ニュースがない日のニュース

メディアと呼ばれているものの特徴に,「枠」がある.
放送時間「枠」に記事の「枠」.
テレビであろうがラジオであろうが,新聞であろうが,かならず「枠」がある.
それで,この「枠」をどう埋めて売るのか?が,各社の競争になる.

ニュースらしいニュースがあれば,しかもたくさんあれば,「選択」が重要になって,なにを報じてなにを削るかが「判断」のしどころである.
ところが,億人単位のひとが暮らしていても,たまには平穏な日もある.
すると,たちどころにニュースがない,という事態になる.

そこで登場するのが,溜めてあった記事である.
「今日はロクなニュースがないな」
という日は,このような記事のことを「ロク」という.
じつは,「ロク」には本格的という意味がある.つまり,受け手の期待値がこれでわかるというものだ.

ついつい大きなニュース,つまりは自分が関わらない「大事件」を読者は要求している.
それで,「事件記者」は飛び回って取材する.
一般に,これらのことを「フロー」という.
浮き沈みのあるものだからだ.

たとえ連日連夜でも,フローな記事ばかりを読んだり聴かされたりしていると,「だからなんだったのか?」と,ふとわからなくなることがある.
これを,「本質を見失う」という.
「表層の事象」が「フロー」でもあるから,そればかりの報道だけに接していると,わからなくなるのは当然である.

「売上」も「利益」も「フロー」である.
一般に,「売上」-「経費」=「利益」だから,「売上」と「利益」が「フロー」なら,「経費」はなんだっけ?とかんがえると,「フロー」でも「フローでなくても」,こたえの「利益」は「フロー」になる.

実務では,ほとんど役に立たない「損益分岐点」を算出するには,「経費」=「費用」を,売上に連動する「変動費」と,売上とは連動しない「固定費」に分解すること,と教科書にはかいてある.
つまり,「変動費」が「フロー」で,「固定費」は「フローではない」.

このかんがえ方が,ナンセンスなのは,「材料費」を「フロー」だといっていることにある.
ある商品がどのくらい売れるか?がわからないから「売上」は「フロー」なのだ.
それで,その商品をつくるときに必要な「材料費」は,売上に連動するから「フロー」の「変動費」であるという.

ところが,商品ぜんぶを予約注文で販売していて,注文が入ってから材料を発注してつくるならいいが,さいしょに商品を製造してから店頭で展示して売るならどうか?
そもそも,その商品が今日,何個売れるかわからないのである.
だから,一見もっともらしいが,後出しじゃんけんでしかない.

ニュースとおなじように,「フロー」ばかりを観ていると,本質がわからなくなるということになっている.
もうお気づきだろう.
重要なのは,溜めこんだ「ストック」のほうである.

企業の「決算書」のさいしょに「貸借対照表」がある理由である.
しかし,ほんとうに必要な情報は,ここにもない.
あるのは,従業員の頭と体のなかである.
それをどうやって「見える化」するのか?
これが,経営である.

鎌倉時代の暇人,兼好法師が書いた「徒然草」には,ニュースなんてものはないということがある.
人間がやってきたことは,いつでも似たようなもので,大事件にみえるようなことでも,たいがい過去にしでかしている.
だから,ニュースなんてない,という.

なるほど,ニュースを1,000年分ほどストックすると,おおかたの事件も初めてではないだろう.
ニュースがない日のニュースほど,新聞社のふだんのストックがわかるというものだが,「ロクなニュース」がない,のが現状だ.
すると,1,000年分ほどのニュースを電子ストックして,AIが適確な解説を今日のニュースに与えてくれるかもしれない.

社内行政マンの出世

昨日は,本当の行政と政治の関係をかいたから,その延長にある民間の社内について書いておこうとおもう.これは,以前このブログで書いた,ガルブレイスの話の別角度からの解説にもなろう.

明治維新の不思議に,明治政府の編成がある.
江戸幕府をたおした,薩長政権であった明治新政府が,すばやくその組織体制を整えることができたのはなぜなのだろう?
「欧米への視察」ということだけの経験で,はたして政府組織を構築できるものか.
もちろん,外国人顧問団の存在もあっただろうが,「政府機構全体」のことである.

政府もさることながら,民間も,どうやって「会社組織」を構築したのか?
しかも,おおいに資本主義を基礎にした,「会社」のことである.
これは,政府に依存しながら,民間が真似た,といっていいのではないか.
初期の産業振興とは,政府主導の典型的開発独裁体制であった.

これに,「学制」がペアになって支えたとおもう.
政府だけに人材をおくるのではなく,民間にも人材が必要である.
それで,帝大と私学という棲み分けになったのだろう.
どちらも,当時の学校制度からすれば,「エリート」の育成機関にほかならない.

これらは,江戸時代からある身分制度とも連携したとかんがえるのがふつうだ.
「工商」の身分なら,そのまま家業を継ぐ.
「士農」もおなじだが,豪農なら子息を大学に進学させることができたろう.
それが後に,軍のエリートにもなって,歴史をうごかすことになる.

だから,当時の「サラリーマン」はエリート層だっただろう.
工員や職人は,転職があたりまえだった.
当時から,腕のある職人を御すのはたいへんだったというはなしはおおくある.

今では,大学卒業者のことを「大卒」というが,むかしの「学制」だと「学士」である.
いまだって「学士」なのだが,恥ずかしくて自ら名乗れなくなった.大学をでると,学位をえるという感覚はほとんどないだろう.
むかしの「学士」には,やっぱり「学」があったから,いまとはちがう「エリート」である.
つまり,民間でも高級事務職には,「学士」がなった.

これは,いまでいう「MBA」に匹敵しただろう.
だから,若くして相当の権限をもって経営に参画していたはずである.
軍でいえば,「主計将校」か「作戦参謀」ということになるだろう.

