地図の上下を横にする

日本をふくむ東アジアの地図を横にして、西を下、東を上にしてみる。
中学校や高校の「世界地図帳」があるなら、地図帳ごと横にすればよい。
すると、ユーラシア大陸が下になって、日本列島がまるで「蓋」のように連なっているかに見える。

この、「かに見える」ということが、思考の役に立つ。
地政学という学問を引っ張り出さなくても、ユーラシア大陸から見たら、日本列島が広大な太平洋の堤防のようにも見える。

演歌だと、「日本海の荒波」が詩情や風情をかきたてるのだけれども、太平洋の荒波に比べれば、内海となる日本海はどっこい静かな海なのである。
だから、江戸時代は、日本海の「北前船」での海運が盛んだった。
裏日本が繁栄したのは、この「物流体制」のおかげだった。

現代でも、太平洋側の宮城県金華山沖に発生する三角波によって、大型船が沈没の憂き目にあう危険がある。
それで、南に目をやれば、「台湾海峡」が重要になっている。

台湾の太平洋側も、航路として危険なので内海の台湾海峡しか通行できない。
もしも、台湾海峡が封鎖されたら、我々はアメリカから来る以外の、ほとんどの物資が入手不可能となる状態で生きている。

いま話題の、東シナ海も南シナ海も、台湾海峡とおなじく、海上交通の要衝なのである。

相手のかんがえることが、どういう発想からなのか?とか、どんな事情かをかんがえないと、トンチンカンなことになって、かえって傷口を大きくすることがある。
だから、相手がトンチンカンだとやっぱり困る。

トンチンカンにはトンチンカンな対応になるので、結果もトンチンカンになりやすい。

すると、トンチンカンな相手には、早い段階でそれがトンチンカンだと教えてあげないといけない。
これが、国家間になれば、こちら側の国民がふだんから「まとも」でないといけないのはいうまでもない。

ところが、自由主義というものは、「まとも」と「トンチンカン」がどうしても混在するので、全体主義が「強固な結束」に見えるのである。
これを勘違いして、自国民に情報統制を行えば、「まとも」ばかりになって相手に対抗できるとかんがえたりする。

そうやって、気がついたら自国も全体主義になっていた、ということになりかねない。

そんなわけで、地図を横にして見るのは、自分と相手を交互に見つめるための工夫である。
たまには相手の立場になってかんがえる。
すると、相手の論理が見えてくるのだけれども、それがどういう意味なのかをさらにかんがえると、平和ボケしていられない事情もわかるというものだ。

これを、こないだ話題にした「クレー射撃」でいえば、「スキート」という種目がこれにあたる。
麻生大臣が、前回の東京オリンピックで出場した種目でもある。

簡単に説明すると、半円形のフィールドの直径にあたる場所それぞれに射台を置いて、円周に沿っても射台を置く。半円の中心にも射台を置いて、全部で8カ所とする。
クレーの射出口は、直径に対して2カ所だけで、それぞれ同じコースにしか射出しない。

つまり、放出される皿のコースはたったの2通りだけど、射手である側が移動して違う角度からこれを撃破する競技なのである。
やってみればわかるが、見る角度が違うと、同じコースに皿が飛んでいるとはおもえない。

人間の感覚とは、こんなものなのである。

だから、地図を横にしても意味がない、ということはない。
地図を横にする意味の方がわかるのである。

子ども時分によく参加した、オリエンテーリングでは、地図と磁石を渡されて何カ所かある経由地をチェックポイントにして、いちはやくゴールしたものが勝とされる。
会場がずいぶんな田舎でないといけないのは、地図と磁石に頼る競技だからである。

このとき、地図に磁石をあてて方角を確認し、じぶんたちがどこにいるのかを意識しないと、チェックポイントにすらたどり着けない。
時間も計って、歩いた距離も考慮するひつようがある。
だから、地図をグルグル回して、実際の地形も見ながら、いまいる場所の見当をつけるのがコツなのだ。

Apple Watchの宣伝に、子どもたちの指導者のおとなが確認したら全員がその方向に歩き出すグループの場面がある。
こうした活動が、課外授業になるのは、ただ地図の見方を学べるからではない。

おなじ情報しかないのに、ちがう判断をするひとがいることも学ぶのである。
こうして、トンチンカンを抑制することが、社会教育としていることに注意したい。

たかがハイキングなのではないのである。

たまには地図と磁石をもって、出かけてみてはいかがだろう?

コロナ・パラダイム・シフト

「パラダイム」というのは、既存の概念=常識とか枠組みのことを意味する。
それが「シフト(入れ替え)」することを「パラダイム・シフト」という。
ここでいう、「コロナ・パラダイム・シフト」とは、感染症診断のための「コッホの4原則」に当たらない「社会が作った心の病」が社会という枠組みそのものを入れ替えてしまうことである。

つまり、ありもしない病気が、実在する社会を変革してしまう。
そんなことがあるのか?
いや、むしろ当然なのである。
人間社会とは、人間の心によってできているという当たり前が、ここにきて前面に出てきただけなのだ。

20年前、大ヒットした映画『マトリックス』は、その後の2作で、いよいよ「哲学映画」の様相が深まって難解な展開をみせた。
来年の21年公開予定と発表されている『マトリックス4(仮称)』では、いったいどんな「主張」が飛び出すことか?

生身の人間と仮想空間という対象を、「脳」そのもので電気的に接続され、それがコンピュータで操られているアイデアは新しかった。
これは、「実体二元論」という哲学が表現されたのだった。
そして、もう一方では組織社会という人間がつくる社会が作品の「あるある」を支えた。

以前、『マトリックス』と『ダビンチコード』の類似性について書いたのは、この「組織社会」をキリスト教社会の歴史に含めたからで、そこには入れ子状態になった支配の構造としての「金融批判」があったからである。

要するに、リーマン・ショック(2008年9月)で崩壊したという、金融機関=虚業による実業の支配が、いまだぜんぜん終わっていないことが問題なのである。
虚業と実業の葛藤は、そのまま「実体二元論」になることにも注目してほしい。

リーマン以降、金融機関は弱ったけれど、それ以上に実業も弱ってしまった。
これが、わが国の失われた30年の正体である。
そして、史上最長政権は、何とかのひとつ覚えで、金融緩和という虚構の政策しかせず、実体経済の衰退を止められなかったという「実体二元論」による現実がここにもある。

