トランプ弾劾の大ブーメラン

「とにかく(TONIKAKU)」と名乗って、世界標準になったタレント・オーディション番組(Britain’s Got Talent)で、英国人を爆笑の渦に巻きこんだのは、「トニー」こと安村氏の、度胸だけで構成された瞬間芸だった。

「とにかく」、なにがなんでもトランプ氏を排除しなければならない

これが、まさかのヒラリー・クリントンを破った、泡沫候補のはずのトランプ氏への、DS:ディープステート:闇の政府からのミッションだった。
何度も書くが、超高級官僚群のSESに指示を出しているのは、政治家ではなく、軍産複合体(さいきんでは、「ビッグファーマ」も)の企業オーナーたる、大富豪の金融資本家たちだ。

それが、「ビルダーバーグ倶楽部」で、配下のフロント団体が、世界経済フォーラムである。

しかも、このひとたちは、家系における世代を超えて、自分たちが実質支配する「世界」を構築するために、思想的には完全に、「共産主義・グローバル全体主義」に染まっている。
わかりやすいから、いつも例にでてくるのが、ジョージ・ソロスで、彼の「財団」が、「オープンソサイエティー」を名乗っている。

要は、「解放財団」ということで、ついに「引退」を表明しても、とっくに息子へ運営の実権は相続されているのだ。

ソロスの祖国、ハンガリーでは、「反ソロス法」ができて、彼は、国民の敵=犯罪者としての位置付けにある。
アメリカでこんな法律ができないし、逮捕もされないのは、政府を挙げて「親ソロス」だからである。

これに真っ向対抗しているのが、共和党トランプ派だ。

しかし、同盟国の筆頭、日本では、カウンターパートたる政党は、親ソロスがほぼ全部の与野党であって、親トランプ派(反グローバリズム全体主義)はわずか参議院議員1名の参政党しかないという実態になっている。

9日、アメリカ司法省は、連邦レベルで大統領経験者を起訴するという、建国史上初をやった。

その罪状は、37件もある、と報道しているけれど、まともな「法律知識」とまでいわずとも、なんかへん、という感覚にならないとおかしいのではないか?

なぜなら、トランプ氏の罪状が、そのまま、クリントン大統領、クリントン国務長官、ブッシュ(息子)大統領、オバマ大統領、バイデン副大統領といったひとたちも、まったくおなじかそれ以上の「罪」があるのに、一切お構いなしになっていて、これらのひとたちは、当然ながら本件には沈黙を貫いている。

なぜなら、マスコミやらの記者が、彼らに質問をしないからだ。

ではなぜいま?なのか。
これはかんたんで、バイデン大統領一家の犯罪証拠が連邦下院司法委員で暴かれて、どうにもならない事態になっているからである。

つまり、左翼がお家芸とする、「論点ずらし」をやっているのである。

これは、トランプ氏を歴史的に2度も弾劾した、当時の民主党が支配した連邦下院の行動もおなじだった。
オバマ政権下のバイデン副大統領がやった、ウクライナ汚職を隠蔽するために、なんと主語をバイデンからトランプに置換したのが、1回目の弾劾起訴だった。

2回目は、1月6日の議事堂襲撃事件の首謀者としての弾劾起訴だったけど、こちらも、民主党ペロシ下院議長が仕組んだ騒乱だったことが議事堂内監視カメラ映像の公開で判明してしまったし、ずっと大騒ぎをしていた、「ロシア疑惑」も、民主党全国委員会とヒラリー・クリントンがでっち上げた選挙妨害であったことが、公式に認定され、この両者は罰金刑を受けている。

疑惑のなかのひとり、バイデン大統領の次男(長男は他界)、ハンター氏は、薬物中毒だからかなんだか、自身が弁護士のくせして墓穴を掘ることをやっている。
そのひとつが、「地獄のパソコン」と呼ばれる、修理に出したが受け取りにいかなかったPCにあった怪しいデータの数々で、FBIが正式調査をしても意図的に捜査を放置したことも判明した。

今般、彼がいったん認知した子供の養育費の支払い拒否したことから、母親が訴えて、とうとう裁判所から「所得の全面開示」を命令された。
これがまた、外国からの汚職の送金を明かす意味となって、ハンター氏ばかりか大統領自身がした汚職の致命的証拠になりかねない事態になったのである。

あくまでも大統領を守る、という意味で頑張っているから、立派なのは司法省とその長官だが、すでに副大統領時代のウクライナ汚職は、上記の下院司法委員の捜査でほぼ解明されてきている。
それでもって、とうとう、疑惑の目が、「本命」のオバマ氏にも向き始めた矢先の「トランプ起訴」なのである。

これを日本に帰化した、張陽氏は、みごとな東洋哲学をもって解説している。

バイデン氏が上院議員のまま政界を引退していたら、数々の汚職はだれも関心をもたずに闇の中であったものを、大統領職を求めたゆえに、その隠蔽工作が必要となって、それがシッポを晒す原因になった、と。

なんだか、『平家物語』のような展開になっている。

栄枯盛衰とは、古今東西の理(ことわり)で、まさに「驕れるものは久しからず」なのである。
そんななかで、FOXニュースを解雇された、タッカー・カールソン氏が、Twitterに登場した。
再生回数は、数日をまたずに、1億回を突破した。

来月には、トランプ氏とコラボするとも発表している。

日本国内の平穏をよそに、アメリカでの激しい攻防戦は、どんどん加熱しているのである。

しかして、事実が暴かれて、虚偽が窮地にたたされる当然ともなっている。

焦った、世界経済フォーラムやらの勢力が、アメリカを棄てて、日本で強行採決している姿だけが目立つようになってきた。

景気は循環するものか?

経済生活をしているうえで、「景気」について、いまいいのか?わるいのか?が、挨拶代わりだった時代があった。

とくに、「天下の台所」だった大阪は、商人(あきんど)の街だった、というよりも、日本経済の中心地で、政治の中心地、江戸と、京の権威の中心とで、「三都」をなしていた。

なにも「藩」だけではなく、用途的にも分散型社会だったのである。

そんな大阪の典型的な挨拶は、
A「まいど、儲かってまっか?」
B「ぼちぼちでんな」
であった。

これを、無粋にも標準語訳すると、
A「どうもお世話になっています。ご商売の方はいかがですか?」
B「ええ、お陰様でそこそこで暮らしていますよ」
となる。

そもそも、「景気」の気は、気分の「気」だから、心理的な言葉であって、人間の経済社会は集団心理に左右されることの本質をついている。

この意味で、英国発祥の古典派以降の「経済学」は、今に至るまで、「心理」を無視した状態にあるのが、「つかえない」ことの重要な理由になっているのである。
それゆえに、先進企業では、社会心理学やらの学位をもったひとたちが、マーケティング分析をして、かつ、自社の販売戦略を練っているのである。

この意味で、むかしいわれていた、「とりあえず経済学を専攻しておけば、つぶし(おそらく、「応用」のこと)が効く」というのは、ウソであった。
むしろ、人々の心理を無視した、無機質な結果データだけで、「景気循環」なぞというテキトーを擦り込まれてしまうのである。