尋常小学校卒業者,中学から師範学校,高等学校に分岐して,大学に進学するという各コースは,人数の構成がピラミッド状になっていたことでもわかる.
そもそも,旧学制では,中学に進学することじたいが珍しかったから,ほとんどは義務教育の小学校卒業者で社会が構成されていた.

これが,戦後になって大きくかわる.
「公職追放」というイベントで,戦争中の経営者が追放されてしまって,「敗戦利得者」が代わって経営を引き継いだ.
政府で,公職追放になったのは,解体された軍人と政治家だったから,高級官僚は生きのこる.これが,政府と民間の関係を決定づけたのではないか?

しかし,民間でも戦後体制は,旧制大学出のひとたちの時代がつづく.
明治のおわりから,大正時代に生まれたひとたちだ.
昭和生まれの新制大学卒業者がサラリーマンで現役だったころ,会社の幹部はまだ旧制大学出に占められていたはずである.

だから,高度成長時代とは,じつは旧制大学出のひとたちの時代だった.
それで,ノー天気な状態でもなんとかなったから,「無責任男」がやってくる.
裏から観れば,重圧な蓋にとざされた閉塞状態の社内にあって,新制大学卒業者たちの悲哀の物語ではないのかともおもう.
救いは,経済成長で,会社がおおきくなれば,ポストも用意されたからだ.

そうこうしているうちに,時間という残酷な現象が世代交代をうながす.
旧制大学出のひとたちの時代がしずかにおわった.
それで,「無責任」を旨としたひとたちに順番がまわってきた.

もちろん,以上のストーリーは大きな物語であって,個別にどうかということではない.
しかし,この話には「無責任」でもなんとかなるという「行政」の本質がかくれている.
旧制大学出のひとたちからの下命を,上手にこなせばよいのだ.
かんがえるのは旧制大学出のひとたちの頭脳であった.

こうして,役所には「行政」をはるかに超える業務範囲がのこり,民間には「行政」だけがのこった.

社会の基礎をつくるのは,教育である.
「大卒」という「高学歴」にすれば,生産性が高まる,と旧制大学出のひとたちはかんがえなかった.
彼らはむしろ,「適性」と「専門」を重視した.

経営に関していえば,「MBA」批判はあるものの,とにかく「経営の専門家」が重要なのだ.
経営学者が重要なのではない.
そういう意味で,「エリート」すなわち「専門のリーダー」教育が欠如している.
決められた枠からはみ出さない,正しき行政マンを出世させて,リーダーにするしかない,という状況をいかに変えるのか?

政治の状況と同様に,厳しい課題がこの国にはある.

期待はずれの期待感の顛末

任期切れ間近の,金融庁の森長官に対する評価と批難が交差している.
歴代で,もっとも果敢に金融行政をけん引したその根拠は本人いわく,「顧客本位の業務運営」.
行政の長として,これにはいささか違和感をかんじるが,規制官庁にして,顧客本位の業務運営を「やれ」といわしめる日本の金融機関のお粗末な実態だとおもえば,納得もできた.

しかし,これは、金融監督庁時代からの「検査機関」から,日本の金融の「ありかたを定める機関」という,旧大蔵省銀行局・証券局の本来の役目が復活したにすぎないともとれる.
それで,森長官は,数々の商品を開発したスルガ銀行を「地銀の雄」として肝いりをしたが,いまとなっては,「スルガ銀行事件」にまでなってしまってずっこけたようにもみえる.

そんなことから,冒頭のように,長官への評価と批難が交差しているわけだ.
以上が,ふつうの感覚なのだろう.
長官の手腕に期待したが,期待通りにはいかなかった.いや,いった.と.
けれども,相手は「行政」なのだ.

行政が勝手に絵を描いて,それを実行してよいものか?
ましてや,たまたま(順番で)長になったひとが,過度の期待を組織外から受けるのはどうしたものか?
戸籍係のひとには例にして悪いが,行政とは戸籍係のようなものだ.
あたかも,フリーハンドでの勝手な振る舞いがゆるされるものではなく,国民がゆるしたこともない.

アメリカには「ジャクソン・ルール」が存在している.
第七代大統領が定めたルールが,良くも悪くも今につづいている.
その根拠は,「行政は誰にでもできる」し,誰にでもできる範囲「しか」行政にやらせてはならない,というかんがえ方である.

つまり,「判断」は選挙で選ばれた「政治家」の仕事であるから,行政は誰でもできる.
問題の「提案」は,民主主義だから,市民ならだれでもできるから,行政の範囲には「提案」もない.
粛々と,決まったことをするのが「行政」なのだ.

これに対して,わが国は,行政がほとんど全てを仕切っているけど,これに違和感をもつひとが少ない.
それで,行政に過大なる期待をいだくのである.
その,過大なる期待が,行政のあるべき範囲をとうに超えているから,行政も勘違いして本来ならやってはいけないことにまで関与する.

これが,世の中の構造が単純なら効果があった.
しかし,民主主義をすこしでもやれば,すぐに世の中の構造は複雑になるから,行政の能力をかんたんに「無能化」する.
こうして,行政は意味のないムダか,さらなる余計なお世話をもとめて肥大化するしかなくなるのである.

政治がさらに上をいく無能だから,現状のままで仕方がないではないか.
経済も,人口も拡大するのなら,仕方がないですますことができた.
しかし,残念ながらこの国に,その余裕はもうない.
だから,行政ではなく,政治が決めなければならない.

こうした目線で見ると,モリ・カケ問題とは,行政が決めることを支持することと,政治が決めることを支持することとのせめぎ合いにもみえる.
つまり,「問題」にしているひとたちは,これまでどおりだから「保守」で,「問題はない」というひとたちは,これまでとはちがっていいということだから「革新」となる.