すると、波状攻撃のように実体社会に出現した「ありもしない病気=虚病」が、ひとびとの「脳」をコントロールしたのだから、映画の『マトリックス』が、実社会に出現したともいえるのである。

そういう意味で、いま、改めて過去の三部作を鑑賞する意味がある。

陰謀論はさておいて、自分たちの「脳」を疑う、という作業をしておくことが、社会の怪しいシフトを防止する唯一の方法なのである。

人類の経典宗教のはじまりは、イラン北部にうまれた「ゾロアスター(拝火)教」だ。
明と暗、善と悪、白と黒。
これが、「二元論」のはじまりなのである。

つまり、「単純化」のことを意味する。

現代社会は複雑になって、どうなっているのか解らなくなっている。
その裏返しとして、単純化すると、「楽」になる。
すなわち、堕落でもあるのだ。

そんなわけで、いまの世の中には、意図的に単純化された「架空」がはびこっている。
この「架空」こそが、本来の仮想空間である。
コンピュータが仮想空間をつくりだすのではなく、人間の楽をしたいと欲求する脳がつくりだすのである。

そして、ありもしない病気が蔓延するという「現実」が、集団で働くことや集団での移動を妨げてしまった。
これによって、大打撃を受けているのが「農業」などの一次産業も同じである。

しかも、一次産業では「人手不足」=「後継者不足」から、実態として外国人労働者をとっくに受け入れてきた。
そこで、わが国の農林水産省は、「農業労働力確保緊急支援事業」として、今年度補正予算では、46億円以上を計上している。

人的サービス業からの、「労働力シフト」が視野にあるのである。

さらに、水害と蝗害で、大打撃を受けている「はず」の中国では、食料危機に備えてか、食べ物をムダにしないキャンペーンもはじまった。
また、米中経済合意で、大量のアメリカ小麦を購入する約束もある。

ほぼ半年前の3月31日には、国連食糧農業機関(FAO)や、世界保健機関(WHO)だけでなく、世界貿易機関(WTO)の各事務局長が「食料品の入手懸念が輸出制限につながり、国際市場で食料品不足が起きかねない」と共同声明を出している。

注目すべきは「輸出制限」という人為なのである。

記憶に残る「危機」では、1993(平成5)年の「米騒動」があった。
このときは、冷夏というはっきりとした自然現象が原因だった。
緊急輸入したタイ米と抱き合わせでないと、国産米を購入できなかった。

けれども、わが国はタイ米を世界価格より高額なカネをだして買い占めたので、貧しいアジア諸国では深刻な食糧危機になった。
そのタイ米を「不味い」といって廃棄する日本に、バングラデシュなどは、「不道徳である」と声明をだしたが、わが国マスコミはこれを無視した。

耳障りがよく、いかにも「善人」を装って、「コロナとともに」とか、「あたらしい日常」といっているのは、自らを「安全地帯」に置いてからの発信にすぎない。

「コロナ・パラダイム・シフト」とは、「不道徳」にシフトする、という意味である。

自己満足を消費する

わたしたち夫婦の共通の趣味に、「クレー射撃」がある。
このブログでは数度書いたことがある。
この春に撃ったときは調子よく、スコアもそれなりだったのだが、コロナ禍で休んでいたら大変なことになった。

久しぶりに射場へ行って、いつものようにプレイしているのだが、ぜんぜん当たらない。
果たして、これまでどうやっていたのか?
ぜんぜん思い出せない。

1ゲームで25枚のクレー・ピジョン(皿)を、1枚当たり2発まで弾をこめて撃つことができる。
調子がよければ30発も使わずにゲームを終えることができたものが、50発消費しても散々なスコアなのである。

近代オリンピックの最初(1896年)から射撃競技自体はあったのだけど、クレー射撃が正式種目になったのは、1900年の第二回大会からである。

そもそも、皿に「ピジョン」という名称があるのは、そのむかし、本物の鳩を飛ばして的にしていたからである。
当然ながら、こういうことをするのは、ヨーロッパの貴族たちだった。
鳥を狙った猟から派生した「娯楽」でもあったのだ。

高額な散弾銃を購入し、散弾の弾を購入し、これで標的となる皿を粉砕するのだから、まったくの消費ばかりでぜんぜん生産的ではないように思える。
つまるところ、何が面白くてこんなことに熱中するのか?

こたえは、粉砕したときの満足感が欲しいのである。
あるいは、失中したときの残念が悔しいのである。
だからこれは、一種の「中毒」なのだ。

すると、まったくの消費にしかみえないものが、じつは、中毒症状を呈している満足感を得るためにしているとかんがえると、人間にとってのふつうの「消費行動」と大差ないのである。
食欲だって、物欲だって、本人にとってみれば満足感を得るためのものにすぎない。

しかも、射撃はすべて自分の判断による結果なので、怨むのは自分の不甲斐なさだけである。
そのために、入手できる最高性能で最新の銃を求め、世界のアスリートが使用する散弾を使うことにこだわる射手もいる。

結果を銃や弾のせいにせず、自分の腕前だけに還元させるためである。

わたしはそこまでストイックではないけれど、これだけ「当たらない」を経験したのは、初心者以来初めての経験で、これを「スランプ」とはいいたくないほどの「壊れ方」であった。
もっとも、一番慌てたのは師匠である。

師匠はかつて二回、日本選手権での優勝経験があり、アジア大会にも出場した、この界隈で知らないひとはいないほどの有名人であり、先代から引き継いだ銃砲店の主でもある。
そのひとが、わたしの射撃姿勢をみて、クビをかしげた。

どこも悪くない。

どこも悪くないのに当たらないという事実だけがある。
だから、どこかがおかしいのである。
そのどこかが、師匠をしてわからないというのだから深刻である。
仲間も動揺しているのは、自分もあんなになるか?という恐怖でもある。

師匠の動揺は、顧客たちの動揺が広がることにある。
自身の指導の限界となっては、名の知れた専門店の沽券に関わる。
しかし、師匠の判断は速かった。
リセットして、初心者がおそわる基本のやり方に戻すことを指導された。