もちろん、景気はよくもなり悪くもなる。
それを肌で感じたから、商都であった大阪商人の挨拶にもなったのである。

しかし、大阪経済の衰退は、高度経済成長時代には深刻化していて、かつては、大蔵大臣が就任したらすぐさま大阪経済人に挨拶におもむいて、経済政策の本音の要望をインタビューしたものだったが、もう半世紀も、どの大臣もそんなことはしなくなったのである。

新幹線がなかった時代は夜行でも大阪に行って、新幹線ができたらだれもいかない。

しかしながら、これは大阪とか関西経済が衰退した「だけ」が理由か?と問えば、GHQが仕掛けた、社会主義中央集権体制(計画経済体制)の構築と完成時期とに一致していないか?とうたがうのである。

ようは、政都、東京を中心にした、政府主導(日銀も政府に従っていた)の介入こそが、経済政策になった、ということだ。
これぞ、「ソ連型」なのである。

だから、70年代のおわりから、80年代のはじめに、「日本は世界でもっとも成功した共産主義国」と指摘があったのは、正しいものだったけれど、国民がこの指摘を「そんなバカな」といって相手にしなかった。

日本は自由経済圏(西側)だと、だれもうたがわなかったからである。

これが、「とりあえず経済学を専攻しておけば、つぶしが効く」ということの結果なのである。
いわば、猫も杓子も経済学部に、「とりあえず」はいって、まじめな学生ほど洗脳され、あくまでも「とりあえず」を貫いた学生は、テキトーな企業に就職してからまじめに働いたのである。

そんなわけで、経済循環も、政府依存になった。

政府がなにかをしないと、景気が悪くなる、という意味の国民心理になったのである。
だから、景気後退は許されべからずもの、になって、どんどんと予算がついた。

こうして、政府の予算がつけばつくほど、大阪や関西経済が衰退したことに、関西経済人たちが気づかなかったばかりか、もっともっとと要求して自爆したのである。
しかし、こうした「毒」が、中央集権制だから、わが国の津々浦々まで蔓延して、日本経済全体が衰退することになった。

この流れから、かんがえてみれば、バブルをどうして崩壊させたのか?という問題が立ちはだかるのである。

昭和の終わり、平成のはじめのバブル経済とは、空前の好景気だったのだ。

しかして、あの好景気の中身は、潤沢な資金が生産性向上のために投資されるべき「拡大総生産」にではなくて、生産性の向上とは無縁の、「土地投機」と「株式投機」にだけ回ったのである。

だからけしからん、というのではなくて、ちゃんとしたメカニズムを国民におしえないといけないのに、いまだに政府はシラを切っていることが、けしからんのである。

つまり、計画経済体制になっていたことを思い出せば、「官製バブル」だったのである。
それを見事に崩壊させたのも、日本政府の政策だった。

なんと、マッチポンプなのである。

だから、崩壊すべく崩壊した、というのもウソである。
崩壊させたかったから、崩壊したのだ。

けれども、バブル崩壊だけが、その後30年以上にわたる衰退の原因になるのか?

どさくさに紛れて当時のアメリカFRBが仕掛けて実行されたのが、「BIS規制」だったのである。

これで、わが国の銀行経営が立ち行かなくなって、東京を世界の金融中心にするという計画も水泡に帰したのだった。

しかし、順番は逆で、東京を世界の金融中心にするという日本政府の計画を潰すために、FRBが動いたのである。
その証拠は、ボルカー議長(当時)の発言に残っている。

でもそれよりずっと前、つまり、バブル経済になる前の、「プラザ合意」こそ、彼らの日本経済潰しのための長期シナリオの開始スイッチであった。

つくられた、強い円が、世界の経済人に脅威となるように仕向けたのである。

ここに、景気循環なんてだれもかんがえていないことに気づくであろう。

あのケインズは、あの『雇用、利子及び貨幣の一般理論』で、サラッと以下のことを書いている。
「誰の知的影響も受けていないと信じている実務家でさえ、誰かしら過去の経済学者の奴隷であるのが通例である。(岩波文庫、下巻、P.194)

「二権分立」の発明

「破壊」をもって宗とする、ヨーロッパ大陸での厳しい生存競争は、「三権分立(立法・行政・司法)」というアイデアをうみだした。

そうやって、支配者たる「王」やらの権利を、貴族たちがよってたかって抑制して、貴族たちの「権利の章典」を王に武力で認めさせ、署名もさせたのである。
だから、本来、ここには、一般人は蚊帳の外で存在せず、あくまでも上からの「統治」の原則にしたのだった。

しかし、「造り変える」ことを宗とする、地球上で一カ所しかない、温帯の島国(=「日本列島」以外で温帯の島国は存在しない)では、協調(=「和」)を根本としたので、「二権分立(権威、権力)」を発明したのであった。

「三権と二権」とをいい比べれば、なんだかひとつ多いか欠けているようにみえるけど、内容のレベルが哲学でみればぜんぜんちがう。
この「二権分立」というものが、世界に類をみないから、自分たちだけが世界標準だと勘違いしてはばからない、傲慢な欧米人には、日本が「不思議の国」に写るのである。

古来、天皇の権威と世俗的政治権力は分立してきたから、歴代の武力でする為政者も自ら天皇になることはひとりもできなかった。

このことだけでも、ヨーロッパ大陸の破壊する力を信奉するひとたちからしたら、きっと「バカ」にみえるのだろう。
彼らがどこまで日本史にくわしいかしらないが、源頼朝も、足利尊氏や絶頂を極めた義満も、徳川家康も、全員が天皇に仕える征夷大将軍の身で納得したのである。

平清盛に織田信長、豊臣秀吉の例外は、清盛の一家の興隆は藤原を真似た一族独占だったし、信長はその野望(「天下布武」)実現の前に倒れたことになり、秀吉はその出自から、関白・太政大臣「止まり」という、変な言い訳でお茶を濁している。

朝廷の序列からしたら、征夷大将軍をずっと超えて、もっとも天皇の地位に近づいたのは、清盛、秀吉だったのに。
秀吉の直属の上司たる、また、鎌倉幕府以来の「弾正」の家柄を自慢した、織田信長でさえ、「右大臣」までだった。

なお、「彈正」とは、律令制でいう「弾正台」の職員のことで、天皇直属の監察官であって、左大臣以下の行政官を監察し、ときに討ち取ることも許された重要職である。

しかしながら、やっぱり天皇にはなれなかったという、結論ではおなじなのである。

日本独自の二権分立の根本にある、ヨーロッパ大陸との決定的ちがいとは、一般人の扱いを「大御宝(おおみたから)」といって、国家の宝と位置付けていることにある。
これをまた、「百姓(ひゃくせい)」とも書いて「おおみたから」と読ませていた。

それは、「米作り」を土台とした生活基盤の、基盤そのものだったからである。

この発想が、日本企業の、従業員との一体感を重視する、どんなに組織人員数が巨大化しても、「家族的経営」が行われたことの背景にある。

なので、「人材の材は財産の財という」ことになっている。

いまでも、日本企業に就職して、「雇用契約書」にサインもしないし、その雇用契約書をみることもないのは、「一家の一員になる」からということで解されている。
これを、書面がなくとも「双方同意による雇用契約の成立」となっているから、日本人同士で問題になることはなかった。

