定義の変更

かんがえ方の出発点が,「定義」である.
なにもかたくかんがえなくても,じぶんでじぶんを「定義」で縛ってしまうことがある.
どうもうまくいかない,といったとき,「定義」を変更するだけで,はなしはおおきくかわる.

新津春子さんというひとの講演をきいた.
テレビで有名になったが,本人はちょっと迷惑そうだった.
彼女は,ビル清掃の達人である.
しかし,ビル清掃のしごとが,社会から低くみられていることもしっている.
「わたしたちはお客様の目にはっていない」
「でも,それでいい」

中国残留孤児二世の彼女は,日本語ができず,ビル清掃のしごとしかなかったという.
それで,「ビル清掃人になっちゃった」.
募集しても募集しても,ひとがこないから,法律違反だといわれようが,管理職として一日18時間はたらいた.

「日本人だって,みんな『ビル清掃人になっちゃった』ってがっかりするの」.
唯一,彼女がふつうでなかったのは,「ビル清掃人になっちゃった」けど,「ビル清掃『職人』になる」と意識したからだ.
国家資格もある,奥深いしごと,なのである.

こうして,コンテストで日本一となり,職場の羽田空港は世界一清潔な空港に毎年連続して選ばれている.
彼女は,羽田でただ一人の「清掃マイスター」になった.

山形新幹線の社内販売のカリスマ,斉藤泉さんも似ている.
彼女は,短大生時代にこのアルバイトをはじめる.
ふつうは,ワゴンを押しながら社内を往復して,お客さんから声がかかればとまって,お客さんのいう通りの商品をわたせばいい,とかんがえるだろう.

彼女は,「日本一小さなお店の店長になった」と定義した.
店長だから、なにを売りたいかは自分できめる.
そのために,乗車前にはかならずホームを往復して,お客さんの年齢や職業,それに手荷物をみて客層を確認し,さらに,天気に気温や湿度を自分でも「感じる」という.

こうやって,ワゴンに積み込む商品とレイアウトをきめる.
そして,販売しながらも,購入してくれたお客の意見を収集した.
それで,いまでは伝説となった,地元の老舗駅弁屋さんと「お弁当を開発」してしまう.
これが,駅弁の人気全国二位になる.

これらは,個人の世界のはなしであるが,よくかんがえれば,これぞ「事業コンセプト」なのだ.
あまたいる同僚とは,一線どころかぶっちぎりの成果をたたきだす.

仕事のノウハウを解説した書籍や動画もたくさんあるが,なかなかドンピシャにあたらない.
それは,方法論ばかりがかたられて,「定義の変更」という「思想」がないからだとおもう.
「自分はなにものなのか?」
という問いに,漠然としたイメージしかないひとと,明確なイメージがあるひととでは,まったくちがう成果になるのは当然どころか必然である.

こんなことはあたりまえ,わざわざ書く必要もなかろうに,というのはもっともである.
しかし,あんがいそうでもないひとがおおくなったようにおもう.
そういうひとたちは,かならず誰かや何かに「依存」する.
国や自治体がなにかをしてくれるという「政府依存」が蔓延しているし,その政府がゆるそうとしているカジノでは,「ギャンブル依存」が話題になっている.

「自立して生活できる国民を育てる」はずの義務教育も,いつのまにか「依存してしか生きられない」ようにしているのが滑稽だ.
高等教育ばかりが「いい教育」と定義しているひとたちがいるが,「職人」ならば年齢的に中学校卒業でも遅いと断言する「名工」がたくさんいる.

人間に備わった「五感」の各種センサーを,一生つかえるレベルまで研ぎ澄ますには,10歳ぐらいから訓練するのが理想というから,「若年労働」どころのさわぎではない.
こうして,あと数年もすれば,最新鋭工機でもつくりえないものづくりも絶えるだろう.
そのころ,小学校では「プログラミング」が必修になっているはずだ.

「プログラミング」を小学生におしえても「児童の職業訓練」とみなさない.
こんな都合のよいはなしを,よろこぶ親は,どんな「定義」で生活しているのか興味がわく.
職人になりたいと志すこどもを,職人にしてあげられないことのほうがよほど問題だ.
技術は文化とおなじで,一度絶えると復活できない.

台湾の故宮博物院収蔵の「青磁」を例にしても,いまだその製造方法は解明されていない.
人間の手がつくり出す業を,録画保存しても,職人の感覚を保存することはできないから,絶えれば情報がないよりはまし,という程度だろう.

あらゆる場面で,「定義の変更」が必要なのではないか?

山陽新幹線の観光放送

数年ぶりの広島出張.更新も数日ぶりだ.
これは,同時にひさしぶりの山陽新幹線に乗ることを意味する.

新横浜から出発した「行き」は,とくになにごともなく広島に到着したが,広島始発の「帰り」に,へんな放送があった.
岡山後楽園,姫路城,淡路大橋.
姫路城にいたっては,◯◯時頃にみえてくると,予告放送までしていた.
後楽園はその面積,姫路城は高さ,淡路大橋は高さと長さを説明していた.

なぜ,「行き」には放送しなかったのか?
JR西日本のサービスの「ムラ」なのか?
そして,なによりも不思議なのは,車掌さんの生声放送で,日本語だけの案内なのだ.
なぜ,英語その他の外国語で放送しないのか?

むかし,時速220km運転を自慢していた時期,客席とデッキの境の通路ドア上にスピードメーターがついていて,220km運転になると,「ただいま時速220kmです」というアナウンスがあったが,これも車掌さんの生声で英語の放送はなかったと記憶する.(本当はどうだったのか?)

それから,各車両に電光掲示板がつくと,ながいトンネルや鉄橋がちかづくとその説明がながれた.これは日英併記だったと記憶がある.
詳しいことは,「鉄道ファン」におまかせするとして,いつのころからか,「広告」と「ニュース」がメインになった.

