「正常性バイアス」の恐怖

「思い込み」の一種である。
もっといえば、じぶんに都合の悪いことは無視するか、「なかったこと」にして、かんがえないことをいう。
いわゆる、「思考停止」なのだけど、大企業経営者に比較的よくみられる状態だ。

これを、「ゆでがえる状態」ということもある。

どうして「大企業」なのか?といえば、かんたんに「沈没しない」と、ここでも根拠なく「思い込んでいる」し、自分の治政下で「潰れる」とか、「潰した」なんてことは、「あり得ない」し、「かんがえたくない」とかんがえる傾向が強いからだ。

あの東芝が、歴代社長のもとで大赤字を計上し、事実上「解体」されて、また再び「身売り」の対象になったのは、このバイアスによって根本的対策がとれず、「先送り」の「経営努力」をした結果であったと世間が知るにいたった。

だから、中小企業にだってあり得るのはおなじだし、大企業と違って「ゆっくり」は沈まない。

したがって、「正常性バイアス」に陥っていないか?を常に自己チェックすることが重要なのだ。
しかし、これには、「恐怖」がともなう。
経営者に「勇気がいる」というのは、まずこのことをさす。

げに恐ろしきは、「正常性バイアス」によって受ける、ほんとうの「被害」なのである。

では、このバイアスを防ぐ手段はなにか?
まず、「発想法」の基本に、「科学的アプローチ」をおくことである。
しかも、発想法の基本だから、身についていないといけない。
すると、じつは、若い頃からの「強制」をともなう「訓練」がないといけない。

経営者になってから、では、完全に遅い。
大企業なら、「取締役」に昇格してから、の意味である。
だからこれを、「職場環境」とする努力がある。
新入社員がこの環境にはいれば、いやおうなしに馴染むしかない、とするのである。

トップから管理職、一般職まで、いわゆる、「全社」の「環境」にする。
「なる」ではなくて、「する」のである。
させるのはトップだ。
それで完遂できるものだ。

これには、時間がかかる。
トップ一代では完結しないかもしれないのは、歴史ある大企業ほど「意志」がいるからで、この意志の継続が、企業の継続「ゴーイング・コンサーン」を成立させる。

付け焼き刃ではなく、さいしょから鍛える、という発想の愚鈍なる繰り返しである。

それでも、トップが自身の誘惑によって、バイアスがかかってしまうこともあるだろう。
しかし、社風としての環境があれば、だれかが諫言できる。
この「諫言」ができる組織かそうでないかが、運命をきめるのだ。

それがふつう、「風通し」というのである。
人間は、信頼できる関係があれば「諫言」できる。
しかし、うわべだけの信頼関係では、「諫言」が「嫌み」になって、不信となる。

よって、科学的アプローチを基礎にしながらも、同僚や先輩・上司、後輩・部下との人間関係の構築こそが、組織運営の「肝」なのだと、科学的アプローチによって決定するのである。

べつのいい方をすれば、科学的アプローチは「表向き」であっても「裏向き」であっても、「なんにでも」通用し、人間関係の構築は、これの支柱となるから、よくいわれる「人」の字に似ている。

すると、個人の育ちにおける「教育」に、このことをあてはめないと「とんちんかん」を育成してしまうことになる。
現代は、学校が主たる教育の場になってしまったので、科目における「成績」は、テストという科学的アプローチを用いる。

しかし、これが、「過剰」になっていることは周知の通りである。
一方で、「人間関係の構築」は、生身の人間が精神的な接触をしないとできないものだ。
「コロナ禍」の学校における、リモート授業とは、人間観の構築について決定的な打撃をあたえる。

誤解をおそれずにいえば、人間関係の構築とは、仲のよい友だちが自然とできる、というレベルのことではない。
どうやったら、うまい人間関係が構築できるのか?という一種の「テクニック」もふくむのである。

そして、そこに、「伝統的価値観」というベースを求めれば、日本人としての「矜持」を持つにいたる。
これこそが、「国際」の最初の一歩である。

世界が一つの価値観で統一される「べき」、という発想は、人間の機能面だけをとらえたものにすぎない。
つまり、そこには、伝統も哲学もない。
じつは、人間を物質と同然とする「唯物論」そのものなのだ。

むしろ、それぞれの出自が尊重されて、個々がそれを誇りにし、相手との違いを理解できてこそ、国際的な人間関係の構築が可能となるのだ。
たんに、多言語を習得しただけでは国際人とは認められない理由がこれだ。

すると、学生時代はおろか、社会に出ても、「科学的アプローチ」と「人間関係の構築」は、学びつづける「べき」テーマにかわりがないのである。

こうした努力が、「正常性バイアス」の恐怖から逃れるための、唯一の方法なのである。

すると、「正常性バイアス」がかかっている、様々な組織(国家もふくむ)の昨今の世界的混乱の意味もしれてくる。

ちいさな話題だけれど、福岡市が公立の教職員の採用にあたって実施してきた、「ペーパー・テスト」と「面接試験」を廃止して、「教育実習の成果」と「大学の推薦」によると決めたことが、興味深い。

授業の目的にそった構成ができていて、生徒との人間関係が構築できないと、「授業」として成立しない。
また、これを学ぶ大学における「態度」と「成績」の合致なくして、「推薦」がえられない、としたら、なかなかに注目に値する。

ネックは二点。
教育実習の成果を評価する、学校現場の先輩教師たちに見ぬく力が養成されているのか?と、大学での推薦にいかなる評価のシステムがあるのか?だ。

評価する側の「おとなの実力」が試されることになったのだけど、「落とすため」の評価にしないことが、わたしの「注目点」なのである。
それと、採用後のいい意味での、教える技術の「標準化」をどうするのか?あるいは、本人任せで「しない」のか?

「しない」なら、生徒による教師の指名制度もあっていい。

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