幹事の選択

いまでも団体ツアーがほしいという飲食店や宿はおおい.
なにしろ,むかしつくった「箱」がおおきい.
団体をメイン顧客に想定したのは,当時は正しかった.
バブル後,旅行形態が団体から個人にシフトしたから,大箱の施設ほど苦労している.

「団体」と一口にいっても中身はどうだろう.
「募集団体」なら,旅行会社が企画した商品に,たまたま集まった個人客の集団である.
ショッピングセンターの応募企画に当選したひとたちの「団体」もある.
そうかといえば,同窓会やクラス会などの,もともとが集団の団体もある.
「スナック」など,飲食店のお客が集まった「団体」ツアーもよくきくはなしだ.
団体がまったくない,ということではないが,口を開けているだけではそうそうやってこない.

事務は誰がやるのか?

募集団体や企画団体は,ある意味むかしからあったから,営業の方法もむかしからと変わらないだろう.いわゆる,エージェントまわりである.
個人が膨らんで団体になったのが同窓会やクラス会,それに個人経営のお店の宴集会である.
だから,これらの団体には,幹事という個人が存在する.
この個人こそが,決定権者だ.
同窓会やクラス会の幹事は,だいたい卒業前から変わらない.元学級委員が引き受けている.
あんがい一生つづくしごとである.
50代から,急に頻度をますのが学校関係の集まりだ.
元学級委員だった幹事は,それなりに出世しているはずで,事務能力がある.しかし,現役だと結構いそがしい.また,リタイヤといってもいろいろやることがある人物だと想像できる.企業の役員になっているかも知れない.
だから、手配の事務は負担である.

事務代行という営業

栃木県那須町にある芦野温泉には,「湯行会」という組織が各地に組織されている.
この会の分布密度は,ほとんど町内会なみで,自分の住所の比較的ちかくに「支部長」がいる.
ぜんぜん知らないひとだが,宿の壁にはズラーッと各地の「湯行会」支部長の顔写真と自宅の電話番号が掲示されている.
もはや個人情報保護法という国民孤立化政策を完全無視しているような鷹揚さで,むしろ清々しさまで感じるが,自宅のちかくにこんな「会」があるとは,おどろいたものだ.

この「会」は,支部長の都合で成立しているというから,またおどろきである.
支部に登録すると,支部長の都合できまった芦野温泉行きのツアー連絡がとどく.
日程(たいてい数泊の連泊を基本としている)と集合時間,場所が指定された連絡書で申し込む.

これらの手配は宿がしている.
支部長は,自分の行きたい日程を宿に伝えると,支部会員宛の連絡事務で出欠の確認をおこなって,それから,バス会社に連絡し,貸し切りバスを仕立てるというから,支部長本人がすることは,いつからいつまで行きたい,という希望を宿につたえることだけである.

おおくの会員は,万難を排して参加するという.はなしだけではにわかに信じられない.それで,ためしに現地へ行ってみて宿泊したら,本当だった.何回目かのおどろきである.
最初は,町内の老人会かとおもったら,そうではなく「湯行会」だという.本当の老人会も来るけれど,「湯行会」は少しはなれた人たちだから,「近所のしがらみがない」分,心底楽しめるらしい.

このビジネスモデルをまねる団体向きの宿を聞かないのも不思議である.
おそらく,「事務」ができないのだろう.
接客サービスばかりが「サービス」だというひとがいるけど,本当は「事務」というサービスがありがたい.
幹事をやればわかることだ.

観るだけの観光

光を観ると書いて「観光」だから,明治のひとは「Sightseeing」を訳したのだろう.じっくり観る感じがする.
「Tourism」は,これとはちがって,「名所巡り」という系統だろうから動きがある感じがする.お正月の「七福神巡り」も,指定された寺院に行くことが目的になるから,あんがい周辺をじっくり観る「観光」はパスしてしまう.
「団体ツアー」の絵はがき旅行も「観る観光」の観点から批判があるけれども,しらない土地での名所旧跡を「効率的」にまわれるから「ツアー」であって,個人的には嫌いではない.気に入ったら,あとでゆっくり個人旅行で「Sightseeing」をすればいい.

日本語は便利すぎて,どちらも「観光」で片づくが,どうやら「観光」と「名所巡り」は外国語のように分けたほうがよさそうだ.
名所巡りをしていても,目的地の名所を観光するとなると,いろんなものを「観る」ことになる.
このところ,「体験型の観光」が注目されているが,基本は「観光」という概念のなかにふくまれるだろう.

「観る」という場面で限定すれば,博物館や美術館は,もっぱら「観る」ものばかりである.
そこで,どんなものかと解説書きを読むのだが,有名な展示品については,「音声ガイド」という便利なものも普及してきた.しかし,これはすべての展示品が対象ではないから,音声ガイドの端末を借りたら,たいていは音声ガイドのあるものだけを「巡る」ことになる.それで,館内「ツアー」になる.

世界的に有名な博物館や美術館なら,じっくり「観光」すると毎日通っても一週間ではたりないかもしれない.
むかし,スペインのプラド美術館に三日通ったが,わたしの脳は画像データの消化不良で頭がぼんやりして気分が悪くなってしまった.日程の都合から三日で済まそうとしたのがいけなかったのだろう.完全に情報過多だった.
そういう意味でも,館内「ツアー」は効率的である.おそらく,二時間もあれば全館を巡るのだろう.
しかし,残念ながら印象に残ることはすくないから,どうしても「行ってきた」ということで終わってしまう.
だから,「観光」と「ツアー」は,トレードオフの関係にあるようにおもう.

