漁協レストランに行ったら

春の風にのって,たまにはどこかにでかけよう.
それで,ドライブがてら「漁協レストラン」にいってみた.
「漁協」だから、ふつうの飲食店とはおもむきがちがうのは予想どおりなのだが,ちがいすぎた.

ランチの定食を二人で食べたら,6,000円を超えた.
もちろん,味は「さすが」である.
とくに魚の味は,格別であったことはいうまでもない.

しかし,どこかがちがう.
それは,価格とサービスが一致していないことだ.
つまり,とびきりの「魚」だけが強調されてはいるが,それ以外が欠如している.
「商品」としてかんがえている姿ではない.

これは,かつての「工業」に似ている.
「いいもの」であれば「売れる」という発想そのものだ.
しかし,VHSとbe-taの闘いがそうであったように,工業の世界は,とっくに「いいもの」は「売れる」という発想を捨てざるをえなかった.

しかし,だからといって「工業」が順調なわけではなく,むしろ苦悩はつづいている.
「顧客志向」を見失ってしまったからだろう.
それは,「顧客側」の変化である.
かんたんにいえば,同じ価値観の「顧客」のおおきなかたまりが,なくなってしまったのだ.

大量生産におけるコスト・メリットに固執すると,それを消化できるおおきなかたまりが不可欠だが,国内にそんなものはもう存在しない.
では,海外はどうかといえば,現地生産など直接生産をしないと,かんじんのコストがもはや見合わない.
それで,「顧客」がだれだかわからなくなってしまった.

このレストランの「発想」も,「いい魚」をだせばよい,から抜けきれない.
その「魚」の価値があがってしまった.かつてのように「獲れない」からだ.
だから,「原価」から単純に「売価」をきめると,一人前3,000円以上の「定食」になる.
そんなにするのなら,お茶,ごはん,みそ汁,漬物といったパーツをどうするのか?
それに,案内方法,店内内装といった雰囲気作りはどうするのか?

これらが,まったく考慮されているとは思えない.
「この商売はなにか?」
いまや結果的に,上から目線になってしまっているのだ.

こうした「店」が,各地に存在する.
反面教師として,参考になる.
「漁協」ならではの店である.
しかし,「農協」も似たようなことをしているから,「漁協」だけのことではない.

個人経営だったら,おそらく存立しないビジネスモデルである.
存立しないものが存立している.
ここに,この国の「文化」がある.
残念な「文化」のひとつのである.

雪のお彼岸に経済をかんがえる

記憶というものはあいまいだから,本来はデータをみるべきなのだが,春のお彼岸に雪をみたのははじめてのような気がする.
今日,横浜に雪が降った.
珍しいこと,から連想したら,「内部留保課税」のことをおもいだした.

むかし,会社員だった頃,労働組合から新規出店の資金を「内部留保」からつかわないのか?と指摘されて,これに反論する経営側のメモをかいたことがある.
世間の,「内部留保課税」についての論調は,賛成と反対があって,与党は,「二重課税」としてこれに強く反対したと記憶している.

ここで,「二重課税」とはなにを指すかといえば,企業は「所得」にたいして「法人税」をはらう.はらったあとの,「税引後利益」から,役員賞与や株主への配当が支払われるしくみになっている.それでも「余った」ら,これを「内部留保」として,「資本」にくみこまれる.
だから,法人税を一回はらっているのに,また課税されたら「二重課税」になる.

ほとんどウソかいいかげんで適当なことしか言えない「素人」を,コメンテーターとして出演させ,それらの発言を大量にたれ流す,ワイドショーという「ショー(見世物)」では,「庶民感覚」というあいまいな「感覚」を「正義の御旗」にみたてるものだ.
そのなかで,「内部留保」は「企業がため込んだ余分なお金」と決めつけていたのが印象的だった.

だから,「二重課税」であろうが,「内部留保」に課税するときめれば,企業はいやがって社員の給与をふやすか,配当をふやすことで「内部留保」をすくなくするから,視聴者の主婦に淡い期待をもたせて,さらに会社にたいする不信感をあおるのだ.
この,「不信感をあおる」というのは,全体主義の恐怖をえがいたジョージ・オーウェルの代表作「1984年」にある,「二分間憎悪」とおなじである.

 

ところで,与党の「二重課税」だから反対と,上述のワイドショーの賛成とでは,論点がまるでちがう.
しかし,与党の議論も,「損益計算書」をつかった,売上-経費=利益,という枠でのはなしであるから,「内部留保」は「利益」というあつかいに近い.

みずから麻生セメントという会社の社長だった,元総理にして現財務大臣のひとは,ときたま変調をおこして,「企業は内部留保を減らす必要がある」などということを口にする.
みずから内閣をひきいた総理経験者が,べつのひとの内閣で大臣をやる,というのは「降格」みたいだが,意気あってやる,というならそれは国民のためになる.

