中国製の餡こ

スーパーマーケットは観光地である.
国内でも海外でも,旅行先のスーパーマーケットにはかならず寄ることにしている.
国内だと,ほとんどが全国ブランドだが,すみずみまでよく観察すると,いがいなコーナーにみたことがない商品があったりするからやめられない.

現地在住のみなさんには,おそらくその「珍しさ」はないだろう.
とくに,静岡県は全国ブランドが,全国販売前に試験販売する地域だから,どうしても長時間滞在になる.
しかし,静岡県にかぎらず,他県でも,珍しいものが発見できる.
これらは,あくまでもわたしの目線なので,それぞれの目線からさがすことをおすすめしたい.

さて,外国のスーパーには日本にはない独特の雰囲気がある.
そもそも.カゴやカートから構造がちがう.
ヨーロッパでは,カゴに車輪がついていて,手提げ部分が棒状になって床を引きずり回すようになっている.
食べ物がはいっているカゴを床に置いて,足で動かしながらレジの順番を待つひとがいるから,これを批難してもはじまらない.

レジ係は着座していて,客がカゴから商品をだして精算するようになっている.
土産にと,おなじ商品を箱買いしても,レジ係が箱をこわして一個ずつにレーザー照射する.日本だと,「一つ照射×個数入力」をして手早いがそうはいかないルールがあるらしい.
ただし,現地人は支払方法は現金払いではないことのほうがおおいから,この点,日本人はクレジットカード精算以外なら海外でも現金払いを苦にしない.

ヨーロッパ現地人は,携帯やクレジットカードであっても日本の「スイカ」のように端末にかざすと精算できる「NFC」式が主流で,とくに後から普及した東ヨーロッパでの利用率は高い.
今年の春になって,日本でも大手カード会社が外国仕様の「NFC」に対応できるようにしてくれたから,日本で買える「NFC」機能がついたスマホで外国でも買い物ができるようになった.

だからといって,日本と香港にしか普及していない「スイカ」のような,「FeliCa」式がすぐに廃れることはないだろう.「FeliCa」の処理スピードは,「NFC」の追随をゆるさない速さだから自動改札が詰まることはない.
しかし,ソニーの発明の「FeliCa」は,かつての「ベータ」と「VHS」のようなことにならないともかぎらない.「世界」が相手だと,技術的に優れていることが優位とはいえないのは,いまも当時のままだ.

ヨーロッパのスーパーで目立つのは,「UMAMI」コーナーの表示である.
「うまみ」という味覚に,さいきん気がついたのだという.
「味の素」の国の国民からしたら,いまさら感が強いが,事実は事実である.
もちろん,うまみ成分はグルタミン酸とイノシン酸で,それぞれが昆布と鰹節に代表されるから,日本人にとっては言わずもがなの「伝統食」である.

それで,日本食が世界遺産になった時期ともかさなって,「UMAMI」コーナーがいつの間にか「日本食」コーナーになっている店もある.
もっとも本物の「鰹節」,いわゆる「本枯節」は,製造時の「燻し」によるタール付着とカビづけが原因で,EUは輸入禁止だから,「かつおだし風調味料」がヨーロッパでも主流である.

親日国ポーランドの首都ワルシャワ中央駅の地下街には,日本食専門コーナーがある.
海苔巻きをつくるための「巻き簀」は,たいていのスーパーに海苔とともにある.
ここには,甘味,のための寒天まであるから,店内の品揃えはお値段以外,日本国内とあまりかわらない.
そこで気がついたのが「餡」だった.

一般に欧米人は,豆類は塩で味付けする.
だから,「甘い豆」という発想がないから「想像」できない.
「餡こ」は,かれらの食文化と次元のちがう食品なのだ.
ところが,おそろしいのは「文化の力」である.

マンガやアニメで頻出する,ドラえもんの「どら焼き」,Kanonの「たい焼き」.おそ松くんの「今川焼き」.これに,茶道からはじまる日本茶ブームで,和菓子がつづく.和菓子といえば,餡こは切り離せない.
こうして,「餡こ」の需要がうまれた.

ところが,ついて行けてないのが和菓子・製餡業界である.
ヨーロッパで,日本製の餡こを見かけない.
あるのは「中国製」ばかりの「漉し餡」だ.

中国人を褒めるべきか.
日本人は,これは「本物じゃない」というかもしれない.
しかし,そこには中国製「しか」ないのだ.

政府が「クールジャパン」で失敗しているばかりではない.
ヨーロッパ人に,日本製の「餡こ」すら提供できていないのだ.
人口が縮む国内だけを見ていたら,和菓子・製餡業界は苦しいに決まっている.
どこを見なければいけないかの,ひとつの典型なのである.

再発防止につとめる

アラブ世界で暮らすと,以下の「I」「B」「M」が日常になってしまう.もちろん,まじめな日本人には最初は馴染めないから,下手をすると不適応症を発症して,精神的に危険な状態になるひともいる.しかし,おおくは「郷に入れば郷にしたがえ」ですっかり適応してしまうから,似非アラブ人になってしまうものだ.

「I」:インシャラー,神の思し召し.「ドンマイ」のように軽く使われると,ムッとくるから,日本人はあんがいイスラム教に親和性があるかもしれない.
「B」:ボクラ,また明日.この一言で,これまで行列に並んだ時間がすべてムダになる破壊力がある.それで,翌日にまた並んでも同じことになりかねないから,けっして保証されないその場限りの言葉である.
「M」:マレーシュ,直訳は,そこに神がいなかった.まさに「ドンマイ」気にするな,である.

