神奈川県知事のメッセージ

突然スマホの警報が鳴ったから、なにごとかと構えたら、地震ではなく「音声メッセージ」が読み上げられた。
これはこれで、初めてなので驚いたが、その内容にまた驚いた。

「自粛」まではいいけれど、「強制」となったら憲法問題になる。
このことをすっかり忘れているひとが、経済担当大臣だったり、知事たちだったりする。

みんなで憲法違反しても感染阻止のため、が通じるなら、首相の緊急事態宣言の意味は「憲法停止」になってしまう。
しかし、こんなことができるとは憲法のどこにもないから、やっぱり「憲法違反」だ。

すると、経済担当大臣が担当しているのは、経済破壊工作、ということか?
「政府になんでも反対」でしられる、愛媛県知事が「自粛延長しない」と、全国の知事ではじめて表明している。

ほんとうに「政府になんでも反対」一本であったなら、まさに、偶然でも「場外ホームラン」をかっ飛ばした感がある。
ただし、愛媛県がより濃く県民に、「なにかに触ったら手を洗う」よう注意喚起しているかは、神奈川県にいるわたしはしらない。

神奈川県民の精神構造は、横浜市民という県の存在を無視する巨大なかたまりがあるため、あんがい複雑である。
これに、相模川と境川という河川が、地理的にも歴史的にも「分断」しているので、三次元的に入り組んでいる。

相模川は、県央にあって、ほぼ南北に流れているから、この川の東西で文化がことなる。
しかも、現在においても「橋」がたくさんあるわけではないので、気軽にこの川を渡れない。

境川は、その名の通り、「国境」だった川で江ノ島からさかのぼれば八王子まで続く。
相模国と武蔵国との境だった。
つまり、現在の神奈川県とは、相模と武蔵の国からできている。

もっとも、神奈川県が最大の区域だった、廃藩置県後の明治期は、これに「三多摩」も含んでいたから、埼玉県が隣県だったし、東京は、「都」ではなくて「府」だった。しかも、「東京市」ができたときは市長が府知事を兼務した。

かんたんにいえば、東京23区と島嶼以外の「都下」は、世田谷区の一部もくわえて神奈川県だったのだ。
それが、いまのようになったのは、玉川上水の水利権争いともいわれているが、三多摩地域では「自由民権運動」がさかんで、これを嫌った当時の「官選知事」が「分断」をはかるために神奈川県から切り離したという「説」もある。

その証拠に、三多摩が東京府に移管されるとき、三多摩の首長たちは辞表までして反対したというから、民主主義「だったら」いまでも神奈川県だったかもしれない。

とはいえ、横浜市水道の水源地、山梨県道志村議会が全会一致で決議した、横浜市への合併案は、山梨県と神奈川県とがはかってこれを「無視」して、「許可しない」ことを決めたから、地元の民意をなんともしない現代の民主主義もあやしいのである。

そんなわけで、神奈川県と東京(府や市)との確執はいろいろな分野にあった。
昭和30年代から40年代のはじめ頃まで、東京だっていまのような東京ではなかった。

東京が周辺を呑み込んで「首都圏」を形成するにおよんで、様相が変わるのである。
それが、産業構造の変化であって、個人商店とか、地元での仕事がなくなって、遠くまでの「お勤め」が必要になったからである。

日帰りの「出稼ぎ」が日課になったということだ。

東京側は意識しないだろうが、神奈川県側で意識しているのが、「対抗意識」なのである。
ちなみに、神奈川県民は東京以外を意識しない。
千葉県や埼玉県のひとには申し訳ない。

なお、北関東3県が、どういう順で東西に並んでいるかもわからないひとがいるのは、西から東に「群馬」「栃木」「茨城」をいいあてて、ホッとしながら「自慢」するおとながたくさんいるからわかるのである。不思議と東から西にはいわないが。

つまるところ、冒頭のメッセージは、パフォーマンス好きの都知事に、なんとか対抗せねばならない、という意識のあらわれということだけなのである。

知事ができること、を有権者はどこまでしっているのだろうか?
あるいは、知事でもできないことのことをいう。

つまり、わたしたちは、「知事選挙」の有権者ではあるのだが、だれを選ぶか?があまりにも優先してしまって、だれであろうが知事職として「できる範囲」をしらないままで投票している。
それが、無限大の権限をもっていると、県民も知事本人も「錯覚」する原因ではないのか?

中学校でならったはずの「公民」は、おとなになってもならわないと、制度変更のながれについていけない。
有権者が制度をしらない、ということの重大性は、それこそ民主主義をあやうくする原因となる。

「生涯教育」のなかに、「必修」があるとすればこれである。

さてそれで、県知事の職務範囲は、どうなっているのか?を解説する教科書はどこにある?
あたらしい、自由民権運動が必要なのではなかろうか?

やっぱりでてきたマスク・ファッショ

街にでてはいけないというけれど、街にでないと買い物ができない。
布団を干すときに手すりに挟むストッパーが、経年劣化で折れてしまったから、地元にあるホームセンターにでかけてきた。
初夏の好天に、布団を干したくなったからである。

どういうわけか、店内はマスクを着用しているひとたちばかりであふれている。
着用していないひとは圧倒的にすくない。
パッと見たところ5%ぐらいか?

しかし、このホームセンターでも「欠品」しているから、いったいどこで購入しているのだろうか?
わたしは以前から花粉症でもないので、風邪をひいた時用にしかないので、在庫は僅少である。
気がついたら、どこにも売っていない、という状況になっていた。

そんなわけで、まるで他人事とはおもえない「事件」が、29日に報道されておどろいた。
大阪の電子専門学校で、新年度の授業内容を話し合う会議に、マスクを着用していないことを理由に懲戒処分を受けた講師がいて、講師の「どこに行っても買えない」とした弁明を学校から拒否されたという。

まさに、ファッショ(結束主義)、である。

ホリエモンこと堀江貴文氏が指摘しているように、「非科学的」対応の最たるものが「マスク着用」であるから、これを積極的に推進する日本政府に彼が呆れているのもうなずける。

どういうわけか、「アベノマスク」なる用語がうまれて、いつのまにか布製マスクの「効果・効用」の議論から、「予算額」や「発注先企業名」というはなしにすり替わった。

全国に配布されるのが、一家に二枚、という日本の「家族構成」をかんがえるとじつに「意味深」なことも議論されない。
高齢化と少子にくわえて、シングルによる子育てや、シングルのまま生きる、という「価値観」とどう折り合いをつけたのか?