ところが,ここでも外国語表示は到着まぢかの「駅名」ばかりである.通過駅の案内は日本語表記のみだ.外国人こそ,いま通過した駅がどこか知りたいのではないか?
そうやって,自分がどこにいるのかと,地図と車窓の景色をくらべるものだ.
鉄道会社が,旅情を理解しないのは,うそのようなナンセンスである,
その証拠が,土地土地の歴史や文化を無視してはばからないコンクリートとガラスの駅舎である.
地元観光協会は,本当にこれらを「歓迎」していたのか?と,いまさらそのセンスをうたがう.
はるばるやってきた駅舎を背景に,記念写真をとる気がうせる.

JR西日本のすごさは,トンネルがおおい山陽新幹線でも,通信が切れない自社「SIMカード」の案内を日英併記しているのだ.きっと列車無線回線をつかっているのだろう.
そんなに外国人は,毎日のように山陽新幹線を往復していて,新幹線滞在時間が長いのか?といいたくなるが,要は「広告」なのだ.

つまり,かなりうがった見方だが,広告に占拠された電光掲示板に対抗した車掌さんが,あふれるサービス精神のやむにやまれぬ事情からでた,「フライング」だったかもしれない.
個人客として,この「仮説」を証明することはできないから,バカといわれようが気になるのである.

むかし,渥美清が寅さんシリーズがはじまる前に主演した,「喜劇急行列車」の車掌さんをおもいだす.

この映画の佐久間良子演じるヒロインよりも,食堂車のウェイトレスの大原麗子,それよりも主人公の女房役,楠トシエが気になるのはわたしだけなのだろうか?彼女は,にっぽんのお母さんを代表していた.
ちなみに,主人公渥美の後輩役が関敬六だった,
 
渥美の車掌さんは,もしかしたら現実とファンタジーのギリギリだったろう.
今回の車掌さんは,現実である.
しかし,「会社」からなんていわれるのだろう?

こういうひとの「想い」をくめない会社こそ,ため息の対象であると,わたしの「妄想」はつきない.

国家をだれが経営しているのか?

社長とか,役員とかいうひとを,ふつう「経営者」という.
しかし,経営者が経営しているとはかぎらない.
むしろ,経営者が経営していないことのほうがおおくなってしまったかもしれない.

とにもかくにも,でるわでるわの不祥事だらけである.
新幹線の台車の問題は,甚大な事故原因になりかねない.「インフラ輸出」どころではない.
どうして,削ってはいけないところを削ったのか?
一連の不祥事で,ほんとうに安全に問題がある唯一の事例である.

ベアリング会社の製造所偽装も,なにもかも「安全には問題ない」ですんでいる.
つまり,これは技術的にJISを超えているのではないか?
ましてや,自動車会社の完成検査問題も,輸出車には適応しない国内販売向け「だけ」の問題だから,本質的になにが問題なのかわからない.

輸出先の国々から,クレームが一切ないのは,もともと輸出車に完成検査義務がないからだ.
なぜ,国内だけ問題になるのだろう?
結局,自動車が「メカ」だった時代,しかも手作り感満載のころの「ルール」が変わっていない,いや,「変えていないだけ」なのではないか?

国有地の払い下げ問題が,連日報道されているが,とうとう財務局で自殺者まででた.
公文書偽造をほんとうにやったのだろうか?
その手口は?まったく不明である.
公文書は,決済後の保管状態であっても,そうかんたんに改ざんできるものではないからだ.

民間企業でも,決裁書は厳重に保管されるから,たとえ起案者であっても,文書保管部署に行って書類を差し替えることなどできない.

この問題は,ほんとうに国会を空転させるにたる重大さをひめているのだろうか?
はっきりいって,どうでもよいのではないか?
「問題解決」の要諦は,優先順位の決定である.
国家の解決すべき課題の最優先順位に,この問題があるとはおもえない,という意味である.

大企業での一連の不祥事と,国家機関における不祥事には,共通点がある.
それは,だれが経営(マネジメント)しているのか?ということの「曖昧さ」である.
これは,日本文化なのであろうか?

欧米の研究では,AI(人工頭脳)の発展によって,まっさきになくなる仕事として,公務員があげられた.
法治国家における「行政」とは,法令に基づく,という基本があるから納得できるはなしである.
しかし,日本における公務員の仕事には,法令にはない「裁量」という分野がある.

アメリカ第七代ジャクソン大統領がさだめ,いまでもいきているのがいわゆるジャクソン・ルールともいわれる「スポイルズ・システム」である.これは,ときに猟官運動の弊害も指摘されたが,本質的な思想背景は,「公務員の仕事はだれにでもできる」というものだ.
だから,政府高官ポストも政権交代によって半分が「素人」にいれかわる.

それでいて巨大国家が運営できるのは,法令のうえでしか公務員は行動できないからだ.
「裁量」は,政治家がうけもつ分野だから,法令の改正がおこなわれる.
日本では,議会機能は限定的で,法令の改正も公務員が起案するから,公務員に都合がいいことが上書きされていく.

「綱紀粛正」の対象は,上級職の公務員ではなく,初級職に集中して攻撃がくわえられる.
「綱紀粛正」のやり方も,政治家がかんがえずに,上級職にまかせるから当然上級職に及ばないやりかたになる.
どうして日本の政治家は,かくも公務員に甘いのか?それは,単純に公務員に担がれているからにすぎないからだ.

民間の大企業はガルブレイスが「新しい産業国家」で指摘したようになったが,じつは公務員の世界のほうが先に簒奪されている.

だから、治療のほうほうがないのだ.
残念だが,大崩壊をつうじてしか,これをただすことはできないだろう.
そのとき,日本は独立国でいられるか?までも危ういことになりそうだ.

