十連休の意味とは?

経済をささえるインフラのなかで、もっとも重要なのは金融で、企業家が資金を得るための手段で、借入や株式市場がなければはなしにならない。
わが国では、はじめて紙幣を発行しておカネを貸してくれる銀行をつくったのが渋沢栄一で、そのあとに株式市場をつくったのも渋沢栄一だった。

銀行 → 株式市場、という順番になっている。
それでかしらないが、資金調達の手段のもっとも「主」要な方法が、銀行からの借入で、株式発行による直接金融のほうが「従」の時代がながかった。

銀行をひとくくりにまとめて、護送船団方式で管理するやり方が、官僚にとってやりやすかったからである。

それで、ゴールデンウィークの「十連休」を、金融機関にも命じたのが「祝日」指定だから、一般人といっしょに金融機関のひとたちも休むことになったのは、金融が特別なものではなくて「ふつうの産業」だと、役人がみなしたからである。

じぶんの預金をおろすのに、手数料を取られる。
金利がちゃんとつく時代ならまだしも、当座預金同然になっている。

ホンモノの当座預金なら銀行から「小切手帳」をわたされて、現金でなく小切手を切れば、安全に決済ができるという発明があった。
ちいさな国がひしめくヨーロッパでは、国がちがえば通貨もちがうので、陸続きの大陸で、小切手は安全かつ確実な「通貨」同様の役目をはたし、これを支えたのがユダヤ人のネットワークだった。

日本では、もっとちいさな国である「藩」がひしめいていたが、幕府という中央政府があったから、通貨単位は基本的に全国で共通だった。
金貨の流通と銀貨の流通という地域でのちがいが、両替商という商売をつくって、かれらのなかで通用する「為替」を発明したのだった。

この「小切手文化」と「為替文化」のちがいは、クレジットカードの意味のちがいになっていると以前に書いた。

いわば、これは、金融の「基盤がちがう」ことを意味している。
外国の「BANK」を「銀行」と訳すのはただしいが、外国の「BANK」と日本の「銀行」は、じつは似て非なるものである。

これと同様なのが、証券会社で、外国の「stock company」や「securities」を「証券会社」と訳すのはただしいが、外国のこれらと日本の「証券会社」は、似て非なるものである。

なにがちがうのか?
「法律」がちがう。
しかし、「法」とは最低限の取り決め・ルールのことである、という原則にたちかえれば、「精神」がちがう、というところにまでたどりつく。

外国の金融機関は、顧客への「サービス(顧客利便性)」を優先させるが、日本の金融機関は、「政府(の命令)」が優先するのである。

その証拠が、十連休中に現金をどうやって引き出すのか?という問いでわかる。
現金を引き出したいとかんがえ行動するひととは、金融機関から観れば「顧客」のことを指す。

だから、外国の金融機関なら、顧客に不便が生じないような方法をかんがえだすものだが、その前に、かれらに「十連休」という「概念がない」ことが重要なのだ。

基本的に、政府指定の「祝日」が日本ほどない。
銀行も証券会社も、あるいは証券市場すら、数日の連休はあっても、五日を超えて二桁になる連休などない。

顧客の「決済」をとめる、「換金」をとめる、という発想がないからだ。
つまり、金融とは、社会に特別なものだというかんがえかたが根底に存在する。

ところが、日本ではそもそも「顧客」とはいわず「利用客」という。
おなじ「客」という字があるけれど、「利用させてやっている」感がある。
これは、政府の目線なのだが、それが「現場」に伝染してしまうのだ。

連休前の平日になるべく引き出しなさい、という意味の案内は、「顧客優先」の発想からはでてこない。
ならば、店を開ければいいのである。

しかし、事業者からすればこんなことではすまないだろう。
月のうちの三分の一の日数が、決済も換金もできないのだ。
「仕事にならない」ではないか。
10連休倒産は起きないのか?

「奉祝」気分と、金融実務は別である。
これでまわる日本経済とは、鎖国をしているのではないかとうたがう。

世界経済から取り残されてしまったら、たしかに何連休しようが影響はない。
ただし、金融とは相手がいることを忘れてはならない。

日本株や円といった、出島のような世界との接点において、外国からの投げ売りやアジア通貨危機のような円への攻撃があるばあい、どうやって防戦するのか?

まったくもって、手段をうしなっているのが10連休である。

何事もなかったら、それはそれで、サーカスの綱渡りに成功したとよろこぶのか?

金融マンのホンネがしりたい。

黄昏のEU

日本では忘れられた経済学者になっているハイエクであるが、ハイエクによる「予言」を昨年に書いている。

ようは、EEC → EC → EU とつづくヨーロッパの行方を疑問視し、はては亡くなる前にEUの終わりかたまで書き残したひとである。
そして、その終わりかたどおり、終わろうとしているようにみえてきた。

イギリスのブレグジットはなんなのか?も、前に書いた。
重複するが、友人の英国人が「国会が北京にあって、最高裁判所がソウルにあったら日本人としてどうか?」といっていた。

それに、「EU官僚」というひとたちがきめる「超国家指令」が、一般人にも国家とはなにか?を再考させるにあたいするほど腹立たしいと。

それは、移民の割り当て数を決められたりして、これを国家として拒否できないとか、外国人の犯罪者を強制送還できないとかにまでおよぶ。
日常生活における慣習も無視した指令もあって、「???」がつくことばかりだと。

すなわち、究極の超国家官僚主義体制がEUで実現しているのだ。

こまったことに、日本の報道は地に落ちて、ブレグジットでたいへんなことになる、ということばかりがいわれているが、主語が「英国」なのか「EU」なのかが不明なはなしもある。

たしかに、英国からホンダが撤退をきめたりといったニュースはあるが、英国経済をホンダ一社がささえているのではない。

「合意なきブレグジット」と「合意」のちがいがなんで、英国議会がどうして何回も否決するのかも、くわしい報道があるとはいえないのに、世界経済がたいへんなことになるということばかりがいわれるのはどういうことなのか?

