ああ,こんな人間になりたい

あなたの尊敬する人物はだれですか?

むかし,学校でクラス替えがあると,学年最初の時間は,自己紹介だった.
これは,「趣味」についでかならずあった質問項目だった.
おもいかえせば,するどい質問である.
そのひとの幅と深さが示唆される.

「個人情報」になるからと,学校から卒業名簿がなくなって,クラス会や同窓会が開けなくなった.
こどもにとって,身近な尊敬の対象は,両親か先生だった.
だから、先生出席のクラス会では,いい大人たちが生徒にもどって時間がまきもどされるひとときの非日常をたのしんだ.

いい学校

いつの間にかに「偏差値」がたかい学校を指すようになった.
ふりかえると,いい友といい教師との出会いがある学校を,本来はいい学校というのではないか?
すると,すくなくても学校側は,こんな教師がいる,という情報を発信すべきだ.
日本の学校は,情報産業になっていない.
むしろ,予備校がそれを実行している.

人生における出会い

組織という人間集団に,どのくらい質の高い人物が混じっているのかも,あらかじめわからない.
趣味の世界では,名人がかならずいるから,あんがいわかりやすい.

企業もふくめ,人口減少社会を前提にしなければならないから,質の高い人物を育てることは,将来の組織存続にも影響する重大事になった.
ところが,そんな人物は簡単に「育てる」ことはできない.
「環境」からの整備が必要になる.

尊敬の対象になりえるのはどんな人物像か?

これから,ロジックツリーをかんがえる.
そして,どうしたらそのような人物に自分がなれるか?をかんがえさせる.
そのためには,どんな職場環境や支援が必要なのかは,トップがかんがえることだ.
これを,いかなるスケジュールで実行するのか?

放っておいても,組織の人間が勝手に育つ,ということは困難になった.
その理由は,分業がすすんだからである.
ある仕事を,企画段階から完結させる経験は,めったにできなくなった.
だから,仕事の全体像がみえなくなった.

ああ,こんな人間になりたい

という人物に,ほんとうに出会えるのか?
出会えたひとは幸せである.

では,自分が,ああ,こんな人間になりたい,と言われるようになれるのか?
ぜひとも言われるようになりたいものだ.

2月16日太陰暦

「滞在」という経験は,「時間」と「空間」を基本にして構成される.
「時間」の単位で,みじかいものは「秒」,ながいと「年」になる.
日本人がながいことつかっていたのは,月の運行にもとづく「陰暦」であった.正確をきせば,太陰太陽暦であって,天保歴ともいう.
明治5年の12月は2日でおわり,明治6年1月1日となった.明治5年は322日しかない.この年の「師走」はたったの二日だから,さぞや忙しかったろう.それとはべつに,明治6年といえば,征韓論で西郷が政府から下野する政変の年だから,これはこよみとは関係なくせわしない.

なにげなく日付や季節をかたっているが,明治5年までの日本人と,それ以降ではちがうものになる.
平安のむかしから明治5年までは,今日の日付をしるのに月をみあげれば,おおよその見当はついた.太陽暦では,そうはいかない.
しかし,太陰太陽暦だから,太陽暦もふくんでいる.それが二十四節季をとりいれた智恵だろう.例えば春分・秋分,夏至・冬至は太陽の運行そのものである.

西洋で冬至のまつりといえば,クリスマス.ゆず湯とジングルベルを一緒に楽しむ日本人は,こよみを楽しむのに天才的才能を発揮する.
ほぼ一ヶ月も,正月がはやくやってくるようになったから,七草粥をつくろうにもまだ芽が出ていない.それで,ハウスものの七草を,ずいぶんな高値で買うことになった.
こよみと生活が分裂した結果である.

「こよみのうえで今日はなんの日?」とは,「旧暦」をさすから,「新暦」である太陽暦のカレンダーとは一致しない.それで,「こよみ」なんて信用できない,という早とちりのひとがいる.
新暦の日付で旧暦の「なんの日」をかたるから生活感と一致しない.旧暦の日付で「なんの日」をいえば,こよみどおりになるのだ.あたりまえだが.

ところが,ふつうのカレンダーには,旧暦の日付がかいていない.それで,「今日はなんの日?」が混乱する.それを,テレビのお天気キャスターが何年も新暦でいいつづけているから,旧暦をつかっていた世代がいなくなると,たんなる風物詩にかわってしまった.
日本における,「文化大革命」のひとつである.

夏目漱石は,
「人は日本を目して未練なき国民といふ数百年来の風俗習慣を朝食前に打破して亳も遺憾と思はざるは成程未練なき国民なるべし去れども善き意味にて未練なきか悪しき意味に於て未練なきかは疑問に属す」(明治34年 断片,『漱石全集』第19巻)
と残している.なるほど,深い.

ちなみに,「空間」のほうでは,尺貫法が禁止されたのは1966年3月末日のことだから,たかが半世紀前のことである.これで日本の度量衡はすべてメートル法に転換された.ところが,あいかわらず英米は,ポンドやフィート,ヤードにマイル,ガロンといった伝統が健在だ.これを「未練」というのだろうかは疑問である.

国立天文台のHPに,こよみの計算がでている.わがくにでは,法律で太陽暦ときめたから,太陰太陽暦を計算する公的機関はない.それでも,天文台は2033年問題があると書いている.それは,めったにおこらない太陰太陽暦での「うるう」表記の問題だという.きっと,国立天文台も,太陰太陽暦の有用性をしっているのだろう.