ようは、従業員名簿に記載があれば、「武鑑」のように、身分保障がされたのである。

けれども、グローバル化で、外国人を雇用するばあいに、「誤解」されるようになったのは、ヨーロッパ大陸のやり方が、アジア人も含めて常識化しているからである。

そんなわけで、二権分立とは、ヨーロッパ大陸のひとたちからみたら、自分たちの歴史があまりに残念で否定されたように感じるのである。

なぜならば、大御宝の国民がこぞって、天皇に権威を与えているから、天皇から任命される為政者は、かならず「大御宝のため」になる施策をしないと、権威から叱咤されて大恥となることが、システム化されていることの「先進性」に気づくからである。

しかして、萬世一系の天皇とは、日本人全員の「家長」なのである。

なので、大御宝である国民は、自分の「家」を守ってきたのである。
これが、グローバル全体主義(共産主義)からもっとも初めに攻撃されることの理由である。
「家族の破壊」こそが、人間のアトム化(原子化=浮き草化)のはじめの一歩なのである。

「天皇制」という共産主義用語がここからできて、天皇家を攻撃し、一方で、大御宝たる個人の生活における家の破壊のために、とにかく「LGBT法案」を通すのは、こうした「破壊」の意味でぜんぜんブレずに一貫性があることだ。

ユダヤ人(グローバリスト側の)が書いた、『日本人に謝りたい』は、このことを赤裸々に綴っている。
あの、美濃部達吉の有名な、「天皇機関説」も、初期のグローバル全体主義からの指示による「天皇攻撃」だったけど、「翻訳に失敗した」ので、普及にも失敗したとあるがはたしてそうか?

大正デモクラシーの、怪しさがここにも見え隠れするのである。

芥川龍之介『神神の微笑』の憂鬱

この作品は、大正11年(1922年)に発表された、芥川龍之介30歳のときの作品である。

著作権が切れたので、無料で読めるのはありがたい。

芥川龍之介といえば、一応、「短編の妙手」という見方が一般的だ。
この作品も、すぐに読める短編である。

だからといって、すぐれた短編は、ずっとロングテールのように、あとを引くのである。
それに、時代背景とかもかんがえると、なかなかに作家から投げられたボールのキャッチがむずかしい。

それは、作品のなかの時代背景だけでなく、作家自身が生きた時代の背景もあるからだ。

さいきんでは、「握手の鬼」さんが投降している、『神様の憂鬱』というユーチューブ作品がおもしろい。
動画というよりも、A.I.音声に語らせる、その無機質な「読み上げ」が、練られた内容と合致してあたかも、「短編ラジオ・ドラマ」の様相を醸し出している。

とはいえ、イラストがまた巧妙なので、見入ってしまうのである。

大正期の芥川と、現代の握手の鬼が描く、「神」には、決定的ちがいがあって、それがまた面白いのである。

ひとことでいえば、「日本文化」と「外国文化」のちがい、である。

その話の前に、芥川龍之介がえがく、1924年の『桃太郎』は、帝国主義者として描かれている。
「鬼ヶ島」とは、あたかも日本のことで、桃太郎主従はかつてのモンゴルに服従した元寇のときの高麗連合軍ともいえるし、幕末の米(桃太郎)・英(猿)・仏(犬)・露(雉)をも想像させる。

一方、英国の文豪、サマセット・モームは、『コスモポリタン』誌に、つまり、芥川とほぼ同時代の1924年~29年にかけて、連載したなかに、『イソップ』からパロった、『アリとキリギリス』を発表している。

ちなみに、わが国に『イソップ寓話集』を伝えたのは、ザビエル以降の宣教師たちだったのである。

それで、「天正遺欧少年使節」(1582年に出発し、1590年に帰国した)がヨーロッパから持ち帰った印刷機を使い、イソップ物語などの「天草本」を全国に普及させた経緯がある。

なお、さいきん、「本能寺の変」は、信長、光秀、秀吉の間でした、「密約」で、どうにもこうにもヨーロッパ大陸に行きたくなった御屋形さま:信長の「野望」を実現するための、大芝居ではなかったのか?との説があって、これに家康がどこまで加担したのかはわからない。

少年使節は、2月20日(旧暦1月28日)に長崎を出港しているけれど、本能寺の変も、同年6月2日(旧暦6月21日)で、わずか3ヶ月半の誤差しかない。
マカオあたりで落ち合って、「船団」を組んでいた可能性は、むしろ当時としてはふつうなのである。

『神神の微笑』に話にもどすと、その主人公、オルガンテイノ神父も、イソップの普及につとめたひとりだったにちがいない。

例の、京都大学霊長類研究所が、宮崎県の幸島でニホンザルが「海水でいも洗い」をする行動が、伝播していくことが世界的に有名になった。

なにも、芥川龍之介とサマセット・モームの間で「伝播した」とはいわないが、昔話からあたらしい物語を創作するという意味で、同時期のこの二人の文豪の共通なのが興味深いのである。

モームの話は、よく人生の機微として解釈されているけれど、これを芥川のいう、『神神の微笑』に照らしたら、なるほど「破壊」を旨とする欧米人の神の発想が原点にあることもみえてくる。
その根拠は、なにせ『聖書』にあるからだ。

しかしながら、日本人の神はぜんぜんちがう。

「破壊する力」ではなく、「造り変える力」なのである。
つまり、オリジナルがどんなものであれ、それを造り変えて、「日本的なもの」にしてしまう。
いやむしろ、日本人は、日本的なものにしないと気がすまないのである。

それがまた、日本における「中華料理」であるし、「洋食」なのである。

イタリア人がにわかに信じない、パスタをケチャップで炒めてつくる「ナポリタン」なる料理は、完全に日本料理となっていて、来日したイタリア人は驚愕しながら食し、その美味さにまた驚愕するのである。

しかしもちろんイタリア人は、それがたまたまパスタを使っていても、決してイタリア料理とは認識しないし、日本人がイタリア料理を完全破壊したともおもわないで、「亜流」としてみるだけなのである。

『神神の微笑』を書いた芥川が、その2年後に、『桃太郎』を発表するのは、大正時代という不安定な時代背景を無視しては語れない。

社会主義の幻想が、美しくみえた時代であった。

しかし、芥川が自死してなお後の、戦中から敗戦後にかけて、社会主義国にさせられたわが国で、いま、ユーチューブで『神様の憂鬱』が発表されたのも、いまという時代背景を無視できないのである。
このドラマにある「神」は、日本的「造り変える力」ではなくて、人間に君臨する西洋の神となってしまったことで、「憂鬱」になったのである。

それはまさに、オルガンテイノ神父の憂鬱そのものなのだ。

この日本と西洋の、文明のクロスオーバーが、日本と西洋双方でねじれて、同時に憂鬱になっている現代社会病理の正体なのだ。

日本の西洋化と、西洋の日本化ともいえるのに、そのベクトルが一致しない不幸がある。
日本が日本らしさを発揮すれば、西洋は安心して日本化できるのに、である。

あゝ、「スパゲッティ・ナポリタン」をうみだした日本人のすごさよ。

信長は光秀とともに、バチカンで死んだというのは、たとえ荒唐無稽でも、妙に説得力があり、猿ならぬ秀吉がこの二人の希望を実現するのに奮闘したならば、主従の強固な関係すらも納得の美談となって光り輝くのである。

さすれば、信長・光秀の両名は、バチカンでなにを造り変えたのか?が気になるのである。
もしや、憂鬱のうちに亡くなったのか?