もし、日本の国会でこんなにも否決されたら、内閣がその都度総辞職させられそうだが、メイ首相はよほどの強者なのか、与党保守党にかわりがいないのか?

そもそも、メイ首相がEU側ときめた「案」は、離脱するのかしないのか、それともEUという蜘蛛の巣にからめとられてしまったのかがわからない案なのだ。

英国は離脱をするが、数年間はこのままで、その間は、EUいがいの他国と独自協定は結べない。
それで、保守党の離脱強硬派である元外相は、われわれはEUの植民地になる、と発言している。

ようは、EUは英国の離脱をゆるさない、という態度で一貫しているのだ。
もし、英国が前例となれば、次々と離脱希望国がでてEUが崩壊するという危機感からだろう。

この魂胆がみえてきたから、離脱派が維持派をずいぶんうわまってしまった。

ただし、EUという枠組は、いったん加盟国の国境をなくしたから、英国には、北アイルランドとアイルランドの国境もきえた。
それが復活することになるから、どうするのか?がややこしい。
「特例」というものができるのか?

EUから離脱したら、英国はTPPに参加するといったけど、それは「合意なき」ばあいである。
すると、英国にとって「合意」が絶対条件で必須のものなのか?という疑問がある。

むしろ、「合意なき」という選択が、じつは合理的なのかもしれない。

ブレグジットよりも、EU問題の柱に、統一通貨「ユーロ」がある。
「経済共同体」としての「ユーロ」だ。
英国はとうとうユーロを採用しなかったのは、政治家がちゃんとハイエクを熟読していたからだろう。

早い時期からハイエクは統一通貨の不都合を論じていて、統一通貨としての帰結を「ヨーロッパ中央銀行の設立」だとした。
そして、あまりにも事情がちがう国々の経済を、おなじ通貨のために「統制」することが必要になるから、かならず域内で経済の強い国と弱い国の間で、通貨問題が発生して収拾がつかなくなると予想した。

ギリシャ危機やラテン各国の危機がこれだ。
そのために、ヨーロッパ中央銀行の権限が「強化」されたのは、歴史的事実である。
もちろん、「統制」が強化されたのだから、各国の経済政策の自主性はうばわれた。

そんなこんなで、EUをささえる大国は、もはやドイツ一国だ。
もし、ユーロがなくてマルクのままだったら、ギリシャに例えれば、マルク高ドラクマ安で調整できたものを、ドイツの信用でギリシャ人もユーロで決済できてしまったのである。
つまり、通貨間の為替調整機能がユーロによって妨げられたのだ。

そのドイツが、ドイツ銀行の経営危機で息も絶え絶えになってきた。
日本のメガバンクのような銀行だが、むかしの長期信用銀行のように、自行で債権も発行できる銀行だ。

それに、ドイツ銀行とはいっても最大時で10%の大株主は中国企業だった。
メルケルのドイツと中国の蜜月の遺産である。

もはやこれまでなのか、中国企業は全株を手放すとアナウンスしているけれど、この銀行がやっちまったのは、リーマン・ショックとおなじ債権の保険商品による巨額損失(260兆円)である。
英国にはわるいが、ブレグジットどころのはなしではない。

ドイツ政府も必死になって支えようとしているが、この銀行の破綻はそのままユーロの破たんになって、EUがすっ飛ぶこと必定だ。

英国人は、ドーバー海峡のむこうから、この風景をながめているにちがいない。

処方箋は、ハイエクの『貨幣発行自由化論』にある。
わが国も、いまどき「新紙幣」なんてものではなくて、ふつうの銀行に貨幣を自由に発行させればよいのである。

ただし、われわれはドイツをわらえない。
もっとひどいのが日銀だからである。
ほんとうに10連休もして大丈夫なのか?

マグネシウムをたべる

ずいぶん前に「現代の栄養失調」というタイトルでかいたし、このブログではけっこうミネラルについてふれている。

国立がん研究センターの発表で、マグネシウムが注目されるようになっているから、くわしくはそちらで検索されることをおすすめする。

「ミネラル」というと「ミネラル・ウォーター」が連想されるほどに、日本人の生活に普及したのがボトル入りの「水」である。
「おいしい水道水」の普及があったから、わざわざお店で清涼飲料水ではなく、飲料水そのものを買うという発想があまりなかった。

「外国じゃ水道の水がまずくて飲めないらしいよ」
といって、日本にいることの幸せをかんじたものだ。

じっさい、エジプトのカイロでくらしていた35年前もいまも、彼の地の水道水をそのまま飲むのは、免疫力に自信がないと勇気がいる。
生活しているのだからと、着任後半年ほどしてから、多少の下痢はかくごして慣らしたけれど、観光旅行ならやめたほうがいい。

概して、地層の形成から、日本は石灰質の岩盤があまりないので、湧き水や井戸水にミネラルがはいっていない。
こうした水を「軟水」という。

反対に、欧州などの地層には大理石の産出があることでわかる、石灰質の岩盤があるから、カルシウムたっぷりのミネラル・ウォーターが湧いてくる。
こうした水を「硬水」とよんでいる。

それで、WHOは以下の基準をもうけている。
軟 水:硬度0~60未満
中軟水:硬度60~120未満
硬 水:硬度120~180未満
超硬水:硬度180以上

富士山の名前がついている日本の伝統的な「ミネラル・ウォーター」は、なんと硬度28という「軟水」であって、ミネラル・ウォーターといっているのに、ミネラルがあんまりはいっていない。

フランスの有名なミネラル・ウォーターは、硬度300をこえるものもあれば、軟水に分類されるものもあるから、表示で確認しないとわからない。

日本の水道水は、ほとんどが軟水だが、サンゴがある沖縄や鍾乳洞で有名な山口県では硬水なのが特徴だ。
ミネラルの多少が、酵母の活動に影響するから、酒や醤油づくりには、製品品質をきめる大事な要素になってくる。