クレー射撃(なかでも「トラップ射撃」という)の、基本は飛び道具をつかう「弓道」とおなじく、「構え」にある。
そもそも鉄砲は、戦国時代の後期に伝来したのだから、日本の素地に弓の道は完成の領域にあった。

名人、那須与一の逸話は源平戦のむかし。
それは、信長の時代からもはるかむかしだったのだ。

そういえば、アメリカには有名な圧力団体としての「全米ライフル協会」がある。
この団体の保守性(日本では「右翼」として)は、おりがみつきだけど、「安全」という前提のルールを保守する、ということからしたら、組織全体が保守化するのは当然である。

たしかに、この団体とて銃の乱射事件を望んでいるわけではない。
秀吉による「刀狩り」の歴史をもつわが国と、憲法修正条項をもつ彼の国の違いは、かんたんに埋まる話ではない。

それはそうと、いまさらながら改めて「基本」に戻すことをした。
すると、基本の銃さばきの意味がはじめて理解できた。
それは、理由はどうあれ「2+3×4」の計算方法をならった小学生が、中学や高校で、この計算の「論理」の重要性を習うようなものだろう。

もっとも、中学や高校でこの「論理」を習った記憶はないけれど、どうしてそうなのか?をしることで強固になる。

それは、わたしの師匠への質問とその答えについての理解度が、かつてない程度の違いになったのである。
自分の上体を、どうしたら滑らかな回転運動として動かすことができるのか?

それには、下半身はもちろん、「体幹」が重要でかつ、バランスが確保された回転軸が必要という知識はあっても「どうやるか?」がなかった。
この「発見」があっての「体得」になるのだろう。
試してみれば、「当たる」ことがわかった。逆にいえば、当たらない理由の発見だ。

なんだか小学生を卒業できた気がしたのである。
この自己満足には、それなりの対価(じつは大層なコスト)を要したのだけれど、ひとつの壁を越えられたことはどうやら確かである。
周辺の仲間の再びの驚きと、師匠の安堵と自信の顔が物語っている。

人生の豊かさを実感した、といったら大袈裟か?
いやいやどうして、人生だってしょせん、自己満足なのである。

トランプ氏にノーベル平和賞を

ノーベル賞のなかでも「平和賞」というのは、「経済学賞」とおなじくらい不思議な賞である。

そもそも、経済学賞はノーベル財団が認めていないから、「ノーベル賞」といっていいのかさえも怪しいのだけども、正式名称の「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」といわれることはめったになく、強引に略しているのである。

平和賞は、ノーベルの遺言にあるので、経済学賞ほどのあやしさではないはずだけど、「科学」というノーベル賞の基本からかなりの距離があることは否めない。
それに、(一応経済学賞もいれて)6部門のうちこの平和賞だけ、選考はスウェーデンではなくて、ノルウェー・ノーベル委員会になっている。

これは、1905年まで、スウェーデンとノルウェーが「同君連合」として、おなじ王様の国だった名残でもある。最初の授賞式は1901年だった。
まぁ、事情もさまざまな各賞で、そこに受賞という名誉が「ある」のだから一般人が文句をいってもはじまらない。

コロナ禍、日本のお盆の時期に欧州歴訪した中国の外相が、香港の自由を求める活動家に、もしやノーベル平和賞を差し出すのではないかと懸念して、ノルウェー政府を恫喝してしまったのがニュースになった。
こういうことが、「嫌われる」ことに気づかないことが、相手から本気で嫌われる原因になる。

どういう神経か?と。

もはや、ヨーロッパは話題のベラルーシを除いて、すべてが自由と民主主義の国ばかりになったので、この恫喝のニュースは全ヨーロッパを敵に回す「嫌われる努力」となったし、旧社会主義国の国民にかつての自国の記憶を鮮明に蘇らせる効果ばかりとなった。

なので、「ヨーロッパ最後の独裁者」といわれるベラルーシ大統領に対抗する大規模デモに、周辺国民の支援にも熱がはいっているのは、完全に「反面教師」に対する反抗心の表れとしての「効果」にもなってしまったのだ。

なお、ここでいうヨーロッパにロシアは含まないので念のため。
ちなみに、ベラルーシの「ベラ」とは、直接的には「白」を意味するけど、深いところで現地では「南」のことである。「ルーシ」はロシアが訛ったから、直訳で「白ロシア」、現地の感覚では「南ロシア」をいう。

むかしいってた「白系ロシア」は白人が多いという意味に捉えたひとがいたけれど、そうではない。
ただし、ファッション界のモデルが国家資格になっている国なので、ファッション系でいう「美人大国」であることは間違いない。

中国の外相をここまで追い詰めたのは誰だっけ?ということは脇に置いて、最近驚愕したニュースは、イスラエルとUAEの国交樹立のニュースであった。

UAEとは、アラブ首長国連邦のことで、アラビア半島南東に位置する、7つの首長がいる小国の連邦である。
「アラブ」がつくから、アラビア語を話してイスラム教を信仰しているひとたちの国だ。

地図を見ないといけないのは、7つも国が集まった理由を知るためにも必須だからである。
いまでも「アラブ連盟」は健在で、21カ国が加盟(シリアは資格停止中)していて、本部はエジプトのカイロである。

イスラエルに対抗して「アラブの大義」が声高にいわれたけれど、アラブ各国が集合した「アラブ連合」は、かつてエジプトのナセル大統領が提唱し、実験はしたもののうまく実現していない。
部族社会が歴史的本筋なので、一本化できないのである。

そんなアラブのなかにあって、UAEの結束があるのは、対岸の国を見ればわかる。「ペルシャ湾」に面しているから、イランが目先にあるのである。
ここで、敵の敵は味方という論理が成り立つ。
ならば、もっと前にイスラエルと国交を結べばよかったじゃないか、というわけにはいかない。

その理由が、アラビア半島の大石油産油国、サウジアラビアの存在である。
けれども、いまだってサウジアラビアはある。

では、なにが変化したのか?
アメリカの中東からの撤退という「流れ」なのである。
これは、トランプ政権になって鮮明になった。
彼の票田は、シェールオイル事業者だから、石油価格の適度な維持が重要なのである。