一方、現代の、握手の鬼が描く、ポリコレの『桃太郎』のおぞましさは、破壊神の日本征服が完遂したからだとしたら、もう憂鬱とはいっていられないのである。

だがしかし、芥川の『桃太郎』と、読後の気分が憂鬱になる共通は、「唯ぼんやりした不安」そのものなのである。

専門学校のアカデミズムと実学の大学

世の中には、専門学校がたくさんあって、少子化はこれらの経営に緊張感をもたらしている。

わが国における教育制度で、義務教育の中学校を卒業したら、就職するか進学するか?の二択に迫られた時代があって、就職を選んだ子供のことを、「金の卵」といっていたのは、戦後の「新学制」でのことだった。

なので、彼らが就職した会社の経営者たちは、「旧学制(旧制中学とかの旧制)」のもとで教育された世代だったことは、本ブログで何度も指摘していることである。

もちろん、わが国の「学制」とは、はじめは明治政府が定めたもので、連邦政府だった幕府から、中央集権に変換するための一環としての「全国統一」という意味がある。
幕藩体制下における教育は、ぜんぜん制度化されていなくて、武士には朱子学を奨励しただけで、庶民には関心もないようによそおって放置したのは、寺子屋での浪人の稼ぎに目をつぶったからだ。

それで各藩は、「藩校」をつくれる大藩ならいいが、小藩に至っては藩校もなく、藩主のご親戚筋やらに「留学」させていたものだが、対象者は藩士の子弟だけだったのはいうまでもない。
一方、高位の家系にあたる武家ほど、『女大学』を子女に教育したのは、「嫁」になって婚家の家政を仕切ることになるからである。

ここは強調したい重要さで、じつは、わが国の「家制度」が、外国と比較して次元からしてことなるのは、他家からやって来た嫁が将来その家の家政の全権を握る、という暗黙の制度があったことなのだ。
さらに、次世代の当主からしたら、「お袋様」となって、君臨もする。

なので、高位の武家ほど、他家からの嫁に、一家を挙げて引き渡してしまうのだ。
つまり、「嫁」とは、家を乗っ取るイメージの字であるともいえる。
これを、「漢字辞典」でみれば、説文解字として、「女、人に適(ゆ)くなり、女に従ひ、家を聲とす」とあるとおりだ。

欧米的に当主側の論法だけでみたら、まったくちがう様相となるのである。
ゆえに、男尊女卑どころかその逆で、女尊男卑が暗黙の了解だったのである。
明治の欧米かぶれがこれを対外的体裁として恥じて、あたかも男尊女卑を演出していたら、それが言葉上だけの常識になってしまったのであった。

現代の、「家政学」がどんなものかの詳細はしらないけれど、家事を雑役として定義はしていないだろう。
じつは、「家政」を司ることは、子への教育という点でも、あまりにも重要なことなのである。

「北政所」から、商家の「大奥様」に至るまで、日本男性は、「家の内」では、嫁に従っていたから、「家内に相談する」が嵩じてとうとう、「神様⇒かみさん」になったのである。

この意味で、与謝野鉄幹の『人を恋ふる歌』の冒頭、「妻を めとらば 才たけて みめ美わしく情けある」の一般的解説が怪しくなる。
文字どおりで済むなら、一般的解説の通りだろうけど、そんな薄っぺらで妻晶子は納得したのか?

その晶子の作『君死にたまふことなかれ』(「明星」、明治37年)が、ポロコレの解釈で、いまは「反戦歌」になっている。
このような解釈を強制的に擦り込む文科省の悪辣は、与謝野夫妻の作品を政治利用しているのだが、孫の政治家、与謝野馨は祖父母の業績に敬意を表してはいないひとだった。

そんなわけで、いまでは高校を卒業したら、就職するか進学するか?になって、進学の低位に専門学校が位置付けられている。

専門学校の専門たるゆえんが、たいがい「ビジネス=職業教育」に直結するからである。

しかし、とっくにはじまった「少子」で、ビジネスに集中しているのは、専門学校の経営者の方だ。
どうしたら授業料(単価×人数)をとれるのか?=どんな職業分野が人気なのか?になって、たとえ就職が困難でも、その職業体験がさわりだけでもできることに、生徒の需要(親の同意も)があることに気づいたのである。

たとえば、「声優コース」は、ほとんどの卒業生が声優にはなれないけれど、講師として本物の声優と知り合えることに価値を見出している。
そんなミーハーでいいのか?というお叱りはごもっともだが、本物の声優が講義する「中身」の評価が重要なのである。

そこには、じつは、「アカデミズム」があるのである。

このことは、べつに「声優コース」にかぎられないことに注意がいる。
むしろいまどきの専門学校における、「常識」となっているのだ。

では、そのアカデミズムとはなにか?といえば、学校側や講師がどこまで意識しているのかしらないが、ほぼ、ヨーロッパ伝統の、「リベラルアーツ(自由七科:文法・修辞学・弁証法(論理学)の三学、算術・幾何・天文・音楽の四科)」になっている。

これはこれで、グローバル化の現象だから、「日本」というローカルを無視していいはずもないのだけれど、「今様=流行」こそがマーケットであり商売だとすれば、そういうものである。

一方で、「アカデミズム」を自称する、大学はどうか?を観察すれば、文科省の厳しい研究予算コントロールで、ほとんどの大学は、「職業学校」へと転換させられている。
まさに、明治のはじめに流行った、「実学」への偏向なのである。

だから、高校生向けの大学パンフレットをみると、卒業時にこんな「国家資格」が取得できる、というアッピールが目立つようになっている。

しかしながら、世の中は、もうA.I.時代になったので、就職して20年後とかがどうなのか?をかんがえないと、自身の職が確保できなくなる。

それが、「国家資格」で保証してくれるのか?という大疑問になるのである。

A.I.ができないことは、なにか?を基準にしたら、圧倒的に「判断業務」になる。
その判断の根本が、リベラルアーツの上位にある、「哲学」なのである。

「実学」は、哲学を役立たずとしてきたが、教養の最高峰にある哲学が、いまや職業人生だけでなく生存をかけた最重要となっていて、これを、専門学校がさり気なく教えていることに、大学がぜんぜん気づかないことが「偏差値基準」の最大の悲劇となっている。