美しい港町

ボランティアの活動は尊敬すべきものとおもうが,どうしてこうなるのか?ということもある.
そのボランティア活動に参加したことがないから,関係者には申し訳ない.
申し訳ないのだが,お節介で余計なお世話のはなしを書こうとおもう.

いろいろな場所で,ボランティア清掃活動をしている団体がある.
公園をはじめ,会員企業の従業員が自社の職場やその周辺を清掃しているという.
これだけなら,お節介の焼きようがないのだが,会の名称のはじめに「美しい港町」とあるのが気になるのだ.
以下,会の活動とはまったく関係のないはなしである.

美しい港町,とはなにを意味するのか?
そもそも,「港町」は,たいがい猥雑である.それに「美しい」がつくから,相反するので「おや?」とおもうのだ.
猥雑なのにゴミがおちていない.
これだけで,「美しい」といえるのか?ということである.

ほんらい,人間の移動は陸上をあるくなり,動物の背中にのるなりしていた.
これに画期をなすのは,やはり海上移動の技術革新であろう.
ローマ時代,地中海をいきかうガレー船は,奴隷の労力をつかって漕ぐちからを動力とした.
古代エジプトは,ナイル川を行き来するのにパピルスをたばねた船をつくり,帆によって風のちからを動力とした.つまり,河口の地中海へは水の流れにのって,帰りは帆をあげて川をのぼる.

ところが,ナイルの流れはかなりはやい.
風の向きにかかわらず,川をのぼるために考案されたのが三角帆だ.
いまのヨットの原型といわれている.
四角い帆だけでは,風向き次第で自由航行はできない.

ローマがエジプトを征服して,帆船が完成し,それがついにポルトガル・スペインによって大航海時代となる,という説がある.
その真偽はべつにして,船という乗り物は,陸上交通ではかんがえられない物量をはこぶことができる.それは,飛行機が発明されたあとの現代でもかわらない.

とうぜんだが,ひとと荷物をのせてさまざまな航海がはじまる.
こうして,「征服」という問題をのぞいても,世界中に港ができる.
そうなれば,一方通行ではなく,複雑な経路でも港にひとと物資があつまるようになるから,「猥雑」になるのは必然である.欲望がうずまくところになるからだ.

それは,スターウォーズの世界でもおなじ.
さまざまな星の宇宙船があつまるところは,猥雑である.

横浜が開港の地になったのは,江戸からの距離がちょうど良かったからだろう.
日本側は,横浜でも江戸にちかすぎるから,ほんとうは横須賀(浦賀)にしたかったのではないか.
アメリカは,江戸にしたかったが,抵抗が強い理由もわかるから,まんなかをとって横浜にしたのではないか.
ふるい街で,鉄道駅が町外れになっているのとおなじ理由であろう.

ひとと物資があつまる港町は,そのままだと猥雑に発展する.
それで,都市計画というかんがえかたがうまれるのだが,「発展」のいきおいに押されると,「無計画」という「計画」になる.
それが,ひとを相手にする港から,物流や工場立地に変化すると様相が一変する.
いわゆる「産業優先」という思想である.

横浜もそうだが,海岸段丘という地形が「良港」をつくっている.
地上は削られた丘にみえるが,そのまま海におちているから海底が深いのだ.
横浜駅から根岸線にのると,左手にみなとみらい地区がみえるが,右手は海岸段丘である.
桜木町に河口がある大岡川をはさんで,石川町駅からの根岸の海岸段丘につづく.

横浜中華街が,周辺の街並みにたいして斜めのブロックになっているのは,海側が「港」だった名残である.山下公園は,関東大震災のがれきを埋め立ててできたから,オリジナルの横浜港とはちがう.
ここまでが,客船が着くイメージで,本牧の先までがコンテナなどの貨物流通エリア,そして根岸に向かうと石油コンビナートになる.

原三渓がつくった名園の「三渓園」は,砂浜に面していたが,昭和40年代に埋め立てられて石油コンビナートになったから,とてつもなく風情のない借景になっている.
それからもどんどん埋め立てられて,とうとう横浜市沿岸の砂浜は,すべて埋め立てされつくした.八景島に人口海岸をあとからつくったが,だったら最初から埋め立てなければよかった.

来年からはもう泳げなくなるといって,「冨岡海水浴場」の最後にいったことを覚えている.
ただし,すでに周辺の埋め立てで流れがかわったか,水がよどんでいて,あまり気持ちのいい海水浴ではなかった.

柴漁港はいまでもある.
埋め立て前の場所を示す大きな石碑が新漁港の近くの交差点あるが,往年の風景を感じさせるものはほとんどない.この石碑の前にひろがる住宅地がわびしくもおもうが,ふつうはこの石碑がわびしいだろう.もうほどんどわからない,過去の痕跡である.

その横浜が,カジノ誘致に熱心であるという.
どうしてカジノを開設すると,街の発展になるのか?いまひとつ理解に苦しむが,市民の過半は反対だというから,それはそれである.
ただし,カジノは基本的に「猥雑」であるから,港町っぽさはある.

どうもカジノは賭博ばかりが話題になるが,そんなものではない.
ディズニーリゾートが「ファンタジー」をテーマにしているように,カジノは「欲望」をテーマしたリゾートだ.だから、ショービジネスの場でもあり,美食の場でもあり,性風俗の場でもある.
世界のカジノで,娼婦がいないカジノはない.カジノからこれらの「猥雑」さは除去できない.

べつに,発展をうらむわけではないが,「美しい港町」とはなにか?をいまさらながらかんがえると,なにをもって「美しい」とするのかが問われていることはまちがいない.
すると,「都市計画」と「景観」という巨大なテーマがあらわれるはずで,「清掃活動」を否定するつもりはないが,時間と労力のつかいかたがちがうとおもうのだ.

