岩盤規制のよい解説だけど

「歴史は発展する」というのは,社会主義や共産主義がいいふらした幻想にすぎないが,なんとなく聞き流したひとほど,洗脳されているから注意が必要だ.
「退化する」こともあるからだ.

それで,いいふらしたひとたちは,「退化」もヒトの尾てい骨のように「進化」だといいはるのだ.
これは、とんでもない人権侵害を正当化する.
政治犯を収容する場所で,どんな「教育」がおこなわれているのか?をかんがえればよいだろう.

日本という国の「特殊性」については,内外から指摘されつづけてきたから,「日本論」は山ほどの著作がのこされていて,そのほとんどが,やっぱり「特殊性」を摘出している.
それが日本「人」の特殊性に転換されるのは,国家の構成員なのだから道理である.

「革命」を経験した欧米諸国では,英国の「名誉革命」とフランスの「フランス革命」が,およそ正反対の立ち位置で対峙している.
そういう意味では,おおむね世界はこの二つの革命を源流とした二本の大河のどちらかにある.

英国の流れは,その後の「ピューリタン革命」になって,アメリカ合衆国の源流にあることはまちがいない.
一方,フランス革命は,ロシア革命や中国共産党に流れ,かつてもいまも社会主義の源流になっている.

さて,それではわが日本国はというと,他国より若干複雑ではないかとかんがえるから,「特殊性」のはなしに与する.
それは,二重構造で,表面を流れるものは英国からであるが,もうひとつ地下水脈があって,これはフランス革命というより強くロシア革命を源流としたものだ.

日本を「鵺(ぬえ)的」だというひとがいるのは,この二本の流れをさしたのではなかろうか?
「鵺」とは,頭は猿,胴は狸,尾は蛇,手足は虎,声はトラツグミという伝説上の怪物で,そこから「正体不明」をさすことになった.

だから,二つの革命の流れが日本のすがたであると特定すれば,それこそが「正体」であるから,「鵺」ではなく,「結合双生児」のような状態とかんがえる.
本物の結合双生児は,ベトちゃんドクちゃんでしられたが,産まれてきた彼らに罪はない.
しかし,国家のばあい,これは国民にたいして「罪」であるから,彼らのこととは別にしてかんがえるひつようがある.

日本という国は,表面上は自由主義・資本主義体制だが,地下での実態は社会主義・統制経済体制である.
戦時中の近衛文麿内閣が目指したのも,社会主義・統制経済体制であったが,大政翼賛会をつくってあびた批判から腰砕けになった.それでも,統制経済体制は実行された.

日本本土より,強力に計画経済・統制経済体制であったのは満州国だった.
スターリンが成功させた(というがほんとうはウソだった)「五ヵ年計画」を,ロシア人が逆立ちしてもできない完璧な事務能力で真似たのが,岸信介次官率いる満州国官僚群だ.
バリバリの自由主義者,阪急創業者の小林一三商工大臣と統制経済を主張して対立したのも岸だった.

戦後の混乱は,自由主義がはびこって,各地に「闇市」ができた.
「闇」なのだから,政府の統制にない,という意味だが,それならなぜ「自由市」と呼ばないのか?
政府の統制が正統で,これに従わないのは犯罪的,という価値感があったからである.

時間の経過という「歴史が進捗」して,役所も丸焼けになってしまった混乱から,役人の体制がととのいだすと,経済警察がこの「闇市」を取り締まった.
そして,闇市の側も,「歴史が進捗」して,駅前の雑居ビルに入居した.これらの建物は,いまだに残っているが,店舗の狭い区画とそのコピーという構造的特徴をみれば判断できる.

こうした時間の経過をみれば,「自由市」の弾圧からスタートしたのが戦後日本経済の特徴なのだ.
それが,どんどんと,あらゆる方面に「統制」が浸透するが,その主体は国民ではなく,役人と政治家たちだった.

自由と民主主義など,じつは一顧だにされていない.
それをまとめた本がでた.

筆者の上念司氏は,経済評論家として活躍中の有名人だが,はなしのところどころに冗談ではすまされないような冗談をはさんでくる.

この本も,最後のすかしっぺなのか,「おわりに」がいただけない.
「新自由主義の定義」にたいそうな混乱があるからだ.
日本の岩盤規制が,新自由主義の権化だ,という主張は,完全におかしい.

また,岸信介の孫である安倍総理が官房長官とふたりだけで,まるで岩盤規制と対峙しているという主張も,いいすぎだ.
上念氏には誇大妄想があるのではないかと疑いたくなる記述があるから,鵜呑みは禁物の本ではある.

彼のアベノミクス支持も,いいだしっぺの浜田宏一教授に師事したからだと著者略歴にあって納得したが,わたしは「戦後レジーム『回帰』」のアベノミクスを支持しているわではない.
そういう意味で,たいへんな矛盾にみちた本である.

多忙をきわめる上念氏は,新自由主義の本家,ミーゼスの著作や,その弟子にして同僚だったハイエクを読む暇がないのだろう.ましてや,ミルトン・フリードマンをや.
わが国の「流れ」の構造上,新自由主義がサッチャーの英国からの流れではなく,ロシア革命の流れからの批判という歪みを修整できていないことなのだろう.

本書本文における上念氏の主張は,新自由主義そのものであるからだ.
しかし,彼はその新自由主義を無視するアベノミクスを支持するという.

よいこは「おわりに」だけは読んじゃいけないよ.

世界一流を維持する製造業

日本人は手先が器用だから,ものづくりの国,なのだろうか?
妙だが,アメリカ人の手はおおきくてゴツいから,不器用なのだと嗤うことがある.
「妙」だというのは,いまでも世界最大の工業生産物を輩出しているのは,そのアメリカなのだ.
中国ではない.

70年前の戦争に負けたのは,圧倒的な工業生産力が原因だったと,子どもでも識っている.
そんな国にむかって,なんで戦争なんかしたんだ?と,いまでも議論しているのがわが国だ.
わからないから軍を悪者にすれば,とりあえずおちつくが,納得できないからぶり返す.
戦後の男の子がなりたい職業トップは,野球選手からサッカーに変化したが,戦前戦中は一貫して陸軍大将であった.

