「石油確保」の意味がかわった

さてさて、従来の延長線でものごとをかんがえたら、アメリカが引きだした中東に、穴埋めでわが国自衛隊が派遣されることになった。
総理が現地を訪問して、「理解を求める」という儀式をしたのは「国内向け」で、先様が拒否する理由はない。

むしろ、じぶんからけっして「撃てない」わが艦が、大丈夫なのか?と心配されたのではないか?
そうした事前情報は、エリートを自称する外務省のキャリア外交官が、これ見よがしに世界の非常識をご説明したはずである。

だったら、なにしに来るかと?おとなは追求せずに握手するだけだ。
あちらの常識からすれば、なにをいっているのかわからない説明に、眠くなったのではなかろうか?

さては、アメリカ合衆国が軍を引きだした理由は、国内で大深度削屈による石油の入手が可能になったからである。
二度の石油ショック以来、石油の枯渇が心配されたが、武田邦彦教授によれば、だんだん石油の正体がわかってきた。

「地球史」という宇宙規模の歴史をひもとけば、生命の誕生がなければいまのわれわれも存在しない。
さいしょの生命が進化して、いまの時代になっている。
この間、動植物ぜんぶにわたる、幾世代もの「死がい」が土にもどって、地下深く地層のなかに埋まったのが、石油であり石炭だ。

それで、地表から数千メートル下の地殻のなかに、石油層の「本体」が埋まっていることが判明した。
従来の浅い場所にある「油田」は、「本体」から浮き上がってきた分の「溜まり」にすぎないのだ。

すなわち、埋蔵量は「数千年分」あるという。

だから、人類はずっと石油を燃やせばいいともいえるが、たぶん、あと数百年もすれば、原子力にかわる画期的エネルギー源を発見するにちがいないから、そんなに心配しなくてよい。
ただし、石油は燃やすだけが能ではなく、プラスチックの原料だから、材料としての利用はずっと後世までつづくとおもわれる。

一方で、チェルノブイリと福島の後始末には、もっと時間がひつようなのは確実だ。
これらの後始末ための技術開発に要する、最も楽観的な予想での数百年と、画期的エネルギー源の技術がどんなふうにつながるのかも、いまは想像できない。

悲観的な予想は、千年単位であるから、もしや石油が「本体」も枯渇する時代になってようやく後始末ができるかもしれない。
平安時代の人びとが、千年後のいまを予想できなかったように、われわれも、これから千年後は予想できない。

そんなわけで、時間をいまにもどすと、南北アメリカ大陸とヨーロッパ大陸、それに豪州の地下の様子は、すでに「調査済み」なので、これをもっての石油「本体」をいっている。
アジア大陸とアフリカが「未調査」なので、おそらくもっとある。

ところが、「本体」は、ぜんぶが「大深度」にあるから、どうやって掘りあてるのか?がすべてなのだ。

ここに、パラダイム・シフトが発生した。

「掘る技術」が、石油権益をしめすことになった。
油田地帯が国内にあることの意味が、おそろしく小さくなってきたのだ。

はたして、「シェールオイル」という「本体」にいきついたアメリカは、世界で唯一の「掘る技術」を独占している。
「大深度」を掘るとは、地中圧力とのたたかいである。
水中においてもたいへんだから、想像を絶する力がはたらく。

先端の「歯」の強度と、でてくる「土」をどうやって地上にもどすのか?そして、それをささえる「管」のつくりかたは、一朝にしてできる技ではない。
これを、アメリカ人は「自動化」させて掘っている。

わが国が外国に依存している石油の割合は、日米戦争まえの当時で「9割」がアメリカだった。
このときの「アメリカ」とは、「石油メジャー」(国際石油資本)のことをさす。

いわゆる、「セブン・シスターズ」とかつていわれていた、世界の石油を独占していた企業群をいう。
いまは、エクソン・モービル、シェブロン、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアム、の4社をいう。

「米・英・蘭」とのたたかいになったのは、ロイヤル・ダッチ・シェル、ブリティッシュ・ペトロリアムが「英・蘭」そのものであったからで、これにインドとインドネシアという植民地が地図にはあった。

いま、中東依存が「9割」なのも、実質「石油メジャー」から購入していることに変化がない。
アラビア石油がわが国「自主開発油田」の代表だったが、2000年にサウジアラビアの採掘権を失って、開発から撤退している。

さては、わが国の「掘る技術」はどうなっているのか?
「日米」による石油採掘技術の「独占」が、産油国や石油メジャーを超える可能性もある。

すなわち、掘ってほしい、といういろんな国からのオーダーにこたえるのだが、これを「米・英・蘭」はゆるすのか?
もはや、わが国の外交官は「理科系」でないと務まらないのではないか?ということも、「パラダイム・シフト」ならではだ。

「観光立国」は幻想の「甘言」にすぎない。
ものづくりだけではない、「科学技術立国」こそが、将来のあかるい未来をつくるのである。

日本には「近代政党」が二つある

わが国が「近代国家ではない」ことのわかりやすい事例が、「近代政党」の存在を確認することでわかる。
おもだった政党が、どれも近代政党ではない。
これは、明治以来、一貫しているので、いまも「近代化」しているのがわが国だともいえる。

つまり、国家の基盤中の基盤である政治体制という最上位のレベルで、わが国は「発展途上国」なのだ。
近代国家を前提としたはなしが浮いてくるのは、このためだ。

経済発展に目がくらんで、あたかも「近代国家」だと思い込んできたが、ぜんぜんちがう。
いま、GDP世界第二位という国の「後進性」が批判されているが、彼らの独裁政党は、なんと「近代政党」なのである。

では、近代政党とはなにか?
要件は三つ。
これら三つを全部みたさないと「近代政党」とはいわない。

・「綱領」があること
・「組織」があること
・「議員」がいること

最大の問題は、「組織」の中身である。
・組織には、独自のシンクタンクがあること
・組織は、党首からの指令で活動すること
・組織は、候補者を選ぶこと

の三つがある。

すると、わが国最大の自民党は、近代政党ではないことがわかる。
表面上は三つの要件を満たしているようにみえるが、「組織」の中身を満たしていない。

独自のシンクタンクをもたず、これを「官僚」にやらせる。
だから、党による政治は実現せず、役所による政治が実現する。
選挙を何回やっても変わらないのはこのためだ。

独自のシンクタンクをもたないから、党首による指令よりも、中央官庁の指令(省令からはじまって課長通達まで)に依存する。
そして、なによりも候補者を党員組織の選挙できめない。
「予備選挙」という概念が、最初からないのである。