清掃のプロ

新津春子氏の講演を聴いてきた.
彼女のはなしは,「経営センス」に満ちていた.
それは,これまでの半生でのはなしにも,これからやりたいことを決めているはなしにも,みごとに表現されていた.
ただものではない.

 

自分はなにものなのか?

彼女の原点は,中国残留孤児二世である,という出生からはじまる.
毛沢東時代に生まれ,働いても働いても食べるのがやっという生活だから,子どもでも手伝いはあたりまえだった.家の掃除はご母堂から訓練されたという.
学校にはいると,日本人である,という理由でいじめられた.
祖父がいじめっこの家に怒鳴り込んで,その親に猛抗議したという.
当時,50年はすすんでいる日本を残留孤児の父が見てきた.それで,一家で移住を決意した.
日本語ができないことで学校で,中国人だ,といじめられた.
「わたしはなにものなのか?」

日本での生活も苦しかったが,物資がなんでもあって,努力すれば自分も買える.
一家の生活を支えるために,高校生アルバイトをはじめるが,ことばが不自由なので清掃のしごとしかなかった.
選択の余地がなかったが,自分にはこのしごとしかない,ときめた.
それは,自分の価値をみとめてもらう闘いでもあった.

世襲の企業のばあい,自分(自社)はなにものなのか?という疑問をスルーしていることがよくある.よくいえば「伝統」であり,わるく言えば「惰性」である.
だから,自分(自社)はなにものなのか?という問いにたいする回答は,たいへん重要だ.
それが,企業理念,である.
その企業理念を,いかに他人(他社)からみとめてもらうかの闘いが「経営」である.

彼女は,高校生にしてこの根本法則を体得していた.

アルバイトなのに社内研修にでる

学校をでてから,かずかずの清掃会社をわたりあるいた.
それは,さまざまな「清掃」を体得するためであった.ひとくちに「清掃」といっても,専門とする業務の種類・バリエーションがたくさんあるからだ.
しかも,清掃技術のための学校もある.
彼女は,この学校に入校する.

ここで,生涯の「師」と出会う.
そして,師からさそわれて,師が常務をつとめる羽田空港の清掃会社にアルバイトとして入社する.しかし,彼女は,これまでの経験から,清掃技術のおおくはマスターしている.それで,いきなりアルバイトなのに指導員をやらされた.

アルバイトで指導員はいなかったから,社員から変なめでみられた.
日本人は,自分のできがわるいと,紹介者のわる口を言うという特性があるから,師に迷惑はかけられない,とおもったという.
それに,羽田空港はひろすぎた.自分一人では,とうていできない.チームワークという,中国人には不得意なことが,もっとも重要だと気づく.

それで,清掃技術をみがく社内研修にも積極的に出席した.
彼女はアルバイトという身分だから,この研修費用は会社から借金をしているとおもいこんだ.それで,どうやって返済するのか?が気になったという.
「あなたが習得した技術で会社に貢献してください.だから無料です.」
十何社を渡り歩いた彼女が,一生この会社にきめた瞬間のことばである.

これぞ「カンパニー」の真髄ではないか.
従業員のたしかな技術がなければ,会社は競争に勝てない.社員だろうがアルバイトだろうが,従業員にはちがいない.たしかな戦力をそろえることが優先される.
このはなしを聴いて,チェスター・バーナードの「バーナード理論」を思いだした.

バーナードはいう.「会社は,従業員を採用しようとして応募者を選択しているとおもいこんでいるが,ほんとうは応募者から選ばれているのだ.」
人口減少ゆえの人手不足に悩む日本政府と日本企業のおおきな勘違いがこれでわかる.

清掃の肝心要は「心をこめる」ことという精神

清掃技術日本一をきめる大会が年一回ひらかれている.
師から出場するように命じられた彼女は,特訓をうけることになるのだが,師は「あなたの清掃には心がこもっていない」としかいわない.なにを言っているのだ?とおもいながら出た予選会で,当然とおもっていた優勝ではなく,二位だった.

とうとう我慢ができなくて,「先生,心をこめるってなんですか?」と聞いた.
それは相手を敬う「精神」だった.ただ机をタオルで拭くのではない.机が人間だったらどうして欲しいかをかんがえればわかる.
「タオルで拭く」のは「作業」であって,それは「清掃業務」という「仕事」ではない.

仕事には精神がなければならない.その精神を実現するためには,かんがえて行動しなければならない.
これを習得した彼女は,みごと全国大会で優勝する.
師は,「あなたが優勝することはわかっていましたよ」といってくれた.
彼女は,自分の存在を尊敬する人から認められた,とおもったという.

チームワークには,コミュニケーションが必要だが,そのコミュニケーションにも心をこめるという精神がなければ,けっしてうまくいかない.
無口なひとには,なるべく声をかける.ことばがわかるヒトならば,かならず通じるという.

経営者へのメッセージ

この講演には,経営者のひともおおくきているだろうからとことわって,つぎのひとことがあった.
「事故・事件がなにもなかった日は,社長が従業員に感謝すべきですね」だって,「事故・事件があったら,社長はおしまい,辞めなきゃならなくなるかもしれない」でしょ.

社長が従業員に感謝できるという「精神」は,どこからくるのかをいいたいのだろう.
従業員から社内昇格して社長になった経営者に,よほど問いたいことである.
「おれは偉いんだ!」という気持が態度になる.
そんなひとほど,えらいめにあって退陣するはめになる.

しかし,のこされた従業員はさらなるえらいめにあう.
これをコンプライアンスの強化でなんとかできるものではない.
次期社長や役員を選択するための役員会メンバーが,遡及して責任を負うルールがひつようだ.
最低でも候補者から「理念」とその実現方法についての回答内容を吟味すべきだ.これが,役員をうみだすひとが負う製造物責任というものであろう.