陸軍大学校を出れば,全員が陸軍大将になれるかといえばそうではない.
すくなくても,卒業時に同期トップ3に入賞しないといけないが,恩賜の金時計をもらえる一番が最有力候補になるのは,いまでもおなじ官僚組織の原理である.
しかし,軍には「幼年学校」というものがあって,ここからが本当のスタートだ.

つまり,ふつうの中学・高校から陸軍大学校に入学しても,トップにはなかなかなれない.
訓練度合いがちがうのは,数年間で克服できない.
それで,本物は「幼年学校」に行く.
今日の自衛隊も,防衛大学校卒だけではいけなくて,「陸自少年工科学校(いまは「陸自高等工科学校」)」から防衛大学校に進学するのが「本物」だ.

しかし,世界最強の米軍とは,その位置づけ(憲法)からしてちがうから,残念ながら,教育の幅に歴然とした差がうまれるのは仕方がない.
「軍」と「隊」のちがいは,雲泥の差というのは,戦力や装備のちがいだけでなく,マネジメント手法にもあるはずだ.

第二次大戦に米国が参戦するまえから,兵器産業はフル稼働していた.
それで,おおくの熟練人材が兵器工場に異動させられ(日本でいう「徴用」である),もとの会社に人材不足が発生した.
それで,米軍が開発した人材育成手法がひろがって,工業の裾野もうまく稼働できたのである.

サラッと書いたが,注目は,米軍が工場の熟練工を速成する手法を開発した,ということだ.
日本の陸海軍がましてやいまの自衛隊が,上記のようなことをしたという話は寡聞にして聞かない.
いまでも民間に,たっぷり「命令」はするだろう.

この手法を戦後日本に伝えたのは,とうぜん開発した米軍で,発信源は東京の立川基地だった.
日本人従業員の大量採用後,その残念な状態,に米国軍人が耐えられなかったのがはじまりらしい.

職場マネジメントの基本も,業務品質の概念も「なかった」のである.
おそらくは,まじめに出勤だけはして,さらに残業もいとわない勤勉さではあっただろう.
これは,昨今いわれる「働きかた」そのものの問題だ.

これは、重要な問題で,戦争に物量に負けた,というのは,思い込みではないか?
その前段にある,論理の欠如,こそが,最大の敗戦原因だろう.
日本人に,論理,があれば,そもそも開戦などしないし,ヒトラーと同盟も結ばない.
隣国をいま,「情緒の国」と嗤うが,われらも同類ではないのか?

食うや食わずの食糧難の終戦直後,基地をつうじて「論理」と「手法」がセットになった「メソッド」を学んだのは,基地出入りの製造業だった.
こうして,日本の製造業の戦前からの大手にひろまり,それから新興企業に拡散した.
もともとが,熟練工速成メソッドだから,兵隊に人員を供出していた企業には渡りに船のはなしだったろう.

そうして,このメソッドにさらなる磨きをかけたのがトヨタ自動車だ.
現在,わが国の製造業で東証一部上場企業のほとんどが,このメソッドを導入している.
しかし,注意してほしい.このメソッドには二方向が用意されていて,製造の品質と組織マネジメントであることだ.

まさに「両輪」である.
これこそが,わが国製造業を世界一流に押し上げたのではなかったか?
それは,日本企業に勤めマネジャーになった人物が,アメリカに逆輸入して成功させていることでも証明される.

ところが,小資本でもできる飲食業や旅館業は,食材集めに翻弄して,このメソッドに触れなかったのだろう.
また,米軍が接収したホテルにも,このメソッドは伝わらなかった.

米軍に気づきがなかったのか,それともホテルが気づかなかったのか?
ましてや,アメリカの有名大学ホテル学科で学んだ先人たちが,どうして気づかなかったのか?
製造業とサービス業はちがうという,常識の壁,がみえないバリアーになっていたのか?
サービス業も,サービスを「製造」しているのである.

不可思議なことがある.

残念な韓国大法院の判決

昨日は韓国で歴史的な大法院(最高裁判所)判決があった.
これは、「司法」の判断だから,「政府=行政」の判断ではないという希望的観測がある.
しかし,彼の国では,前大法院長が,裁判の引き延ばしをはかった(日本有利になる)嫌疑で検察の捜査をうけるとか,外交部(外務省)でも日韓協定支持のコメントをだしたことを調査すると現長官が明言しているから,政府の見解も判決を支持するものだ.

むしろ,現政権が大法院に圧力をかけた,という順番を示唆するのが,前大法院長への捜査だ.
つまり,検察とは法務行政の一部だからである.
すると,これは日韓基本条約の根幹をなす「相互主義」にもとづく賠償請求権の放棄への判断だったはずだから,条約の破棄を通告したという意味になる.

相互主義とは,お互い様,という意味だ.
当時,日本だった朝鮮半島で,日本人だったひとたちが,本土の日本人と同等に徴用されたのは,相互主義ではない.
日本国民だったからだ.もちろん,本土の日本人も徴用されている.
なお,「徴用」といってもちゃんと給料はでるので念のため.

「併合」という歴史が間違っているから,日本国民だったことが間違いだ,という論理は,事実を無視している.
どんな理由であれ,当時の朝鮮半島は,日本国であって,そこの住人は日本人として扱われたのは事実である.
慰安婦もしかり.数では本土の日本人慰安婦のほうがはるかにおおいはずだが,国家による強制でないことはすでに明らかだ.

そこで,国家間の条約締結の時点で「相互主義」がうまれるので,日本側は朝鮮半島に投じた莫大な資産の放棄が約束され,そのかわりに韓国側は,これ以上の一切の請求権を放棄したのだ.
それには,個人請求権放棄の保障のため日本からの巨額資金提供もしたから,当時,この条約が片務的(日本の一方的不利で相互主義に反する)として日本国内の強い反対にさらされたのである.

ちなみに,朝鮮は日本だったから,サンフランシスコ講和条約の当事国になっていない.なにを根拠に,「戦勝国」だと主張しているのかわからないが,それで「日韓基本条約」が結ばれた.
「基本条約」で「平和条約」でないのは,戦争状態になかったからだ.日本だったのだから当然である.

そして,これらの残留資産とあらたな資金で,奇跡的な経済復興をなしたのも歴史の事実だ.
ただし,個人請求権放棄のために日本側が提供した巨額資金を,受け取った韓国政府(朴政権)が個人に渡さず使ってしまったのも事実だ.