まさに,「保革」の概念の逆転である.
こうして,戦後体制を保守しようとするひとたちを「革新」とよび,それに疑問をていするひとたちを「保守」と呼んできたことの滑稽があぶり出されてきた.

いったい,占領軍は日本にどんな「改造」をしたのか?ということの本質が,メッキがようやく剥がれるように見えてきたのが,「衰退のはじまり」というタイミングだったことになる.
いいもわるいもなく,とにかく政治には決めてもらわなければならない.
それが,国民に支持されなければ落選し,支持されれば推進する.

こうした決定で,国民には痛いこともあるだろうが,それが民主主義というものだ.
その「痛さ」をもって,厳しい判断をするのが人間の学習能力なのである.
「巧言令色鮮し仁」
この名言を生んだ国では,この言葉の意味が今ではわからなくなっているだろうが,あんがい日本の漢文教育は一線でもちこたえているかもしれない.

期待すべきは政治であって,行政ではない.
現状をみれば,文字にして恥ずかしさすらあるが,これが本質なのである.

持ち回りをやめられるのか?

「昭和」の終わりかた,という本があったら読んでみたいものだ.
奇しくも,昭和63年から昭和64年の年越しで,民放連による「ゆく年くる年」が終了した.
大晦日の新聞テレビ欄は,NHKの「ゆく年くる年」と,民放の「ゆく年くる年」が,30分ほどではあるが,一本の帯をつくっていた.
これをしっているのは,もう40代以上のひとたちになる.

ふだんは視聴率をあらそう民放各局が,年に一回,休戦協定のようにぜんぶがおなじ放送をした.
そして,各局の持ち回りで「担当局」を決めていたから,じつは「一大看板番組」だった.
「局の総力」といってもいい.
人間がきめた,暦による「年末と年始」という1/365の珍しさが強調されたのだ.

しかし,引いてかんがえれば,毎日が1/365なのであるから,年越しが特別だというのは,あんがい意味はうすい.
このブログでも書いた,明治5年の年越しは伝統ある「太陽太陰暦」から「太陽暦」への転換だっから,それはもう特別だったろうが,おそらく人びとは「へーっ」といって日常を過ごしただろう.

各局同時放送が終わりになったのは,休戦協定の意味が薄れたからであった.
すなわち,視聴者の価値の多様化である.
それで,各局が独自に放送することになった.
まさか,昭和の終わりと時を同じくしたのは偶然だったにせよ,「価値の多様化」は偶然ではない.

大イベントで,会場を持ち回りにしているのは,スポーツの世界が好むことだ.
いま開催中のサッカーもしかり,オリンピックが集大成である.
それで,あまりにも「金銭」が動くから,これらを仕切る団体には,巨大な利権がまとわりつくのは自然なできごとだ.

その利権の誘惑に,「勝つ」か「負ける」かの神経戦が,団体理事たちに課せられる.
なるほど,スポーツとは,まさに「心技体」の心得がみがかれるものである.
一方では,否定的な見解もある.
それで,オリンピックという祭典をやめるべきだという論も聞くようになった.

そうしてかんがえると,政治の世界の「サミット」を筆頭に,持ち回りで開催されているものがある.
いつもおなじ場所だと,いけないわけは「気分」にちがいない.
首脳たちも人間だから,「気分」はたいせつなのだ.
それに,警備や宿泊先などは,一生に一度の経験を強いられるから,実力の「底上げ」にもなる.

外資系の会社に働いた経験で,「なるほど」とおもったことに,ふだんから贅沢なオフィス環境にいながら,なぜに外部の贅沢な会議室を借りてまでの会議をしたがるのか?という不思議のこたえがある.
それは,ここ一番の会議でほしいのが「アイデア」だったからである.
そのためには,環境をかえることが有用だということが心理学でわかっている.

「今日ほしいのは,アイデアだ」そして、「これにかかる経費は,株主も納得するだろう」がつづく.
ふだんの贅沢なオフィス環境も,「高いパフォーマンスを得るには,オフィス環境は大事だ」だから,「株主も納得するだろう」となる.

典型的な日本企業は真逆である.
占領軍が持ち込んだ,前線基地用のスチール机と椅子でよい.
せまい事務所に,人を押し込んで,なんとかする.
これが,経費削減というものだ.

アクション映画,「ランボー」で,主役のスタローンを上司が説得する基地のセットには,日本のオフィスで定番のスチール机と椅子があったのが印象的だ.
それは,急ごしらえでも機能だけがあればよい,という「軍」の備品としての完成度を意味する.
なるほど,耐久性はハンパないわけだ.

重要な会議のために,重要な立場の人物のスケジュールがかんたんに調整できる,ということはほとんどない.重要な立場の人物ほど,日程が込み入っているからである.だから,秘書がつく.
それで,「持ち回り会議」が発明された.
すなわち,書類を回覧してサイン(印鑑)をもらう.

国家であれば,「持回り閣議」という.
企業であれば,「稟議」というものだ.
「印鑑」の文化がある日本には,役所が認める「印鑑証明」という制度がある.
それで,日本企業で「役員」になると,会社に「印鑑証明」も提出する.

「稟議」は,「持回り役員会」だから,この書類への押印は法的行為となる.
それで,印鑑証明の印鑑,すなわち「実印」をつかう.
相続に失敗して,親の借金まで相続したひとが自己破産したら,管理職として会社での「押印」という法律行為ができなくなるから,業務遂行に支障をきたし,「合法的に」解雇された事例がある.

電子決裁時代になって,「稟議」をはじめとした各種書類が,いまだに「紙」という会社は少ないだろう,ということはない.
日本のばあい,役所もふくめ,まだまだ「紙」の時代である.