国に依存するのはさけたいが,太陰太陽暦の歴史的文化的価値は,日本人共有のものである.天文台も文化行政も,どちらも文科省の管轄である.
大学設置にかんする権限ばかりふりまわさないで,百年に一回ぐらい国民がおもわずうなるような,こよみのサービスをはじめたらいかがかとおもう.

地方にはいろんなものがある

なんでも東京や都会のまねをしたがるひとは,「なにもない」とかならずいうが,ほんとうに「なにもない」ところには,たいてい伝統文化がのこっている.おおくは幕藩体制のおかげである.
その土地にながくすむひとほど,その土地の文化がふかくはいっているから,日常ごとである.これが,地域をあげてひとりのもれなく日常ごとだから、それをとくだん区別することができない.だから,「よそもの」から指摘されてはじめて気がつくことがある.
「よそもの」がめったにこない地域では,今日も気づかないで暮らしていることだろう.

こよみは,暮らしと密着していた.
古今東西,暮らしと密着しないこよみをつくるなど,ひとは暇ではない.
日本列島の地域区分であった「藩」は律令のむかしからの「くに」がもとで,地形とも連動した区分だから、いまの「都道府県」も,「くに」と「藩」の合成であることがふつうである.
それで各地の伝統文化は,ふるくは「風土記」からつづいて,こよみに書かれた.

土地土地の「祭り」が典型例だ.毎年,日付が決まっている祭りがある.これを,陰暦にしてみると,太陽暦のカレンダーではわからない意味がうかびあがるだろう.

歴史と文化を売る

むかしは日常のなかにも祭りがあった.なにも,「祭礼」だけが祭りではない.
地方文化が色濃くのこる,「なにもない」土地であれば,旅行者にその土地の祭りを体験できるような工夫をすれば,いやがるひとはすくないだろう.

「郷土」を売る,というのは,日本旅館だからの商品になる.
その元ネタに,こよみがあるはずである.

今日,2018年2月16日が,旧暦の1月1日である.
明けましておめでとうございます.

七草は,2月22日.
その辺に生えていませんか?

グリーン車にのりたい

東京近郊区間における普通列車グリーン車は,東海道・横須賀線,総武線快速にくわえ,2001年から運転がはじまった「湘南新宿ライン」によって,高崎線と宇都宮線に登場した.2007年から常磐線にも採用されたのは,高崎線と宇都宮線のグリーン車乗車率が高かったためという.

これで,主要路線で,普通列車グリーン車が走っていないのは中央線だけになっている.
関西では,優秀な私鉄との競争に負けて,1980年に廃止されているので,「普通列車」にかぎると,グリーン車があるのは首都圏だけ,ということになる.

日本の鉄道において,かつては一等,二等,三等の三ランクがあったが,「一等」が廃止されて,二等が新一等に,三等が新二等になって,さらに新一等が「グリーン車」になった.
だから,グリーン車はかつての二等であって,東北新幹線に登場した「グランクラス」が,かつての一等にあたるのだろう.

しかし,かつての一等は,二等料金の二倍という料金差だった.
黒澤明監督の「まあだだよ」の主人公である内田百閒の作品に,「阿房列車」シリーズがある.
「なんにも用事がないけれど、汽車に乗つて大阪へ行つて来ようと思ふ」
という有名な書き出し.そして,借金までして「一等」に乗り込む.「二等は中途半端で嫌だ」とある.時代は,戦後の昭和20年代半ばあたりからである.

  

「なんにも用事がないけれど」というのは本当で,目的地とはたんなる「終着駅」のことだから,そこへ着いたらなんの興味もない.だから、その土地の「観光」は一切しない.
つまり,「列車に乗ること」が目的という旅を綴った作品なのだ.
しかも,一等で.

ヨーロッパの鉄道では,中距離以上になると,かなりの列車に「一等」が連結されている.
乗ればわかるが,たいていガラガラである.
「一等」料金は,日本のグリーン料金よりも安いのではないかとおもうが,二等がどんなに混雑していても,みなさん「一等」には乗らない.

ユーレイルパスという外国人観光客用の「定期券」は,一ヶ月用が「二等」,二週間用が「一等」になっている.それで,短期滞在のひとは二週間用で期間がちょうどよいから,「一等」に乗れる.しかし,「通」は一等に乗れる権利を放棄して,二等に乗るそうだ.

なぜか?
ヨーロッパは,貴族が現存する身分社会である.だから,「平民」はお金があっても「一等」に行ってはいけないのだ.
内田百閒が,借金しても一等に乗ったのは,日本の身分社会が崩壊したことの証明でもある.
陸軍士官学校と海軍機関学校でドイツ語教授をつとめたひとが,ヨーロッパの身分社会をしらなかったはずがない.

なんにもしらない外国人に,一等を売りつけて,連結費用をまかなおうという発想ではないかとうたがっている.
一等は,指定席があたりまえだから,パスをもっていてもそのままでは乗車できない.駅の窓口で,指定席券をもらう必要がある.
このときの駅係員の態度と,車内の雰囲気で「気がつかない」なら,それなりの神経の持主だろう.
それでも,一等に乗る,というのが,「確信犯として」どうやら正しいらしい.厚顔無恥な外国人をよそおうことで,快適な移動ができる?というわけだ.