しかも、これ自体、政府の仕事か?

今回の新型コロナウイルス禍で見えてきたものに、専門家への不審、がある。
密室で、だれだかわからない「専門家たち」が、理由がなんだかわからないまま「基準」を変えたり、なにかを決めて、それを命令する。
原発事故以来、このパターンは何度目か?

一貫しているのは、専門家への不審が、「科学への不審」に転化しはじめたことだ。

わが国の国是は、科学技術立国だったはずである。
科学技術あっての輸出こそ、国をあげて稼ぎ出す、ということの源泉だからだ。
それが、根底から揺らいでいる。
学校も長い休みで、ちゃんとした先生からの科学的解説を子どもが聞けないということも、「根底」の一部である。

もちろん、「外貨を得る」ということでいえば、「観光」だって、外国人相手なら「輸出」に相当する。
たとえば、独立前の昭和24年にできた『国際観光ホテル整備法』は、その第一条(目的)に、以下の条文がある。

(目的)
第一条 この法律は、ホテルその他の外客宿泊施設について登録制度を実施するとともに、これらの施設の整備を図り、あわせて外客に対する登録ホテル等に関する情報の提供を促進する等の措置を講ずることにより、外客に対する接遇を充実し、もつて国際観光の振興に寄与することを目的とする。

しかし、わが国は「観光立国」になり得ないし、世界を見渡して「観光立国」を実現している国など、ほとんどない。
なぜなら、「経済規模全体」にくらべて、「観光」の割合が小さすぎるからである。

しかし、幻想をいだくひとたちがたくさんいるから困るのだ。
今回、「知事」クラスで、妙なことを言い出したのは、わかりやすいところだけで、神奈川県、沖縄県、岡山県、それに大阪府などである。

神奈川県は、観光地にある県営駐車場で、他県ナンバーを拒否することにした。
沖縄県は、万人単位の本土等からの予約があることに、キャンセルせよといっている。
岡山県は、高速道路の県内料金所閉鎖を道路会社に要請し、拒否された。

どちらさまも、「観光客を拒否する」という決定をした。
それが、どれほどの効果があったかなかったではなく、責任ある立場のひとが、「決定した」ことが重要なのである。

果たしてその「根拠」はなにか?

これは、花粉症以外で、いまマスクを着用しているひとにも聞きたい。

まさか、コロナウィルスからの感染予防、などという「非科学」をもって「根拠」だと主張されては困るのだ。
科学的根拠が希薄な「モノやコト」に、精神的な同調圧力がくわわって、「みんなでわたればこわくない」をやっているにすぎない。

この同調圧力の正体が、ファシズムである。

そして、日本人特有の「潔癖症」が、さらに圧力を高めるのだ。
この「潔癖症」も、衛生的なことではなく「穢れ」にたいする「不浄」という嫌悪なのだ。
前に「えんがちょで感染予防する」で書いた。

子どものあそびから、社会的な「嫌悪」に発展すると、それが「差別」をつくる。
大阪府は、パチンコだけ「自粛」をすぐさま「強制」にしようとして、これを兵庫県が「実施」した。ここに至って、「自由」ゆえの「自粛」とした憲法の「け」の字もないが、だれもいわない。

わが国の「幼稚さ」では、すまされない「愚」に気づくべきだ。

果たして、科学をおしえる専門学校で起きた差別に、「行き過ぎ」と抗議したのは職員労働組合である。
ぜひ、「科学」を根拠にした抗議を貫いてほしい。

しかし、ご都合主義丸出しで、ふだん「観光立国」をいう知事たちの「幼稚さ」とは、選んだ住民の幼稚さを反映したにすぎない。
それに、緊急事態宣言を「延長」する中央政府だって、ぜんぜん科学的根拠に自信がないから、きっと「ダラダラ」緊急事態をつづけるにちがいない。やめる基準を「事前に決めていない」からだ。

つまり、「自粛」ではなく、スターリンが根拠なく自国民を死においやった「粛正」がはじまったのである。

こちらは、いかがいたしましょうか?

パチンコで感染者はいるのか?

自粛要請をうけて「休業」をする店と、これをしない店とがあるが、なかでも一部の知事は、休業しない店名を公表する、とした。
しかし、この対象が、なぜか「パチンコ」だけ、なのである。
カジノ誘致には、熱心のようだが。

皮肉にも、公表された店には開店前からおおくのひとが行列して待っていた。
このひとたちは「馬」とか「鹿」なのだろうか?
それとも、いいだした知事や、知事を支持するマスコミが「馬」とか「鹿」なのだろうか?

まず、相手がパチンコだということをいったん忘れないといけない。
これは、事前に「フィルター」がかかって、冷静なかんがえにならなくなるからである。

不思議なことに、クラスタ感染していると発表される場所に、パチンコがない。
逆に、衛生管理が徹底している「はず」の、医療機関がおおくのクラスタ感染の発生場所になっている。

これはいったいどうしたことか?

横浜でいまやっているパチンコ屋をのぞいてみると、すでに「禁煙」が実施されていることもあって、なんだかむかしのような「空気の悪さ」がないし、かなり窓を開放しているから、特別な閉鎖空間にいる感じがしない。

店員さんたちは、それぞれ消毒剤スプレーを持っていて、よくみれば手袋もしている。
それで、お客が席を替わると、すぐさまハンドルと周辺を消毒しているのだ。

「接触感染」という医学用語が、日本語的混乱をもたらしたのは、「濃密接触」といういいかたで、ヒトとヒトが近くで会話することと混同してしまったから、転じてありえない「空気感染」までうたがうことになった。

「接触感染」の本意は、「なにかに触ること」の「接触」なのだ。つまり、英語でいえば「on」の状態だ。
「上に」と訳してはいけない。「なにかにくっついている状態」をいう。

だから、専門家がこの用語をつかって一般人に説明するときには、誤解がないように「手で触る」ことを強調しなければいけない。
けれども、専門家同士の会話とおなじ言葉遣いを貫いたのは、「不親切」どころか、「専門」「馬」とか「鹿」というのである。

もちろん、医学用語だから、「接触感染」はまちがった表現ではないが、誤解をまねくおそれがあると気遣うのも専門家の役割なのだ。
マスコミの「聞き手」が、これをわかりやすく解説するということをしないで、おなじ言葉遣いをオーム返しするのは、どういう了見なのか?もあるのは、伝え手としての業務も怠っているからである。

すると、よくわからないのが、専門家集団の「はず」の医療機関で、「接触感染」がどのように扱われているのか?ということだ。
不名誉で有名になった、慶應義塾大学病院での研修医の集団感染だって、「飲み会」が「けしからん」になっているけど、「接触感染」をどのように認識していたのか?の疑問にこたえてはいない。

「研修医」とは、「研修」がついてはいるが、みな「医者」である。
医師免許国家試験にパスしたから、研修を受けていた。
ならば、医師免許国家試験には、「接触感染」の対処方法が「出題されない」から、勉強しなくてよい、ということになっているのだろうか?