ビットコインと呼ばれる仮想通貨には,「ブロックチェーン」という技術がつかわれている.
この技術は,書き換えの記録が必ず残る,という仕組みである.
この技術をつかった,社内決裁がもっとも実用的であろう.

電子決裁の利点は,スピードにある.
「紙」の持ち回り決裁をしている,日本のおおくの企業で,どのくらい「スピード」が重視されるのか?が,最大の難所である.

持ち回りはやめられないが,経営陣のなかでの決裁スピードも求めない.
それで,従業員の生産性を疑うのなら,笑止というべきか.

絶望的な温泉宿

老朽化は人間だってやってくる.
それで,豊かになったら「アンチエイジング」という保険がきかない医学的手法をもってしても,若返ろうとするのは,ある意味本能でもある.
永遠の命,というわけにはいかないが,なんとか自分の肉体を若くて健康的に維持したいのはだれだってそうだろう.

ところが,建物がないと商売ができない宿泊業をやっているのに,その建物の「アンチエイジング」がぜんぜんできない経営者がいる.
よせばいいのに,そんな経営者ほど名誉をほしがる.
それで,まるで廃墟のようなロビーに,「褒章額」が飾られていることがある.

さほどに「自慢」したいのか?
さほどに「偉さ」を訴えたいのか?
しかし,客目線からすれば噴飯物のまるで「マンガ」である.
その前に,ロビーには「今日の新聞」を置いてほしい.

「ロビー」と「ラウンジ」というなら,せめて電気をつけてほしい.
自動販売機に,業者向け張り紙はやめてほしい.
売店に,賞味期限切れの食品は置かないでほしいが,それよりも,よれよれの誰かのスーツ上下を,針金のハンガーにつるして放置しないでほしい.どう見ても「商品」ではあるまい.

日帰り温泉入浴でたまたま立ち寄った宿である.
フロントに誰もいなかった.
ロビーには,ソファーでパンを食べているひとがいた.
このひとが,支配人だった.

入浴料金を支払って,大浴場に行ったら,脱衣所にも浴室にも照明がついていなかった.
いかに一人だけとはいえ,薄暗い中での入浴は気分がわるい.
それで,スイッチをさがして点灯した.

広い湯船には,素晴らしい泉質の温泉が満たされていた.
やや熱いのが難である.
さいきんは,「ぬる湯」が人気だが,きっとここの人たちは識らないのだろう.それに,この泉質なら「ぬる湯」が向いている.
ぞんざいにして放置したようにもみえる,温泉成分表にあった源泉の温度は20度そこそこだったから,「ぬる湯」にすれば,光熱費もたすかるだろうに.

一人だけだし,掛け流しなので,行儀がわるいが湯がこぼれる湯船のヘリに寝転んだ.
ああ,快適である.天井のシミがまぶしい.
寝湯のコーナーがあって,「ぬる湯」だったなら,しばらく出たくないだろう.
そうやって,「この宿の再生」をツラツラかんがえてみた.

まずは,「温泉」第一である.
おそらく,従来は,宴会ができて温泉があって,泊まれるという順番の「宿」だったろう.
その需要は,もうないはずだ.

素晴らしい泉質の温泉にじっくり入れる.
よければ,泊まれて明日も温泉に入れる.
食事は近所の食堂にいっていただいて,ここでは用意しないから,弁当持ち込みでも良い.
つまり,泊まれるだけの温泉でいい.

そのためには,圧倒的なお風呂に改装しなければならない.
さて,どんなお風呂にするか?
「ぬる湯」と「熱湯」は,いまの湯船を半分に分割すればできるかもしれない.
しかし,「ぬる湯」に「寝湯」は必須だ.寝湯の場所の権利を別料金にしたい.

そうなると,防水タイプの電子書籍リーダーがほしい.
浴室に,飲泉所もいるだろう.
飲泉の許可をどうするか?
それに,宴会場を休憩所に変更したい.

さて,これらでトータルいくらの投資が必要か?
食事提供の停止と,宿泊は限定室数販売で,従業員の必要人数は相当に減るだろう.
ただし,浴室廻りと館内清掃の徹底で,どれほどがプラス要因か?
.............
湯上がりに,薄暗いロビーでたたずんでいると,フロントカウンターからの目線を感じた.
こちらの様子を伺っているようだが,話しかけてくるようでもない.
それで,落ち着かなくなって「褒章額」をみつけた.

きっと,この宿は「自力」でなんとかしているのだろう.
勲章をもらったのだから,金融機関に頭をさげる気もないにちがいない.
これはこれで「矜持」というのかしらないが,わたしごときのアイデアは余計なお世話になるはずだ.
半分以上,本人たちも投げ出してしまった商売が,これから急転換するならいい方向のはずもなく,一期一会とはいうけれど,「良いお湯でした」としかいいようがない.

ただひとつ,勲章をもらうためにした努力を,経営のためにしておけばとしか言葉がない.
その「褒章額」には,たかだかこの十何年かばかりの日付と,顔がはっきり浮かぶ総理理大臣の名前があった.
絶望的な温泉宿に,久しぶりに出会ったが,おそらく時間の問題だろうとあきらめた.
たんなる老朽化ではない.自社に対する愛情すらもないから,こうなるのだ.
願わくば,温浴施設として,,,,,やっぱり,無理だろう.

地元貢献のない駅ビル

副業ができなかった国鉄時代から,なんでもできる「民営化」で,いまさらながらどこにでもおなじ「駅ビル」がつくられた.
「どうやって乗車してもらうのか?」に汲汲とした「国鉄」は,「ディスカバー・ジャパン」とめいうって,さまざまな取り組みでもがいていた.