十数社の転職体験からえた,するどくもふかい指摘である.

冴えるプロフェッショナルのことば

「心をこめる」とどうなるか?
「手順」がふえるのだ.

いかに手順を減らして,合理的に改善するか?つまり,コストを下げるか?
これが,バブル崩壊後の「正解」とされてきたことだ.
しかし,品質を向上させて単価をあげないと,新興国の製品にかなわない.
じつは,すでに「いいものを安く」ではなく,「いいものだから高く」しないと生きのこれないことになっている.

「手順がふえても,『いかに早く』というチャレンジをたのしむ」

手順がふえることを否定するどころか,前提にしているのだ.
それで,以下のような質問があった.
洗剤の残り具合をどうやって確認しているのか?
彼女は即座に,「ph試験紙をつかう」とこたえた.
そして,「phが中性になるまでやる」と.

人手不足でも,管理職としての責任だから、といって一日18時間はたらいた.法律違反,といわれても,どうにも清掃スケジュールがこなせない.
彼女が日本一になって,テレビにでると状況がかわったという.

ひとは,プロフェッショナルのしごとを尊敬するから,ひとが集まる.
これが,バーナードの「選ばれる」ということだ.

退屈な観光地

どんな国のひとがお節介焼きなのか?とかんがえをめぐらすと,やっぱり,とおもうのはドイツ人ではないかとおもう.

一人旅をしていたむかし,スイスのホテルで朝食をとっていたら,となりのテーブルのドイツ人夫妻から声をかけれた.笑顔でないのでなにかとおもうと,わたしのプチフランスパンの食べ方がわるいという.手でわってちぎってはいけない,ナイフを横にいれて切りなさい,といって見せてくれた.
「パンはこうやって食べるものなのよ,わかったわね!」真顔であった.

それでは,「ハラキリ」のようだから,日本人としてはあまり気分がよくない,と言いかえそうかともおもったが,めんどうくさいのでやめた.
いわれたとおりにして食べたら,夫婦ともはじめて笑顔になった.
それで,この夫婦が先にすませて席を立ってから,またちぎって食べた.若い頃の思い出である.

スイスでは,住宅のベランダには花を飾ることが条例できめられているから,花を枯らしたりとだえさせたりすると,お隣さんから文句をいわれ,放置すると罰金刑になる.それに景観にわるいから,洗濯物を外に干してはならない.だから,どこにいっても「生活感」がない.世界の公園と自慢するのはよくわかるけれども,これもゲルマン系の習性だろうか.
ドイツでは,ガラス窓がよごれていても見知らぬ通行人が文句をいいにくるから,執念すらかんじる.

スイスは,九州ほどの小国ではあるけれど,ハイキングコースの総延長は地球をまわる距離になる.それではと,ケーブルカーや登山電車には乗らないで,ハイキングを試みた.
整備された山道を歩いていると,ちょっと一服したいなぁとか,のどがかわいてきたなぁ,とおもうと,なぜか国旗がみえてくる.そこは山小屋で,かんがえられる要求はすべて満たされるようになっている.たぶん,なんにんものモニターが歩いてきめた場所に建てたのだろう.

めざす頂上まで,何カ所にもこうした山小屋があるから,てぶらでハイキングがたのしめるようになっている.
また,眺望がいいばしょには,どんな景色がみえるのか解説した絵図があるから,無視できない.
絵図と実物の景色を確認したくなるようになっている.

それで,頂上につけば,またそこにも国旗があって,テラスでビールがいただける.もちろん,缶ごと口にするなどという野暮はない.ガラスのグラスにそそいでくれるし,ちゃんとしたサンドウィッチも陶器のお皿で提供される.
だから、けっして安くない.

しかし,そうやってゴミの管理もしているから,ちゃんと便利さを買っていると認識できるようになっている.山小屋の背面には,上水タンクがあって,床下には山にたれながさないように汚水もタンクに貯められるようになっている.どうやってここまで運んだのか?廃棄物をどうやってふもとまでおろすのか?そんなことを想像できないひとは,ここにはいない.

歩いて山をのぼっても,山小屋でつかった金額をかんがえてみたら,ケーブルカーや登山電車をつかったのとそうたいしたちがいはない.こうやって,ちゃんとお金をつかわさせるが,どちらを選んでもきっちり価値は提供されているから,損をした,という気はまったくしないように設計されている.
以上のはなしは,35年前のことである.
これが,観光産業というものだ.

この点,日本人はみごとに無頓着であるし,貧乏くさい.
日本のリゾートなら,せいぜい使い捨てのカップや皿に,プラスチックのスプーンやフォークがあたりまえだろう.本気で地元の森林をまもるつもりがないから,間伐材の割り箸をつかわずにプラスチックの箸を使わせる.それで,利用者には,ぼられた感がのこる.どこにも「豊かさ」がない.
これで,環境を守るという発想らしいから,どうかしている.

それならば,「観光都市」ではどうだろう.
東京の新橋・汐留開発で,鉄道貨物駅であった汐留駅の跡地をえがいた都市計画のマスタープランをもって,同時期・同様に鉄道貨物駅跡地のドイツ・ケルンでの都市計画と比較するこころみがあった.

東京都の職員がケルン市の職員にマスター図面をみせると,ケルン市の職員は,「われわれはこれを『都市計画』とは呼ばない」と一蹴していた.その後,都がどのように修正したかは,くわしくしらないが,このときドイツ人が言いたかったのは,ゾーン・プランニングの概念が希薄だということだった.

日本でのゾーン・プランニングは,商業,住宅といった「用途」を中心概念にしているようだが,ドイツでは,旧市街・新市街という街並みのデザインの美しさのちがいをさきにかんがえるらしい.つまり,伝統建築エリアと,モダン建築エリアである.これを広い道路で区分する.
たしかに,われわれ日本人にはこの概念が希薄だから,国内にのこるのはせいぜい旧家という「点」であって,エリアと呼ぶにふさわしい「面」はすくない.

