アナログ・トランスフォーメーション

DX(デジタル・トランスフォーメーション)を政府がいいだしたから、これからはDXの時代なのだ、という阿呆な民間企業経営者が存在するのに唖然とする。

政府は必ず失敗する、という法則をしらないで、民間企業の経営ができるのは、その企業の株主達もきっと阿呆にちがいない。

もっとも、わが国の上場企業株式は、すでにもう半分が日銀(ETFという投資信託)で、残りの半分も外資(外国人投資家)が所有するに至っているから、日本企業の所有者の国籍はとっくにあやしい状態にある。

日銀は「沈黙の株主」だから、「ものをいう株主」とは、外国人投資家のことになっている。

そんなわけだから、いまの日本企業の経営者たちは、外国人株主の顔色を見て経営しているし、もしも外国人投資家に何かを主張しようとしたら、日本政府の意向をいえばなんとかなると思い込んでいる。
その日本政府も、外国巨大企業に買収されてマフィア化しているのに。

だから、いまや日本政府も「逆神」になった。

もう決して、『大魔神』のように庶民(だいたい女と子供であった)を助けるようなことはない。
むしろ、子供から先に犠牲となるようにしている悪辣があるけれど、これに気づくおとなが阿呆化して皆無になったので、政府は好き放題を満喫している。

むかし、わたしが若い頃、会社の仕組みを「システム化」するように命じられたことがあった。
この「システム化」とは、コンピューターを使った自動化のことだった。
当時は格好をつけて、オフィス・オートメーション(OA)と呼んでいた。

さすがにとっくに、ガリ版印刷の時代ではなかったけれど、ガリ版印刷が廃れたといってもまだ10年経っていなかった。
専用紙に鉛筆やらシャープペンシルで書いた原稿を、特殊なドラムに巻き付けると、隣のドラムに焼き付け転写されて、印刷原板ができたものを「FAX」と呼んでいた。

この原版を謄写印刷機にかければ、ガリ版よりも楽に印刷できたのだった。

それが、一枚あたりにしたらやたら高価な、いまのコピー機全盛になった。
「ゼロックス」が名詞ではなくて、動詞の「ゼロックスする」になった。

コピー機の代金よりも、消耗品たる紙とトナーインクの方に売上の重心を置いたのは、あらゆるビジネスの基本モデルになった。
「ピカ一回いくら」という計算には、紙代とトナー代を足さないといけない。

ゼロックス社はコピー機を製造販売しているようで、じつは、紙とインクの販売商社だった。

そのゼロックスのコピー機設計部隊が、チームごと売り買いされて、ライバル会社を渡り歩いていてた。
明日はキャノンか?それともリコーか?そうやって、またゼロックスに帰ってもいた。

その都度、技術者たちの所得が上がったもので、カラー・コピー機の開発ではもっとあからさまだった。

ところが、ユーザー側の会社では、「アナログ・トランスフォーメーション」に熱心だったのである。

これはいまではあんがいと、灯台下暗し、である。
紙に書いて、うまくいかない社内情報の共有が、どうしてコンピューター化でうまくいくものか?という思想は、いまさらに正しいのである。

それだから、どういった情報の社内流通の実態があるのか?をずいぶんと調査させられた。
すると、二通りの流通経路があるのはすぐにわかる。
・組織図通りのフォーマルな流通
・組織図にない、社員やらの個人のつながりによるインフォーマルな流通

フォーマルな流通は、組織図通りなので、上意下達か下位からの報告という二通りの流れになる。
インフォーマルな流通は、組織図とは関係のない斜め横やらさまざまなな人間模様を通してできている情報網で、その都度、という形式もとる柔軟性がある。

結局、会社が予算をかけて構築するOAとは、やっとフォーマルな情報網の、上位下達でしかないことがわかった。
下位からの報告は、管理職の訓練度合いや社内派閥によって、場合によっては握り潰されることもある。

いったん握り潰された経験を下位が経験すると、もう二度と報告の対象にされないこともある。
それで、上層部に下位の底辺情報(だいたい接客情報)が、あがらない事態ができる。

よって、「飲みニケーション」という方法が、原始的でインフォーマルではあるけれど、もっとも早く正確な情報網を構築する。

ならば、外資ではどうなのか?といえば、インフォーマルな情報網の「全盛」なのである。
彼らの飲みニュケーションは、ボスの自宅で開催される週末のパーティなのである。
この結束は固く、いわば「一蓮托生」となっている。

しかし、日本的でないのは、柔軟性に欠けることであって、仲間内と外との排他的な関係にある。

これが、巨大派閥を形成して、企業そのものの経営を牛耳るのである。
よくある、外国企業の不祥事がこのパターンで現れる。

昨今、わが国の企業で、創業一族による不祥事が目立ってきたのは、一種の欧米化の悪い意味での顕在化であろう。
ただし、淘汰の対象になるのは、まだ経済原理が健全に作用しているともいえる。

デジタル・トランスフォーメーションの成功には、真っ先にアナログ・トランスフォーメーションの成功が欠かせないが、それがいまだに飲みニケーション依存だけならば、どうしてくれよう?というレベルなのである。

破局噴火の破局のはずが

最近、国内日本史ブームを超えて、縄文時代が世界的に注目されている。

それは、遺跡からの発掘遺物の発見があるからで、これまでいわれてきた世界4大古代文明よりもずっと古いことで、注目されているのだ。
もちろん、世界4大古代文明といえば、エジプト、メソポタミア、インダス、黄河の各文明を指す。

エジプトはナイル川、メソポタミアはチグリスとユーフラテスの川の間、インダスと黄河はそのまま川の名前になっている。

つまり、人類の古代文明は、川と共にあった。

しかし、これらよりも古いことがわかっている縄文時代は、広く日本列島に起きたものだから、特定の川とは関係がない。
むしろ、文字がなかった、ということ一点で、文明とはいえないという説が主流だった。

ところが、近年の研究で、縄文人は文字を持っていた可能性(「神代文字」や「カタカムナ」)が指摘されだして、都合が悪くなった学会は否定に躍起となっている。

どうして学会に都合が悪いのか?と問えば、わが国の歴史が、「近隣諸国条項:教科用図書検定規則(平成元年文部省令第20号)」という外交成果で、そのまま国際政治になってしまったからだ。
具体的には、これで、義務教育諸学校教科用図書検定基準(平成元年文部省告示第15号)と高等学校教科用図書検定基準(平成11年文部省告示第96号)となっている。