病院長が、「(この時期に飲み会なんて)医者としてあるまじき」と弁明したのは、教授職にある病院長も「接触感染」の対処方法をしらないからで、滋賀県の医師たちや、都立であろうがなんであろうが病院内でクラスタ感染する理由に納得できるこたえとなる。

ということは?
「営業自粛」に意味はないし、「三密」はデマである。
店内で、お客や従業員が「触った場所」を、その都度、徹底的に消毒し、手指の消毒も欠かさないようにするだけでよい。

なんだ、それならパチンコ屋さんがもうやっている。
この業界は、貸玉と出玉の状況を、リアルタイムで統計処理して利益計算をしているから、意外なほどに科学的経営をしているのだ。

なるほど、それでパチンコからクラスタ感染者がいないのだ。
だったら、知事職にあるひとは、パチンコ屋を閉店せよというのではなく、パチンコ屋のやり方に学べ、といった方がよほど「生産的」である。

もちろん、パチンコという遊技場をどうかんがえるべきかの議論をしているのではない。

たとえ自覚症状がない感染者が利用客でも、だれかが触った場所を消毒することで、他人に感染させない、ということを地道にやっていること自体は、対策の効果的事例として役に立つといいたいのである。
しかも、「理にかなっている」。

それが、あろうことか難関医学部教授職よりも、はるかに合理的な方法を実践しているという意味でも、「理にかなっている」のだ。

政府は自粛を延長するというが、並行して、パチンコ屋さんの対応を応用する店舗の営業再開を促すような誘導をすべきである。
もちろん、その「自信がない」という店舗は、営業自粛を継続することになるけど、接客業なら利用客に消毒にたいする積極的協力を仰ぐことは、効果を高めるのだから推進すべきである。

でないと、政府が「理にかなっている」ことを潰しながら、責任すらとらないお気軽な存在だと認めることになってしまう。

少なくとも、強権的な知事の猛省をもとめたい。

国産「単6電池」がない闇

「単6電池」とは聞き慣れないかもしれない。
むかしから商店街にある、有名電器メーカーのチェーン店でもある街の電気屋さんのおばさん(もう、お婆さんか?)に聞いても、「そんなもの聞いたことがない」といわれるしろものだ。

パソコンへの入力方法といえば、キーボードとマウスが典型的だが、このところ「ペン入力」というものもでてきている。
「タブレット・コンピュータ」のさきがけになった、iPadの画期とは、「指」で画面に描画できたことと、それが「活字に変換」されたことによる。

安価な「タッチパネル」は、「抵抗膜方式」といわれ、これに圧力をかけると反応するから、100均でも入手可能な「ペン」がある。
しかし、より精密な入力をしようとすると、「静電容量式」のパネルが使われているので、「専用ペン」を用いる必要がある。

この「専用ペン」には、電力がないといけないのは、ペンで描くという人間の行為とは別に、ペンから出力することでパネルに情報を供給していることで「描ける」からである。
従来の、圧力だけが出力だったのとはぜんぜんちがう。

そこで、「専用ペン」を販売したいパソコン・メーカーは、乾電池式と充電式とをつくっている。
最新のiPadでも上位機種だけに対応する、充電式ペンがあって、これは本体上部にペンを内蔵磁石で固定するとそれだけで「充電」される仕組みになっている。

いざ、というときに「電池切れ」というトラブルが起きにくいから、「さすが」の配慮である。
ただし、充電式の弱点は、充電池の「寿命」にあって、だいたい3年がいいところになるから、充電池の交換ができないなら、ペンごと買い換える必要もでてくる。

しかも、このペンは、現在の販売価格が、約15000円もするので、3,4年で高級万年筆を買い換えるようなことになる。
別途契約すれば、約3000円で交換可能だ。しかし、交換のための期間は使えないから、悩みはつきない。

そこで、いつでも「補充在庫」があれば、かんたんに交換できる「乾電池式」の魅力があるのだ。

ところが、むかしからある「ペン型ライト」ではなくて「ペン」そのものだから、手に持ったときに違和感があったら元も子もない。
それで、ペンの経にあった乾電池がないとはなしにならない。
従来の「単4」でも「太い」という問題がある。

アメリカでは、乾電池の大きさをアルファベットでしめす。
単1:D、単2:C、単3:AA、単4:AAA
それで、「AAAA」という「A」が4つの電池もある。

ここで、日本国内には、レアな「単5」という電池があるのをご存じか?
単4より全長が短いが、経が太いのでずんぐりむっくりしていて、アメリカでは「N」と表記される。

では、「AAAA」はどうか?
じつは、日本国内規格に「AAAA」にあたるものが「ない」のだ。
アメリカにあって日本にない。
もちろん、国際規格も「ある」。LR8D425という。

まさかの「ガラパゴス化」ではないのか?
どうやら、メーカーが「需要がない」と見込んでいるらしい。
そんなわけで、国産乾電池の規格に「単6」はないけど、「単5」まであるから、便宜上「単6」といって「AAAA(LR8D425)」のことをさすのだ。

すると、国内規格が「ない」ことから、ふつうに「売っていない」になる。
だから、街の電気屋さんが、「?」になるのは正しいのである。

とはいっても、乾電池式のペンを使いつづけることができない。
新品購入時に付属してきた「一本」しかないからだ。
つまり、「輸入品」を購入するしかない、という選択肢に自動的に追いこまれるのである。

見たことも使った記憶もない、「単5」の「需要」がどうなのかしらないが、需要がないから規格もない、という論理はなんだか「変」なのである。
少なくとも、世界には需要がある。

すると、これは、「世界の工場をやめた」象徴ではないのか?