ただし、家庭内教育が最重要ということが忘れられていることが致命的なのであるけれど。

カホフカ・ダム爆破報道の綻び

「世界のジャーナリズムを差配しているのは、「ロイター」と「BBC」にほかならない」と前回書いたとおり、ウクライナ・カホフカ・ダムの爆破・決壊報道は、「ロイター」が、ロシアを犯人だと(根拠なく)断定し、「BBC」はロシアの関与を「ほのめかす」程度の寸止め報道をした。

もちろん、わが国のマスコミは、ロイターとBBCの報道を、そのままたれ流すのが仕事だから、余計な可能性(たとえば、「ウクライナ犯行説」)を解説などしない。

しかしながら、だんだんと「綻び」が出てきたのは、DSが仕掛ける邪悪が、「破綻」しかかってきているからだと解釈もできる。

それが、ユーチューブに代表される、「2020年選挙不正に関する言論封鎖解除の規約変更」にもなっている。
残念ながら、「コロナ関連」は、まだ言論封鎖解除をするつもりはなさそうだが、世界一の接種率となった日本で、世界一の超過死亡数と後遺症発生の現状を維持したいからだろう。

これを自公政権が「しっかり実行」しているのは、日本に民主主義はすでになく、DSによる、グローバル全体主義の政府となったからである。

ただし、岸田総裁の写真が目立つ自民党のポスター、「決断と実行」に、ウソはない。
DSの、とか、DSのための、という語が抜けているだけだ。

「爆破」にまつわる大事件は、昨年9月の、「ノルドストリーム」と「ノルドストリーム2」同時爆破事件だった。
本件に関しては、ピューリッツァー賞受賞歴がある、シーモア・ハーシュ氏が2月に、実行犯は米軍とノルウェーだとした爆弾発表をしたと書いた。

この天然ガスパイプラインこそ、ロシアとヨーロッパ大陸を結ぶ、固い絆の証、でもあったから、ロシアとヨーロッパ大陸(とくにドイツ)を歴史的・伝統的に分断したい国家戦略(「パクスブリタニカ」と「パクスアメリカーナ」)をもつ、英・米両国からしたら、排除したい誘惑に駆られる十分な動機はある。

もちろん、英・米ともに、DSの支配下にあるので、国名でのいいかたは誤解を呼ぶ。

英国は保守党が陥落し、米国は民主党と共和党の主流派が、DSの支配を受けている。
なお、超短命に終わった、「トラス政権」は、DSの意向に背いたあだ花だったし、逆らうとどうなるかの世界(とくに日本)への見せしめだったといえる。

減税と公共投資をいったトラス政権は、金融市場からの「通貨ポンドと国債の同時暴落攻撃」に、あえなく轟沈したのは、完全なるDS(国際金融資本)の実力躍如という意味でもあった。
なので、震え上がった岸田氏は、増税と金融緩和しか打つ手がないのである。

大蔵・財務省のポチ、といういいかたはDSの存在を隠す、「筋の悪い話」なのである。

それでもって、今回のダム「爆破」で、ふたたびノルドストリームの件をマスコミが話題にしている。
7日、「ロイター」は、「ワシントンポスト」が伝えた、ウクライナの6名からなる特殊部隊がノルドストリームを爆破したと報じた記事を、「確認していない」としながらも、伝える、というわけわからんを報じているのだ。

もしも、ウクライナがやったのなら、ドイツを中心としたEUの深刻なエネルギー危機になった犯人を軍事援助していることの「阿呆さ」が確実になる。
しかし、これがまた、発信源がCIAときているから、DSが得意とする「偽旗」だとすれば、責任のなすりあいがはじまったことになる。

それで、DSの広報機関たる「ロイター」が、「内部でやり合うのはやめろ」と書いたのではないか?とすれば、この記事は、一般読者向けではなく、ご同業もふくめたお仲間内へのリーダーシップの発揮とかんがえることもできる。

ついでに、今回の、カホフカ・ダム爆破の瞬間映像が、「謎のSNS動画」として、やっぱり「ロイター」が伝えているし、ずいぶん前に「ワシントンポスト」が、当該ダムへのウクライナ軍がアメリカ製ミサイルを用いた攻撃訓練を何度も実施している、とも書いている。

もちろん、この手の犯行は、もっとも得をするのは誰か?ということから推理するのが、セオリーである。
ロシアとウクライナ双方が非難し合っているのは、ノルドストリーム爆破をロシアの犯行とした当初の報道を思い出したら、なんの反省もないことがわかるのだ。

ときに、アメリカでは、やっぱりDSの広報機関たる、「ニューヨークタイムズ」が、5日付けで、「ウクライナ兵士がナチスのシンボル(ハーケンクロイツ)を身につけている」ことへの、「弁明」記事をだした。

これも、なんだか変な一方的「独白記事」で、その実態を横にして、「ロシアが情報工作に利用してしまう」と心配しているのである。
そんなことよりも、なんでハーケンクロイツをつけているのか?を論じないのは、読者に対して「読みとって欲しい」と暗に要求しているにひとしいではないか?

つまり、DSはもうロシアには勝てないから、「手じまい」のための逃げの手を打ち始めたとしたかんがえようがない。

ウクライナの歴史からしたら、現ウクライナ政権は、正真正銘の「ナチス」なのであると書いた。
これをさんざん隠して、「正義」を強制したのがDSであった。

ダムは蟻の一穴からでも決壊するけど、もはや、報道の綻びから「決壊」をはじめたのである。

まもなく、アメリカではバイデン政権が崩壊するので、DSは、最後の砦たる、フランスのマクロンに、いまは待てと命じて、東京にNATO事務所を開設することに反対を言わせている。

あれれ、サミットで確認したのでは?

DSとは、そんな国家間の約束をかんたんに反故にする、「超・権力」をもっている。
しかしながら、ここまであからさまにやってしまったことが、ことごとく裏目になっているのである。

なんだか、DSが得意とする「統一戦線」方式を、あえて「右派」(ほんとうは、共産主義・全体主義)にやらせた、「アルジェリア民族解放戦線(Front de Libération Nationale:FLN)」の野望をサスペンスにした、フレデリック・フォーサイスの、『ジャッカルの日』を彷彿とさせるのである。

ただし、単独でなく、各国政府に命じて国際的組織行動に仕立てている(たとえば、NATOとか、国連とか)ところが、さすが、グローバル全体主義のDSなのだ。

 

レジュームチェンジの3段階

世界支配を目論む、「DS:ディープ・ステート:闇の政府」による、ターゲットへの政権交代や体制転換(これを、「レジュームチェンジ」という)の常套手段に、3段階説を唱えたのが、DSの頭脳として活躍した、ズビグネフ・カジミエシュ・ブレジンスキー元国家安全保障問題担当大統領補佐官(カーター政権)だった。

このポーランド移民は、根っからの「グローバル全体主義者:共産主義者」であったけど、どうして、アメリカの政府要職に就けたのか?は、当然にその優秀性にあったからである。
もちろん、軍産複合体の民主党側にいたことで、抜擢の理由がわかるというものだ。

なお、彼にはわが国について書いた、『ひよわな花・日本』(サイマル出版会、1972年)がある。
この半世紀前の分析を、いま、どのように読むのか?が問われるのは当然として、「ひよわな花」のままでいたい、という日本人の方が、よほど病的なのだろう。