小中学校では、もう35年間、後期中等教育の高校で、24年間、変な歴史が子供たちに刷り込まれていて、とっくに「中年」のおとなになってしまった。

日中韓の三国で取り決めたものだから、古いもの自慢の中に学問成果も巻き込まれて、中韓の方が常に「古いはず」という定義を守ることが、わが国の学者の仕事になった。

また、そうやって何がなんでも日本の方が新しい(劣っている)ことにすれば、文科省からの研究費がもらえる。
つまり、日本人は学問を乞食の趣味にしてしまったのであるけれど、本物の乞食がいなくなって久しいから、この手の学問をやっている学者だけが、本物の乞食になったのである。

その本部が、東大だから、およそまともな親のもとに育った子供なら、決して東大に行って歴史を学ぼうとするものはいない。

「生涯学習」が重要になってきたのは、文科省から独立しているカルチャーセンターの授業が「まとも」なのに、生徒たる高齢者(近隣諸国条項前に子供だった)が気づいたからだし、教える教授陣はいまどき大学でも言えない本音をカルチャーセンターでなら言える学問の楽しみを見出したのだ。

逆にどうしても乞食の親分になりたいという野望があるなら、絶対に東大に入学しないといけないのである。

それでもって、歴史という学問を修めるよりも、最下位でいいから文部科学省の役人にキャリア入省しさえすれば、本物の乞食の親分になれるのである。
この意味で、前川喜平氏は、もっとも本物の乞食志向を貫いた人物として名前を残すことになったので、文部科学省として誇らしいことにちがいない。

それが証拠に、文部科学省は、近隣諸国条項をなんとか破棄すべし、という提言を一度もしていない。
もちろん、乞食の親玉を束ねる自民党も同様である。

さてそれで、地球規模の大噴火というのは、歴史的事実としていくつもあったことである。

30万年に一回という、イエローストーンの破局噴火は、「前回」のものとして、北海道でもそのときの火山灰が地層から発見されている。
「破局噴火」とは、マグマが一気に噴出する壊滅的な噴火形態をいう。

アメリカ国立地質学研究所は、前回から30万年が経過している現在、火星移住のためのNASA予算よりも優先させてイエローストーンの状況を測定している。
予想される噴煙被害は、噴火後24時間で地球を一周(自転速度とおなじ)するし、マッハの速度で太平洋を高さ300mの津波が襲うことになっている。

まさに、破局である。

1%の誤差でも3000年になるから、人間の人生なんて、惑星たる地球レベルの活動では無視できる時間数なのだ。
もちろん、イエローストーンが爆発したら、人類の排出する二酸化炭素の数万年分どころではない量が、一気に放出されるけれど、地球を覆う火山灰で数万年から10万年ほどは太陽光が地上に当たらない状況が予想されている。

つまり、地球は温暖化ではなくて、氷の星になってしまうのである。

これよりずっと小さいけれど、わが国では、約7300年前に「鬼界カルデラ(アカホヤ)の破局噴火」があったのである。
いまもある、種子島と屋久島は、このカルデラの外輪山だといわれている。

それで、九州は全滅したのは確実で、四国も半分ほどは全滅を逃れられなかったという。
この爆発から、1000年間、九州には人間が住んでいない。
なお、青森など東北の地層から、アカホヤの火山灰が見つかっている。

実際に、福井県の水月湖湖底堆積物の研究から、1995年より7325年前にアカホヤ火山灰が降り積もったことが確認されて、「世界標準時」となったので、近隣諸国条項も通じない。

「世界標準」こそが、近隣諸国条項潰しのもっとも効果的な根拠なのである。

一方で、朝鮮半島には、12000年前から5000年間人間が住んでいた形跡がなく、突如、半島南部に人が暮らし始めたことがわかっている。
それが、九州や中国地方から逃げた縄文人だったのではないか?と。
なぜなら、このひとたちは、米を栽培していて、そのコメのDNAが、日本のものとおなじだからである。

さらに、揚子江の河口ではじまったという、水稲栽培も、時期的に鬼界カルデラの破局噴火と一致している。
これも、まさか、縄文人たちが南に逃げてのことなのか?

地球には、自転に伴う偏西風が必ず吹いているので、火山噴火の猛毒ガスから逃れるには、風上に向かわないといけない。
すると、朝鮮半島の南岸や揚子江の河口付近というのは、理にかなっているのである。

しかしながら、このような「トンデモ説」は、当分、学会の公式見解になろうはずもない。

いまや、「日本史」も外国の、たとえばオーストラリアとか、縄文土器が発見されている南米とかの学会が頼りになっている。

日本をリセットできるのか?

「日本史」をみれば、この国の一貫性が、世界のどこにもない「特殊」だということに気がつく。

世界は、たいがい戦争での興亡があって、滅亡したり征服したり征服されたりを繰り返しているからだ。

いったん征服されると、その後は長い年月と世代を奴隷の身におかれるもので、たとえば、古代エジプトの最後の女王、クレオパトラ7世の時代にローマの属国になってから、ざっと2000年間、エジプトは一度も独立したことはなかった。

王国として独立を回復したのは、1922年に英国から独立してからのことで、ここ100年の出来事なのである。

しかし、わが国の戦後史を振り返ってみれば、占領期を除いて独立を果たしている、というウソがまかり通っていて、ほんとうは1945年以来、わが国は連合国の植民地のままにある。

これは大変なことで、いわば「古代から続いていた日本」は、とっくに滅亡したのである。

つまり、ざっと80年も「独立ごっこ」をしているのである。
もちろん、「占領時代」という時期があったことさえも、学校で教えないから、なんの話かもわからない日本人が多数になっている。

それで、一度も外国の侵略を受けたことはない、なぞという「神話」を真顔で口にしても、だれもおかしいといわなくなった。

これは、国家総合職の官僚もおなじで、官僚養成学校はもっと酷い教育をして、エリートを育てていることにしている。
だから、国家総合職試験の問題は、たいへん難しい問題ばかりが出るのだけれど、そこに「国家観」が欠落していても、誰も不思議とも思わないで、エリート官僚が採用されている。

これが毎年の採用で、年輪にようになって、国家の組織がつくられているので、全体が腐るのは道理なのである。

どう腐るのか?