ヨーロッパの複雑な事情からすると,日本の「平等」はまさに「真っ平ら」だ.
これを「薄っぺら」というかどうかは別にして,お金さえ出せば,誰でも「グリーン車」に乗れる.
ここで,「グリーン車」に乗るひとはお金持ちだ,という刷りこみができる.

「消費」のなかに,「みせびらかしの消費」というジャンルがある.
消費活動そのものを「みせびらかし」て,自分の立ち位置をあげようという,社会的な行動心理である.
この心理を応用すると,一人単価が上がる.

「奥に特別室がある」という構造がそれだ.

自動スリッパ

日産が自動駐車システムを応用して,スリッパやテレビ・エアコンのリモコンを「自動」で整列させる技術を開発した.しかし,商品化の予定はない,という.

「もの」でアピールするというのは,お金さえあればだれでもできるので,「競争」のためとしては,あまりお勧めできない.ただし,「コンセプト」から発したものであれば,それは「必然」にかわるから,今度は「なければならない」になる.

下足番

むかしの旅館は,玄関にスリッパが敷きつめてあって,お客は自分の履物をぬいで,適当に選んで履いた.ぬいだ履物は,下足番が奥の下駄箱にしまっていた.
外出しようとすると,下足番が,だまってそのひとの履物をだしてくれた.
どこでどうやって記憶しているか不思議におもうほどの「業」だった.

そういえば,いつのまにかおおくの宿で,そのままお上がりください,と一段上がったきれいな絨毯の上を履き替えずに歩けるようになった.
下足番を廃止したのだと,玄関横をみればその名残があるからわかる.
だから,温泉街だと,あんがい浴衣姿に自分の靴というしまらない格好になるから,わざわざ私服に着替えて散策に出たりする.みんながそうなると,ひなびた風情のあった街が,急にふるぼけた表情になる.

さいきんの花火大会は,浴衣で行くとさまざまな特典が用意されている.カップルともに浴衣だと,さらなる特典があるから,中高年より若者のほうが男女ともに浴衣姿がめだつようになった.
主催者の思惑どおり,浴衣姿がふえると,近代的な都会の花火大会なのに,「情緒」が醸し出されるのは不思議である.

昔のような「下足番」の復活ではなくても,温泉街に浴衣と下駄を履いてでかけてもらうだけで,ずいぶんちがった「観光地」になるだろう.

スリッパの履き心地

上記の自動スリッパを紹介した記事やビデオでは,履き散らかしたスリッパが自動で整列することに注目があつまった.たしかに,つぎに履こうとしたときに履きやすいだろう.
しかし,履き心地,についてのレポートがなかった.

スリッパもそうだが,「最高」を求めてしらべると,いがいなものが見つかる.
検索で簡単にみつける,という方法もあるのだが,デパートにあしを運ぶのも伝統的な方法だろう.町歩きでみかける「専門店」という発見もあるから,「足を使う」ことは,「アンテナ」を高くはるイメージがないと,ただの散歩になってしまう.

デパートや専門店にいく理由は,もうひとつある.
その店の「顧客層」と,自分の「顧客層」を比較できるからだ.
「高級」をめざしているわけでもない「旅館」が,スリッパだけ「高級」で,それが「競争」の役に立つのか?というのは,基本的な問いだろう.すると,「コンセプト」の重要性にはなしが戻る.

人手不足で人件費が高騰するであろうから,必然的に「高級」にして単価をあげないとやっていけない,とかんがえれば,意外性が目立つ「もの」から投資したくなるのだろうが,それだけ?でいいものか.ということは,じっくりかんがえていただくとして,スリッパのはなしだ.

デパートや専門店という実店舗の「顧客層」が,自社の「顧客層」と一致するとなると,もので補えるならはやく補うことが重要になる.この顧客層の生活の標準になってしまっている可能性があるからだ.

そこで,これらのひとが,なぜこの「スリッパ」を選んでいるのか?ということを確認したくなる.単なる「履き心地」なのか?なんなのか?
その「こだわり」の視点で,「旅館」という商品をみていることに注目せねばなるまい.

つまり,旅館にとっての「こだわり」は,お客の生活レベルへの「こだわり」であって,本稿のばあい,スリッパへの「こだわり」ではない.生活レベルから,自動的にみちびかれて選定したのが,このスリッパでしたという結果の表現にすぎない.

これが,スリッパだけに注視してしまうと,お客の生活レベルからの距離感がわからなくなってしまうから,独りよがり,という結果になる可能性が出てくる.それが,「おもてなし依存」ということだ.

かんがえる訓練つきのアルバイト

現役学生さんにアドバイスできることのひとつに,将来役に立つバイト先の選定がある.

優先順位

「学生アルバイト」といっても,しっかり稼ぎたい,とか,効率的にお金を得る,という優先順位を設定するのは当然だろう.
いまどき,学生は学業が優先で,アルバイトなどしなくてよい,といってくれる親がいたら,それは相当に境遇がよい.

学生は学業が優先だが,自分の小遣いぐらいは自分で稼いで欲しい,という親御さんの割合が高いのではないかと推測する.
そもそも,なんのために「学業」があるのかといえば,ちゃんとした職を得て,ひとり立ちして送れる人生のためだ.

だから、学生アルバイトは,なるべくたくさんの経験を積んだほうが,将来の役に立つ可能性が高い.
ここで,「将来役に立つ」という優先順位をお勧めしたい.

