隠蔽体質という文化

民間企業には、「コンプライアンスを強化せよ」と命令し,方向違いの手間を多分に強制してコスト高を押しつけながら,自分たち役人の仕事は隠す.
別にいまに始まったことではないが,これを大陸中国のメディアがかき立てるから,ここでも話しが混乱する.

日本政府を嗤う体をよそおいながら,あんがい自国の共産党政府を皮肉っているかもしれないからだ.
それは役人というものの本質で,重要情報は教えない,ということでこその存在意義でもあると,昨日役所に就職した新人でも知っている.

役人のもっとも大切な仕事は,社会の役に立たないのに,なにかやっているように見せて,たいそうな予算を複数年,できれば未来永劫獲得することに尽きる.
役に立たないで,なぜ予算がつくのか?などという野暮なかんがえを思いついてはいけない.役人も,予算を決める議員も,みんな税金という他人のカネなのだから,真剣にかんがえるものはいない.もし,真剣にかんがえている,というなら,そのひとは芯からのうそつきだ.

だいたい,世の中の役に立つことには,だれかにとっては都合が悪いことがおおいから,そんなことをしていたらうらみをかう.役人も,議員も全方位からほめられないと都合が悪いので,世の中の役に立つことには,ついにはだれも関心がなくなるのだ.
真剣に世の中に役立つことをかんがえたら,役所の予算では足りないからそのひとは破産するだろうし,だれかに命をねらわれることになる.

こうして他人のカネを,世の中の役に立たないことに使えば,だれからも文句なく,関係者の全員がハッピーでいられた.
地方都市に行くと,町外れなのか町の入口なのかにある巨大看板「核廃絶都市宣言」もそのひとつだろう.「持っていないものを捨てる」と他人にむかって表明するものに,予算がつく.それでいて,原発でつくった電気を気にせずにつかっている.
民主主義の暗黒さがここにある.
黒澤明の「生きる」が突きつけたものだ.

しかし,現実は映画ではない.
昨今吹き出した,中央官庁の隠蔽事件は,ついぞこないだ連発した大企業の不正事件と地下茎でつながっているようにみえる.
大企業の不祥事は,「日本経済の危機」と言っていたから,今度は「国家の危機」になるのだろう.

「奇跡的な無能」と経営者を嗤う,デービッド・アトキンソンさんの新著「新・生産性立国論」は,なにも民間企業経営者だけのはなしではない.
「国家の経営」がおかしくなっている.

それは、オルテガの「大衆の反逆」を地で行く国家になったことでもある.
日本という国は,大衆が支配する国になった.
それを過激に解説したのが,摘菜収「日本をダメにしたB層の研究」である.

  

この本でいう「B層」とは,小泉純一郎政権のとき分析を依頼した民間会社の定義によるもので,横軸に「構造改革への賛否」,縦軸に「IQ」をおいた十字状(四象限)の図における第Ⅳ象限をさす.つまり,「構造改革に賛成で,IQが低いひとたち」のことである.
この「構造改革に賛成」を,「マスコミ報道に流されやすい」と置き換えても,「自分でかんがえず他人の意見に従う」としてもいい.

この分析を応用して,自民党は郵政選挙に大勝し,その後民主党もまねて政権奪取に成功したという実績がある.
IQが低いB層には,「単純なフレーズ」のくり返しと,「二者択一」の提案が効く.
与野党ともに成功体験があるから,おそらく,むこう数十年は選挙のたびにこの手法がつづくだろう.
これは,政党による「顧客戦略」なのであるが,たんなる人気とりだけが目立つようになるのは,むずかしいことをかんがえることが嫌いなB層には政治志向もないからである.

つまるところ,官庁のエリートも,企業経営者も,一般人も,オルテガのいう「大衆」すなわち「B層」になってしまったということだ.それで,ゆとりと称した教育で若い国民のIQもさげる努力をしたから手が込んでいる.日本は特別だという,傲慢な思想が生んだ,民族集団自殺の準備だ.
しかし,これはいまに始まったことなのだろうか?

明治の自由民権運動も,日露戦争での日比谷焼き討ち事件も,大正時代の米騒動も,関東大震災の朝鮮人虐殺も,そして、米英との戦争を求める民衆デモも,じつは時々の「B層」のしわざではなかったか?

そもそも,明治維新とて,いまでは水戸学が役に立たなかったという常識が定着しているが,幕末水戸学の代表的学者,会沢正志斎のベストセラー「新論」では,倒幕後もこの国の支配者は武士階級でなければならない,としている.じっさい,明治政府とは藩閥というれっきとした武士政権であった.
下級武士も武士階級に属すことにかわりはないが,これを隠蔽して現代的価値感で再構築したのもを「大河ドラマ」と称し,国民から料金を半ば強制的に徴収してたれながしている.

明治体制が国家的自殺の敗戦でおわったら,戦後もGHQというお墨付き機関があった.
「占領」が終わって念願のはずの「独立」を果たすとき,離日する軍事独裁的支配者に「ありがとうマッカーサー元帥」と大見出しで書いたのは日本を代表する新聞であった.
まるで支配の継続を望むようでもある.これを,日本的事大主義というのだろう.隣の半島国家だけが事大主義ではない.

ついでに,日本には日本が世界の中心だと勘違いする「小中華思想」もあるから,隣と本家争いをして不仲になる.どっちもどっちなのであって,わるいことしか生まれない.
お隣の国が大好きな新聞社系民放局が,主に白人の外国人から褒められて日本を自慢する番組をつくるのは,まさに小中華思想であおるマッチポンプをやっているのだ.
そんな局のニュース番組では,そもそも,アメリカと日本が対等・同格だと信じているひとたちばかりが出演して,えらそうな発言をしている.
これらを「B層」のしわざといわずしてなんというのか?