総合職ではない、いわゆる「ノンキャリ」が実務を仕切ることになっていて、「総合職:キャリア」が、ノンキャリの仕事を監督することになっている。
これが、「上」というものだ。

『刑事コロンボ』が畏れた、「うちのかみさん」ともうひとりが、「うえ」とか「おえらいさん」だったことを思い出せば、官僚とはそういうものだとわかる。

けれども、日本の官僚は、悪い意味での日本人だから、「まじめ」さを強みにしている。
だれもが「まじめ」にノンキャリの仕事を監督している風情で、かつ、政治家も「まじめ」に相手にしないといけないし、政府調達にかかわる民間企業にも、「まじめ」に相手するはめになるのは、相手が訪問してくるからである。

このとき、政治家の口利きがあれば、なおさらノンキャリの仕事ではなくて、キャリアの仕事になるのは、ノンキャリの分際だとなにをしでかすかわからないからである。
じっさいに起きたへんな接待で籠絡されたのは、たいがい「国家・係長」というノンキャリであった。

民間企業だと、企業内のさまざまな仕組みの「改善」は、現場からなにから、基本的には自己提案させることになっていて、これを仕切るのが、よくある「社長室」とか「企画部」という部署の社内官僚達だ。

しかし、国家なり地方なりの公務員の世界は、これができない。
たいがい、「規則」が明文化されていて、これに則った業務をしないと「いけない」からである。
国家なら、そもそも「省庁設置法」からはじまり「大臣令」とかと続く体系になっている。

なので、たとえ大臣に就任しても、おいそれとこの体系を変更することは、大臣にもできない相談になっている。
ならばどうするのか?

なにもしない、のである。

これこそが、「お役所仕事」の究極的本質なのである。
国民に対しては、あれこれと「法令」なり「通達」やらをもって、いろんな事を押しつけてくるけれど、役所内部に関してはなにもしない。

「綱紀粛正」で粛正されるのは、ノンキャリで、キャリアは責任をもって粛正をする側になるという無責任が、当然の世界なのである。

だから、国民も、いろんな押しつけでもって不便さを強要されればされるほどに、役所がなにかをやっていて、それが「進歩」であると勘違いしているけど、じつはなにもしていなくて、ただキャリア役人の楽なことをしたら、国民への押しつけになる、という構造になっているだけなのである。

もちろん、国家観が最初からないので、ただ目先の問題を、受験感覚で処理しているのである。

世界が安定しているなら、これはこれでも機能した。
しかし、世界が不安定化しはじめたから、これはこれで機能し続けるのは、国家存亡の危機となる。

国民にとって、レジ袋を強制的に買わされる不便とは、次元のちがう、「命」にかかわる事態なのである。
この改善を、在日アメリカ軍がやってくれるはずもないから、日本人が自分たちでやらないといけないけれど、それがこれまでのエリートたちにも不可能な役目なのである。

つまり、日本にエリートが絶えて、だれかいるはずと思っていたら存在していなかった。

結局、自助努力でなんとかできない、奴隷のエリート国家だったのである。
しかし、いまあきらめたら、永遠なる奴隷にされる。

日本人は日本をリセットできるのか?
向こう1000年を決める危機が、いま、目の前に迫っている。

ソロス財団の宣戦布告

富の集中が、産業の成功ではなくて、ヘッジファンドなる不労所得になったのは、マルクスにも想像できなかったことだろう。

にもかかわらず、マルクス主義が盛んなのは、色あせて使い物にならない「資本論」からの結論ではなくて、単に、全体主義が好きな、一種の倒錯した性的嗜好にも似た変態が跋扈している、ともいえるからである。

日本語で、「H:エッチ」とは、「へんたい:HENTAI」の「H」をさす。

ハンガリー人ではあるけれど、母国ハンガリーから嫌われまくって、実質的な国外追放をされたのがジョージ・ソロスとその財団である。
ハンガリーでは、「反ジョージ・ソロス法」まで立法されている。

日本人はハンガリーといっても遠い国でしかないけれど、ヨーロッパで特別視される国なのは、あのハプスブルク帝国の一翼をになった、オーストリー=ハンガリー二重帝国のひとつだったからである。

その意味で、ヨーロッパの中心なのがハンガリーだ。

第二次大戦後、ソ連の衛星国にされた悲劇は、ハンガリー人にとっての不幸にちがいないけれど、ハッキリ隷属させられることの意味を体感したのは、不幸中の幸いであった。
それがまた、ソ連の衰退を目の当たりにしたときに、「ヨーロッパ・ピクニック」という計画を実行したハンガリーの矜持にもなったのである。

「ピクニック」を装って、オーストリア側国境を開放して、東ドイツ人を西側に大量亡命させたこの計画は、後のベルリンの壁崩壊に直結する歴史的快挙であった。
もちろん、この間のソ連時代には、ハンガリー動乱を潰された痛い経験すらあったのだ。
それはまた、他の東側諸国への「みせしめ」の意味もあった。

ジョージ・ソロスという人物が、どうして全体主義を推進しようとするのか?については、わたしにはよくわからない。
彼の家系の安泰(支配者層に永久に留まる)を夢見ているのか?それとも、社会的な正義だと信じているのか?あるいは両方なのか?

どちらにせよ、金持ちの身の程知らずにほかならない。
国際刑事裁判所は、プーチン氏に逮捕状を出したけど、ジョージ・ソロスがもっともふさわしい人物なのではないか?

将来、BRICsが世界の主流になった際、この逮捕状を出した裁判官達に逮捕状がでるやもしれぬが、それはまちがいなく「正義」を名乗るのであろう。

さてそれで、ソロス財団は、息子に会長職が譲渡されて、いよいよトランプ氏とMAGA運動への宣戦布告をした。

これはたいへん奇妙なことだ。

社会(福祉)活動を旨とする財団が、完全なる政治団体として活動するなら、「政党」を名乗るべきだからである。
おなじく、ビル・ゲイツ財団しかり、ザッカーバーグ夫妻に至っては完全なる選挙買収を行った。

こうした仲間を通じて、さらに、世界経済フォーラムも含めて、大富豪達が一般人の生殺与奪の権を握ることの正義は、まったくもって理不尽でかつ暴虐な発想だけど、彼らのいいなりになることで、政治家も富を得るという世の中になった。

ゼレンスキー氏の親戚名義で、エジプトに豪勢な別荘を購入したのも、わが国ではニュースにならず、ウクライナにこれまでの西側援助金の使途を説明せよ、というヨーロッパ議会の動きについてもニュースにならない。

ロシアが圧倒する戦況からしても、現物支給したはずの武器弾薬が、どこかに横流しされている噂は絶えず、ましてや現金支援であるなら、ウクライナ政府内での分配が行われているという噂は、はなから汚職国家だったことで、だれも驚かないのである。

