『蚤とり侍』の名セリフ

「寝正月」をきめこんだら、本でも読むのがまっとうなのだろうが、それでは「夫婦の時間」にならないから、なにか観ようかとなった。
もちろんテレビではない。ましてや、地上波を観ることは、そもそも発想にない。

アメリカからやってきた、巨大EC会社が提供するサービスに、有料会員なら無料で観られる「映画」などのコンテンツがある。
この会社には「頭脳が豊富」にあるため、世界でほとんど課税されないという問題があるものの、それは課税当局の問題で、もはや各国の「国民のしったこと」ではない。

どちらさまの行政も、国民が求めることではなくて、行政の都合で施策をうつばかりだから、とうの国民たちが、なるべく税金を払いたくないとかんがえるのは「世界共通」になっている。

21世紀は「国民国家」の「国民」と「国家」が分裂する世紀になったから、「国民国家」として大戦争をくり返した20世紀は「遠くになりにけり」なのである。

だから、行政当局のたちばから、「おかしい」とか「不公平」だとかいうのは、たんなる原稿料ほしさからの言動だろう。
むしろ、じぶんが盗られていることに対する、「嫉妬」というほうが適当だ。

そんなわけで、めんどうなはなしは横にして、さてなにを観ようかということになった。
こまるのは「選択肢」が「おおすぎる」からだ。
人間はせいぜい「五択」までを限度とする。

日本料理屋の、「松」、「竹」、「梅」という「三択」は、シンプルかつ理想的な選択肢を客にあたえている。
たいがいが、圧倒的に「竹」が売れて、そのつぎの「松」か「梅」か?が経営の上手・下手をきめる。

「松」がいい、「梅」がダメ、ということではない。
客層からと、経営者の希望からとの組合せで、どちらを「優先」して売りたいか?をかんがえるか、かんがえないかでちがいになるのである。

かんがえるひとが「上手」になって、かんがえないひとが「下手」になるだけだ。
もちろん、「松」、「梅」ともに両方が、売れなくてよい「犠牲商品」になってもいいし、してもいい。

「竹」しか売らないなら、「松」や「梅」をメニューにのせるのは「ムダ」だとするのは、行政がやる道の駅とかにある食堂のことで、売れないけど「選択肢」をあたえ、客がじぶんで「選んだ」という行為をさせてあげる「効果」が、どんなに貴重かをしらないからである。

「松」、「竹」、「梅」には、巧妙なしかけがかくされているのだが、かんがえないひとは、たんなる「選択肢」としてのメニュー設定にするから、ぜんぶが「売れなくなる」のである。

これをむかしは、「武士の商法」といって、本業の商人からわらわれたものだ。

そこで、いまならコレと、「リコメンド」が用意されている。
下手な抵抗をせずに、すなおに「したがう」ことにして「選んだ」のが、『蚤とり侍』だった。
2018年の作品で「無料」だから、より「あたらしい」と感じる。けれども、夫婦で作品の存在を「しらなかった」のも「選択理由」である。

将軍というトップがおなじ家からの「世襲制」なのに、老中という実権者がかわると、政策が激変することに不思議がなかったころのはなしだが、これはいまもおなじに不思議がないのが一般的だから、なかなか「おもしろい」。

もちろん、当時のことにいまも不思議がないのではなくて、政権党がおなじなのに、政策が激変することを不思議におもわないことをいいたいのである。
この意味で、江戸時代のひとたちから、われわれは「進化」しているのだろうか?

ときは「田沼時代」。
田沼といえば賄賂だが、堂々と要求し、これを受け取っているのは、「武士」の本領発揮ともいえる。
そういえば、池波正太郎の筆は、『剣客商売』で田沼贔屓だった。

小説の主人公、秋山小兵衛は、当時現役歌舞伎役者の中村又五郎をモデルにする。その中村又五郎が演じた「本物」の秋山小兵衛は、フジテレビ「時代劇スペシャル」で、二作品「だけ」がある。
テレビが光っていた時代であったが、役者も揃っていた時代であった。

はたして、われわれ夫婦には事前情報が皆無の映画なので、なにがはじまるのか、とんと見当がつかない。
すごいキャストたちが、すごいことをやっている。
まさかいまよりあからさまな、江戸の「ホスト」はなしとは。

しかし、だからといって「ポルノ」にならないのは、直線的思考をする欧米人にはできない「技」だろう。
「R15+」にはなっているけど、「R18+」にしなかった理由はなにか?

サブストーリーに、父親が脱藩させられた、極貧の若い浪人が、貧乏長屋の子どもたちに無料で読み書きをおしえている。
このひとが病気になったとき、主人公が口にするセリフが、

カネをのこすのは三流
ものをのこすのは二流
ひとをのこすのは一流

である。
「名をのこす」と「事業をのこす」のが二流、というパターンもある。
どうやら「出典」は、後藤新平の「名言」なので、時代考証としてこのセリフは成立しない。

名言だから、これがひとり歩きするのは結構なことだけど、いまの財界人にいかほどの感覚があるものか?
げに、三流ばかりなり。

しかし、後藤新平の「周辺」には、あやしいひとたちがたくさんいる。
この「ひと」たちを、のこしてしまったのは、後藤新平の「闇」なのか?それとも、「時代」だったのか?

ふしぎな映画を観たものだ。

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