「内閣総理大臣」の法的位置づけが,ほとんどなかった明治憲法下,生涯に50回以上もの転職経験がある経済人の高橋是清が,総理経験者にしてのちに大蔵大臣になったのだが,すばらしい成果をだしたから,いまのひとにもそれなりのプレッシャーがあるとおもうのだが,元オリンピック選手の心臓は,そんなものではないのだろう.

ちなみに,晩年口述筆記したという,「高橋是清自伝」は,あの「フランクリン自伝」をはるかに凌ぐおもしろさである.とくに,政府役職につくまえの「上巻」は,へたな小説以上の数奇な人生がえがかれているから,わかいひとにすすめたい.

  

マンガばかり「読む」から,かんじんなときに漢字が読めなくて,結局のところ総理でいられなくなった.このときも,マスコミは「二分間憎悪」をたれ流したのだが,祖父の吉田茂がかいた回想録もろくに「読ん」ではいないだろうから,だれかはやく「まんが よしだしげるかいそうろく」をかいてあげてほしい.

さて,「内部留保」のはなしである.
ちゃんとした経営者なら言わずもがなであるのだが,損益計算書は「税引後利益」をもって,「貸借対照表」と連結している.それで,「貸借対照表」の「資本」にくみこまれるのだ.
この,「資本」という文字をみたり聴いただけで,「資本論」にあたまが行ってしまうひとたちがたくさんいる.それで,血が騒いだりするのだろう.

だから,すっかり「貸借対照表」の「資本」にくみこまれる,ではなしが完結してしまうのだ.
「複式簿記」の「複式」が,興奮状態ででてこない.
「資本」に組みこまれたのなら,「資産」のほうはどうなっているのだ?をわすれるかわすれるふりをする.

「内部留保」が,「現金資産」(だけ)になっている,と思い込んでいるなら,それはかなり単純なひとだ.
ほんとうにここでドラッカーをだすまでもないのだが,「すでに起こった未来」で,「利益など存在しない」といいきっている.

「内部留保」の勘違いは,損益計算書への依存からはじまる.

ペットの犬は使役犬にならない

おなじ犬種であっても,家庭のペットとして育った犬の子は,おどろいたことにもう猟犬にはならないという.
これは,ひとりの人間が過去に,好みの犬種をつくった,ということからもうかがえる.
つまり,ひとの一代で犬の数世代をかければ,あたらしい「犬種」ができるのだから,わずかひと世代でも,「進化」や「退化」をしてしまうということなのだろう.

だから、たとえば「猟犬」なら,「猟犬」の子をわけてもらって育てることが重要になる.
おなじ犬種でも,けっしてペットショップで販売されている犬を「猟犬」にすることはない.
「経験者」の談によると,闘争本能が退化して,猟場においてどんなに訓練しても,おはなしにならないという.

どんなふうに「おはなしにならない」のか?
それは,圧倒的に体力の差であらわれる.
日本の猟場は,ほとんどが人里離れた深い山林であるから,山谷を駆け上ったり駆け下りたりと,それはハードな運動量が要求される.
一度家庭犬となった犬の子は,その運動能力が,すさまじく退化してしまっているという.

猟師は,猟をビジネスとしてかんがえる.
猟犬がいなければ「猟」にならない.
しかし,猟犬はけっしてペットではない.
だから、猟犬の維持費(おもに食費)はできるだけ削減する.それで,はげしい運動能力をやしなえば,肥満になる犬などいない.

猟犬の犬種である家庭犬が,老いると腰が抜けて歩けなくなったのを見かけることがある.
それは,山谷を駆け巡ることがなかったために,つくべき筋肉が若い時期につかなかったことが原因になるらしいから,気の毒も二乗になる.

猟犬が老いると,もう猟にいけない.
これは,猟師にとっては価値のないコストばかりが発生することを意味する.
だから,家庭犬としてほしいひとが見つかれば,躊躇なくひきわたすという.
しかし,引き取り手のない元猟犬は,コストばかりがかかるのを承知で最期まで面倒をみる.
猟師は,パートナーへの責任とこころえている.

中年をすぎた猟犬のメスが,体力なく数匹しか出産せず,また自身の乳の出がわるいと知ると,子犬をみずから食べてしまうという.
わが子を喰らう「魔王」のはなしは,ここからでたのか?
しかし,これは,犬の価値観における究極の愛情なのかもしれない.

授乳期の子犬は,母犬の乳がなければ生きられない.
それを放置すれば,ただ天敵そのたの餌食になるか腐敗するだけである.
もし,腐敗となれば,群れで生活する犬たちのねぐらが敵にばれる.
群れの安全確保と,自分の分身を自分で始末するその態度は,野生ということばだけで表現できるものなのか?と.

水戸黄門の黄門役ですっかり好好爺の印象が焼き付いた西村晃の主演映画に,1982年作の「マタギ」がある.
子犬の愛犬が,マタギ犬に成長する物語が補助線となってえがかれている.
ここにも,ペットではない犬がいる.

