候補者辞退の大統領選挙?

バイデン親子は「詰んだ」。

結論から先にいえば、今回のアメリカ大統領選挙は、前代未聞の事態となりそうである。
つまり、野党民主党が指名した大統領候補のバイデン元副大統領が、投票日前に「辞退する」という事態である。

問題は、「どっちの」投票日なのか?
すなわち、11月3日に予定されていて、すでに期日前投票もやっている「一般投票日」なのか?それとも、12月の「選挙人投票日」なのか?
合衆国憲法では、選挙人投票日の前に大統領候補が「死亡」した場合、政党が全国委員会を開催して、新たな候補者を指名することになっている。

だから、「辞退」はまったくの想定外にある。

しかし、彼はもう「辞退」するしかない。
すさまじい汚職が明らかになったので、放置すれば法に定めのある、建国史上初となる「候補者失格」の汚名を、合衆国栄光の歴史に永遠に刻むことになるからである。

これは、アメリカ「民主党」の崩壊をも呼びかねない大問題だ。
なぜなら、彼の汚職に関係するひとびとは、オバマ前大統領やヒラリー・クリントン元国務長官をはじめとした、民主党政権の中枢が芋づる式に連座することになるためだ。

はっきりと証拠があがっているのが、いわゆる、「ウクライナ疑惑」であるけれど、もう「ウクライナ事件」といって差し支えない。

彼の次男(長男は事故で亡くなっている)の、ハンター氏が、副大統領だった父の威光を傘に、ウクライナのエネルギー会社の社外取締役になって、高額報酬を受けていたのは、この会社が組織ぐるみでやっていた「汚職」のもみ消しにあると噂されていた。

バイデン氏は、息子の海外事業について、親子といえどもなにも語っていない、と弁明していたが、この会社へのウクライナ検察当局の捜査について、副大統領として来訪した際、当時のウクライナ大統領に多額の軍事援助と引換に、検事総長の解任を要求している。

驚くことに、彼は演説でこの件の「自慢」をしていたのだが、あろうことかこの脅迫のやりとりについての電話での会話を、相手の大統領が密かに録音しており、それが9月に公表されたのである。
まさに、決定的証拠である。

一方で、昨年話題となった、トランプ大統領に対しての「ウクライナ疑惑」は、民主党が多数の下院議会での「弾劾成立」という事態となった。
合衆国の歴史で3人目の不名誉だが、上院で否決されたのはご承知のとおりである。

けれども、ことの真相は、バイデン親子によるものだから、この「事件」は、トランプ氏をおとしめるための陰謀として、「オバマ・ゲート」と呼ばれ、政権の中枢が連座する威力がある。
ヒラリー氏の私的メール公開命令で、証拠がでてきたから、民主党そのものが根底から疑われることにもなっている。

もはや、オバマ氏とヒラリー氏も、絶体絶命の崖っぷちにある。

であれば、人間のかんがえることはだいたい一つに集約されて、誰かを「犠牲の羊」にすることしかない。
そうやって、「逃げを図る」のだ。

くわえて、ハンター氏のノートパソコンが、あろうことか修理に出された。
盗まれたものなら、証拠能力が疑われるのだけれども、どうやら本人がパソコン修理店に持ち込んだらしい。
それを、放置したのはなぜか?

彼は、元モスクワ市長の未亡人から、なぜか350万ドルも受け取っていて、そのうちの30万ドルを東欧に拠点を置く、国際麻薬・売春組織に送っている。
これは、「ツケ」の精算か、はたまた「前払い」か?それとも、「デポジット」か?

第一回目の討論会で、トランプ氏がハンター氏に言及したとき、彼が軍を除隊させられた理由は、「コカインの常習」だと明言した。
また、別途、ハンター氏はアルコール依存症であることもしられている。
すなわち、どちらかが原因でラリっているときに、パソコンを修理に持ち込んだと推定できる。だから、忘れて放置してしまった。

そして、そのパソコンにあったデータには、数々の不正取引の電子メールだけでなく、少年少女をふくめたいかがわしい写真が大量にみつかっている。
つまり、全部つながるのである。

果たして、父バイデン氏が認知症を疑われたのも、もしや息子と一緒に麻薬をやって、ラリっているのが「認知症」に見えたのかもしれない。
けたはずれの腐り方である。

上院情報委員長は、本日22日までに調査報告せよとFBIに命じている。
いったい何が飛び出すのか?

にもかかわらず、この一連のスキャンダルに、バイデン陣営は何もコメントしていない。
「認めた」と解釈するのが、あちらでの常識だろう。
それに、バイデン氏の選挙集会では、ひとびとからの「質問」という「ヤジ」が飛び交い、集会が継続できず途中で終了している。

もはや、これまで。

それでも、有権者の怒りはおさまらず、民主党の牙城カリフォルニア州で、かなり珍しい「トランプ支持の大規模パレード」が、陸と海とで行われているありさまだ。
参加者は、一様に「報道しないマスコミ」にも怒っている。

アメリカの自浄能力が、発揮されているのである。

『哀しみの「ソレアード」』

原曲は、14世紀後半のイタリアで活躍したひとの作品といわれていて、1974年にイタリアのグループが復活演奏して大ヒットした。
しかし、この曲には歌詞がなく、その後さまざまな国で、「詩が」あてられている。

特に、英語版は『When A Child Is Born』で、クリスマスソングの定番になっている。
日本で、「インスツルメンツ」としては、ポール・モーリアやフランク・プールセル、ニニ・ロッソのアルバムでも親しまれている。

 

「ソレアード(SOLEADO)」とはスペイン語で、陽だまり、とか、日当たりのよい場所、という意味だという。
原曲は、そのまま「ソレアード」であるけれど、日本語では「哀しみ」を加えているのは、曲想に哀愁が漂うからであろう。

さてそれで、いま横浜では、ひそかにリバイバルがかかっている。
映画『ヨコハマメリー』は、2005年制作のドキュメンタリー映画である。
当時見逃したので観てきた。ネタバレに注意されたい。

「メリーさん」というのは、伝説の娼婦といわれているだけでなく、その特異な風貌で、ひとつの風景としての「横浜名物」をなしていた人物である。
はたしてそれは、クイーン・エリザベス1世と似た、白塗りで、衣装も白のレースのドレスを好んで着ていた。

  

「白塗り」による、素顔の仮面化は、日本の花街の伝統だけど、あんがい世界共通なのは、人間の心理だからだろう。
そうやって、別人になれる。

当時横浜一の繁華街、伊勢佐木町の夜の闇に浮かぶ白い影の不気味さは、この世の物ではない気がしたが、まったく悪びれずに歩く姿は誰でも一種の畏敬の念を抱く迫力があった。