つまるところ、戦争の継続とは、究極の国際マネロンにして、公金チューチューなのである。

これが、グローバル全体主義のもっとも大きな「うまみ」なのである。
各国の金や資産を、個人のものにできる。
しかし、その個人とは、グローバル全体主義者に限定されるから、そうでない一般ウクライナ人たちの生活だけが破壊されている。

ロシア軍の仕業だとプロパガンダしていた、数々の遺体放置などの事件がウクライナ側の仕業だと奇しくもわかるようになったのは、ウクライナ軍兵士達の遺族が、キエフのマイダン革命広場で行った大規模デモで明らかになった。

ウクライナ軍は、戦死者の遺体を現場に放置しているため、遺品のひとつも遺族のもとに返ってきていないのである。
これにさしもの軍人遺族も、我慢の限界を超えたのである。

どんな形で終戦となるのか?は、プーチン氏次第になってきている。

彼の頭脳からしたら、ゼレンスキー政権の崩壊がもっとも望ましい平和的解決なのかもしれないが、そのために、北部ロシア語圏の占領とオデッサの港を確保することで、ウクライナを内陸国に閉じ込めるのが、もっとも軍事的には合理的であろうし、そもそもの戦争目的に合致する。

もうこの戦争の決着が見えてきたから、いよいよソロス財団がトランプ陣営(MAGA運動)への宣戦布告をしたのは、「背水の陣」ともいえる。

ただし、しぶとく悪あがきをするひとたちがグローバル全体主義者なので、東アジアにあたらしい戦争を起こして、戦時には大統領選挙を行わない、という伝家の宝刀を抜くやもしれぬ。
そこまでしないと、アメリカ民主党・戦争屋政権は生き残りができまでになっている。

ならば、アメリカは「第二次シビル・ウォー」に突入するのか?
内陸部共和党の支配する州や地域には、すでに多数の私設軍が組織されているのである。

とばっちりを喰らうような立ち位置にいるのが、わが国なのである。

盛り上がるアルゼンチン大統領選挙

先月、8月13日に実施された、アルゼンチンの予備選挙で、第3勢力と見なされていた、例によって「極右」の、ハビエル・ミレイ氏が大躍進してトップに躍り出たので話題になっている。

アルゼンチンの選挙では、大統領選挙だけでなく、予備選挙が行われて、「足切り」をやっている。
これは、わが国の世界一バカ高い「供託金制度」よりはマシだろう。

現政権と左派勢力が結託して、ミレイ氏に対抗すると予想されるが、はたしてどうなのか?

ミレイ氏は、熱烈なトランプ支持者だという。
そのために、超大胆な公約を掲げている。
なによりも、自国通貨の放棄で、アメリカ・ドルを唯一の法定通貨にするのも、中央銀行の廃止を訴えているからである。

これは意表を衝く案だ。
ただし、そこまでアルゼンチン経済はズダズダなのだろう。

すると、こないだのBRICs首脳会議で決まった、来年からのBRICs加盟はどうなるのか?
ドル離れを進めるBRICsとは反対方向になるからで、ミレイ氏は「加盟しない」旨を発言している。

そうはいっても、大胆な公約には、石油公団の民営化ばかりか、中央政府の多くの省庁の廃止も訴えている。
ようは、国民の役に立っていない、と。

これが、国民の拍手喝采を得ているのである。

マフィア化した政府をぶっ壊す!といった感じだろう。
なんだか、アルゼンチンだから、どれほどのマフィア化なのかを想像すると、そら恐ろしくなるけれど、わが国のしれっとしている分スマートなマフィア化の方は、より有効度という意味で恐ろしい。

やっぱりアルゼンチンだから、荒っぽいにちがいない。
これに、国軍の利権がからむ。

さらにいえば、アメリカへの不法移民の供給源でもあって、移民ビジネスが跋扈しているし、当然ながら「お薬」とか、「児童人身売買」もセットにあるだろう。
供給源を断つ、という意味で、どんな連携をトランプ氏ととるのだろうか?

それに、石油に関しては、プーチン氏がやった国益確保という意味の石油政策を、ミレイ氏は参考にするのか?
いまや、BRICsが世界の石油の8割をもつに至っているので、完全加盟ではなくとも、この点では無視できない。

単なる民営化では、アメリカの石油資本にすきにされてしまう。
ただ、ドルを法定通貨にするための条件にされるかもしれないから、しのぎを削る攻防戦となろう。

さてそれで、「金価格」に異常がみられるようになってきている。

歴史的に、ロンドンやニューヨーク市場での金価格形成に、かならず「金利」がまとわりついていたのに、ここ最近、金の独歩高となっているのだ。
金には金利がつかないので、金利が高くなると金価格は低下し、金利が安くなると上昇するということが繰り返されてきたのである。

しかし、いま、金利の動きから金の価格は切り離されて、ずっと「買い」の状態が続いている。

これは、BRICs諸国を中心に、金が買われているからである。
それに、BRICs諸国のGDP合計は、すでにG7を抜き去ったから、その影響度が過去とはちがう。

アメリカ民主党の世界規模での破壊的政策が功を奏してはいるけれど、まさかのBRICsに力を与えることになって、やっと気づいて「まずい」となっている無様がある。
もはや、アメリカは、とうてい一国だけで、世界を牛耳ることができなくなったのである。

この地殻変動ともいえる、力のひずみが、アルゼンチンに噴出しているのである。

ヨーロッパも、EUあるいはNATOが、ほころびだすのは、ウクライナ戦争と気候変動対策という名の、富の無駄遣いに、国民が納得しないからである。

また、アフリカでは「反フランス」の結束ができて、マクロン政権は軍事行動を検討するに至っている。
フランスが通貨発行権をもつ、CFAフランこそ、植民地の証なのである。

数百年単位で時計をみたら、ヨーロッパと(北)アメリカの時代が終わろうとしている。

ロシアは、ユーラシアのヨーロッパから、ユーラシアのアジアへのシフトを鮮明な国家戦略として発表しており、かえってヨーロッパでも親ロの国々に不安をもたらしている。
これら親ロの国々とは、南ルートで天然ガス供給を受けている国をさす。