もちろん、「国産」では利益が出ないなら、それはそれで経営判断するのは企業の自由である。
けれども、「規格がない」から「国内販売していない」、というのは理解できない。

これと真逆の現象が、ガソリンや軽油にみられるのだ。
生活必需品として、この身近な燃料には、厳密な「規格」はあるが、商品毎に「開示」していない。
あるのは、「商品名」による「品質イメージ」だけである。

ガソリンスタンドで、これから給油するガソリンや軽油の「成分表」をみたことがない。
「食品表示」は当たり前なのに。

もちろん、余りだした原油は天然資源だから、くみ出されたときによって成分に変化があるにちがいない。
けれども、それを、精製してつくるのが「ガソリン」であり「軽油」という「商品」なのだ。

国が定めた基準をクリアしたものしか販売させていないから、「安心して」購入せよ。

排気ガスは、エンジン性能も重要だが、燃料性能がよほど関係するだろうに。

消費者優先がどうなっているのか?わからない「闇」がある。

正論の女王の正論

内科医の仲田洋美氏が立ち上がった。
「馬」と「鹿」を連発するから、最初は「毒舌の女王」だったけれど、もはや「正論の女王」といっていい。
彼女をしらない方は、ぜひユーチューブの『女王降臨ひろみちゃんねる』で検索して、初回から視聴してほしい。

新型コロナウイルスの医学的見地からの情報なら、このひとの解説をじっくり観ることが、「常識」なのではあるまいか?
地上波に登場している、「専門家」の主張を、論理的かつ専門的かつわかりやすく「粉砕」しているからである。

これは、「福島」のときの武田邦彦教授とおなじような登場のしかたである。
歴史は繰り返す。
相手が医師であっても容赦ないのは、「私見」ではなくて「事実」からの発言だからである。

ところが、マスコミ報道にでてくる「常連」になった「専門家」への指摘など「まだまだ」なのは、医学界の「闇」にまで深く切り込むからである。

第一に、日本国憲法から論がはじまる。
あるべき医師のすがたを、その第25条にもとめているのだ。条文は以下のとおり。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

これを実現するための一角をなすのが「医師」である。

だから、医師会や医学会は、つねに憲法の精神に立ち戻って、自らの姿勢を正さなければならない、と主張している。

それは、ひろみ先生が医師としてスタートしたばかりのころの、二度までもの苦い経験(不届きな教授の所業を批判して、医局から閉め出されたこと)が、いったん医療の世界から遠ざけられて、法律の世界に身を投じたことが、たいへん影響しているのだともおもう。

そして、法律の世界とは基本、もっぱら起きたことに対する対処であることに気づき、これが「後ろ向き」に感じ、自分には向かないとして、再び医師の世界に戻ったというから、芯がとおっている。

「どうしても商法・会社法が合わなかった」といって、六法のうち五法を勉強したが、司法試験は断念したという。
ちなみに、六法は、憲法・刑法・民法・商法・刑事訴訟法・民事訴訟法のことをさす。

人間という動物は、ストレスの対処のために、「逃げ方」をかんがえて実行し、それで最初のストレスを忘れることをする。
自分を良い方向に向かわせる典型が、猛勉強であったり激しいスポーツ練習だったりする。

社会人だって、職場への不満や怒りが、エネルギーとなって「勉強してやる」と発憤することはある。
後からすると、そんな酷い職場やそんな職場を放置していた上司たちに、ひそかに感謝もするから、人生とはわからない。

「ブラック企業」は、いけないが、これをはね除けるエネルギーが湧いてこないのもいかがなものか?
学校で、ストレスとのつき合い方を教えてくれない。
教師も、それをコントロールする、教育委員会の役人も、きっとストレスがない環境に育っているから、わからないにちがいない。

わが国の教育界も、旅館やホテルなどとおなじで、「心理学」を深く学んでこれを「応用」し、「顧客」である生徒に対処しないのは、「しらない」では済まされない「怠慢」なのである。
この意味でも、教育「行政」という意味不明なものをつかさどる「文部科学省」という役所は、とっくに不要だし邪魔なのだ。

しかし、先生は上述した医局から閉め出されたとき、文科省の担当官が助けてくれて、専門医として復活を遂げたときには、泣いて喜んでくれたというから、あんがい文科省には優しい目をもっている。

さて、先生は、今回のパニックできまった「初診時のオンライン診療解禁」は、厚労省が認める前に、医師会が認めたことを批判している。
なぜなら、どんな病気なのかを診断する「初診」こそが重要で、これが医師の「腕」であるから、オンラインという方法でそれを満足させることができっこないからだとの主張なのだ。

たとえば、聴診器もあててくれなかった、という患者の声にも、先生はひるまない。
症状によっては会話やふつうの呼吸音だけで、聴診器をあてるまでもない「診断」はできるし、できない医者がいたらそれこそ問題だ。

だから、なにがなんでも聴診器をあてないことが問題とはならない。
むしろ、プロとして、「初診」の重要性が主張できない医師会の重鎮たちを批難するのは、かれらは大学教授とか大病院の院長とかという「重い肩書き」があるぶん、実際の診療現場から遠いのだ、と。

まさに、『逆さまのピラミッド』を読むべき上層のひとたちがたくさんいるのだ。
この本がアメリカででたのは80年代の終わりで、わが国では90年に日本語版がでた。

この本によって、アメリカで「サービス革命」が起きたといわれたが、日本では「起きなかった」。
おそらく当事者たちに「読書習慣」がそもそもないからではないかとうたがっている。

いま、ひろみ先生は、医師会に対して、医師がSNSで発信するときは、ホンモノの医師であることを表明する「倫理規定」をつくるように要請する準備をしていると明言している。
たいがいの組織は、自ら定めた「倫理規定」に反すると、「懲罰」という段階も用意されているから、なかなか「強力」な要請なのである。

混乱しているがゆえに、これまで以上に「倫理」が必要な社会になっている。

都市のバスは一律料金なのに

どういう加減かしらないが、距離だけで決まっている感じがしないのは、ちょっと郊外にいくと「あたる」ことがある、変動料金制のバスである。
なんだか乗った感じがしない距離なのに、割高感があるときがある。