さて、人間をふくめて、生命の起源をたどれば、海だったから、わたしたちの体内にも、海での生活のなごりがあることはしられている。
成分として、「塩(塩化ナトリウム)」がもっとも有名で、かつ、欠乏すると生命にかかわるから、宿敵どうしであっても「敵に塩をおくる」ことがある。

それに、カルシウムというミネラルも、骨や歯の主成分だから、不足するとこまったことになる。
そうやってかんがえると、マグネシウムは地味なミネラルである。

しかし、海水にふくまれるマグネシウムの量は莫大で、ほぼ無尽蔵という資源でもある。
だから、海からやってきたわれわれのからだには、マグネシウムは必須なのである。

人間もふくめた生命体の体内活動は、ほとんど無意識な化学反応である。
この化学反応を、スムーズに促進させるために「触媒」という役割の物質がさまざまに存在しているが、なかでもマグネシウムが、触媒として重要な役割をはたしているという。

その役割は、300とも700種類ともいわれる化学反応に関与しているというから、おどろきである。
だから、マグネシウムが不足すると、おもわぬ病気をひきおこすことがわかってきた。

がん、高血圧、糖尿病などがあげられているから、いいかたをかえれば「生活習慣病」そのものである。
それで、もしや「マグネシウム不足」が原因か?というはなしになってきているという。

マグネシウムを取り入れる方法はふたつ。
ひとつは、「食べる」ことである。
サプリではなく、食品からとりましょう、と推奨されている。
その食品とは、伝統的日本食におおいのも特徴だ。

蕎麦、海苔、ヒジキ、豆、雑穀、抹茶、ゴマ、ワカメ・昆布、青野菜、魚、椎茸、牡蠣、芋、トウモロコシ、果物。

なにげない食品にふくまれている。
それなのに、マグネシウム不足なのは、これらの「なにげない食品」を、そういえばあんまり口にしていない。

もうひとつの摂取方法は、入浴。
マグネシウムがはいっている入浴剤で、皮膚からとりいれる。
なるほど、むかしの海水浴の意味がわかる気がするではないか。

すると、これは、いがいと宿泊施設で応用できそうだ。

「マグネシウム摂取プラン」というアイデアになる。

なお、豆腐をつくるときの「にがり(塩化マグネシウム)」をそのまま飲む、というのは危険だという見解がある。
タンパク質を凝固させる作用があるから、そのまま大量に飲むと、内臓のタンパク質が硬化するからだというし、腎臓病患者には御法度だ。

伝統食の見直しは、地域観光の要であるから、やはり食品を料理してさしあげるのがよろしかろう。

書店がきえる

またひとつ、近所の書店が閉店になった。

たしかに、近年、書店にいく機会がめっきりへったとはいうものの、なくなるのはこまるから、消費者とはわがままなものである。

アマゾンでの本の購入は、新刊だけでなく古書もある。
しかし、時間があるとき、散歩がてらに古本屋に寄るのが、あんがいたのしいのは、ほう、という発見のよろこびがあるからだ。

検索には、パッシブな検索とアクティブな検索の二種類がある。
潜水艦でいう、パッシブソナーとアクティブソナーとおなじだ。
パッシブは、むこうからやってくる情報をとらえることで、アクティブとは、じぶんからとりにいくことである。

だから、ネットでの検索は、基本的にアクティブで、書店での検索はパッシブになる。
ぶらぶらと書店を歩きまわるだけで、めずらしい本をみつけることができるのは、まさに「ならでは」だ。

ネット書店を猟歩しても、リアル書店のような「発見」はむずかしい。
それで、わるい消費者は、リアル書店で見つけた本をネット書店に注文したりして、リアル書店の売上に貢献しない。

そんなわけで、リアル書店の営業がたちいかなくなって、けっきょく不便を被ることになったのは、消費者の自業自得だろう。

いっぽうで、書店側はどうなのか?
世界をみわたすと、「美しい書店」というかんがえかたがある。
これらの画像や映像をみると、行ってみたい、という衝動がうまれる。
もちろん、そこで売っている本を読むためのじぶんの語学力は無視してだ。

そして、おそらく、なにが書いてあるかはわからないけど、「美しい『本』」をみつければ、購入するだろうじぶんが容易に想像できる。
つまり、書店が「観光地」になる、ということであって、そこで売られている「本」が、観光みやげになる、ということを意味する。

ただ本を並べれば「書店」なのか?
それは、ただ魚を並べれば「魚屋」なのか?
ただ野菜を並べれば「八百屋」なのか?という問いとおなじだ。

日本が貧しかったころ、ということなのだが、じつは、ついさいきんまで「貧しかった」のだ。
戦後の混乱期は圧倒的な「物不足」を経験していたし、そもそも、その前からふつうに「物不足」だった。

石油ショックのときは、まだ新規の珍しさがのこっていたスーパーマーケットに、トイレットペーパーをもとめる混乱があったのも、「物不足」経験からの反動だし、東日本大震災のときのコンビニから商品が消えた状態もおなじ心理からだった。

なんのことはない、あいかわらず、貧しいのであって、わざわざむかしを思いださなくても、こころのかたすみにDNAのように、しみわたっているのが日本人なのだ。

公共放送が「買いだめをするな」とよそ行きのことばで連呼しても、だれも聴かないのは、上の発想がきえないからだし、ことばだけの公共放送の無責任をしっているからである。

だから、「もの」にこだわる。
「ものづくり」の「もの」もおなじだ。
作り手もそうだが、売り手の商店だって、「もの」を売っていると信じている。

それで、品揃えが豊富でないといけない、という発想になる。
神田の古本屋が「専門化」しているのに、新刊書は百花繚乱の店づくりになっていて、各コーナーの専門ですら深くない。
売れ筋の取捨選択がそうさせるのだろう。

「本屋大賞」も、本屋がじぶんで読んで掘り出し物の作品を紹介したかったのだろうが、ジャンルがせまくて魅力に欠けるから、売れている本とおなじになって、なんだか全体がうすまった。

古書店には、所轄警察から「古物商」の許可をもらわないといけないから、新刊書の本屋とちがう。
新刊書には、再販制度という特権があって、売れ残りは取次に返品ができるようになっている。

一見、書店のリスクがないし、そのぶん、あんまり売れそうにない本もとりあえず出版できる。
しかし、流通取引での競争がないから、業界が硬直化してしまうのは、必然的なことである。

そこに、アメリカから「アマゾン」がやってきたわけだ。
書籍という商品が、「通販」で市場をかくも荒らされるとは、だれもおもわなかったのではないか?