観る観光は高い教養を要求されるから難易度が高い

テレビ番組で,美術をあつかったものはおおくないが,ある作家とか,一枚の絵とかと,対象をかなり絞り込んだ内容で構成されているから,視聴者はかなり深く情報をえることができる.
どんなに有名な作家で,どんなに有名な作品であろうが,そうした背景をしっていて鑑賞するのと,ただ観るのとでは雲泥の差である.

国内海外問わず,博物館・美術館,神社仏閣・名所旧跡を「観光」しようとすると,「教養」という壁がたちはだかる.
たとえば,観光の対象が自然の景観であるとしても,ただ観て「きれい」とか「すばらしい」で済まして,写真に記録を残すだけならそれでおしまいである.これが,従来の「観光」であった.
しかし,その景観がどうやってできたのか?地球物理学的な観察の説明や樹木や動物の特徴といった生態学,とか,そこで暮らす人がのこしてきた民話などという情報がつながると,がぜん価値が磨かれる.
これらを,どうやってスマートに情報提供するか?というのが,観光地にもとめられるのだろう.

地元のひとたちの教養が難易度を下げる

どういった解説・説明があるといいのか?
それを表現する方法で,もっともうまい方法はなにか?
そもそも,想定客はだれか?

残念な観光地には,おざなりで貧弱な説明しかない.これは世界共通である.
しかし,先進国と呼ばれる国では,あまりみかけない.
しっかり「観る」に集中させたら,つぎにはしっかり消費させるような段取りが組まれている.
そういったプログラムの構成は,役所のプロデュースではできない.

農産物輸出と駐車場

まったくちがう分野の話題にみえるのだが,昨日2月4日の新聞で注目の「共通記事」だ.

結論をさきにいえば,どちらも「政府の失敗」である.
丁寧にいえば,典型的なソ連型計画経済の失敗という意味だ.
民間の自由をうばって,政府が経済に命令するとこうなる,という旧東欧社会主義圏の住人なら,21世紀の日本でこんな政策がまだおこなわれていて,それを新聞が批判しないことに,唖然とするか,ノスタルジーすら感じるひともいるのではなかろうか.

日本政府のダブルスタンダードここにあり

「生産性向上」のために「働きかた改革」を打ち出してみたりと,なにかやっている振りをしているが,そもそもおおきなお世話である.
その一方で,あらゆる分野に命令し,ことごとく失敗しているのは政府である.
お願いだから,政府は邪魔な「経済政策」というお節介を,一日もはやくやめてほしい.
たったそれだけ,政府が退場すれば,この国の経済はよくなるだろう.

記事によると,農産物輸出が不調の理由は,「HACCP」という世界共通規格が日本で普及していない,という.
また,「グローバルGAP」という農産物の国際認証が,日本ではほとんど普及していないのが問題だとしている.
しかしこれは,農業鎖国政策の結果でしかない.それを,こんどは,企業や農家のせいにする.

東京オリンピック選手村での食事提供は大丈夫なのか?

数年前から指摘されている問題である.
上述の「輸出の不調」は,「選手村」という江戸時代の長崎の出島のような「想定の国外」でも発生する可能性と同意である.
つまり,各国選手には,グローバルな規格や認証を経たものしか口に入れたくない,というニーズがある.

「より速く,より高く,より強く」を,ドーピングなしで実現するための「食事」は,おそろしくナイーブな問題だ.
これを,「いなかのおばあちゃんがつくる野菜はおいしい」というレベルと一緒にするのは,「倒錯」といわれても仕方がない.日本は「メルヘン国家」になった.
それで,まずいと気がついた役人が責任転嫁しようというのがこの記事に透けてみえる.

おそらく,各国しかも「有力国」の「有力競技団体」との打ち合わせで,世界標準を要求されてしまっているのではないか?当然だが.
あと二年程度ではできないから,選手村での提供食材はほとんどが輸入食材になる可能性がある.

選手たちが楽しそうに,お好み焼きやラーメンなど,日本での食事をしている場面がテレビにでるだろうが,それは競技終了後の緊張が解けたアトラクションにすぎないはずだ.
テレビは,あたかも毎日,各国選手たちが「日本食」を楽しんでいるかのような印象操作をするのではないか?とひそかに期待している.

駐車場規制と人口減少

都心の駐車場が余っているから,駐車場規制をゆるめる,という内容の報道である.なぜ余っているかというと,公共交通機関が発達していることと,人口減少が原因だという.それで,稼働が二割しかない駐車場がでてきた.

駐車場という「箱物」を,ビルの地下なりにつくらせておいて,都心部は公共交通機関があるし,人口減少だからと「緩和」したところで,既存のビルオーナーはどうしろというのだろう?

「法」で規制すれば一律になる.
どのくらいのビルが新築されるか?を都内二十三区内ですら予想などできない.
だから、この規制は最初から適当なのだ.

そもそも,ビルの駐車場は誰のための施設かといえば,業務用と客用がほとんどだろう.
すると,ビルの設計において,規制が基準なのではなく,いかなる収益をもたらすかが基準になるのは当然だ.

これを,むりやり「規制」という基準にさせるから,民間は仕方なく規制にしたがう.それで,駐車場利用者がいないと「想定外」などという無責任用語を駆使して,緩和してあげる,という.
まるまる損をかぶるのは民間である.わざわざいうまでもないが,生産性が低い理由だ.
緩和でなく,最初から規制というお節介をしなくてよい.
収益の主体は民間だから,自分の事業にあわせた駐車場台数にして,損も得も民間に任せれば,すむことだ.

農業をやったことがない役人が,農業経営にお節介して農業鎖国をしてきたら,いつのまにかそら「輸出」だということに対応できない.
政府が経済活動に介入し命令すると,ろくなことがない.
伸びるべき生産性まで低下させる.そんなことを何十年もやってきて,まだ政府は自分が万能だという夢から覚めもせず,生産性をあげろ,と命令する.