「労働市場がない国」における時給

ほとんどの「大人」もかんがえていないが,この国には「労働市場」がない.
職業斡旋業者に登録すれば,職場を紹介してくれる,というのは,ここでいう「労働市場」ではない.
労働者が自分の労働力を売る,ということと,事業者が労働者の労働力を買う,という関係を「労働市場」という.
だから,労働者は,自己の労働力の価値を知っているのが前提になる.
買う側も,どんな労働力をいくらで欲しいということを前提にしている.お互いが一致して,はじめて「売買」が成立し,このとき,「労働契約」が締結されるのだ.

日本では,以上の「契約」が成立していない.
その会社に時給いくらで就職する,というかんがえ方だから,仕事内容は入ってみないとわからない.
だから,高校生なら時給いくら,大学生や成人ならいくら,というように,おなじ仕事内容での募集のはずなのに時給単価がちがうという現象がふつうにある.仕事の価値に対応した労働力を求めていない,ということだ.

つまり,アルバイトをしたい側は,「時給の相場」という指標しか情報がない.
募集する会社も,「同業者や同一地域の相場」という指標しかない.それで,だいたい10円単位で「差」をもうけることをして,「獲得競争」をしているふうをよそおう.

ちなみに,いつもどこでもなんどでも,トンチンカンな介入をする「国」は,「最低賃金」というものを都道府県ごとに定めさせているが,これが「労働市場」成立のらちがいにあることに注目しよう.なお,日本の最低賃金制度を作ったのは,岸信介内閣である.

外国企業には絶体に用意されているはずの,「ジョブ・ディスクリプション(職務記述書)」が日本企業にはない.この書類は,業務設計から導かれるから,この書類に対応した人材を募集している.
日本企業が,とりあえず採用して,各職場に配置してゆく方法とは真逆なのだ.
もちろん,この書類にある能力のあるひとを採用しなければならないから,ここで「相場」がきまるのだ.
採用とななれば,男女・年齢にかかわらず,「ジョブ・ディスクリプション」に対応した「賃金」しか払われない.だから,募集時に,「条件」としてあきらかにされる.

なるべくシスティマックな企業に応募しよう

日本的「相場」では,外資のアルバイトだとすこし時給が少ないとおもうかも知れない.
しかし,アルバイトの優先順位,にもどってかんがえると,お金をもらいながら訓練してもらえるという価値がくわわるとすれば,案外おとくなのだ.もちろん,採用する側は,訓練経費を差し引いているから,「安く」みえる.これが,労働市場がある場合の賃金の見かたである.

最大のハンバーガー・チェーンしかり,大人気の遊園地しかりである.
日本企業なら,最大のコンビニ・チェーンも容赦なく訓練してくれるはずだ.

では,いったい,なにを訓練してくれるのか?
それは,「自分でかんがえる」ことだ.

かれらが作って運用している「マニュアル」は,日本の「人的サービス業」のおじさんやおばさんが想像する機械的で無機質な「マニュアル」ではない.
むしろ,人間にしかできない,その場でかんがえて最善を導き出すように仕向ける,というものになっている.
そうでなければ,AI(人工頭脳)をつかったほうがよい.しかし,こまかな店舗管理は,人間のほうがすぐれている.それを,自分のからだで覚えられるのだ.

これからの若いひとこそ,こうした訓練をお金をもらって受けられるアルバイトをお勧めしたい.
将来,本業として,さまざまな職業に就くことになったときに,このときの訓練が,人生の役に立つことにいつかはかならず気がつくときがくるだろう.

エルサレム・シンドロームとパリ・シンドローム

世の中には,理解が深すぎて病気になるときと,理解が甘くて病気になるときとがある.
どちらも,「観光」が関わっているから書いておく.

エルサレム・シンドローム

その「歴史」や「宗教的威厳」に圧倒されて,精神に異常をきたすことをいう.
世界三大宗教の「聖地」,とくに歴史遺産とともにそこにひとが住んでいる「旧市街」で発症するという.
およそのパターンは,ふつうのひとが突然,「預言者」になったり「救世主」になったりする.
それで,この街には,これらの患者を収容するための「特別な病院」も用意されている.

入院して,専門家に診てもらうことになるが,概ね二つの解決策がある.
一つは,エルサレムから外に出ること.
一つは,自宅に帰ること.
どちらも,エルサレムの旧市街から出ること,が重要だ.それで「自然に治る」らしい.
ふつうのひとがふつうの生活に戻ると治るのだから,極度の興奮が原因とされる.
それにしても,発症者は,およそ年間100人というから,バカにできない数だ.

旧市街はいまでも発掘がつづいていて,とにかく掘ればかならずなにか出てくる.
北東に20kmもいくと,いまは,パレスチナになるエリコ(ジェリコ)の遺跡がある.
ここは,紀元前7,000年前,人類最古の街ともいわれる.

エルサレム旧市街も遺跡の街である.
ふと,いま歩いている石畳を,十字架を背負ったイエスが歩いた道だとおもうと,その石畳の減り方に,キリスト教徒でなくてもおもわず見入ってしまうこともしばしばだ.
雨が降らない土地だから,ひとが踏んで減るしかない.

生半可な知識でエルサレムを歩いていると,たいへん不安になってくる.
自分がいま観ている景色,建造物,そして住人たちの心の中にあるはずの歴史知識と信仰そして風習.
宗教的な服装のひとをおおく見かけるが,何派のひとたちだからこの先のエリアには絶体に行かないとか,説明を聞いても深く理解はできない.これらの意味が,わからない,という不安なのだ.
ところが,一方で,それがどうした?という開き直りもある.これが日本人だ.