彼女がいる場所は、瞬間に別空間になっていた。
あれは、何だったのか?
日中によく見かけたのは、横浜高島屋であったのは、彼女の行動パターンよりも自分の方にたまたま合致していたからだろう。

高島屋の店員さんが、見て見ぬ振りをしていたのは、彼女が「顧客」だからであるともいわれていた。
そういえば、往年のデパート、伊勢佐木町の松坂屋や松屋でも見かけたから、あんがいデパート好きだったのかもしれない。

だから、子どもが歩かない「夜の街」で見かけるようになったのは、おとなになってからだった。
「時間は残酷」なので、わたしがおとなになるのに使った時間分、メリーさんも歳をとるから、「娼婦」といわれても困るのである。

彼女の生い立ちからして、詳しいことはわかっていない。
しかし、「お父様が亡くなって」から、どういう事情か横須賀で娼婦になったことは間違いない。
ただし、兵を相手とすることはなく、常に「将校」だったという。

その気高さは独特だ。
メリーさんの自筆の手紙は達筆で、なお、文章に格調がある。およそ現代人にはもう書けないものだ。
高等女学校の出か中退ではなかろうか?と想像させる。

世界的舞踏家、大野一雄氏の次男で、やはり世界的舞踏家、大野慶人氏の証言は、舞台で固まってしまって以来の中断中、横浜シルクセンターで妻が経営する薬局の店長をしていたとき、当時珍しかった舶来の香水ボトルを棚に陳列していたところ、メリーさんがやってくる。

大野氏は「キラキラさん」と呼ぶ、その本人が、なんともいえない麗しそうな姿で瓶を眺めていて、その姿が後の、舞踏作品『マクベス』の「オフィーリア」役をこなすのに役だったという。
なるほど、と思った。

わたしは大野父子の競演を、慶應義塾大学の日吉校舎で観たことがある。
満員の会場の熱気もさることながら、終演後のわずかな時間だったが、二人の舞踏セッションがあって、観客の多くが舞台にあがって指導を受けていた。
それが、なぜかゾンビの集団のようで、まるで舞踊とは遠かったけど、まじめさは伝わった。

人間は、訓練しないと自分の肉体を自在に動かすことができないことをしった。
父子とも故人になったので、文字どおり「夢の競演」となった。

しかし、齢を重ねれば冷酷な事実が娼婦という職業にはやってくる。
家がないので、ビルの椅子で眠るしかしない。
そんな休息場所を、黙って提供した横浜人がたちがいた。
すると、盆暮れにメリーさんからビル・オーナーに贈答品が届いたという。

このひとは、施しを受けなかった。
たとえば、きっちりとエレベーター・ガールのようなことをしてチップを稼いだり、かならずなにかの仕事の報酬として金銭を得ていた。
それが、頼まれた仕事でなかったとしても。

エイズが恐怖を呼んでいた時代、行きつけの美容院から出入り禁止を告げられる。
常連客からのクレームに、耐えられなかったという。
「どんなに消毒していても」、汚いといわれた、と。

まったくもって、いまのコロナと同じである。
残念だけど、映画館もマスク着用を義務化していて、上映中もとるなと、冷たい声で注意があった。
美容院の経営判断と同じなのである。

困窮した彼女を見かねたひとが、実家への切符を差し出す。
そして、我々には「忽然と消えた」ようにみえたが、本人は老人ホームにいた。
こうして、ヨコハマの「素顔」の戦後も消えた。

まことにピッタリの音楽が、『哀しみのソレアード』であった。

餃子店と堀江氏の正義の衝突

ことの発端の前提は、餃子店が「マスク着用義務」をしていたことにあった。
そこに、ホリエモンこと堀江氏一行がやってきて、このメンバーにマスクを着用していないひとが「入店拒否」されたのが、トリガーとなって、堀江氏がSNSに投降し、これが、「炎上」した。

堀江氏の主張に賛否両論があるものの、店の主張を否定する「電話」が殺到し、恐怖で体調を壊した女将さんのために、とうとう休業に追いこまれてしまった。まったく気の毒なことである。
そこで、いま、トリガーとなった堀江氏へ糾弾の大合唱となっている。

ずいぶん前に社会理念としての、「みんな平等」に対して、あえて天邪久になってかんがえることを書いた。
本件も、あえて天邪久になってかんがえるとどうなるか?を試みたい。

はじめにお断りしておくが、ここで試みることは、あくまで「思考実験」なので、現実からいったん離れる。つまり、餃子店や堀江氏という具体的対象ではなく、抽象的対象として議論するのでご注意願いたい。
本稿は、裁判的なジャッジを両者にするものでもなく、あくまでも天邪久になってかんがえる「だけ」である。

冒頭に、「ことの発端の前提」と書いたが、そのまた前提に「新型コロナによる疫病蔓延」がある。
ここから、天邪久が顔をもたげるのである。
つまり、「新型コロナウイルス」とはなにか?だ。

すると、「旧型」とは、SARSやMERSを指すのだろう。
なぜなら、その辺にふつうに存在しているという、コロナ・ウィルスが地球上に何種類いるのかを人類はいまだしらないからである。
しらないから、見当もつかない。だが、万の単位あるいはそれ以上の種類のコロナ・ウィルスがいるとかんがえられている。

何種類のコロナ・ウィルスがいるかを誰も調べないのは、ほとんど人間などの動物に、「無害」だからである。
無害な物を分類してどうするのか?となると、博物学のなかの分類学となる。

だから、いま流行っているのは、既存のなかの一つが突然有毒になったから「新型」なのか?それとも、本当にこれまでにいなかった「新型」なのか?すらも分類できていない。

すると、すさまじい種類のコロナ・ウィルスが、はるか昔からとっくに人体に取り憑いていて、われわれのほとんが「なにも気づかない」で何世代も生活してきていることになる。
だから、PCRで陽性になるという意味に気をつけないといけない。

そこで、国際便を停止して、ほぼ「鎖国」していることから、9月までの国内の患者(感染者ではなく発症したひと)をかんがえると、死者数も重篤者数も、えらく少ない、という事実がある。
2月から8ヶ月間の累計の死者は、1,500人ほどなのである。

昨年のわが国で生まれた新生児は約90万人で、わが国人口の自然減は約40万人だから、死者数はざっと130万人となる。
毎月10万人強、半年で65万人という勘定になる。
すると、コロナで亡くなったというひとの割合は、0.17%になってしまう。

これを、「パンデミック」といえるのだろうか?