なにか自分によからぬことが,相手(アラブ人)が原因でおきると,上記のどれかが相手の口から発せられる.アラブ人同士だと,被害を被ったはずの側も,おなじように言って,気を静めるのがふつうだから,アラブの人はとくに好戦的な人たちではない.
しかし,この三つの言葉には,自分から謝罪する,という概念がないことに注意したい.

むしろ,これに慣れない日本人が,相手に殺意を抱くほど頭に来るのがふつうだから,いざとなると日本人のほうが好戦的かもしれない.
それでも,冒頭しめしたとおり,日本人でも適応すると,同様に言って気を静めることができるようになるし,さらに上級者ともなれば,アラブ人に向かって自分から言えるようになる.

「I」と「M」には,「アッラー」が短縮されて含まれている.「インシャラー」は「インシ『アッラー』」だし,「マレーシュ」は「マ『アッラー(フ)』シュ」である.
だから,かなりイスラム教の内部にふみこんだ言葉遣いなのだ.
これを,他宗教の人が口にしてもゆるすのだから,けっこう寛容なのだ.

ちなみに,アッラー(フ)の「フ」がカッコなのは,アッラーが男性名詞なので正規には「アッラーフ」というからである.

そういうわけだから,かれらには「反省」がない.
「アッラー」という「唯一絶対神」の存在を信じているのだから,自分のおこないも,アッラーによってコントロールされているし,被害を被ったはずの側も,被害を受けたこと自体がアッラーの御業として受け入れるからだ.

この発想法は,ユダヤ教も,キリスト教もおなじだ.
かれらの共通聖典,旧約聖書にハッキリ書いてあることだ.
その影響で,英語の感情をあらわす動詞のおおくが,「~させる」という他動詞で,「~させる」主体は「God」になって隠れている.

ヨーロッパ近代の発展は,そのキリスト教への疑問と否定が根底にある.それを明言したのがニーチェ「アンチクリスト」だ.
近代合理主義の追求とは,まさに「アンチクリスト」のことである.

ところで,世界でもっともキリスト教が普及されていない国は日本といわれている.
しかし,日本には法然と親鸞が発明したキリスト教である浄土宗と浄土真宗がある.
「他力本願」とは,じつは「旧約聖書」的発想だからだ.しかも,救世主「阿弥陀如来」までいらっしゃる.

徳川家康が本願寺を東西に分裂させて,いまだにそのままなのが不思議だが,「浄土真宗」とは幕府がつけたヨイショのネーミングで,それまでは「一向宗」だった.
あの,「一向一揆」の「一向宗」である.
つまり,ヨーロッパの本場からキリスト教が伝来する以前に,日本にはすでにキリスト教があって,その勢力は強大だった事実がある.

日本人は「無宗教」だという大嘘がはびこっているが,日本人は世界でもっとも宗教的な国民である.神道をベースに,あらゆる宗教を都合よく加工する.
世界三大宗教と真っ向からちがうのは,かれらは「絶対神ありき」なのに対して,われわれ日本人は,「神が人間のためにいる」ということなのだ.

キリスト教が「抜けた」近代合理主義を追求すると,「因果関係」つまり,「原因と結果の関係」を「科学する」ことになって,そこに妥協はない.
だから,スリーマイル島の事故も,妥協なく調査され,妥協なく今後のありかたを「マニュアル化」した.

わが国は,役所を中心に,いまでも「まつりごと」がおこなわれている.
「まつりごと」とは,宗教行事であるから,「因果関係」には人間のためにはたらく神がいる.
その「神」自体の存在は,信じるしかないが,そこに「役人の無謬性(けっして間違えない)」という宗教感覚がはたらく.

それで,福島でとんでもないヘマをしでかしたが,妥協なく因果関係を調べる「素振り」をすればよく,「原発の安全は確認された」ということが言えるようになる.

アラブがアラブなのは,イスラム教が「抜けない」からである.
アラブとおなじように「反省」ができない日本は,アラブとは真逆の人間に従属する神を信じるからである.
日本が日本なのは,アラブとおなじく「宗教」が抜けないからという共通点があった.
なるほど,アラブと親和性があるはずである.

妥協なく合理的に「反省」できないから,もちろん「再発防止」は「つとめる」もので,確実に二度と起こさない,という意思もなければ気概もない.

「再発防止」とは「科学」である.

リニアな人生の強制

左派系の比較的高齢なひとたちが,「アベ政治を許さない」とかいたステッカーをリュックにつけたりして歩いている姿を目にする.
どうして,左派のひとたちが目くじら立てるのか不思議なのだが,おそらく「防衛政策」という一点で気に入らないのだろう.

外国で「防衛政策」は,あまり争点にならないばかりか,「政争」になること自体を嫌うから,わが国の特殊性のひとつの事例である.
なぜ「政争」を嫌うのか?それは,「国防」は「国家として当然必要」という共通認識があるからである.

国際法に「国家の三要素」というかんがえかたがある.
この三要素を,「外国が認定」しないと,その地域は国家として成り立たない.
つまり,国際社会から,おたくは国家ですね,と認定されてはじめてその地域は「国家」になる.
それは,「領土」「国民」「主権」の三つであるが,これに上記の「外国からの認定」をくわえたくなる.

だから,領土を守るための国防,国民を守るための国防,主権を守るための国防,といえばわかるとおり,国家の三要素を守るためには「国防」は必須になる.
安倍政権は,というより,この国の周囲の現状からすれば,どの政党のだれの政権であろうが「国防」は当然になろうが,どうやらステッカーのこのひとたちは,それがいたく嫌らしい.
これはたいへん不思議なことだ.

もっと不思議なのは,このステッカーのひとたちは,左派だとおもうのだが,経済政策で自民党歴代もっとも左派なのが安倍政権であるのに,なにを問題視しているのか?
簡単にいえば,「アベノミクス」とは,「社会主義経済政策」そのものである,のにである.