もちろんいったん相手にわたしたカネだから,ちゃんと当初の主旨どおり国民への保障としと使ってくれないとこまるのだが,そこが国家間・政府間のカネなので,相手政府の判断にまかせるしかないというのも常識だ.
つまり,個人保障のためと理由を明記して相互に納得したからわたしたカネを,あろうことか流用したことを忘れたふりをして,さらにカネをよこせというのが,この判決の主旨になる.

また,ここで「巨額」というのは,当時の金額でという意味と,当時の日本の外貨準備高に比較してという意味がある.なけなしのわずかな外貨から,歯を食いしばって拠出したのである.いまの金額で議論してはならない理由だ.

なお,この手法(残留資産の放棄と請求権の放棄)は,台湾でもおこなわれた.
反日の権化のはずの蒋介石が,親日の筆頭のようにいわれるゆえんだが,そもそも大陸を追われて行き先が台湾しかなくなった蒋介石が,どさくさに紛れて日本の残留資産を濡れ手で粟のごとく得たのだから,請求権などかんがえるひまもなかったのではないか?

むしろ,マッカーサーの優柔不断で,本来はいまも日本領であるはずの台湾の統治権が,宙に浮いたまま放置されていることが問題だ,という李登輝元台湾総統の主張こそがこころに痛い.

李登輝(岩里政男)氏も日本人として京大から学徒出陣し,終戦時は名古屋高射砲部隊の少尉だった.
台湾は朝鮮とちがって「二等」国民扱いだったから,日本名は許可制,兵になることが許されず,血判状を総督府に送りつけて台湾兵が誕生しているが,それでもはじめは兵ではなく「軍属」だったから軍人扱いをされていない.李登輝も,台北帝大には現地人制限から入学できず京大に入学しているのだ.

一等国民の朝鮮出身者は,日本名は届出制,士官学校への入校も許された.それで,朴大統領(高木正雄)は,日本国籍のまま満州国陸軍士官学校へ入校して終戦時は満州国軍中尉になっている.

その意味でいえば,台湾のように戦争の結果ではなく,併合という形式で平和的にきまった日本の領土が,北部を中共に奪われたものの,という文脈でみれば,韓国の独立とはなんだったのだろうか?

朝鮮半島統治,台湾統治のための国家予算投入による収支は,あきらかに出超(投資額と税収)だから,じつは日本本土の国民所得は,政府の介入で彼らに強制移転させられた.
欧米型「植民地」の常識からすれば,ありえない本国の一方的赤字なのだ.

しかも,昭和20年の4月に決議された,衆議院議員選挙法の改正で,朝鮮と台湾,樺太に選挙区ができていた.インド人が英国議会に,ベトナム人がフランス議会の議員になるようなものだとすれば,「ありえへん」ことを日本人はきめていた.

つまり,被害者はかわいそうな朝鮮人でも台湾人でもなく,日本人自身だったということが,あまりにも意識されていない.お人好しの日本人として,バカにされるゆえんである.

はなしを韓国にもどそう.
つまり,まったく相互主義ではない,韓国側にとってはものすごい好条件で日韓基本条約は締結された.
これには,当時の東アジア情勢が切り離せないから,とうぜんにアメリカの意向もあったはずで,日本の政権・政府は反対論を押し切ったのだった.

だから,二国間の条約にみえて,ぜんぜん二国間だけの問題ではないのだが,儒教的独りよがりの内部規範に落ちていく韓国を止める術は,もはや他国にはないから,まことに残念な,そして歴史がうごく瞬間を目撃した,というしかない.

わが国からすれば,日清日露の戦争でながした朝鮮独立のための「血」が,百年の時を経て無意味になっただけでなく,状況がおなじになってしまった.
このことは,実質の半島支配者がだれなのか?でかんがえれば,中国とロシアがせめぎ合うこと確実だから,ほんとうはもっとも危機的なのは半島の住民たちなのだが,気の毒なことに百年前同様に気づいていない不思議がある.

この恐ろしいまでの鈍感さこそ,ときの李氏朝鮮末期の混乱の原因だった.
いわゆる,大院君と閔妃による宮廷内の権力闘争である.
そして,その鈍感さと権威主義にあきれた西郷隆盛が,征韓論をいうのだから,まったくもって歴史が360°回転したかのようだ.

ここまで彼らにさせる反日のエネルギーはなんだろうか?
他国人には,自滅にいたること必至の,絶望的な努力にいそしむエネルギーである.
それは,もしや日本による「両班」いじめの「恨」なのではないか?
500年間もつづいた李氏朝鮮王朝をささえた身分制度である.

日本では,支配階級の武士の人口比は江戸幕府発足時で約4%,幕末で約8%だった.武家の分家と,生活に窮した武家が町人に苗字を売ったことが二大原因という.

ところが李氏朝鮮では,高等文官と高等武官の採用試験(朝鮮版科挙)に受験できる身分が両班(文武両方の「両」)に限定されていた.
それで,開国か攘夷かに大揺れしていた日本の幕末頃には,両班の人口比が約52%という事態になっていた.

これは,世界的にもめずらしい比率である.
支配階級のほうが,支配される国民の数よりおおいのだ.
法を支配する階級だから,たとえ主人が無職でも両班の家の使用人は,アメリカの奴隷以下の身分で,主人がなぶり殺しをしても一切罪には問われなかった.

明治維新を達成した日本政府の身分政策は,「四民平等」をカンバンにかかげたものだった.
だから,日本統治下の朝鮮でも,「四民平等」は推進されたはずだ.
日本の内地では見せかけのカンバンでもあったが,朝鮮では本気になった.
さほどに,両班階級とそれ以外の身分差がひどかったからである.

日本軍の協力者だったが,いまや伊藤博文を暗殺したとして英雄になっている安重根は,両班の出身で,自家における使用人への扱いに疑問を持って,身分制に反対する運動に没頭していた.
それが,日本統治の協力につながるのだ.
獄中の安が書いて裁判(ロシア側に任された)に証拠提出している,伊藤暗殺の理由は,日本の天皇崇拝を基本とした論理に満ちているから驚く.