まちがってもいいから,自分でかんがえることだ.
だから、なるべくテレビは観てはいけない.ラジオも聴いてはいけない.
新聞も見出しだけの流し読み程度で良いので,通勤電車のなかでじっくり読んではいけない.
でないと,しらずにマインドコントロールされてしまう.

隠蔽体質という文化の本当のおそろしさは,政府が隠蔽することではなく,だれかに対する「憎悪」を強要され,しらずにそれと一体化してしまう自分自身ができあがることである.
ジョージ・オーウェルの「1984年」にある,全体主義国家で国民が義務として参加しなければならないのは,双方向テレビにむかって罵詈雑言を吐く「二分間憎悪」の時間だ.ちゃんと憎悪をしているかを当局がチェックするための双方向なのだ.もし,憎悪の態度が甘いとされたら,自分が反逆者にされてしまう.

 

もう,技術的にはこれができる時代になっている.

千葉の◯の乳搾り,とは?

ずいぶんまえ70年代のギャグである.
ストレートコンビという漫才師がはやらせた.
このフレーズ,子どもにはどういう意味かはっきりしないが,大人は吹き出して笑っていた.

その千葉県は,全国四位の農業県(北海道・茨城県・鹿児島につぐ)だが,生乳の生産では全国三位である.
それで,牛の乳搾り,のイメージが強かったのかもしれない.

しかし,一説には,朝早くからはたらくのを苦とせず,嫁をとるなら千葉のひと,というくらいの評判で,しかも千葉県人は「巨乳」揃いという前提が知られていたというから,なるほど「乳」がかぶっている.当時の大人が笑った理由がわかろうというものだ.

農業全国トップは北海道が一桁ちがいで圧倒しているが,二位茨城と四位千葉,三位鹿児島と五位宮崎という組合せは,奇しくも隣接県同士だから,これらをまたぐ観光はおよそ「食」についていえば,全国水準を相当に高いレベルで超えているはずだから,旅行者は格段の体験ができるはずだ.
だから,農協をふくめた「県」単位という行政の枠で競争(という足の引っぱりあい)をすると,方向をまちがえるだろう.

生乳の取引価格は政府が決めている.
飲用からさまざまな加工用で価格がかわる.なかでも飲用がもっとも高い値段設定(公定価格と事実上の取引価格も)になっているから,酪農組合は飲用で売りたい.
すると,チーズやバター向けの生乳が不足するようになる.

もとの生乳が物量的に不足しているのではなくて,加工用に売ると安くなるから売らないという仕組みが原因だから,政府の政策介入が「失敗」しているという典型例になる.
これを,「政府の失敗」という.(政府の恣意的な経済介入政策は,自由な市場をゆがめるからかならず失敗する,というのがいまや世界標準の「新自由主義」だが,日本人は戦前から「大嫌い」で,政府の介入が大好きだ)
これが,わが国でバターが入手困難になるおおきな理由ではないかといわれている.

それで,国産バターが「不足」すると,外国から輸入するのだが,これがまた「国家貿易」になっている.
農水省HPで,いぜんは1ページをつかって,「わが国は国家貿易をしています」とあっただけだったから,それにくらべると「説明」がふえた.

しかし,ひろく国民に知らしめよう,というこころを感じる書き方とはいえまい.
しかも,「国家貿易」として自由でない「輸入」が全国民にとっての問題なのに,「輸入」の方に説明の重心を置くという「姑息さ」である.
「参考」としてとぼけている「輸入」国家貿易をじっくりみてみよう.

「枠外輸入につきマークアップを徴収」とは,ありていにいえば,たとえばバターを緊急輸入しようとしたとき(枠外あつかい),「入札」をおこなって,もっとも安い値段で(政府が)買って,もっとも高い値段で(民間に)売ることで,国が利益(マークアップ)を得ますよ,ということだ.

なお,このときの「政府」とは,ちょっとまえの「畜産振興事業団」のことで,いまは「独立行政法人農畜産業振興機構」という.
だから,この「機構」が,自動的に大儲けできるようになっている.
日本は,21世紀になっても「輸入」の「国家貿易」をして,消費者という国民に負担を強いることを原則としている国なのだ.

かれらが儲けた分は,国民が世界価格より高く買わされることで負担している.
生乳のはなしにもどると,むかしとくらべてさまざまな飲料が販売されるようになったから,牛乳が牛乳として飲まれなくなった.

くわえて,少子で人口も減っているから,飲用牛乳の需要も減っている.
それで,一部の生乳産地では,値段がつかないから生乳を捨てることで価格の維持をはかったりしている.
この方法は,生産者とてやるせないだろう.

食生活がちがう,とはいうものの,欧米諸国を旅行すれば,ホテルの朝食でふんだんに出るチーズやヨーグルトなどの乳製品やハムなどの畜産加工品が,どうなっているのかとおもうほど豊富だし,パンのお供はバターに決まっている.
コーヒーミルクも本物のクリームで,椰子油を「コーヒーフレッシュ」とはいわない.
食品店にいけば,「本物」のその安さにおどろくものだ.

すると.欧米人が豊かな生活をしているのは,「物価」にも原因があると気がつく.
さいきんなぜかいわれなくなった「内外価格差」というダムが,日本市場にはあった.
戦前からの政府の産業優先策で,日本人の消費者は世界価格より高い値段を負担していた.
わが国で,先進国唯一のデフレがつづいているのは,このダムの決壊がつづいているからではないか?

とにかく,日本はどうなっているのだと思いたくもなるが,あんがい千葉に光があるかもしれない.

トルコのイスタンブールは,地中海から黒海につながる場所に位置して,ヨーロッパとアジアにまたがっている.この境目がボスポラス海峡である.
フェリーしかなかった時代から,長大な橋をかけて,海底トンネルも掘ったしまだ新しいのを掘っている.
日本は援助で橋とトンネルを一本ずつ完成させている.