山口百恵の「いい日旅立ち」のヒットもあって,「旅の情緒」を発信していたのが懐かしい.
これに乗じて,サントリーがウィスキーのポケット瓶と古い車両の夜行列車での「旅」をイメージしてつくったCMは,いつか大人になったらやってみたいと思わせたが,肝心の「夜行列車」がなくなった.

鉄道会社の本質はかわらないから,いまでも「どうやって乗車してもらうのか?」はテーマにちがいないが,どこで近代を「勘違い」したのか,ガラスとコンクリートのキラキラ駅舎と駅ビルを金太郎アメのように量産したから,駅頭に降りたっての「旅の情緒」は皆無になった.だから,駅舎を背景に,記念写真をとるひとがいない.建築として,無価値ということでもある.

これには,地元自治体の責任もある.
「駅舎」や「駅ビル」は,地元の顔そのものである.
その「顔」をどうするのかの哲学が,どちらさまにも一貫して「ない」という証明になっている.
あるのは,「東京のコピー」だから,それで識られる発想は,全国一律均等なる発展,という日本列島改造論そのものである.これを「哲学」といいたければそれもよしだが,浅すぎないか?

つまり,圧倒的な「おらが街」の主張がないから,旅人は不満なのだ.
「ついに来たー!」という気分がしない.
その土地の,歴史や風土や風習が感じられるデザインとはなにか?
まったくの研究不足といえるのではないか?

見た目の問題だけではない.
「駅ビル」だから,なかには「商店」や「飲食店」が入店する.
それも,金太郎アメになった.
どの駅で降りても,おなじ店.

JRは,鉄道会社という本業を捨てて,いつのまにか不動産会社になってしまった.
儲かればよい.
たしかに,国民からすれば,適度に儲けてもらって,国鉄清算に貢献してもらわないとこまる.
しかし,彼らの経営思想に,ほんとうに上記の「貢献」が念頭にあるのだろうか?
ただ,儲かればよいになっていないか?

もちろん,かつての「分割」には問題があるのは承知している.
本州の三社はまだしも,北海道で一社,四国で一社,九州で一社は,どうしたことか?
その九州が,鉄道会社としての意地をみせてはいるものの,北海道と四国はたいへんである.
それに,本州だって,普通列車で旅をしようとすると,「東」会社と「東海」会社が,利用者を無視したダイヤを組んで,両社をまたぐのが厄介なのだ.「会社がちがうから」とは,なんという愚かさか.

「駅ビル」への入店は,地元の商店に声かけがあるのは識られたことだ.
問題は,このときの駅ビルの規模と,地元商店街の将来像との関係だ.
資本に乏しい地元商店は,駅前商店街と駅ビルという近接二カ所での経営に耐えられるのか?
まずは「需要」である.つぎに「コスト」である.そして,ボディブローとなるのが「他店舗経営ノウハウ」の有無である.

この「他店舗経営ノウハウ」がないのは当然である.
街道筋の時代から,多店舗化などまずやったことがないだろう.
むしろ,宿場町の街道筋から外れたところに「駅」ができたことから,「移転」の経験だけはあるというところがおおいのではないか?

その駅前商店街に移転してきて,昭和の繁栄から衰退したいま,数百メートルもない近接の駅ビルに「出店」しても,売上が倍になるわけではないだろう.
こうして,地元最高立地のピカピカ駅ビルに入店した,地元老舗が力尽きるのである.
哲学がないばかりか,商売をしたことがない地元の役所は,駅ビルに入店すれば繁栄するはずだとしかかんがえられない.

このようにして,空いた店舗を鉄道会社は不動産業として全国チェーンに入店をうながすから,地元の駅ビルに地元の商店はなくなり,ついでに駅前商店街にもシャッターが増えるのである.
つまり,駅ビルと駅前商店街は「トレードオフ」の関係にある.
どちらかが栄えれば,どちらかが衰退する.

だから,役所が都市計画として,ピカピカな駅ビルを誘致するなら,駅前商店街を放棄するほどの覚悟がいるのだ.しかし,そんな覚悟はできっこない.
地元の購買力は,一定であるのにだ.
だから,駅ビルをつくりながら,商店街には補助金をばらまく政策でごまかすこととする.

店側は,そんな役所は頼りにならないのだから,かつての創業地,宿場街の街道筋から駅前商店街に移転したごとく,駅ビルに移転するという選択肢を検討するのが筋である.
ただし,地元の人口減少予測をみてからのはなしである.

このように,駅ビルは,中小都市の顔として,あんがい地元に貢献していないものなのだ.
だから,都市計画で,駅ビルを作らせない,という手もある.
こうした街の駅前商店街は,当然元気だし魅力がある.

適度な購買客がいれば,商店街も魅力をだせる力を得るが,この逆はない.
適度な購買客が減少すれば,商店街も魅力を失う.
新商品の品揃えのための資力がなくなるからだ.

ぼちぼちと「買い物難民」が中小都市で発生している.
大資本の店舗が,売上効率の低下をもって撤退するからだ.
そして、店舗跡地は廃墟になる可能性もある.
駅前商店街の出番はあるのだが,駅ビルが邪魔をしている.

分別のない分別収集

中国政府が「突然」輸入禁止して,「資源ゴミ」業界がたいへんなことになっている.
「ゴミは資源です」という,戦争中の標語のような「意味なしフレーズ」の化けの皮が剥がされたのは,なんと外国政府のおかげだった.

2000年に出たこの本,「リサイクル幻想」が,武田邦彦教授の名前を事実上世に出したものであったとおもう.
武田教授は,この年,三冊の「反リサイクル本」をだしていて,当該図書は最後の一冊である.