そんな「組織」だから、「議員」は独自の「後援会」という「組織」をつくるしかない。
これが、「地元」において、国会議員-県会議員-市町村議員というピラミッド型組織となる。党の組織ではなく、議員個人の組織だ。

市町村議会選挙で、おなじ党の隣町の候補者がじぶんの街で外宣すると「攻めてきた」というのは、党組織ではなく、議員の後援会組織で選挙をやるからだ。
けっして党本部からの指令でうごかない。

そうすると、わが国であまたある「政党」で、「近代政党」といえるのは、公明党と共産党の二党「だけ」であることがわかる。
この二党は、党本部からの指令でしかうごかない。
ただし、党首も候補者も、どうやって選んでいるのか、外部からはわからないから、やっぱりちゃんとした民主主義の「近代政党」ではない。

すると、全滅だ。

全体主義の国における「選挙」は、民主主義の国における選挙とことなるのは、候補者を「選ぶ」のではなくて「信任する」という「過程」としておこなうことにある。

組織がA氏を候補者として選んだから、信任に同意するのかしないのか?を問う。
A氏かB氏かを選ぶのは党であって、党員ではない。
それに、党にとっての最優先は、党への忠誠であるから、組織構成員である党員の「優秀さ」とは頭脳のことではない。むしろ頭脳は忌避される。

「ソ連時代」に「ノスタルジー」がある現代ロシアで、旧党員たちが胸に勲章をこれでもかとつけて真顔で並んでいる光景がネットに多数アップされている。

みんな老いてはいるが、男女とも顔に刻まれたシワをみれば、どうして「党員」になれたのか想像できる。
もしやかつての「農奴」たちではないのか?
頭脳よりも忠誠を重んじることが、実践されたことの証拠だ。

「信任しない」のは、「反党行為」だから、全員一致で信任することに意義がある。結束の確認こそが「選挙」なのだ。
だから、「党」=「だれか」にしないときまらない。
独裁者が生まれる必然がここにある。

全体主義は、近代が生んだ「悪魔」だというゆえんだ。

いま、わが国が全体主義の国になる、といえば誰もが信じない。
そんなわけがない、と。
しかし、わが国の「非近代化状態」は、冗談ではなく「危険」なのである。

「効率」をもとめると、「試行錯誤」が「非効率」にみえる。
それが「国家総動員」の「計画経済」=「統制経済」を産んだ。

しかし、「神の見えざる手」のごとく、あるいは、ミーゼスが数学的証明をしたように、もっとも効率がよいのは「試行錯誤」を全員がする自由主義による社会なのだ。
かならずだれかが、いまよりも「うまいやり方」をみつけだすからである。

したがって、全体主義のリーダーシップは、トップダウン型で、党員は究極の「指示待ち」をもってむねとする。かんがえるのは「党」だからだ。
自由主義のリーダーシップが、構成員の「能力を引き出す」ことを第一とするのと、真逆のベクトルなのである。

戦後の成長は「奇跡」だったが、それをわすれて、日本人が必至に働いたからだと思い違いしている。
・安い石油
・冷戦構造
・朝鮮動乱
の三つがかさなる歴史的ラッキーがつくりだした奇跡だった。

豊かになったのは役所もおなじ。
つかえるお金がたくさんできて、役人たちが「効率」を「計画」しだす。
これこそが、「計画経済」なのである。

「試行錯誤」が科学技術の歴史であるのに、役人が「効率」をもとめるから、「試行錯誤」させないで、わかりきった「先端技術開発だけ」に予算を投じる。
それで「ソ連」がだめになったことを知らんぷりする。

中国人がすごいのは、民間に試行錯誤をやらせていることだ。

なんと、全体主義の国から学び直しがひつようなまでに落ちぶれたのがわが国だ。
だから、政治も「効率」のまねっこをすれば、悪魔の「近代政党」に支配されるようになる。

いまさらだが、手本にすべき思想の選択をまちがえてはいけない。

わが国の凋落は、役人による「計画経済」=「統制経済」の体制になってしまったからである。

企業内でも、全体主義の統制体質と、自由主義の試行錯誤を容認する体質がある。
「組織のつかいかた」のちがいである。

どちらが、業績も優良でしょうか?

水素自動車をやめて通貨発行を

いまやわが国を代表する俳優が、わが国を代表する企業の広告・宣伝に一役買っている。
自動運転まではガマンできたが、「水素自動車」にはガマンできない。

ライバルの日産が、「技術の日産」といってルノーにお世話になって、ゴーン社長時代には「技術の日産」をやめていた。
ところが、またまた「技術の日産」とやりだして、ゴーン氏もろとも会社もコケてしまった。

「技術の日産」といってはいけないワケがある。
それは、このブログの記念すべき第Ⅰ号記事で書いた。

ぜんぜんコケないのがトヨタ自動車だ。
国内に敵なし、どころかしっかり資本提携して、優良どころはみな「ケイレツ」になっている。

そうでないところを「バルク」のようにまとめて、売却を画策したのが、いつでも何度でも懲りない経産省だから、ここまでくると、「国民の敵」である。
その争奪戦が、「ルノー」か「プジョー・シトロエン・クライスラー」の争いだったから、プジョー以下を押す経産省に対抗するルノーのゴーンが狙われた。

日産をルノーが買収する計画は、「バルク」購入後のための前段階にすぎなかったと、本人がレバノンでかたっている。
ルノーは「公団」だったから、ミッテランのように「国営化」をすすめるいまの若い大統領と、日本政府(経産省)の闘いだった。

ようは、社会主義政府どうしの同士討ちなのだ。

こんなことには目もくれない、トヨタ自動車はさすがだとおもっていたら、「水素自動車」というからおどろいたのだ。
あろうことか、社長がみずから「水しか排出しない」という。
ハイブリットも電気も、そして水素も、ぜんぶ「走っているときだけ」がクリーンにすぎない。

なるほど、「ハイブリット自動車」を「二十世紀に間に合わせた」だけのことはある。
しかし、いったいいくらの「補助金」を、経産省や環境省、ついでに国交省からもらっているのか?