これに、「グーグル」もくわわって、アマゾン対グーグルという奇妙な戦いになっている。
アマゾンは「ネット通販」が本業で、グーグルは「ネット広告」が本業だからである。

つまり、書店という「もの」をあつかう商売が、べつの商売に翻弄されてしまったのは、制度のぬるま湯に浸かったまま、じぶんたちは何者かをわすれた結果だともいえる。

「美しい書店」しか、生きのこれないのか?
しかし、そこには「美しい本」がなければならない。
けだし、ただそこに「本」がある、だけではもう成りたたない。

消費者が欲する本はどんなものか?
時代は、「あなたへのおすすめ」の精度を、アマゾンとグーグルが競争しているのである。

すなわち、アクティブからパッシブへの転換がとっくにはじまっているということだ。
「本」を売っているというかんがえと、消費者が「買っている」ものがちがうのである。

消費者は、じぶんの知見がふえることを買っているのだ。
「本屋」は「本」を売っているとかんがえてはいけないのである。

「時代」をつくる世代とは

いつでも、現役のバリバリと指導者が組んで時代をつくる。
キーになるのは、指導・管理する世代がじっさいに時代をつくっていることだ。
それは、かつて若さとバイタリティーで、上司をものともせずバリバリはたらいていた世代が、指導・管理しているからである。

そういう意味で,「時代」は「生命」に似ている。
わたしたちの細胞は、じつは毎日のようにあたらしい細胞がふるい細胞と入れ替わって、数ヶ月で完全に入れ替わる活動をしている。
髪の毛も、歯も、内臓も、すべてあたらしい細胞にコピーされているのである。

白髪は白髪のままに、虫歯も虫歯のままに、コピーされるから、入れ替わっているという実感はない。
しかし、これは間違いのない事実なのである。

さらに、食物として体内に取りこんだ物質を、「消化」というエネルギー変換をおこなって、分子レベルで吸収し、体内での化学反応によって分子レベルでの不要物質だけを排泄している。

したがって、福岡伸一博士によれば、生命とは「エネルギーの流れである」という定義になる。
だから、このエネルギーの流れが停止し、細胞の活動が停止した状態を「死」というのである。

個体としての人間があつまって、集団をつくると、社会がうまれる。
社会の細胞は、個々の人間であるが、さだめられた寿命によって、ふるい人間とあたらしい人間が入れ替わっている。

これを、「学校」というくくりでみれば、小学校6年、中・高3年とは、厳しい「定年制」が実施されているともいえる。
ことしの新入生も、いつしか卒業するから、たえず学校は人間という細胞が入れ替わっていながらも、あたかもおなじ姿をしているように見える。

企業組織もまったくおなじだ。
組織を構成する人間は、人生の大半をこの組織のなかにうずめて、生計をたてるが、やがては組織から引退することになる。

だから、引退手前の「頂点」のときに、指導者の地位をあたえられたひとたちが、そのひとたちの人生経験にもとづく「時代特性」があらわれて、それをおおくのひとがたんに「時代」とよぶのである。
天才・中島みゆきの「時代」における歌詞は、まさに以上のことをあらわしているから「すごい」のである。

「高度成長期の」昭和をつくったのは、明治の気骨だった。
財界をけん引していた、文字通りの財界総理は、石坂泰三氏そのひとだ。
明治19年(1886年)生まれにして、経団連会長だったのは昭和31年(1956年)から昭和43年(1968年)だ。
なお、昭和50年(1975年)に鬼籍にはいっている。

わたしがおもう最後の財界人、土光敏夫氏は、10年おくれて明治29年生まれ、昭和49年(1974年)から昭和55年(1980年)まで経団連会長をつとめ、第二次臨時行政調査会会長になったのが翌年の1981年だった。

石坂が30歳になるのが大正5年(1916年)、土光が1926年(大正15年・昭和元年)である。
敗戦の昭和20年(1945年)は、石坂59歳、土光49歳だ。

厚労省が発表している平均寿命で、もっともふるい昭和22年では、男50.06歳、女53.96歳だ。
「平均」のこわさをしったうえで、石坂と土光はすでに「長命」の部類に入る。

石坂は昭和13年に第一生命の社長になっているから、52歳のことだし、土光は昭和21年に石川島芝浦タービンの社長になったが、それは50歳のときだった。

いまでも、50歳のはじめで大企業の社長になるひとがいるから、寿命を無視しても、このひとたちが「時代をつくっている」のである。
いま本人たちに、その意識があるかどうか、はわからないから残念な時代ではある。

すると、30年でおわる「平成」の時代をつくったひとたちとは、ざっくり50年を引き算すると生まれ年がわかる。
つまり、まちがいなく「昭和」になるのだ。

すると、平成元年は昭和64年だったから、昭和10年代(よくいう昭和フタけた)生まれのひとたちによって、平成がつくられたことになる。
すなわち、戦争孤児や「ギブミーチョコレート」世代であって、教科書が墨で塗られた心神に傷を負わされた世代でもあるのだ。

そしてなによりも、あのバブル期を組織の指導者として仕切ったひとたちである。
わたしは、平成の停滞とは、このひとたちの人生や経験といったレベルまでさかのぼってかんがえないといけないとおもっている。

つまり、社会に出たときは高度成長に「なっていた」ので、それに便乗した世代でもある。
そういう意味で、ラッキーでもあり、経済は拡大するものと信じたひとたちだ。

これが、国家依存という弱い精神を呼びこんだのではないか?