すると、サウジにとって、アメリカの撤退とは、イランとイスラエルとの二方面作戦を強いられることになる。
トランプ氏の婿殿は、バリバリのユダヤ人(=ユダヤ教徒)だから、政権が発足してすぐに、イスラエルのアメリカ大使館をエルサレムに移転させた。

戦後のなかで、アメリカ大使館との距離がある日本大使館は、戦前の一等国の名残であった。なので、戦後の日本大使館は、アメリカ大使館のご近所に必ずある。
これが、イスラエルで破られている。日本大使館は、いまだテル・アビブにあるのだ。戦後日本の、覚悟のなさの象徴ともいえる。

じっさいに、中東和平はトランプ政権になって進展している。
半世紀前の中東戦争によるイスラエルの占領地を「固定させる」という提案は、時間経過の中で、アラブ側にも同意できる環境となっている。

中東の従来秩序を破壊したら、和平が見えてきた。

誰のために?
国家のメンツではなくて、そこに住んでいるひとのために。
これを徹底追求したら、中東と、ヨーロッパ、それに東アジアで、平和の鐘が鳴りそうなのだ。

これは、あたらしい名誉革命なのである。

国家による天気の独占

9月になったら、なんだかすごい台風がやって来ている。
番号でいえば10号、名前でいえばハイシェンのことである。

ずいぶん前にテレビの気象情報で「天気図」を観なくなったと書いた。
わが国は、気象庁という役所が天気を仕切っている。
「気象予報士」という「士業」は、この役所の「岡っ引き」である。

岡っ引きだから、正規職員の下に位置する。
気象庁の正規職員には、「技官」と「事務官」がいるのは、わが国の役所だからどこでも同じだ。
たとえば、厚生労働省なら、医師免許を持っている「技官」と、一般職公務員試験の「上級、中級、初級」に受かった事務官、という構造と同じである。

それでもって、役人になって出世するのは上級職の事務官ということになっている。
これを一般に「官僚」とか「キャリア」呼んでいて、初級なら「官吏(かんり)」という。
地方公務員なら「吏員(りいん)」という言いかたもあった。

技術職の専門家を、「技官」とするから、気象庁なら「予報官」とは「技官」のことをいう。
予報官は予報をすることが仕事だから、他のことはしないし、しては「いけない」ことになっている。

してはいけないことを決めるのは、事務官だ。
庁内事務を取り仕切るのが、キャリアの事務官である。
なので、予報官が予報に使う「生データ」とか、予報の詳細とかのうち、国民に発表する内容を決めるのも、「事務官」である。

役所では、ひとりの事務官がずっと同じ席にいるのではなく、だいたい二年ばかしで異動する。それでもって、「キャリアを積む」から、「キャリア」という。

だから、役所に40年も勤めると、20人ほどの「キャリア」が異動でやってきてはいなくなる。
やることが決まっている欧米的な行政機関なら、ほとんどやることがない「席」であれば削減される。

けれども、お役人の数に応じて「席をつくる」のがわが国の役所なので、やることがなくても「席」はある。
人間とは不思議なもので、二年の辛抱がなかなかできない。
それで、なにかと仕事を作って、なんだか「システマティック」にしてしまうのだ。

それは、「キャリア」がふつうに優秀だからで、自分が在籍した証を残したくなる。
そんなわけで、国民に役に立とうが立つまいが関係なく、役人の中の価値観だけで、業務が変化するのである。

たとえば、警察のキャリア事務官がいいだしたらしい、自動車ヘッドライトをハイビームにするような「指導」がある。
道路交通法のいつの時代の条文かしらないが、「法にある」という理由から、これをやったら、勘違いしたドライバーが何が何でもハイビームにして危険なほどにまぶしかったりすることになった。

すると、これをやめてもとにもどす指導をするのではなくて、自動車メーカーに自動点灯して自動調整できるヘッドライトを義務化させようというのだから、どうかしている。
高いコストを払わされる国民へのイジメになった。

そんなわけで、気象庁も、気象予報士という岡っ引きが発表できる範囲を決めたから、どのチャンネルの気象予報士を観ても、同じことしかいわないくなった。
国民にはこの程度の情報で十分だと、キャリア事務官が決めている。

それで、各局とも気象予報士は、若くて清楚な女性ばかりになったのだ。

ところが、天気情報の大元である観測網のデータを独占しているのも気象庁だから、気象予報士が得た情報とおなじものしか発表もしない。
まさに、気象庁が「大本営化」しているのである。

これは現代の異常ではなくて、わが国の役人の行動原理が戦前と変わっていないからである。

ならば世界はどうなっているのか?
ヨーロッパには中期予報センター(「ECMWF」)という機関があって、世界一の数値予報精度を誇っている。
ちゃんと台風10号だって予報しているのである。

そんな遠くのひとたちが出す予報なんて、という方には、ハワイのアメリカ太平洋艦隊が発表している天気予報は、かなり充実している。
「軍」の運用にかかわるからだけれども、米軍はぜんぜん「機密」にしておらず、データもなにも一般公開しているのである。

理由が不明であっても「隠す」のが日本の役所である。
こうすれば、なんだか自分たちがコントロールしている気になるからだろう。
それが、相手が天気でもだ。

気象現象をコントロールできるとかんがえることの倒錯は、国民の税金で賄われている、という感覚の欠如がさせるとしかいいようがない。
要するに、天気までもが、民主主義かそうでないかの指標になるのだ。

なるほど、だから「命を守るためにはやめの避難」といって、責任回避をするのだ。

隣の大国の体制を嗤えない、じゅうぶんに恥ずかしい話である。
誰であっても、あたらしい総理大臣に期待できない理由がこれなのだ。
与党と役人がつくってきたシステムだからである。

気象庁も解体して民営化した方がいい。

宗教国家の無宗教

この話の主語は、「わが国は」というよりも「わが国民は」が適切だ。
日本人は世界最強レベルの宗教性をもっているのに、ほとんどのひとが自分は「無宗教」だとおもっている。
なので、外国の入国審査で「悪魔扱い」されることがある。

「無宗教」とは、「信仰告白」の逆なので、神の反対にいる「悪魔」か、「共産主義者」と判断される。
もっとも、悪魔だって「悪魔信仰」というものがあるし、共産主義もルンペンだったマルクスが自分のユダヤ教を焼き直してつくった「新興宗教」であるので、宗教から抜けることができない。