名古屋にある「豊田産業技術記念館」にある、佐吉翁、そして、できっこないといわれても産業家として国家の援助なくやりとげた喜一郎氏の「独立の気概」はどうした?といいたい。
ほんとうは国の援助どころか、妨害まであったはずである。

トヨタの社是は「クルマのある生活」である。
だから、トヨタホームが住宅もつくっている。

世界をみわたすと、自動車産業が従来の成長をとげるかはあやしい。
それが、ガソリンではなくディーゼルでもなく、「電気」なのか「水素」なのか?ということではない。

住宅産業に匹敵する「すそ野の広さ」が、自動車産業だったのは、その必要部品点数にあった。
普通車で「4万点」というほどの「部品」が、産業としての巨大さだったのだ。

おそろしくコストがかかる水素自動車は、本体の構造だけでなく、燃料である「水素」も「問題」なのだ。
原子番号1番の意味がおもいのである。

いっとき流行った飲料用の「水素水」が問題になったのは、「いかなる容器」であっても、その「分子」の小ささがために、容器の壁を抜け出てしまって、いつの間にか「ふつうの水」になるからだった。

炭酸水の炭酸が抜けるのとはワケがちがう。
ペットボトルはいうまでもなく、アルミ缶にしてもムダな抵抗にすぎない。水素分子はアルミという金属の分子構造すら、やすやすと通過してしまうのだ。

水素ステーションに「ロスなく」どうやって運び、在庫保存するのか?

もちろん、水素は軽すぎて地球上に「水素」として存在しておらず、ほとんどが「水:H2O」としてあるから、「水素」を取りだすのには電気分解しなければならない。「水」の結合は、電気的な電子の「共有結合」だけではない「水素結合」に「ファンデルワース力」まであるとは、高校の化学でならう。

水の沸点が100度もあるのは、分子結合が強力なこのためだ。
なので水の分解には、大量のエネルギーを消費するから、全体でどこがエコなものか。

狂っている政府の法学部出の高級役人が、世界で相手にされないモノを「世界で唯一」と自画自賛して、税金を投下する。
素直にガソリンを燃やせばいいものを、これを「利権」にしたから、あらゆる評論家も「ヨイショ記事」しか書かなくなった。

どうして、こんなものにトヨタ自動車が資源(ヒト、モノ、カネ、時間)投入するのだろうか?
三菱の国産旅客機の失敗とおなじパターンで追随していないか?
「国家総動員体制」のおそろしさである。

それよりも、なによりも、わが国にとって最大のリスクは「円の信用」になってしまった。
日銀をつかって、金融緩和しかしないこの何年、国債も日本株も日銀保有という世界史上での無茶がとおっている。

いまや、「円」からの「離脱(エクソダス)」が必要なのだが、通貨は国家が発行するものという常識すら「害悪」になってきた。
「GAFA」があるではないか、といっても、どれも外国企業だ。
日本企業で、できる、のは「トヨタ自動車」が最適ではないのか?

いまこそ、ハイエクの『貨幣発行自由化論』が現実になるときなのである。なお、下右の『全集』においては、「貨幣の脱国有化」として掲載されている。

 

トヨタ自動車は、「無借金経営」で有名だが、期中の「運用力」が市中銀行の比ではない、おそるべき「実力」があるのだ。
それで、かつてから「トヨタ銀行」とよばれているのであって、たんに「資金が豊富」だからではない。

ぜひとも、トヨタ銀行の面目躍如として、政府からのちょっかいをはねかえし、ハイエクのいう「自由通貨」を発行してもらいたい。

それにしても「水素自動車」とは、政府がトヨタ自動車から通貨発行の可能性を阻止するための罠なのか?
なんであれ、日本企業の「弱体化」を、日本政府がおこなう倒錯は、国民を不幸にするが、それが「共産化」のプログラムなのはセオリーだ。

おそろしい国に生きている。

どや顔でニュース解説の噴飯

新年会で知人宅を久しぶりに訪問した。
この家のリビングには、巨大なテレビがあって、つけっぱなしだから、いつの間にかテレビ好きの生活になったようである。

大相撲をジックリ観るのは何年ぶりかも思い出せない。
若貴時代がなつかしい。
けれども、時代をつくった横綱が、そろって角界から消えたのはおどろきとしかいえない。

神前への奉納をもってはじまりとするものが、いつからか「スポーツ」になって競技として一般化・国際化してしまった。
「興行」が、「試合」になったから、「稽古」が、「練習」になった。

2008年に財団法人の法律がかわって、国家による財団法人への権限を強化した「公益」財団法人が制度化された。
その見返りが、「非課税」という「優遇措置」である。

プロ集団だから、お金に目がくらむのは理解できるが、法人の転換を機に「株式会社」にしなかったのが痛恨である。
うまいこと、主務官庁の文部科学省という役人集団の餌食にされた。
こうして、国家が仕切る「パンとサーカス」の典型例になったのだった。

電源をきらず、チャンネルもそのままでいたら、ニュース解説の番組がはじまった。
「これでわかった!」という番組名を、じぶんでつけるのだから、よほど自信があるのか、あるいは安い参考書のまねなのか?

いや、そうではなく、「エセ科学」番組だけれど、なぜか長寿の「ためしてナントか」と、発想がにているのは、おなじテレビ局だからと納得した。
これが、わが国を「衰退」させる一因になっている公共放送のおぞましさだ。

GHQの統治方針を、「独立」してなお遵守しているのは、わが国自体が「エセ独立国」だという証拠でもある。
「日本人を骨抜きにする」という方針で70年間も貫かれたら、みごとに骨抜きされた。

大相撲が、スポーツの看板をおろせなくなったように、公共放送局も「骨抜き」をやめられない。
どちらも、じぶんの「意志」ではどうにもできない「仕組み」になっているからだろう。

なので、わが家はテレビを必要としないだけでなく、「有害」という結論をえて「排除」した。
かならず、「脳」に悪影響をあたえるのがテレビ放送である。
ニュースも天気予報も観ないとはずいぶん前に書いた。
「5G」の電磁波が脳に悪いというのは「うそ」だが、テレビは「本当」だ。

そんなわけで、なにがはじまるのか?という「期待」は、どのくらい「脳」に悪いのか?という意味の「期待」である。

解説のニュースは、イラン問題であった。
観ていて、おもわず微笑んでしまったから、知人は怪訝な顔をした。
べつにどこも「変」ではないような「解説」を、真顔で、しかも「ためして」のように「どや顔」でしているからだ。

けれども、その論理構成は「印象操作」そのもので、米軍に殺害された「司令官」の大規模葬儀に焦点をあて、いかに国民的英雄だったか?をまずは「擦り込む」のである。
たいへんな数のひとたちが道路を埋めて、男性は雄叫び、女性は泣いている。

「嘆き」についての国民性として、中東地域では、日本では能登地方以外あまりみかけない、葬儀屋の職区分がある。これが、「泣き女」だ。アジアにはあんがいとこの文化がある。

すなわち、あのような政治体制の国にあって、「政府主導」の「(強制)動員」ということを真っ先にうたがう必要があるものを、ストレートに放送するばかりか、これを現地「政府の意図」どおり「解説」するとは、笑いがとまらない。

しかも、ご丁寧に特派員が衛星生出演して、それらしいことをしゃべっている。現地にいながら、現地のなにを「取材」したのか?さっぱりわからないから、衛星使用料がムダである。
もしや、ペルシャ語ができないのではないか?