「令和」とて、昭和からのがれることがしばらくはできない。
しかし、「令和」の途中で、「平成」世代がでてくることになる。

さて、バブル崩壊以降にうまれた平成世代は、浮かれた景気をいちども経験したことがないという特徴がある。
このひとたちは、アンチ昭和をただしく導くことができるのか?

「哲学」が問われる時代をむかえている。
ところが、1980年代からはじまる30年にわたる「ゆとり教育」世代でもあるのだ。

この世代をつくったおとなたちは、どの世代なのか?

もはや祈るしかない。

経済同友会はだいじょうぶか?

昨日、経済同友会代表幹事の小林喜光三菱ケミカルホールディングス取締役社長兼三菱化学取締役会長兼地球快適化インスティテュート取締役社長が、消費税率は14~17%まで引き上げないと国の(財政再建)目標は達成できないと述べたという報道があった。

このひとはもともと、化学人である。
三菱化成に入社した翌年に、東京大学から理学博士号をうけている。
それで、放射性物質の反応がすすむ福島原発をかかえた東京電力や、どうにもならないジャパンディスプレイの社外取締役も引き受けたのだろう。

冒頭の報道は、政府というフラスコのなかで、財政をおさめる反応には増税でのおカネを投下しないと、ちゃんといかないと発想しているのだろうとかんたんに予測がつく。

だが、この「実験」には、化学実験とことなる条件があって、それは、政府のコストをコントロールする政治の可能性をいう。
つまり、完全成り行きベースなら、財政再建にはおカネがいるといいたかったはずだ。

そんな政府よりのトンデモ発言をしていいのか?
と、経済評論家の百家争鳴議論はつづくだろう。

ジャパンディスプレイは、「中・台」の会社にバルクで売却されるのがきまったから、損は確定した。
しかし、問題は東京電力である。
福島の処理にいくらかかるのか?

そこで、おもいきり穿った視線で書いてみる。

2016年に経産省は、11兆円が22兆円になるとの試算結果を発表している。
この内訳として、廃炉費用が2兆円から8兆円になるといったのだ。

ところが、トリチウムの汚染水がたっぷりでてきていて、原発周辺がタンクだらけの状況で、間に合わない分は海に棄てるはなしまであったのはこの間のことだ。
もちろん、地元自治体と漁協関係者が、納得するはずがない。

外国も納得していないと、この間のブログで書いたし、じっさい韓国はふたたび「輸入拒否」を表明している。

それで、この処理をどうするのかというときに、画期的技術がないから、「ふげん」で開発された技術をつかえば、1トンあたり2000万円なので、すぐに兆単位の増加が計算できる。

わたしは、とある講演で国立大学の原子力技術の専門家である教授が、「わからない」けど「ざっと70兆円」というはなしを聴いたことがある。

じつは、この「わからない」には、金額の見積もりだけでなく、時間もふくまれていて、おなじ教授が「おおむね最低1000年」と発言した。
だいたい百年単位であたらしい技術が確立されるはずだから、1000年でも10回しかあたらしい技術に期待できない。

となると、1000年で70兆円なら、一年でいくらなのか?
とはいかないから、現在をもって、はっきりわからない、というのがほんとうなのだ。

むしろ、科学を志望する学生を、原子力事故の後始末というしごとに、1000年間ものあいだ人材をたやさずに供給できるのか?
それは、どんな仕組みで可能なのか?さえも、見当がつかない。
「源氏物語」は、1000年間読み継がれてきたが、ことはリアルな事故処理なのだ。

だから、きっと小林喜光氏は、化学人としての矜持をかけて、まずはおカネがかかるから、消費税の増税はすくなくても年金や医療費につかうのではなくて、事故処理に必要なのだと主張したにちがいないとかんがえる。

つらいのは、ここで述べた事実を、こわくてだれも言わないから、ただ「増税容認発言をした」という、部分を切り取っただけのはなしになってしまい、きっと労働界や消費者からも反発をうけることになるのが歴然だからだ。

「今日の事故現場」という報道などだれもしないし、「風評被害」になるといってむしろ遠ざけるのだろう。
中途半端な知識しか国民にあたえず、溶け出した「デブリ」を取りだす作業がうんぬんという報道も、わかったようなわからないような。

そもそも、放射能たっぷりの「デブリ」を取りだしてなにがしたいのか?
ひとが近づくことも触ることもできっこない。
それで、「廃炉」が進んでいる、とでもいいたいのなら、国民は「1000年」をどうやって耐えるのか?

わたしたちは、そういう国に住んでいるのである。

ダチョウは敵から逃れて、もうだめだと判断したら、すさまじいはやさであのちいさな「頭」だけがかくれる穴を掘って、そこに頭をいれて敵がどこかに行くことを待つという。
もちろん、敵がそれでダチョウを見失う可能性などありはしない。

見えなくなれば、こわくない。
一瞬の平穏ののち、このダチョウはエサになる。

わたしたちは、ダチョウになってしまったのか?

経済同友会は、この深遠なる代表幹事の発言を、ダチョウとしてではなく、人間として受けとめられるのだろうか?
おそらく、ダチョウの会員もいるだろうが、ぜひとも「だいじょうぶ」なすがたで、つぎは国民をダチョウから人間にもどしてもらいたいものだ。

経団連と政治という化学反応がとまってしまった国の、せめてもの希望が経済同友会である。

通信各社は反NHK議員をそだてるか?