エルサレム・シンドロームを発症するひとの内面で,なにが起きたのか?は知るよしもないが,そこまでの「深い理解」ができるのは,たいしたものだと感心する.

パリ・シンドローム

これを発症するのは,なんと日本人だ.しかも,女性におおいという.さいきんでは,中国人にもみられる病気だというから興味深い.
フランス人にいわせると,「なんで?」ということになるのは当然だ.

どうやら事前期待と実際のギャップが原因のようだ.
事前期待とは,女性誌におけるファッションの情報が過多であるとか,美しいはずの街並みとかに対する憧れである.ところが,「きたない」道路,さらに,言語や自由と個人主義思想のあまりの強さに,くたびれてしまうのだ.

フランス人医師は,これは,あまりにも「甘い理解」が原因だと指摘する.
フランス革命はなにを求めて血を流し,なにを失い,なにを得たのか?という理解もなく,フランス人は有名ブランドの服しか着ていない,と思い込んだら,たしかにどうかしている.

また,フランス語の発音の一部が,日本語的には「舌打ち」の「チッ」に聞こえて,自分はバカにされていると思い込むのも,典型的な症状だという.これは,中級以上のフランス語づかいになってから現地入りすると,ほとんどあらわれない症状だから,渡仏まえによく勉強しろということで解決するという解説がある.「なんだかなぁ」だ.

「短小軽薄」は,90年代の日本経済のスローガンだったが,「単なるちょっとした知識でただただ『軽薄』」というのが日本の国民性としてフランス医学界にしられているとは,嘆かわしいことだ.

「エルサレム・シンドローム」を発症しえない,という日本人の一人として,自分も考えなおすことはおおい.

伊勢神宮・シンドロームとか,出雲大社・シンドローム,あるいは,京都・シンドロームとか,東京・シンドロームを聞いたことがない.
深い理解もなく,甘いことでもない,ということか?
これを「慶事」とするには,ちとさびしい気もする.

世界最大の客船がこない

現在,もっともおおきい客船は,「ハーモニー・オブ・ザ・シーズ」という名前をもっている.
長さ 362.12m 総トン数 226,963トン 船幅 47.42m 高さ 72m 最高速度 46km/h
定員最大 6,780名 乗務員数 2,190名 建造費 1,350億円 就航年 2016年

横浜港にある,かつての太平洋の女王「氷川丸」のスペックは,
長さ 163.3m 総トン数 11,622トン 船幅 20.12m 最高速度33.725km/h
定員 331名 就航年 1930年(昭和5年)

ほら,やっぱりくらべものにならないではないか!
早合点はちょっとまってほしい.
昭和5年に,ホノルルまで一等250ドル(1,050円)という記録がある.
当時の1円は,いまの10,000円ぐらいだから,片道でホノルルまでの運賃が1,000万円を超える計算になる.
あたりまえだが,当時外国に行けたのは,特別なひとたちだけだった.

一方で,世界最大客船の料金は,二人一室7泊8日で$3,100(海側客室・食事付き,二名)+寄港地でのツアーだから,高価ではあるが「驚くほど高価」ではない.
もっとも,日本からの乗船なら,出発地までの交通費がばかにならない.
それで,この船の経験者は日本ではすくないだろう.

世界最大の客船内にはどんな施設があるのだろうか?
プールや劇場は定番で当然だが,カジノも忘れてはいけない.
「国際海洋法条約」で,日本船籍の場合は,カジノが国内違法なので公海上でも禁止であるが,外国船籍では,籍のある国の法に従うため「合法」になる.日本では「カジノ法」は成立したが,「実施法」がまだなので,当面は「禁止」だろう.
だから,この船が「IR(統合型リゾート)」である.
この手の船は,めったにこないが.
日本のリゾート業界は,それで助かっている.

ところで,かつての造船大国から転落したわが国だが,この船の建造はフランスなのだ.
建造費を定員で割ると,お客様ひとりあたり2,000万円程度になる.
日本で地上に建てるホテルより,安いのではないか?

最大客船のグレードは低い

ホテルにもグレードがあるように,客船にもグレードがあってこれを「クラス」という.
最高は,「ラグジュアリー・クラス」,中位は,「プレミアム・クラス」,そして,「カジュアル・クラス」の三種類だ.

「世界最大の豪華客船」は,当然に「ラグジュアリー」だとおもったらそうではなく,「カジュアル」に位置する.
「大きいことはいいこと」ではなかった.
入港できる港の大きさや深さといった制約があるし,大量のお客を乗せるのだから,サービスのきめも荒いという.

かつての氷川丸と比較すべきは,「ラグジュアリー・クラス」なのだ.

「カボタージュ」というルール

「サボタージュ」ではない.「カ」である.
これは,国内輸送を国内業者に限定する制度をいう.
例えば,外国籍の船による国際クルーズで,横浜港と神戸港を出発して香港に向かう場合,横浜から乗船したひとは,神戸で下船できない,ということだ.

飛行機は,カボタージュの規制緩和がすすんでいる.
「コードシェア便」というやり方を考えだした.
だから,この規制はもっぱら「海上輸送」にかかわる.