ところが、さすが公共放送はしたたかで、そうやって擦り込んでおきながら、こんどは話題を旅客機の誤射撃墜事件に転換させる。
はじめ政府は関与を否定していたが、一転して大統領が「謝罪」した。

「否定」が「謝罪」になったことで、政府の「うそ」を糾弾するデモとなった。
そして、このデモが変容して、体制転覆のデモにまでなっている。
あきらかに、香港のデモの影響がここにもある。
さらに、あろうことか、このひとたちは街に掲示されている「英雄」の写真を引きずり降ろしているのである。

はたして、擦り込んだ「英雄」はどうなっているのか?を解説「しない」という「確信的手抜かり」をやりとげて、なんだか悪いのはアメリカで、やっぱり「トランプ」だといわんばかりの印象操作をするのだ。

そのトランプ大統領は、イランのデモ隊を支持するツイッターをだしていて、政府との対立を「当然」としているのだ。
それでも、彼らは中東から米軍がいなくなることを望んでいると、まるで他人事のように「解説」するのは、もはや「ビョーキ」である。

アメリカはシェールオイルのおかげで、純石油輸出国になっている。
だから、自国中心のエゴを丸出しにすれば、国内に引きこもるのが合理的だから、日本の公共放送がいう中東のひとたちの望みは、アメリカ自身の望みにもなっている。

しかし、そんなことをしたら、中東の石油に依存する「同盟国」が立ち行かない。力の空白を「露・中」が狙っているからである。
依存の筆頭がわが国で、とうとう自衛隊の派遣までしないといけなくなったのは、アメリがが引いているからだ。

それで、戦争に巻きこまれるから、中東への派遣はいかがかと、またまた無茶をいう。
ならば、9割の石油を中東に依存するわが国に、石油がこなくなってもいいのか?

そしたら、電気ができなくなって、テレビも観られなくなるから、このテレビ局のひとたちはどうするのだろう?
「天に唾する」とはこのことだ。
どういう神経から、こんなことを真顔でしかも、ドヤ顔でいえるのか?

まったくなっちゃいない番組を、ボーッとして観ていれば、やっぱり「脳」が冒される。
期待をぜったいに裏切らないのが「公共放送」である。
民営化論もあるけれど、「不要」として「廃止」すべきだ。

必要論の中心は「災害」というけれど、東日本のときだって、ぜんぜん役になんか立っていない。

よいこは、けっしてみてはいけないよ。

江戸湊の大根祭り

ことしは七草に、浅草七福神をめぐることにした。
江戸にはいくつも「七福神めぐり」があるから、これを「めぐる」と、「なつかしさ」もあじわえる。

谷中七福神、日本橋七福神、隅田川七福神(向島七福神)、亀戸七福神、深川七福神、下谷七福神、柴又七福神、元祖山手七福神、新宿山ノ手七福神、荏原七福神、池上七福神、浅草名所七福神
これだけで12七福神。

有名どころは、ほかに14七福神があって、全部で26あるから、二廻りするだけで52年かかる。
上記の12だけだって、5回廻れば「還暦」とおなじだ。
そんなわけで、ことしは「浅草名所七福神」を巡ってきた。

このコースは、七福神なのに九カ所の寺院を巡るのが特徴だ。
「福禄寿」がダブってと「寿老人」、「寿老神」という微妙なちがいがあるのだが、他の七福神にはない「名所」の文字に意味がある。

江戸幕府開府前の「江戸」は、埋めたて前、ということになるので、もともと陸地だった浅草の土地には、ながい歴史がきざまれている。
このことが、千代田区、中央区という幕府以来、現代までの中心が「海だった」ので、七福神を巡るコースもないことをしめしている。

どこからはじめようが勝手だが、なにしろわたしは横浜スタートで、交通の便と「徒歩」にて「歩く」を基本とする(ようは運動不足解消を意識している)ので、JR馬喰町駅下車をもってスタートとし、まず向かうのは河童橋の「矢先稲荷神社」である。

浅草寺が大黒天、境内の浅草神社(三社様)は恵比寿さんが祀られている。
ここからちょっと歩いて、言問橋の北側にある「待乳山」は、「待乳山聖天」(本龍院)で、「大根祭り」をやっていた。

HPによる大根の意味は、身体を丈夫にして、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合をご加護頂ける功徳を表す、とある。
聖天様とは十一面観音菩薩が大聖歓喜天に姿をかえて鎮座されている。七福神では、「毘沙門天」が聖天様をお守りしている。

ビタミン不足になりがちな冬場、大根が重宝されたのだろう。
ふしぎと傷んだ大根を食べても、食あたりしない、から「あたらない」をもって「大根役者」というのは、おみごとな表現だ。

参拝をすると、社殿のよこで大根を全員にもれなく一本いただけて、さらに境内では茹でた大根にゆず味噌をかけてふるまっていた。
御神酒までもふるまわれていたので、なんだか一年分の「御利益」を使い果たした気にもなった。

なぜかわたしは、ゆずの香り=お正月、という連想を瞬間にする習慣がある。
熱々の大根にゆず味噌とは、まさに「お正月」そのもので、じつに幸せな心持ちになった。

山積みされている大根の箱には「三浦市農協」とある。
三浦産の大根だが、「三浦大根」ではない。
むかしは「練馬大根」だったかもしれないとおもったが、混雑する境内で質問にこたえてくれそうな相手を見つけられなかった。

「三浦大根」は、1979年の台風で壊滅し、その後は数軒の農家でしか栽培されない貴重な品種になってしまった。一時は三軒程度の農家が守っていたが、さいきんになって復活のきざしがある。
「幻」が「名物」にもどってきた。

いまは、ただ「大根」といえば、「青首大根」のことをいう。
もとは愛知県清須市の名物だったというから、織田信長も食したのだろうか?
こちらは、病気に強い品種に改良されて、民間の種苗会社が仕切っている。

待乳山聖天のおとなり、待乳山聖天公園の入口には、「池波正太郎生誕記念の碑」があって、顔写真も金属板に刻印されている。
なるほど、『梅庵シリーズ』で事件解決のあとにかならず「うまいもの」を肴に一杯やる場面があるが、なかでも「風呂吹き大根」が記憶にのこるのはこのためか。

誕生地にちなんだ、作家渾身の「食レポ」表現だったとすれば、妙に納得できる。
「筆の力」で喰わせるのが「池波流」で、池波正太郎が通った店をずいぶん訪ねてはみたものの、なぜかわたしには、どうもピンとこなかったことがおおい。