悪法もまた法なり

最高裁判所は、NHK受信料についてのボールを国会に投げつけている。
しかし、おそろしく停滞しているわが国の立法府は、知らぬ存ぜぬでほおかぶりをきめこんでいるようだ。

先般の、ワンセグ放送にかかわる受信料発生の確定判決は、従来のNHK受信料支払いに疑問をいだいていなかったひとたちも、「なんだ?」とおもったらしい。
それで、ワンセグ放送を観ることが「できない」スマホが、いちやく注目をあびるようになった。

いわゆる「寝た子を起こす」判決になった。
すなわち、最高裁判所は、惰眠を貪っている国民を覚醒させようとしているのだとかんがえれば、民主主義国家なら、かならず選挙で争点になるはずの問題になると期待しているのだろう。

じっさいに、ずいぶんまえから元NHK職員だったひとが、受信料反対をうったえて、選挙にでていた。
この春の統一地方選挙で、彼の主張に賛同するひとたちが、出馬して、おもいのほか善戦しているのは、ちいさな「風」が吹いたともいえる。

ネット上で、各キャリアのスマホのうち、どの機種がワンセグに「対応していないか」が特集されるのは、機能はつけるもの、というわが国総合家電メーカーが常識としていた「セオリー」の完全否定が、あからさまにはじまった、ともいえる。

善良なる日本国民のおおくは、そんなに重要ではない、ただ付加されてしまっているこの機能が欲しくて機種を選定していたわけではないだろうから、じぶんがその機種を所有している「だけ」で、いつかNHKから請求が、しかも、購入時から訴求してくるかもしれないという「気持ち悪さ」にがまんができない。

もちろん、これは、いまどきのカーナビもおなじだから、どうしても必要な機能だと認識できなければ、わざわざ選択することもないのだが、なぜかもはやワンセグ放送の受信機能がない最新型カーナビを選べないという無理もある。

法人なら、従業員に配付している業務用スマホや社用車のカーナビについて、受信料を負債計上すべき事態なのに、国会でのガン無視はどうなっているのか?

これも、ほんとうはいらない機能を強制的に付加して、消費者に高単価で買わせようという、押し売りの果ての事態である。
メイドインジャパンとは、「消費者がもとめる上質を販売している」というのは、この意味ではとっくに「ウソ」になった。

だから、日本人の消費者は、単機能でも「上質」とみとめるなら、製造国にかかわらず、気に入った製品を購入する。
70年代のアメリカ人が、自国のテレビを買わなくてもぜんぜん気にしなかったことが、ようやくわが国でもはじまった。

しかし、だれでもしっているアイフォンやアイポッドは、もはやどの国製なのかなどの表記すらない時代だから、「メイドインジャパン」にこだわる、というのは、もはや時代遅れですらある。

経産省という役所が、この時代遅れの推進エンジンになっているのは、滑稽であり、国税を大量投下するのは国民にはおおいに迷惑な存在である。
どんなにおおきな失敗をして、損失の大穴をあけても、だれもおとがめがなく、減給すらされないのは、ふつうの民主主義国家なら許されない弛緩した状態だ。

だから、わが国はふつうの民主主義国家ではない。

NHKの受信料問題とは、この国の「伝統」になっている、国家総動員体制の一部にすぎない。

この、国家総動員体制とは、べつのいいかたをすれば、「戦時体制」のことである。

この「平時」に、戦時体制をつらぬいているのが、じつはわが国であるから、周辺国もいっしょに戦時体制をつらぬいているともかんがえられる。
周辺国がわが国を名指しして「軍国主義の復活を懸念する」などというのは、一部に認識のまちがいがある。

「復活」ではなく、「そのまんま」なのだ。

そんなわけで、あとだしじゃんけん状態になったワンセグ受信機能がついている機器の普及という事態での、受信料請求、という社会負担の無慈悲な増加は、戦時体制そのまんま状態打破の「蟻の一穴」になるかもしれない。

わが国通信業界の世界から乖離したガラパゴス状態とは、通信キャリアが機器メーカーを支配する構造にある。
マッチポンプのわが国総務省は、「見た目で」世界標準になるように、simフリー化を促すが、上記の構造にてはださない。

通信キャリアにとって、ワンセグ受信機能は果たして必須なのか?
むしろ、もはや通信業界のガラパゴス化によって、世界市場で壊滅状態になった端末製造事業を、どうするのか?に、例によって経産省さまがちょっかいをだして、よせばいいのに、液晶パネルや集積回路の失敗をくりかえすのか?

もはや、外国なかんずく中国製造業のための経産省になっている。
日本企業や技術を保護するという大義名分で、そのじつ外国企業に買いたたかれて、激安販売をしているのが経産省の「商売」になった。

ならば、議員をそだてるしか、生存の方法はないではないか。
ただし、それでも国家に依存したい、ならべつである。

被害しか被らない国民に、もはやリスクはない。
だまっていてもリスクがあるなら、投票行動してやる。

それが、統一地方選挙のちいさな「風」だったのだろう。
もしや「嵐」になるかもしれない。

従業員に本当のことがいえない

業績がふるわない企業ほど、従業員に業績発表をしない。
けれど従業員も、興味がない、から気にしない。
なぜ従業員が興味をうしなったのか?
いわれたことだけをやればいい会社だから、余計なことに興味を失っている。

会社の業績が従業員にとって「余計なこと」になったら、将来の業績の回復も見込めない。
もし、業績が回復しそうだとなっても、これらの従業員はけっして喜ばない。
「ああ、仕事がふえる」としかかんがえないからである。

もちろん、従業員に業績発表をしない会社なら、資本関係がない取引先にもおしえない。
それどころか、「秘密」あつかいにしていることだろう。

しかし、世の中のおカネをむかし「御足(おあし)」とよんだように、足がはえて勝手に歩きまわるような感覚があった。
経済は、連動しているのだから、「御足」といういいかたは、経済を適確にとらえた言葉遣いである。

だから、取引先は、入金だけでなく、自社が納入している物品の量と質をみれば、相手先がどんな状況かは把握できる。

これは、政府統計という巨大なデータでもおなじで、信用できない巨大な隣国政府の統計だって、「輸入」の量と金額はごまかせないのとおなじである。
輸出した元の国々の情報から、全体像がうかびあがるからだ。

そんなわけで、二流以下の経営者は、取引先からながれる正確な情報に、自社から「秘密」が漏れていると疑い、とうぜんに嫌疑を従業員に向ける。
こうして、人間関係まで崩れれば、組織の崩壊は目前となる。