わが国にとっては、極東ロシアや北極海航路がキーワードになる当然がある。

このようななかで、アルゼンチンはどこへいくのか?
あんがいと他人事ではないのである。

10月22日が本選。

人類を救うWHO脱退運動

「世界政府」の危険について書いてきた。

わたしが子供のころは、「国連信仰」があって、自民党を牛耳った小沢一郎氏は、「国連第一主義」を提唱して、国家独自の外交を放棄するのが正しいと主張したものだった。
それがいつの間にか、「国民の生活が第一」となったので、腰が定まらない安っぽさだけが目立って、政治の主流から排除されたのは国民の生活にはよいことだった。

ただし、小沢氏のような政治家が夏の終わりのクラゲのように涌き出るものだから、駆除しきれない困ったがある。
これも、「公害」なのだ。

わが国の政治が完全にダメになったのは、「小選挙区比例代表並立制」という選挙制度になってからだ。
自民党に都合がいいのは、自民党がこれを廃止しようとしないことで明らかだ。

この選挙制度ができるまでの自民党は、まだ「まとも」だったけど、急速に左旋回していまのようなグローバル全体主義政党になるのは、なんでもかんでも「票」を呑み込むことだけに専念したことの結果である。

この行動に、政治信条は関係なく、票を得た者勝ち、という単純原理がすべてとなったのである。

むかしは共産党のポスターが「アンチテーゼ」になっていたから、その逆の政策をいうひとが正しいとおもえばだいたいあっていたが、いまは、共産党のポスターが正しくみえることがある。
それだけ自民党の政策がメチャクチャなので、最近では共産党にはもっと頑張ってほしいともおもうのである。

この際、共産党も戦後すぐの一大政策、「憲法9条反対」をリバイバルしたら、さぞや支持を伸ばすのだろうに、とおもうけど、できない相談だろうから残念至極なのだ。

なぜに共産党が当時、「憲法9条反対」を主張したのか?といえば、「国家の独立」をちゃんと意識していたからである。
独立国家には、国防軍が必要で、独立国には外国軍を入れてはならない、という、至極まっとうな国家観があったからだった。

これがヘンテコな変容をとげて、アメリカ軍がいなくなったあかつきには、自衛隊を国防軍にする、という騙しをもって妥協したのである。
ほんとうは、日本人民軍でないといけないはずなのに。

国防軍とは「国軍」のことで、政府軍のことをさす。
人民軍とは、「党の軍」であって、共産各国が採用し、ヒトラーのドイツも、「親衛隊」という党の軍を国軍とは別に組織していた。

この意味で、後世にいわれだした「吉田ドクトリン」とは、国防をアメリカ軍にさせて、経済発展だけを狙う、という言い分の矛盾がみえてくる。
なんのメリットがあって、外国がわが国の国防を担うのか?
しかも、わが国の製品がその外国の経済を痛めつけて、国民の失業をもたらしてまで?

答は、植民地なのである。
だから、アメリカはバブル経済を起こさせて、これを潰し、以来、わが国の衰退が止まらないのである。

ならば在日アメリカ軍とはなにか?といえば、占領軍なのである。
彼らは、日本防衛をしているふりをして、日本を占領している。
それが、ナイ教授のレポートでも明らかなのだ。

しかして、日本人のほとんどは、とっくに「国家観を喪失した」ので、独立の意味もわかっていない。

日本のパスポートが世界最強、といって自慢するのは、それがどんな意味からのことかをかんがえたら、世界最弱になる可能性に身が震えることだろう。

戦術でも戦略でもロシアに勝てっこないウクライナに、アメリカ民主党のいいなりで肩入れしてきたけれど、先にヨーロッパ諸国が息切れしてきて、もう追加援助はできないと表明する国が、ドイツを筆頭にいくつもでてきた。

国民の不満が高まって、各国の政権基盤が弛んでいるからである。
この意味で、まだ民主主義が機能している。

わが国は、ロシア(メドベージェフ元大統領)から、「第二次大戦戦勝記念日」で名指しされて突っ込まれているのに、大本営発表のようなマスコミは一切無視して、国民に情報を伝えていない。
すくなくとも、ロシアは「隣国」だということさえ、日本人は忘れたのか?

それでもって、プーチン政権が倒れればいい、なぞという、アメリカ民主党(戦争屋)がたてた、「Aプラン」をいまだに信じている。
しかし、プーチン氏はとっくに「Bプラン」にも気づいていて、長期戦を仕掛けてくることの防御を作戦の優先におきはじめたようである。

ロシア系がおおく暮らす、北部と、黒海の港町オデッサの占領をもって停戦を提案する可能性が高まっている。
ウクライナ側は、オデッサを失うと、海を喪失する。

こんな情勢を冷静に、ハンガリーのオルバン首相は分析している。

さてそれで、劣勢になった世界経済フォーラムなどのグローバル全体主義者たちは、来年の5月を目指してフル稼働している。
それが、「パンデミック条約」による、WHOの世界政府化で、各国はWHOの支配下に入るのか?が問われている。

この条約は、二重構造になっていて、「条約」と「規約」がある。
じつは、「規約」がやばいのだ。
加盟国の投票で過半数を占めたら通るのが「規約」で、3分の2以上でないと通らないのが「条約」だからである。

自民党はこんな国家主権の喪失に関する重大な議決に、国会を軽視したまま賛成票を投じるにちがいない。

ために、いま、世界でマスコミが報じないから「密かに」、WHO脱退運動がはじまっているのである。

なお、ボランティア医師たちによる、WHOに代わる自由世界のための、「ワールドカウンシルフォーヘルスジャパン(WCH-Japan)」が5月に設立されている。

「瀬戸際」という言葉がふさわしい人類の危機がそこまでやってきている。

現代と平安時代の文化比較

リアリティを喪失すると、ファンタジーと現実の区別ができなくなって、かなりのトンチンカンな言動となる。

もしも完全に、ファンタジーと現実の区別ができなくってそのままなら、それは一般的に精神に異常をきたしたとして医療機関のお世話になるハメとなる。
残念ながら、わが国は、世界一の精神病棟・病床数を「誇って」いて、500万人が「病気だ」と診断されている、世界一の精神病国家なのである。

もちろん、こんな状態になりたくてなったわけではない。

それでいわれている原因の第一が、ストレス社会、という妙な共通認識なのである。
では、わが国は、いつからストレス社会になったのか?
あるいは、ストレスへの耐性がなくなったのは、どうしてなのか?

こうした、社会的要因とか、外部環境要因とかをかんがえると、おのずと「歴史認識」という方向へと向かう。

たとえば、1000年前の平安時代とは、どんな時代だったのか?
基本的に、戦争がなかったので、「平安」だったというけれど、果たしてほんとうか?

