間は、とてつもない「生活会話」のパターンを「収集」しているのである。

それでデータ収集される側の人間は、勝手に「便利」だと「解釈」してよろこんでいる。
そうでなければ、「不気味の谷間」に、人間の方が落ち込むだろう。

そうさせないように、人間の「脳」は、「柔軟」に対応することを選択し、「不気味」さを自分から感じないように自律的に調整している。
「自律的」だから、当の本人は意識をしないでいられるのだ。

このことは、製品の開発者はわかっているし、意図していることだ。
つまり、人間の脳をいかに騙すかではなくて、積極的に「騙される」ように設計している、ともいえる。

さて、技術的に「HAL9000」の実現が不可能だとわかっている現在、AIと人間の関係をどのように整理すれば良いのか?について、『バカの壁』の著者で有名な、養老孟司氏は、「人間がAIに近づく」という名言を披露した。

つまり、人間が読解力を失えば、AIが活きてくる、という関係式が成りたつのだ。

 

この「発見」は、独裁者がとる古典的な政策手段である、「愚民化」を連想させる。
すると、従来の教育現場はそのままに、「教育改革」の意味が見えてくる。

子供を教育しない、ということが、為政者にとって「理想的」な教育改革になる。
授業がわからないまま、おとなになれば、「自然」と読解力のない、すなわち「自分で考えることができない」おとなになってくれるのである。

「理解度」における「格差の創出」こそ、将来の「所得格差」を確実にする。
こうして、理解度が高いグループを支配側に、そうでない多数のグループを被支配側に配置すれば、支配側に都合の良い「奴隷社会」を実現できる。

こんな「政策」に、教師の労働組合はなぜ協力するのか?
それは、奴隷化実現の暁には、暴力「革命」の勃発を期待するからであろう。

なんてスリリングな、そして、なんという無責任。

養老氏が『バカの壁』のきっかけとした出来事は、家庭教師の経験からだという。
教える側の「教え方」と、教わる側の「理解力」が、どうしても一致しないことがあった、という。

どうやったら「わかってもらえるのか?」がわからない教える側。
どうして「わからないのかがわからない」という問題だ。

いま、幼児から小児をもつ親は、学校の成績を気にする前に、国語の理解力を高めるための訓練をしっかりほどこすことを意識した方がいい。
やさしいけれど楽しい本から読書の習慣をつけさせたり、読み聞かせから、俳優による文学作品の「朗読」、オーディブルだって活用していい。

中学卒業までに、子供の脳を鍛えることだ。
そのための「運動」も、無駄ではない。

もちろん政治活動をする教師に対して、「革命」のシナリオを旧来の共産勢力が抱いていることは、支配側ではとっくに織り込み済みである。
そこで、「新しい共産勢力:人民の奴隷化を図る富豪たち」は、なにかに取り憑かれたように、人口削減を企図しているのだ。

オートメーションが、いまよりずっと、AIによって進行すれば、AIと同程度の理解度しかない生身の人間による労働力は、かつてのボリュームも技能も必要としない。

けれども何よりも、人口が少なければ、暴動によるリスクと鎮圧の可能性が高まって、永遠なる安定の奴隷支配が達成できると妄想しているにちがいない。

すると、これはどんな社会になるのか?
「整然とした」社会に相違ない。
そこに「あそび=余裕=例外」は許されない。
すべてが「きっちり」している社会である。

しかし、支配層に「だけ」は、これらの「あそび=余裕=例外」が許される。

そんな日常が、「窮屈」で「住みにくい」と考える人間はいない、と前提される。
個々人の人生目標も、発想させない。
何のために生きているのか?という自問自体が、犯罪的な「行為」と評価され、罰せられることになるだろう。

人間の心を読むと宣伝されたAIが、警察の役割をするのである。
検挙される本人が、ほんとうにそんな自問をしたかは問題にならない。
AIが反応して警報を発したら、それが「真実」なのだ。