業績の良し悪しにかかわらず、ちゃんとした経営者は業績発表に躊躇はない。
業績発表は、ある意味経営者の通信簿だというが、たとえオール1でも、恥を忍んで発表し、次期以降のバネとする。

納入業者もつかう従業員出入り口に、毎月の業績と将来予測を張り出すホテルがあった。
そこでは、パートさんも時間中に招集して、業績の「紙のみかた」をレクチャーし、どうしたらよくなるのかアイデアを募集すると公表もした。

どんなアイデアでも出したひとには金一封、そのアイデアが採用されたひとには表彰制度をもうけた。
それで、まずは「他人ごと」を排除したのだ。

すると、このはなしが取引先にも「漏れ」て、取引先からもアイデアがでてきた。
シーズン前に、地元名物の一次産品を集めたフェアをやるという「おふれ」をだして、あたらしい取引先まであらわれた。

さて、そうかんがえると、よくいう「情報の共有化」が、どれほど実務に役立つかの両極のはなしが上述のとおりである。
しかし、世の中には、まん中の事例もあるのだ。

現在の業績がそこそこ好調でも、「情報をださない」という爆弾をかかえている事がある。

なかでもそれが、就業規則や賞罰規定にかかわることだと、事あるばあいに示しがつかなくなることは容易に想像ができる。
にもかかわらず、これらの情報を従業員に提供しないのには、「中小企業」の甘えの構造がみてとれる。

従業員をもって一家を成す、という「家族主義」は、日本人のこころの琴線にふれる感涙主義でもあるのだが、うらをかえせば「なぁなぁ」なのである。

政治の世界なら、桂園時代という一時代がはるかむかしにあったものだ。
桂太郎と西園寺公望が、交互に総理大臣をつとめた時代をいう。
桂は陸軍出身で大将にのぼりつめたひとだったが、「ニコポン」というあだ名があった。

ニコッと笑って相手の肩をポンとたたく。
「頼んだよ、よろしく」という合図であって、けっして言葉にはしない。
それで、ことがなった時代だけど、いまでもあんがいかわらない。
言ってないから「忖度」ということになるからだ。

いわゆる「家長」としての社長が、わるいようにしない、と家族である従業員に約束すれば、それでよしとしたからで、あからさまに文句をいうなら、文句をいうほうが悪者あつかいされたのだ。

しかし、いまは、典型的な「家長」としてパターナリズムの権化だった、医師までもが、患者から「セカンドオピニオン」を請求されたらことわれないし、治療方針についてのわかりやすい説明と患者の同意である「インフォームドコンセント」が普及してしまった。

ならば、会社だって役所だって、ききたいことは確認する、というあたりまえがあたりまえになった。
それで、先回りして「説明責任」をはたすほうへ行くひとと、何もなかったかのようにするひととにわかれたのだ。

それで、後者たちは、ついに従業員から質問されることをこころのなかで「痛い」と感じるようになった。
そんなわけで、こわくて本当のことがいえないのである。

これは、父権の喪失ということとおなじで、「家長」の立場放棄なのである。

業績のよい会社ほど、傷が深くなる。

社長のリスクと部下のリスク

人間だから、だれでも「じぶん中心」に物事をかんがえる。
「自己中」は、あたりまえなのである。
しかし、そこで、一歩たちどまって再考することができるか、できないかが、ほんとうに物事をきめる。

社長にもとめられる「無謬性(まちがえないこと)」は、カリスマ性につながっているから、この間まで従業員だった人物が「社長」になったとたんに、神様のようなふるまいを要求されるようになる。

そして、社長に選ばれるような「まじめ」な人物であるほどに、その要求を「理不尽」とせず、きちんと受けとめようとして、「権威主義」の誘惑に負けるのである。

あたりまえだが、上述の誘惑をものともしない「人物」もいる。
「社長」とは、なにをする役割なのか?について、たちどまってかんがえたひとである。

こういうひとは、情報に敏感でかつ飢えている。
いわゆる「丸投げ」を嫌う。
それで、会社に持ちこまれるさまざまな情報に、みずから直接接することを「ふつう」だとかんがえるのである。

資本集約的な産業(高度な機械設備などを要する)にいれば、その導入について部下まかせにしない、という意味だ。
みずから積極的に良否を判断するための勉強をする。
そんな会社は、「小田原評定」をきらうのはあたりまえである。

労働集約的な産業(人間による仕事が主になる)では、ひとの採用について、担当者まかせにしない、という意味だ。
ホテルや旅館業は、土地と建物がないと成立しないから、資本集約的な産業であるけれど、接客のための従業員が不可欠だから、労働集約的な産業でもある。

だから、ほんとうは製造業の社長よりも、かんがえなけれなならない範囲がひろいのだ。
これに、かんがえる深さもあるから、ものすごく難易度がたかい。
その責任者としてのリスクもおおきいのだ。

一方で、社長以外の「部下」をみると、自己中でいられる立ち位置でもある。
じぶんは社長になる、とおもわなければ、よりその立場がはっきりする。
だから、現状維持が重要なのだ。

たくさんいないはずの、じぶんは社長になる、とおもっているひとは、もちろん現状維持を優先などしない。
それよりも、じぶんのしごとにおける失敗をきらう。
これは、社長のイスが近くなればなるほどにでてくる傾向で、さいごは同僚の失敗を歓迎するのである。

あたかも、現状維持とそうでないひとのかんがえかたはちがって見えるのだが、じつは本質的にはおなじなのだ。
つまり、失敗をしてはいけない、という強い思いがあるということだ。

これが、「大企業病」の病根である。
その病気をより悪化させるのが、トップによる権威主義の存在である。
だから、トップがみずからの役割に忠実で、かつ誠実ならば、大企業なのに大企業病に罹患すらしないでいられる。