国民の半数以上の両班を,平等の名の下に弾圧したのが日本だった.
だから,日本統治下を「よかった」というのは,両班以外の身分だったに違いない,という憶測をよぶ.
そんなわけで,2013年5月,古き良き日本時代を語った95歳の老人が38歳の男に殴り殺されたという事件は,両班自慢の若者が下級身分の老人を殺したとすれば,それは「無罪」という意識があっておかしくはない.

すると,東アジア地域(中国・ロシア・朝鮮)は,わが国もふくめ,近代国家の定義にあたる国は存在せず,中世封建時代のまま存在しているのだとおもえば,辻褄がつく.

なお,今回の判決で13人中2人の大法官が反対意見を出している.
このひとたちの「異見」には,おおくの日本人も納得するだろう.
条約締結時の事情が正確に与されているからだ.よって,賠償責任は韓国政府にこそある,である.

まことに残念なことではあるが,掃きだめに鶴が存在していることは,両国にとって唯一の希でもある.
むしろ,彼ら2人の存在が,韓国という国にとって歴史的なことだった,のかもしれない.

業務の「標準化」なくして移民?

世界最大の売上高を誇るホテルは,マリオット(スターウッド含む)になった.
リッツ・カールトンや,シェラトンを含む傘下のホテルブランドは30もある.
運営する部屋は110万室である.
室数規模でみれば日本では,5万室の「東横イン」がトップになっている.

「おもてなし」の国ニッポンに,世界規模の高級ホテルチェーンは存在しない.
また,不思議と,世界最大ホテルチェーンをランキング化すると,トップ10のうち9グループがアメリカの会社なのだ.
80年代に,そのアメリカで,「サービス革命」といわれたエポックメイキングな本が二冊出版されている.

 

どちらも邦訳が出版されたが,日本でサービス革命は起きたのだろうか?といえば,ファミレスや居酒屋チェーンなどで「起きた」が,「おもてなし」にこだわった高級旅館や高級ホテルでは「起きなかった」といっていいだろう.

このことについて,わたしは,業務の「標準化」がキーワードだと理解している.
しかし,「標準化」とは,「金太郎アメ」のような「サービス」であって,それはハンバーガー・チェーンにみられる「画一化」された「サービス」であると,思い込んでしまったことに不幸があったとかんがえる.

つまり,店舗拡大に成功したモデルは「標準化」を実施して,サービス革命を実践し,そうでない業態では,サービス革命が起きなかっただけでなく,衰退してしまったのではないか?ともいえそうだ.

いうなれば,「標準化」が「製造業」におけるラインにみえてしまった.
「われわれは『ベルトコンベア』のような仕事はしない」というわけだ.
しかし,残念だがこれには想像力の欠如があるか,上述の図書を読み込んでいないかのどちらかだろう.

その証拠が,マリオットの二代目が書いた下記の本で,「標準化」こそが成功要因だと断言しているからだ.

この本は,1999年に邦訳がでているから,すでに二十年ほどの時間が経過している.
それなのに,旅館やホテルの経営者のおおくがいまだに,「標準化」に積極的でないのは,どういうことなのだろうか?
単純に,読書が習慣になっていないか,本が嫌いなのだろうと疑ったほうが説得力がありそうだ.

わが国の工業製品で,もっとも販売単価が高額なのは,トヨタ自動車の「レクサス」ではないかとおもうが,この自動車の「特別」なつくりかたは広告宣伝でも当初は流れた.
しかし,この自動車をどうやって販売するのか?といった面になると,とたんに従来のディーラーとイメージがかさなってしまうのだが,ほんとうにおなじなのだろうか?

接客サービス業を自称するなら,この点について一般人よりも詳しくてふつうなのではないか?
つまり,レクサス以外のトヨタ車とは,別次元のことがおこなわれていることに注目したい.
なぜ,そのようなことが可能なのか?
マリオット社も,30ものブランドをコントロールしている.

これは,それぞれのブランドで,標準化がおこなわれているからできるのだ.
標準化とは,「業務の定義」がなければできない.
それは,製造現場だけでなく,企画・設計段階からアフターサービスまでを含むものだ.
そのためには,業務を細分化しなければならない.

つまり,微分的発想が必要になる.
だから,「真実の瞬間」なのだ.

ところが,これら細分化されたユニットが,統合化されてはじめて「商品」になる.
これは、積分的発想だ.
それを,人間があつまった組織で統合する必要があるから,「逆さまのピラミッド」でなければ達成できない.

上記の二冊が,ほぼ同時期に出版されたのは,偶然ではなく必然だったとかんがえる.

人口が減れば労働力も減る.
それでは困るから,移民を受け入れたい,とかんがえるのは理解できなくもない.
しかし,業務の標準化もできていない現場・職場に,ことばが不自由な移民を作業員として補充して,はたして生産性は伸びるのか?

ポケット翻訳機があれば解決できるような,甘いものではない.
移民の生活に正規の賃金はひつようだし,移民も歳をとるから社会保障もひつようだ.
いま,急務なのは,標準化と現在戦力のブラッシュアップなのである.

優秀な人材がほしい

どの経営者とはなしても,だれもがもとめているのは「優秀な人材」である.
破綻しそうな企業では,「お金」に順位をゆずるけれど,それでも,この期に及んでなお,二番目に「優秀な人材」がほしいという.

パーティーなどの雑談の場でつっこみはしないけれど,再生の現場ではつっこまざるをえない.
それで,経営者や経営幹部に,優秀な人材とはどんな人材をいうのか?を書き出してもらうことをしたことが何度かある.

このブログの読者ならお気づきだろうが,まともにきちんとした日本語で書き出せるひとはすくないのだ.
もっといえば,コミック作品の主人公にあたる「スーパー・サラリーマン」のようなひとをイメージしていることがままある.

まさに,いまの副総理・財務大臣のように,マンガの読みすぎ,である.
こんな超人的人物が現実に入社したら,あなたは上司としてかえって困りませんか?と聞くと,たいがいの幹部はやっと気づいておどろくのだ.
なぜなら,それであなたはどんな仕事ができるのですか?あるいは,したいのですか?という質問がつづいて,ばあいによっては上司のほうが存在が否定されてしまうかもしれない.