上述の都の職員を責めるだけでは公平ではない.背後にはかならず日本建築学会という魔物が存在するからだ.鳴り物入りの建物を行政がつくろうとしたら,かならずコンペをやることで,役人は結果責任を回避する.応募の候補者も,選考にあたる専門家も,建築学会のなかでいきているひとたちだ.

ところが,さほどにゾーン・プランニングに無頓着という日本人だが,あんがい戦前につくった「日本人街」はちゃんとしているという.
いまでは「リゾート」として有名になっている青島に,旧日本人街と旧ロシア人街がのこっている.写真でみせてもらったが,なるほど,どこかでみたような街並みだ.戦災で焼けるまえの銀座のようであるから,ヨーロッパとはちがう.

英国のチャールズ皇太子といえば,日本ではスキャンダルをイメージするのだろうけど,あんがい芸術肌のひとである.彼は,カメラをもっていない.
各地を訪れると,ささっとスケッチをするのだ.それから,おもむろに水彩をほどこすという.
その彼が,ロンドンの街並みや,世界各地にできているショッピングモールを批判した本まで出版している.「英国の未来像-建築に関する考察-」は,日本語版もある.街並みの美しさが失われることが,そこに住む市民の損失であることを大層な説得力でかたっている.

小田急江ノ島線に,湘南台という藤沢市の駅がある.ここは,相鉄いずみの線や横浜市営地下鉄の起点・終点だから,神奈川県内の交通の要衝でもあるが,けっして観光都市ではない.
しかし,魔物と上述した,日本建築学会が賞賛した建造物があるので,これを観にでかける価値がある街である.それは,藤沢市湘南台文化センターこども館,という駅前の公共施設である.

同様に,JR根岸線本郷台駅前にそびえる,神奈川県立地球市民かながわプラザ,という施設名称からしてあやしい建築も観ておきたいから,春の湘南観光にいかがだろうか?ただし,ゲテモノである.
わたしはこれらの建造物を観ると,旧ソ連科学アカデミーを牛耳った,ルイセンコをおもいだす.
チャールズ皇太子が観たら,卒倒するだろうし,思想としての日本文化への重大な疑問をもつだろう.

観光庁が,外国人観光客に日本観光のアンケート調査をしたら,もっともおおかったこたえが「退屈な日本」だった.
正直な回答がえられたことは確かだろう.

問題を発見できない

問題がいっぱいあってどこから手をつけていいのかわからない.
よくきく経営者の悩み事である.

いっぱいある,というのが本人の実感なら,いっぱいあるにちがいない.
それで,紙にランダムに書き出してもらうと,モヤモヤして三つも書くとペンがとまることがある.
どうやら,そのモヤモヤが問題なのだ.

紙とペンはそのままに,雑談をしていると「出てくる」ことがよくある.
忘れないように書き出して,さらに雑談をつづけると,何日目かでスッキリしてくる.
けっこう時間をようするが,スッキリしないことにはわからないから,なるべくスッキリするまで根気よく雑談をする.

さて,その「雑談」だが,これまでの事例をはなすことが大切だ.
どんなことが起きてこまったのか?記憶を呼び起こす作業である.
すると,だんだんとパターンがみえてくる.
それは,問題を放置したパターンのことだ.

日報がない

なんらかの書式がきまっているものもあれば,ふつうのノートに書き出すだけのこともある.
だから、「日報」といっても範囲がひろい.堅くかんがえてはいけないのだ.
現場には,かならず「日報」を用意するとよい.
人数や金額などの数字は,なるべくあったほうがいいが,「目的」によっては必要ないこともある.

経営者がほしい「日報」には,どんなことがかいてあるといいだろう?
いちど,白紙から項目だけでも書き出してみることをおすすめしたい.
数字の情報,記号の情報,文章をふくむ文字の情報,そしてビジュアル情報.
これを,だれが記入するのかをかんがえる.
担当部署はもちろんだが,担当者まできめたほうがよい.そこで,あんがいわすれがちなのは,経営者本人の記入すべきことと,確認すべきことの整理である.

宿事業や飲食事業は,基本的に「日銭商売」だから,日々の「日報」こそが,もっとも重要な一次資料になる.
そして,経営にはこれらの日報から「将来を読む」という重要な役割がある.
ただ記録するのが目的ではない.

問題発見が問題解決の第一歩

問題がわからなければ,解くことはできない.
小学校の学年があがると,算数にも「応用問題」がふえてくる.
「国語」がわからないと,解くべき問題が理解できないから,計算力のまえに国語力がとわれている.

企業のなかの業務には,おおきく二つの系統がある.「作業」と「仕事」である.
「作業」は,一見して「単純作業」というものと,「熟練作業」がある.
「単純作業」をこなして時間がたてば,だれでも「熟練」するかといえば,そうではない.
「作業」のなかにひそむ,問題発見ができて,それをみずから解決できるひとを「熟練工」といい,ひとは「職人」とよぶ.

「仕事」とは,「問題解決」のことをいうから,「熟練工・職人」の作業の結果を「仕事」という.単純作業のばあいは,たんに「作業結果」といって区別する.
「いい『仕事』してますねぇ」の「仕事」は,以上のことを指す名言である.

「作業」しかしていないのに,それを「仕事」だとかんちがいしてはならない.
たとえば,つかう道具がたとえ最新の高速処理ができるパソコンというものであっても,紙にあるデータを入力するとか,表計算のシートを作成する,というのは「問題解決」をしていないから「作業」である.その作業に,「熟練の技」もなければ,ひとは「単純作業」とよぶだろう.