当時は,MS-DOSの「2000年問題」が大騒ぎのなか収束したが,90年代のおわりに同時にやってきたのが「環境問題」だった.
1992年にブラジルで開催の国連「地球環境サミット」から,「環境問題」が話題になった.
このサミットを受けて,1996年にいわゆる「ロンドン条約」の「96年議定書」が結ばれた.
「海洋投棄に関するロンドン条約」といっていたが,この議定書によって糞尿や排水管の汚物,生ゴミ処理のための海洋投棄ができなくなった.

これが,わたしが勤務していたホテルにも影響した.
いわゆる「陸上処理」をしなければならなくなったのだが,処理をするのは業務委託先の「廃棄物処理業者」である.だから,ホテルが直接関係するとは最初はかんがえていなかった.
ところが,陸上転換にはたいへんな資金が必要だとわかった.
それで,ホテルも資金提供をしなければならくなって,わたしがその担当をした.

日本の対応はあんがい遅く,国内法での「禁止」は,2007年になってからである.
ちなみに,福島の原発事故で海に流出した放射性物資についても,この条約が適用されるはずであるが,どうなっているのか国民に知らされていない.

そんなわけで,「リサイクル幻想」は,かなり驚いた内容だった.
しかも,「科学」というより「化学」の目線での解説だったから,よけいに驚いたものだ.

「変だな」とおもうことはたくさんある.
なかでもマスコミがキャンペーンをはる話題はたいがい「変」である.
それで,「ダイオキシン」が連日話題になったときにも,違和感をかんじた.
すると,東大医学部の毒物の専門家,和田教授が「科学が社会に負けた」という名言をのこされた.
教授の実験では,ダイオキシンの毒は「ニキビ」ができる程度という.

これは、おそろしいことである.
「日本社会は社会状況を人為的につくりあげることができる」という証明だからだ.
科学=サイエンスのこたえより,マスコミがつくる「風評」が社会をうごかす.
そして,科学者の声より,素人コメンテーターの「~だろう」という予測が社会的信用をえるのだ.

NHKのキャンペーンもすさまじかった.
さまざまなゴミを「ちゃんと」分別している,模範的国民の家庭事情を特集で放送したことがあった.
その人の台所は,「ちょっと置き場がなくて大変なんです」という状態だったが,「地球環境のため」という理由で,一生懸命やっているひとが正しいと放送していた.
まさに,「ほしがりません,勝つまでは」.わが国は,戦時体制下にある.

そうやって,いつの間にか「ゴミ利権」ができた.
社会のさまざまな分野に「利権」をつくった天才は,田中角栄である.
その「利権」からうまれる「お金」が,彼の「金権政治」の源泉である.
実際に,昨今,自民党の派閥が意味をなさくなって凋落したのは,ぜんぶの派閥が「田中派」になったからである.

ペットボトルの「ペット」とは,犬や猫の「ペット」ではない.
チレンレフタラートという高分子体を略して「PET」といっている.
「高分子体」というと聞こえがいいが,石油の化学的加工の最終物質である.

ドロッとした液体の原油には,さまざまな物質が混ざっているから,これを精製するところからはじまる.それが,つぎにプラスチックや人工繊維など,さまざまなものに加工できるのは,「低分子体」だからである.
紙おむつなどにつかわれる,「高分子吸収体」というのも,やたら水を吸うけれど,吸ったらそのままでもう加工できない.だから,使い捨てるのだ.

行政は,ほんとうは加工ができない「ペットボトル」を「資源」だといって,市民に無料で回収の手間をかけさせて,水を含んだ生ゴミ処理で一緒に燃やせばいいものを,わざわざ別便の回収車を燃費をつかって走らせて回収している.
それで,「資源」だからと,バーゼル条約に違反して中国に「輸出」してお金にしていた.

バーゼル条約というのは,1989年の条約で,わが国の加盟は1993年.
「有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関するバーゼル条約」というから,内容はだいたい見当がつくだろう.
つまり,ゴミを外国に移動させてはならないのだ.

輸入した中国では,ほんの一部をぬいぐるみ人形などの中綿にしていたが,おおくは「資源」として燃やしていた.
日本の焼却炉は,ダイオキシンなど有害物質がでないように,お金をかけて高熱燃焼に耐えるように改修したが,中国の焼却炉はそんな手間はかけていない.
それで,有害物質が偏西風で日本にも飛んできた.

「自業自得」というには,あまりにお粗末なはなしである.
「分別」できない人間が,「分別収集」にいのちをかけたら,ほんとうに健康被害者になってしまった.
もちろん,それでもっと酷いことになったのは中国の空気である.

今回の輸入禁止措置で,資源のはずのプラゴミが日本であふれかえっている.
そのうち,シラーッと焼却処分することになるしかないが,市民はムダな分別をずっとやらされることだろう.

石に価値をつける

「貴石」なかでも「宝石」は,だれでも貴重だとおもうから,最初から価値があるとかんがえる.
しかし,それがちゃんとした「宝石」だと思わせないと,「宝石」だとわからないこともある.
だから,「宝石」の知識が人びとにあって,はじめて「宝石」の価値がうまれる.
それでも,ただの石だとおもうひとは,それが「宝石」であっても目もくれないものだ.

マルクスの資本論は,さいしょに「労働価値説」を土台にしている.
単純化して,時計工場の例で説明している.
これを真っ向から否定したのが,小泉信三の名著「共産主義批判の常識」(新潮社,1949年)であった.

海女が海底から貝を得る労働と「おなじ労力」で,石を持ち帰っても無価値であると.
つまり,労働がすべての価値をつくる,というマルクスの説は間違いで,「市場価値」がなければならない,と説いた.もちろん,マルクスはその「市場」も否定していたから,これだけで小泉博士はマルクスを撃沈させた.