わたしの住む横浜市には、まだ「市交通局」があって、市営バスと市営地下鉄が走っている。

路線バスで県下最長の走行距離をほこる、神奈川中央交通は、県ごとに認可が下りる『1940年体制』のまま80年も経過した「規制」のなかで奮闘している。

これは、各県に行けばかならずあるバス会社とおなじ構図で、地方銀行業界だってこれにならっている。
けれども、各県の行政にまかせるのではなく、国の出先が管轄するから、県庁よりも国の「合同庁舎」がにらみをきかせているのだ。

そんなわけで、横浜市の路線バスは、私鉄系と市営があって、バス運転手さんの給与にまつわる「ヒエラルキー」が、ピラミッド型に形成されているという。

バス事業単体ではどうにもこうにもいかなくて、とうとう小田急傘下になって、さらに子会社に分社化しているのが神奈川中央交通さんだ。
どうやら、バス運転手さんの給与水準がいちばん低いのではないか?といううわさがたえない。

それで、運転手さんたちの転職によるキャリアアップは、何回かの転職をつうじて、横浜市交通局の運転手さんになることだという。
はたして、横浜市議会議員でこれを議論するひともなく、「同一労働同一賃金」だけがむなしくひびく。

それよりも、どうして、横浜市営バスの路線が、路線ごとにでもオークションにかけられないのだろう?
戦後、庶民の公共交通を支えてきた「功績」は認めつつ、いつまでも「市営」である必要がどこまであるのか?

いまさらだが、さっさと民営化すべきである。

しかし、いまさら、なのは、ただ民営化すればよい、というかつての粗っぽい議論をしたいのではない。
どうして、かつての「民営化」が「粗っぽい」のか?といえば、「思想が薄っぺら」だったからである。

この「薄っぺら」さは、民営化すれば利用客が喜ぶことしかしない、ではなくて、「赤字が減る」だったのだ。
偉くても、企業経営をしらないひとたちが議論したのである。
ただし、旧制度からの脱却「だけ」でも大変だったのは、理解するけど。

わかりやすいのが「JR東」である。
この会社は、黒字である。
だが、鉄道会社として黒字になった、とかんがえてはいけないし、もちろん「民営化したから」黒字になったのでもない。

「鉄道法」の呪縛から解放されたから、黒字になったのだ。

鉄道法は、鉄道事業以外を認めなかった。
民間の鉄道会社は、鉄道事業以外の事業を別会社でやった。
この成功例が、関東では「東急」、関西では「阪急」である。
簡単にいえば、「国鉄」に東急や阪急のまねができなかったのである。

それが「JR」になってできたのは、「心機一転」したからである。

つまり、「気」の持ちようなのだ。
「バカな」というひとは、人間をしらない。
「人間は考える葦である。」という名言の名言たる理由を述べよ、といわれてなんとこたえるか?

キーワードは「考える」だ。
つまり、人間とは、考えたこと「しかしない」動物なのだ。
逆に、考えていないことは、やらないし、できないのである。

動物の場合、はたしてどこまで「考えた」結果の行動なのか?
むしろ「反応=本能ともいう」による「行動」と、「思考」による行動の区別がつかない。
だから、愛するわが家のペットの行動すら、よくわからないのである。

それで、ペットの心理をつかむプロがいて、うそみたいに問題行動を原因から解消してくれる。
ただし、飼い主がこれを理解しないままなら、元の木阿弥なのである。なぜか?問題行動の原因が飼い主の接し方がまずいからである。

しかし、「人間」はちがう。
かならず、思いついたり考えてみた結果でないと、そもそも「筋肉すら」動かないから行動にならない。

そんな人間が集まっているのが、なんであれ「組織」を形成するので、そこにいる人間の「気が変わる」と、とんでもない変化をすることができるのである。

運輸局の「気」が変わることを望んでも仕方がない。
かれらにとっては、「法」が変わらないとなにもできない。
しかし、「法」をかれらの都合とはちがう方向に変えられると困るので、なるべくそうならないように議員を養育するのである。

ずっと前、日本が貧しかったころ、市内のバスはとっても便利だった。
しかも、最大の路線距離があった市営バスでも、車掌さんにいえば車内で「乗り換え券」を発行してくれた。
これをもっていれば、市バス路線内なら乗り換え「自由」で、余計な料金はかからなかった。

車掌さんがいなくなっても、電子的な手法でバスに乗れるのに、乗り換えもできないで何度でも「初乗り一律運賃をとる」のは、「市内一律運賃」の看板とちがう。
豊かになったら、良心が抜けたのはどういうことか?

世の中を便利にする政治をやめて、不便になることしかしない。
「進歩」とは「不便」である。
これは、全体主義特有の「ダブルスピーク(二重語法)」のことだ。

民主主義をいいながら、ぜんぜん「民主」になっていないのは、「看板に偽りあり」の典型である。

こんなことを、バスに乗るたびにおもう。
「老人パス」だけが、「一律運賃」の最後の砦になっている。

去年のGWの話題を振り返った

歴史の「変わり目」にあたって、ひとはそれに「なかなか気づかない」といわれてきた。

「大災害」があればわかりやすいけれど、それは、「被災者」に限定されてしまう傾向がある。
「当事者」でないと「なかなか気づかない」ものなのだ。

今回の「新型コロナウイルス禍」は、おそらく「感染症」としては、小規模な被害でおわる可能性が高い。
なにしろ、毎年のインフルエンザに比較すれば、罹患者数も死亡者数も10000分の1程度であるからだ。

すると、明らかに「人為による被害」の方が、よほど深刻な悪影響を作りだしているということだ。
しかも、自然災害よりひどい「全国一律」だから、全国民が「被災者」になってしまった。

過去の歴史で、「人為による被害」として、悪影響の最たるものが「戦争」だった。
その理由はなんであれ、人間の「欲望」によっていた。
支配欲や征服欲、そこから派生する掠奪の「うまみ」もあったろう。

今回の「人為による被害」の発端はなんだろうか?
経済政策のちょんぼ(たとえば昨秋の消費増税)を誤魔化すため。
あるいは、自己顕示欲からの「指示出し」。
しかし、一般人には「生存欲」がもっとも強かった。

とにかく死にたくない長生きしたい。
たいした流行ではなくても、「治療法がない」ことが大問題なのだ。
この「生存欲」が、政府や為政者たちの「欲をあおって」、ますますこれをマスコミが利用した。

さまざまな「欲」のぶつかり合い、これこそが本質である。
ウィルスは、そのトリガーを引いたにすぎない。

かくも「生存欲」が優先する時代は、かつてあっただろうか?