霞ヶ関のファンタジーに翻弄される民間こそ迷惑千万.
これを経済団体が「支持する」という「倒錯」こそ,この三十年の閉塞感の正体である.

畏敬の対象を喪失すると堕落する

地震雷火事親父,これは恐いものの総称だった.
さいごの,「親父」がいつから怖くなくなったのか?いまでは,すっかり「ファミリー・パパ」である.
天災と親父が同列にあつかわれることのすごさは,親父側もたいへんだったろうと推測できる.
1968年に放送された,「親父太鼓」というテレビ・ドラマは,進藤英太郎演じる親父が,最後の抵抗をコミカルにみせてくれた.

家長制につながる,という批判はおいて,尊敬できる人物の存在,というのはたいへん重要なものだ.
「家庭」という,もっとも身近な空間における,尊敬,があるというのは,望ましいことではないか.ただし,それが権威主義にならない,ほんとうの「尊敬」であれば,である.

社内に尊敬できる先輩がいるか?

子どもは学校という集団において,社会化の訓練もうけている.
犬でさえ,生後すぐに母犬から引き離されると,社会化の教育をうけないから,一生にわたってむづかしい犬になる可能性が指摘されている.

おおくの国の教育制度が,小中高校と,それぞれ成長の年齢にあわせて学校をかわるようにできているのは,環境適応ということがあるはずである.
それでも,子どもにとって学校での一年はながいから,一学年の差でも,おおきな違いがある.
この時期,すさまじいスピードで「成長」しているからだろう.

三年間しかない,とかんがえるか,三年もある,とかんがえるかで,悩みの深刻度もかわるだろうに,たいがいは三年間もある,になってしまう.
尊敬できる友人・先輩や教師に出会えるか?は,そのひとの人生に影響をあたえる.損得ではない交遊というのは,ひとに豊かさを提供してくれるものだ.

就職というイベントをつうじて,一生お世話になる可能性がある会社という集団にはいって,職業人としてのスタートを切る.
このひとの職業人生を豊かにするかのひとつの決め手は,尊敬できる先輩の存在である.

こうしてみると,いい学校やいい会社というのは,尊敬できる可能性のあるひとの密度が高い集団を指すのではないかとおもう.

ABC分析における犠牲商品

飲食業界ではおなじみのABC分析だが,よくある失敗は,「売れていない」Cランクの商品を全部撤廃してしまうことで発生する.このCランク商品のなかに,Aランク商品へお客を誘導するための「犠牲商品」というものがもぐりこんでいる可能性があるからだ.

「犠牲商品」は,それ自体が売れるものではない.しかし,売れ筋商品へと誘導するための「みせもの」だから,「売れない」といって廃盤にすると,売れていた商品も売れなくなってしまうことがあるのだ.それで,「犠牲」という.

では,どうやって「犠牲商品」をみつけだすのか?というと,お客がなにをもってAランクのとある商品を選んだのか?を観察することになる.メニューをみながら,なにと比較したか?だ.
同系統のメニューの中にあるかもしれないし,別系統のメニューの中にあるかもしれない.
たとえば,麺類とご飯類とかである.

メニュー改訂をするとき,ABC分析の結果から仮説をたてて,ふだんから注意していないと,わからないものだ.

尊敬できる「犠牲商品」

このことの高度の応用は,「犠牲商品」をつくる,という作戦だ.
買って欲しい商品に誘導するための商品をつくる.

ポイントカードを発行して,そのポイント交換のパンフレットをつくるとき,データをみながら交換できる商品を選定することは当然として,いったい上限のポイント数をどうするか?という問題がある.
まじめな担当者は,最高ポイントを持っている人のポイント数を上限にしてしまう.
そうではなく,もっと上のポイント数にすれば,じっさいに交換できるひとはいなくても,パンフレットをみたひとが,こんなに購入実績があるひとがいるものかと感心してくれる.

人間は不思議な動物で,畏敬の対象があると気づくと敬虔な気持になるのだ.
音楽でも,素晴らしい「レクイエム」を聴けば涙し,「行進曲」なら歩き出す,とベートーベンが言ったとか.

尊敬できる人物が身近にいないひとは不幸である.
それは,犠牲商品の存在に気づかないで,いつもコントロールされる側にいるようなものだからだ.

ヒヤリとハット

事故がなく安全な状態を維持するのは,あんがい難しい.
ちゃんとしようとすると,ちゃんとコストがかかるようになっている.そこで,ほどほど,におちつくのだが,その「ほどほど」でほんとうに大丈夫なのか?となると,わからない.

個人ではなく,企業の安全対策は,基本中の基本なのだが,わかっちゃいるけど状態になりがちである.それは,やはりコストの問題があるからだ.

一口に「事故」といってもいろいろある.
そこで,最悪をかんがえることが一番いい.もちろん,最悪な事故は,人身事故で,それも死亡事故になる.
これは二つに分類できて,お客様が被害者になるもの,従業員が被害者になるもの,である.

ひとの命に重みのちがいはないが,お客様と従業員とでは,対応がちがってくるのは否めない.

ここでは,まず従業員の例をかんがえてみたい.

「業務上」という日常

会社の敷地であろうがなかろうが,業務上なら勤務中の事故である.
たいていの勤め人は,一日八時間は拘束されているし,通勤途上という時間もある.休みの日はのぞいても,人生の中における総時間数をかんがえると,たいへんな時間を「仕事」につかっている.
なかには,自分の時間のつかいかたがわからなくて,休日なのに会社にくるひともいるから,十人十色ではある.ただし,休みに出てくるこのひとが,仕事をしているかどうかは定かではない.