あたかも、「PCR」なる得体のしれない「検査」で、ひとたび「陽性」とされたら、症状があろうがなかろうが、「隔離」されることが正義となった社会の如くである。

最高裁判事国民審査に行ってきた

最高裁判所判事国民審査に行ってきた。
衆議院議員選挙の投票の「ついで」ではない。
「国民審査」のついでに、選挙投票があるのだ。

残念ながら、選挙結果は投票しなくともわかる。
与党の圧勝。
全党が、事実上の「与党」同然になったので、党名をつけた「反主流派の派閥」が野党を自称しているだけだ。

わが国に、「野党」は存在しないので、多数の国民は「主流派」に投票させられるようになっている。
これが、投票率にあらわれて、都市部では50%にぜんぜん届かない。

近代国家の特徴に「三権分立」があることは、学校で習う。
もちろん、「近代国家」の発祥は、ヨーロッパということになっているから、「三権分立」もヨーロッパ発祥である。

不幸なことに、ヨーロッパは、その「寒冷な気候」からたいした食物が育たない。
ローマが栄えたのは、地中海気候のおかげで小麦が採れたからだった。

肌の色が白くて、鼻が高いのは、紫外線が少な過ぎて皮膚にあるメラニン色素が退化したのと、白くすることで「太陽光」を受けやすくした。
これは、目の色も黒くしないで済ますから、同様の理由である。

体温よりずっと低い空気を吸うのに、ラジエターの逆をいく、吸い込んだ空気を少しでも温めるため鼻腔を大きくさせるのに、外見の鼻も高くして肺への負担を緩和したのである。

森が深くろくな食物となる作物が育たない中で、新大陸から「じゃがいも」が伝わると、これをプロイセンの皇帝が「奨励」した。
この時代、皇帝の「奨励」とは、「命令」のことである。
作付けしないと、どんな罰を受けるかしれない。

それで、元プロイセンだった、今のドイツとポーランドは、「農奴」によって森を開墾し、延々とじゃがいも畑が続く大地となったのである。
おかげで、ポーランドのスーパーでは、じゃがいもが1キロ20円程度で販売されている。

そんなポーランドを分割統治した、ロシア、プロイセン、オーストリア(「神聖ローマ帝国」ともいう)の三国は、ポーランドの農地を支配して、農奴ごと食糧を確保した。
亡国の憂き目を見たポーランド貴族は、もともと各国に血を分けていたけど、これが決定的となり貴族の証であった「スキー」がつく苗字を亡命先のヨーロッパ各国にばら撒いたのである。

てっきり純粋ロシア人だと思い込まされている、大作曲家「チャイコフスキー」も「スキー」がつくから、そんなに遠くない祖先を辿れば、ポーランド貴族に行く着くはずである。
彼の曲の「哀愁」は、その血のうめき声かもしれない。

狭い地域にいろんな民族がひしめいているヨーロッパ大陸は、他人から奪った者勝ちという「野蛮」がふつうだったのである。
これは、大陸人に征服されたブリテン島も同じだ。
それが、『ブレイブハート』となって、野蛮を賛美する文化を、作品と、その評価(アカデミー賞5部門受賞)に見ることができた。

そんなわけで、もっとも派手に他人から奪うことに成功した者が「王権」を得たので、どうやってこの横暴を「制限するか?」ということが、支配される者たち多数にとっては、文字通り「死活問題」になったのである。

そこで、「行政」を司る者と、これを制限する者としての「議会」、それに「司法」を分離させることで、「王による絶対的独裁」そのものを制限することにした。
つまるところ、被支配者の「不幸」から得られたルールだから、これが近代「民主」の「絶対」になったのである。

幸か不幸か、我が国は、「古代」にあたる「大化の改新」という共産主義(班田収授法:土地公有制)に、弟宮が反発して壬申の乱を成功させ、天智天皇の絶対は続かず、天武朝に替わるという再度の「政権交代」があった。

これがウダウダになって、「荘園制」になると、貴族の私的警備員だった武士の時代がやってくる。
その「武士」も、元は農民だったので、もっぱら他人から略奪する「野盗」とは違うという矜持があったし、その「頭領」は必ず皇族の血筋というルールもできた。