われわれは、もう一度しっかり「歴史」を学ばないといけない。
そこに、生存欲よりも重要などんな「価値」があったのか?の確認である。
つまり、生きる意味であって、ひいては人生の意味である。

このまま、「ただ生きている」ことに価値があるとして、たとえ個人が突きつめなくても、そのベクトルに多数のエネルギーがくわわると、「一点追求」という方向と力がうまれる。

すると、映画『マトリックス』のリアル社会における人間たちが、ただカプセルに横たわって、このまま一生を終わるということが、むしろ「望ましいこと」になってしまうのだ。
それが、生体エネルギーを取りだす、「発電所」だったとしてもだ。

すなわち、「飼い殺しでもいい」、という価値観が、生存欲が最高の価値だとする発想と直結する。
「脳をだますプログラムでしかない」としっていても、「快楽」をもとめて仲間を裏切るシーンが用意されている周到さにも、ただ納得するのである。

はたして『マトリックス』はもはや「古い映画」になってしまったが、ここで紹介された「未来」とは、じつは「現在」のことではないのか?

ならばと、昨年のゴールデンウィークを取材した数々の映像を、たった1年後のいま、振り返ってながめれば、おそろしく「古い」と感じてしまう。
いつものGW同様に、だれもが連休をなんの不安もなしにたのしんでいる光景を、いま、どう評価できるのか?

鎌倉の海岸に、他県ナンバーの車がきても県営の駐車場を利用できないようにすると「決めた」県知事を止められない県議会。
これから派生して、「正義」の逆転がはじまったから、他県ナンバーの自動車を「あおる」地元民の運転手がでてくる。

いまどき、なんで他県からくるんだよ。けしからん。

ウィルスがどうやってひとに感染するのか?を「正しく」いわずに、それが、あたかも「空気感染」にまで拡大解釈されて、近くにいる他人を疑うように仕向けることが「正義」になったのである。

これぞ「アトム化」だ。
アトムとは、古代ギリシャの哲学者デモクリトスなどが提唱した「原子」のことで、これを後世の、ジャン・ジャック・ルソーが、「社会」に応用して、人びとがバラバラになって、物質的な「個」になることをいう。

彼は、地縁も血縁もなくなって、共同体もない社会を理想化したのだ。
「個」だけの人間で構成される社会である。
すると、そこに、あたらしい支配のための価値社会が誕生する。
それが、「唯物論」を基礎におく「共産主義社会」なのである。

わが国は、とっくに地縁も血縁も薄くなった。
江戸時代の各藩とて、幕府によって「国替え」がさかんにおこなわれ、大名の地縁を断つことに専念したのは、支配者層と被支配者の分断が、幕府に都合がよかったからである。

これに、「養子縁組」という方法で、「血縁」も重要視されないようにした。
紙に書いて、役所に届け出ることで、赤の他人が家族になれる。
血縁をつなぐ「結婚」と「養子」とは、決定的にことなるのだ。

そんなわけで、「共同体」としての「会社」が唯一のこった。
会社に愛着ができるのは、家庭の血縁が壊れたからである。
その家庭がある、地元共同体(町内会や自治会)活動に興味もないのは、とっくに地縁がないからだ。

「会社に行くな」というのは、ウィルス感染の「おそれ」に名を借りた「共同体破壊」の「人為」である。
これは、「リスク管理」ではなく、「アトム化」の推進なのである。

もう二度と、昨年までのゴールデンウィークのような光景がみられなくなる。

つぎに来るのは、誰かにいわれて、「行楽に行きましょう」という号令に従う「ひとの群れ」に変容するからなのである。

旅館業法を無視する主務官庁

宿泊事業者には、「事業免許」がひつようで、わが国にはその根拠法がふたつある。
圧倒的多数で、事実上これしかない状態になっているのは、旅館業法による許可である。申請窓口は、地元保健所。

圧倒的小数で、事実上もはや新規許可がおりないのは、風営法による許可である。窓口は、地元警察署。
風営法による許可を得ていたのは、むかしの「連れ込み旅館」であった。

老朽化による建て替えをすれば、旅館業法での許可申請しかできなくなっているので、「連れ込み旅館」のようであっても、法的にそうでない施設がふえていて、全部が旅館業法によるようになるのは「時間の問題」になっている。ようは、寄せられている。

むかし、教職員組合の全国研修会予約を受け付けた大手ホテルが、政治団体からの街宣車などがやってくることを理由に、一方的に予約契約を破棄して、事実上研修会の開催ができなかったことがある。
これが裁判になって、ホテルが負けた。

研修会場となる宴会場の予約契約解除よりも、参加者の宿泊予約が、ホテル側の一方的都合で破棄されたことが問題になったのである。
なぜなら、ホテル側が一方的都合で予約を「拒否」できる理由が、旅館業法に定められていて、これに「該当しなかった」からである。

第五条 営業者は、左の各号の一に該当する場合を除いては、宿泊を拒んではならない。
 一 宿泊しようとする者が伝染性の疾病にかかつていると明らかに認められるとき。
 二 宿泊しようとする者が賭博、その他の違法行為又は風紀を乱す行為をするおそれがあると認められるとき。
 三 宿泊施設に余裕がないときその他都道府県が条例で定める事由があるとき。

ということで、昨今の新型コロナウイルスに関して、「感染者」を旅館業法のうえで営業しているホテルなどに収容しようとして、国家行政サイドが、「客室の確保」をしているのは、どうかんがえればよいのか?