すると,ほんらい犬は使役犬だったことに思いあたる.すべての犬の先祖はオオカミだ.
家の中で人の子以上に過保護にくらすペットという使役の役回りは,犬にとって,もしかしたらもっとも過酷な使役なのかも知れない.
それで,犬がノイローゼや統合失調症を発症するのだと理解できた.
「魔王」は,やはり人間のほうなのだろう.

マニュアルを参照

「マニュアル」は役に立たない,という常識がまかりとおっている.
ほんとうに,そうだろうか?
では,「マニュアル」とはなにか?をいえるのか?
残念ながら,おおくのひとが勘違いしている.それも,おおきな勘違いである.

さぁこれから「業務マニュアル」をつくりましょう.
となったとき,かなりの企業組織で,「現状の仕事のやり方を書き出す」作業をはじめてしまう.
ところが,現状のやり方では,それなりのクレームやミスが発生しているだろうから,それを「業務マニュアル」にしてしまうと,現状のクレームやミスがそのまま再現されることになる.
これでは,なんのためにマニュアルをつくるのかわからない.

だから,「マニュアル」は,現状の仕事のやり方を書いたものではない.
「現状でかんがえられるもっともうまいやり方」を書いたものが「マニュアル」である.
すると,マニュアルの前提には,理想の姿があるのだ.
その理想の姿にするための方策が,マニュアルの本質になる.

どんな業務でも,開始と同時に時間のながれにのっていく.
そこでは,数々の業務ルールの発動があり,経過のチェックポイントを通過するたびに,業務内容の確認がおこなわれ,理想とのギャップが発生していれば,これを修正するというサブ業務ルーチンにむかうようにする.これで,業務の結果品質が守られる.

以上の「ながれ」は,どの産業にもあてはまるから,ものをつくらないサービス業でも逃げられない.「サービス」も,時間のながれにのっていくから,むしろチェックポイントをつくることから難易度がある.
それで,これまではその難易度がひくい工業でさかんに研究された.サービス業では,難易度の高さゆえに,ないものとしてあつかわれたのではないか?

「脱工業化」という,工業からのサービス業への進出は,ものづくりがものづくりだけで生きていけなくなったことからはじまる.
つまり,工業をやめたのではなくて,すそ野にこそ価値があることに気がついたのだ.
それを,「スマイル・カーブ」という図で表現している.

人間が笑っているような図になるから「スマイル・カーブ」という.
70年代にはやったマーク「スマイル」の,凹形をした口にあたるカーブだ.これが凸型になると,怒ったような図柄になる.
左右の端が高く,真ん中にむかって低くなるのは,左端が「企画」や「設計」で,右端が「アフターサービス」をしめす.低い中心部は,「製造」にあたる.

製造業で,もっとも価値が低いのは「製造」になってしまった.
宿泊業なら,「客室清掃」にあたろうか.おおくの宿は,この業務を他社に委託してしまった.「してしまった」というのは,本質をかんがえずに,とにかく業務単価をさげたという意味だ.
その証拠に,委託契約に「業務仕様書」すらないことがあるのでわかる.

どんな製品をつくるか?の「企画」や,技術や洗煉されたデザインを詰め込んだ「設計」,そして,つぎの商品企画のための情報収集をふくめた「アフターサービス」こそが,価値の源泉になったのだ.これを実践しているのが,アップルであり,日本ではキーエンスである.

「清掃業務仕様書」が,受託先清掃会社の原本のままという事例をなんどもみたことがある.
これでは,「企画」も「設計」もない.丸投げである.
「客室」という宿泊業にとっての主力商品の製造が,他社に丸投げで平気の平左でいられる神経がわからない.

工業側が,これらの価値の高いしごとはなにか?とかんがえたら,じつは「サービス業」に似ているどころか,サービス業とかわらないことを理解した.
それで,工業のひとたちが,サービス業への進出ということになって,「マニュアル」の問題に気づいたというわけである.

しかし,かんじんのサービス業側がこのことにまだ気づいていない不安がある.
おそろしいことに,そのことが人類史に汚点をのこす甚大な悲劇をつくりだしてしまった.

福島第一原発事故である.
スリーマイル島事故の真摯な分析からつくられたマニュアルが,福島にもあった.
発電所の所長以下の現場,東電本社,原子力保安院,経産省本省,内閣官房,国会,そして学会などもろもろ,これら関係者全員が,その「マニュアルを参照しなかった」のである.

このにわかに信じがたい現実を知った,福島から東京に避難している知人が,全国の有権者,最低でも福島県民の成人全員に,政府あるいは東電は復興費からわずかばかりのお金をさいて,つぎの図書を配付すべしと小さな声で主張している.
齊藤誠「震災復興の政治経済学」日本評論社(2015)

「マニュアルを参照」できないと,たいへんなことになるばかりか,この本で指摘されたことを,反省すらしないのなら,それは人類にたいする確信的敵対行為である.