いま「食レポ」させたら、ばつぐんはイラン・イラク戦争の戦災孤児「サヘル・ローズ」だろう。
皆殺しの村に、ボランティアで救助活動をしていた、テヘラン大学の女学生が、がれきの下からの泣き声を聞きつけて救助に成功し、そのまま彼女が「お母さん」になった。

テヘランの名家である実家はこれを許さず「勘当」されて、日本に留学していた友人をたよって来日し、とうとう町の公園のトンネル遊具のしたで暮らしていたという。
それを見かねた近所のひとたちがふたりの生活をおおいに助けたというから、よほど「きちんとしていた」のだろう。

御利益は、じぶんのなかから生まれてくる。

イランもはげしいインフレで、反政府デモがおおきくなった矢先の「事件」が年始早々におきた。
純石油輸出国になったアメリカは、中東の石油を必要としない状況にあって、石油を売らないと生きていけないイランには、たいへん不利だ。

いまだに中東の石油がないと生きていけないわれわれに、新年早々の「不吉」がやってきた。

こればかりは、神頼みとはいかない。

ウィンドウズのサポート終了

毎年おもう、新年はやくも今日は七草。
あと一週間、14日で旧バージョンのウィンドウズOSのサポートが終了する。

当該パソコンが継続して「使えなくなる」ことはないけれど、セキュリティ対策等のサービスが終了するから、ネットに接続してつかうなら、バージョンアップさせないと危険にさらされることを「承知」だとみなされることになる。

ならば、ネットに接続してつかわなければ放置でもかまわない。しかし、いまどきのアプリケーション・ソフトは、ほとんどがネットを介したダウンロード方式で提供されているので、なかなか「単独」での利用には制限がある。

便利なアプリケーション・ソフトほど、頻繁にバージョンアップがおこなわれている。
面倒でも、期限まで「無料」のうちに新ウィンドウズに更新したほうが「得」である。

マイクロソフト社は、当初、「無料」で配付する期間をさだめていたが、とっくにその期間はすぎてしまった。
なのに、いまだに「無料」配付しているのは、世界にある「億」単位の台数のうち、更新していないものが多数あるからにちがいない。

国境をこえて、おどろくほどのパソコンが稼働している。

はたして、このうち、ネットに接続しているのが何台あって、接続していないのが何台あるのか?
これを、マイクロソフト社は「把握」しているということだ。

とにかく、ハード的な「環境」をととのえることに関してだけは、素早いという特徴をもつわが国では、パソコンをネットにつなげるための通信「環境」では、いちおういまは世界的な評価をされている。「5G」だって、「環境」はなんとかするのだろう。
一種の「公共事業」だから、社会主義体制では得意分野なのである。

けれども、パソコンを「つかう」ということに関しては、世界制覇できたソフトウェアをつくることはできなかった。
それは、そもそもパソコンをうごかすための「OS」しかり、このうえでうごくアプリケーション・ソフトしかりである。

唯一の例外は、ゲーム分野である。

そして、とうとう、日本製のパソコン自体が世の中にない、ことになった。
心臓部とも頭脳部ともいう「CPU」が、日本製ではないから、組立場所をしめすしかない。

これら、まずいことになった理由は、そのほとんどが「国家依存」に由来する。
民間事業に補助金をだして、法学部の役人が口までだすから、ことごとく「失敗」した。

なのに、この「失敗」を民間のせいにして、ぜんぜん反省しないひとたちが出世までするようになっている。
役所の昇格制度は、「成果」ではなく「公務員試験」できまっているからである。「汚職」さえしなければいいのだ。

ならば、民間企業はどうやって役所と縁切りができるのか?
この方法がない、のである。
なぜなら、あらゆる手段をつかって、当該企業いじめをするからである。

その意味で、やくざよりも恐ろしいのが役人なのである。
このひとたちは、きっと学校で天才的な手法による「いじめ」をまなんでいたにちがいない。

キーワードは「合法」ということに集約される。
非合法を旨とするやくざよりも恐ろしい根拠がこれだ。
けれども、唯一の弱点が「国内」という枠がある。
こうして、役人天国のわが国は必然的に「鎖国」をすることになっている。

もちろん、役所のパソコンだって、サポート終了になったらこまる。
けれども、かれらがこまらないのは、マイクロソフト社という「指定業者」が、「かってに」、「まっさきに」面倒をみてくれるので、余計なことはかんがえなくていいのだ。

それで、古いパソコンはあたらしく買い換えましょう、と提案されれば、予算計上すればいい。
「業務に支障をきたす」という理由であれば、いいのである。

世界企業のマイクロソフト社からしたら、こういうのを「上客」という。
ただし、かれらの活動範囲は地球規模なので、「サポート」ということばの意味が国内ローカルとはちがうのだ。

そんなわけで、今年はオリンピック・イヤーで、役人がいうように外国人観光客が大挙してやってくるかはしらないが、外国人が持ちこむ端末に規制がかけられない。
わが国の「電波法」では、わが国の電波をつかう端末には「技適(技術基準適合)」がなされたものしか許されない。

ところが、世界各国からやってくるひとたちの所持する端末が、あらかじめわが国のローカル・ルールに適合してつくられているとかんがえるほうがどうかしている。
こうして、外国人適用除外の特例ができた。

マイクロソフト社の方法と、真逆なのである。

ふだん、「もはや国境の意味がなくなった」というひとが、こういうことをいわない。

けれども、マイクロソフト社の営業方針に、もはやだれも逆らえないのは、「法律」ではなくて、じぶんがこまるからである。
ほんとうは、法律もそうなっていないといけないのに、そうなっていない。

それで、ゴーン氏が逃げちゃったのだ。

あと一週間、まだのひとはちゃんと更新しないと「損」をしますぞ。

日本人は「ブレグジット」できない

今日は6日の月曜日。
カレンダーとはいえ、暮れからこんなに長い正月休みは、めったになかった。明日はもう七草である。
おおくの企業は、本日から始動する。

昨年末の英国総選挙で、ブレグジットをかかげる保守党が歴史的圧勝をはたした。
これは、逆にブレグジットに反対する労働党の歴史的敗北でもある。

さいしょは「冗談」だとおもわれて、わが国では「やっちゃったよ(笑)」と報道されたし、その後の「国民投票」でも、ブレグジット賛成派が多数になることは「ない」といっていた。
その根拠は、「経済」における「不利」という「理論」一辺倒だったことが記憶にあたらしい。

不都合な言い分についての攻撃はしても、予言がはずれたときの「謝罪文」や「反省文」をいっさい「掲載しない」のが、お気軽なわが国の「言論空間」である。
つまり、「言ったもん勝ち」の「言葉のたれながし」がゆるされている。