「咳エチケット」だったはずのマスク着用の「推奨」が、いつの間にかに「義務」と変容したのは、とくに地方にみられる現象で、主に「都道府県」レベルで「指導」している。
政府の緊急事態宣言による大幅権限委譲が、終息宣言において「返上されず」、県が「藩に変容」した効果だ。

つまり、「藩・知事」となったので、名称は「知事」でも内容は「藩主」になった。
言ってみれば、江戸時代に戻ったのである。
それで、罹患者を「村八分」にする、かつてのハンセン病患者への差別が復活した。

そうして、夏のお盆ですらふるさとへの帰省を「自粛せよ」との「お達し(命令)」を、藩主がだしたから、都会に出た地方出身者の「根無し草化」(分断)を謀ったのに、それが「正義」に転換された。

すなわち、わが国の中央集権構造が、「パンデミック」の名の下に崩壊をはじめたのである。
これに対抗するのが、政府による「GO TO」で、都会人を「藩」に送り込むことでの中央集権維持を画策している。

こうした点をふまえると、「パンデミック」を長引かせて権限を返したくない「藩の正義」(分断)と、「終息宣言」をして権限を戻す「中央の正義」(集権)が、飲食店というピンスポットでぶつかったといえる。
この意味で、両者はそれぞれの立場の「エージェント」なのである。

さてそれで、店に本当の圧力をかけたのは、匿名のひとたちであった。
SNS発信者とのバーチャル空間での議論から、現実界に飛び出して、一方的罵詈雑言を与える。

これは、社会の分断によるアトム化した個人が、取り憑かれたようにする威圧であって、その手段が「電話」という過去の媒体であった。
組織化されてはいないのが幸いだけれど、もしや一歩間違って「組織化」されたら、それは全体主義へと一気に変わる可能性がある。

その意味で、トリガーを責めるのは安易であって、分断を支持する意思表明であると見られても文句はいえない。
一方、トリガーはどうすべきだったか?
卑怯な威圧をやめさせるように働きかけるべきなのではあるけれど、自身の発言の暴走におののいたのではないか?

SNSとは、ほんとうは個人の分断のための最適手段なのである。
個人データが抜かれる、という次元の問題ではない。
「絆(きずな)」ではなくて、「絆(ほだ)し」なのである。

以上、天邪久でした。

日本で大統領選挙はなじまない

「首相公選制」とは、首相を直接選挙で選ぶ、という発想で、このたび「半国葬」となった、中曽根康弘氏が最初に提案したけど、当時も誰からも相手にされず、いまに至っている。
ようは、わが国を、「大統領制」にしたい、ということだった。

故人に鞭打つようになるのは本意ではないけれど、中曽根氏の胡散臭さは、弱小派閥の長が総裁になるためのプロセスにもあった。
ただ、このひとのラッキーは、「行政改革」がブームになりはじめた中で、当時の行政管理庁長官のポストが与えられたことによる。

それで、当時は発言力があった経団連から、しかも人格高邁な土光敏男氏を引きずり出すことに成功したことが、その後の「首相」への最短ルートをつくりだした。

「万事は人事」の典型例である。

このときの財界は、いまとは違う、経済4団体だった。
経団連と日経連とがあって、日本商工会議所と経済同友会であわせて4団体となる。
2002年に、経団連と日経連が合併したから、3団体になった。その後、2012年に楽天の三木谷氏が発起人となって、「新経済連盟」を発足させたから、あえて本稿では、「4団体」といいたい。

新経済連盟は、既存の経済団体の「古さ」に対する「アンチ」からスタートしているところが特徴である。
なお、経団連は、大正11年に発足の「日本経済聯盟会」が母体で、国家総動員法の成立の後、「重要産業統制団体懇談会」となった。

また、合併によって名称が消えた、「日経連」は、財界の「労務部」といわれるほどに、労働組合と対峙し、春闘における財界側の交渉相手でもあった。
いわば、経団連が「力業」をもってするのに対して、「頭脳集団」であったのだ。

だから、わが国の労働組合をかたるとき、一方の日経連の存在は無視できない。
むしろ、わたしは、日経連が経団連に合併されたのは、労働組合にとっても、わが国にはよからぬことになったとかんがえている。

それはさておき、中曽根氏の胡散臭さは、やっぱりその経歴にある。
海軍主計少佐で敗戦を迎えたとは、その「思想背景」を疑うからである。
すなわち、海軍ならずも陸軍もしかりの、軍組織内における共産主義の蔓延を指す。

教科書に記載されていても、昭和史は授業におけるタブーになっているから、三学期になってもここはやらない。
「教科書検定」という世界にまれに見る「因習」で、大騒ぎになるのは、授業でやらない範囲の記述ばかりとなっている。

陸軍参謀本部中佐だった瀬島龍三氏は、中曽根内閣の首相顧問として、ふたたび「参謀」を勤めた人物であり、「評伝」として、『不毛地帯』の主人公と信じられてきている。

    

これは、『忠臣蔵』と同じく、「講談ばなし」なので、主人公を瀬島氏だと信じてはいけない。
巧妙に、史実と作りばなしを混ぜているから、ようは「作りばなし」の「エンタメ小説」なのである。

そんなわけで、この二人の元「少佐」と「中佐」は、「海軍」と「陸軍」ではあるけれど、怪しいオーラが輝いている。
中曽根氏は、常にマスコミから「タカ派」といわれていたことも、宣伝工作(プロパガンダ)なのだと思うと、妙に辻褄があうのである。

たまたま、世界で「大統領」が揺れている。
辞任に追いこまれるひとや、その座にしがみ付いているばかりに長期デモが止まない国もある。

日本に大統領制がなじまないのは、国民に民主主義の精神がないからであるけれど、そんなことを熟知しているはずの中曽根氏が、どうして「大統領制」をいいだしたのか?不思議である。
言動は「右翼」とされたけど、やっぱり「じつは、、、」の部類におもえてならない。

世界を仕切るアメリカ合衆国大統領選挙では、バイデン親子の所業に関する、驚愕の電子メールが出てきたし、前回の選挙にあたって、オバマ大統領、クリントン国務長官の政権による、トランプ氏をおとしめるべく捏造した「ロシア疑惑」を指示するメールも公開されたので、大スキャンダルの曝露がある。

こんなことがわが国の選挙で起きたなら、マスコミがどんな反応を示すのか?
アメリカの大手と同様に、都合がよければ大キャンペーンを張り、都合が悪ければ報道しない自由を選択して、ほんとうに報道しないだろう。