25年間も復興増税されているのだから,当然に全国民に配付すべしとおもうのだが,待っていても政府はなにもしないから,支援金を寄付するつもりで上述の本は読むべきだろう.

ポイントカードはお好きですか?

個人的な好きと嫌いでいえば,嫌いである.
個人商店で好みに合致する商品がある店なのに,ポイントカードがあるとがっかりする.
全国的なチェーン店だと,ポイントカードではなくてプリペイドカードのばあいもあるから,財布の厚みはそれだけでも増す.

これに,クレジットカードも,企業チェーンや系列での利用のために発行されている.
だから,いつのまにか,財布は紙幣ではなくてプラスチックのカードによって占拠されてしまうことになった.
スマホのアプリとしてこれらが進化しているというが,決済のおおくを現金にたよる国だから,財布を忘れると身動きがとれない.

それで,たまに財布のなかのカード類を抜いて薄くする.
ところがどういうわけか,ふだんいかない店のポイントカードを抜くと,その店に立ち寄ることがある.
そして,レジでの支払にポイントカードがないと気づくと,妙に「損をした」気分になる.

だから,最初からポイントカードをもらわないように努力する.
「ポイントカードはお持ちですか?」
「いいえ」
「おつくりしましょうか?」
「いいえ」
「失礼しました」と口で言っても,なにか不思議そうな態度を店員さんはとるものだ.
そんなにおかしいことなのだろうか?という気分になることも嫌いな理由のひとつだ.

そもそも,なんでポイントカードを発行するのか?
スーパーマーケットのばあいは,顧客が購入した商品のデータを得るためのものだった.
だれが,いつ,どんな商品を,何個購入して,どのくらいの金額をつかっているのか?
これで,店舗全体というおおきな枠でABC分析をするのとはちがった細かさで,顧客の購買行動をしることができた.

たとえば,店舗全体で分析すれば,月間で数個しか販売実績のない商品は,取扱商品から排除されるのがふつうだ.
ところが,この商品を購入しているのが,その店舗での購入金額トップクラスのひとだとわかれば,排除してしまったらそのお客様まで来店しなくなるかも知れない.

こんな重要なデータを,ポイントカードという媒体をつうじて店は得るのだから,そのデータの購入料として買いもの代金の数パーセントをお支払いする,というのが本来の趣旨だった.
それは,消費者サイドからみれば,ポイントカードを見せると数パーセントの割引がもらえる,ということになっていた「だけ」である.

この「だけ」が,ひとりあるきしだして,なんだかわからないがスタンプを貯めるとなにかもらえるようになる.
店側は,どんな情報を得たのかさえもないから,「ただ」の割引でしかない.
こうして,所得が店から客に移転する「だけ」になった.

ただし,客側はいつつかうともしれないポイントカードを,つねに携行するという手間をかけなければならない.
だから,客は客なりにその面倒さというコストを払っているから,ポイントによるメリットは当然のものとなった.要は,ありがたくない,のだ.

貧しいはなしである.
上記の「貧しい」とは,貧乏ということではない.
発想の貧しさのことである.
なんのためのポイントカードなのか?ということをかんがえることをやめた,発想の貧しさのことである.

やっぱりポイントカードを好きになれない.
嫌いなのだ.

部下は自分の鏡である

「子は親の鏡」という.それで.いよいよとなると,「親の顔をみてみたい」になって,恥をさらすのは,やっぱり親だ.
GHQの一員としてよばれて来日し,いまの労働法の基礎をつくった,ヘレン・ミアーズが書いた「アメリカの鏡・日本」は,ニッポンという子の親がアメリカだという立場でかいたが,マッカーサーは,この本を「日本人に読ませてはならない」として,日本語での出版を発禁にした.

日米は,黒船から断絶していたのではなく,マッカーサーによって断絶してしまったということがわかるから,いまの日米をかんがえるときの基本としても読める.
日本は,「親」から見捨てられた「不肖の子」であった.

企業において,部下を育てる,というテーマは,ふつう上司の仕事として認識されている.
だから,経営者は使用人である幹部従業員を,幹部従業員は中堅従業員を,中堅従業員は新入社員を,というぐあいにピラミッド構造を地でいく順位で面倒をみることになっている.
すると,いちばん問題なのが,経営者はだれに面倒をみてもらうのかがはっきりしない.

まず,この順番が正しいとすれば,経営者の面倒をみるのは新入社員がのぞましい,ということになる.
本来,経営者は会社全体の面倒をみなければならないが,そうはいかない,というなら以上のようになるだろう.

接客業において,おおくの企業はものすごいことが「常識」になっている.
それは,お金をくれる「お客様」の接客をするのが,新入社員とその先輩たちという,社歴がみじかいひとたちばかりが「兵隊」として存在するのだ.
かんたんにいえば,素人をお客様にあてがって,それでよしとしているのだ.