私立の小学校のはなしや獣医学部新設のはなしばかりが議論されている国会で,なぜ野党は正面から「経済政策」を議論しないのか?
それは,おそらく,安倍政権がじつは左派政権であることを国民におしえてしまうからではないのか?だから,別の話題にするしかない.

さいきん,女性の管理職登用を義務づける法案が記事になった.
「女性活躍推進法」の改正で,中小企業にも女性管理職を義務づけるという.
これは,禁煙ファシズムにつづく政府の暴挙ではないか?
どうして,こうしたことまで政府から命令されなければならないのか?まったくわからないを通り越して,恐怖すらかんじる.

男女差別の逆差別だという指摘もあるらしいが,そんな問題ではない.
このブログでは,「賢母」について書いたが,まさに「賢母」絶滅政策であり,ひとの人生について価値観を押しつける,とんでもない発想である.

会社にはいったら,万年平社員ではいけない.
出世して,せめて管理職にならなくては,なんのための職業人生だ!
「おんな」だからといってバカにして,管理職にさせなかったのだから,強制的に管理職にさせないと,民間のバカ経営者にはわからないのだろう.

これは,上級職官僚の発想である.
「ちいさいときから勉強して,難関中の難関大学の法学部をでて,上級職の官僚になったら,管理職にはなれるけど,もっと花形の役職に就きたい.
民間だっておなじだろう.」

おそるべき多様性のなさ.おそるべき世間知らず.
ひとを管理職にするかしないかは,「資格」だけで決まるものではないと民間はしっている.
人柄もあれば,なによりも本人の希望もある.
そこには,さまざまな人生観がある.

たとえば,なんのための「派遣」だったのか?
「多様な働きかた」ではなかったか?
それを,働くひと主体でなく,いつもの通り,「産業優先=雇用主優先」で「法改正」をくり返したら,なんのことだかわからなくなって,しまいには「格差の元凶」になってしまった.

出世こそ人生の目標,というリニアな人生もありだが,それ以外の人生だってさまざまなのだ.
それを,あろうことか「強制」するということの凶暴さは,野蛮でもある.

日本国政府のこの野蛮さは,新しい産業革命を目指すといいながら,じつは「名誉革命」のタネになるかもしれない.
落ち目の国の騒乱はよくあることだが,なんという政府の傲慢さだろうか.

ステッカーをぶら下げている皆さんには,この点での活動を期待したい.

学校の民営化

「憲法」をちゃんと教えないから,「憲法」がなぜ「最高法規」なのかをしる国民が極端にすくない.せいぜい,最上位の法律だから,程度だろうが,それではたんなる言い換えにすぎない.
これは,「民主主義をしらない」とイコールであるほどに深刻なことだ.

国会での議論も,「最高法規」ということだけが前提の,まことに薄ら寒い状況なのに,国民が絶望感を持たないのは,自分たちもしらないからである.
「憲法学者」はいったいなにをしてきたのか?犯罪的な説明不足である.
さいきんでは,政府にかみついた小林節慶大名誉教授が,さらりと発言していたから,これも注意していないと気がつかなかったろう.

民主主義国家における「憲法」とは,「国民から国家・政府への命令書」である.

民主主義だから,国民主権だから,ということの証拠が,「国家・政府への命令書」としての「憲法」だ.
だから,「憲法は最高法規」なのだ.
国会の議論が薄ら寒いのは,最高法規の憲法で,国民に命令しようという「倒錯」が議論されていて,野党の反論すらなっちゃいないからである.

日本人の不幸は,「憲法」を「国民が書いた」という認識が歴史的にもないことにある.
明治憲法もしかり.
これで「法治国家」だという「奇跡」がおきている.
「倫理観の高い」役人たちが仕切ってきてくれたお陰,ということになる.

おわかりだろうか?
「国民からの命令書」ということは,憲法を守らなければならない対象はだれか?「国家」や「政府」が対象だから,すべての公務員が憲法を守る必要がある.
すべての公務員には,当然,地方公務員もふくまれる.
ただし,業務をおえると,公務員も私人の生活にもどるから,業務中の公務員,が対象だ.

つまり,業務中の公務員以外のすべての国民は,命令した側になるから,憲法を守る必要はない.
だから,一般国民にたいして「あなたは憲法違反をしている」という指摘は,ナンセンスなのだ.
憲法違反の対象になるのは,国家・政府だから,それをうごかす公務員だけである.
公務員は,出勤したら「今日も憲法を守ります」と毎日朝礼で誓うべきである.

民間で,我が社には言論の自由がないから問題だ,というのはどうなのか?
これは,憲法違反ではなく,経営上の問題である.

それで,出てくるのは国民の三大義務(教育,勤労,納税)である.
本稿では,教育について書く.

「義務教育」の「義務」は,親やおとなたちに課している.
子どもには,教育をうける権利がある.
だから,子どもにむかって「学校へ行く『義務』がある」ということではない.
不登校の子どもは,ある意味「権利放棄」をしている.

公立の小中学校の校長たちは,「学校運営」のことをなぜか「学校経営」という.
民間企業の経営問題のひとつに,「プロ」経営者の不足がある.
社内昇格だけが原因ではなく,入社後から経営陣にくわわる前までに,「経営」をまなぶことがほとんどなく,「運営」ばかりしていることを指摘したい.

だから,組織の「運営」が,いつのまにか「経営」に転換されてしまい,経営者が経営できない,という深刻な事態を生んでいる.
かれらは「運営」しかしていないけれども,「運営」しかしらないから,「経営」ができない.
ところが,不祥事は「運営」のなかで生まれるから,じつは「運営」もできていない.これは,「現場との乖離」が原因で,社内でえらくなって貴族化した結果である.