すなわち、アメリカでさえ、ということをかんがえると、日本で大統領選挙をやる素地がないのは、マスコミ報道の公平・公正がぜんぜん期待できないからである。
ただし、わが国と違って、議会がすでに調査を開始している。この点、「さすが」といえるのだ。

それに、アメリカのメディアは立ち位置を明確にして示していることにある。
「我が社の論説は民主党支持です」とか、「共和党支持です」と書くので、読者をミスリードすることすら、一種の「正直さ」を残している。

また、読者だって旗幟を鮮明にするのは当然なので、自分の「見たい、聞きたい」記事を買いたがるのは、どこの国民もおなじだ。
ようは、「売文」が「エンタメ文化」になっている。

わが国は、「売文」が「啓蒙」の上から目線で、これを有難く「天の声」とするので、話しにならないのである。

フードファディズムからの異常行動

フードファディズム(Food Faddism)とは、食べ物や栄養が健康に及ぼす影響を過大に評価する考えのことだ。
これが嵩じると、「食品の善し悪しを単純に決めつけ」て、これらを「過度に食べ分けるような行為を誘発」してしまう。

つまり、「過大」と「単純」と「過度」という三点セットを発想の元にさせて、人間行動をある一定の方向へ「誘発」するのだから、本人は「間違いはない」と思い込んでいても、他人からすると、あるいは、「論理的に考えると」、大変おかしなことをしでかしているように見えるのである。

そもそも、「◯◯を食べる(飲む)と、どこそこの細胞やら臓器が活性化して、健康になる」というたぐいの情報のほとんどが、「フードファディズム」そのものを「誘発」しているのである。
しかも、これが、あんがいと「専門的な用語」でオブラートされている。

物質の成り立ちからはじまって、様々な「結合」や「反応」により、あたらしい物質がつくられるのを、われわれは中学の「理科」や、高校の「化学」で学ぶことになっている。
高校全入といわれて久しいけれど、だからといって、フードファディズムが流行るのだから、知識が「身についている」とはいえないのである。

逆にいえば、知っているつもり、がかえって助長させているのだろう。
食べものの「消化」とは、化学反応によって行われるが、それが生体内でどうなっているのか?は、とうてい全部解明されてなどしていない。

もうすぐ出版から20年にもなる、高橋久仁子『食べもの神話の落とし穴』(ブルーバックス、2003年)という本には、わかりやすい説明があふれている。
こういう本を書くひとが「専門家」なのである。

若いひとには知る由もないけど、ずいぶん前からフードファディズムの事象は発生している。
上記の本では、以下の3種類があるとされている。
まずは、第1種が、
1.健康効果をうたう食品の爆発的流行
 「紅茶きのこ」(1977年頃)
 「酢大豆」(1988年頃)
 「野菜スープ」(1994年頃)
 「ココア」(1996年)
 「低インスリンダイエット」(2002年頃) などである。

なんだか懐かしいのが、紅茶きのこである。
わが家でも、ガラス瓶に自家製のを作っていて、おとなたちがこれを有り難がって飲んでいた。
子どもには、実に奇妙な光景であった。

昼の「ワイドショー」で毎日、別々の食品を「特集」していて、店からなくなったのが「ココア」とか「黒砂糖」だった。
気の利いた個人商店主は、朝刊でテレビ欄を確認して、大量発注していたものだけど、そのうち「記載」がなくなったので、いちばん熱心に番組を観ていたのは個人商店主だった。

流行ったのが、10年毎からだんだん短くなってきている、という特徴も、「情報化」といえるのだろう。
ただし、廃れるのもはやい。
「次」に飛びつくからである。

たとえば、「プロテイン」。
日本語にすればただの「タンパク質」のことである。
これが、次の2種類目や3種類目にも関係する。

2.いわゆる健康食品(栄養補助食品)
 ほかの努力はいっさい不要で、「それ」を食べさえすれば、「元気になる」、「若返る」、「病気が治る」。

今日もおおくの「通販番組」で紹介されているし、ネット上での広告も飛び交っている「現役」そのものの「商品」である。
消費者庁が管轄する、「特定保健用食品(トクホ)」だって、この仲間に入っているから、50歩100歩なのである。

3.食品に対する不安の扇動
 食生活を全体としてとらえることなく、特定の食品を身体に悪いと決めつけ、非難攻撃し排斥する一方で、ある食品は身体によいとして推薦したり万能薬視したりすること。

特に3をこの著者は、「不安扇動ビジネス」、「不安便乗ビジネス」を呼んでいる。

なんだか、いまだに終息しない「コロナ」に似ている。
コロナ感染者(といっても「無症状」の検査陽性者)の排斥や、ペラペラのマスクが感染予防に万能だとして、マスク着用の事実上の「義務化」といった愚策が、民間でおこなわれている。

都会より、地方で厳格なのだから、これも「不安の扇動」による効果だといわざるをえないものの、むしろ、「コロナの時代」とは、とっくにフードファディズムが「素地」を社会に作り上げていたのではないかとおもう。

「永遠の生命」を求めた逸話は、世界の歴史に刻まれている。
たとえば、古代バビロニアのくさび型文字に残された、『ギルガメシュ叙事詩』や、エジプトのミイラ、それに、秦の始皇帝の命を受け、日本に不老不死の仙薬を探しに来た徐福のはなしなど。

しかし、これらの例は、英雄や特定の身分にあった為政者個人の願望をかなえるための物語であって、こうしたはなしを一般人は「愚かなこと」として嗤っていたのである。
なぜなら、この世に生を受けたものは、一人残らずいつか死を迎え、誰も免れ得ない真実だと知っていたからだ。

ところが、20世紀の後半から、人類史でまれに見る「中産階級の繁栄」を経験したわが国では、ほとんどの国民が「永遠の生命」を希求するという、人類史のはじめてが社会現象になったのである。
かつての戦争犠牲者を、「精霊」といわずに「犬死に」といえる根拠であろう。

それは、個々人の「精神」を尊ぶ個人主義では到底なくて、「物質的」にただ生きのびたいという「犬も考えぬ」ことを希求する、貧困なる精神からやってくるのである。
経済的に貧困であったかつての日本人は、しかし思想では、尊かったのである。

人間は、機械のように食べものを「消化」しているのではない。
著者は、フードファディズムに対抗すべく、「さしたる根拠もないまま」に続けて「多様な食品の摂取」を勧めてきたことの「裏付け作業」が着々と進行している、という。