オーストラリアとニュージーランドが,この規制を撤廃したら,内航輸送の国内業者は壊滅的打撃をうけたという.これら政府は,コスト軽減を選んだのだ.
横浜市も,規制緩和を国に要請している.
客船も,コンテナも,「国際的」な経路から外れるという問題があるからだ.
「豪華客船」がめったにこなくなった理由のひとつでもある.

業界団体である,日本内航海運組合総連合会は当然強く規制緩和に反対している.

カボタージュは,国際的に認められている規制なので,概ね「維持すべし」ということなのだろうが,国民経済という視点から議論がおこなわれているようだ.
外の目からすると,この議論に抜けているのは,人口減少,である.
日本人の「船員」が,今後確保できるのか?

もしかすると,カボタージュは維持したいができない,ということになりかねない.
従来どおりの前提条件で,議論してもはじまらない事例のひとつである.

さいきんの「官庁文学」を読む

昨年6月9日,「未来投資戦略2017」というタイトルの「官庁文学」が閣議決定されている.

もう半年以上が経過するが,めだった批判がない.
これは,気持ち悪いので,ここで書いておこうとおもう.

199ページにわたる大著である

官庁文学というジャンルでもっとも有名なのは,「白書」シリーズである.
これは,毎年,定期的にでるから,愛読者もおおいだろう.ただし,「政府」という,かならず間違ったことをする組織の宣伝文だから,読者に相当な読解力を要求される「現代文学」のひとつである.

「未来投資戦略2017」というのは,その,かならず間違ったことをする政府が,厚顔無恥にも大上段で発信している,官庁文学のなかでも「プロパガンダ文学」というジャンルになる.
「プロパガンダ」という分野では,圧倒的にナチスのヨーゼフ・ゲッペルスという天才による完璧な「教義強制」の実績がしられ,これをスターリンや毛沢東も参考に自国で応用した.

残念ながらというよりも幸運にもか?,日本人は,教義を強制される,という方法ではなく,GHQのWGIP(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)によって国民を痴呆化させる,という方法のために,たとえ強制されても理解できない,という方向にむいている.しかし,その前に,政府の貧弱な宣伝力のせいで,最新作である「未来投資戦略2017」を国民一般が読んでいない.
だが,興味もない,となると,それは自分も「白痴化しているかもしれない」と疑うとよい.

この際だからせめて,「第1 ポイント 基本的な考え方」の10ページだけでもいいから目を通しておくとよいだろう.
「Society 5.0 に向けた戦略分野」として,以下の5項目があげられている.国民生活のほとんどをカバーしているので,まさにソ連型全体主義体制を彷彿とさせる.
観光系は,4にしめされているが,つぎの5では電子決済が目標化されている.
5は,「キャッシュレス化」をいうだけで,政府の「通貨発行益」にかかわる記述が「ない」ことに注目したい.これは,国民からハイエクの「通貨発行自由化論」を隠し,「通貨発行益」を死守するという表明でもある.
1 .健康寿命の延伸
2 .移動革命の実現
3 .サプライチェーンの次世代化
4 .快適なインフラ・まちづくり
5 .FinTech
「Society 5.0」というのは,「①狩猟社会、②農耕社会、③工業社会、④情報社会に続く、人類史上5番目の新しい社会。新しい価値やサービスが次々と創出され、社会の主体たる人々に豊かさをもたらしていく」と,なんと「脚注」で説明されている.

「未来投資戦略2017」という政府の主張をつらぬく前提となる基本的価値観が,この「Society 5.0」なのであるが,「脚注」で処理しておわり,ということからして論理の飛躍がある.
つまり,本書は「SF」という分野に分類されるのではないか?通常の「SF」は,Science Fiction だが,本書は前提から Science を無視しているから,本書の「S」は,Social だろう.

つまり,本書は新分野の文学に位置づけられようが,内容はかなり「白日夢」的で,妖しい雰囲気を醸し出している.
「Society 5.0」は人類史における「第四次産業革命」だという.それで,日本政府は,産業革命をさせようというのだ.過去の産業革命は,一度も,政府主導のものなどなかったことを知らないらしい.政府や政治が主導したのは,「社会破壊」のほんとうの「革命」しかない.

ところで,この「基本的な考え方」には,5つしか項目がないが,本文でもある「具体的施策」になると,いきなり「6」が出現する.それは,「エネルギー」であって,「安全が確認された原子力の活用」とある.みごとな科学の否定.数千年オーダーの福島の後始末を「7」で挙げるべきだろう.
それにしても目次からはずすとは,政府は必ず間違えるだけでなく,姑息なことをする,と覚えておきたい.

このままガラパゴス化してしまう

「Society 5.0」を推進すると,「適切な人材投資と雇用シフト」という労働の付け替えをしなければならない.それは,「生産性の抜本的改善を伴うことから失業問題を引き起こす」が,「日本は長期的に労働力人口が減少し続けることから」,「他の先進国のような社会的摩擦を回避できる」そうだ.
これを「眉唾」といわなければ,たんなる「希望」だろう.「SF」の「F」は,Fiction のはずだが,Fantasy も掛けてあるから,和歌の伝統までも受け継ぐみごとさだ.

「第4次産業革命のイノベーションは、予測困難なスピードと経路で進んでいくことから、対応が遅れたり大胆な変革を 躊躇(ちゅうちょ)したりすると、世界の先行企業の下請け化して、中間層が崩壊してしまうおそれがある。」
「日本は先行企業の下請け化するかガラパゴス化するしかなくなってしまう。」
と,二度も「下請け化してしまう」と心配している.
著者は,「下請け」がよほど嫌なのだろうが,それでは,中小企業庁の立場がないではないか.