マルクス信奉者たちは,さまざまな「理論」をもって「科学的」と自称していたが,それは「似非科学」の「宗教」であった.しかし,こんなことが,1991年のソ連崩壊まで信じられていて,今年の「マルクス生誕200年」を「祝おう」というのだから,どうかしている.

「福祉国家」といえば,「スエーデン」として崇める学者ばかりの日本にあって,そのスエーデンの元首相が,マルクス批判をしている記事はこのブログでも紹介した.

わが国で宝石の県といえば,山梨県があげられる.
もともと,水晶の産出で栄え,いまでは人口当たりインド料理店が日本一というほどに,インド人の宝石商がおおく在住していることでも有名である.
彼らは,世界に向けて日本の加工技術を売っている,とかんがえると,なんだか頼もしいが,ほんとうは,それを購入する顧客が日本人であってほしいものだ.

それで,県内とくに甲府周辺には,観光客に向けた大型「宝石店」がある.
おもに大型バスでやってくる観光客が相手である.
こうしたシチュエーションでは,外国の観光地でもおなじだが,乗客たちの財布をいかに開かせるかのテクニックが問われるものだ.

つまり,購買意欲がほとんどないか,買うまい,と心に決めてバスを降りるひとたちとの神経戦がはじまるのだ.
そして,どこか怪しい雰囲気で「説明」がはじまる.
それは,お客の「意志に反して」,「石に価値をつける」作業のはじまりでもある.

店によって独特の工夫があるのだろうが,物語は駐車場からはじまっている.
これは,一種のテレビ・ショッピングのリアル版なのだ.
店内の回遊式の構造は,たいへん効率的な流れをつくっている.
最初の「掴み」である専門的な説明から,じつに大雑把なはなしまでの混在が,購買心理に火をつけるのだろう.ちゃんと「起承転結」になっている.

こうして,地球上にありふれた「石」が,購入されていく.
もちろん,買わないひとは一切買わない.
すごい,と思うのは,このネット時代に,こうしたやり方がおそらく何年もかけて開発され,いまでも成立していることなのだ.
一歩まちがうと,大トラブルになりそうなものだが,そうならないギリギリの一線が,ある意味緊張感を生んでいる.

本物とニセモノが混在したような,混沌が,それなりの市場を形成しているのだろう.

ものが売れないのは,売れない理由がある.
人的サービス業の不振も同様で,不振には不振の理由がある.
一方で,その場で売り切ってしまえば後はどうでもいい,というかつての観光客向け掠奪産業では,なにを投稿されるかわからないし,永続しない.

石に価値をつける.

簡単そうで簡単ではないだろう.

体罰の発祥

「昭和一桁」という稀有な世代も,まもなく消えてしまう時代になった.
大正15年は残すところ一週間ほどでおわった.昭和元年は12月25日から大晦日までの7日間で,昭和2年になる.昭和のおわりは,1月7日だったから,大正と裏返しのようだった.昭和元年生まれと昭和64年生まれは希少だろう.
わたしの父は昭和2年生まれで,母は5年であった.

昭和一桁が「稀有」なのは,最後の明治教育世代だからである.昭和二桁になると,ヒトラーのドイツに真似た「国民学校」世代になる.
「尋常小学校・尋常高等小学校」に昭和一桁生まれまでは通った.国民学校とのちがいは顕著で,おなじ兄弟姉妹でも,学校生活の記憶がまるでちがうと母が妹の叔母との会話でよく言っていた.
いまの「ゆとり世代」以上の隔絶だったとおもう.

少なくても,戦前の教育についてかたるときは,このちがいを意識しないと現実離れするだろう.
どちらも「軍国教育」と一緒くたにしてくくってしまえば,表面はとりつくろえても内情はまったく別物だとなるだろう.
詳しくは,「小学校制度の整備」「国民学校令」をご覧いただきたい.
役人がしらっと解説している.

さて,小学校制度の整備がおこなわれたのが日清戦争後の明治33年とあるから,三国干渉による「臥薪嘗胆」のまっただ中の時期である.
日露戦争が,昨今「第ゼロ次世界大戦」といわれている理由に,「総力戦」の概念がある.

つまり,王侯という身分のひとたちや,日本でも武士というひとたちが「戦う」という戦争から,近代国家をあげての「総力戦」へと変容した,という意味である.

日露戦争前の日本陸軍は,ぜんぶで15万人だったが,戦争から1年ほどで100万人になる.
どれほどの動員であったかもそうだが,どうやって「兵」として訓練し戦線に送り込んだのか?

どうやら,このあたりに「体罰」の源流がありそうである.身分がはっきりしていた江戸時代に,庶民の体罰の記録はないし,明治になっても陸軍15万人体制までは軍人の自叙伝にも一言の記載もないという.むしろ「躾」と「体罰」は別だったのだろう.

そうでなければ,203高地の肉弾戦の説明がつかない.
もっとも「突撃命令」では,味方の後方から弾が飛んできたから,いやでも前にいかざるをえないのだが.

じっさいに,一般教育の現場で軍事教練がはじまるのが大正になってからである.
つまり,日本は第一次世界大戦で,連合軍につき,青島の攻略という「物量戦」も経験したあとのことだ.この「物量戦」で,局地戦なのにどれほどの戦費を消耗するかがわかった.

近代兵装のバカ高さは,すでにこの時代に確認されていた.
こうして,貧乏な日本軍は,物量戦をあきらめて精神の世界にはいっていく.

アジア唯一・非白人国家唯一の「列強」になったわが国は,近代戦への準備として平時からの教練があたりまえになったのだ.
学校に軍人がやってきて教練する.この場かぎりの関係だから,目的達成のために体罰を利用することは,批難どころか当然とされたにちがいない.