ひとは、こういった会社を、尊敬をこめて「優良企業」とよぶ。
たんに、業績がよい、という意味ではないから、区別のために「超」をつけることもある。

大企業でないのに「大企業病」になってしまっている会社もたくさんあるのは、上述の「メカニズム」がおなじだからである。
だから、規模の大小はとわない。

すると、どうやって「優良企業」のようになれるのか?ということの方法論がみえてくる。

「失敗をしていい」という風土を、トップがつくればいいのだ。
しかし、これだけでは言葉遊びになってしまう。
「もの」や「こと」の本質をみるめをやしなう訓練が、組織的に必要になる、という認識がなければならない。

たとえば、「もの」の売りこみならば、採用したばあいのメリットとデメリットのかんがえられるかぎりでの比較検討だ。
ふしぎなもので、かんがえられるかぎりでの比較検討、を繰りかえしていると、かんがえる範囲の「かぎり」がひろがるのだ。

その「もの」を導入した部署いがいにも、影響がおよぶことがある。
すぐれた「もの」ほど、影響がつよい。

すると、人物評価や査定における基準が、従来の「あたりまえ」ではなりたたない、という影響もみえてくる。
その「あたりまえ」が、「失敗はゆるされない」をつくるからだ。

そうやって、居心地のよい、けれども業績がふるわない企業ができて、従業員から見放されれば、人材もあつまらないという循環になる。
人口が減っているからしかたがない、のではなくて、そういった循環を自分たちでつくっているのだ。

なぜなら、応募がたえない会社はたくさんある、という事実がしめしているからである。

ドレスコードがない

日本人は、自由の「はきちがえ」をしている、とずいぶんまえから指摘がある。
「本来の」自由と、「にせものの」自由とは、なにがどうちがうのか?

ガラパゴス化した日本の自由とは、なにをしてもいい自由、のことで、枕詞に「他人に迷惑をかけないかぎり」がくっついて、親が子どもにいいきかせる小言とおなじになる。

自由の本場、英米を中心とした国々では、「他人からおしつけられることなく、じぶんでじぶんの人生を決める自由」をいう。

これが行きついたのは、スイスにおける麻薬摂取所の開設だった。いまでは、30カ国、オランダやドイツ、カナダ、スペイン、デンマーク、そしてフランスにもある。

スイスではもちろん「国民投票」できまったから、行政が各町の町はずれに、あたかも日本の交番のようなちいさな建物をたてて、ここに専門家を配置し、やってきた常習者が希望する麻薬を無料で打ってあげる。

その後は、この施設内の休息所にて至福の時間をすごすことになっているから、幻覚がある時間、本人は外にでることはない。
「乱用」となって急死しないような配慮と、入手のため犯罪に手を染めることを防止する、という社会的機能が必要だとみとめられたわけだ。

しかし、この決定には、じつにドライな概念があって、麻薬常習者を救うというよりも、社会に対して安全に、しかも確実に世を去ることを、本人の選択だ、としていることである。
いうなれば、社会が「廃人」を認めたのである。

誤解がないように添えるが、もちろん、本人が悔いて「治療したい」と希望すれば、すぐに病院に行けるが、中毒症状の完治まで病院から出ることはできない。それも、本人の選択だからだ。

自由の「本家」たちは、自由について厳しいのである。

これを裏返したのが、ソ連にあった「自由剥奪」という刑罰だ。
人間が動物として持っている「欲(生理的・本能的:食欲・飲水、排泄、睡眠、体温調節)」に対しての自由を国家がうばう、という刑罰とは、人間性の否定でもあった。

つまり、たんに「自由」といっても、たいへんに守備範囲がひろいことばなのである。

そんなわけで、電車の床に直接座りこんだり、車内で化粧をしたりするのが「自由」だという主張は、自由の「本家」からしたら、たんなる「マナー違反」にすぎない。

電車の床は人間が座る場所ではないし、電車の車内は化粧室ではない。

マナーとは、人間社会における相手を思いやる最低限のルールだ。
だから、マナー違反は、他人に迷惑をかけているから、「自由」にしてはいけないのである。

お行儀よくすることと、マナーが混同されて、ぐちゃぐちゃになってしまったのが昨今の日本社会である。
それが、自己主張と権利という概念につながって、もはや、こうしたマナー違反を他人が注意することもはばかれることになった。

注意した側が、相手からどんな攻撃をされるかわからなくなった。
いきなり刺されることだって起こりうるのである。
とにかく、みなかったことにする、なかったことにする、ということが、もっとも安全な対策になったのだ。

そんなわけだから、高級ホテルに「ドレスコード」がない。

服装というものは、身だしなみだけでなく、TPOに応じた場所ごとのルールがある。
酷暑なら、短パンにTシャツでいたいところだが、そんなときの婚礼や葬儀にそんな格好で参列するひとはいない。
周囲からあやしまれて、じぶんが恥をかくからだ。

中身のじぶんは変わらないのに、服装が決定的な役割をになっている。
だから、一方で「コスプレ」が世界的に認知されるのだ。

このことをわかりやすく書いてあるのが、マーク・トウェインの傑作『王子と乞食』である。

児童文学だからといって、ほんとうに子どもの時分に読んだものは、「原作」に忠実な訳だったのか?というと、あんがいあやしい。
かなり省略されていることもある。

その省略は、現代の(日本の)価値感が基準になっているばあいもあるから、それなりにおとなになってから読み返すのは、意味のあることだし、あたらしい発見もある。

たとえば、『ロビンソン・クルーソー』もその好例だ。

 

見よ、この分量とページを埋めつくす段落なき活字の海を。
絶海の孤島から、アヘン貿易で儲けた主人公は日本をめざす冒険もする。
これが、「児童文学」なのか?

もちろん、『王子と乞食』の時代背景を理解するには、シェークスピアの『ヘンリー八世』は不可欠だ。

こうした、歴史から、カーライルの『衣装哲学』がうまれたのだろう。

かんたんに「衣装」とはいうものの、奥が深いのである。

先進国の高級ホテルで、ドレスコードを明確にしない、できない国になっいるのは、恥である、という「恥」をもわすれてしまったのか?

世界に通用することではない。