世界の先行企業は,「水平分業」にシフトしており,「下請け,孫請け,曾孫請け」をやめられない日本は,いまだに「垂直分業」体制だ.その,体制を維持し,「水平分業」化を邪魔しているのが政府の規制や,その意向でしか動けない「業界団体」の「自主規制」ではなかったか.さらに,脆弱でかわいそうな中小・零細企業は「守らなければならない」から,「支援」と称して補助金漬けにする.こうして,むりやり「下請け」のままに固定させるのが,中小企業庁のお役目ではないか.

昭和23年に発足して以来,わが国中小企業の経営環境が,この役所の存在によって大きく改善されたという証拠がどこにあるのか?
即刻解散させて,現在の定員195名を直接中小企業に勤務させた方が,よほど為になるかもしれない.ただし,これらの人たちを採用したいとおもう中小企業があればだ.

この手法は,農業政策や医療分野などとそっくりおなじである.つまり,おなじパターンで全産業を,「固定」してきたのが政府である.
それを否定しようとは,みごとなまでのダブルスタンダード.
まさに「文学」でしかない,世迷い言である.

「ガラケー」に象徴されるように,この国が世界標準から別世界にむかったのは,世界は「消費者利益優先」を選択したのに,役所の『産業優先』という戦中からの「政策」と,利権がともなう「規制」のたまものだったことぐらいは,だれでも知っている.それを,いまさら,だれのせいにしようとしているのだろうか?

ついでにいえば,政府がすきな「日本版◯◯」というときの「日本版」には,「ガラパゴス化」が含まれている.つまり,日本の「ガラパゴス化」をもっとも強力に推進してきた張本人が政府である.
その政府が,上記のような言い分をして,しらっとしていられる神経は,もはやまともではない.

重要なのは,「第4次産業革命のイノベーションは、予測困難なスピードと経路で進んでいく」という,正しい認識を示し,さらに,「Society 5.0を実現する主役はあくまで民間の活力であり、全ての産業で、従来型システムから舵を切り、知識集約型に産業構造を転換するための大胆な事業ポートフォリオの転換を断行する勇気と行動が求められる。」というように,「主役はあくまで民間」といっていることである.

「予測困難」だから、硬直的な行動しかとれない政府は役に立たない.
だから、政府は民間の行動の邪魔をしてはいけない.
これが,自由経済の大原則だ.

本書は,責任は民間におしつけながら,政府が徹底的に関与する,という「宣言」になっている.
「さあ,仕事をしよう!」と,役人が腕まくりしている絵図である.財政難という存立基盤をすっかり忘れて,業界支配のための「補助金」が飛び交うことだろう.

これは,国民にとって絶望的な未来がやってくることに「確信」すら得られるとんでもないことだ.この「確信」になった「絶望感」こそ,「少子化」という現象の正体ではないか?
政府こそが,明治以来の開発独裁をやめて,「大胆な事業ポートフォリオの転換を断行する勇気と行動が求められる。」のである,と特大ブーメランで返してやりたい.
その意味で,21世紀の自由経済体制のはずの「日本」における,「社会主義の失敗」として重要な「歴史資料」になるだろう.

すでに,こんな批判をだれも「書けない」社会になってしまったのかもしれない.

アナログをデジタルにする技術

宿泊業で三大経費といえば,人件費,原材料費,水道光熱費である.
この三つで8割ほどにもなるから,事業を左右する重要な費用である.
それぞれに,管理の方法がちがう.

以前,とある宿で月次の資料を見せてもらったことがある.すると,水道光熱費が異様におおい.
これはおかしいと指摘したが,「だいたいこんなものです」と動じない.
水道代は二ヶ月に一回の支払だけど,均すと特に異常はないという.
つまり,相当前から異常になっていることが,気づかずに放置されているにちがいない.
それで,たまたま大浴場の補修のための「閉館」があったから,ついでに専門業者にチェックを依頼したら,水漏れ箇所が発見された.これで,年間数百万が浮いたことがある.

毎日検針していない

電気,水道,ガス,重油など,それぞれには「メーター」がついている.
これを毎日検針するのが,水道光熱費を管理する,といったときの基本である.
しかし,残念な宿では,この基本ができているところがすくない.
だから,請求書のとおりに支払う,ということだけが「業務」になっている.

毎日検針することで,なにがわかるのか?
まず,「使用量」というデータが集まる.
よく,「データは活用されてこそ意味がある」などと耳にする.
じつは,「活用方法がわからない」というのがこの手の事例の問題点である.

しかし,そのことのさらに奥には,「なにがわかるのか?」という興味と想像がない.
だれが使っているのか?をかんがえれば,それはお客様である.
お客様のために,玄関やロビーに電灯がともり,館内には冷暖房がきいている.
お客様のために,お風呂の用意をし,食事の用意をしている.

だから,水道光熱費という費用発生には,「量」が消費されているとかんがえるのが妥当だろう.
であれば,客数との関係はどうなのか?という「関数」が役に立ちそうではないか.

「予想」・「予測」ができるかできないか

おなじ業界なのに,業績に差がつくのはなぜか?を吟味すると,業績のよいところは,「予想」・「予測」が上手で,そうでないところは下手である.
では,なぜ上手い下手というちがいができるのか?
「データの活用力」と一言でいえばこれにつきる.