これは、国民がゆるしているのではなくて、報道する側の都合でそうなっているだけなのだが、こんなことをしても、国民が「ブーイング」をしないし、購読や視聴をやめないので、報道する側が安心しているのである。
つまり、かたちのうえで、国民がゆるしていることになっている。

どうしたらわが国を「弱体化」できるのか?
これを研究・考慮した結果発案されて実行されたのが、「WGIP」(ウォー・ギルド・インフォメーション・プログラム)であった。

占領から独立してその後いまでも「有効」なのが、「放送コード」であるけれど、これは典型的な「WGIP」にふくまれていた。
新聞社や民放は、「売れない」と商売にならないから、ときに大衆に迎合する記事や番組をつくって販売計画を達成しようとする。

ところが、皮肉なことに、「WGIP」を踏襲して、日本弱体化をやっていたら、ほんとうに弱体化して、とうとう新聞の購読ができない家庭が続出してしまった。
それで、「しんぶん赤旗」や、もっと赤い「朝日新聞」の購読数が、損益分岐点をしたまわって、えらいことになっている。

新聞とテレビの経営を合体させたのは、田中角栄であった。
第一次岸改造内閣での郵政大臣時代のことである。
A級戦犯だった岸が、総理にまでなれたのは、CIAのエージェントになる「契約」をしたからである。
東条英機の刑が執行された翌日のことであった。

すなわち、岸は死をまえに「転向」した。東条の死の意味はここにある。
満州国で、理想的な社会主義を達成した頭脳と実行力を、アメリカの指導下でもって本国でやったのは、基本「弱体化」の文脈のなかでみないといけない。

日本人を「エコノミック・アニマル」へと「改造」したのである。
「アメリカに追いつけ、追い越せ」というスローガンなぞ、「当時」聞いたことがない。
なんどもくり返し放送されて、「夢」のように「記憶に定着」させ、とうとう戦後日本復活の「神話」になったのは、後出しじゃんけんとおなじだ。これをふつう「洗脳」という。

最優先すべきは「経済繁栄」であって、それ以外ない。
この思想が、古来、国を滅ぼすのである。
古代カルタゴの滅亡が、その典型である。
しかし、そんなことを戦後の日本人に想起させてはならない。

中学や高校の「世界史」で、ローマをおしえるがカルタゴはおしえない。
そのローマが滅んだのを、ぜんぶ「ゲルマン人の大移動」のせいにしておしえるが、なぜ大移動したのかおしえない。

しかも、人類史上最大のモンゴル帝国をおしえない。
アジアを支配したのは、悪辣なわが国だけだとおしえるためである。

戦後、わが国での「保守」とは、「WGIP」を実行する勢力のことを意味する。
「経済」よりも重要な「価値」があるのだとはいわないし、いったところで「ロマン」にすぎない美談にとどめる。

ついに、「WGIP」が、完成にちかづいた。
戦前のわが国の「価値観」をしるひとたちが、物故していなくなったからである。

そんなわけで、イギリス人が、ちゃんと意識して「ブレグジット」をしたい、というのが信じられない国民になったのだ。
EUとの貿易額を「計算」すれば、かならずイギリス人たちは「損」をするのだ、とうたがわない。

「損」をしてまで守りたい「精神」があることを、理解できない。

しかしながら、イギリスにはかつて「ゆりかごから墓場まで」を「正義」としていた時代があった。
これをそっくりまねっこしたのが、戦後の日本である。
「英国病」の病原菌が強力になって伝染し「日本病」を発病した。

このなごりがイギリス社会保障制度にある。
EUにとどまると、とめどもない「移民」がやってくる。
これを防止できないのは、EU本部が割り当てる数を拒否できないからだ。EU加盟の条件がそうなっている。

「移民」に社会保障制度の財源がとられてしまう。

「精神」と「経済」が、ブレグジットを決意させている。

日本はすでに「移民大国」になったが、社会保障制度の財源が「消費税」だという欺瞞に、欺瞞だとも気づかない。
飢えたタコが、じぶんの足をたべている。
これに、「精神」もないのだから、いわれるままなのである。

1970年、奥村チヨのヒット曲『恋の奴隷』ならまだしも、経済の奴隷になりはてた。

だから、日本人にはブレグジットはぜったいにできない。

なつかしい「メカ」の時代

いまはしらないが、むかしの自動車学校では「構造」という課目があった。
これに、「学科」と「技能」があったから、おおきく三課目あったのだ。

「構造」は、エンジンの構造からシャフトの構造、それから駆動の構造が基本で、これに電気系統の説明をうけた。
電気プラグが発火しなければ、ガソリンエンジンは動かない。
それで、冬場の朝の始動時に活躍する「チョーク」の操作方法もならった。

技能でとにかく慣れる必要があるのが、クラッチペダルの操作で、坂道発進の「半クラッチ」ができなくて、教習車を空ぶかししたり、エンストさせた経験はどなたにもあったはずだ。

いまはクラッチ操作を要するマニュアル車には、マニアしか乗らないだろうが、ヨーロッパでレンタカーを申し込むと、オートマ車のはずがマニュアル車しかないので難儀する。
慣れたころに返すことになるのが、やや心残りではある。

ディーゼルエンジンの乗用車はめずらしかったけど、ガソリンエンジンとのちがいぐらいはおしえてくれた。
電気プラグを必要とせず、燃料の圧縮によって自然発火させるディーゼルエンジンの構造の単純さは、それゆえ、より頑強さを要求するのだと。

まだまだ女性ドライバーがめずらしく、「構造」を苦手とする女性がおおかったのも、学校での「家庭科」が、男女別だったこともあるだろう。
男子は木工やら花壇やらラジオ製作やらと、いまでいう「DIY」を授業でやって、おなじ時間に女子は裁縫や料理をしていた。

「中卒」で就職するなごりもあったけれど、高校に進学しないで、裁縫学校にいった女子もいた。
当時、横浜には有名は洋裁学校があって、校名に「洋裁」とあったけど、校内には「和裁科」もあったのをしっている。

近所のおばさんがこの学校をでていて、「ほんとうは和裁のほうが専門なんだけど」といいながら、洋裁もずいぶんな数の主婦たちにおしえていた。そのなかのひとりが、わたしの母だった。
母はいつも「あのひとはあそこの洋裁学校出だからすごい腕前で、わたしなんかぜんぜんかなわない」といっていたから覚えている。

それでかとおもうが、小学生のとき、浴衣をつくってくれたのは、この「専門」の先生にならったにちがいない。
母親同士も仲がいい同級生たちと、浴衣で盆踊りや夏祭りの夜店にでかけたのは、きっと「集団指導」があったのだ。