彼は日本に、超大国になんかなれないし、核武装もいけないくて、「真の国際化(グローバル全体主義)」を目指すため、アメリカ(DS)のいうとおり日本の富は世界にばら撒けといっているのである。

なぜだか、この本と、SMAPの、『世界に一つだけの花』(作詞・作曲:槇原敬之、2002年)がかさなって、2005年(平成17年)のNHK紅白歌合戦で、出場歌手の全員が大合唱した演出に、いま話題の「ジャニーズ事務所」が絡みついて不気味なのである。

世界のジャーナリズムを差配しているのは、「ロイター」と「BBC」にほかならないが、アメリカ3大ネットワーク(NBC、ABC,CBS)も、それに、AFPもロスチャイルドで、ついでにAPはロックフェラーと、どれもがぜんぶユダヤ系なのも偶然ではない。

BBCは公共放送だといっても、英国そのものがロスチャイルドが支配している。

何度も書くが、中央銀行のイングランド銀行が初代のマイアー・アムシェル・ロートシルト(1744 – 1812)によって買収されて、この家の立ち位置(王室を超える)が決まったのである。

そのBBCが、ジャニー喜多川氏のスキャンダルを報じても、国内マスコミが沈黙したのを、われわれはついこないだ目撃したのである。
けれども、BBCの意図はなにか?を問わねばならないのである。

わたしは、「LGBT法案」が、絡んでいるとおもっている。

しかして、こうした法案の意図はなにか?をさらに問えば、答はかんたんで、「家族(制度)の破壊」にある。
それは、グローバル全体主義=共産主義の実現にとって、もっとも初期に破壊すべき「社会の基礎」だからである。

それで、ソ連では、革命後すぐに「フリーセックス政策」が実施されたけど、これは、政府が指定した男女が結婚し、産まれた子供を政府が育てる、という制度であった。
しかし、あまりにもわかりやすい性急な伝統破壊だったため、国民が見事に拒否して失敗におわっている。

ナチス・ドイツの、「赤ちゃん工場:レーベンスボルン」と発想はおなじだ。
なのでいま、こうした失敗の反省から、じんわりとLGBTなぞという手法をもって、「マイルド」に家族破壊を再開しているのである。

自公政権による、「LGBT法案」の強行採決が話題になっているけれど、シラッと「こども家庭庁」はもう設置されている。

さてそれで、ブレジンスキーが示した、3段階とは、
1.民主化
2.民営化
3.グローバル市場化
である。

なんだか、わが国における、「戦後」の民主化と、小泉純一郎内閣の「郵政民営化」とよく似ている。

それはそうで、ブレジンスキーが示したのは、70年代だったから、その段階の順番通りを、ずっと後世に小泉純一郎内閣がやった「だけ」なのである。
なんと古典的な手法!ではあるけれど、このワンパターンで世界中が蹂躙されている。

そのブレジンスキーの再来、といわれているのが、フランス人の、ジャック・アタリだ。
マスコミが書く、「現代の世界最高知性」というのは、DSの、が頭につく。
「いずれは国家も民営化される」と、『21世紀の歴史』(作品社、2008年)に書いた。
この対象になるのは、DSの意向に背いた国なのである。

以上のワンパターンは、近年では、旧ソ連グルジア(ジョージア)での「バラ革命」(2003年)、ウクライナでの「オレンジ革命」(2004年)、キルギスでの「チューリップ革命」(2005年)と連続・波状攻撃で、「反プーチン革命」包囲が成功する。

アメリカのトランプ氏と、ロシアのプーチン氏が、悪の双璧といわれるのは、彼ら二人が「反DS]で、DSの利権を潰しているからである。
その共通項が、「石油・ガス」のエネルギー源なのである。

トランプ氏はシェール革命を推進し、プーチン氏は、エリツィン時代に英米資本に奪われかけたロシアの石油とガスを国営化したから、DSの恨みを買ったのである。

おなじように、「アラブの春」も起きた。
イラクのフセインと、リビアのカダフィーの二人も、油田を国有化したために殺害されたのだ。

はじめに起きたチュニジアは、「ジャスミン革命」(2010年)で、エジプトでは2011年にムバラク政権が崩壊し、同年、カダフィーがヒラリー・クリントン国務長官が観ている「生中継」のモニターのなかで惨殺され、その瞬間、彼女が欣喜雀躍した姿がテレビ放映されたのだった。

まことに人間の欲深さの恐ろしいことよ。

しかし、この3段階をしっかり覚えておかないといけないのである。

「消しゴム」をかんがえる

消しゴムが発明されたのは、その前に、鉛筆が発明されたからであった。

鉛筆の発明には、黒鉛の発見がないといけない。
『鉛筆の歴史』によれば、1560年代に英国北カンパ-ランドの鉱山で、天然の良質な黒鉛が見つかって、これに糸やらを巻いたり、木で挟むなりして手が汚れないように筆記具にしたのがはじまりだという。

英国とフランスの仲の悪さは、「百年戦争」(1337~1453年)が有名だけど、その後もナポレオン戦争(1799~1801年)まで、断続的に何度も戦争やら紛争をやっている。
それで、フランスへの黒鉛供給がとまるので、1795年にジャック・ニコラス・コンテが黒鉛と粘土を焼成してつくる、いまの「芯」製造法を発明した。

日本では、1887年(明治20年)に、「眞崎鉛筆製作所(現三菱鉛筆)」が創業された。
なお、岩崎彌太郎がつくった三菱と、三菱鉛筆は関係がない。

一方、消しゴムの方は、1770年にグッドイヤーが天然ゴムから製造することを見つけるまで、パンを押しつけて消していたというから、あまりよく消えなかったにちがいない。
いま主流の、プラスチック字消しは、1950年代の発明で、ここでも日本企業が世界にさきがけて製品化した。

なので、わたしの親の世代は、ゴム製のままの「消しゴム」がふつうで、「砂消し」と半々になっているものをイメージしていた。
それで、小学校入校時のわたしの筆箱には、製図用で高級だった「それ」が入っていたものだ。

しかし、クラスメートはプラスチック・消しゴムをつかっていて、その消え方が見事だったし、カスがまとまっていた。
女子は、いい匂いのするプラスチック・消しゴムをつかうのが流行っていたけど、あんまりよく消せなかったので、質を重んじる男子には不人気だった。

幼稚園のとき実施された、「知能テスト」で、第1問の答を書きまちがえたわたしは、まだ、世の中に消しゴムがあることをしらなかったので、解答用紙の枠中に書いた誤答をどうやったら消せるのか?をかんがえて、ついに指に唾をつけてこすったら、わら半紙に穴が開いた。

その穴をみつめているうちに時間がきて、とうとう、人生初の「再試」を受けるはめになったのである。
先生には、どうしたの?ときかれて、「紙に穴が開いた」ことを伝えたら、「消しゴムを貸してくださいって言ってくれればよかったのに」といわれ、そこで消しゴムの存在がわかったのである。