むしろ、「イェルサレム:エルサレム:アルサラーム:The 平安」ということで、平安を願って付けただけの都の名前だったのではないのか?

短命だった「長岡京造営」では、親王クラスの暗殺があるし、「天神様」になった改革派、菅原道真も政変で左遷の憂きの目にあう。
そもそも、藤原氏の台頭は、応天門の変による、政敵、大伴氏と紀氏を排除してのことだった。
後期には、平家の台頭と、陰謀がセットになって、「乱」になり、ついには源平合戦になったのだ。

平城京の木簡から、1万人をこえるペルシャ人官吏の名簿が発見されて、むかしからの伝説、平清盛は碧眼(青い目)だったことから、平家ペルシャ人説まであるのだ。

さて、平安時代を描いた作品として、高校現代国語の定番といえば、芥川龍之介の『羅城門』にちがいない。

ここに登場する主人公は、「下人」である。
1950年、ヴェネチア映画祭で金獅子賞をとった黒澤映画の、『羅城門』は、同じく芥川の『藪の中』をもとに橋本忍が脚色した作品だ。
やはり、主人公は、「下人」なのである。

おかげで、『羅城門』は、二つの話がこんがらがるのである。

 

平安時代といえば、『源氏物語』と『枕草子』が双璧で、『古今和歌集』が思い出されて、王朝絵巻のイメージがある。
それで、木村朗子『平安貴族サバイバル』(笠間書院、2022年)が、現代人のサバイバルと「似ている」としているのは、なかなかに興味深い。

圧倒的多数であったはずの、農民や、都会に巣食う下人のことではなくて、貴族のサバイバルと現代人の生活を比べているのだ。
その根拠に、現代になって顕在化してきた、「格差社会」という現実を強調している。
著者がスポットをあてたのは、貴族社会における出世競争なのだ。

しかも、生まれもった序列を突破するためには、学問を修めるほかなかった、と。
つまり、著者は現代人の受験競争を指している。

しかし、これらは本書の「つかみ」であって、決して浅はかをあげつらっているのではないから、念のため。
逆に、王朝内の教養競争は、男を凌ぐほどに激烈化するのは、権力の源泉が娘の子が次期帝になること一点に集中していたからである。

これは、江戸期から戦後まであった、「公娼制度」に転移された。
富裕層の男性を籠絡するのは、女性の教養が第一であったのだ。
それがまた、夜の銀座にも引き継がれて、ときのひとにまでなる「ママ」とは、まったくの教養人であった。

ヨーロッパだと、ヴェルディが残したオペラ、『La traviata:道を踏み外した女:椿姫』が代表的か?
ただし、こちらは教養が強調されているわけではない。

平安後宮での常套句に、「女にて見たてまつらまほし」がある。
女にしたいというほどの美男子、という意味だから、「美少年」ということだ。
女性がうっとりするほどの男性を指す。

かつての、「ジュリー」(沢田研二)や、ピーター(池畑慎之介)が、黄色い声を集めたのとおなじ感覚だろう。

だが、本人というよりも、熱狂する女性たちの教養はいかがだったのか?とあえて意地悪なかんがえをめぐらせば、前にも書いた、「女大学」の廃れ方こそが恨めしい。
子育てを男女問わず共同で行うべきとの強制が、子供のための発想ではなく、ヘンテコな「男女同権」の押し付けだというのは、子供からしたら母と父の役割のちがいを本能的にしっているからだろう。

中勘助の驚異的な記憶力が冴える、『銀の匙』は、相手がおばさんであってもそこに母の姿を重ねているからだとおもうのは、わたしのはるかな記憶の中にもあるからだ。
母が母性をもっているからではなくて、子供が母性を慕うのであって、父に母性を期待する子供はいない。

この意味で、平安貴族の女性たちは、母性よりもなによりもいまそこにいる男性(貴族)の寵愛を欲したのであった。
それがサバイバルなら、確かに今様なのかもしれないが、あくまでも上流階級だけの話である。

庶民は?
いつだって、『藪の中』なのである。

語学としての数学

ずいぶん前に、数学を「言語」として書いたことがある。

日本人は、母語の「国語」と、外国語の「英語」を、言語(学)学習だと思いこんでいて、言語学習とは、「文系」の科目だとも思いこんでいる。
そして、「理系」の代表格といえば、「数学」で、生徒が嫌いになるように仕向けて教えるのは、「英語」もおなじ、という共通に気がつかない。

ずいぶん前に、「国語の文法(「学校文法」)」と「日本語文法」のちがいについて書いた。

小・中学校の「国語」で習うから、これを外国人に日本語を教える日本語教師は、あえて「学校文法」と呼んでいる。
「狙い」は、高等学校の「古文」を読むための下準備だという。

しかし、外国人の日本語学習者には、とりあえず「古文」は必要ないし、外国人の母語との関係をもって説明しないと、ただでさえ複雑な日本語を理解するのは困難になる。
そこで、外国人の母語と比較できるように工夫したのが、「日本語文法」なのである。

幸か不幸か、欧米の言語や中国語は、その文法が厳密であるから、これらと日本語のちがいを比較対照することは、外国人にとってわかりやすい、という効果を生む。
なので、日本人の外国語学習者は、下準備として「日本語文法」をしっておくと、外国語たとえば英語の文法とのちがいを理解しやすくなる、という事実があるという。

日本における英語教育は、この下準備を生徒にさせない無謀がある、とはベテラン日本語教師の告白である。

さてそれで、文系人間がもっとも嫌うのが、「数学」なのも、数学とはなにか?という下準備を一切教えない無謀が、妙な伝統になって、数学教師達が生徒をマウントするための十分な理由となっている。

何度か紹介している、『教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社、2018年)で、数学者である著者の新井紀子氏は、「長い歴史を通して、数学は、人間の認識や、人間が認識している事象を説明する手段として、論理と確率、統計という言葉を獲得してきた、あるいは、獲得できたのはその三つだけだった」と書いている。

さらに、「論理、確率、統計。これが4000年以上の数学の歴史で発見された数学の言葉のすべてです」として、衝撃的な一言がつづく。
「論理、確率、統計には、もう一つ決定的に欠けていることがあります。それは、「意味」を記述する方法がないということです」。