たまには、根拠のないことが正しいこともある。

風評被害の原因

いわゆる、「デマ」のことである。
あたかも「真実」のように伝わって、ひとびとを間違った方向へ誘導し、結果的におおきな被害をもたらす。

1923年の関東大震災では、「朝鮮人が攻めてくる」とか、「井戸に毒をいれた」とか、「おさまらない火災は朝鮮人が放火しているからだ」といって、何人だかわからないひとたちがリンチ(私的制裁)され、命を落とした。

ほとんど100年前のことだけど、いまだってふつうに「デマ」は跋扈している。
むかしは「口コミ」と「ビラ」だったのが、いまは「SNS」という便利さが、安易なデマを大量生産している。

学校などの小さなコミュニティなどでの、特定個人を狙った誹謗中傷や、感染症の「陽性反応」というだけで責められ、自殺や転居を余儀なくされるのも、「デマ」による一種の被害者である。

これが通用する社会は、臆病で野蛮である。

すると、現代社会はあんがいと野蛮な未熟社会なのである。
だから、かっこよくメディアで「成熟社会」と発言するひとは、「デマ」のなかの聞き心地がいい「美辞麗句」を流している張本人のひとりだと特定できるのである。

おそらく、こういうひとが発する言葉は、空疎で中身がないに違いない。
視聴者は、心して聞かないと欺されるのである。

こうしたデマによる風評被害は、真実との闘いのなかで生まれる。
しかし、おおくの場合、真実が意図的に隠されていたりすることからの、不安がつくりだす。
だから、それらしくて皆が欺されるのである。

政府がつくったデマの最たるものは、「大本営発表」の「戦果」であった。
ほんとうは大敗しているのに、あたかもわが方が勝利したごとく。
ありもしない敵との会合における戦闘の、ありもしない戦果。
勝っているはずなのに、どんどん厳しくなる生活物資の困窮があるのに、それでも、勝っていると信じ込ませる情報統制。

負けたら負けたで、今度は占領軍による情報統制がはじまって、なぜかそのまま現在に至っている。
そのコンセプトは、「正義」は占領軍にあり、に統合(インテグラル)されているから「高度」なのだ。

その都度都度に対応した嘘を重ねた「大本営発表」とは、規模も精密さも段違いである。
カジノを「博打場」としかかんがえないのは、大本営的発想の継承である。
「IR」の「I」こそ、インテグラルなのである。

つまり、われわれ日本人は、インテグラルな情報操作のなかで70年以上生きてきた。
そう考えれば、『オバQ』の「ドロンパ」も、プロレスも、わずかな空間で許された、アメリカに対する「ガス抜き」であった。

インテグラルな戦略のマネジメントができるアメリカと、相変わらず場あたり的なわが国では、もはや勝負にならない。
その理由は、上記のとおり、インテグラルな戦略策定能力の欠如と、インテグラルな戦略実行(マネジメント)能力の欠如というふたつの能力とも、彼我の差が大きすぎるからである。

これは、政府が民間能力に劣るアメリカ政府(軍を含む)との比較だから、政府が民間よりはるかに高い能力のはずのわが国にすれば、どうにもならない力量の差として、民間企業の経営力に現れる。

一社に数人の優れた経営者なら、日本企業にだっている。
しかし、圧倒的な彼我の差は、組織全体のなかにいる、ということでの勝負なのだ。
いわば、戦略策定の「頭脳」と、実行のための「筋肉」と「神経系統」の機能が、違いすぎるということだ。

そんなわけで、偏った頭脳しかないわが国政府は、福島での放射能汚染水の海洋投棄をはじめるという。
例によって、政府は、その「安全性」についての「デマ」も一緒に垂れ流すに違いない。

政府がいうと想定される理由は次の二点だ。
⑴ 廃棄するのはトリチウム汚染水だけだ。
⑵ 低レベルなので環境に影響しない。
これらは、「デマ」である。

⑴は、トリチウム「だけ」ではないはずだ。
 だから、原液の成分詳細をいわない。
⑵は、どうして「低レベル」なのか?
 原液のレベルをいわない。つまり、「水で薄める」からではないのか?
 それに、トリチウムの危険性=安全性について、どこまでわかっているのか?を説明しない。

わかっているのは、「風評被害対策」という補助金を出す、ということなのだ。
かつての、原子力の街を骨抜きにした「補助金」という麻薬で、再び現地のひとたちを麻痺させようというのは、あまりにもワンパターンで、ぜんぜんインテグラルでない。

なんのことはない。
風評被害をつくっている犯人は、「大本営発表」しかしない、政府なのである。

高濃度廃棄物は、濃度を薄めて海に棄ててはならないというのが、規制法の精神である。
どんなに薄めようが、結局のところ原液全部を海に棄てたなら、同じ話である。子どもにもわかることだ。

国内の工場は、この規制法を遵守している。
どうして、放射能汚染水の海洋投棄だと許すのか?
根拠法はなにか?
民間工場でモラル・ハザードが起きないとする理由はなにか?

政府が「法治」をやめようとしている。
その理由は、タンクが一杯になっちゃったからしょーがあんめえ、だろう。
この荒っぽさで、「安全性が確認された原子力発電」と臆面もなく紙に書けるのである。

わかっちゃいるけどやめられない、では困るのである。

日本は「金融大国」になれない

他人の悲劇的な状況を横目に、そのひとたちが作り上げた繁栄の根拠となる業務を横取りしようとするのは、かなり「恥ずかしいこと」である。
むかしなら、「切磋琢磨」を宗として互いに研鑽しようという気概があったけど、バブルに浮かれて崩壊して以来、相手の敵ではなくなってしまった凋落を、ここぞと取り返そうとする態度は尊敬に値しないどころではない。

まさに、卑しい、のである。

しかし、その卑しさゆえに、相手の強みの本質すら理解していないのではないかと疑わざるをえない。
その本質とは、「自由」のことである。
もちろん、「香港」の成功は、華僑独特の「拝金主義」があったからでもない。

裏返せば、バブルの失敗こそに、日本人の「拝金主義」があったのだ。
その反省もなく、2007年のわが国は、9月のリーマンショックまで、「金融バブル」を経験していた。
そして、いまでも、年収の多寡で人生の「勝ち負け」を語る、「拝金主義」が横行している。まったく反省しないからである。

こうした、「拝金主義」にまみれたひとたちが、その罪を払拭するためにいう、「ポスト資本主義」や「新自由主義批判」こそ、安全地帯からの「偽善」なのである。
これは、アメリカでもっと盛んだ。

それが、東西海岸地域における、圧倒的な民主党支持である。
かれらこそ、根っからの「拝金主義」なのである。
じぶんたちが、いいひとで「ありたい」のではなく、いいひとに「見せかけたい」のだ。