だから、正規雇用だろうが非正規雇用だろうが,業務が「問題解決」であれば,「仕事」をしていることになり,その解決方法を独自にみつけるひとを「プロフェッショナル」という.
過去に話題になった「すごいひと」は,みなこの部類である.
かつての山形新幹線で,社内販売のカリスマと称された斉藤泉さんは,パートタイマーだったことが印象的だ.

いかにして,カリスマになったのか?
それは,問題を整理して理解し,仮説をたて実行する,という意識と行動のたまものである.
だれにでもできることではないが,本人にすれば,だれにでもできることなのだろう.

こういうひとを,いかにふやすのか?
それが,経営手腕である.

テキトーな日本人

わたしのように平凡なコンサルタントが言うよりも,おなじことばでも有名な経営者の発言のほうが説得力があることは承知している.
ふしぎなもので,なにを言ったのか,よりも,だれが言ったのか,のほうがひとは重要だとおもうものだ.

若いサラリーマン時代,他部署の部課長のところへ仕事上の質問をしてこいと上司にいわれて,きいてきたことを上司に報告すると,「で,その理由は?」と質問された.「部課長から直接きいてきた」は通用しないから,ふたたびききに行く.
「また,おまえか,なんの用だ?」と邪険にされても,直属の上司のオーダーだから仕方がない.
「先ほどのお話の『理由』をおしえてください」と頼むしかない.
すると,おおきく分けて二つの反応がある.

「なんだそんなことか」といって丁寧におしえてくれる場合と,「そんなものむかしからだ」といって「理由」にならない場合だ.上司に小僧あつかいされたくないので,「むかしからでは説明できないので,詳しくおねがいします」と食い下がる.
それで,けっこう担当部署の責任者が「理由をしらない」ということがわかった.

ところが,それではわたしの質問にたいする答をえた,ということにはならないから,だれにきけば「理由」がわかるのかを聞き出した.
思わぬ部署にくわしいひとはいるのもので,そのひと自身もいまいる部署が思わぬところなのか,懇切丁寧な回答をえることができるものだった.

それで,一見面倒な手続きの合理的な意味をしることができた.
この時点で,「むかしから」という説明しかできなかった現状の責任者より,わたしのほうが詳しくなったことになる.それで,上司に説明すると,「改善策を策定しろ」と当然に指示された.
つまり,「面倒さ」を改善しながら,現状が面倒になった「合理性」を維持せよ,というオーダーということになる.

面倒な仕事なのだ.
これをほぼ20年やっていた.
10年を超えるころから,自社の仕組みがだいたい把握できた.
すると,不思議なことに,いろいろな部署から「お助け電話」がはいるようになった.

「ちょっと相談があるから来てほしい」
いけば,会議室に部署のご重鎮たちが座っている.わたしの顔を確認してから,いちばんえらい人がコーヒーを淹れてくれたりした.
そんなときは,かならずやっかいな問題の相談だった.

やっかいな問題の原因は,「『理由』を放置した『ルール』」が,いよいよ廻らなくなった,ということがおおかった.これは,特定の部署,ということではなく,全社共通なのだ.
ところが,その後投資銀行で企業再生を担当したら,まずまちがいなく組織的にはこの問題が蔓延しているとわかった.

日本ではたらくことになったアメリカ人の20代の女性が,来日してわかった意外なことに,「テキトー」なひとが多いことに気がついたこと,とこたえていたのが印象的だ.
彼女の日本人のイメージは,「つねにきちんとしている」はずだった.
それが,「むかしから」とか「よくわからない」というルールに,とにかくかんがえずに従っていること,が「テキトー」にみえるという.

「ルール」は理由をしっているから守るべきもの.
理由に興味なく,ただ従うのは,「ルール」ではない.
前者は近代的個人,後者は奴隷の態度である.

日本人は,奴隷の発想をしだしている.

変えない、変えたい,変えられない

なにを変えずに維持し、なにを変えるかを、きめる。

「経営」の仕事の中でも,難易度が高いもののひとつである.

「本業」のなかで,なにが「コア(核)」なのかを経営者が識っていないと,きめろといわれてもきめられない.
ドラッカーがいうように,じつは自社の「コア」を特定するのはむずかしい.
だから、しょうがないじゃないか,にはならない.
なんとか見つける努力をして,ほんとうに見つけださなければならない.
でないと,なにを変えずに維持し、なにを変えるかを、きめることができないからだ.
外目には,なにも変えない,変えられない,という評価になる.

なにを変えずに維持し、なにを変えるかを、きめることができないままで,「経営」ができるか?
こたえは,だれにでもわかる.
それは,「経営」ではなく,「運営」にすぎない.
ところが,消費者の価値が流動化する時代には,昔からやっている,という理由だけでは「運営」すら困難だ.

デジタルトランスフォーメーション(DX)

東京ビッグサイトにおける「ホテレスショー」が開催中である.
訪ねてみると,神奈川県を代表する高級温泉旅館「陣屋」さんの展示が目立った.
売上の1/3がデジタル関連で占める企業を「リーダー企業」,それ以外を「フォロワー(従属)企業」という区分がある.
「陣屋」は,旅館という本業では一時困窮化してしまった歴史がある.
それを,いまとなっては「DX」によってウルトラV字復活させた.

困窮化は,KPI(Key Performance Indicator:重要業績評価指標)をもたず,KGI(Key Goal Indicator:重要目標達成指標)だけにたよった「経営」が原因だろう.
これらを,システム(仕組み)として,構築し,そのシステム(仕組み)を,「本業」でつかうことで,実用に耐えるものにした.
そして,これを「パッケージ化」して他社に販売して成功した.

だから,「本業」である高級旅館は,パッケージシステムの開発にあたっての実験台である.
そこで,他店舗展開ではなく,つねにブラッシュアップの対象施設にした.
まさに,「クルマの両輪」である.
ご母堂から経営を引き継いだ,現社長は,大手自動車メーカーのエンジン開発エンジニアだった.