こうした業界の常識に異議をとなえたのが,いまではすっかり「古典」あつかいになっている,「逆さまのピラミッド」である.

この本は,当時のアメリカで,「サービス革命を引き起こした」といわれるものだった.
いまのアメリカでも,この本の影響力はつよいのではないか?
しかし,日本ではあまり高い評価はされなかったかもしれない.
「なんとなくピンとこない」というのが,一般的な感想だったと記憶している.

おそらく,日本の読者はいまでも「ピンとこない」かもしれないが,その前に,サービス業従事者の読書嫌いも半端ない状態だということは認識しておきたい.

この本が,日本で「ピンとこない」といわれる理由はかんたんだ.
日本人のはたらきかたは,「集団主義」といわれて久しいが,その「集団」が,組織だっていないという特徴がある.
つまり,「なんとなく組織」なのである.

「フラットな組織」といえばそうなのだが,もっとも重要なことは,仕事のやり方のなかにふくまれる数々のルールが不明確なのである.
だから,仕事にムラができる.
しかし,これを,経営者も放置するから,組織の意思疎通が苦手という組織になる.

もっとも,読書嫌いなサービス業従事者には,経営者もふくまれる.
製造業では大変な効果をだした,TWI(Training Within Industry)という現場責任者向けの研修をほとんどのひとが知らないだろう.
これは,現場責任者が後輩を教育するための「研修」である.

欧米は,人種も言語もバラバラだったから,意思疎通に苦労した.
そこで,仕事のルールを明確にするという努力がなされた.
日本は,これらの問題がほとんどないから,「有利」だとされてきた.
ところが,個人の価値観が「発散」する時代になって,この「有利」さがぐらついている.

むしろ,見た目でかんがえ方がちがうと思われるひとたちが集まった組織のほうが,個人への許容量がおおい.
見た目がおなじだと,自分とおなじだとかんたんに錯覚する.

だから、どんな働きかたをしたいと思うのかを,新入社員にきくと,接客上の訓練のありかたにもアイデアがあるかもしれない.
将来を背負うことがきまっている新入社員から面倒をみてもらうのは,経営者にとってもチャンスなのだ.

定義の変更

かんがえ方の出発点が,「定義」である.
なにもかたくかんがえなくても,じぶんでじぶんを「定義」で縛ってしまうことがある.
どうもうまくいかない,といったとき,「定義」を変更するだけで,はなしはおおきくかわる.

新津春子さんというひとの講演をきいた.
テレビで有名になったが,本人はちょっと迷惑そうだった.
彼女は,ビル清掃の達人である.
しかし,ビル清掃のしごとが,社会から低くみられていることもしっている.
「わたしたちはお客様の目にはっていない」
「でも,それでいい」

中国残留孤児二世の彼女は,日本語ができず,ビル清掃のしごとしかなかったという.
それで,「ビル清掃人になっちゃった」.
募集しても募集しても,ひとがこないから,法律違反だといわれようが,管理職として一日18時間はたらいた.

「日本人だって,みんな『ビル清掃人になっちゃった』ってがっかりするの」.
唯一,彼女がふつうでなかったのは,「ビル清掃人になっちゃった」けど,「ビル清掃『職人』になる」と意識したからだ.
国家資格もある,奥深いしごと,なのである.

こうして,コンテストで日本一となり,職場の羽田空港は世界一清潔な空港に毎年連続して選ばれている.
彼女は,羽田でただ一人の「清掃マイスター」になった.

山形新幹線の社内販売のカリスマ,斉藤泉さんも似ている.
彼女は,短大生時代にこのアルバイトをはじめる.
ふつうは,ワゴンを押しながら社内を往復して,お客さんから声がかかればとまって,お客さんのいう通りの商品をわたせばいい,とかんがえるだろう.

彼女は,「日本一小さなお店の店長になった」と定義した.
店長だから、なにを売りたいかは自分できめる.
そのために,乗車前にはかならずホームを往復して,お客さんの年齢や職業,それに手荷物をみて客層を確認し,さらに,天気に気温や湿度を自分でも「感じる」という.

こうやって,ワゴンに積み込む商品とレイアウトをきめる.
そして,販売しながらも,購入してくれたお客の意見を収集した.
それで,いまでは伝説となった,地元の老舗駅弁屋さんと「お弁当を開発」してしまう.
これが,駅弁の人気全国二位になる.

これらは,個人の世界のはなしであるが,よくかんがえれば,これぞ「事業コンセプト」なのだ.
あまたいる同僚とは,一線どころかぶっちぎりの成果をたたきだす.

仕事のノウハウを解説した書籍や動画もたくさんあるが,なかなかドンピシャにあたらない.
それは,方法論ばかりがかたられて,「定義の変更」という「思想」がないからだとおもう.
「自分はなにものなのか?」
という問いに,漠然としたイメージしかないひとと,明確なイメージがあるひととでは,まったくちがう成果になるのは当然どころか必然である.