東京湾は湾だからどん詰まりだが,これを横断すると,ボスポラス海峡のような気分があじわえる.
神奈川県側の工業地域が,千葉県側の田園地域とつながるからだ.
アクアラインを通って,圏央道で房総半島を横断すれば,あっという間に太平洋側にでる.

そこに,いすみ市という街がある.
かつての「夷隅郡」の一部だが,この街にはいま五軒のチーズ工房がある.
筆頭格で,チーズ作りの指導員でもある駒形氏のはなしによると,市内の酪農家にもチーズ製造指導をしていて,すでに弟子は400人をこえるという.
だから,チーズ工房の数は,もっと増えること確実である.

不思議なもので,共産中国において鄧小平がはじめた改革開放政策で,目玉だったのが「経済『特区』」であるが,なぜかそれが自由主義ニッポンで政権の目玉政策になっている.
日本が社会主義国である証でもあるのだが,だれも指摘しない.

だったら,いすみ市に,「チーズ特区」ができてもいい.
これを真似れば,どこかに「バター特区」もできるかもしれない.
さすれば,アクアラインで酪農大国千葉県に,買い出しにでかけるひとがふえるにちがいない.

いすみ市には,いすみブタという畜産資源もあるし,じつはたいそうな米どころでもあるから,ヨーロッパのような食生活ができるしかもしれないし,飽きたらバッチリ漁港直送のごはんもある.
買い出し旅行で,そんな宿泊経験もしてみたい.
ああ,夢はふくらむ.

残念なのは,市が標榜するキャッチフレーズが,「人と自然の輝く 健康・文化都市 いすみ」という,「いすみ」を入れないとどの町なのかさっぱりわからない凡庸さである.
まぁ,これは全国津々浦々でいえるのだが,もっと「田舎」や「田園」を売りにだして「いすみ」オリジナル感がほしい.どうしてこうなるのだろう?

それにしても,千葉の◯の乳搾りは,ますます忙しくなるかもしれない.

大先生のネタ本発見?

いぜんこのブログで書いた,ガルブレイスの「新しい産業国家」(1968年)のネタ本?をみつけたかもしれないので記録しておく.
この本は,企業経営が従業員である「テクノストラクチュア」と呼ばれる専門家集団によって簒奪されるメカニズムについて解説しているのだが,おもな対象は日本であると思われることから,昨今の大企業不祥事の原因ではないとかんがえた.

しかして,そのネタ本?とは,大河内一男「戦後日本の労働運動」(岩波新書1955年)である.

 

戦時中は,わが国には労働組合は存在しなかった.
それが,「GHQの民主化」によって,労働組合がゆるされると爆発的に組織されることになった.ことに,財閥系をふくめた大企業での組織化は早く,じょじょに中小企業と地方にひろがるという図式になる.

日本人の「事大主義」によって,「お上(GHQ)のお墨付き」がある,ということが,「爆発的」になった原因で,初期段階では,「従業員」として経営者以外の部課長といった経営を補助する役職者も組合員に構成されていた.これは,事務職と職工が同一の組合,すなわち企業内組合を結成するという,欧米にはみられない形になった理由とおなじで,とにかく「食えない」という戦後の貧困が生んだ日本的な労働組合の形式となった.

なぜ役職者も組合に加入したかは,「食えない」からだったが,このことで,経営側との交渉は組合有利になる.そして,事務職・職工といった職分にもこだわらなかったのは,協力しないと経営側との交渉が不利になるとかんがえられたからだ.

なお,「食えない」とは,戦後の食糧不足と,戦時国債の償還不能(政府の財政破綻)による強烈なインフレ(年率600%ほど)が主たる原因であったが,これに,空襲による生産設備の壊滅的打撃がくわわるから,経営側にも支払原資がないといった,社会混乱が背景にある.
それで,昭和22年の全官公庁関係の組合は,「最低賃金制」と一時金を政府に要求して決裂にいたる.
ここでいう「最低賃金制」とは,配給による「一日2400キロカロリー保証」という意味であるから,現在の「最低賃金制」とはまさに隔世の感がある.

それで生まれた闘争方法が,「生産管理」方式という,「経営権」への侵蝕とその占領だったから,経営者は自分の「経営権」を防衛しなければならないと思うほど,企業を脅かすものになった.
資本家的要素をもった経営者たちが,ときに子供じみた嫌がらせともいえそうな手段や態度で組合と対峙したのは,「経営権」防衛ということだったといえそうだ.

これは,「テクノストラクチュア」が経営権を奪う工程とおなじである.
しかし,上記は,組合設立初期段階でのはなしだから,これを幼児体験として発展したのが「テクノストラクチュア」だろう.
日本の企業内組合は,ユニオン制を原則とするから,組合員が「育つ」と管理職になる.その管理職から経営陣にはいるので,時間がたてば浸透するしくみになっている.

ところで,日本型の労働組合形式=企業内組合は,欧米型の職業別組合とはまったくちがう.
これはなぜか?という疑問も本書は解明している.
それは,労働市場のなりたちのちがいであるという.

欧米の歴史では,「食えない」と家族ごと移動してあたらしい土地に定着するのが常だった.だから,生まれ故郷に痕跡をのこさない.
日本には,幸か不幸か「ふるさと」がある.「食えない」から異動したのは次男以下だった.長男は,しっかり土地に根づくようになっている.
つまり,なにかあれば「ふるさと」に帰ることができるというのは,広い意味で「出稼ぎ型」なのだ.

むかしは,都会の企業に出稼ぎでくるのは,なんらかの人的関係(社長の「ふるさと」)からであることがおおかったから,労働条件は個々の企業ごとにちがうという背景ができた.
出稼ぎ型労働と企業別組合の関係は,地縁血縁になっていたから,じつは都会といえども定着した労働人口が欠如していたという事情がある.

だから,日本における労働組合の形態が欧米型に変化するには,都市における労働人口の定着=「ふるさと」からの決別,がなければならなくなる.
人口減少社会は,「ふるさと」の崩壊がはじまるから,欧米型に変化する可能性はいぜんより高くなったろう.