そうやって、拝金主義がつくる歪んだ資本主義からの恩恵を、ぜったいに手放したくないし、じっさいに手放さない。
拝金主義だから、富の独り占めをしたいのである。
だから、本来的な資本主義である、「新自由主義」を徹底的に批判する。
新自由主義を、「歪んだ資本主義」といって歪めるのである。

つまり、「用語」の意味を勝手に都合よく「変換」してしまう。
これも、一種の「ルール化」なのだ。
拝金主義の多数派は、言葉の意味まで変えるのである。

もちろん、じぶんたちが儲かる仕組みにどんどん変えるのは、彼らがかかわるスポーツも同じだ。
勝てば人気がでて儲かるのなら、勝てるようなルールにする。
こうして、国際競技だってつくられている。

「スポーツ庁」の無意味とはこれであって、さらに国家が国民を縛るのは、まったく社会主義国同然なのだ。

日本が金融大国になる。
どこから、こんな発想がやってくるのか?
『待ちぼうけ』だろう。

それっぽい「金融業」があれば、ある日獲物がやってきて、たっぷり儲けさせてくれる。
そんな「カモねぎ」を待つこと20年。
いまだに現れないどころか、「金融業」が疲弊・困窮してきてしまった。

東京がダメなら、関西や九州で。
日本政府の発想の安易さは、スポーツ庁と同じでとめどをしらない。
国内で優秀と評価されている大学を出て、一度も社会で稼いだことがない役人が、「金融業界」に「店を開けさせる」けど、儲からないのは民間人がバカだと思っているからである。

業界人に「箸の上げ下げ」まで指導(じつは命令)するのは、客前に立ったことのない役人が臆面もなくやっている。
その役人を上手に出しぬく業界人が、視聴者の溜飲を下げるのはどういうことか?を、おなじ視聴者の役人は気にもとめない。

だって、それがお仕事なんだもん。

金融には二種類の機能がある。
・通貨の安定
・資金の融通

通貨の安定は、中央銀行たる日本銀行の業務である。
バブル後にできた、日銀を政府から独立させた「新日銀法」は、ほんらいバブルの反省の意味が込められていた。

これを、安倍内閣は、「旧法に戻す」と脅して、政府に従順させる画策と圧力を日銀にかけた。
もちろん、新日銀法は変えていない。なので、「正式に」政府には、「通貨の安定」を担当する部署も役人もいないことになっている。

いわゆる、「アジアの金融センター」とは、資金の融通の機能をいう。
1986年、イギリスのサッチャー首相が打ち出して、これを実行させたのが、「金融ビッグバン」だった。

ロンドンのシティがこれで復活したとはいうけど、「ウィンブルドン現象」も発生した。イギリス人のプレーヤーは誰もいないで、「会場」だけが活況だからである。
それでもよし、とするのがイギリス人だ。そうして、政府の規制を撤廃した。

厄介なのは、身も蓋も、中身もない「別物」に、「日本版」という名称を用いて、やっとこさ10年後に「日本版ビッグバン」をやって、それっぽく「見せかけた」ことだ。金融庁の規制と権限はしっかり残した。
「ガラパゴス化」は、携帯電話のことだけではない。

政府主導によって、どちら様の業界にも都合がいいように「調整」する。
だから、「自由化」のはずが、「不自由」になるのである。
かんたんにいえば、「妥協の産物」だ。
もちろん、自由化の「範囲」も狭くて、お国の都合である「税」を動かさないし、外国人の査証も出ない。

結局のところ、「出島」をつくるしかないのだけれど、21世紀につくるべきが「出島」となれば、いかに「鎖国」しているのかが国民にわかってしまう。
これが、「痛い」のだ。

さらに、国際金融のルールを日本人は自分から作れない。
政府がしゃしゃり出るし、なにせ、資本主義はいけないことだと「純粋に」思っているから、大陸の中国人にも劣るのである。

世界にない文系・理系の区別をやめて、「技術大国」にしないといけない。
でもやっぱり、この分野も政府が仕切っている絶望があるのである。

アイスを無断で食べたから

生徒に大怪我をさせてしまったら、「教育的指導」とはいえなくなる。
理由はさておいて、この一点で「傷害事件」になってしまうのは、むかしだって同じだ。

逮捕されたのは柔道部の顧問で、50歳の教諭というから、ベテランである。
相手は、中学1年生の生徒2人。

この事件のどんなことが「事件」なのか?を書いておく。

小学校から「ゆとり教育」がはじまるのが1980年だ。
すると、1年生は1973年生まれとなるから、初代ゆとり世代は、いま53歳になっている。
すると、この教諭は、初期ゆとり世代になることは、ちょっとだけ覚えておきたい。

「キレる」という現象は、べつだん珍しくもなくむかしからあるけれど、往年のいい方は「堪忍袋の緒が切れる」であった。
殿様がやって大事件になったのは、『忠臣蔵』の浅野内匠頭である。

しかしながら、多くの日本人がしっているのは「講談ばなし」の方だから、史実としての解釈には諸説あるし、そもそも内匠頭がなぜに切りつけたのか?は謎のままである。
ときの幕府が、本人から詳細の事情聴取もせずに切腹させてしまった。
それで、幕府陰謀説まで登場する。

けれども、まるで講談ばなしが「史実のようになっている」のは、講談ばなしで敵役の吉良上野介からの「執拗なイジメ」に耐えて、耐えて、、、とうとう「堪忍袋の緒が切れた」という「理由の設定」がリアルだからである。これで日本人のほとんどが納得してしまい、もはやそもそも「イジメの有無」すら誰も顧みないことになっている。

一方で、吉良家の領地では、いまも上野介が「名君」とされている事実は、知識としてしっていても、なにせ「講談ばなし」に流されるのが多数なので、いまのコロナのように、どうにもならないことになっている。
かつての娯楽の花である講談と、いまは「ニュース」がおなじだ。

げにおそろしきは、「世論形成」なのである。

そういうわけで、日本人の行動は「二択」になっていて、「耐えて」「耐えて」、、、「耐え抜く場合」と、「堪忍袋の緒が切れる場合」とがあるけれど、その前に「文句をいう=意思表示をする」という選択をしない。

だから、相手はさっきまでニヤニヤしていた奴に突然殴りかかられることになる。
どうしてニヤニヤしているのかも不明だから、腹黒い欧米列強は理解できない「不思議の国」と日本を表現したのである。