こんなことはあたりまえ,わざわざ書く必要もなかろうに,というのはもっともである.
しかし,あんがいそうでもないひとがおおくなったようにおもう.
そういうひとたちは,かならず誰かや何かに「依存」する.
国や自治体がなにかをしてくれるという「政府依存」が蔓延しているし,その政府がゆるそうとしているカジノでは,「ギャンブル依存」が話題になっている.

「自立して生活できる国民を育てる」はずの義務教育も,いつのまにか「依存してしか生きられない」ようにしているのが滑稽だ.
高等教育ばかりが「いい教育」と定義しているひとたちがいるが,「職人」ならば年齢的に中学校卒業でも遅いと断言する「名工」がたくさんいる.

人間に備わった「五感」の各種センサーを,一生つかえるレベルまで研ぎ澄ますには,10歳ぐらいから訓練するのが理想というから,「若年労働」どころのさわぎではない.
こうして,あと数年もすれば,最新鋭工機でもつくりえないものづくりも絶えるだろう.
そのころ,小学校では「プログラミング」が必修になっているはずだ.

「プログラミング」を小学生におしえても「児童の職業訓練」とみなさない.
こんな都合のよいはなしを,よろこぶ親は,どんな「定義」で生活しているのか興味がわく.
職人になりたいと志すこどもを,職人にしてあげられないことのほうがよほど問題だ.
技術は文化とおなじで,一度絶えると復活できない.

台湾の故宮博物院収蔵の「青磁」を例にしても,いまだその製造方法は解明されていない.
人間の手がつくり出す業を,録画保存しても,職人の感覚を保存することはできないから,絶えれば情報がないよりはまし,という程度だろう.

あらゆる場面で,「定義の変更」が必要なのではないか?

山陽新幹線の観光放送

数年ぶりの広島出張.更新も数日ぶりだ.
これは,同時にひさしぶりの山陽新幹線に乗ることを意味する.

新横浜から出発した「行き」は,とくになにごともなく広島に到着したが,広島始発の「帰り」に,へんな放送があった.
岡山後楽園,姫路城,淡路大橋.
姫路城にいたっては,◯◯時頃にみえてくると,予告放送までしていた.
後楽園はその面積,姫路城は高さ,淡路大橋は高さと長さを説明していた.

なぜ,「行き」には放送しなかったのか?
JR西日本のサービスの「ムラ」なのか?
そして,なによりも不思議なのは,車掌さんの生声放送で,日本語だけの案内なのだ.
なぜ,英語その他の外国語で放送しないのか?

むかし,時速220km運転を自慢していた時期,客席とデッキの境の通路ドア上にスピードメーターがついていて,220km運転になると,「ただいま時速220kmです」というアナウンスがあったが,これも車掌さんの生声で英語の放送はなかったと記憶する.(本当はどうだったのか?)

それから,各車両に電光掲示板がつくと,ながいトンネルや鉄橋がちかづくとその説明がながれた.これは日英併記だったと記憶がある.
詳しいことは,「鉄道ファン」におまかせするとして,いつのころからか,「広告」と「ニュース」がメインになった.

ところが,ここでも外国語表示は到着まぢかの「駅名」ばかりである.通過駅の案内は日本語表記のみだ.外国人こそ,いま通過した駅がどこか知りたいのではないか?
そうやって,自分がどこにいるのかと,地図と車窓の景色をくらべるものだ.
鉄道会社が,旅情を理解しないのは,うそのようなナンセンスである,
その証拠が,土地土地の歴史や文化を無視してはばからないコンクリートとガラスの駅舎である.
地元観光協会は,本当にこれらを「歓迎」していたのか?と,いまさらそのセンスをうたがう.
はるばるやってきた駅舎を背景に,記念写真をとる気がうせる.

JR西日本のすごさは,トンネルがおおい山陽新幹線でも,通信が切れない自社「SIMカード」の案内を日英併記しているのだ.きっと列車無線回線をつかっているのだろう.
そんなに外国人は,毎日のように山陽新幹線を往復していて,新幹線滞在時間が長いのか?といいたくなるが,要は「広告」なのだ.

つまり,かなりうがった見方だが,広告に占拠された電光掲示板に対抗した車掌さんが,あふれるサービス精神のやむにやまれぬ事情からでた,「フライング」だったかもしれない.
個人客として,この「仮説」を証明することはできないから,バカといわれようが気になるのである.

むかし,渥美清が寅さんシリーズがはじまる前に主演した,「喜劇急行列車」の車掌さんをおもいだす.

この映画の佐久間良子演じるヒロインよりも,食堂車のウェイトレスの大原麗子,それよりも主人公の女房役,楠トシエが気になるのはわたしだけなのだろうか?彼女は,にっぽんのお母さんを代表していた.
ちなみに,主人公渥美の後輩役が関敬六だった,
 
渥美の車掌さんは,もしかしたら現実とファンタジーのギリギリだったろう.
今回の車掌さんは,現実である.
しかし,「会社」からなんていわれるのだろう?