いわゆる現業部門という「現場」では,さまざまな工具をつかわないと仕事にならない.
だから,こうした工具が原因の事故はむかしからある.
ところが,いまは,病院で患者が取り違えられたり,ちがう薬をつかわれたりという事故まである.
これらはいちように「ヒューマンエラー」が原因といわれている.

そこで,専門家たちがヒューマンエラーの研究をしている.
この研究でわかったことは,「ヒューマンエラー」はなくならない,であった.
その理由は,「ヒューマンエラー」の原因が「ヒューマンエラー」だから,というものだ.
つまり,人間は間違える,ということにつきる.

だから,「ヒューマンエラー」を減らすには,人間は間違える,ことを前提にする必要がある.

なぜ間違えたのか?

たいていの「ヒューマンエラー」は,「つい」「うっかり」である.
しかし,その「つい」と「うっかり」で,自分の臓器が除去されてはたまらない.

そこで,「つい」と「うっかり」を収集して,「つい」と「うっかり」の原因をさぐってみる.
人間個体の神経の認識ミスなら,五感のうちのどれか?
人間個体の記憶ミスなら,記録の方法はないか?
といったぐあいだ.

結局「なぜ?」をくり返す

これは,「トヨタ生産方式」ではないか.
「つい」「うっかり」も「ヒヤリ」「ハット」も,原因の追及は,「なぜ?」である.

すると,従業員の安全を先にかんがえてみたが,お客のばあいもおなじである.
ただし,お客になるシミュレーションをしないといけない.
これは,テーマを変えるといくらでも応用ができる.
サービス向上になったり,生産性向上になったりする.

こうしたシミュレーションを,短時間単一テーマでおこなうのと,一泊まるまるおこなう方法がある.
一泊まるまるを「試泊」といったりする.
幹部でも,試泊経験が一度もないという宿はおおい.

1978年に世にでた大野耐一著「トヨタ生産方式」,奇しくも今年で40年の超ロングセラーである.
いまでも新刊で手に入る.

この本を「カンバン方式」の「ノウハウ本」だとおもっているひとをたまにみかける.
それで,「たいした本ではないのに」と,名著の理由がわからないらしい.
ただしくいえば,ノウハウ本だとおもって読んだら,なにやら漠然としていた,という感想なのだろう.

この本は,「哲学書」である.
漠然としているのではなく,「思想」が語られているのだ.だから「抽象」である.
「具体」ではないから,いくらでも応用できるのだ.
つまり,業種は問わない.
「ヒューマンエラー」の削減にもつかえるのは,その証明である.

わたしは鸚鵡ではない

くりかえして言うことを「鸚鵡返し」とよぶことがある.
ほんものの鸚鵡は,人間のことばを理解しているかといえば,おそらくそんなことはないだろう.
人間なら,鸚鵡とちがって,理解して返答している,とおもいたいがそうでもないことがある.これを,「機械的」といったりするが,手作業でも「機械的」な単純作業のくりかえしだと飽きてきて,しまいには苦痛にかわる.だから,ことばとして「機械的」に発することをくりかえすと,精神的にまいってきて,しまいには思考停止となる.

ところが,ホテルや旅館では,たとえ「機械的」であっても,くりかえし言わないと仕事にならないことがある.
だから、「機械的」に言わなければならない理由を知っているか知らないかが,その仕事の完成度につながる.すなわち,クレームの発生頻度がかわるということだ.

この「理由」を新人におしえないで命令でやらせていると,本人はだまって思考停止になる.そのうち,「理由」を説明できるひとがいなくなって,それが,職場全体に広がってくると,職場ごと思考停止になる.こうやって,ことばの発声が「単純作業」になって思考停止になると,人間は思考する動物だから,手をうごかす仕事も,かならず「単純作業」になるから,こころがうわついたサービスがお客に見ぬかれて,衰退という道をすすむことになってしまうおそれまである.

どんなことが「機械的でなければならない」のか?

第一は,「電話予約」における,「お待ちしております」に象徴される,予約承諾のことばである.
一般に「宿泊予約」というのは,厳密には「予約契約」のことをいう.これは,レストランの予約でもおなじことだ.
商法507条が根拠といわれたが,民法の大改正にあわせて,この条文は「削除」が決まった.
つまり,民法の特例法だった商法が,一部民法に先祖返りすることになった.
2020年の4月1日をもって,法律がかわる.

電話の通話は,双方向でつながっている.
そこで,電話で予約を受けるとき,その通話内で予約の申込みを受けて,部屋が空いているからと,「お待ちしております」と,承諾の意思表示をすれば,「予約契約が成立する」のだ.だから、鸚鵡のように,承諾の意思表示のことばを言わなければならない.

ちなみに,予約契約も売買契約である.売買を予約したのだ.売買契約は,売る側は商品を用意して,買う側はその代金を支払う,という約束である.
物質であろうが客室であろうが,売る側は用意しなくてはならず,買う側は代金の支払いをしなければならない.
ここで,買う側が一方的に売買契約を破棄したばあい,キャンセルチャージという違約金の債権債務が発生する.
だから,予約段階でも,その予約契約が成立したのかしなかったのかは,間違いなく伝える必要がある.お客は予約したつもりで,もし部屋が売り切れていたら,宿側が違約金を払わなければならなくなる.

第二は,荷物の預かりだろう.
いまは冬だから,クロークでコートなどを預けることがよくある.このとき,「貴重品類はございませんか?」とかならず聞かれる.たいがいは「ない」とこたえがあって,そのまま引換券をくれるが,もし,「ある」とこたえれば,それは貴重品預かりにと案内されるだろう.