文系人間にとって、数学の冷たさとか、無機的な不気味さの理由が、この「意味を記述する方法がない」に尽きている。

「意味」は、人間が別途かんがえないといけないのだ。

逆にいえば、きっと数学にはまった「理系人間」たちは、この意味をかんがえることが楽しいにちがいない。
すると、理系人間たちのこの楽しみとは、やたら「文系」的なのである。

役人が政策立案をすることの、「とんでもない」を、だれもいわなくなったのは、民主主義の普及がされていないから、ともいえる事象だ。
本来ならば、政策立案は、「議会」と「議員」の仕事だ。

それで、議会が決議したら、行政は粛々と実行する、という手順と役目がある。

しかし、議会と議員(政党)がシンクタンクをもたない手抜きのために、役人にシンクタンクの役割を振ってしまったので、「役人天国」ができあがった。

企業の場合は、スタッフが政策立案することになっている。
そのスタッフのおおくが、「文系人間」なのである。

だから、「数字」も文系のスタッフが用意する。
社内データはもとより、各種統計データを用いるのはいうまでもない。

しかしながら、その「解釈」の訓練はどうしているのか?
あんがいと、本人任せ、なのである。

日本企業の「強み」が、ことごとく「欧米に遅れている」として、「改革」されてきたのは、文系人たちによる破壊活動であった。
これを牽引した、経済学者の肩書きをもっていたひとは、いまでは世界経済フォーラムにおける日本人唯一の理事となっている。

このひとのよくわからない論理に、おおくのひとがだまされた。
似たようによくわからない論理をかざすのは、三浦瑠麗氏である。

どうしてこのようなひとたちが跋扈できるのか?を問えば、日本国民に対しての「論理」の訓練が中途半端だからで、それが学校教育における従来型数学の限界となっている。
実用を教えないから、なんのために勉強させられているのか理解できない。

ただ、点数をとるための解法を暗記したり、手計算の方法を身体でおぼえたりしている。
つまり、おおいなるクイズ番組が数学の授業になってしまった。

しかし、もっと驚くのは、高校数学から「行列」が消えていた。
2012年からの話である。
2022年からは統計が必須化したのと交換になったのか?
しかも、「ベクトル」も文系数学から消えるという変な扱いを受けている。

天下り問題で文部次官を解雇された、前川喜平氏は、高校の中途退学者を減らすために、数学の必修をはずせばいい、と主張しているそうだが、言語道断である。
このひとには、「教育の目的」やらの「肝心」が欠落している。

わが国は、あくまで「科学技術立国」を維持しなければならない。

そのための数学を、従来の方法ではなくて生徒に理解させる工夫が必要なのである。

ナイ教授のそれはないレポート

今日2日は、わが国が連合軍へ降伏した日である。

ただし、沖縄は7日に日米両軍の将官が「無条件降伏」文書に署名している。
アメリカのプロパガンダで、日本政府も無条件降伏したかのように喧伝されているが、日本政府は降伏したが、それは条件降伏で、無条件降伏したのは日本軍であるから注意がいる。

この日以降、アメリカ政府には、「ジャパン・ハンドラー」と呼ばれる、対日政策専門の高級官僚(SES)が存在することは一般にもしられてきている。

そのなかに、ハーバード大学教授にしてケネディスクールの学長であった、ジョセフ・ナイ氏がいる。

上の一行だけで、アメリカ民主党のブレーンであることがわかるが、じっさいにカーター政権で国務副次官、クリントン政権で、国家情報会議議長と国防次官補(国際安全保障担当)を歴任している。

いまの言葉でいえば、グローバル全体主義者である。

この意味で、「ハーバード大学特別功労教授」という栄誉があるような肩書きは、ハーバード大学がかつてのモスクワ大学に匹敵する共産主義・全体主義の一大教育センター(洗脳機関)になっていることも明らかなのである。

よい子はハーバード大学にいっちゃいけないよ。

さて、ナイ氏がまとめた『対日超党派報告書』とは、2008年(ブッシュ息子・共和党政権時代)にアメリカ連邦上・下両院から、200名の議員を集めて作成した、対日戦略会議の超党派(戦争屋ネオコンたち)による報告書だ。

主なポイントは以下の6つ。

1 東シナ海・日本海近辺には未開発の石油・天然ガスがあり、その総量はサウジアラビアを凌ぐ。米国はこれをなんとしても入手しなければならない。(と勝手に決めた)

2 上記1のチャンスは、台湾と中国が軍事衝突を起こしたときだ。米・日両軍が台湾支援をするため、中国は日本の「本土攻撃」をし、逆上した日本人は本格的に日中戦争にのめりこむ。(アメリカは日本を煽るため、得意の「偽旗作戦」と日本人の似非保守をつかう)

3 米軍は徐々に引いて、日中だけを戦わせる。

4 日中戦争が激化したところで、アメリカは仲介にまわる。(「ポーツマス条約」を彷彿とさせる)この際、米軍は東シナ海・日本海でのPKO(平和維持活動)をおこなう。

5 4によって、この地域における資源開発に、圧倒的なアメリカエルギー産業が開発優先権を入手することができる。(唐突感があるがナイ氏は気にしていない)

6 以上の前提として、日本の自衛隊が海外で自由な軍事活動をできるような状況を形成しておくことが必要である。

まことに、アメリカ民主党らしい、自分たちの利益のためなら日本人や中国人(「真珠湾」で犠牲になったように、米軍の若者も消耗品として)がいくら死んでもかまわない、という見事な「戦略」なのである。
もちろん、この文章における「アメリカエルギー産業」とは、ロックフェラーやロスチャイルドの利権のことだ。

かんたんにいえば、ロックフェラーやらの利益のために、日本と台湾を見棄てる、といっている。
これが、民主党のいう、「日米同盟」なのである。

しかしながら、こんな稚拙で一方的なシナリオが現実化するのか?

このレポートから15年経ったいま、アメリカ民主党のめちゃくちゃな政策が、各地で「反米同盟」を結束させるに及んでおり、その典型がサウジアラビアのBRICs参加になって現れているのである。
しかも、アメリカの命綱「ペトロダラー」の約束が、反故になった。

ナイ教授がいう、ロックフェラーやらの利益を民主党が自分から毀損していていないか?