公立学校の最大の問題点は,競争がない,ことに尽きる.
簡単にいえば,義務を背負った親に「選択の自由」がないことである.
アメリカでは80年代の教育改革で,教育クーポンが活用されたという.
中曽根康弘総理が,アメリカの教育をバカにして日本の教育を自慢した時代のことだ.

アルマーニの制服が話題になった東京の公立小学校は中央区にあって,本来の学区は,ほぼ「銀座」である.
この「区」は,「特認校制度」という学校選択制がある.
都心部で,住民が減って生徒数を埋めるための策だったようにおもう.しかし,この制度ができる前は,親が銀座に勤務していれば入れたというから,他地域からの入学はかつてより減ったという.

この事例は,やはり「立地」が先にたつが,「伝統」も重要な要素だ.
卒業生の名前がすごい.北村透谷や島崎藤村,近衛文麿などなど.
どうやったら「ブランド」ができるか?の教科書のようである.

「公立」なのに「アルマーニ」と騒がれた.
だったら,私立の学校法人に売却すれば,さらなる「ブランド」事例になるだろう.
地域の子どもには,教育クーポンの発行をして引き続き入学可能にすれば不利益はなくせる.

「あの学校に行きたい.」
選ばれる学校にどうやったらなれるか?
これが「経営課題」である.
公立学校制度でできないなら,民営化するとよい.

そもそも,全国一律なのは「富国強兵」のための「文部行政」だった.
つまり,兵隊にするための教育なのだ.
いまは,「文部行政」のための「学校運営」になっている.
そこには,顧客である「生徒のため」という視点がまったくもって欠如している.

「成績がわるいのは生徒自身がわるいのだ」という価値観が常識である.
「顧客重視」ならそうではなく,「わるいのは教え方ではないか?」とまずは疑うことが重要だ.
教え方がうまい塾講師に人気があるのは耳にするが,教え方がうまい公立学校の教師のはなしは寡聞にして聞いたことがない.

公立学校の教師は,クラブ活動で疲弊しているから,教え方の研究ができないという.
それでクラス運営もできないから,イジメを見抜けなかったり一緒にイジメる.
校長や教育委員会に相談しても,なかったことにされるから,登校拒否という選択に追い込められる.
つまり,公立学校は「クラブ活動」が中心なのだ.

兵隊にするための教育に,教師たちの労働組合は反対するだろう.
しかし,「顧客重視」の教育は,教師たちの実力が問われるから,これにも教師たちの労働組合は反対するだろう.

だったら,なにに賛成するのか?
おそらく,もっとも居心地のよい「現状維持」なのだろう.これは,大企業もおなじである.
それでは,生徒はたまらない.一方は塾に行き,一方は引きこもることになった.
生徒の「権利」を踏みにじっているのは,「義務」があるおとなたちだという構図になった.

学校を民営化したら,地方だから不利だということもない.
他地域からの「留学」を受け入れたっていい.
寮をつくらずも「ホームステイ」したっていい.
外国人の生徒を受け入れていて,なぜ日本人の生徒を受け入れないのか?

そもそも,全国一律のカリキュラムの強制がなくていい.
選択の自由をいかに確保するのか?
これは,わが国には重いテーマなのである.

地元の価値がわからない

人口減少に対処するため,さまざまな「特典」を自治体の「制度」にしなければならない,という宗教的な価値観があたりまえになっている.
なぜこれが「宗教的」なのかといえば,祈りにも似た効果しか期待できないからだ.

それは,人口問題は完全ゼロサム・ゲームだと以前にも書いたとおりで,国全体で減少する人口を,移住によって増やそうとしても,それは部分でしかないからである.
さらに,地方の自治体は,移民として「(子どもがいる)若い世代」が欲しいのであって,社会保障負担が増える「中高齢世代」をあからさまに嫌がるから,年齢層による区別がおきている.

ところが,このルールとはちがう現象がおきている地域がある.
外国人の移住者の増加という現象がそれだ.
首都圏のばあい,どういうわけか不思議と東アジア系のひとたちが増えている.
これは,おおくが不法滞在からの事実上の移民だろう.

しかし,一方で,欧米系の移住者が増えている地域がある.
たいがいは,当該地域に外国人移住者の優先受け入れ制度,などはないから,どうして増加しているのかという理由すら把握できていない自治体もあるだろう.
つまり,「宗教活動」をしていないのに,「効果」があるという不思議な現象なのだ.

しかし,欧米系だからといって,かんたんにわが国へ「移住できる」というものではない.
それで,日本人との結婚や,学校の教師といったひとたちの中から「移住」希望者がでてくるのだ.
かれらには,日本文化への造詣を中心にした動機がある.

東アジア系のひとたちのばあいも,経済や自由といった,自国にはない魅力によって引きつけられているなら,自然な動機ともいえる.
そういう意味では,「難民」に近いのかもしれない.
ただし,わが国政府は,「難民」を受け入れる素地をもたないから,不法移民になってしまう可能性があり,また,取り締まるどころか生活保護の対象にもなる.

「日本の特殊性」を強調するつもりはないが,世界の「常識」からいい意味でもわるい意味でも「ズレている」のが日本だとおもうとちょうどよいのだろう.
その「ズレ具合」はひとそれぞれが感じるものだが,「地元を過小評価する」ということは強調しておきたい.
とくに,地方ほど顕著な傾向がはっきりある.

「田舎だからなんにもない」
これは,あくまでも「都会が優位である」という価値観を,そのままへりくだっていいあらわした言葉にすぎない.このときの「都会」とは,おもに「東京」をさす.