ものを預かることを「寄託(きたく)」という.これは,民法でも商法でも規定があるが,ホテルや旅館,あるいは浴場などは,たとえ「無料」でも,法律は商人として預かったことにされるから,商法の寄託が適用になる.この部分は,商法が健在である.
それで,貴重品があるかないかを問うのは,あると申告されたときと,ないと申告されたときとで対応がことなるからである.簡単にいえば,適用となる条文がちがう.

客側が,うそをついて,貴重品があるのに無いといって,貴重品預かりではなくそのまま預かってしまい,もし紛失しても,文句がいえなくなる.お客が文句をいえないのは,鸚鵡のようにかならず確認することを怠らないためだ.あるときは言って,あるときは言わない,というのでは業務ならない.荷物預かり業務は,徹底的に鸚鵡になる必要がある.その一回ごとに,寄託契約の締結がなされている.

ホテルや旅館の大浴場,あるいはスポーツ施設のシャワールームや銭湯など,必然的に衣類や荷物を預けないとサービスを受けられないばあい,言って確認するのが面倒だから,紙に書いておけばよい,とはならない.
おおくの関係者が勘違いしているので注意が必要だ.

「貴重品は貴重品預かりまたはフロントにてお預けください,万一事故があっても責任は負いません」などという紙を,ポスターのように貼っている施設がある.
たしかに,利用客に貴重品預かりの場所を説明している,という効果はあるが,じっさいに紛失事故がおきたとき,施設側は「免責」にはならない.

商法の「寄託」は,いまだ文語での記述だから読みにくいが,じっくり読んでみることをおすすめする.

なお,駅のコインロッカーは,「賃貸借契約」なので,念のため.

客用トイレをだれが清掃するのか?

外国人がいちように驚くのが,日本の小学校における給食と終業時の清掃であるという.
じっさい,ポーランドでは,給食はおろか,生徒がいっせいに昼食をとる習慣すらないし,教室の清掃は,清掃業者が請け負っているのが世界的には一般的だ.
日本の小学校を取材した,サウジアラビアのテレビ番組をきっかけに,彼の国では「日本方式」が急速に普及しているという.これは,サウジアラビア王国にかぎった話ではない.
「教育」の範囲を,生活習慣にまでひろげれば,日本方式の意味ははっきりしている.

概ね,日本では高等学校まで自分たちで教室やトイレなど校舎や校庭の清掃をするから,おとなになって,専門学校や大学に進学すると,とたんに清掃は外国式に専門業者の仕事になる.
これは企業でも一般的である.

「サービス業」という業種でかんがえると,自社の社員以下がおこなうのと,専門業者に委託するのと,各業態によってちがう.
比較的店舗面積が小さい飲食店などでは,自社の従業員が清掃している.
一方で,大型ホテルでは,業務委託していることだろう.
この中間が,旅館である.

あんがい「おもてなし」をつよく打ち出しているホテルや旅館で,ロビーや客用トイレを業務委託していることはおおい.ばあいによっては,従業員スペースもトイレをふくめ清掃委託している.
「経費」を「単価」でかんがえれば,接客の専門家や商品企画・管理,あるいは営業をプロの従業員が,高単価で業務に従事しているのだから,単純作業は外部の専門業者にまかせることで,単価じたいも安くすむから,合理的であるし,ある意味,そんな業務で有能な従業員の時間をムダにしたくない,というかんがえもあるだろう.

しかし,本来の「おもてなし」という「思想」からかんがえれば,矛盾していないか?

長野県のひとたちが憧れる会社のひとつに,「伊那食品」がある.
この会社は,「寒天」の世界的メーカーで,世界シェアは70%ほどだとおもう.また,前年比で40数年間連続の売上高増加という記録もあるから,ご存じのむきもおおいだろう.

一口に「寒天」というが,なかなかの奥深さで,「寒天」というものの物質特性をかなり研究している.
創業時は和菓子の材料,いまは化粧品や医薬品の分野にまで応用がひろがっている.
その成果が,売上高増の連続記録になったのだが,会社の目的が売上高増加ではないことにも注目をあつめた.それは,社員とお客さまの幸せの追求なのだ.

だから,社員には10時と3時のお茶の時間がある.定年退職すると,子会社に就職して,本社工場内の花壇や農園の仕事がある.その会社にも定年があるから,社員たちは二度退職金がもらえる.
本社工場内の花壇は,美しく整備されていて,工場見学のお客の目をほほえませ,農園の収穫物は「直売」されている.これを近所のひとがこぞって買いに来る.

広大な本社工場の敷地に通勤する社員たちは「右折」をしない.遠回りしてでも「左折」で入場する.「右折」は,後続車の迷惑になるからだという.さらに,朝夕は,工場内の通路を集団で登下校している子どもたちのすがたがある.その先には工場と学校をつなぐ歩道橋がみえる.通学路の敷地内ショートカットを認めただけでなく,歩道橋も会社がつくったという.国道をまたぐ認可を得るのに苦労したというから,本物である.

工場内には見学者のためのレストランがあって,さまざまな寒天料理がたのしめる.
レジをすませて土産物売り場にあるトイレに行った.ふと,違和感を感じたのだが,それがなにかは時間差があってわかった.
トイレ内の水栓や設備は,けっして新しいのではない.しかし,なにか変なのだ.
それは,今日,ここを使うのはわたしが最初か?というほど,どこを見渡しても,水滴の一つもないのだ.
家内をまつために,土産物をながめていたら,目の横を人影が通るのを感じて,あわててふりかえると,そこに家内が立っていた.

いま,女子トイレにだれか入ったかときいたら,誰もこなかったという.
それで疑問がとけた.レジ係のひとが,手があけばトイレの清掃をしているのだ.すると,男子トイレから彼女が出てくるやすぐに女子トイレに入った.
家内も,女子トイレに水の一滴もなかったと驚いていた.