なんて便利なものがあるんだ!が、わが生涯における「はじめて」の記憶のひとつである。

だんだんと成長して、お小遣いをもらうのに、文房具を買うため、だといえばすんなりゲットできるので、文房具屋に行くのが趣味になった時期がある。

それでも、万年筆のハードルは高く、高校入学祝いにもらった1本は、ほとんど使うことはなかった。
薬品で消すのが面倒だったからであるし、あの漂白剤の匂いがいやだった。

社会人になって、ずいぶんと時間を経てから、万年筆の「沼」にはまったのである。
それもまだワープロが普及しはじめた頃で、会社の決裁書を起案するのに、鉄の事務用つけペンで書かされたからである。

インクは、経年しても色落ちしない「顔料系の黒」だった。
字は「墨」の黒で書くもの、という文化であるから、ヨーロッパの「青」とか、酸化して変色させる「ブルーブラック」が主流なのとは一線を画すのが日本における「公文書」の独自なのである。

鉄のペン先は、プラスチック・ケースにたくさん入った状態で売られているけど、それはペン先がダメになるよりも、顔料インクが固まってペンに毛細管現象がおきなくなるからだ。
連休とかで洗わずに放置して出社したら、もう固まって使用不能になっていた。

決裁書に書き間違えがあると、修正が面倒だから、一字一字をちゃんと書かないといけない。

私企業の社内といえども、民間では「公文書扱い」になるのが決裁書で、国家でいえば「持ち回り閣議」にあたる、法的効力をもつ。
つまり、「持ち回り取締役会決議」にあたるので、商法:会社法が適用されるのである。

むかし、事務職といえば定番の、「黒い腕カバー」は、顔料インクからワイシャツにシミができない防御だったし、すいとり紙も書いた字がこすれないようにしたものだ。
なにせ、このインクは消えないのである。

そこでかんがえてみたら、事務職には決裁書にかぎらず、筆記中の集中力が要求されていたことがわかる。

いまではパソコンが当たり前の、表計算だって、専門の「計算用紙:集計用紙」があって、重要な数字の資料なら、やっぱり鉄ペンで顔料インクをつかっていた。
むかしの手書きの資料は、民間も役所も、それが常識だったのである。

すると、職場における緊張感は、いまよりずっと高いはずで、そうでないと書き損じてしまう。
正式書類なら、ぜんぶ書き直しになりかねないのだ。

それでまた、「ペン習字」が流行ったのである。
あたかも、活字のように字の大きさも統一した字で書くことで、謄写版でも要求された事務能力のひとつだった。

これらの「書く」という作業は、職業上の立派な技能だったのである。

日本の生産性が、手書き衰退と比例してずっと低下し続けていることの理由に、ひょっとしたら、パソコンやワープロ・ソフトの普及が「仇」となっていないか?

手書き時代では、余計な事務の押しつけはムダだと歴然とするものだからである。

外国、とくに欧米諸国が常に進んでいる、ということはない。
けれども、おおくの国で、小学校入校時から生徒にはペン(握り方が強制される教育用万年筆)をつかわせて、消しゴムで消せる鉛筆やらを使わせないのも、妙に納得するのである。

鉛筆を発明しても、子供には万年筆を使わせることの意味を、改めてかんがえたいし、日本人なら「毛筆」を見直したいものだ。

懲りないひとたちは一生懲りない

前回の続きである。

なにがあっても、「懲りないひと」は、懲りないから反省もしないで、またおなじ失敗を繰り返す。

そんなひとたちがどのくらいいるものか?とおもえば、おもいあたるひとは身近にもたくさんいるので、おそらく「すごい数」になるのだろう。
こういうときには、「率」をもちいると便利だが、とある投資家の説によれば、「8割~9割方」という。

この説の根拠は、投資で失敗するひと(個人)の率をそのまま相似形的に拡大すると、こうなる、という一種の現場感覚なのである。
どういうわけか、個人投資家はほとんど儲けられずに損をするけど、その投資行動を分析すれば、「懲りない」という結論になるかららしい。

しかも、このときの「投資」には、ギャンブルもふくまれるという。

パチンコで負けたひとは、ほかの手段で取り返そうとはせず、ふたたびパチンコをやって、また負けるそうな。
このときの、「パチンコ」が、競馬になろうが競輪になろうが、おなじだと。

それで、こうしたギャンブルでも希にではあるが勝つひとは、帳簿をつけている、という。
この意味で、パチンコの「貯玉システム」は、自己管理がしやすいそうだ。
すると、こうした希なひとは、ギャンブルという概念ではなく、やっぱり「投資」をしているという方が正しいのだろう。

もちろん、自己管理とは、「反省」のためにするから、勝つひととは、「懲りるひと」でもある。

そうやってかんがえたら、日本におけるギャンブルでも、世界標準の株式投資でもなんでも、勝ち続けるひとの数はえらく少数になるはずなので、「9割方」でも懲りないひとは過小評価になるような気がしてくる。

それはまた、冒頭の説をいうひとによると、機関投資家でもおなじだという。

この一言に、わたしは納得がいった。

時間的には短かったが、わたしも外資系投資銀行家のはしくれだった。
そこでみていた職場の日常で、「コーポレート・チーム」という、機関投資家としての行動は、まったくもって唖然とするほど素人的であったからだ。

ただし、扱う金額と、横並びの情報網の有無が、個人投資家とのちがいであった。

ようは、会社のカネで、あちこちの同業者に電話を掛けまくって、買うか売るか待つかを判断しているにすぎないからである。
それでも色気をだして、自己判断をして、大損を被っていた。

あのサブプライムで、世界中で大損をしたのは、おなじような学校で、おなじようなカリキュラムの、おなじような教科書で、おなじような教師に、おなじように教わったことを、おなじような学位所持者たちが、横の連絡で得たとおりの情報からおなじように投資した結果だったのである。

つまりは、一連畜生(「托生」ではない)になった。

だから、こうしたひとたちは、いったん失業したかにみえて、またおなじように職についていて、おなじような業務をしている、「懲りないひと」たちなのである。
そうやって、金融危機は、またおなじように何度も発生する。

リーマン・ショックを勝ち抜けた機関投資家のなかの誰か?は、世界で数人だったから、「懲りないひと」は、99%以上いた計算になって、勝ち抜けたひとはサッサと引退して働かないで一生暮らす生活をエンジョイしているのである。

ここが、日本人のもうひとつの特徴点で、成功した人生とは働かないで暮らすこと、に目標をおいていないふつうがある。
欧米人は、ふつうに上記の目標設定があるから、リゾートにおける「くつろぎ方」が日本人とは根本的にちがう。

彼らは日がな一日、寝て暮らすことに飽きない。

残念ながら、たいがいの日本人は、一日とか数日で、寝て暮らすことに飽きて、なにかやることはないか?を探そうとするのである。
そこに「利便性」を要求して、あらかじめコース設定されている「ツアー商品」に飛びつくようになっている。

そうやって、だれかが考案したスケジュールに則って、確実に日程をこなすことが目先の目標になるけど、そこに安心感を得るのである。
だから、この与えられたスケジュールが、予定通りにすすまないことがストレスになって、ときにクレームとなるのである。