だから、中学の同学年の女の子が数名、この学校にいくことが、なんだかうらやましくもあった。
きっと「すごい」着物やら洋服を、じぶんでつくれるようになるのだろう。

男子であるわたしのほうは、物好きなともだちと、彼の家の近所にあったちいさな材料屋さんで基盤のかけらと溶剤を買って、電気屋さんにもらったトランジスタや抵抗、コンデンサをハンダ付けして、ラジオをつくっていた。

自作のお風呂の水張りブザーは、それなりに便利だったのが自慢だ。

部品が「エレクトロニクス」でも、組立だから「メカ」同然。
小型の万力もあった自室が実験室になっていた。

生活のまわりに、メカがたくさんあったから、なにしろこれを「分解」するのがたのしいのである。
しかし、かならずもとに戻せない。
なので、商店街の電気屋さんにはずいぶんかよった。

大学にはいったころに、電気屋さんのおじさんが、うちの従業員になってくれるかと期待していたといわれたことがある。
冗談のようないいかただったが、もう、本心をたしかめるすべをうしなってしまった。

エレクトロニクスとメカニクスを合体させたのが「メカトロニクス」だけれども、このことばもあまり聴かなくなったのはどうしたことだろう。

工業のひとたちのなかにおさまっていて、そとに出てこなくなったのか?
サービス業のひとたちが、とてつもない恩恵をうけているのに、ぜんぜん他人事のままなのも解せない。

口ではじぶんたちが「最先端」をいくとはいうけれど、サービス業のひとたちは、そのどこが「最先端」なのかをいわない。
まさか「接客」という「接頭辞」を略しているだけではあるまい。

「接客最先端」に「最先端」をどうしたいのか?どうあってほしいのか?

ほんとうにかんがえているのだろうか?

宿の経営者が、「なぜか」をつけていうのが、客室のテレビやエアコンが同じ時期に一斉にこわれるから、出費がかさんでこまるという。
けれども、それが「日本品質」なのだ。

「品質」が「一定」でブレやバラツキがないから、一斉にあたらしく入れ替えたものが一斉に寿命をむかえる。
だから、経営として「予定」しなければならないのに、それをただ怠っているだけである。

「メカ」の時代からのメーカー努力が、いまだに理解できないのは、いったいどういう経営をしているのか?以前に、ユーザーとしておかしくないか?

どうして「年末」に、家庭の蛍光灯をぜんぶ交換するのか?
メーカーが、だいたい「一年」をもって寿命としているからである。
けれど、これをムリに伸ばすと「経済性が落ちる」ことも理由である。
それは、メーカーの手間という意味だけでなく、その分を負担するユーザーの「経済性」を考慮しているのだ。

切れるまで交換しないというのでは「目にわるい」。ひかりの波長に目に見えないノイズがはいるからだ。
いまどき、直管なら100均で買えるから、ちゃんと交換するのがユーザーにも合理的だ。

30年前の「餅つき器」が現役なのは、毎年末だけしかつかわないので、稼働したのがたったの30回だからではない。
空気には「酸素」という「酸」がふくまれていて、これが樹脂などの酸に弱い材料をかならず劣化させる。

それでも動いているのは、いまよりはるかに「良質」な材料をつかって、わざと「長持ち」という「品質」をつくっていたのである。
日本メーカーだとしても、中国工場だからわるいのではない。
むかしが、よすぎたのでもあり、いまは、「良質」より「コスト」を重視してつくっているから、やっぱり「わざと」である。

中国の安い人件費をもとめて工場移転したが、材料も安くした。
人件費が高くなった中国から別の国に移転するなら、こんどは浮いた分で高い材料をまかなえば、おどろきの「品質」で提供できることになるから、世界の消費者によいことだ。

はたして、ことしもサービス業界は、ほんとうにユーザーのことを第一としてかんがえ、行動することができるのか?
どんなサービスをつくるのか?

なんだか「オリンピック」「パラリンピック」がうらめしい。

『蚤とり侍』の名セリフ

「寝正月」をきめこんだら、本でも読むのがまっとうなのだろうが、それでは「夫婦の時間」にならないから、なにか観ようかとなった。
もちろんテレビではない。ましてや、地上波を観ることは、そもそも発想にない。

アメリカからやってきた、巨大EC会社が提供するサービスに、有料会員なら無料で観られる「映画」などのコンテンツがある。
この会社には「頭脳が豊富」にあるため、世界でほとんど課税されないという問題があるものの、それは課税当局の問題で、もはや各国の「国民のしったこと」ではない。

どちらさまの行政も、国民が求めることではなくて、行政の都合で施策をうつばかりだから、とうの国民たちが、なるべく税金を払いたくないとかんがえるのは「世界共通」になっている。

21世紀は「国民国家」の「国民」と「国家」が分裂する世紀になったから、「国民国家」として大戦争をくり返した20世紀は「遠くになりにけり」なのである。

だから、行政当局のたちばから、「おかしい」とか「不公平」だとかいうのは、たんなる原稿料ほしさからの言動だろう。
むしろ、じぶんが盗られていることに対する、「嫉妬」というほうが適当だ。

そんなわけで、めんどうなはなしは横にして、さてなにを観ようかということになった。
こまるのは「選択肢」が「おおすぎる」からだ。
人間はせいぜい「五択」までを限度とする。

日本料理屋の、「松」、「竹」、「梅」という「三択」は、シンプルかつ理想的な選択肢を客にあたえている。
たいがいが、圧倒的に「竹」が売れて、そのつぎの「松」か「梅」か?が経営の上手・下手をきめる。

「松」がいい、「梅」がダメ、ということではない。
客層からと、経営者の希望からとの組合せで、どちらを「優先」して売りたいか?をかんがえるか、かんがえないかでちがいになるのである。

かんがえるひとが「上手」になって、かんがえないひとが「下手」になるだけだ。
もちろん、「松」、「梅」ともに両方が、売れなくてよい「犠牲商品」になってもいいし、してもいい。

「竹」しか売らないなら、「松」や「梅」をメニューにのせるのは「ムダ」だとするのは、行政がやる道の駅とかにある食堂のことで、売れないけど「選択肢」をあたえ、客がじぶんで「選んだ」という行為をさせてあげる「効果」が、どんなに貴重かをしらないからである。

「松」、「竹」、「梅」には、巧妙なしかけがかくされているのだが、かんがえないひとは、たんなる「選択肢」としてのメニュー設定にするから、ぜんぶが「売れなくなる」のである。

これをむかしは、「武士の商法」といって、本業の商人からわらわれたものだ。

そこで、いまならコレと、「リコメンド」が用意されている。
下手な抵抗をせずに、すなおに「したがう」ことにして「選んだ」のが、『蚤とり侍』だった。
2018年の作品で「無料」だから、より「あたらしい」と感じる。けれども、夫婦で作品の存在を「しらなかった」のも「選択理由」である。

将軍というトップがおなじ家からの「世襲制」なのに、老中という実権者がかわると、政策が激変することに不思議がなかったころのはなしだが、これはいまもおなじに不思議がないのが一般的だから、なかなか「おもしろい」。

もちろん、当時のことにいまも不思議がないのではなくて、政権党がおなじなのに、政策が激変することを不思議におもわないことをいいたいのである。
この意味で、江戸時代のひとたちから、われわれは「進化」しているのだろうか?