ここが、ヨーロッパの不幸と決定的に異なるのである。

しかも、皇族=天皇による直接支配は、古代と後醍醐天皇時代「しか」ない、という「特殊」があって、天皇は、はなから君臨すれども統治はせず、「権威」としての存在に徹していた。

よって、武家政権の「権力」と「分立」していたのである。
その劇的な場面は、「大政奉還」にあたって「将軍」の「天皇」に対する態度であった。

かつて、全国の諸侯を武力でもって平伏させた将軍が、自らは武力を持たない天皇に平伏したのであった。

このことは、我が国がヨーロッパの王政や民主主義とは違った「システム」で機能していたことを示す。

国民が選挙を通じて選んだ代表が、議会を作り、法を作って行政に命じ、その法を司法が護る、という三権分立「ではなく」て、権力はないがあくまでも国民の側に立つ天皇の存在が、国会や行政府の暴走を阻止し、司法に拠り所を与えていたのである。

本来なら我が国は、このシステムに「戻す」べきなのだ。

あえて言えば、昭和の時代とは、最期の天皇として、既にヨーロッパを模倣した明治政府に破壊されて壊れかかっていたこのシステムを、なんとか保持した昭和大帝がおわしたことでの「繁栄」であったといえる。

この意味で、昭和天皇はヨーロッパ的「立憲君主」ではなくて、日本ローカルな伝統的「権威」であった。
しかし、これを許さない、明治政府がつくった「立憲君主」としての振る舞いの強制が、国家の破滅を呼んだのであった。

「平成」とは、昭和以前から古代までの「天皇の権威」が、昭和天皇の寿命と共に、とうとう決壊して流出する時代だったともいえる。
それが、経済の停滞となって現れたのであって、この逆ではない。
だから、昭和天皇が衰弱したときに「タガ」が外れて「バブル」となって、崩御によって政府がバブルを崩壊させたのも、偶然ではない。

絶対的に民をおもんばかる天皇が「希薄」になって「無視」されたとき、「国民は自分本位」に走り、その国民を締め付ける「政府の専横」が起きたのである。

つまり、わが国のヨーロッパ的「三権分立」さえ、政府は無視することができる。
なぜなら、「ヨーロッパ的悲惨」の歴史背景が、わが国には「ない」からだし、密かな天皇への敬愛が「国民心理=無意識の天皇依存」であったから、政府はよほどのことは自重できたのに、これが溶けて流れたからである。

戦争は、国民が要求していたことだと再確認しないといけないのは、ここにも理由がある。
決して「軍の暴走」ではなく、尻込みする軍を「叱咤」したのは国民だった。
「マスク警察」の譜系の源流とは、国民の開戦要求で、躊躇するものを「非国民」呼ばわりした「流れ」なのである。

ならば、「令和」とは何かは容易に想像できる。

いよいよ我が国が、その「歴史を終える」時代なのである。
皇統の継承問題を指すのではない。
前例を言えば、「継体天皇」を見つけてきて即位させた歴史があるから、皇統自体はどうにでもなる。

そんなわけで、ついに国民にできる「せめてもの抵抗」が、最高裁判所判事の国民審査しかなくなったのだ。

しかし、最初からこの「審査」には、絶望的情報不足が企図されていて、国民が「審査」するには不可能な情報しか与えられていない。
「なんちゃって」審査、なのである。
「公報」をよく読んでから「審査」するひとも少数だろう。
この「公報」にある、裁判官の意気込みや趣味などの情報は必要なのか?

もっとも重要なのは、確かに、どの判事がどんな判決を下したのかではあるけれど、国民生活に身近なのは、最高裁判所「以外の裁判所」の判事の「人事:昇格・降格:人事評価:人事異動」の権限なのである。
これは、最高裁「事務総局」が仕切っている。

トップたる「最高裁判所長官」は人事権を単独で行使しているのか?
それは、どんな「基準」なのか?
「丸投げ」ならば、この事務総局の長も審査の対象にしないといけない。

認証官の判事がこれを兼務するのか、どうなのか?
これをしないで放置、あるいは国会に法改正を自ら進言しない、判事たちには、組織人として「✕」を書くしかないのである。