ようは、自分でかんがえることが嫌だという、究極の「寝たきり状態」を、日本人は好むようにつくられている。

このように、見た目では、日がな一日を寝て暮らしたい欧米のひとたちと、あたかも別次元にいるようだけど、「脳の活動」という点においては、日本人も日がな一日寝て暮らしているのとおなじなのである。

しかも、他人のだれかのいうがまま、という点で、まったく「懲りないひと」なのだ。

このブログでは、「情弱」という情報リテラシー弱者のことをずいぶんと書いてきたけど、そんなひとたちにどんなに正確な情報を与えても、やっぱり「懲りないひと」には、ぬかにくぎ、のれんに腕押しなのだろう。

こんなことは頭のいいひとたちはとっくに承知なので、「先に擦り込んだ者勝ち」という法則もしっている。

アメリカでの、2021年1月6日の議事堂襲撃事件に関する、民主党ペロシ下院議長が隠蔽したという、議事堂監視カメラ映像の公開が、先日、「Just the News」で再開された。
「暴徒となったトランプ支持者たちに囲まれて恐怖を感じた」と証言した、ペロシ氏だったが、その映像には、彼女の娘(本業は、映像監督)がカメラを抱えて一般人禁止区域を議長一行を撮影しながら歩いていた。

以前の公開映像では、シャーマンの姿をした人物が警備員によって「誘導」されていた事実がわかり、本人は禁固刑を解除されて釈放された経緯があった。

今回の公開映像に、ペロシ議長から解雇された当時の議事堂警察隊長が、「とんでもないことだ」と発言したのは、娘が撮影しているエリアが、たとえ家族でも一般人がいてはならない厳重セキュリティ区域でかつ、当然に撮影禁止を無視した無謀も含まれる。

かねてから、この事件は民主党のペロシが首謀した、「茶番劇」ではないのか?との「陰謀論」があったが、どうやらほんとうの「陰謀」だったことが明らかになってきた。

慌てているのは、これらをブロック・遮断してきたプラットフォーム企業である。
急遽、ユーチューブは、責任回避をはかる「規約変更」を2日に発表した。
2020年の大統領選挙までなら、「不正があった」と表現してもいいそうな。
けれども、それからの選挙は「言っちゃダメ」だと宣言したのである。

明らかに、企業弁護士の論法だ。

しかして、それはまたそれで、いったん擦り込まれて懲りないたひとたちには、興味もないことなのだろう。

3つの戦争における全敗実績

大東亜戦争(GHQは、「太平洋戦争」を強要した)のことではなく、ただいま現在のことである。

ここでいう、3つの戦争とは、
1.情報戦
2.経済戦
3.実戦(戦闘をともなう)
である。

わが国は、全敗の実績をさらに延長させていつまでなのか?がまったく不明なのである。

ここで、3.実戦、なんてどこにもないじゃないか、というご指摘もあるだろう。
みえる範囲でいえば、韓国が実効支配している「竹島」と、なんだかわからない状態の「尖閣」があるし、無辜の市民をわが国から拉致した「北」のこともある。

もちろん、北方領土もあるけれど、こちらはロシアが返還するにあたって唯一つけた条件の、返還後「米軍基地をつくらせない」ことに、日本政府が確約しないので、ボールは日本に留まったままになっている。

しかし、みえない範囲でいえば、「不戦」をいう「平和憲法」があるから、みえる範囲のことに手も足も出ないし、主権回復と同時に発効した、日米安全保障条約という、実質征服延長の契約があるから、実戦をしたくともできない事情がある。

1.の情報戦なら、たとえば、前日本学術会議会長で京都大学総長だった、山極壽一氏(1952年生まれ、現、京都大学名誉教授、総合地球環境学研究所所長)は、先月28日に、あのTBS系「サンデーモーニング」に出演して、日本の「軍拡」に対して、「戦争というのは兵士の数の問題ですから、(中略)いずれは学生が動員される。すごく私は不安」と発言したことが炎上している。

山極氏の専門は、霊長類学者で、京大が世界的に有名になった、アフリカでのゴリラの生態研究での実績をもっているが、学術会議内の「安全保障と学術に関する検討委員会」委員も務めていたうえでの会長就任なので、いわゆる「そっち系」のひとなのである。

こうしたひとの発言を、全国放送する、というのが、情報戦、のことで、彼らが挑む敵こそが日本国であり、日本国民を洗脳することに使命感を燃やしている。
さらに、このひとのばあいは、比較対象がぜんぶ「猿」だという特徴があって、猿と人間の区別がつかない、専門バカ、なのだ。

それでまた、「持続可能」がどうのこうのと、「猿の家族」について書いた本を、東大出版会から出すところが、わが国の学術の「やばい」状態をあらわしている。

戦争の歴史を変えたのは、ヨーロッパ大陸での戦争であった。

古来、戦争は、兵と兵の闘いであったけど、国民国家が誕生して、「総力戦」の時代になったら、無防備な一般市民の生活や生命を奪うことを、「戦略的」というようになったのである。
その嚆矢となったのが、「ゲルニカ爆撃」だったし、「広島・長崎」なのである。

ゆえに、「戦略兵器」は、ただしく「虐殺のための武器」というべきで、「兵器」と名乗れるのは、「兵隊どうしの武器」にかぎってつかう用語とすべきと、武田邦彦教授がいうのは道理である。

しかしながら、湾岸戦争やイラク戦争で、われわれは、テレビゲームのような実戦場面を何度も観させられて、妙に慣れてしまったのである。
航空機からであれ、ミサイルに搭載されたカメラからであれ、ターゲット・スコープの中心に当たることが、ひとの死とイコールな当たり前すら忘れさせる。

いまや、兵はロボットに置き換わりつつあり、戦争の形態がどんどんバーチャル化しているのである。
それで、為政者同士がサイコロを振って、被害を確定したら、運の悪い住民たちを自国によって拘束・処分されるという、近未来が、『1984年』ではしっかり描かれている。

わたしの数少ない知り合いの、東大政治学科4年生は、この名作の存在をしらなかった。
いったい、東大はなにを教えているのか?とおもったのだ。

結局、突きつめれば、敗戦がすべてのはじまりで、以来、わが国はずっと押し込められてきた。

バブルもバブル崩壊も、アメリカやそれを支配している金融人たちが仕組んだ、壮大なドラマにすぎない。
これを、2.経済戦、というのである。

このひとたちの手先となった、わずかな日本人が、日本経済を発展させ、崩壊もさせたのである。

はたして、戦後、それなりの日本人が独自に彼らと闘っても、必敗の運命だったために、逆らうものがいなくなったのである。

その状態が出来上がったのが、橋本龍太郎政権の頃だったのではないか?
はじめ慎重だったのに、牙をむいたのが、小泉純一郎内閣だ。

この売国内閣以来、自民党も売国政党になったかに見えるが、そもそもDNAが売国なのである。

しかし、情報戦も経済戦も、対象は一般国民だから、負け続けているのは、一般の日本人だ。
自分がやられまくっているのだと気がつかないことこそ、致命的なのである。

それが、「懲りないひと」になるので、次回は、「懲りないひと」について書く。