廃藩置県後であって,しかも「京」を東に移転させて,あたらしい中央集権国家としての東京になってからの価値観である.
もちろん,江戸っ子が,地方の武士にたいして「いなか侍」と思っていたのは否定できないが,それはだいぶ後のことで,江戸っ子すら田舎からの流民がはじまりである.
だから,由緒正しい地方人士は,「東京出身」と聞くと「どこの馬の骨かしれたものか」といって,その出自をうたがったのだった.

こんごも,東京一極集中でいくのか?
それとも,地方分散型でいくのか?
数年後には,おおきな決めごとをしなければならなくなった,と京都大学と大手電機メーカー日立の共同研究から導かれるAI未来予測の結論だという.

これは,どうやって食べていくのか?という選択を意味するのだが,「効率」という視点がかならず重視される.
どうやって食べていくのか?という問いに,年金受給生活ではこたえとして弱すぎる.
つまり,現役世代の生活手段ということが重要なのはいうまでもない.

すると,生活手段と生活様式は強い関連があるから,どんなふうに生きたいのか?が問われていることになる.
つまり,東京一極集中でいくのか?地方分散型でいくのか?という二者選択には,それぞれのひとの人生観が合成された選択にならなければならない.

だから,国会で多数決できるか?といえば,そうはいかないだろう.
そうなればそうなるほど,都会であろうが地方であろうが,地元の価値を知っておく必要がある.
衣・食・住に職をくわえて,かんがえる時間をもたないと,取り返しがつかないことになるだろう.

他人やAIに決めてもらうのではなく,自分でかんがえなければならないことだから,あんがい,残り時間はすくない.

鹿せんべいでおなかいっぱい

奈良といえば鹿.
1965年,吉永小百合がうたう「奈良の春日野」は,その後80年代にフジテレビのバラエティー番組で再度注目をあつめたから,記憶にあるかたもおおいだろう.
野生の天然記念物である.

春日大社の神様は,関東の鹿島神宮と香取神宮からも勧進されていて,鹿島神宮の「鹿」が,天然記念物になって生きているといえる.
わたしが住む横浜には,二箇所の春日神社がある.

ひとつは横浜横須賀道路の日野インター入口付近の山上にある「春日神社」である.
こちらは,創建が1099年とふるく,いまでも付近の旧村々の総鎮守である.
もうひとつは,かつての遊園地「横浜ドリームランド」にある,「相州春日神社」だ.
こちらは,ドリームランド開園時の創建というから,あたらしいのだが,「奈良ドリームランド」が先に開業しているから,奈良とは縁がある.
じっさい,境内には春日大社からおくられた鹿がいて,「鹿せんべい」も用意されている.

鹿せんべいは米ぬかと小麦が原料とある.
10枚がひとまとまりで販売されているが,じつは,この「せんべい」のポイントは,十字にまとめている紙テープなのである.
これには「証紙」と印刷してある.

「証紙」だから,なんらかの公の団体が関係している.
それは,「一般財団法人 奈良の鹿愛護会」という.
つまり,この愛護会の証紙のない鹿せんべいは,にせ物,ということになっている.
愛護会の収入は,この証紙からになるから,せんべい自体は愛護会指定の製造元がつくっている.

あやまって鹿が証紙を食べてしまってもだいじょうぶなように,紙の品質とインクは用心されていて,紙はパルプ100%,インクは大豆由来という.
この収入は,鹿たちの健康管理につかわれているから,安心してドンドン与えたい.
鹿は草食で,一頭あたり一日5キロほどの量の草を食べるから,鹿せんべいごときものでは,食欲に影響がないという.

ところで,このブログでも何回か触れたが,日本のおおくの観光地は外国人にとって決定的に「説明不足」という共通点がある.
これは,日本語が「空気を読む」ことを前提としていることの延長で,とくに「説明」がなくても,なんとなくやり過ごすのが日本人の特性だから,これまで問題にならなかった.

しかし,欧米の言語をはじめおおくの外国語には,「空気を読む」という態度がない.だから,ことばの構造自体が,はっきり説明することになっているから,「論理的」である.それで,こうした国の観光地では,「ちゃんと説明する」ことが常識になっている.

日本では,「通訳案内士」も国家資格であるが,これで生活できるような状態ではない.外国語を話せる人がある意味「勝手に」通訳をして料金を得ても,めったに取り締まられることはない.しかし,外国では確実にトラブルになるだろう.有名な観光地や美術館・博物館には,専門のガイドがいて,かれらに依頼しないと,依頼した側も罰則の対象になる.

日本では,「ボランティア・ガイド」が存在して,これを行政も支援することがある.外国なら,「プロ・ガイド」たちから抗議の声が役所にいくだろう.
「業務妨害」だと.
つまり,せっかくの「通訳案内士」を行政も無視している.

そこで,奈良の鹿をみてみると,鹿せんべいの証紙が「日本語表記」だけである.
この「証紙」の意味についての説明がない.
さいきんは,鹿に芸をやらせようというのか,なかなかせんべいを与えず,それで鹿から攻撃されてケガをする外国人観光客がふえたという.それで,注意書きを看板にしたというが,この看板が「読める大きさ」か?

課題はいくらでもありそうだ.
最新のニュースでは,鹿が鹿せんべいを食べなくなった,というものだ.
日本の修学旅行が,奈良・京都からはなれて久しく,閑散とした奈良公園が,外国人観光客という救世主によってあふれている.
それで,想定外の鹿せんべいが与えられて,とうとう鹿が飽きたようだ.

すると,もう一つの懸念は,観光関連業がむかしからの「掠奪産業」にならないか?というものだ.
外国人観光客という「鹿」が,それそれとばかりにつまらないものを掴まされると,いまは一気にSNSで拡散する.
それで,外国人観光客の「忌避地」になると,目も当てられない衰退がやってくる.