だから、「無宗教」というのは、じつはたいへんな状態であることを告白していることになって、上述の論法からすれば「人間ではない」と人間が口にしていることになる。
すると、宗教をもっているひとからすれば、本物の「悪魔」ということになる。

こうして、よくて入国拒否。
悪いと逮捕・監禁されて、あげくに(強制)国外退去処分を受けることになる。

こんな処分を受けるとどうなるか?
こうした説明を誰もしないので、なんだか大変なことになったぐらいにしか思わないひとがいる。
それはそれで、おめでたいのだけれども、どうなるかがわかると「しまった」になるのは確実だから、やっぱりしらないと損をする。

パスポートの番号は、新しくなるたびに変更されて、いつでも最新の番号が発番されるようになっている。
だから、パスポート番号だけで管理していたなら、なかなか気づかないんじゃないか?と甘いかんがえをすることがある。

外国旅行が珍しかった時代は、飛行機も発明されていないので船での移動だった。これはその国にとって、外国人が珍しい、ということでもあるので、顔を見ればたちまち正体がわかることもある。
でも、ヨーロッパのように、狭い地域にたくさんの国があって、似たような人種なら、おいそれと外国人だとわからない。

だから、当たって砕ける作戦になるので、身分証を携行していないと大変なことになった時代があった。
いまは、ほとんどの国でパスポートに埋め込まれた電子チップの情報を読み込む。

それで、一度(強制)国外退去処分を受けたら、一生その国に入国できない。
一生なので、こうした処分を受けないに越したことはない。
安易に「無宗教」とこたえて、処分されることがいまでもあるのだ。

わたしは、「仏教徒:ブッディスト」と答えるようにしている。
およそ世界の国で、仏教徒を拒否する国はない。

ならば、仏教徒は他人に害を与えないのか?といえばそうでもない。
仏教徒によるテロだって、暴動だってある。
ただし、仏教は内面を重視するので、外面も重視する他宗教からすればいくぶん温和なことになっている。

でも、ほんとうは、日本人は「日本教徒」という特殊な宗教の信者なのだ。
この宗教は、信仰告白を必要としないし、入信するにも日本国内で生まれて育つと、ほとんど無意識に自動的に信者になるようにできている。
だからじつは、世界最強レベルの宗教なのである。

これは、「日本人の定義」にかかわる問題なのだけど、日本人はなにをもって日本人というか?について、おどろくほどに無頓着なのである。
むかし、リーダーズダイジェストの別冊で、世界の人の定義集という辞書のような本があって、これを引くとあっさりしていた。

日本人:日本国内で生まれて日本国籍があり、日本語を話す人。
と記憶している。
外国で生まれたら日本語を話そうが話すまいが、両親のどちらかが日本人なら「日系人」といい、まったくの外国人で日本語を話しても日本人とはいわない。

ユダヤ人だと、ユダヤ教を信仰している人。つまり、人種も国籍も問わない。
アラブ人だと、アラビア語を話してイスラム教を信仰している人をいう。
なので、アラビア語を話すけど、キリスト教を信仰しているならアラブ人とはいわない。
イランは、イスラム教を信仰しているけれど、ペルシャ語を話すのでアラブ人ではない。

というように、けっこう言語と宗教が「人」を決めるのである。

日本人の本当の定義は、上述に「日本教の信仰」が加わるけれど、日本人のほとんどだれも「日本教の信者」とおもっていないので、「定義」として書き出すことができないうらみがある。

日本教の真髄は、「穢れ」、「言霊」、「禊ぎ」が三点セットになっている。これには、「怨霊」からのがれる効果も含む。
これらは、「精神世界」で物質世界での理屈では説明できないために、「えんがちょ」も派生してくる。

そんなわけで、コロナ禍における「差別的」な社会現象が、日本教の宗派内における「穢れ」として起きている。感染とは穢れなのだ。
そして、なんと「禊ぎ」が、政府の用意するわけのわからないワクチンに変容してしまった。

だから、「ワクチン拒否」をだれもいえない状態が次にやってくる。

ならば、誰かが「コロナの怨霊」となって、祟りではなくただの風邪だというしかない。

「我こそはコロナの怨霊~。なにがワクチンだと~。馬鹿者たちめ。ただの風邪に怯えおってに~」こそが、唯一の解決法なのである。

相模川を越えられない

横浜市民があんまり意識しないことで有名な神奈川県は、律令時代からの相模国と武蔵国を中心に成り立っている。
これに、三浦が付随していて三多摩(西多摩郡、南多摩郡、北多摩郡)もあった。
半島の三浦はいまでも神奈川県だが三多摩は「東京府」に移管されてしまったので、歴史に興味が薄い「都下の都民」にはなんのことかわからないだろう。

ざっくり簡単にいえば、東京市を形成していたいまの23区以外は神奈川県だったのだ。
隣接する町田市はもちろん、吉祥寺がある武蔵野市だって神奈川県だった。
これを決めたのが、明治4年に神奈川県知事になった陸奥宗光だ。

分割の原因は、多摩川と玉川上水の「水利権のもつれ」に「自由民権運動」がくっついて、「官選」だった当時の神奈川県知事が面倒になって、「あっち行け」といったことにあった。時は明治26年。

驚いた三多摩では、神奈川県に留まりたい運動を必死(結構過激)にやったくらいだから、ひとの心のうつろいというものはわからない。
養蚕農家を中心に絹製品を横浜港からの輸出で稼ぐには、神奈川県にいたほうが有利だとかんがえたのだ。

今どき、よほど都政が狂えば別だが、この地域で神奈川県復帰運動なんてだれも興味がないだろう。
もちろん、県政がちゃんとしていることが条件だけど、こちらも危ない。

日本が重化学工業で近代化して、欧米列強とならぶ「一等国」になるまでも、なってからも、絶対的に稼いで支えたのが「線維産業」だった。
八王子と横浜港を直結していた、JR横浜線が敷設された理由がここにある。

桜木町(初代横浜)駅前の日本丸横にある鉄橋が、ワールドポーターズまでの近道になっているけど、ここにある線路こそ、まさに「それ」なのだ。
むかしはその先の、赤レンガ倉庫までつながっていた。