つまり、策士策に溺れる、になっている。

ただし、このひとたちには、成功体験がある。
それが、ウクライナでの「マイダン革命」(2014年)だった。
もっといえば、イラク戦争だったし、リビアのカダフィ殺害、あるいは「アラブの春」だった。

どれをとっても、「悪手」ばかりで、ひとつも「妙手」がない。
いかにも、囲碁・将棋を理解していないで、パワーゲームしか能がない別文化人(=野蛮人)である。

しかし、このレポートの結論は、日米同盟の終焉を意味するから、日本人にとって、あんがいとラッキーがある。

つまり、戦後から一貫してきた、「日本占領」が終わる「かも」、という意味だ。
もちろん、ナイ氏の頭の中に、「日米同盟の終焉」なんて一文字もないだろう。
あくまでも、アメリカ民主党に都合がいいことしか頭にない。

だが、アメリカのエネルギー利権のために、なぜに日本人が犠牲になることのシナリオに疑いを持たないのか?をかんがえればかんたんで、奴隷扱いだからである。
だから、ナイ氏のシナリオが現実化するのは、日本人が奴隷のまま、という条件が必要なのだ。

アメリカ民主党は、いつまでもどこまでもずっと、人種差別を是とする、とんでもない奴らだ。
この一点が壊れたら、日米同盟という名の植民地の終焉となる。

また一方で、もはやトランプ氏を司法の武器化という不正義でしか止めることができなくなったように、民主党の支配は国内各州でも終わりがみえてきた。

もしも、トランプ氏が返り咲いたら、「アメリカ・ファースト=各国ファースト」の政治理念が示されて、やっぱり日米同盟の終焉となるのだが、日本側にトランプ政権のカウンターパートがいない、という問題が浮き彫りとなる。

つまり、わが国には、「6」のさらに前提にあたる、「独立国家」としての準備がどこにもできていない、というウソのような状態がみえてくるのだ。

なんのことはない、植民国家ニッポン、なのである。

そんなわけで、やっぱりいい子はハーバード大学にいっちゃいけないよ。
バカになるから。

私説:デパート衰退のわけ

「不要産業」の代名詞が、デパートになってきた。

セブン&アイ・ホールディングスが売却を急ぐ、「そごう」と「西武百貨店」の従業員組合は、事ここに至ってストライキを実施する、としたものの、対象は西武池袋本店「だけ」という状態になったのである。

しかしながら、西武池袋本店は、新宿とはちがった地域からの客層でごった返す、「東京」のなかのひとつの中心地にある。

これがまた、「地方」との関係でいうと、田中角栄が意図した、「全国をくまなく・まんべんなく東京化する」という、あの、「日本列島改造論」に影響された、「東京の見本市」となったので、移動が困難で東京がまだ物珍しかった時代には、それでも重宝されたのである。

東海道新幹線のオリジナル計画で、「沼津駅」があったのを、ときの沼津商工会が顧客の東京への流出を懸念して、これが「大反対運動」となって、とうとう、隣の「三島駅」に決まった。
当時の孫にあたる、現商工会のメンバーは、沼津の経済衰退を、祖父達の変な努力のおかげ、と皮肉っているけれど、ほんとうか?

沼津経済は、そんな程度で興隆も衰退もするほど単純構造なのか?

わたしからみたら、この祖父があって、この孫がいる、という、「安易さ」がみごとに遺伝しているだけだとしかおもえない。
もちろん、これは、わたしの「感想」である。

その沼津に、デパートは消滅したとはいえ、大型SCは花盛りなのである。

それがまた、東京の大手不動産デベロッパーが、金太郎飴的なワンパターンでつくって、ワンパターンのテナント募集をするので、地域特性がほとんどないナショナルブランドのオンパレードになっている。

このことは、世界でも起きている。

王太子時代がえらく長かった、英国のチャールズ3世が書いた、『英国の未来像』(東京書籍、1991年)で、ヨーロッパ各地につくられているSCの貧しい建築における「思想の貧困」を批判している。

わたしは、チャールズ3世がいう貧しさを、地元横浜の「ランドマーク・プラザ」がそれだ、と勝手に特定して見物している。

この商業店舗群のつくり方とおなじものを、ルーマニアのブカレストや、ブルガリアのソフィア、ポーランドのワルシャワで観ている。
ロンドンにも、パリにも、ほぼ世界中に点在していることだろう。

そんななか、アメリカ・カリフォルニア州で160年以上の歴史をもつデパートメントストア「メイシーズ」が、とうとう閉館の苦境に立たされている。

この最大の理由が、「治安の悪化」だ。

アメリカ民主党政権(カリフォルニア州のこと)が2014年に成立・住民投票で承認された、「Proposition 47」で、950ドル以下の窃盗は「軽犯罪」となったのである。
それで警察当局は、捜査をしない、と決めたのである。

つまり、カリフォルニア州は、「万引き天国」と化した。

もっとも、カリフォルニア州は、あの有名な、歴史上もっともついていない不幸に見舞われた、ズータ氏の牧場から出た砂金が、持ち去り放題になってズダズダにした末裔が住んでいる地域だ。

血は争えない。

所有権の絶対が崩壊すれば、近代社会はたちまち無法地帯となる。
その意味で、カリフォルニア州は、「中世以前」に回帰したので、近代社会ではなくなった。
人口が他州へ流出をはじめたのは、近代社会で生活したい、ということでの引っ越しコストになっている。

さてそれで、デパートの衰退とは、徹底した「セレクト・ショップ」でもなく、なんだか漫然と商品が陳列棚にある、という景色一辺倒になったことに尽きるとおもう。
加えて、もうひとつが、買う側の無教養だ。
商品選択にあたっての「目利き」の目がないことを、ここでは無教養という。

おそらく、地方都市でも伝統文化を子供に教えないために、地元産品の目利きもいなくなってきているはずなのだ。

するとこれは、アメリカ式マーケティングリサーチでは問題解決できない。
むしろ、「生活の歴史=民俗」の問題なのである。

となると、誰がトータル・コーディネートするのか?よりも、完全なる暮らしの理想モデルはなにか?をいったん描いて、そこからの「優先順位的な提案」を観せてみたい、というのが、消費者へ教養を付与する一歩となる。

こうした「社会的使命」をすっかり失念したがゆえに、「不要産業」と評価されるに至ったのである。

アメリカナイズして、自らを鍛えたつもりの、セブン&アイ・ホールディングスの浅はかさは、コンビニで強調したい細かな気づかいの日本文化とは別のタイプの日本文化をアッピールすべきところが、その区別ができないザマに陥ったのである。

だからアメリカから輸入した経営学や経済学が通じない。
むしろ、国文学や歴史をしっかり重視していたら、とおもうと惜しい。

結局、残念な経営者が会社を潰す、の法則はなんら変わらないのであった。