ときは「田沼時代」。
田沼といえば賄賂だが、堂々と要求し、これを受け取っているのは、「武士」の本領発揮ともいえる。
そういえば、池波正太郎の筆は、『剣客商売』で田沼贔屓だった。

小説の主人公、秋山小兵衛は、当時現役歌舞伎役者の中村又五郎をモデルにする。その中村又五郎が演じた「本物」の秋山小兵衛は、フジテレビ「時代劇スペシャル」で、二作品「だけ」がある。
テレビが光っていた時代であったが、役者も揃っていた時代であった。

はたして、われわれ夫婦には事前情報が皆無の映画なので、なにがはじまるのか、とんと見当がつかない。
すごいキャストたちが、すごいことをやっている。
まさかいまよりあからさまな、江戸の「ホスト」はなしとは。

しかし、だからといって「ポルノ」にならないのは、直線的思考をする欧米人にはできない「技」だろう。
「R15+」にはなっているけど、「R18+」にしなかった理由はなにか?

サブストーリーに、父親が脱藩させられた、極貧の若い浪人が、貧乏長屋の子どもたちに無料で読み書きをおしえている。
このひとが病気になったとき、主人公が口にするセリフが、

カネをのこすのは三流
ものをのこすのは二流
ひとをのこすのは一流

である。
「名をのこす」と「事業をのこす」のが二流、というパターンもある。
どうやら「出典」は、後藤新平の「名言」なので、時代考証としてこのセリフは成立しない。

名言だから、これがひとり歩きするのは結構なことだけど、いまの財界人にいかほどの感覚があるものか?
げに、三流ばかりなり。

しかし、後藤新平の「周辺」には、あやしいひとたちがたくさんいる。
この「ひと」たちを、のこしてしまったのは、後藤新平の「闇」なのか?それとも、「時代」だったのか?

ふしぎな映画を観たものだ。

5000万円以上の住宅購入で移民可能

あちらで入手した「パンフレット」をみせてもらった。
おおきく「移民」という字があるけれど、あちらの漢字の意味とこちらの漢字の意味がおなじかどうかはしらない。
たぶんおなじだとおもう。

ぜんぶ見なれない略した漢字でかいてあるから、なんだかわからないけど、わが国のどこかに、5000万円以上する住宅を購入すると、そのまま「移民できる」とあるらしい。

入管法が昨年にかわって、くわしくどうなったのかについてしらなかったが、なんだかすごいことになっちゃっている。

正式に「移民」の受け入れ人数はおおくないと思い込んでいる。
けれども、なにが「正式」なのかを横におけば、たしかに日常生活であちらの一家に遭遇する機会がふえた。
もちろん、旅行客ということではなく、「生活者」という意味である。

不動産売買は、わが国ではだれでもできるが、あちらの国ではぜんぶが「国有地」なので、「売買は不可能」だ。
そんなわけで、ぜんぶが「賃借契約」となる。

国家間だと、「相互主義」というのがあって、相手と当方の「相互」でおなじでないといけないのが、外交に関するジュネーブ条約の精神である。

それで、あちらの国に設置しているわが国の大使館不動産の土地はどうなっているのかといえば、やっぱり「賃借」だ。
けれども、わが国の首都にある大使館も、その他領事館も、なぜか「売買」されているから、あちらの「領土の一部」になっている。

まことに「相互主義ではない」ことが、とっくにおきている。

だから、あちらの国民がお金でわが国の不動産を「売買」で購入できても、わが国の国民があちらの不動産を「賃借」するしかないことに文句はいえない。
もちろん、「賃借」だって、すきな場所を借りられることを意味しない。

そんなわけで、あちらの国民がわが国の居住用不動産を一定額以上購入すれば、そのまま「移住できる」というのは「特権」だともいえるけど、あちらの国民からすれば、ぜんぜん「特権」ではなくて、ふつうの「権利」になったのだ。

なぜなら、わが国の国民が、あちらに移住しようとおもわないからである。

カジノの汚職問題ででてきたのが、贈賄側の企業が想定した「客層」とは、あちらの「富裕層」をメインとしていることだった。
たしかに、あちらの「富裕層」は、こちらの「富裕層」より人数がおおくて(おそらく一億人ぐらい)、所有資産もあちらのほうがたくさんある。

すると、あちらの富裕層の満足を得るには、まずは言語の壁を撤去しないといけないから、あちらの労働者を呼び込むことがひつようだ。
それで、だいたい1万人程度従業員向けの「住宅地」が開発計画に付随していた。

家族を呼べば、たちまち4万人の街ができる。

候補地の地方都市なら、垂涎の的となる「人口増」が約束される。
もちろん、これで税収もふえるから、役所がさかえることは間違いない。
それに、あたらしくつくるあちら向けの住宅地だから、既存の住民との文化的対立も回避できるのは、画期的な計画案だ。

このストリーの注目点は、富裕層の量と質の双方で、わが国を凌駕してしてしまったことにある。
たった30年でこうなったのだ。

逆にいえば、たった30年でわが国は富裕層まで衰退した。

あちらは、政治に自由がないが、経済を自由にした。
こちらは、政治に自由があるようにみせて、経済も統制した。
30年前のあちらは、政治に自由がなくて、経済も統制したから貧乏だった。

こうして比較すれば、わが国のまちがいが簡単にみえてくる。

政治に自由だけでなく、なによりも経済を政府の統制から自由にさせればいいのである。

それにしても、どうやって5000万円以上ものお金をわが国に持ちこんで不動産を購入するのだろうか?
空っぽの家では暮らせないから、家具や備品を買わないといけない。

世帯数をこえる新築住宅供給は、こうして「移民」という受け皿があったとは。

陰の内閣総理大臣は、鳩山由紀夫氏にちがいない。
冗談でないのは、「民主党時代」の政策が、安倍自民党政権で、より一層ブラッシュアップしているからである。

民主党は解体されたようにみえるが、じつは自民党が民主党に「脱皮」していた、という顛末だ。

日本において日本人が少数民族になるのは、予想よりはるかにはやいかもしれない。