こんな会社みたことない.
それで,たっぷり寒天のお土産を買って,駐車場にむかうと,100mは向こうの通路からなにか叫んでいるひとがいる.
足下から頭まで,すべてが白装束なので,工場のひとだろう.
なにごとかとおもって耳に手をやったら,「ありがとうございました.お気を付けて!」と言っていた.
それで,寒天でいっぱいの荷物のふくろをもちかえて,おおきく手を振った.
なにか,えらいひとになったようで,ここにきてよかったと幸せになれた.

すごい会社があるものだ.

人工温泉の銭湯

「天然もの」だからといって,ぜんぶの「魚」がうまいわけではない.時期や気候変化など,様々な要因で,安定しないのも「天然」ならではのことだ.
一方で,「養殖」あるいは「人工」だからといって,それだけで忌み嫌うのもいかがか.目的や用途によっては,十分満足できると同時に,あんがい「天然」と区別できないことがある.もちろん,手軽さという点では,天然以上のこともある.

最近の銭湯の進化は「湯質」にある.

火山がおおい日本列島は,世界でも有数の温泉大国である.また,入浴方法として,湯船に浸かる習慣は,古代ギリシャ・ローマとブータン,それに日本だけ,というのも文化人類学ではいわれている.
だからか,「銭湯」がめずらしいので,外国人観光客たちの観光スポットにもなってきている.それで,「入浴マナー」がわからない外国人に,絵で示した注意書きが貼ってあるのを目にする.

天然の炭酸温泉は,火山性とは逆の性質の地層でないといけないらしいから,温泉がどこにでもある日本国内でも,かなり珍しいものだった.ところが,医学的に,炭酸ガスの温泉入浴が,血行を改善すると認められて,がぜん注目があつまった.循環器系のおおきな病院には,炭酸ガスの風呂があって,これに「治療」として入浴すれば,ちゃんと「点数」が計算され,健康保険が適用される.

それで,いまとなっては「人工炭酸風呂」は,銭湯でも定番になりつつある.廃業がつづいている業種であるが,きっちり経営は二極化しているようだ.

最近のトレンドは,「高軟水」である.
「軟水」とは,「硬水」とちがって,ミネラル分がすくない水をいうから,「高」がつくというのは,ほとんどなにも入っていない水にちがいない.もともと,日本の水は「軟水」だから,水道水も「軟水」だ.ペットボトルで買うと,ほとんどが「ミネラルウォーター」すなわち「硬水」を飲むことになる.ミネラルウォーターを,黒くコーティングされた鍋で沸かすと,まわりに白い粉がつく.これが「ミネラル」で,主成分は「カルシウム」である.水道の水でこうはならない.

ちなみに英国の水道水も,ヨーロッパでは珍しく「軟水」である.ポットに蛇口から勢いよく水を入れると,泡となった空気もいっしょに混ざる.これでわかした湯でもって紅茶をいれると,すこぶるうまい.みえない空気の泡で茶葉が適度に「踊る」,水に余計な成分がないから,ピュアな味になるというわけだ.ヨーロッパ大陸側は「硬水」なので,おなじ紅茶でも味はおちる.それで,コーヒーが主流になった.

さて,「高軟水」の湯である.
これで顔を濡らして手で触れればすぐにわかる.つるつるなのだ.
髪も,かわけばさらさらになる.
「高軟水」は,ミネラルでもある石鹸成分や皮脂の古い油分を取り除くからだという.

その「高軟水」をつかった,炭酸泉や,マイクロバブルの湯に超音波振動など,機能性のある湯船が幾種類もあるのが最近の「銭湯」である.

銭湯とフランスのパン屋

自宅に風呂がない,とか,自宅の風呂釜がこわれて修理中とか,理由はそれぞれあるにせよ,原初は,自宅に風呂がない,が圧倒的な利用理由であったろう.
江戸の長屋が,現代のアパートになっても,住宅事情がわるかったころは,日常で銭湯しか入浴できないから,生活必需,という分野だった.そして,町内に一軒かならずあった.

このような状態は,かつてのパリのパン屋のようである.パリのパン屋は,町内のひとは町内のパン屋でしか購入できなかったから,そうはいっても日本の銭湯はまだ自由だった.ただし,別の町内の銭湯に浮気すると,なんだか冷めた目線でみられたものだ.
パリでこの町内規制が撤廃されたのは,カルフールのおかげだった.大型スーパーで売っているパンを,みなさんこぞって購入した.町内の全人口が,自分の店のパンを必ず買う,ということが,どのくらいパンの品質を低下させるのか,すこしかんがえればわかることだ.

ところが,カルフールのパンは,日本製の冷凍パンを店内で焼いたものだった.
これで,フランスのパン屋組合が両手を上げた.町内規制強化よりも,競争を選んだのだ.
「このままでは,フランス人のパンは,ぜんぶ日本製になってしまう」つまり,「フランス人のパンは,フランス人が作らなければならない」であった.
世界に冠たる「フランスパン」は,こうして生き残っただけでなく,おそるべき底力で「世界に冠たる」を復活させた.その陰で,町内のパン屋のおおくが廃業せざるをえなかった.

人気銭湯の近場という立地

いまや,銭湯はひきつづき生活必需ではあるものの,レジャーという要素が急速におおきくなっている.これは,スーパー銭湯との競争がそうさせたのではないか?

自宅に風呂があろうがなかろうが,たまには快適なおおきなお風呂がいい.
選択肢はたくさんある.スーパー銭湯もいいが,さてどうしよう.きょうはどこに行こう?
毎日が日曜日とはいわないまでも,生活に余裕があれば,毎日でもゆったり浸かれるお風呂で,快適さと健康を維持したい,というのは人情だ.