さほどに曖昧な概念で,優秀な人材がほしい,と口にできるのは,実現性のほとんどない幻想だからである.
もちろん,再生現場だから,数年前から新入社員など採用していないし,パートさんの欠員すら補充できていない.
理由は,応募がないから,であることがふつうだ.残念ながら,この「ふつう」は,人的サービス業では「ふつう」になっているから,再生企業だけが苦しんでいるものでもない.

経営者や幹部が,優秀な人材がどんな人材なのかがわからないうちに,優秀な人材を募集しても,優秀な人材が採用できるわけがない.
こうしたことを理解してもらってから,あらためて当社にとっての優秀な人材とはどんな人材なのかを議論したら,でてくるのは「スペック」ばかりだった.

さらに,「即戦力」というスペックもかならず加わるのも特徴だ.
これは,「作業」のことを指す.
おなじような「作業」を,他社で経験したことがあれば,それを「即戦力」というからだ.
しかし,この「即戦力」には,自社で訓練する必要がない,という意味もある.

ふつう募集人材の「スペック」というと,学歴や,資格,職歴・勤務経験が典型的だ.
それで,話題をかえて,どんな人物と一緒に働きたいか?に振ったことがある.
すると,でてくるのは「人柄」に関するものばかりになった.
これは、接客業だから,という理由だけではない.

直接の接客を想定しない,たとえばボイラー技士であっても,一緒に働きたいか?という基準では,決め手は「人柄」なのだ.
そんな人物であれば,客室温度や風呂の湯温についても気遣いができるだろうと,かんたんに予想ができる.

整理しよう.
第一に「即戦力」になる,「優秀な人材」.
第二に「人柄」.
これは,自社での「人材育成」の放棄のようにもみえる,ある種の「むしのよさ」がみてとれる.

人口減少にともなう労働人口の減少は,「需要と供給」という経済原則によって,確実に価格上昇が予想される.
だから,企業は内部での人材育成という教育を実施しないと,本人のパフォーマンス分と賃金のバランスがとれなくなる.

イギリス人はとっくに意外な発想をしていて,

という本を書いている.
参考になるはずである.

ところで,2020年度から,同一労働同一賃金のための法制度が実施される.
対象となる法律は,
労働者派遣法,パートタイム労働法,労働契約法,である.
なお,中小企業は「改正パートタイム労働法」について,2021年度から適用されることになっている.

これらが実施されることは,もはや決定事項である.
つまり,未来はもう定められたのだが,この制度の運用のために,欧米では常識の「ジョブ・ディスクリプション」(職務記述書)が,わが国でも必要になるのではないか?
そうでなければ,雇用形態にかかわらず,同一労働同一賃金をどうやって実現するのか?

この書類は,職務内容,必要なスキル(資格ふくむ),賃金条件(労働時間ふくむ)などが記載されたもので,募集者が作成し応募者はこれをみて応募する.
一見,なにか特別なものにはみえないが,「労働市場」の要になるものだ.
「就職」であって「就社」ではないことに注意したい.

つまり,企業はほしい優秀な人材の「定義」を書いて公表しなければならないのだ.
このための準備はすすんでいるのだろうか?

手法さえわかれば簡単だ

世の中にはかぞえきれないほどたくさんの「ノウハウ本」がある.
しかも,だいたいどれもそこそこ売れている,のだという.
なるほど,本が売れない時代の書店に,ノウハウ本が山積みの理由がここにある.
まったく不思議なはなしである.中身が濃い本ほど売れないというのだから.

「ノウハウ本」を読んで,ノウハウを習得したひとをわたしはみたことがない.
すると,「本なんか読んでも役に立たない」と豪語して,いっさい読書をしないという経営者もいるから,世の中には極端があふれている.

「ノウハウ本」を購入するひとと,読書を基本的にしないというひとは両極端のようだがそうではない.
共通点に,「手法さえわかれば簡単だ」というお手軽・お気軽な「思想」があるからだ.
90年代の「軽簿短小」という産業トレンドが,そのまま人間の「軽薄さ」に転換されたようだ.

一方は,「手法だけ」をもとめて「ノウハウ本」を読みふけり,手法が自分にはあわないとして,また別の本をもとめるタイプだ.
もう一方は,肝心の手法など,本に書いてあるはずがないからと,本を読まず,うわさやトレンドに飛びつくタイプなのだ.
だから、両者のもうひとつの共通点は,テレビの情報,すなわちマスコミの影響をうけるようになることだ.

これは,ホテル業界では顕著で,とくに婚礼部門が深く冒されている.
新婦が必携の「婚礼雑誌」に,利用者と提供者双方が振り回されてひさしい.
わたしもかつて,紹介者をつうじたカップルで,新婦から直接雑誌をみせられて,このページの写真のように結婚披露宴をやりたいといわれたことがある.

当時の数字はわすれたが,さいきんのこの雑誌の発行部数は約30万の月刊誌である.
結婚する組数はだいたい年間で60万組だから,単純に新婦の半数はみている可能性がある.式までの準備期間をかんがえると,ひとりで何号も読破するにちがいない.
だからこそ,とてつもない影響をおよぼす雑誌だと位置づけられているのだが,裏をかえせば,式が近い招待客候補の友人もみている可能性がある.

それで,30万人がみた写真どおりでほんとうにいいのですか?と聞いたら,キョトンとしたひとがいた.
結果的に,オリジナリティを一緒に追求するという意味ではあたりまえの「手作り婚礼」になった.

ところが,いまは,「お客様は『神様です』」という美辞麗句にさからえずに,お客様のいうとおりの実現こそがサービスというかんがえ方になっているようだ.
「正解」をだれもしらないが,「正解に近づける」という手法すらわすれてしまったのかのごとくである.

ここに経験豊富なプロが介在する価値があったはずなのだが,本人希望の雑誌のとおりに再現すればクレームはこない.
これを20年もやっていたら,とうとう「経験豊富なプロ」が途絶えて,たんなる受付係になってしまったから,単価がたかい社員でやることもなく外注化がすすんでしまった.

こうして,気がついてみれば,会場と料理だけが「ホテルの商品」でしかないのだが,商品名はホテルになるから,顧客が買っているはずの「◯◯ホテルでの婚礼」と,ホテルが売っている商品がみごとに解離してしまった.
それに,気がついたひとたちが,また例の雑誌情報であらたなトレンドに向かうから,ホテルはいつも後追いというモデルができたのだ.