また,すでに100万人規模になっているともいわれる中国系の事実上の「移民」は,「ふるさと」を捨ててきている可能性がある.
すると,これらの人びとから構成される労働力を生かすには,欧米型の労働組合が適しているだろう.

戦後日本の労働組合も,大転換の時期がひたひたとやってきている.
すると,戦後日本の経営も,当然ながら大転換しないと,ついていけなくなってしまう.
いま,日本の経営者で,どのくらいのひとがかんがえているのだろうか?
もはや「テクノストラクチュア」に経営を簒奪されてひさしいから,大企業ほど適応できないかもしれない.

これはこれで,日本の危機だといえるだろう.

害虫被害がやばい

宿泊業は,基本的に「旅館業法」の免許がいる.
その管轄は,保健所だから,旧厚生省が主管している.
これに,ことしの6月から「民泊」がはじまる.
根拠法は,「住宅宿泊事業法」で管轄は観光庁だから、国土交通省が主管しているのだが,省令になると厚生労働省も顔をだしている.

いろんなひとが出入りするのが宿泊施設なので,衛生,という側面はたいへん重要だ.
ホテルや旅館でチェックインのときに書かされる「レジストレーション・カード(宿帳)」記入義務も,伝染病発生時のトレーサビリティ確保がそもそもである.

役所の肩をもつ気はさらさらないが,公衆衛生,というしごとは,当面役所の存在意義がありそうだ.
もっとも,日本の役所はどこも「産業優先」というDNAをもっているから,「公衆衛生業界」を行政が優先する悪癖には注意したい.

近年では,2002年から翌年にかけて東南アジアで発生した「SARS」が記憶にあたらしい.
このときは,裕福なかなりの人びとがわが国に避難してきた.これで,高級ホテルはずいぶんと部屋が売れた.
しかし,なかには感染者がいるかもしれないから,とくにフロントと客室清掃係のひとは,予防に注意をはらったものだ.

宿泊業や飲食業にとって,なにより困るのは害虫と害獣である.
「食」に関していえば,これに「菌」がくわわる.
営業停止処分にもなりかねないから,対策をしていないなどということはないだろうが,残念な事故は毎年発生している.

ここにきて,これまでなかった「敵」があらわれている.
トコジラミ(南京虫)である.しかも,「スーパー」が頭につくのが最近の特徴で,市販の殺虫剤に抵抗性を持つようだから,たいへん厄介である.

日本での被害は,外国人観光客が持ちこんだことから発生している.
そもそも,「南京虫」は,戦後のDDT大量散布などにより,わが国では撲滅していた.
近年,ニューヨークでの大量発生が報告されてから,日本に上陸しているので,ルートはアメリカと中国系になるという.
それが,主に旅行カバンや段ボールの隙間にくっついてやってくる.

この昆虫は,吸血することでエネルギーを得る.
卵を産むには,最低一回は吸血しないといけないらしいが,産み出すと日に6個程度を生涯産み続けるから,爆発的に増殖する.

成虫になると,5分から10分かけて吸血するというから,一回でかなり大量の血を吸う.
血液にはそうとうな栄養があるらしく,一度吸血すると,そのご一年以上生存できるというから,たいへん省エネルギーな虫である.
また,こまったことに,天敵があの「ゴ◯ブリ」なので,天敵をつかって駆除するという手がつかいにくい.

何カ所か刺されるのは,満腹になるまでやめないからだ.時間がたってかゆくなると刺されたとわかる.吸血を旨とする生きものは,ヒルやコウモリも吸血のあいだ相手には気がつかないような工夫をもっている.

生涯ではじめて刺されたひとは,抗体がないからかゆくない.
二度目以降は,はげしいかゆみとなって,そのへんの虫刺され薬では効かないことがしばしばだ.
それで,とある宿泊施設で全身の複数箇所を刺され,かゆみとむくみで仕事ができなくなったひとが訴訟をおこしている.

被害者もお気の毒だが,被害をだした宿もお気の毒である.しらないうちに,どなたかが持ちこんだとしかいえない.
この虫の根絶には,困難をともなうから,時間と経費がかかる.
たいへん扁平な形なので,せまい隙間にかんたんにはいれるし,夜行性だから昼間はいないようにみえる.くわえて,上記のように繁殖力がすさまじい.
とくに外国人観光客がふえてきたという宿は注意がいる.

予防方法は確立されていないが,被害がないうちに専門家へ相談するといい.
発生したときの根絶にかかわるリスク,訴訟リスク,ネットで書き込まれるリスク,などなど,やばいことだらけになる.
少しでも予防措置をすることが重要だろう.

どうしてこうなるのか?

世の中には,「不思議」がたくさんある.
なかでも,役所主導の人為的な「キャンペーン」ほど「不思議」で「不気味」なものはない.
「都市鉱山からつくる!みんなのメダルプロジェクト」というのをご存じだろうか?
ご丁寧に,英語とフランス語のページもあるが,中国語(北京語や広東語),韓国語も,スペイン語も,ロシア語もない.どうして英語とフランス語なのだろう?

それで,「東京2020参画プログラム」というものにリンクされていて,上記キャンペーンはこのプログラムの一環であるということがわかる.
しかし,このページには,「Collections are within Japan only. See the Japanese language page for details.」とあって,詳しくは日本語のページを見よ,となっている.
不親切さもここまでくると,芸術的である.

このプログラムにすでに日本の良民200万人が登録し,「参画」しているというのが「ホーム画面」にいけばわかる.
しかし,なぜか,わたしには「ベルリンオリンピック」や「ナチス党大会」を彷彿とさせる不気味さがある.

必要なメダルは,5,000個とある.
これを,「都市鉱山」という不要な携帯端末から採取するらしい.それで,NTTドコモが主催者に名前をつらねているが,あとの携帯キャリアや製造メーカーの名前はない.
好意的に,なぜか?をかんがえてしまう.