ゆっくりすればするほどに,喉が渇く.
最近の銭湯は,牛乳系だけでなく,ちょっとしたつまみや生ビールもある.
だけど,ほんとうは,近所の居酒屋で一杯できれば最高だ.
こうして,銭湯の近場という立地があらわれる.

温泉宿はどうなる?

温泉宿が,まさか都会の銭湯と競合しているとはおもっていないかもしれない.
しかし,日常の銭湯の進化は,確実に利用者の満足度というハードルをあげている.
利用者は,銭湯を銭湯だけで評価しない.銭湯が「レジャー」になったから,銭湯と近所の居酒屋はセットである.銭湯の待合の一杯コーナーをみて,評価するなら,おおきな間違いをおかす.
つまり,温泉旅館がもつ機能の,風呂と食事は,すでに銭湯と競合している.スーパー銭湯には,これにお休みどころがついているから,温泉宿とのちがいが縮小しているのだ.

温泉宿は,どこで勝負するのか?
フランスのパン屋のような,一大決心がいるのだ.

雪かき

小学校でならう日本の歴史に,律令国家の税制がある.
「租」,「庸」,「調」,あわせて「租庸調」とおぼえれば点数がもらえた.
いまの税制では,基本はお金で納めることになっているが,現金がなければ物納も可能である.
なので,労役である「庸」がない.
あえていえば脱税して有罪が確定すれば「懲役」になるが,行動の自由をうばわれたうえでの「労働」なので,「庸」とはいえまい.また,「懲役」であっても,「給与」はでる.
そんなわけで,現代には「労役」としての「納税」はなくなった.

生活のうえでの公共的労働は,ある意味,現代における「庸」なのかもしれない.

「庸」としての雪かき

雪国なら当然でも,めったに雪のない太平洋側,それも首都圏では,「雪」というだけで事件である.
冬タイヤの装着があたりまえではないから,数センチの雪でも立ち往生する.
年に数回しか降らないものに,タイヤで数万円から10万円ほどの出費はしない.だから,「雪」とわかれば,素人は運転をしない日ときめる.
しかし,玄人は運転しないわけにもいかず,冬タイヤの用意もないからえらいことになる.

むかし,エジプトに住んでいたとき,年に数回しか降らない「雨」で,カイロの都市機能がマヒしたのをおもいだす.
「雨」といっても,車のフロントガラスは,ぼたん雪が付着したようになる.「砂」が混じっているからだ.歩行者は濡れると服がシミになって落ちないので走り出す.もちろん,傘などだれももっていない.「砂」といっても,龍角散のような微細な粒子である.降り出してたった数分で,自動車の運転が困難になる.砂が前方の視界を遮断するからだ.
おおくの自動車には,ワイパーもウォッシャー液も搭載がない.年に数回しか降らないから,ワイパーは必需品ではないし,ウォッシャー液は入れておいても乾燥でカラカラになるから,いざというときにからっぽなのだ.そして,歩道下数十センチの砂に埋設してある電線がショートして,数メートルの火花があちこちで飛び,そのブロックは停電する.電線の被覆がやぶれていても,ふだんの乾燥で漏電しないからわからない.これで,信号も消える.

日本のはなしにもどろう.
日が当たる道なら,すぐに溶けてしまうが,日陰のばあいは凍結するから危険である.
屋根の雪下ろしをするほどの量はないが,雪国では雪下ろしの手伝いで,新参者が仲間として認められると聞く.
むかしは,玄関先から敷地がある道路面は自家の責任としてきれいにした.これは,ふだんの掃き掃除の延長というかんがえだったが,高齢化でこれができなくなったから,路地はまだらになった.若いひとがいるエリアだけがあるきやすい.

商売の刻印にもなった

ふだんから気になる店というのはあるもので,なぜか入店していないが外から垣間見てチェックする,という場所が何軒かある.
そんな店のなかで,自店の店先がみごとなアイスバーンになっているのを発見すると,「雪かきもしないのか」ということをスタートラインに,「『ウエルカム』という意識がない」とかんがえたり,「こんな店に入らなくてよかった」とかと,連想がひろがる.
そもそも.入店も危険だが,店内から出るときが危ない.アルコールをだす店でこれはないだろう.

北側の歩道に面しているから,一週間たってもアイスバーンのままである.「雪」のうちになら排除もできるが,踏み固められて凍ってしまうと,つるはしでけずるしかなかろう.すると,この店の前をとおることが「危険」だから,気づいたひとは反対側の歩道を選んであるくようになる.すでに,それが習慣になったひともいるはずだ.

ようするに,自分の店さきにひとがこないようにしているのだ.
氷雪が溶けても,ひとびとの記憶に刻印される「危険」という警報は,きっと夏になっても消えないだろう.

毎日述べ2キロを清掃する会社

開店前に,従業員総出で近所の清掃に励む会社がある.その距離が2キロ.
「お客様の自社への通り道」だからというのが理由である.

清掃でキレイになるのは,道路だけではない.
従業員たちの精神も,それを毎日みているご近所さんたちの精神も,そして,その活動をしっているお客様の精神もキレイにする.
だから、この会社で売っている商品は,いっさい値引きなしで売れている.
しかも,わざわざ遠くから買いに来るひとがたえない.
この会社で買えば,何年も安心してつかえるから,買った側が「値引きはなくても最後は得」だとおもうのだ.それは,手放すときの「査定額」のちがいにあらわれる.