それでは,成功したモデルの手法を真似ればよい,と「手法さえわかれば簡単だ」というひとたちはかんがえる.
それで,婚礼専門の外部の知恵を買ってくれば,あとは自動的にうまくいく,はずである.
ところが,世の中そんなに甘くできてはいない.

これは、政府の未来戦略がかならず失敗する構造とおなじである.
いまうまくいっている知見からしか予想ができないからだ.
婚礼雑誌が紹介して,いつしかトレンドになるやり方は,かならず「手作り婚礼」という挑戦者がいたものだ.

これは,イノベーションのことである.

当然,リスクは本人たちが背負ったので,企画倒れしてしまったアイデアもたくさんあっただろう.しかし,だからといって,新婚のふたりが不幸になるのかはまったく別のはなしである.
「リスクは避けるモノ」を追求する組織が,どんなに優秀な識者を呼んできても,イノベーションのたまごも生まれない.

残念だが,信念を持って,自分で手法をかんがえつくまでやらないと,けっして自分のモノにはならないのである.
いいかえれば,自分がノウハウ本を書けるようになることなのだ.
果たして,そうなったとき「手法さえわかれば簡単だ」といえるだろうか?

とんでもない.
そのレベルにまで達したら,こんどはその手法をさらに磨いて,進化させなければならないという信念がわいてくるだろう.
それを誰がやるのか?

「手法さえわかれば簡単だ」という思想では,繁栄は永遠にやってこない.

「自己満足シート」と微分積分

音楽の専門家ではないが,音楽にはおおきくわけて「モノフォニー」と「ポリフォニー」という分類があることはしっている.
「モノフォニー」の代表は,「歌謡曲」や「演歌」で,モノフォニーの「モノ」とは,写真の「モノクロ」のように「単」という意味から,旋律がひとつの音楽をいう.
その反対が「ポリフォニー」だ.「ポリ」は「複数の」という意味だから,旋律・声部が複数の「多声部音楽」である.

ちなみに,ポリ袋の「ポリ」,ポリバケツの「ポリ」,ポリタンクの「ポリ」もおなじで,ポリエステル,ポリエチレン,ポリ塩化ビニールの「ポリ」もみな,「複数の」からきている.

ポリフォニーの大家といえば,まずはバッハがあげられる.
彼の有名な曲や,きれいな曲は5声や6声で書かれている.それを,二本の手しかないピアノ演奏にすると,演奏者泣かせになるから,ピアノ弾きにバッハは人気薄だというはなしがある.

わたしはそんなバッハが好きだとピアノの先生にいったら,なぜ?どうして?とあんがいしつこく質問された.とっさに「微分で聴くのが好き」とこたえたら,えらく感心されてこちらが恐縮したことがある.

旋律の声部が複数同時に鳴るから,メロディーがあってないような不思議な曲がある.それを,瞬間瞬間の和声で聴くと,なんだかあたまの後ろがジーンとしてきて心地よいのである.
高校のとき,微分の説明が下手くそな先生がいて,授業はとてもつまらなかったが,自分のバッハの聴き方が微分なのだということだけはわかった.

会社にはいって上司から,新入社員研修の講師を命じられた.
しょっぱなの,企業人としての心得,があたえられた時間枠のテーマだった.
そこで考えついたのが,「自己満足シート」である.

単純に,x軸とy軸の十字があって,原点がいま,というだけの紙のお題にしたものだ.
時間軸のx軸には左端に起点があって,そこから原点までは生まれてから今までの「過去」,原点から右側は明日からの将来で,とりあえず向こう10年間とした.
満足度はy軸で,プラス100,マイナス100とした.

過去の自分はどんな満足度で今日に至ったのか?
明日からの自分はどんな満足度で10年後をむかえるのか?
それぞれフリーハンドで線を記入してもらい,トピックがあればメモを書いてもいい.

10人十色とはこのことで,みごとに全員がちがうパターンを書き込むのだが,そのちがいは主に過去にあった.
なにがあったのか知る由もないが,若い新入社員にも,それぞれ複雑な人生があったのである.
未来のパターンは,希望にあふれているパターンで一致するのだが,これも微妙にそれぞれちがう.

印象に残るのは,担当した数年間で,書きながら泣き出したひとが何回もいたことだ.
こうやって自分の人生をかんがえたことがなかった.
それで,幸せな子ども時代がおもいだされて,感無量になったという反面,将来がみえなくて希望と不安が渦巻くのが自分でわかるという.
たしかに,まだ配属先が発表されていない段階での研修だった.

それから,人事制度がいろいろかわって,評価制度も試行錯誤の状態があった.
「制度」だから,コロコロ変わるのは好ましくないが,好ましくないのがそのまま続くのはもっとこまるから,なかなか難しい.

とくに部下の評価はたいへんで,ボーナスだけでなく昇進・昇格にも影響するからおざなりにはできない.
「自己満足シート」の記入で泣き出すように,ひとの人生を預かっているのだ.

再生現場にたったとき,「自己満足シート」の記入をお願いしたことがある.
会社の破綻という事態がおきたばかりだから,これを記入するときの心も荒んでいるひとがおおいのは想定どおりだ.
それで,しばらく保管して,再生が動き出してから時期をみて,もういちど描いてもらうと,適確な変化かそうでないかがよくわかる.

これをもとに,個別面談するのは効果的だ.
心の変化の瞬間を「微分」して聞き出すことができたり,満足度の面積が「積分」でイメージできたりする.
従業員のこころの動きがプラス方向になるのと,業績がプラス方向になるのには若干の時間差があるけれど,こころの動きがプラス方向にならないで,業績がプラスになることは,ほとんどない.

もちろん,この図に正確な数値はないから,当然に計算不能なのだが,しっかり傾向だけは理解できて,ちゃんと紙に残るのだ.

こういうのを,数学的思考というのではないか?
こころの微分積分が,業績を左右するバロメーターになるものだ.

観光産業は基幹産業にならない

世の中にはこまったひとたちがいて,「幻想」をあたかも「現実」のようにかたることがある.
それが業界人であれば,「アドバルーン」だと聞き手が認識すれば問題にならないが,専門家とか有識者と称するひとのはなしだと,それは「うそ」にもなるから社会には害悪である.
どんなものかといえば,以下のとおりである.