電子部品につかわれる貴金属が,「都市鉱山」として回収され再利用されるのは,それが「貴金属」だからであって,「持続可能社会」などという寝ぼけた理由からではない.
どうして「持続可能社会」などということが「寝ぼけている」のかといえば,こちらが「価値」の上位概念になると,「経済合理性」という価値の上に君臨してしまう可能性があるからだ.

つまり,「損」をしてでも,なにがなんでも「回収」して「再利用」しなければならない,という「原理主義というイデオロギー」に陥ってしまう危険があるのだ.(すでに陥っているとしかおもえないが)
その「損」はだれが負担するのか?といえば,国民である.
ほんとうに,この国の国民はみんな,その「損」を背負ってまで,「持続可能社会」という「原理主義(=イデオロギー)」をよしとしているのだろうか?

オリンピックのメダル5,000個が,ふつうに製作されたばあいと,このキャンペーンによって作成されるばいいとで,いかほどの違い(損が)があるのか?
あるいは,「都市鉱山」を精錬するために,いかほどのエネルギー消費の違い(不効率)があるのか?
このキャンペーンを進める役所は,いっさい示しはしない.

すると,これは「オリンピック」という美名のもとに,国民の富を強制的に浪費しようという試みではないのか?
だから,「世界初」のことになる.
これまでの開催国(旧ソ連もふくめ)が,かんがえもしなかった愚策ではないのか?

もはやこの国は「ルイセンコ型の科学」が蔓延しているのではないか?という恐怖すらおぼえる.
「科学」が「政治」に支配されると,おぞましい結果になる.
それを,善意の市民を動員して実行しようというのは,悪魔のくわだてにひとしい.
「持続可能社会主義」は,設計主義の形態そのものだから,これすなわち,あたらしい共産主義である.

さいきん,元スポーツ選手だったひとびとから,「オリンピック廃止論」がいわれはじめている.
選手への過大な期待と,そのための過酷な練習の強要.
女子レスリングメダリストにかかわる,パワハラ問題とて,この譜系のなかにあるのではないか?
これにくわえて,際限のない商業主義.選手は生産しないから,とてつもないカネがかかる.

このキャンペーンを推進する女性知事は,なぜかこのての話には積極的である.
都民は,どうして平静でいられるのか?
偉大なる無関心,なのだろうかと思いたいが,200万人も登録しているから,やっぱり不気味である.

こういう「良民」が,戦前・戦中は暗黒だった,ときめつけるにちがいない.
じぶんたちがいま,何に協力しているのか?
もう,かんがえる力もないのだろう.
どうしてこうなるのか?

じつは,深いところでだれも過去の歴史を反省していないからだ.
近隣国から,歴史問題という政治カードをつきつけられ,それを消せない理由もきっとこれだ.
かれらの主張の中身はともかく,「日本人は反省していない」という一点においてだけ,真実がある.

広義の「自業自得」か.
まことに不甲斐ないはなしである.

いがいと長い「ゆとり教育」期間

新年度をむかえて,新入社員というひとたちが社会にでてきた.

「ゆとり世代」というと,平成14年(2002年)度から平成25年(2013年)度までつづいた「亡国教育時代」とおもっているひともおおかろう.
しかし,あにはからんや,昭和57年(1982年)に,若林俊輔・隈部直光共著「亡国への学校英語」という本が上梓されている.

著者のひとり,故若林先生は「闘う英語教師」として名を馳せた,中学校の英語教師でもあった東京外大教授である.
初版で改訂版がでることなく「絶版」となりながら,いまだ人気おとろえず「中古」で取引されている,三省堂「VISTA英和辞典」の編者である.

 

「英語嫌いのひとを英語好きにさせる」という目的の辞書だから,いまはおおくある「読む学習辞典」の最初である.
「まえがき」と「使いやすい英和辞典を目指して-この辞書で工夫したこと-」を読むだけで,一種の感動すらおぼえる.改訂版が出ないのはなぜかと,不思議におもう.

冒頭の本をながめると,文部省の教育行政がいかにずさんなものであるかが「英語科」をつうじて告発されている.
教職課程には,「教育行政学」がひつようではないかと提案があるのは,現状の教職員が行政のしくみを「知らない」ままに先生になるという指摘である.

大学の教員養成課程で,教えない,というのは,一種の愚民化であり,教育行政の立場からはたいへんなアドバンテージだ.
教えない,ことも行政側が関与しているのではないかとうたがう.
大阪の私立小学校の土地問題より,よほど重要な行政の関与ではないか?

ようは,昭和55年(1980年)度あたりから,「ゆとり教育」ははじまっているのだ.
そして,中曽根内閣による「臨教審」が,昭和57年(1982年)に「ゆとり教育」を「方針」として決定している.

ここで,わすれてはならないのは,「ゆとり教育」の嚆矢は,昭和42年(1972年)の,日教組によることだ.
すなわち,一般に「タカ派」とか「右翼的」と評価されることがおおい,中曽根康弘氏の正体はなにか?といえば,実績からするとかなり「左派」なのである.当時の帝国陸海軍軍人のおおくが「アカ」かったことの証左かもしれない.

昭和55年(1980年)に小学校にはいった子どもは,昭和48年(1973年)生まれになるから,ことし45歳になる.高校は昭和57年(1982年)度からだから,昭和41年(1966年)生まれなので,ことし52歳になる.

じつは,社会の中心的世代が,第一次「ゆとり教育」世代になっているのだ.
その世代が,「本格的」になった「ゆとり教育世代」をつめたい目でみているという構図である.
「脱ゆとり」は,小学校で平成23年(2011年)度,高校で平成25年(2013年)度からはじまる(中学校はその中間)から,小学生1年生だったひとはことし13歳の中学生,高校生1年生だったひとはことし21歳になるので,すでに社会にはいりはじめている.