こういうひとの「想い」をくめない会社こそ,ため息の対象であると,わたしの「妄想」はつきない.

国家をだれが経営しているのか?

社長とか,役員とかいうひとを,ふつう「経営者」という.
しかし,経営者が経営しているとはかぎらない.
むしろ,経営者が経営していないことのほうがおおくなってしまったかもしれない.

とにもかくにも,でるわでるわの不祥事だらけである.
新幹線の台車の問題は,甚大な事故原因になりかねない.「インフラ輸出」どころではない.
どうして,削ってはいけないところを削ったのか?
一連の不祥事で,ほんとうに安全に問題がある唯一の事例である.

ベアリング会社の製造所偽装も,なにもかも「安全には問題ない」ですんでいる.
つまり,これは技術的にJISを超えているのではないか?
ましてや,自動車会社の完成検査問題も,輸出車には適応しない国内販売向け「だけ」の問題だから,本質的になにが問題なのかわからない.

輸出先の国々から,クレームが一切ないのは,もともと輸出車に完成検査義務がないからだ.
なぜ,国内だけ問題になるのだろう?
結局,自動車が「メカ」だった時代,しかも手作り感満載のころの「ルール」が変わっていない,いや,「変えていないだけ」なのではないか?

国有地の払い下げ問題が,連日報道されているが,とうとう財務局で自殺者まででた.
公文書偽造をほんとうにやったのだろうか?
その手口は?まったく不明である.
公文書は,決済後の保管状態であっても,そうかんたんに改ざんできるものではないからだ.

民間企業でも,決裁書は厳重に保管されるから,たとえ起案者であっても,文書保管部署に行って書類を差し替えることなどできない.

この問題は,ほんとうに国会を空転させるにたる重大さをひめているのだろうか?
はっきりいって,どうでもよいのではないか?
「問題解決」の要諦は,優先順位の決定である.
国家の解決すべき課題の最優先順位に,この問題があるとはおもえない,という意味である.

大企業での一連の不祥事と,国家機関における不祥事には,共通点がある.
それは,だれが経営(マネジメント)しているのか?ということの「曖昧さ」である.
これは,日本文化なのであろうか?

欧米の研究では,AI(人工頭脳)の発展によって,まっさきになくなる仕事として,公務員があげられた.
法治国家における「行政」とは,法令に基づく,という基本があるから納得できるはなしである.
しかし,日本における公務員の仕事には,法令にはない「裁量」という分野がある.

アメリカ第七代ジャクソン大統領がさだめ,いまでもいきているのがいわゆるジャクソン・ルールともいわれる「スポイルズ・システム」である.これは,ときに猟官運動の弊害も指摘されたが,本質的な思想背景は,「公務員の仕事はだれにでもできる」というものだ.
だから,政府高官ポストも政権交代によって半分が「素人」にいれかわる.

それでいて巨大国家が運営できるのは,法令のうえでしか公務員は行動できないからだ.
「裁量」は,政治家がうけもつ分野だから,法令の改正がおこなわれる.
日本では,議会機能は限定的で,法令の改正も公務員が起案するから,公務員に都合がいいことが上書きされていく.

「綱紀粛正」の対象は,上級職の公務員ではなく,初級職に集中して攻撃がくわえられる.
「綱紀粛正」のやり方も,政治家がかんがえずに,上級職にまかせるから当然上級職に及ばないやりかたになる.
どうして日本の政治家は,かくも公務員に甘いのか?それは,単純に公務員に担がれているからにすぎないからだ.

民間の大企業はガルブレイスが「新しい産業国家」で指摘したようになったが,じつは公務員の世界のほうが先に簒奪されている.

だから、治療のほうほうがないのだ.
残念だが,大崩壊をつうじてしか,これをただすことはできないだろう.
そのとき,日本は独立国でいられるか?までも危ういことになりそうだ.

美しい港町

ボランティアの活動は尊敬すべきものとおもうが,どうしてこうなるのか?ということもある.
そのボランティア活動に参加したことがないから,関係者には申し訳ない.
申し訳ないのだが,お節介で余計なお世話のはなしを書こうとおもう.

いろいろな場所で,ボランティア清掃活動をしている団体がある.
公園をはじめ,会員企業の従業員が自社の職場やその周辺を清掃しているという.
これだけなら,お節介の焼きようがないのだが,会の名称のはじめに「美しい港町」とあるのが気になるのだ.
以下,会の活動とはまったく関係のないはなしである.

美しい港町,とはなにを意味するのか?
そもそも,「港町」は,たいがい猥雑である.それに「美しい」がつくから,相反するので「おや?」とおもうのだ.
猥雑なのにゴミがおちていない.
これだけで,「美しい」といえるのか?ということである.