かつて,こんな「宿」はない.
デジタルトランスフォーメーションでの成功は,「なにを変えずに維持し,なにを変えるのかを,きめた」からできた成功だということに注目したい.

さて,その本業の旅館は,完全週休二日を実現している.
「完全」だから、チェックアウト日とチェックイン日をかんがえると,実動週四日しかない旅館である.
これで,従業員の働きかたが変わらないはずがない.
この人手不足があたりまえの時代に,募集すれば応募がたえない旅館になった.

まねのできないビジネスモデルである.

院内感染

純粋無垢なものやことを求めるのを「純化」という.
こうした発想は,儒教の影響をつよく受けているのではないか,という気がしてならない.
ほんらい儒教は,大陸発祥だが,モンゴルからの元,満州からの清といった外国人政権があいついで,共産革命がとどめを刺した.いま大陸にのこるのは,チョンシーで有名になった民間土俗信仰の「道教」ぐらいではないか?

もっとも,この間に,朝鮮や日本では,「小中華思想」によって,本国にかわって自分たちこそ「儒教」の本家と思い込んだ.
日韓問題の根幹に,両国共通の小中華思想による「本家争い」があるのではないか?
とくに韓国では,いまだに儒教は「宗教」としていきている.

ところが,日本は,聖徳太子のむかしから,宗教を「為にする方法」としてとらえる伝統がある.
つまり,怨霊や怨霊による病気などに「効く」か「効かないか」におもきがあって,外国からの「知識」とする傾向がつよい.

裏返せば、神話にさかのぼる「怨霊」は、神道の本筋になるから、日本人はとてつもない宗教民族である。これを日常生活でほとんど「無宗教」と思っている。それが、強さの証拠でもある。
世界の宗教は、毎日「神」を唱えるが、日本人はその必要すらない、という意味だ。

天台・真言の護摩壇供養はその典型だし,禅がもたらした「茶」は,まさに「薬」だった.

「儒教」のなかの「朱子学」を,江戸幕府が推奨したのは,「統治」のための処方があったからだという.「儒教」は,皇帝をささえる文武百官のための教えで,これに「皇帝」はふくまれない.
つまり,将軍を皇帝にみたてれば,家臣のための教えなのである.だから,日本で儒教を「宗教」として扱いはしない.

平面的には,小中華思想における「本家争い」なのだが,一方は「宗教」として,一方は「官僚統治の人心把握術」として,という途方もないギャップがあることを知らない振りをして,「与える側はどちらなのか?」を争うのだ.

いまさら,この現代において「儒教」なんてとおもうだろうが,あんがいわれわれのDNAにすり込まれている.
冒頭の「純化」が一例だ.

「用途純化」ということばがある.土地の用途を,かつてのニュータウンのように,住宅だけに純化させたら,かえって不便で住みにくくなった.
これは,立派な学者があつまっても,失敗してしまう事例になった.
表面的には「規制」の失敗にみえる.しかし,思考の視野狭窄という「純化」が真の原因である.

思考の視野狭窄という「純化」は,ふつうのひとでもおこる.
なかでも,ある特定の組織のなかにいると,その組織の意志にしたがうようになる.
これは,ウィルスのように増殖する.
韓ドラに,「ベートーヴェン・ウィルス」という作品があった.日本だと,「のだめカンタービレ」がそうだろう.
「のだめ」のばあい,「Sオケ」という圧倒的な成功体験が,ウィルスである.

  

成功体験が「ほとんどない」ほどすくないと,「疑心暗鬼」が空気中を舞っているので,良い意味での「感染」は,なかなかない.

「おもてなし」にも,視野狭窄という「純化」がつきものだ.

たとえば,有名百貨店や大手ホームセンターでよくあるのが,「店内改装」という気分転換である.
このときの主役は,ほとんどが「従業員」である.
つまり,何年もおなじ売り場であることに,従業員が飽きてくるのだ.
それで,誰が買っていたのか?という超重要な情報をなかったことにして,つまり,おざなりなABC分析をやって,とにかく「C」ランク商品を棚からなくすか,わかりにくいコーナーに配置換えをする.
こうして,新鮮な気分で開店をむかえるのは,じつは従業員だけだった,ということはしばしばある.

だから、めったに売れなくても,その商品があるからと指名入店するお客は,商品探しに辟易し,ついには,その店から姿を消すのだ.
ここで,店側には,店員に質問して欲しい,といういい分もあろう.
これぞ「純化」である.
悪いのは店ではなく,自分でみつけることにこだわるお客の方だと.

ショッピングの楽しさをしらないひとが,視野狭窄という「純化」をすると,たいがいこうなる.
そして,これが社内感染して,従業員の脳がおかされ,「脳症」的なまでにだれも気がつかなくなる.
では,その感染源はだれだったかといえば,「数字の表」だけをみている経営者である.

だから,消毒すべきは従業員ではなく経営者の方である.経営者の病気が治癒すれば,従業員側は自然治癒する.

政府の「働きかた改革」がいよいよ混乱してきた.
その原因は,消毒すべきが経営者であることに気づかないばかりか,それを命令する政府自身も,消毒の対象であると,つゆほどもおもわない傲慢さである.

与党内でも,ましてや野党も,以上のような反論ができない.
19世紀型の,低劣な環境で酷使される「あわれでかわいそうな労働者たち」を助けてあげなければならない,と信じているからだ.これは,政府のいう土俵である.
衆議院も参議院もしかり.これを「院内感染」と呼びたい.
議員たちには強力な消毒が必要だ.

21世紀の日本における労働問題は,19世紀的視野狭窄という「純化」の感染がとまらない.
ああ,国民はなんて不幸なのでしょう.