中学校の数学で「統計」を復活したのは,「脱ゆとり」の平成24年(2012年)度からで,これが「30年ぶり」だから,昭和57年(1982年)の中教審による「ゆとり方針」と合致する.
すなわち,いまこの国の中心的世代になっている,第一次「ゆとり世代」は,「統計リテラシー」が基本的にないひとたちになっている.もっとも,本人たちのせいではないが,これが,むこう30年間つづくことは確実である.学校で「教えなかった」のだから,そうなる.

しかし,大人が「学校で教わらなかった」と開き直っても,「脱ゆとり」世代は教わってしまう.
30年間というひと世代分が,すっかり愚民教育を受けてしまった.
これを推進したのは,政治(与野党とも)であり行政であるから,なんのことはない,この国が民主主義国家なら,われわれ国民の選択であった.

さて,冒頭の書籍にはなしをもどすと,日本における英語教育の「成果」についても当然に解説されている.もちろん,日本人のおおくが英語を話せない.この現象を,若林先生は,「外国語教育」と位置づけていないことが主因だとしている.

英語の授業が,読解に偏ってしまい,それが「暗号解読」状態になるのは,日本語=英語にしてしまうからだとの指摘だ.なんでも「和訳」しないと気がすまない.
「暗号解読」なら,いっそのこと本物の「暗号」を科目にしたほうが,生徒の将来にやくだつだろうとも書いている.

さらに,問題提起はつづく.
そもそも,教育はだれのためか?こたえはもちろん生徒のため.
生徒の将来と人生が,明るくひらけるように準備するのが教育である.
「顧客志向」の欠如.
これが,教育行政の本質である.

その欠陥を,教師に責任転嫁し,「教師の資質の問題」にするのは,経営がかんばしくない宿事業主が従業員のせいにする体質のコピーのようだ.
さらに,生徒という顧客層の劣化をなげくなら,まさに国営事業が失敗したパターンとおなじだ.
先生は,英語という外国語を教える教師には,英語を話せる,という条件が必要だという.そのために,顧客志向の再構築なくして,教育にはならないというのは,ビジネスの世界では当然すぎる.

そうかんがえると,国家が親に子どもの教育を義務とし,子どもは教育をうける権利があるまではよしとして,国家が直接教育内容に関与するのはいかがなものか?
憲法89条の私学助成禁止を骨抜きにしたのは,私学にも国家が関与するから,という解釈である.

これで,わが国には,独自教育をほどこす「私学」は事実上存在できなくなり,独自教育を看板にするだけで実際は国家管理という無競争状態になっている.もはや,いかなる「私学」も,国からの助成金がないと経営できないからだ.

小学校で英語教育をはじめるという.
ますます,英語嫌いを拡大生産するのではないか?と英語嫌いのわたしすら心配だ.

未完の妙

世の中には「未完」がたくさんある.
あの「未完成交響曲」も,もしかしたら「未完」ゆえの「名曲」なのかもしれない.
無限の可能性すら秘めているのが「未完」である.
これは,うらがえせば「完成させたい」という欲求があるからだ.

ということは,先に「完成」のイメージがある.
そのイメージが受け手によってさまざまに想像できるほどの出来映えだから,「未完」といっても価値があるのだろう.
建築では,ガウディのサグラダファミリア教会がそれだ.

1882年に着工され,完成に300年はかかるとされてきた.
しかし,音楽では「絶筆」ゆえに「未完成」となるが,建築には「設計図」がある.
だから,工事をつづければ「いつかは完成する」.
その間は,「未完成」の建造物を「見学」しているのだ.

あまりに壮大な設計ゆえに,この建物完成には数世代もの時間がかかるから,現代の我々は完成をみることはないと思われた.ここに,ある種のロマンがあった.
しかし,報道によれば,最新の3D技術の投入で,あと十年もすれば「完成」するというから,奇妙な気分になる.

人間の一生はみじかい.
それを,宗教建造物が形にしてしめしていたから,「完成が望まれない」こともある.
現代技術の,なんと無粋なことか.

その人間を,「合理的な行動しかしない」という条件で構築されたのが「現代経済学」であった.
しかし,あんがい「合理的でない行動」を望むことがある.
あるいは,自分のなかのえも知れぬものによって突き動かされることがある.
そのとき,ひとは「損得勘定」をしてはいない.それは,ビジネスの場面であってもいえる.

人様に役立つことはなにか?
これをかんがえることが,ビジネスの成功のタネである.
そして,これをやりきると,人様から尊敬をえることになる.
そうしたひとが,人生の成功者である.

宿泊目的が「絵を描く」というひとを集めれば,「絵画の宿」になる.
ササッとスケッチを描き上げる腕前があって,それをじっくりあとで「作品」にできるひとは,たいしたものだ.
ある場所が気に入れば,そこに住んで絵に没頭する.これができるひとは,ふつうのひとではない.

だから、おおくのひと,という「マーケット」をかんがえると,未完の作品を預かるという「サービス」があってもいい.
風光明媚な場所は,たいがい不便なところだから,そこに「画材店」があってもいい.
それで,土産物をあつかう宿の売店をやめて,画材店にかえた.
店員に知識がないとこまるから,県庁所在地の画材店に研修を依頼した.

近所に画家はいないかとしらべたら,やっぱり住んでいる.
絵画目的の宿泊客に「教室」講師を恐る恐る依頼したら,一つ返事だった.
広めの部屋を,アトリエに改装しようと計画したが,そこにリーマンショックという「大津波」がやってきた.

結局,意図せざる事態にあがなえず,あえなくオーナーチェンジとなりはてて,「未完」のまま,低価格が信条の新オーナーへと引き渡された.
いまでは,「未完」どころか影かたちもなく「お得感」だけの宿になったろう.
「苦い」思い出である.