多摩川はいまでも神奈川県と東京都の境をなす。
いまは「京浜工業地帯」というよりも、大東京の外郭をなすようになったから、ひとと物の移動のために、それなりの数の橋梁がつくられている。

鉄道も海側から、京浜急行、JR京浜東北線、JR東海道線、JR横須賀線、東急東横線、小田急線の六路線があって、これに相鉄線が相乗りしている。さらに貨物専用線だってあって、通勤時には「ライナー列車」も運行されている。

道路は、有料で湾岸線、横羽線、第三京浜、東名高速の四本がある。
一般道にも橋梁はたくさんあるけど、それなにりボトルネックが発生するのは、日常でもある。
「橋」が周辺移動の集中をうながすからである。

さて、相模川はどうなっているのか?
鉄道は、やはり海側からいえば、JR東海道線、小田急線の二本となる。
間に一応、東海道新幹線があるけれど。
道路だと、有料で新東名、東名高速、圏央道相模原愛川ICの三本となるけど、渡河して対岸に向かうという感覚からは離れる。

一般道は、河口の国道134号線湘南(トラスコ)大橋(上下4車線)、国道1号馬入橋(上下2車線)、湘南銀河大橋(上下4車線)、神川橋(上下2車線)、戸沢橋(上下2車線)、相模大橋(上下2車線)、あゆみ橋(上下2車線)、国道246号新相模大橋(上下4車線)、座架依橋(上下2車線)、昭和橋(上下2車線)、国道129号(上下4車線)、高田橋(上下2車線)、小倉橋(交互)、新小倉橋(上下4車線)をもって城山ダムにいたる。

ダムまで全部で14本の橋がかかる。
神奈川県は、この本数で「県」となっているわけだ。
問題なのは数もしかりではあるが、橋と橋の間隔に距離があるため、かんたんに迂回できないし、車線数が少ない。

ちなみに、厚木市中心にかかる相模大橋とあゆみ橋の間隔はすぐ横にあるけど、あゆみ橋の上流で相模川は中津川と合流する。
ために、その先の国道246号まで、一般道に橋はなく、さらに上流をたどれば、ダムまで6本しかないのである。

もちろんだが、宮ヶ瀬ダムにつながる中津川も渡らないといけないはずだが、こちらは丹沢山塊の縁にあたるので、主な道路は国道412号しかない。

そんなわけで、じつは神奈川県は地理的に分断されている。
西岸の平塚市、厚木市と東岸(茅ヶ崎市、寒川町、海老名市)を結ぶ一般道の橋は、河口から246号まで、8本しかないばかりか上下4車線の橋はたったの3本なのである。

また、気候も分かれていて、たとえば冬場、丹沢降ろしが相模川で水分を得るため、丹沢に近い西側よりも東に影響して、あんがい雪を降らせる。
東京に向かう東名高速で、相模川をわたったとたんの大雪で、わずな距離の海老名サービスエリアにさえたどり着けないことがある。

厚木の住民が、対岸の海老名は寒いといって震えるのには根拠があるのだ。

ダムによって水量を制御しているとはいっても、ダム上流で豪雨となれば放流を余儀なくされる。
ために、相模川の河川敷を狭めることはできない。
いまでも、たった一回の台風で風景がかわるのである。

これに、都市計画が追いつかず、橋と接続するための道路がつくれない。
両岸とも、堤防の外はすっかり住宅地になっている。

人間がいう「発展」を妨げるのは、自然の地形と人間の営みとの双方なのである。
移動の不自由が、どれほどの損失をつくっているのか?

専門家に聞いてみたい。

国民の知る権利と知らせない義務

2年がかりのアメリカ大統領選挙とちがって、わが国は急づくりで、しかも決め方が決まっていないので、どうやって決めるかから決めないといけない。

これは、政権党の自民党が近代政党ではないことが原因だ。
近代政党の条件は、1.綱領、2.組織、3.議員、の三点セットがあることだけど、「あるだけ」ではいけなくて、順番における重みが重要なのだと書いた。

「あるだけ」なら、わが国最大政党で戦後のほとんどの期間を政権与党でいる党だって「近代政党」になってしまう。
それで、政治学者の皆さんは、わが国最大政党を近代政党だと定義している不思議があって、学術補助金に目がくらんだ「文系」の典型と疑うのだ。

基本的な定義が、ちがった基盤でおこなわれれば、その先の議論の果ては、あり得ないほどトンチンカンになる。
姿勢制御が苦手な宇宙ロケットが、数センチ向きを間違って発射されたらそれだけで目的の方向を失うことになりかねないのとおなじだ。

たとえば、いちばん近い政権交代は、1回の選挙で生まれた鳩山政権だったが、その後、管・野田とぜんぶで三人で政権をたらい回しした。
このときの「民主党」には、そもそも1.綱領、が「なかった」のだ。これを、野党になった自民党がしつこく批判していた。

そんなわけで、これから分裂した立憲民主党と国民民主党には、それぞれ「綱領がある」から、有権者としては、1回でもいいからチェックすべきものなのである。
もちろん、自民党のもしかりである。

こうしてみれば、どの政党も、国家が資源(ほぼおカネ)を国民に分配するという「社会主義」を目指しているので、「ちがいは国防」という構造になっている。

国が存在してこその「国家」だから、わが国のばあいは、ここでも順番がちがっている。
政権政党がどこになろうが、「国防」は同じでなければ困る。
困るのは、もちろん国民である。

わが国の「政権選択」とは、なんと「国防方針の選択」を意味するのである。
積極的に国防をしようという政党から、いまだに専守防衛という幻想的言葉遊びを貫こうという政党、あるいは、政権を奪取した場合に日米安保条約を破棄し、国防軍を創設して自主防衛するという党まである。

これは、「入れ子型」にもなっているから、巨大な自民党の内部でも「国防方針」を異にするひとたちが「派閥」を形成している。
「海洋」をふくめると、極東の小さな島国から一転して、世界第6位の巨大な国に変身するのがわが国である。隣の大陸国家より、はるかに面積が広いのだ。

だから、島嶼防衛というのは必然的な国家の仕事になる。

この現実をみれば、どうしたら「政権選択」が「国防方針の選択」になるのか?
残念ながら、この一点だけで、ぜんぜん近代国家ではない。
むしろ、周辺国に領土的野心という妙な気を起こさせる誘惑を与えるから、平和を乱す迷惑をさらなる周辺国にばらまいているのである。