ほんらい,人間の移動は陸上をあるくなり,動物の背中にのるなりしていた.
これに画期をなすのは,やはり海上移動の技術革新であろう.
ローマ時代,地中海をいきかうガレー船は,奴隷の労力をつかって漕ぐちからを動力とした.
古代エジプトは,ナイル川を行き来するのにパピルスをたばねた船をつくり,帆によって風のちからを動力とした.つまり,河口の地中海へは水の流れにのって,帰りは帆をあげて川をのぼる.

ところが,ナイルの流れはかなりはやい.
風の向きにかかわらず,川をのぼるために考案されたのが三角帆だ.
いまのヨットの原型といわれている.
四角い帆だけでは,風向き次第で自由航行はできない.

ローマがエジプトを征服して,帆船が完成し,それがついにポルトガル・スペインによって大航海時代となる,という説がある.
その真偽はべつにして,船という乗り物は,陸上交通ではかんがえられない物量をはこぶことができる.それは,飛行機が発明されたあとの現代でもかわらない.

とうぜんだが,ひとと荷物をのせてさまざまな航海がはじまる.
こうして,「征服」という問題をのぞいても,世界中に港ができる.
そうなれば,一方通行ではなく,複雑な経路でも港にひとと物資があつまるようになるから,「猥雑」になるのは必然である.欲望がうずまくところになるからだ.

それは,スターウォーズの世界でもおなじ.
さまざまな星の宇宙船があつまるところは,猥雑である.

横浜が開港の地になったのは,江戸からの距離がちょうど良かったからだろう.
日本側は,横浜でも江戸にちかすぎるから,ほんとうは横須賀(浦賀)にしたかったのではないか.
アメリカは,江戸にしたかったが,抵抗が強い理由もわかるから,まんなかをとって横浜にしたのではないか.
ふるい街で,鉄道駅が町外れになっているのとおなじ理由であろう.

ひとと物資があつまる港町は,そのままだと猥雑に発展する.
それで,都市計画というかんがえかたがうまれるのだが,「発展」のいきおいに押されると,「無計画」という「計画」になる.
それが,ひとを相手にする港から,物流や工場立地に変化すると様相が一変する.
いわゆる「産業優先」という思想である.

横浜もそうだが,海岸段丘という地形が「良港」をつくっている.
地上は削られた丘にみえるが,そのまま海におちているから海底が深いのだ.
横浜駅から根岸線にのると,左手にみなとみらい地区がみえるが,右手は海岸段丘である.
桜木町に河口がある大岡川をはさんで,石川町駅からの根岸の海岸段丘につづく.

横浜中華街が,周辺の街並みにたいして斜めのブロックになっているのは,海側が「港」だった名残である.山下公園は,関東大震災のがれきを埋め立ててできたから,オリジナルの横浜港とはちがう.
ここまでが,客船が着くイメージで,本牧の先までがコンテナなどの貨物流通エリア,そして根岸に向かうと石油コンビナートになる.

原三渓がつくった名園の「三渓園」は,砂浜に面していたが,昭和40年代に埋め立てられて石油コンビナートになったから,とてつもなく風情のない借景になっている.
それからもどんどん埋め立てられて,とうとう横浜市沿岸の砂浜は,すべて埋め立てされつくした.八景島に人口海岸をあとからつくったが,だったら最初から埋め立てなければよかった.

来年からはもう泳げなくなるといって,「冨岡海水浴場」の最後にいったことを覚えている.
ただし,すでに周辺の埋め立てで流れがかわったか,水がよどんでいて,あまり気持ちのいい海水浴ではなかった.

柴漁港はいまでもある.
埋め立て前の場所を示す大きな石碑が新漁港の近くの交差点あるが,往年の風景を感じさせるものはほとんどない.この石碑の前にひろがる住宅地がわびしくもおもうが,ふつうはこの石碑がわびしいだろう.もうほどんどわからない,過去の痕跡である.

その横浜が,カジノ誘致に熱心であるという.
どうしてカジノを開設すると,街の発展になるのか?いまひとつ理解に苦しむが,市民の過半は反対だというから,それはそれである.
ただし,カジノは基本的に「猥雑」であるから,港町っぽさはある.

どうもカジノは賭博ばかりが話題になるが,そんなものではない.
ディズニーリゾートが「ファンタジー」をテーマにしているように,カジノは「欲望」をテーマしたリゾートだ.だから、ショービジネスの場でもあり,美食の場でもあり,性風俗の場でもある.
世界のカジノで,娼婦がいないカジノはない.カジノからこれらの「猥雑」さは除去できない.

べつに,発展をうらむわけではないが,「美しい港町」とはなにか?をいまさらながらかんがえると,なにをもって「美しい」とするのかが問われていることはまちがいない.
すると,「都市計画」と「景観」という巨大なテーマがあらわれるはずで,「清掃活動」を否定するつもりはないが,時間と労力のつかいかたがちがうとおもうのだ.