満州事変から,日中戦争を経て,昭和16年の年末にアメリカとの戦争がはじまる.
大正中期生まれからが「兵」になったはずである.
わたしの父親はレーダー兵だった.電気知識のその教育は,教官から殴られて覚えたと言っていた.

ドライバーの柄で,木魚のように頭部を叩かれながらオームの法則の計算をさせられたらしい.それで,坊主頭にこぶが団子のように幾重にも重なったというからまるでマンガだ.
しかし,これは逆で,マンガでたんこぶができる現実を描いていたのだ.

戦後,復員した元兵隊だけでなく,社会全体がこうした「訓練」に慣れていた.
だから,この世代の男性は,とにかく殴られた経験だけは特別ではなかったろう.
戦争は昭和20年におわるから,昭和2年生まれの父は18歳で復員した.

すなわち,昭和40年代のスポーツ根性もの全盛期とは,生きのこった「兵隊」だったひとたちが40歳前後になったときで,いまでは想像もできない「親和性」があったにちがいない.

だからか,なぜか積極的にテレビを観るようにいわれた記憶がある.「これはいい番組だ」.
巨人の星,エースをねらえ!,サインはV,柔道一直線...
子どもより親が楽しみにしていた.
そうやって,成長した子どもが「部活」にはいる.

当時の「部活」は,スポーツ根性もののまねっこだった.
いまではありえない「うさぎとび」で,100段以上ある階段を何度も飛ばされた.
「鍛えること」には精神もふくまれた.
こうやって,「体罰」が世代間をこえて浸透するようになっている.

いまの体罰の日本的源泉には,近代日本人の歴史がある.
そこには,「よかれ」という善意がある.
だから,べつの方法で「善意」をあらわさなければ体罰はなくならない.
どんな方法があるのだろう?

「いけない」と声高にいうひとも,だれも示してはいない.
家庭でも,自分のこどもの躾ができない.
地域では,厄介なことにかかわりたくないから,「かわいい」とほめても,だれも他人の子どもを叱らない.
それで,相応の年齢になったら,もう誰のいうことも聞かなくなる.

残念ながら,特効薬はなさそうだ.

ベンチマークは競争相手か?

誰がライバルか?
気になるのは経営者だけでなく,従業員もおなじだ.
だから,一流には一流のライバルが存在する.
これが,スポーツなら,ライバルの引退が本人に与えるガッカリ感ははかりしれない.

企業であれば,業界内のライバルこそ,自社発展のための原動力になる.
だから,おのずとライバル社は昔からさだめられている.
しかし,さいきんはライバルが自己崩壊して,気がついたらいなくなっていた,という事態もありうるし,他業種からの新規参入企業が急成長をとげて,気がつけばライバルになっていた,ということもありうる.

つまり,流動化である.
これは、固定的な状態よりは望ましいことだ.
利用客にとっては,選択肢がふえていることを意味するからだ.
うっかりすると自社も,もしかしたら安穏としていられないから,緊張感がでればよい.
一方で,長年のライバルを失うと,自社も方向性を失うことがある.

そこで,でてきたかんがえかたに,ベンチマークがある.
言い方は良くも悪くも,パクリ元である.
オリジナルを考案して,それを実行するというのは,なかなか簡単ではない.
だから,パクる,というのは有効だ.

これを,どこに行っても同じ「横並び」としないようにするのは,それはそれで技術がいる.
「まねした電器」と揶揄されようが,ライバルが開発した新商品を,短期間でオリジナル以上の完成度で安く大量販売するのは,やってみろと言われても業界他社には真似ができなかった.
この会社の苦境は,電器製品がソリューションとセットになった時代になって発生した.困ってしまって,「高単価多機能化」に走ったら,「低単価低機能」商品に大敗してしまった.

「ものづくり」産業に,ものだけ上手に作ればよい,という旧来の価値観が通用しない転換点がやってきて,とっくにとおりすぎてしまった.
それで,旧来の製造業が成り立たなくなった.
「円高」だけが,空洞化の原因ではない.
むしろ,顧客志向から勝手に離れて不振になったことを,「円高」のせいにしてはいないか?

人的サービス業の企業再生の現場で,従来のライバルはどこかと質問すると,ご近所をあげることがおおい.それで,その相手はいまどうしているかと問えば,廃業していることがあれば,なんとか復活していることもある.
もちろん,そのなんとか復活したやり方をパクりたいのが本音だが,近すぎてできない,ということがある.

それでは,全国を見回して,自社の顧客がめったに行かない地域での参考になりそうな事例の研究を問うと,おどろくほど共通して,そのような研究をしたことがない.
その理由は,ベンチマークを他地域に求める,という発想がないからである.

つまり,地元しかみていない.
もちろん,地元の顧客志向のことではない.
地元のライバルがなにをしているのか?しかみていないのだ.

これは,旧来の製造業が苦境に陥ったのとおなじパターンである.
つまり,あたかも製造業とはちがうサービス業だと定義しても,何のことはない「大量生産大量消費」という,かつての方式をいまだに追求しているすがたである.
それで,再生にいたったのだから,この方式をやめる努力がひつようである.

ところが,再生支援をするお金をだす元が,この方式をやめさせない.
成功体験よもう一度.
ワンパターンでしかない成功方法を,別の角度からできないか?
つまり,登るべき山がおなじなのである.

そうではなくて,登るべき山は別にある.
すでに,地方の金融機関すら,自分たちの登るべき山が別になった.
それなのに,融資先には従来どおりを期待する.
何をか言わんや.

経営者には,しっかりとベンチマークをみつけてほしい.
そして,自社が他社のベンチマークになれるにはどうするとよいのか智恵を絞ってほしいものだ.