しかも、縮尺を現実にあわせれば、もともとわが国は極東の小さな島国ではなく、けっこう大きな国なのである。
いちばんいいのは、地球儀をみることだ。
それで、ヨーロッパと比べたら、わが国は驚くほど「でかい」のである。

さてそれで、2.組織、に目をやると、政党だって組織なのだから、組織での決めごとには議論が必要で、最後は投票行動となる。
それは、人事もおなじだし、むしろ政党という組織では、営利企業とちがって、人事こそが政治となる。

だから、政党内でさまざまな「選挙」が行われるのが近代政党の近代政党たるゆえんになる。
このとき、おカネで買収することが優先される組織では、内外からの批判に耐えられない。

すなわち、「議論」もしかりだが、ふだんからの「マネジメント」ができるかできないかが「人柄」として現れるのが「選挙」での投票結果になる。
しかも、選挙で投票権を持つのは、党員というひとたちになるのは当然である。

もちろん、党員だって、自腹で党費を支払っているひとたちであって、その前提として綱領への賛同がある。
議員から頼まれて、名簿掲載としてだけの党員になる、ということではないし、党費を支払うのも議員であってはならない。これこそ「買収」になるからだ。

しかも、党員は党員同士から立候補者を選ぶ。
そのためには、党内で「予備選挙」をして、その勝者が立候補する。
予備選挙での敗者は、党員として勝者の選挙を手伝うことだって、当然とされるのが「組織」の行動原理である。

こんなルールが、事前に決まっている。
その都度、ルールを変えるということはあり得ない。

わが国に、こうした制度すら存在しないのは、国民の知る権利を国民が行使しないからでもあるけれど、なんだか知らせないことを義務だとかんがえているひとたちがいる。

損をするのはいつだって国民だから、もうすこし賢くなる努力をした方がいい。
そのためには、まず、テレビを観ないことからはじめよう。

「デマ」との闘い

世紀のデマ。

これが、「コロナ禍」の真相である。
しかし、おおくのひとが聞く耳を持たなくなっている。
デマであろうがなかろうが、「安心」を最優先させる思想が、日本人の心を支配するからである。

一方、5月にボチボチはじまってはいたが、今月1日から大規模化したドイツ・ベルリンで発生した「反コロナ対策デモ」が止まらない。
一昨日の29日には、3万8000人が参加し、そのうち暴徒化した300人が逮捕されたとBBCが伝えている。

暴徒と化すのは感心できないけれど、政府による「規制に反発する」という態度は、「自由の侵害」という基準からすれば当然である。
かつての「同盟国」ドイツ人は、どのような思想で戦後を生きてきたのかがわかるデモでもあるのだ。

すると、反対に、日本人はどのような思想で戦後を生きてきたのか?
「自由と民主主義」という用語が、なんだかむなしかったのは、「空っぽだった」からだと確認できることになった。
むしろ、いま、日本人は自由と民主主義を「無視する」ことを、あたらしい日常といっていないか?

政府の失敗をいろいろ指摘しているひとたちはたくさんいる。たとえば、国境封鎖が遅れたとか。
けれども、第一に、政府は失敗するものだという「前提」がある。このことを忘れて、コロナ対策だけを間違えているというのは間違いである。
いつものことの「一部」にすぎないのである。

一連のコロナ対策で、このブログで指摘している政府の失敗は、緊急事態宣言を出して、終息宣言を出したら「元に戻る」とかんがえたことだ。
すなわち、法律の定めによって、巨大な権限を首相=政府から、各都道府県知事に「委譲」したのが緊急事態宣言だったけど、終息宣言をしてもその権限が元に戻る「ことはない」ことを予測できなかったことにある。

これは、地方の反乱なのである。反乱の予測ができない中央の傲慢さ。
いわば、廃藩置県以来の、中央集権国家における地方政府たる都道府県が、「藩」に戻るという現象を起こしてしまったのだ。
このことの重要さがいわれていない。

たとえば、中央政界を仕切るのは、圧倒的多数の与党である。
本人がこの与党の党員であったり、与党が支持・支援して当選した知事たちが、天領のお代官さまでいるのでもなく、ちゃっかり政府に対抗している。
その筆頭が都知事であるけど、だれもこれをとがめない。

その原因は、自由と民主主義を前提とする「法治の建て付け」が、もともと空虚だったからである。
さらに、わが国最大の政権与党が、「近代政党ではない」という大欠陥を露呈していても、国民がこの欠陥にぜんぜん気づかない。

さらにこれを気づかせないように、このタイミングで辞任表明した首相は、この一点だけで、歴代最高の総理大臣であるのは確かである。
政権与党の最大の欠陥を身体を張って、とにかく隠蔽することに成功させた功績は、与党にとっては100年に一人の逸材であったといえるからである。

ただし、このほかは、長期政権だったということ以外、ほとんど功績がないという特徴がある。それは、後継者がいないということでもわかる。
トップの責任には、後継者づくりがあるからだ。
わが国を長期衰退させたのを、功績と評価する外国はあるだろうけど。

都道府県知事は、内閣総理大臣と「ちがって」、住民による直接選挙で選ばれるから、「おらがお国の大将=藩主」になりえる。
これを、中央政府による、さまざまな「規制」と「制約」によってつなぎとめていたのもを、緊急事態宣言で中央政府が自らこの糸を断ち切ってしまったのだ。求心力ではなくて、遠心力となったから、物理法則である。

西洋風にいえば、「パンドラの箱」を政府が自分で開けたのだ。
パンドラの箱とは、全知全能のゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした小箱のことで、これを開けたために不幸が飛びだしたが、急いで蓋をしたため希望だけが残ったという話だ。

ギリシャ神話ならすぐさま閉じて「希望が残った」けれど、日本政府はなにもしないから、とうとう希望も失せた。
知事たちの反乱に、政府は為す術をもたなかったのではなくて、上述の「建て付け」が狂って、締めようにも締まらなくなったということだろう。

すなわち、自由と民主主義でもないのに、それを装って「法治国家」だと言い張ってはいたものの、とうとう戦後のバラックづくりの建物が、ちょいと一本木材を抜いてみたら、音をたてて崩壊してしまったようなものである。