みせびらかしの消費

ひとの欲求には,動物としての生理的なものと,社会をかたちづくることからの社会的欲求という二系統がある.
貧しい時代は,生理的な欲求がおもであることは容易に想像がつく.
それで,いまのような豊かな時代になると,社会的欲求をつよめるひとびとがでてくるものだ.

ながい封建時代のあと,なぜか資本主義がおきて(なぜだかいまだ解明されていない),それが産業革命を産み,資本主義社会が急速に発達する.その過程でしょうじた社会のゆがみを批判したのがマルクスだった.
マルクスが大英図書館で「資本論」を執筆したことを,英国人は「偉大なる書物を執筆したひとへの英国人の偉大なる無関心」といった.

その無関心な英国人のひとり,元大蔵官僚のケインズが「一般論」を書くと,これを「ケインズ革命」とよんだが,ケインズ理論を実際に国家の経済政策に採用したのは,ヒトラーだった.
政府が借金をしてでも有効需要を創出すれば,経済は回転して好景気になると.
それで,当時,だれも自家用車など所有していないのに,アウトバーンをつくった.だれもが,ドイツは「巨大政府債務で経済破綻する」とおもったが,そうはならずに「独裁」による「政治破綻」でくにが滅びた.

そのケインズの有効需要のはなしには条件があって,ケインズ本人は「不況のときの政策に限定」と強調していたが,「いつでもおこなう」のは,政府の行動原理である.こうして,マルクスの革命ではなく,ケインズの革命で国家は社会主義(富の分配は国家=官僚が行う)を達成できた.

マルクスとケインズの間に,ひとりの偉大な経済学者がいたのだが,その人の名前はいまはあまり人びとの口にはでなくなった.ゾンバルトという.
有名な著作は,「恋愛と贅沢と資本主義」である.

なぜ資本主義が生まれたかを,貴族の恋愛が贅沢な贈り物文化を活発にし,その生産が資本の蓄積を呼び込んで,消費しまくった貴族は没落し,稼いだ側が勃興したという理論による解説である.
この過程で,重要なのが「みせびらかしの消費」である.
恋人にどんな贈り物をするのか?
その中身の豪華さが,贈り主の地位であり受け取る側の価値になったのだった.

だから、だれからだれに贈るのか?というのではなく,何が,という贈り物だけに関心が集中した.

ペット,とくに犬と猫は,わが国ではすでに人間の子どもの数よりおおくなった.
「インターペット2018」が今日まで,東京ビッグサイトで開催されているので初日に行ってみた.
このイベントは,ペット同伴が可能なのである.

会場で気がついたのは,皆様が連れているペット(犬)のおおくが,たいへんきっちりと躾けされていることだった.
すなわち,「訓練された犬」を連れていることが「ステータス」になっているのだ.
だから,さまざまな「物品」や「サービス」を消費する意味が高まるのだ.

「訓練された犬」への投資という,目には見えない「背景」こそが,来場者たちの条件になっていたとおもう.
つまり,街で見かける「訓練できていない犬」の飼い主たちと一線を画す飼い主の存在である.
すでに,二極化しているのだ.

また,外国の自動車メーカーの出展も興味をひく.
ペットとドライブに出かけることをアピールしているが,それは「訓練された犬」を対象としている.
たしかに,「訓練できていない犬」とのドライブなら,それは苦難しかないだろう.

「訓練された犬」を所有する.
これこそが,この分野のみせびらかしの消費の条件なのだ.

日本をパクる中国

偽ブランド品といえば,中国製という条件反射ができた.
アメリカ大統領がこれに「罰金を課す」といったら,いきなり中朝の「外交」で対抗した.
暴力的でこまった人たち,なのだが,この人たちの手本は日本ではないか?とおもったので書いておく.

明治からこの150年間,日本という国のコンセプトは,「もたざる国の悲哀をいかに克服するか?」であったのではないか?
世界で最初に産業革命をなしとげた英国は,典型的な「持てる国」だった.
おなじ島国ではあるが,このちがいは決定的である.

日本が開国したとき,英国はすでに「持てる国」だったから,こちらからみれば相手ははるか先を走っているし,相手からみればこちらはよく分からない存在だったのだろう.アーネスト・サトウを読めば,そのへんの事情がよくわかる.

産業史を働くひとの方からみると,労働組合のなりたちの日英でのちがいも,「持てる国」と「持たざる国」のちがいとなってあらわれてくる.
岩波新書にある大河内一男「戦後日本の労働運動」(1955年)をみれば,丁寧な解説がある.
ついでに,この本の出版年に注目してほしい.

このテーマを,広くみているのが片山杜秀の「未完のファシズム」(2012年)であるから,あわせてみるとよいだろう.

 

さて,ここからが中国のはなしである.
わたしはもちろん近現代史の専門家ではない.しかし,近現代史で彼の国を「中国」とよぶとわからなくなることがおおいにある.「わからなくなる」とは,主語のことである.
つまり,いったいそれは,いつの時代なのか?とか,支配者はだれだったのか?とか,地域的にはどこだったのか?とかという,基本的なことが,「中国」ではおおきすぎてわからなくなる.

日本とちがって,200もの民族がすむといわれるから,それなりの大きさや時代における区分が必要だということだ.
ありていにいえば,「日清戦争」というように,近代のはじまりにおける彼の国は「清」だった.
ところが,この国は,「満州族」という外国人による征服政権だから,自分たちの出身地ではない南方の土地にたいする執着がない.それで,アヘン戦争とよばれる「英清(清英でもよい?)戦争」で,香港を引き渡すことになってもあわてなかった.

「満州」は,いま「東北部」とよばれているが,万里の長城の東側であるから,古代以来の歴代も,直接支配したことはない.清のラストエンペラーだった,溥儀氏をおしたてて日本は「満州国」をつくり,そこの初代に溥儀氏をすえたのは,故郷にかえってきたということだった.
だから,当時の地図をみると,いまの「中華人民共和国」がやたらと膨張しているのがわかる.