どうぞ,正直な商売を.

「第三者委員会」をゆるす株主

これだけ世の中に「不正」がはびこると,「不正」の重みも軽くかんじてしまう.
役所も民間も不正がばれると,「第三者委員会」なるものがたちあがる.
あたかも「中立の他人」です,という風情だが,このひとたちを臨時雇用したのは役所や会社だから,費用は税金だったり会社の経費になる.

「組織統治ができなかった」ことで発生するのが「不正」だから,民間なら経営者がその責任を負うのが当然であるが,またぞろ自分たち経営者が招集した「第三者委員会の結論を待つ」などと平気の平左で発言して,だれも変だとはいわないおかしさができた.

国家公務員や地方公務員の不正は,それがあきらかになれば即「事件」であるが,こちらもだいぶ緩やかで,首相や首長の責任論でごまかせる様相がパターン化されつつある.
教育委員会という行政組織での「不正」は,役人が役人の不正に頭をさげていて,首長が他人を演じられる便利さまで明らかになった.

国のばあいは,もう政権を二度ととるつもりがなくなった「野党」のおかげである.もし,政権交代を真剣にかんがえる政党ならば,こんなインチキ公務員たちが跋扈していたら,自分たちの政権でも不正をするだろうから,首相の責任論で押し通す愚はできない.

「第三者委員会」の「委員」には,弁護士が選ばれることがおおい.一般に「有識者」といっていたが,「有識者」の「識」に国民が敬意をはらわなくなったから,国家資格でいちばん難しい「弁護士」をあてれば,なんとなく説得力があるはずだ,ということだろう.
それで,どんな人物なのか?よりも「弁護士」という資格が前面にでたのはいいが,いかんせん肝心の「委員会報告」の内容がショボいものばかりとなった.

これは「弁護士」という看板を守る側の沽券にかかわるから,あの日弁連をして「第三者委員会のガイドライン」をつくるはめになった.
それで,この「ガイドライン」に沿ってやればよかろう,というのだが,「沿ってやってます風」ばかりで内容がやっぱりショボい.

それはそうで,「第三者委員会」の雇い主は会社の経営者だから,弁護士としてはクライアント先を守るのが本業という,ごく当たり前の態度になった結果だろう.
それではやっぱり沽券にかかわるから,「第三者委員会の評価委員会」というのができた.こちらは,なんと「無報酬」である.

A~Fまでの6段階で評価する.
これまでに主だった事案を評価したが,A評価はゼロ,Bすらみあたらない.
そして,評価者の名前と評価点も公表している.
つまり,「無報酬」のこの「評価委員会」がもっとも信用できるというさまになっている.

そこで,思うのだが,経営ができなかった経営者が会社のお金で雇うのではなくて,株主が「第三者委員会」を立ち上げなければいけないのではないか?
すると,委員会立ち上げのための事務局は,監査役になるのではないか?
こうしてみると,日本企業における監査役が,あまりにも無役・無力なのがわかる.

その意味で「不正」した企業の監査役が,本来はもっと糾弾されてしかるべきで,そうやってものを言える監査体制がつくられることになるのではないかとおもう.
でなければ,株主から監査役廃止論がでてもよさそうだ.
このように,株主が「第三者委員会」を立ち上げれば,その結果,経営者の無能が明らかになったところで,きちんと解任も,提訴や告訴もできるだろう.

さて,以上のはなしのなかに,ルールをつくってもうまくいかないことが組みこまれていた.
「ガイドライン」があっても,なかなかその通りにはいかない.
これは,そのまま公務員にあてはまる.

とくに,「キャリア職」で採用された一般に「官僚」と呼ばれる上級職公務員には,ほとんどリスクがないし,組織内で「ガイドライン」を策定する側になる.
だからよほどの「倫理観や使命感」がないといけないようになっている.
ここに問題の本質がある.

個人の「倫理観や使命感」に依存した組織は,組織ごと腐る可能性が高くなるからだ.
下級武士がつくった明治政府は「幕府」の復活をなによりもおそれた.
それで,上士(位の高い武士)に後ろ指を指されることがないように,高い倫理観と使命感で新政府をつくった.そして,これがいつしか「建前」になった.

本質的に,わが国の官僚制は,明治政府を継承している.その証拠に,敗戦で責任をとった軍人や政治家はいたが,官僚はひとりもいない.
つまり,この「建前」があるかぎり,高級官僚はどんなに傍若無人なふるまいをしてもゆるされる,と勘違いするのである.

法治国家の官僚には,この「建前」は必要ない.
だから特権もない.
だったら,だれも官僚になんかなりたがらなくなる.
それでいいのである.
優秀な人材は,官ではなく民にこそ輩出しなければならない.

そのためにも,まず「第三者委員会」は,株主が立ち上げなければならない.

ぬるい温泉が人気

銭湯で熱い湯に水をいれると怒るひとがいたりするから厄介だ.
水温計が50度を示していることもある.
源泉の熱さで有名な,群馬県草津温泉でも,湯もみで48度にして,それでも湯長の号令で入浴する時間湯があるくらいだから,監視人がいない50度の湯への入浴は危険ではないかとおもう.

熱い湯に浸かるのは,ある意味精神統一がひつようだ.
「心頭滅却すれば」の心境になれる,というメリットはあるだろう.
緊張で頭がスッキリすることは,あるかもしれない.
しかし,「過ぎたるは及ばざるがごとし」であって,けっしてくつろげないのは確かである.