第六条 営業者は、宿泊者名簿を備え、これに宿泊者の氏名、住所、職業その他の事項を記載し、当該職員の要求があつたときは、これを提出しなければならない。
2 宿泊者は、営業者から請求があつたときは、前項に規定する事項を告げなければならない。

第十一条 左の各号の一に該当する者は、これを五千円以下の罰金に処する。
一 第五条又は第六条第一項の規定に違反した者

なお、命和元年6月15日より施行の改正によって、罰金の上限は「50万円」に引き上げられている。
ついでにいうと、政府の「e-Gov」によると、「最新」に更新されていない。

そんなわけで、罰則が強化されているものの、「軽症者」を「受け入れろ」というのは、自己矛盾もはなはだしい。
また、「宿泊者名簿」の義務とは、チェックイン時に本人に記入をさせる「レジストレーション・カード」のことで、もともとが「感染源」を探るためのものである。

つまり、どうして旅館業法の所管が「保健所」なのか?という理由が、まさに「伝染病」をおそれたからである。

たしかに、医療機関をパンクさせてはならないという社会の要請を無視するわけにはいかない。
けれども、宿泊施設は、そもそも「病院ではない」から、問題は従業員への二次感染を防止するための手段がなくてはいけないし、大型クルーズ船であったように、宿泊者どうしだって安全性を確保しなければならない。

これをさせずに、ただ「受け入れろ」というのは、宿泊業にかかわるひとたちに対する「差別」にならないか?

今回の「パンデミック」でわかったことは、政府や地方自治体が、そろって感染症対策についての事前マニュアルがなかったことを示したことである。

つまり、厚生労働省の旧厚生省が、なにもしていなかったから、中央集権体制のわが国では、地方自治体もなにもしない、ということになっている。

江戸時代の幕藩体制に劣るのだ。

もっとも多数の「感染者」(ほんとうは「患者数」が重要なのだが)がでている東京都をかんがえると、江戸時代なら北と南の両町奉行は切腹ものだし、藩にあっては、「不届き」としてお取り潰しの憂き目にあうだろう。

都知事や各自治体の責任者は、その責任の「軽さ」に感謝すべきである。

しかし、宿泊施設従業員への配慮のなさは、まったく別で、おそらく配慮しなかったのではなくて、「意識もしなかった」のだとおもわれる。

法律を主管する、主務官庁として、まったくなっちゃないどころではない。
すなわち、「誰のため」「何のため」ということすらなく、「場あたり」の「対処」しかないことを示したのだ。

わが国のトップ学歴の「官僚は優秀である」ということと、「法治国家」ということも、じつは「イリュージョン」だったとなれば、まさに、「このあと」をかんがえると、「なんらかの変革」の時期がやってくるのはまちがいない。

それが、いっとき、われわれの暮らしやすさがうしなわれようともだ。

生きていくのに「覚悟」がいることになった。

「えんがちょ」で感染予防する

「安全と安心」について前に書いた。
「安全」には、科学の知識が「必須」だが、「安心」には、科学は「無用」である。

今回の新型コロナウイルスも、基本的には「空気感染しない」のだが、ほとんど「えんがちょ」状態になっている。
それが、「他人との接触を8割減らすべき」という不可思議な表現から「自宅待機要請」になって、ひろく世間に誘発されている。

突然でてきた「諮問委員会」というのも、緊急事態宣言を出すか出さないかを事実上決めるひとたちなのだが、どういうふうに委員に就任したのか?とか、どうやって選んだのか?ということも、それから、どんなひとたちなのか?ということもよくわからない。

なので、きっと「えらいひとたち」にちがいない、という「安心」でしか、このひとたちが決めることに根拠はない。
それで、上述の「8割削減」ということも、突然でてきたが、「どうやって?」がアナウンスされないから、バカで正直な与党の幹事長が「できっこない」といってしまった。

きっとこれは、言い間違いで、「俺は聞いていないからわからない」といいたかったのだろうが、ふつうのひとより見栄っぱりなので、「わからない」がいえなくて「できっこない」になったのだろう。

つまり、「官邸」のほうが「党」よりも「優先順位」が高いことを示す、組織用語としての「聞いていない」がポロリとでたのだと解釈すれば、わかりやすい。
自民党は、「党」として、なにもしていないことが、これでよくわかるのだ。

一定の思想をもったひとたちが、発生源の国の「党」が絶対であることに憧れるのは、ある意味ただしい。

このことは、自民党という政党が、所属議員たちの集合体でしかなく、ふだんその議員たちは個別に活動しているけれど、なにかのおりに「党議拘束」という「強制力」で、孫悟空の頭の輪っかのごとく締め上げることをしているだけなのだ。

すると、世間で生活している「党員」の存在は、あってなきがごとくとなる。なるほど、個人の議員が議員個人の事務所で「党費」を負担するから、名前を書けば党員になれてしまうので、金銭的負担は必要ない。

だから、自民党員のおおくが、自分が党員登録されていることも気がつかないでいるかもしれないし、いつ「離党」したかもしらない。
それでいて、党員獲得ランキングのベスト10とワースト10を発表するというのは、目的合理的に合致しないが、おカネをつかったことだけはわかるから、なんだか江戸幕府の「小普請組」みたいなのだ。

これは、「えんがちょ」以下の意識下、つまり党員が無意識におかれていることになる。
でも、ぜんぜん問題にならないのは、行政官僚が「政策」を仕切っているからだ。

民主党政権が失敗の憂き目をみたのは、「政策立案」のための自前のシンクタンクをもたずに、自民党とおなじくこれを官僚にやらせたから、政治家がいっていることと政策が「分裂」して、なにがなんだかわからなくなったことが原因だろう。

つまり、政治家が世界標準の政治家らしく振る舞おうとしたが、まったく行政官僚に指導的立場をとることができなかった。
けれども、構造的にみれば、これは当たり前だ。
その当たり前の前提になる、シンクタンクを自前に持つ政党が相変わらず皆無だから、へんなことばかりが起きるのである。

「えんがちょ」がいつできたのか?は詳しくわかっていないが、かなり「古い」ことは確かだ。
あの独特の人差し指に中指をからませるのは、「印(いん)を結ぶ」意味があって、平治物語絵巻にひとびとが生首をみてこれをしている図がのこっている。

「不浄」つまり、「穢れ(けがれ)」を防禦するための「印」であって、高度成長期の子どもには、「バリアー!」と叫ぶあたらしい「えんがちょ」もあった。ただしこれは、「防禦」だけで、他人にえんがちょをうつす効果はない。