この会社が売っているのは,わが国の巨大自動車メーカーの乗用車である.
つまり,この会社は「カー・ディーラー」だ.
同型車が何万台も製造されて,国内だけでなく世界に輸出されるものを売っている.
この会社のお客様が買っているのは,自動車なのだが自動車そのものの価値とはちがうものを追加して買っている.これが「付加価値」である.
自動車はメーカーが製造しているが,この会社は「安心」を製造している.

だから,この会社は周辺に歩きにくい「雪」を残さない.

日本はEUに加盟できない

2015年にドイツのメルケル首相が来日したおり,安倍首相に日本のNATO(北大西洋条約機構)加盟を提案したというニュースがあった.もちろん,日本として現状ではこの提案をお断りしたということなのだが,「北大西洋」という地域にはこだわっていないことは確かだろう.それは,西ドイツが加盟した1955年より前の1952年に,地中海の国であるギリシャとトルコが加盟していることからもわかる.もちろん,ドイツも北大西洋に接していない.

ところで,現在のEUのはじまりは1957年に発足したEECであった.
この組織の加盟要件には,「欧州」と地域要件が明記されているから,日本は加盟できないのだが,仮に地域要件をはずしても,日本は加盟できない.
その理由は,政府債務比率要件である.これを,「経済収斂基準」とよぶ.
財政赤字GDP比3%以下、債務残高GDP比60%以下,でなければならないのだ.

日本の数字の実態は,各自お調べいただき,また,じっさいにどうやって政府財政を立て直すかの議論も横において,単純な事実として,日本はEUに加盟できないことだけはしっておこう.蛇足だが,同時代においてもEECの加盟経済要件を日本は満たしたことはないから,今日までもふくめて日本はEECからECそしてEUとなっても一度も加盟条件を満たしたことはない.

あれ?
世界の経済大国ではなかったか?

いまでも,中国の国家統計数値がただしければ,世界第三位のGDPをほこる国なのだが,中国の国家統計というものの評価しだいでは,もしかしたら日本は世界第二位をキープしているかもしれない.
しかし,残念ながら,日本もかなりの張りぼて国家であるということだ.
これは,間違いなく,「政府依存」が原因だろう.

やっと貿易黒字をだしている

かつての「貿易黒字大国」はとっくに過去のはなしである.
中曽根康弘総理が,NHKテレビの特別放送で,国民に「アメリカ製品を買いましょう」と呼びかけたのは,日米貿易摩擦からはっした苦肉の策だった.
石油や鉄鉱石のほとんどを外国から輸入しているのに,製品化して輸出すると儲かってしまう.
これぞ,明治以来の悲願だった「貿易立国」の理想郷だった.
この放送をうけての国民の反応は,「買えと言われても,アメリカ製品で欲しいものがない」というのがおおかただった.

いまや,かつかつの貿易収支になって,赤字になったり黒字になったりしているのが日本のすがたである.
70歳以上の「大人」には,日本の貿易収支がかつかつであるといっても,にわかに信じられないのではないか?

安定しているのは資本収支になった

「経済の成熟化」のもうひとつの顔である.
外国に投資した見返りのお金がやってきて,トータルで黒字になっている.
ていよくいえば,利子で食っているお金持ち,なのである.

人口減少という「縮小」が避けられないから,ほんとうは国内投資ではなくて,外国投資が望ましい時代になっている.
だから,資本収支の黒字をいかに増やすか?というのは,方向として正しい.

超高級ホテルが存在しない国

国民の数は縮むのだが,訪日外国人の数はふえている.
しかし,外国からの直接投資がほとんどない状態だから,訪日客のたいはんはビジネス客ではない.
英国人のデービッド・アトキンソンさんが指摘しているが,なぜか日本国政府は「人数」にこだわった目標をたてている.これに「単価」も目標にくわえれば,数量×単価=売上,という公式になるが,不思議と「人数」が前面に出ている.

どうやら,低単価なのを人数でかせごう,というかんがえのようだ.
首相を頂点とする日本政府の最重点課題は,「生産性向上」というのが,いかにあやしいものかがわかる.
おなじ人数なら,高単価のほうが生産性は高くなる.
こういう算数ができないのが,平等主義に凝り固まった役人の限界である.その役人がひきいる政府に民間が依存しているから,生産性向上をかんがえるのも政府の仕事になった.もはや「高級官僚」という八百万神を拝むしかない宗教国家に堕落した.
観光政策の政府委員として,アトキンソンさんの活躍に期待したい.

知らないうちに「スタンダード」になるのを,「デファクトスタンダード」というようになった.
パソコンのOSが,ウィンドウズで世界統一されたのが典型例である.
いま,世界の宿泊施設で,デファクトスタンダードとなっているのは,一泊$40,000以上の宿を「超高級」というカテゴリー分けしていることだろう.

わがくにに,「超高級ホテル」は一軒もない,という事実は知っておいてよい.
わたしの古巣の帝国ホテルでも,最高級の客室は$10,000ほどだから,世界標準の1/4でしかない.
ちなみに,世界一の超高級ホテルは,スイスにあって,一泊$100,000である.
生産性は,単純比較で10倍のちがいになるから,日本のサービス業の生産性が低いのは,こんなところから議論すべきだろう.

加入できないなら行けばいい

世界水準のお金持ちが,日本にほとんどいない,ということが,日本に超高級ホテルがない理由でもあるのだが,これは世界水準のお金持ちが日本にきても泊まるところがない,ということでもある.だから、こない.

ならば,ちょうどよさそうな国に行けばいい.
わたしのお勧めは,欧州でもいまだに未開の旧東欧圏である.
忘れてはならないのは,これらの国はみなEU加盟国であるから,政府債務に関しては,あきらかにわが国よりも先進国である.
「おもてなし」の輸出である.