予想・予測が的確だと,当然に対応が早くなる.この「スピード」こそが分岐点だ.
経営資源はかぎられている.
ひと,もの,かね,情報,というけれど,これに時間がくわわる.
宇宙の存在や地球の自転という,だれにもコントロールできないだけに,時間は貴重だ.

水道光熱費でいえば,予約客数から使用量が予測できる.だから,異常の発見がはやくなるし,請求書がくるまえに支払予測もできるから,資金繰りに直結する.
さらに,季節の変わり目に「判断」を要する,冷暖房の切り替え時期も,独自に計測した温度や湿度のデータが役に立つだろう.

日課ゆえの面倒を楽にする

メーター類は個人の家でも目立たない場所にある.
建て増しをくり返したような旅館では,読み取りに踏み台が必要だったりするから,危険が伴うことがある.
最近の技術は,アナログメーターをカメラで読みとって,それをデジタル化することができる.

これは,表計算ソフトに自動入力してくれる,という意味だ.
それなら,客数や気温など,手軽に計測できるものは手入力でも,ちゃんとデータの活用ができるだろう.

なんのことはない,これがいまはやりの,「IoT:Internet of Things(モノのインターネット)」ではないか?つまり,センサーと通信機能を持ったモノ達,ということだ.
かたひじに力をこめなくても,最先端はそこにあるということだ.

工業技術見本市にサービス・観光業がきていない

昨日から三日間の予定で,パシフィコ横浜にて,恒例の工業技術見本市がはじまった.
テクニカルショウヨコハマ2018(第39回)が正式名称なので,横浜市や神奈川県を中心とした企業が出展しているのだが,どっこい大田区や山梨,新潟からもしっかり参加企業がある.
今月は,これも春恒例の「ホテルレストランショー」がビッグサイトであるから,業界関係者はそちらのほうに目がいっているのだろうか?
いくつかの「ミスマッチ」を感じたので,記述しておきたい.

なんとなくミスマッチ

第一は,あいかわらず『「工業」は「ものづくり」』というミスマッチである.
これは,工業のひとたちが,他社の技術をみてさらになにかあたらしいものを作ろう,ということを否定しているのではない.
いいたいのは,「ものづくり」の限界がとっくにみえているのに,まだ「ものづくり」をしようとしていることである.

「ものづくりの限界」は二つある.
一つは,「デジタル生産」の限界である.これは,アジア新興国の得意分野になった.
二つ目は,「高齢化」による限界である.いわゆる職人技(「ローテク」ともいわれる)の断絶である.デジタル生産だけではできない,これこそが,日本の強みだった.その熟練の技が,高齢化という時間との闘いによってうしなわれようとしている.それを,仕方なく「デジタル」で補おうとするのは,新興国もしっている課題だ.中国の展示ブースが,それを象徴していた.

だから,それでも,歯を食いしばってがんばる姿が,妙に痛々しいのだ.
これは,昭和の成功体験の直線上の継続にすぎない,とおもえるからだ.
つまり,新興国とおなじ土俵でまだ闘おうとしている姿である.
要素価格均等化定理の罠から,でる気がないのか?まったく不思議である.
それを,「行政」が一生懸命支援している.

ワンパターンもここまでくると,滑稽にみえる.
おもえば,「平成」という時代は,とうとう「昭和」の精算すらできなかったのではないか?

工業は「ものづくり」をはやくやめるべきではないか?
わが国でもっとも利益率がたかい製造業企業は,だれでもしっているキーエンスだ.
しかも,かれらは,とっくに自社製造工場を放棄している.「工場」がないのに,製造業に分類されている.
かれらの本業は,製品企画と設計なのだ.
つまり,日本の製造業の将来あるべきすがたは,キーエンスのようになることである.

だから、ミスマッチの二つ目は,「もの」そのもを見ているだけで,「生活」をみているという展示がすくなかったことだ.
どんな「もの」であろうと,さいごは「消費者」によって「消費」される.それで,わざわざ「最終消費者」なるいい方まである.だから、たとえ「B to B」であっても,重要な概念なのだ.
自社は,消費者からみて,どこにいるのか?という演繹の発想がなければならないとおもうのだが,ほとんど感じなかった.

サービス・観光業が,工業を無視しているというミスマッチが強くうかがえた.
「文明の利器」は,ほとんど工業からうみだされている.
利用客に,快適さや利便性を提供するには,日本という先進工業国における工業がいまなにをしているのかをチェックするのは当然とおもうが,そんな発想すらなさそうだ.

しかし,これは工業側もおなじであるのは上述した.「生活」のなかに,サービス・観光業は存在するからだ.

本当に深刻なのはサービス業からの発信がないことだ

どんな便利なものがほしいのか?がわからないのが工業.
こんな便利なものがほしい?がわからないのがサービス業,になっていないか?
サービス業からのニーズに工業がこたえ,それを世界がほしがるというのが,本来の先進国としての役割ではないか?
であれば,製品自体をどこで作るかはどうでもいい.
アップルのような企業が,「見本」なのだ.

サービス業の生産性の低さについては,たびたびこのブログでも触れている.
しかし,そのサービス業が,業界内はもとより,異業種にすら発信していないのではないか?という疑問が,あらためてわいた展示会だった.

ホテルレストランショーで,どんな提案があるのか,確認しなければならない.