さらに、まちがったリスク管理もある。
いつの間にか日本人は、「リスクは避けるもの」がこうじて「リスクは絶対に回避するもの」になった。この「回避」には、「逃避」という意味もある。
だから、徹底的にリスクを嫌う。

しかし、リスクあっての「利益」であるから、リスクはあくまで「コントロール」すべきものなのである。
コントロール(制御)するのは人間だから、ひとが主体になってリスクに立ち向かう、というイメージになる。

リスクに立ち向かうことができなくなったのは、バブル崩壊による「ショック」(精神病理)による。
これは、「心的外傷後ストレス障害」であるので、30年前に罹患した病気が治癒しないばかりか悪化しているのである。

さらに、75年前の敗戦・占領というショックからも立ち直っていないから、日本人の心の傷による病は、年輪のように重なっている。

以上のように、一見複雑そうにみえるけど、あんがい解きほぐしてみれば、めちゃくちゃ複雑でもない。

コロナ禍とは、こうした日本人がつくる「社会が生みだした心の病」なのである。
だから、感染症の専門家が正しい情報を提供しても通用しないし、政府の専門家会議のトップが「収束に向かっている」と発言しても、知事という医学の素人が平気で否定できて、そんな知事たちの支持率が高いのである。

こうしてみれば、精神医学か社会心理学の専門家による「教導」が必要なのだけど、それがまたデマだと目も当てられない。
ならば、原点に立ち返って、「自由と民主主義」の本質を確認するという態度が、どうしても必要なのである。

ドイツでのデモが、それを教えてくれているのだ。
ただし、この報道にも「極右」という用語が埋め込まれているから、報道を装った誘導に注意したい。

コロナ「崩壊」のシナリオ

なんだかわからない8月の「夏休み」も終わって、来週には9月になる。
いつもの年なら、『誰もいない海』(1967年)の歌詞の通り、黄昏の秋がはじまるだけなのだが、「働きてが誰もいない」状態になりそうな、嫌な予感だけが迫ってきている。

いまさらだけど、わが国経済はとっくに「内需型」に変換されている。
かつての「輸出依存型」ではないので、「貿易黒字」が溜まりすぎてアメリカから叱られることもなくなった。そのかわり、「貿易赤字」というはめになっている。

産業構造が、「サービス化」して、鉱工業従事者の3倍以上がサービス産業に就労している。その割合は、就労者の7割にもおよぶ。
ここから、金融とIT系という「稼ぎ頭」を除くと、ざっと6割のひとが「人的サービス業」に従事している。

昨年19年度の就労人口は、5660万人(役員除く)なので、念のため役員も入れれば、大まかに6000万人が「働くひと」の総数なのである。
すると、6000万人×6割=3600万人が人的サービス業にいる。

人的サービス業とは、旅行・交通・宿泊・飲食・理美容・医療・小売・流通といった、接客をともなう業態をさす。

3月にはじまった雇用調整助成金のコロナ対策は、半年間を前提としていたから、9月で期限がやってくる。
これを「伸ばす」動きはあるが、「永久」ということはあり得ないので、いつかは終わりがくる。

すると、いきなり「倒産」にはならなくても、「雇用調整」=「解雇」が大量に始まると予想できるのだ。

もし、半分なら1800万人、その半分で900万人が失業するかもしれない。
一気にこれだけの数は、大袈裟ではなくて「雇用の崩壊」を意味するのである。

まさに「未曾有」の状態で、あり得ないほどの「社会秩序の崩壊」にもなりかねない。
失業保険があっても、就職先がみつかるはずもない。
それが、利用者激減のコロナ禍によるからである。

職を失っても、あらたに別の職に就くことができれば、とりあえずなんとかなる。
しかし、いるはずの利用者が「いなくなった」のがコロナ禍なのだから、あらたに職がみつけることは困難だろう。

すると、日本人が戦後連綿として作り上げ来た、社会システムとしての「中間層」に巨大な穴があくことになるのである。

「観光客」とは、人類史でみれば、産業革命による労働者のことを指す。
その労働者が、職を失ってしまえば「観光客」もいなくなる。
「Go TO」どころではないのである。
しかし、だからといって「観光業」だけにショックがくるということでもない。

「産業連関」という「つながり」をかんがえれば、すべての産業に影響するのは、予想される失業者数が「巨大」だからである。
自動車も住宅も、購入層がいなくなればどうなるのか?
金融機関は、パニック的な「貸し剥がし」をする可能性が高い。

9月から2ヶ月後の今年の11月には、世界史的投票が世界の二箇所で行われる。
第一は、アメリカ合衆国大統領選挙で、第二は、スイスの国民投票である。
スイスの国民投票は、年に数回行われるので、これ自体は珍しくもない。

ただ、11月に予定されているのは、世界にとって極めて重要な選択なのだ。
それは、「人権蹂躙する国に、スイス企業はつき合うか否か?」を問う国民投票だからである。

もし、この投票結果で、「スイス企業はつき合ってはいけない」となったとき、スイス企業であるスイス銀行は、わが国の隣の大国支配者たちの「口座を閉鎖」するかもしれないのだ。
その額は、「1200兆円」ともいわれている。ゼロは二個でまちがいない。

そんなわけで、わが国の外では、大きなことが決められる時期が重なっている。
しかし、わが国の中で、コロナ禍を収束させる動きがないなら、つまり、これまでの延長でしかないなら、自己崩壊をはじめる運命が迫ってきているのである。

マスコミは、国民への「洗脳」をどう解くのか?

ありもしない「病」を、政府だって地方政府だって、どう始末をつけるのか?が問われているのに、病があるという前提に立つのは、「ワクチン」という利権のためか?

いまこそ、人的産業に従事するひとたちは、職をかけて戦わないと、黙って職を失う崖っぷちにいるのだ。
「貸し剥がし」がはじまれば、役員だって失業する。
会社がなくなるからである。

冒頭の数字に役員も含めたのはこのためだ。

つまり、「産業」がなくなる可能性がある。
だから、「未曾有」なのである。

こうした事態に、官僚支配の政府は無力である。
「未曾有」な事態に、官僚は対処できない。
それが「官僚」だからである。

いよいよ、自分でかんがえて行動することが求められている。
これは、「訓練」ではない。