数年前から「人工高濃度炭酸泉」が人気になった.
炭酸ガス,硫化水素の二種類が,人体に皮膚から影響をあたえる気体で,どちらも「毒」だから,皮膚呼吸がとまる.人体はこれではいけないと,全身の血管が毛細血管まで開いて肺からの酸素を届けようとするメカニズムがはたらくという.
これが,血管の運動になるから,高血圧などによいという.

それで炭酸ガスボンベから,こまかくしたガスを湯に溶かす方法がかんがえられた.
病院でも,高濃度炭酸泉が治療につかわれている(医療点数がつく)から,スーパー銭湯から採用され,いまでは街の銭湯でも珍しくなくなった.
炭酸ガスが皮膚に無数の気泡をつける.これが,皮膚の感覚器を刺戟するから,2度ほど高く感じるという.だから,40度を適温とすれば,高濃度炭酸泉は38度でよい.

おそらく,温浴施設のなやみは,人気の高濃度炭酸泉の提供者からみたコスト・パフォーマンスだろう.
炭酸ガスは高価である.だから,おおきな浴槽を用意すると,コストがかかる.
一方で,加温するのに2度低く済むというのは,光熱費では助かる.
利用人数と,浴槽の大きさ,温度,という連立方程式を解かなければならない.

温度を上げれば,利用者が多くても熱くなって回転がいいが,長時間はいっていたい利用者は不満を感じてしまう.
温度を適温にすれば,利用者の回転が悪くなるから,浴槽を大きくするひつようがある.
水光熱費は温度を下げた分たすかるが,浴槽が大きくなった分での比較と,炭酸ガスの使用量を比較して,それと利用者の満足度の関係はどうか,をかんがえることになる難しい問題だろう.
しかし,数ある温浴施設からリピートされて選ばれつづけるようにしたいのだから,この関係式にはさらなる検討項目がふえることになる.

この,温度を下げて長時間はいる,ということに注目したのが「無感風呂」だろう.
体温とかわらない温度の浴槽だ.
これは,はじめ冷たく感じるが,そのうち「無感」になって,いくらでもいられる.
長時間であるから,湯上がり後のポカポカ感は,これも長時間続く.

それで,むかしからあったのだろうが,このところ「ぬるい温泉」が人気になっているようだ.
ぬるいから,長時間はいっていられる.
時間があるひとにはちょうどいいだろうし,からだにもムリがかからない.
ところが,「ぬるい温泉」は,入浴専用施設であることがおおい.つまり,「宿泊できない」のだ.

仕方がないから,ビジネスホテルに宿泊して,また「ぬるい温泉」にいく.
こうして,ビジネスとは関係ないひとたちが,「温泉」を楽しむために別の場所に宿泊するようになっている.
移動は,自動車だから,離れていてもそんなに気にならないのも加わる.

温泉宿に,あらたなライバルが現れている.

ラテン語教育がはやるヨーロッパ

「EEC」から「EC」になって,とうとう「EU」になったヨーロッパ.
最初の「E」はぜんぶ「Europe」の「E」だから,そんなにかわったようにはみえないけれど,次元がちがう変化をとげたといっていいだろう.

「EEC」がはじまる前から「懸念」し,「EEC」ができたら,悪い意味でまだできてもいない「EC」の失敗の方向性は「EU」だと論破して,1993年11月のEU発足直前,92年3月に死去したのがハイエクだった.死去一ヶ月前に欧州連合条約が締結されているから,死んでも死にきれない想いがあったかもしれない.

その意味で,EEC発足以来,ヨーロッパはハイエクの主張をことごとく否定してきた歴史になっている.
「それでも地球は回っている」と言ったというガリレオの名誉が回復されたのは,同じく1992年のことで,それは「ガリレオ裁判」から385年が経過したのちのことだった.

ハイエクは,EU失敗の経路とその理由を書き残した(失敗を決めつけていて,その理由を示した)ので,ガリレオより早くに名誉が回復することだろう.
実際に,ほとんど「予言」のごとく示し的中しているから,当事者の焦りは尋常ではないはずで,さらなる間違いの深みにすすむから悲壮感さえある.

それが,古代ローマ帝国の公用語だった「ラテン語教育」にいきついたのだろう.
もともとラテン語教育はされてはいたが,現代ヨーロッパのよりどころとしてのラテン語になっているそうだから,おそらくEUの不振と無関係ではないだろう.

最大の難事は,共通通貨「ユーロ」をどうするか?である.
ギリシャ危機や,イタリア,スペインの経済危機も,「ユーロ」の矛盾がうみだしたものだ.
これら経済弱者にとっては,自国通貨より信用のある「ユーロ」は実力より背伸びができるし,ドイツのような経済強者にとっては,自国通貨より安いから輸出に有利である.

だれにとっても「有利」にみえるが,それは錯覚にすぎない.
ヨーロッパというエリアでの各国貿易にもどしてかんがえれば,通貨安で輸出に有利なドイツ,通貨高で過剰消費ができたギリシャとすれば,構図はわかりやすい.
だから,ギリシャ人はドイツ人に儲けた分を負担しろと要求し,ドイツ人はこれ以上面倒見られないと突き放している.

ハイエクは,「もしEUが発足したら,かならず統一通貨を模索し,統一通貨のための中央銀行をつくるだろう.そして,安定しない通貨価値の維持のために中央銀行はさまざまな権限をつくり,それを強力に実施するはずだ」と,歴史はそのとおりになった.
それで彼は「貨幣論」で「通貨発行自由化論」を提唱した.IT技術で通貨をだれでも自由に発行して,競争させればよい,と.これは,さいきんのFinTechのことだ.さすが,インターネットによる「知識分散型社会」を「予言」したひとの頭脳は,おそるべき先見性がある.