そういえば、言語の構成もちがう。
あちらの言語には、かならず「主語+動詞」からはじまるルールがある。
自分が主語になるのであれば、かならず「I」をいうのだ。
「かならず」だから、省略しない。

しかも、自分を指す言葉が、男も女も「I」しかない。
これを、日本人は「言葉の貧弱」とかんがえるのだ。
もっといえば、人間は言語なくして「論理の構成」ができない。
ひとは論理を言語(ふつう母国語)でかんがえるしかないからである。

だから、ことばの違いは、論理=かんがえ方の違いを生みだす、あんがい深刻なことなのである。
これを一般化して、「文化の違い」ともいうのは、日常生活からすべてが違うといいたいからである。

日本が開国して、欧米化を目指すことになったのは、放置すれば欧米列強の餌食になって、植民地にされることを防ぐため、とふつういわれている。
でも、その前に江戸幕府が鎖国したのも、放置すれば欧米列強の餌食になって、植民地にされることを防ぐためだったから、なんだかおかしい。

種子島に伝来した「鉄砲」も、あっという間に国産化して、しかも、あっという間に世界最多の保有国になって、正確な射法の訓練も十分していた。
もちろん、弾どころか火薬だって国産化したから、安心して鎖国ができたのだ。

島国が、スイスのように「ハリネズミ」のような防御を完成していたのである。
開国の理由は、科学技術の習得にある。
いまの「千人計画」のように、外国人技術者を厚遇で招聘したのだ。

こうやって、「欧米化」を目指したら、「欧米」になってしまった。

戦後さかんにいわれた、「日本語の乱れ」とは、突きつめれば、「論理の乱れ」なのである。
つまり、伝統的な日本人の発想とは違う、日本語を母国語にしているはずなのに欧米の発想をする、という変化の「固定化=定着」がはじまっているのである。

さてそれで、被害者の子どもたちは、なぜ無断でアイスを食べたのか?
あるいは、加害者の教諭が、そのアイスに込めていた「意味」はなにか?

ということをかんがえると、「お預け」というコマンドが効かない訓練不足の犬に似ているかもしれないこと。
つまり、「アイスを食べたい」という自己の欲望が理性を上回った状態を、「通常」とする感覚がみられること。

これこそが、ジャン・ジャック・ルソーのいう「本来の人間」なのだ。

一方で、なんらかの「ご褒美」として用意したかもしれない、「アイス」だから、みんなで食べる(共食=同じ釜の飯)ことの思いにかられて、その裏切り行為に逆上したか、はたまた、「堪忍袋の緒が切れた」なら、相手の「通常」によるふだんからの「波状的」なストレスが、教諭の自己抑制不能になる怒りを誘発したのかもしれない。

柔道の技をどんなふうにかけるとどうなるかをしらないはずがない、という常識が壊れたのは、日本人らしくもあり、らしくもない。
おそらく、アイスを無断で食べた方には、なんら悪びれた様子もなかっただろうから、こちらは日本人らしくない。

「新旧」日本人の分裂が起きているとは、かんがえすぎか?

他人のおでこに電話番号をメモする神経

このブログでは、犬の話をたまにしている。
万年単位で人間と共存している、この動物の不思議があるからである。

犬の脳科学や心理学が発達してきてはいるけれど、人間のそれと同様に、全部がわかったということではない。
それでも、ある程度解明されてきたので、犬型ロボットが商品になった。

けれども、警察犬や猟犬のロボットができないのは、聴覚や嗅覚のセンサー技術が足りないだけでなく、運動能力とそれを支える小型バッテリーがないからだろう。
だから、実用にならない。

とはいえ、犬の本質は、その心理にある。
飼い主の心理と自分の心理とを同調させるという能力は、説明しづらい。
それで、カリスマといわれるドッグトレーナーは、「エネルギーの感知」といって説明するから、なんだか神秘的なのだ。

自分の心理だけを優先させるように育った犬とは、野犬のことである。
保護された野犬を引き取って、人間に奉仕する犬にするには、自分の心理よりも飼い主の心理を優先させて、自分を同調させる訓練がいる。
これが、「けっこう難しい」とプロも認めることである。

さらに、犬には群れをつくる本能があって、そこでの順位を確定させる行動をとる。
だから、飼い主の心理を優先させて自分の心理を同調させる犬がボスの群れに入れると、犬が犬に教育をはじめる。

そんなわけで、人間に一度も頭を打たれたことがなく育った犬は、人間が頭の上から叩く素振りをしても無反応である。また、無防備にみえる。
その逆は、クビをすくめたり、下手をすると逆襲されて噛みつかれる。
これは、防衛本能からの行動だ。

さて、人間の話題である。
ヨーロッパで記録的ベストセラーになったという、「哲学小説」に、『リスボンへの夜行列車』がある。
これは、映画『リスボンに誘われて』(2015年)の原作である。

 

物語のはじまりに、主人公と不思議な女性の出会いがある。
ここはスイス連邦の首都ベルン。
国立歴史博物館は、アーレ川の「ほとり」にあるけど、渓谷といっていいほど川は下に流れている。

主人公が前方にある博物館を眺めて橋を渡るときに、この女性が手紙を読んでいて、それを丸めて放り投げた。
すると、この橋とは「キルフェンフェルト橋」のことだ。
なんだか、35年前の一人旅が記憶に蘇る。

土砂降りの雨の中、主人公はこのひとが飛び込むとみて助けようとする。
手にした傘は、突風で川に消え、上から覗いてみても「あの黒い点は自分の傘なのか?」というほどに橋は高い位置にある。
いまは、欄干の上にもネットが張られ、おいそれと物すら投げられないようだ。

ちなみに、蛇行のためにベルン市を二度横切るアーレ川は、氷河を起点にさいごはライン川に合流する。標高差は1,565m。
また、ベルンも小さな街で、徒歩で30分もすれば横断できるから、およそ日本の大都市とは様相がちがう。

ほうとうにここが、首都なのか?
じつは、アーレ川を天然の堀にした、城郭都市なのであった。

この小説では、すぐにびっくりの場面となる。
助けた女性が、咄嗟に手にしたフェルトペンで主人公の額に電話番号を書き込むのである。
それは、いま棄てた手紙に書いてあったものだという。

そこそこの本を読んできたつもりであったが、赤の他人のおでこに電話番号を書くとは何事か異常なのだけど、気になるのは書かれた主人公の方である。
ふつうは、相手の手をはねのけるのではないのか?

そもそも、フェルトペンを持っていても紙がないなら、自分の手や腕に書くのではないか?
それを、見知らぬひとの手だっておかしなものを、どうして「おでこ」なのか?