辛亥革命で,清王朝が滅亡し,できたのが「中華民国」だ.それがうまくいかなくて,結局は,毛沢東の共産党と,蒋介石の「中華民国」が内戦をしたり手を結んだりして,おわってみれば「中華人民共和国」になっていた.どちらも略すと「中国」になるから,ややこしくなるのだ.それで,蒋介石が逃げ込んだのが「台湾」だから,これを「台湾」とし,大陸を「中国」とよんでいる.

日本領だった台湾の帰属問題は,いまだに放置されているが,本来はいまも日本領のはずである.
これを,李登輝元台湾総統も指摘している.台湾独立問題のそのしたの概念には,国際法的にも日本領のはずだという問題がひそんでいる.

毛沢東が国内に引きこもってくれたおかげで,日本はおおいに「輸出」で稼げた.
その毛沢東が,大陸を支配できたのは,うまく蒋介石と日本軍が戦ってくれたからだとして,日本軍に感謝の発言をしていることは,とっくに封印されている.

ところで,明治以来の「持たざる国」の日本では,いかに人件費を安くするかが国家戦略でもあり,企業戦略でもあった.資源がない,とはこれを意味する.
この大戦略は,いまもつづいている.ここをおさえないと,おおきな物語を見失う.

それで,毛沢東が死んで,改革開放になったとき,中国人は日本のシステムをパクった.
ソ連と大げんかしたなかで,じつは日本がソ連型社会主義でもっとも成功しているとみえたのではないか?

日本にかわって,「世界の工場」になったその中国の労働者対策は,労働者の国のはずなのになにもしないという政策で,支配者がふとることしかしない.
よーく観察すると,中国は日本型社会主義の国なのだ.

現代の栄養失調

半世紀前なら,青ばなをたらした「欠食児童」が典型的な栄養不足の象徴だった.
いまは,カロリー過多でありながらの栄養失調が指摘されている.
ようは「かたよった食事」で,かんじんの栄養バランスがグズグズになっているという指摘である.
推奨される料理は,洋の東西を問わず「伝統食」であるから,旅館における地域の伝統料理がそれにあたる.

ところが,その伝統的料理にも問題がみつかりはじめた.
材料となる野菜や穀類に,ほんの数十年前にはなかった変化がではじめたというのだ.
それは,おもに化学肥料による栽培で,土壌がやせてしまい,ほんらいあるはずの栄養がなくなっているらしい.

つまり,見た目のかたちは以前のママだが,なかみが薄まっているとの指摘があるのだ.
これは由々しき問題で,「栄養成分表示基準」が狂ってしまうことを意味する.
栄養士という専門家の栄養計算だけでなく,一般人もあるはずの栄養がとれない,となれば,なにをどのくらい採ればいいのかわからない.

薄まっているのなら,かつての成分量を摂取するには,当然に「量」をふやさねばならないが,それでは「過食」のすすめになってしまう.
なるほど,食事制限をともなう「ダイエット」で,栄養失調になるのはうなずける,などというばあいではない.

これは,現代人全員にあてはまる.
それに気づいた医師たちが,本流の学会からはなれて,不足している栄養を強化する医療をはじめた.
これらの医師の主張は一貫していて,がんをふくめた慢性病のおおくが栄養バランスの欠如が原因だとしている.
急性の症状には,直接「対処」することが得意な西洋医学がよい.しかし,生命・動物としての人間が,慢性的に患う原因が栄養バランスの欠如とするのは,理にかなっているようにおもう.

もっとも深刻に「欠如」している栄養素は,「ミネラル」だという.
「ミネラルウォーター」の「ミネラル」とは,中学高校でならう「元素の周期表」にあるなかで,「H(水素)」,「C(炭素)」「O(酸素)」,「N(窒素)」の四つ(有機物)をのぞいた,のこりすべて(無機質)をいう.
そして,「ミネラル」摂取が重要といわれるのは,これらの物質を体内で合成することができないからだ.
けだし,「ミネラルウォーター」だけで,欠乏している「ミネラル」がとれるというほど安易なものではない.ボトルにある成分と含有量をみれば,これも「かたよっている」のがわかるだろう.

日本では13元素をさだめているが,これは「分析可能」という基準でもある.
「必須ミネラル」は,以下のとおり.
ナトリウム,マグネシウム,リン,硫黄,塩素,カリウム,カルシウム,クロム,マンガン,鉄,コバルト,銅,亜鉛,セレン,モリブデン,ヨウ素

「周期表」から四つを除いたものすべてが「ミネラル」というのは,つまり,「地球」ではないか?
そもそも,ミネラルから除かれる四つは,「有機物」だから,これらがなければ人間としてのからだが存在できない.これに,「ミネラル」がないと「栄養失調」になるのだから,地球を食べよ,ということになる.

すなわち,なんとなくの「知識」にすぎなかった,太陽系のはじまりから「生命の誕生」を経て,われわれ人間にいたるものは,地球のなかから生まれた,という単純さに回帰しているにすぎない.

農地が痩せるのは,むりやり作物をつくるからで,そのために化学肥料が投入される.これに農薬も加わるから,土壌のなかの微量な成分はとっくにうしなわれている.
そもそも,化学肥料は植物の成長にひつようなおもな成分だけしかふくんでいないからである.
だから,形がおなじでも中身がちがう,ということになる.

もちろん,昔ながらの農法でつくるものはよいだろう.
しかし,化学肥料や農薬をつかって大量につくることも否定はできない.そうでなければ,安く大量に,すなわち便利な生活ができないからだ.
その見返りに,わたしたちは,「ミネラル」という栄養を欠乏させ,病気になっている.
なんとも因果なはなしなのだ.

だから,そう遠くない将来,「ミネラル強化」というサービスや食品が,ふつうになるにちがいない.
「ミネラル療法」は,そのさきがけなのだろう.

しかし,一方で,デカルトの動物機械論のようになると,それはそれで不気味である.
ほどほど,をかんがえなければならない.