サッチャー政権以来,ハイエクに学んだ英国は,とうとう「ユーロ圏にはいらない」ままEUからも脱退する.
その意味では,筋金入りのハイエク主義だ.
ドイツとフランスにしか有利でないEUの本質をみれば,島国の英国は離脱に有利な立地だ.
しかし,その英国にしてさいきん,ラテン語教育が一部の有名校でみなおされているというから,これは英国からみた「舫い綱」なのだろう.大陸とのあきらかな温度差がそれをしめす.

ひるがえってわが国は,教育委員会という官僚組織が存立理由をわすれた不始末をしながら,一方で,「超教育協会」が設立された.
協賛企業は300社ともいわれるように,かなり影響力がありそうな団体である.
こちらは,設立趣旨に,「第四次産業革命」がある.つまり,ITの専門家をどうするか?
それは,このブログでも書いた,「未来投資戦略2017」を踏襲しているということでもある.

「EU」をなんとか維持したいドイツ・フランス中心のヨーロッパが仕組む「ラテン語教育」に対して,わが国の英知とトップ企業が仕組む「IT教育」の対決だ.
ハイエクには悪いが,「ラテン語教育」の格調高さに,なんだか共感してしまう.
哲学ではなく「機能」に向いてしまうわが国の「薄さ」こそ,焦りの反映なのだろうか?

スエーデン元首相のカール・ビルト氏が寄稿した記事のような,知見を披露する政治家も,それをもとめる国民もいない日本は,これからどうなるのだろうと不安を感じるのはわたしだけではあるまい.

科学実験番組の過小演出

放送法改正の議論があったりなかったり,「地上波」という国民の財産を例によってもてあそぶ議論がかまびすしい.
「ラジオ」ができたときは,ラジオ受信機を持つことがステータスであったろうが,物理原理の「エントロピー」のように,かならず広がって「コモディティ化」するから,いまどきラジオが買えないひとはいない.

しかし,ラジオをいつでも買えるからといって,持っているかといえば,あんがいラジオを持っていないひともいるだろう.
あたりまえすぎると,とくに欲しくないし,そこから鳴ってくる音(これが欲しくてふつうはラジオを買う)に価値をみいださなければ,「不要」という結論になる.

まったくおなじことがテレビ受像機(NHK的には「テレビジョン」といったが,さいきんの劣化したNHKは「テレビ」という)にもおきた.
日本経済の不況を救おうと,かならず姑息なことをかんがえる政府は,家電の「リサイクル」を公式に「有料化」したうえ,買い換える理由をデジタル化でむりやり作り,さらに「エコポイント」で補助金をばらまいて,麻生政権から民主党政権も引き継いだ.

それで,なかば強制的な買い換えが一巡すると,おそるべきテレビ不況がやってきた.
こうして,政府の介入が経済に不都合をもたらすのだが,強欲な国民はもっとよこせと要求する.
ところが,財源がないから無い袖は振れないということで,メーカーは自主的にテレビを4Kから8Kへと「技術的進化」はさせたものの,番組(コンテンツ)の劣化がはげしいから,だれも観ないということになった.

「東芝劇場」や「ナショナル劇場」のように,メーカーが人気番組をつくってそれを観たいひとたちがテレビを買う,ということをしなくなったのは,つまらない番組ばかりをつくるNHKのせいだ,とはいえなくなったから困りものだ.

高額所得者がとくにテレビを観なくなったので,テレビの作り手がさぐったマーケット(視聴者)調査の結果から,かつて「ゴールデン」と呼ばれた時間帯にも,パチンコなどのギャンブルと消費者金融のCMが進出した.
これらの業界のCMは,かつては深夜帯だけにかぎられていたが,背に腹はかえられぬ.

それで,高額所得者がさらにテレビに嫌気をさすという負のスパイラルがうまれた.
地上波がアナログだろうがデジタルだろうがそんなていたらくだから,高額所得者はどうしているのかといえば,ネットの動画を好きなように検索して観ているか,定額払いを自ら申し込んでいるのだが,プライム会員なら無料という本当は有料のアマゾンTVが人気なようだ.これは,年会費を支払うと書籍の送料が無料になる,というサービスからスタートしたから,元々の会員からすれば,事実上無料にみえる.

つまり,視聴者は価値をみとめれば,「有料」でもいいとおもっているから,強制的に徴収されるNHK受信料の問題とは,「価値がない」とおもっているひとが払わない・払いたくない,という原点にいきつくのである.だから,NHKは,価値がある番組をつくって放送すれば,受信料の問題で悩むことはない.

そのむかしは,リーダーズダイジェストがアメリカ文化を紹介するメディアとして有力だった.
いまは,地上波ではやらない,アマゾンTVでアメリカの人気番組が事実上無料で視聴できるから,価値がある.
たとえば,リアルな社会派ドラマで人気をはくした「ホームランド」は,絶体に日本人の発想ではつくれないだろう.

そんななかで,地味だが興味深いのは科学実験番組「雑学サイエンス」である.
材料の意外性と科学という組合せで,一般人が素直に驚き感心する姿は,なかなか日本的でない.むしろ,日本の番組なら一本の実験だけで特番枠ぜんぶをつかいそうな大規模な実験を,ものの数分で終わらせ,つぎのテーマに移行することに驚く.
なんと贅沢な.

それにしても,この番組の進行役は英国人である.
アメリカで英国人が,ちょっと上から目線の言い回しで,「ほらね」とやる.
それで,ちょっと田舎くさいアメリカ人が感心するのだから,大英帝国も健在である.
実験前の予想選択肢に,「該当なし」があるのもよい.

英米人の発想が,大胆さと,日本なら過小演出になる淡泊さで表現されている.
そして、なにより,人間らしい人間が観客である.
こうしたひとたちが,日本を観光している,とおもうと,なるほどとおもうことがある.