そして、書かれた主人公の無防備さこそ、異常ではないのか?
目と目の間の額にこそ、最大の急所がある。

アーユルベーダにおける、温かいオイルを流す額のマッサージは、格別に気持ちいい。
けれども、中世における「拷問」の手段として、水を一滴づつ額に垂らす「刑」をされると、ひとは半日で発狂するという。

だから、書いた方も、書かれた方にも、それぞれの「心の隙間」があったことを表現したのだろう。
小説の出だしとして、これはかなり「神秘的」である。
しかも、「哲学小説」として名高いのだ。

この本が、どれくらい日本で売れたのか?
感覚の違いがわかるからおもしろい。

それが、主人公の職業説明にもある。
彼は、学位こそ無いものの、学校における古典文献学者として、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語の一流の使い手で、しかも生徒から尊敬と人気を得ているのだ。

むしろ、学位があっても無能な学者を軽蔑している。
その主人公が、女性に発した質問は、「あなたは何人ですか?」ではなく、「あなたの母国語はなんですか?」であって、「ポルトガル語」とポルトガル語の発音でいわれたことに感動する。

聞いたことばの音韻。
その心地よさ。
スイス人が感動するヨーロッパ言語があって、その言葉を理解できないという設定に、妙に共感するのだ。

そういえば、ポーランドでは英会話教室が大はやりだった。

でもやっぱり、赤の他人のおでこにメモはしない。
一生しないとおもうのである。
もちろん、自分のおでこに他人にメモなんかさせない。

「RICO法」の破壊力

残念ながら、この法律はわが国のではなくて、アメリカ合衆国の連邦法である。
正式には、Racketeer Influenced and Corrupt Organizations Act という。

「ラケッティア活動(racketeering activity) によって組織的犯罪を行う組織(enterprise) の活動を規制し、犯罪行為に対する刑事罰と被害回復の方法(民事責任)を規定する」と説明があるけど、いささか難解である。

簡単にいえば、マフィアや違法薬物カルテルなどの犯罪組織に限らず、不法行為を行った個人や企業に対する処罰をする法律である。
1970年、リチャード・ニクソン政権において制定された組織犯罪対策法 を含めた組織犯罪取締立法の一環として成立したので、「共和党」の政策が色濃く反映されている。

違反が摘発されると、最高20年の拘禁刑(前提となる犯罪に終身刑が法定刑として規定されていた場合は終身刑)、および、罰金刑に処せられる。罰金の金額は、個人の場合については、25万ドル以下、法人だとその倍の50万ドル以下の罰金か、この犯罪によって得た額または被害額の2倍以下のうち大きい方で、さらに没収刑も別途用意されている。

個人だと、ビザ申請時での虚偽もこれに該当する。
それで、話題になった解放軍空軍の医学研究者の女性について、「最高20年の懲役と、最高25万ドルの罰金が科せられる可能性がある」と報道された。

日本だと、「懲役または罰金」がよくある刑罰なので、両方やってくるアメリカは厳しい。
なぁに、どうせ州ごとに法律が違うと高をくくってはいけないのは、冒頭に書いたように、「連邦法」だからである。
まさに、悪いことをすると、踏んだり蹴ったりになるのである。

米中の「新冷戦」こそが、現代の「新しい生活様式」にふさわしい確定的な生活環境である。
この重大な事実から、ひとびとの目をそらせるために「コロナ」という、ありもしない病原体を利用しているのではなかろうか?

だとすればあたかも、「コロナとの共存」とは、「中共の温存」を隠すのに都合がいいので、こちらも、「新しい左翼用語」となってくる。
惜しむべきは、わが国に「RICO法」がないので、中共の支配下にあった学術会議という組織を、一網打尽にすることができない。

しかしながら、この度の騒動によって、過去の悪事が次々と暴かれることになったのは、国民には幸いである。
いまだに強弁擁護するマスコミを散見するけど、新聞の不買と広告の不出という手段で追放するのに、まことに都合がいいのも彼らにとっては「不都合な真実」であろう。

個人の不買は、日本国民ならかんたんにできる。
しかし、企業の広告の不出は、企業経営者の判断に委ねることになるから、消費者という国民には、もう一つの、不買をすれば経営者は怖れをなすのである。

ここで、自助を旨とするのが本ブログの趣旨ではあるけど、アメリカ議会という他人が、ぜんぜん別のレベルで日本企業にも迫っている。
なので、より現実的な「排除状況」になっていることを書いておく。

それが、「RICO法」の対象に、中共を「指定団体」とする動きがあることだ。
そうなると、「指定団体」には、その支配下にあると認定される企業も含まれるから、こうした相手と商取引している外国企業も、「同類」と見なされてしまうのだ。

つまり、日本企業がアメリカ連邦政府から、突然「ならず者の犯罪企業である」という「指定を受ける」ことになる。
「可能性ではない」ことに注意したい。

すると、「法人」なので、罰金と没収刑とで、いかほどのお支払いを要するのかを問う前に、企業にとって命ともいえる「信用」が失われることになる。無論、アメリカは輸入禁止をする。
アメリカ政府からの「犯罪者指定」が、世界でのビジネスにどう影響するか?はかんがえるまでもない。

まさに、「一巻の終わり」だ。

日本政府は、こうした「リスク」をいかほどに日本企業に伝達し、警告しているのか?
まさか、同盟国の企業を相手にそんなことはしない、と独りよがりしていたら、とんでもない。

アホな官僚が、アメリカ政府に問い合わせて、安心しているかもしれない。
問い合わせるべき相手は、政府ではなく、議会なのである。
この意味で、ワシントンの日本大使館の情報収集力は、大丈夫なのか?
自民党外交部会長になった、ヒゲの隊長佐藤議員にチェックしてほしい。

わが国のIT化に対する「遅れ」には、「IT活用」もあるけれど、経営者の情報収集が、「地上波TV」と「大新聞」では話しにならない。
最低でも、ネット上の各国ニュースを探る必要があるし、とくにアメリカ議会の動きは目が離せない。

残念ながら、わが国の既存マスコミは、このような重大情報ほど無視して報道しない傾向が高まっている。

その意味で、トヨタ自動車があぶない
いまのわが国で、この会社が傷つけば、いかなる範囲で影響がでるものか?
「衰退」ではすまされない事態になるのだ。

心配しすぎ、がちょうどいい。
トヨタ一社への依存とは、高リスク状態を意味するからである。
くれぐれも、「新冷戦」という「新しい日常」がはじまっていることを忘れてはならない。

これは、かつての「米ソ冷戦」より、たちが悪いのである。