「観光産業を(わが国の)基幹産業にしていくのが目標である.」

これは,不可能でもあるし,そうなっては困る.

結論から先にいえば,政府の訪日外国人旅行者による国内消費の目標が,2030年で15兆円でしかないからだ.
2016年の消費額が3.7兆円だったから,これは年率に換算すると10.5%という昭和の高度成長期に匹敵する伸び率になっているのにだ.

わが国のGDPは,内閣府発表の2017年度,名目548.6兆円,実質533.0兆円である.
インフレを考慮したのが実質額なので,16年の消費額で実質を比較すれば,0.69%にすぎず,30年の目標値で比較しても,2.81%である.
もちろん,GDPは「付加価値」だから,外国人の消費額という「売上」で比較するのはまちがっているのだが,より外国人の影響が強くなるこの方法でみてもこの数字にしかならない.

この産業だけで,国民は食ってはいけない.

つまり,「観光業」としてありえないほどの大成長をとげても,国民経済にとって3%にも満たないのが,外国人依存の結果なのだ.
これが,どうしてわが国の「基幹産業」になるのか?
まさに,顔を洗って目を覚ませといいたい.

さらに,この議論には,観光業をバカにしているのではないかと疑いたくもなるニュアンスがふくまれている.
「観光業」とは,総合芸術的な産業なのだ,ということを忘れているのではないか?ということだ.
単純に規模を追っている印象が「基幹産業」といういい方にあるようにおもわれるからだ.しかし,そのわりに,数字を無視しているのは意図的にか?それともファンタジー文学か?

自然をあいてにしながら,食料生産に関係する一次産業と,二次産業たる鉱工業からうまれる文明の利器の積極的投入による利便性の追求と環境保護,それに人的なさまざまなサービス,という産業分類のすべての知見を統合してはじめて成り立つのが「総合産業」であるはずの「観光業」ではないか.

それは,バレエやオペラに代表される「総合芸術」に似ている.
しかして,バレエやオペラを芸術界の基幹産業と呼ぶものなどいない.
ましてや,バレエやオペラの売上高が,他の演奏会のシェアで比較しても,巨大とはいえないだろう.

わが国観光業が外国人市場で発展するためには,わが国独自の一次産業があって,わが国の二次産業が利便性を提供しつづけ,これを人間がプロデュースしなければならないのだ.
それを,最後の観光業従事者というひとたちだけで,なし得るものだ,というのは,「夢」を通り越した「誇大妄想」ではないか?
あるいは,「自信過剰」の鼻持ちならぬはなしである.

たとえば,自然の景観という観光資源も,外国の僻地にあるような「放置された自然の美しさ」をわが国に探せば,じつは本当に放置された場所か,交通機関の整備がないまさに「僻地」しかない.
便利な交通がある場所は,人工的な建造物にあふれていて,かぎられたお決まりの撮影スポットしかないから,現地にいくより映像でみたほうが美しいかもしれない.

ふるい伝統的な日本を感じる地方都市も,東京のようになりたい,東京のようなガラスとコンクリートがほしい,と全国一律にカネをばらまいたから,駅舎すら撮影意欲をなくすポスト・モダン建築ばかりで,情緒などどこにもない.
これは,旧市街・新市街という都市計画の常識が,経済の貧困と貧困なる発想が掛け算になって,市中でもほんの一角が「観光地」で残るばかりである.

戦後のまちづくりにみられる混沌こそは,敗戦の貧しさの象徴で,それを近代というおしろいで化粧はしたものの,にじみ出る貧しさは消しようがない.
これが,欧米以外の,たとえばアジアからの観光客に受けているのかもしれない.
かつての支配者たちがつくったまちとはぜんぜんちがう混沌をみて,安心と自信を得るのではなかろうか?しかし,これは自慢できない.

東京の焼け野原に匹敵する破壊を,執念と自助で復活させたワルシャワ市に代表されるポーランド人の精神は,日本人にはつゆほどもなく,ただひたすら近代をもとめたのは,いまさらながらに貧困なる精神だったのだとおもう.

いまだにこの精神のままでいるから,この国が観光立国になどなれないし,なったところで本当の貧困がまっている.

無政府をシミュレートする

経営者集団の日本経団連が望ましいが,労働者集団の連合(日本労働組合総連合会)でもよい.
そろそろいちど,日本政府なかりせば,というシミュレーション研究をしてみたらどうだろう.
このシミュレーション研究に政治志向はいらない.
単純に,「無政府だったら」という状態だと,わたしたちの社会経済がどうなるのか?という研究である.

社会保障が国民皆保険であることも,善し悪しのはなしではなく,「なかりせば」だから,ぜんぶ白紙にするとどうなるかである.
この,どうなるか?も,わたしたちにとって,であって,政府の債務がどうなるか?ではない.
むしろ,民間の年金保険や,積立ファンドの活用の意味になるだろう.

つまり,政府の関与をぜんぶ出すのだ.
必要なこと,不要なことという仕訳では,政治信条が入り込むし,現状を基礎にかんがえることになって,「白紙」からのはなしにならないから,機械的に消し去ることがもとめられる.
それから,わたしたちのためになることを抽出すればよい.

たとえば,警察.
だれだって,警察がなくなったら犯罪がふえてこまるとかんがえるだろう.交通事故の処理もできないから,自動車保険の受け取りにもこまる.
しかし,警察の仕事は,ほかにもいろいろあって,なかでも「許認可」という仕事に注目すると,おおくが「公安委員会」から引き受けていて,いわゆるふつうの役所のような「行政」がおこなわれている.
公安委員会は行政を警察に丸投げしているのに,警察を監視するというのは,陳腐なしくみである.

おなじく,消防.
だれだって,消防がなくなれば火災のときに誰が消すんだになるし,救急車がやってこないと命にかかわる.
しかし,救急車が訓練されたタクシーでいけない理由はないだろうし,やっぱり消防法にある各種規制のために,「行政」がおこなわれている.

マイナンバー制度ができたのに,どうしていまだに「戸籍」があるのかもわからない.
世界をみわたすと,「戸籍」があるのは日本周辺国の数カ国にすぎない.