わが国の古代からの信仰の三大要素、「穢れ=禊ぎ(みそぎ)」、「言霊」、「怨霊」のなかの基本をなすのが「穢れ」である。とにかく「禊ぎ」をもって穢れを払わないと落ち着かない。
現代的な「清潔感」や「衛生」とはぜんぜんちがう、「安心」をもとめるのである。

それが、マスク着用の「義務化」になってでてきている。
一般に販売されている、医療用ではないマスクには、咳やクシャミの症状があるひとが、他人へ飛沫を飛ばさないための「配慮(エチケット)」としての価値と、花粉を防ぐという機能とがあるだけだ。
あえていえば、なにも症状がないひとが着用する効果として、じぶんの口を、汚染されたじぶんの手で触らない、というぐらいしかない。

飲食のときには、外さざるを得ないけど、もはや入手困難の貴重品になっているから、飲食後はふたたび着用するし、猛者はアゴにマスクを移動させて、そのまま食べていたりする。

これらは、まったく危険だが、だれも気にしないのは、「効果」に期待しているのではなくて、「バリアー!」とか「えんがちょ」になったからである。

マスク着用をしていないと、入店させないということは、じっさいにはとんでもない無謀なことだといえるが、「えんがちょ」なのであるから、もはや科学や理屈など通用しない。

つまり、21世紀にあっても、日本人は日本人であるということをあらためて確認できた。
世界に冠たる「宗教国家」なのである。

まさかの原油マイナス$40

なるほどね。

史上初のマイナス価格がついたのは、4月先物で、決済日は21日である。
商品先物には、株とちがって「決済日」がある。
そして、この日に、「現物」がやってくる。

通常なら、どこかのタンクに入れてもらって、これを「現物」で売ることになるのだが、自粛の影響で工場がとまったから、貯蔵タンクが一杯になってしまった。
それで、おカネを払って引き取ってもらうことになって、原油が「産廃」のような事態になった。

ついた値段がマイナス40ドルという、「前代未聞」である。
だれが引き取って、どうしているのか?の報道はない、けど。

来月5月の先物は、一応20ドルの値がついているけど、どうなるかはわからない。
ただし、現物のスポット取引もあるし、石油市場は世界中にあるので、われわれのガソリン代や電気代がすぐさま安くなるということにはなりそうもない。

マイナスをつけているのは、アメリカの「市場」ばかりである。

石油価格がおかしくなってきたのは、サウジアラビアとロシア、それに石油純輸出国になったアメリカの三つ巴が発端である。
アメリカが、石油純輸出国になったのは、シェール・オイルのおかげであるが、こちらは採掘にコストがかかる。
しかし、石油価格が60ドルをうわまっていれば、採算がとれるというから、「高価格」というトレンドで成り立つという弱点がある。

一方、ロシアは、石油と天然ガス「しか」これといった外貨獲得手段がなくなった。あとは、武器だ。
資本主義になれなかったツケである。
なので、ロシアの意図は、EUへのエネルギー支配という「切り札」を持ち続けることだが、それには適度な「高価格」が望ましい。

サウジアラビアの思惑は、石油王としての地位の維持と、それにともなう中東・アラブ圏の盟主の地位の安定化にほかならない。
宿敵、イスラエルとイランをにらんでいるものの、頼りはアメリカしかない。

しかし、これが揺らいだのは、アメリカが中東の石油を必要としなくなってしまったからだ。
そんなわけで、アメリカ軍まで引き上げるモードになって、とうとうアフガニスタンと和平を結ぶところまできた。

そうはさせじと、サウジが反対するロシアを振り払って、一国で「増産」したのは、石油価格を低下させて、アメリカのシェール・オイル事業を潰そうとしたのである。
けれども、あんまりの「損」がかさんで、やっぱりロシアと協議して「減産」をはじめた矢先だった。

世界ではやりだした病気のせいで、肝心の「需要」が激減してしまったのだ。
この減り方が、とんでもないレベルなのだ。

三者三様、どちらさまも、相手は「地下に眠る天然資源」である。
「減産」とか「増産」とかいって、コントロールしてきてはいるが、「停止」はない。
むしろ、地下から出てくる状態を「止める」ことができないのは、井戸のパイプが圧力にもたないからである。

すると、今度は、石油会社の体力勝負になることまちがいない。
経済でいう「体力」とは、そのまま「資本力」のことである。
資本力とは、「資金調達力」でもあるし、「信用力」のこという。

自己資本が足りなくなれば、株式を発行するか、他人から借りるしかない。
アメリカのシェール・オイル会社は、サウジが「増産」したときに、一社が破たんしている。

かれらのおもな資金調達方法は、高金利の社債である。
シェール・オイル事業は、市場価格が高値安定で成り立つという「リスク」が、債券価値を低下させるからだ。
あんまりの「高金利」だから、一般に「ジャンク債」ともいわれる。
したがって、すでに興亡の戦場は、石油市場から債券市場という「場」に移っている。

アメリカのFRBが、債券を直接購入する方法で、「金融緩和」したというニュースは、このことをいう。
しかし、世界の債券市場そのものが「巨大バブル」になっている。
その金額は、「リーマンショック」の比ではない。

石油という、「現物商品」が、金融商品になったのが「先物」である。
それが引き金になって、津波のように世界経済を襲うことになりかねない、重大な局面にあるといって過言ではない事態になった。

この「津波」のエネルギーは、世界で起きた「需要減」なのだ。

まさに、「本物」がやってくる直前に、海岸の水が、はるか沖まで引いていくようなことがはじまったのである。

「結果としての利益・利潤」をもとめずに、「目的としての利益・利潤」を追求する典型が、「先物」を含めた「デリバティブ」といわれる「金融関連商品」である。
もちろん、「株式」だって、デイトレーダーという「目的としての利益・利潤」を追いかけるひとたちもいる。

かつて、土光敏夫が倒産しかかった東芝の社長になったとき、彼は、自社株で報酬を受け取っていた。現金の支出をすこしでも減らし、自分の仕事の成果の責任をまっとうしようとしたからである。
引退したとき、大量の東芝株の価値は、とんでもない金額になっていた。

おなじ「株式を購入する」という「行為」なのに、「結果としての利益・利潤」を求めるのと、「目的としての利益・利潤」を求めるのとでは意味がちがうのである。

この、土光敏夫のようなひとを「キャピタリスト(本物の資本主義者)」というのである。

ここに、これからの「あたらしいかんがえ方」のヒントがある。