ちなみにアダム・スミスがあげた国家の役割は,以下の三点だった.
・国防
・司法行政
・公共設備

国防には外交がふくまれる.
外交の延長線上に戦争がある,というかんがえ方は世界の常識だから,平和憲法があるから戦争はおきない,という発想とはだいぶちがう.

司法行政は,独占市場(航空業界、携帯電話、放送業界など),外部性(公害防止・対策),情報の非対称性(市場の失敗の原因)を,社会全体の利益から調整するという機能が求められるものだ.

公共設備も,収益性がなくても社会インフラとして用意しないといけないものは,国家が面倒をみなければならない.

これは確かに古典的だが基本である.
しかし,このかんがえを拡大解釈してきた歴史があるのも,また事実である.
そして,拡大解釈と公平な分配というかんがえがくっつくいて,社会主義がうまれた.
みんなから集めたお金を政府がつかう,といったときの「つかう」が「分配」になるからだ.

どのように「つかう」のが,社会にとってもっとも合理的であるか?という発想で経済学がうまれたが,「つかいかた」に公平性重視という力学がはたらくと,社会主義経済になる.
そして,それが拡大すると,はたらくことよりも分配をもらう方が得になるという逆転がうまれて,経済活動が停滞するようになる.

こうなると,みんなで貧乏になる,という仕組みが完成したのとおなじだから,分配をきめる政府が,頑張れば頑張るほど,国全体の貧乏が加速されてしまうことになる.

いま,わが国はたしかに,米国とは軍事的な同盟関係にあるが,分配という価値感でかんがえれば,アメリカ人なかでも共和党と日本の国情は正反対にある.
だから,「自由と民主主義という『共通の価値感』」を,米国とわが国は共有していない.
自由と民主主義を日本政府はぜんぜん重視していないのに,重視しているふりをしているのも,詐欺的である.

すると,あんがい「無政府」でも悪いことがすくないのではないか?

労使でシミュレーション研究をやる意義はあるはずである.

「もったいない」が損をふやす

世界にひろがる「もったいない(Mottainai)」.
2004年のノーベル平和賞受章者,ワンガリ・マータイさんの活動の標語にもなったから,おぼえているひともおおいだろう.
日本人がもっている,「もったいない」の精神が世界を救う.

ところが,「もったいない」の精神が,企業経営に害をなすことがあるから,じゅうぶんに気をつけなければならない.
それは,失敗した投資について「もったいない」からといって,追加投資してしまうことである.
これは、個人の生活でもあることだが,さいきん「断捨離」が理解されてずいぶん改善してきている.

「サンクコスト(Sunk Cost)」とか,「埋没費用」ともいう「費用」がある.

これは,理論としては「投資」をするときに無視しなければならない「費用」なのだが,人間心理としてなかなかそうはいかないので,注意せよと教わるものだ.
なにに注意せよというのか?それは,理論どおり無視すること,と念をおされるのである.

そこまでいわれても,実務ではなかなかふんぎりがつかないのが人情で,埋没原価の金額が大きいほど,判断に影響をあたえる.
上の判断とは,理論から離れる判断という意味で,まさに間違った判断のことをいう.
つまり,損のうえに損をかせねる判断ということだ.

具体的にどんなことなのか,事例でかんがえよう.
事例1.
「耐震補強」をしなければ,公表されてしまうということになって,数千万円かけて耐震補強工事を実施したが,その直後,建て替えのはなしが立ち上がった.
建て替えに「賛成」すべきだろうか,それとも「反対」すべきだろうか?

事例2.
さいきん流行の「ドタキャン」で,用意した料理がムダになった.
この料理を「再販売」するのに,再販売価格の35%の手数料が発生する.ただし,そのうち5%ポイントは,NPOへの寄付であることが購入者に告知される.
食材は廃棄すべきか,それとも再販すべきか?

事例1.は,建て替えの検討にいまの建物の耐震補強工事費用を考慮する必要は「ない」になる.
数千万円ものお金をかけたことは,すでに支払い済みで,二度と帰ってはこない典型的な「埋没費用」である.その数千万円がもったいないからと,あらたに建て替えることに反対する理由にはならないから,きっぱり断捨離する必要がある.

ちなみに,あらたに建て替える建物の取得コストに,取り壊してしまういまの建物の耐震補強工事費用を「加えて」収益計算をすることもまちがっている.
必要な目線は,あくまでも「キャッシュ」の増減であるから,すでに減った分は関係なく,現状のキャッシュ残高から,新規計画のキャッシュをかんがえなければならないのだ.

事例2.は,キャンセルという事態で発生した「廃棄」までのはなしと,その後の販売のはなしを切り離してかんがえなければならない.だから,再販売ではなくて,販売である.
すなわち,材料費や人件費,光熱費の合計が「埋没費用」にあたる.したがって,(再)販売するばあいの仕入原価は,ゼロ,さらに廃棄処理費がかからなくなる分が仕入れ値をマイナスにするから,手数料分を負担してもかならずキャッシュがプラスになる.
もちろん,NPOへの寄付については,さらに別途の広告宣伝費として考えればよい.

よくあるのが,材料費や人件費,光熱費に,あらたな手数料もくわえて考えてしまうことだ.すると,この方法は「大損」という経営判断をみちびくので,何もせずにだまって廃棄することが「得」ということも一緒に判断される.
これを,「損益計算書思考」と,いいたい.損益計算書の流れが,まさにこの思考の原点にあるからだ.

まったく,「損益計算書」は経営にとって役に立たないどころか,損をふやす思考を促すからやっかいである.
まじめな経営者ほど,この思考に冒されているから,この国の儲けがなくなった.
経営上,もっとも優先されるべきは,しつこいが「キャッシュ(現金)」である.
だからこそ「埋没費用」という発想で「断捨離」をしないと,得が損に,損が得にみえるという正反対の結論が,計算上は正しいけど平然とみちびかれるのだ.

すなわち「損益計算書思考」とは,貧乏神である.
だれだって,貧乏神に取り憑かれれば,厄災をまねく.
だから,「埋没費用」という,お払いをしないといけない.

「もったいない」という精神は,埋没費用をしっているひとには「道徳」にもなる美しいものだが,そうでないひとには貧乏がやってくる.

正しい「もったいない」を追求したい.