奈良を観光する困難 その2

前回の続き。

「壬申の乱 奈良エリアマップ」のような、「観光コース」を紹介したのは画期であろう。
けれども、順番通りに巡ると行ったり来たりするために、観光の移動効率をかんがえると、どうしても公共交通機関では面倒になる。
それがまた、自家用車の「必要」となって、狭い道が渋滞する。

レンタカー人気もおなじ理由だ。

路が狭いのは、徒歩や馬での移動をもってよしとした歴史背景が、今度はムリに拡幅しなかったことでこうなった。
逆に、開港150年という、ついこないだに埋めたてられた新地にすぎない横浜を想えば、関東大震災や空襲で焼けたチャンスを活かせずに、また都市計画も間に合わなくて勝手に家が建って、街が膨張したことになったことからすれば、まだ、「計画的」なのである。

とはいえ、現代的にいわざるをえないのは、観光事業者がこの難問を解決する唯一の存在だということだ。
しかし、そんな「存在理由」を、どこまでまじめに意識しているのか?が不明の業界のままなのだ。

それに、「奈良・京都」というけれど、現代奈良の観光中心地は、ぜんぜん「都」があった場所ではない。
ときの国家が建てた、総国分寺としての東大寺に、興福寺、春日大社という藤原氏の寺と神社がつくった、「巨大な寺町」なのだ。
この寺勢力を、徳川幕府も無視できずに、「奉行所」を置いた。
これがいまの、奈良女子大学になっている。

正式には、「南都奉行所」で、奉行職は幕府「遠国(おんごく)奉行」の系統にあって、首座は「長崎奉行」だった。
幕府直轄領(御料:幕領:天領)のうち重要な場所に置かれ、その土地の政務(行政・司法:裁判・寺社の管理)をとりあつかった。
それで、「旧奈良監獄」も近くにある。

ここは、明治4年に奉行所内に「奈良監獄」ができて、1909年に完工していまの場所に移転した。
戦後の1946年に、「奈良少年刑務所」となって、2017年に廃庁した。
2017年に「重要文化財」に指定されたけど、例によって、日本建築学会も「要望書」をだしている。

同時に、法務省は「運営権売却」先として、外資系ソラーレホテルアンドリゾーツ(米国再生ファンド「ローンスター」配下)が組んだコンソーシアムに決まって、ホテルになることが決まった。
ソラーレが撤退して、星野リゾートがこのコンソーシアムに参加している。
高級ホテルとしての開業は、いまのところ2025年の見込みだ。

奈良にはこれといった高級宿泊施設が、奈良ホテル以外に「ない」ことから、富裕層が泊まらないにはじまって、富裕層が来ないになった。
その富裕層のおおくは京都に泊まるのが、「定番」だというけれど、世界レベルの超富裕層は、そもそも日本に来ないという大問題がある。
行政が介入して、「民主主義」をいうから、それが、「共産主義」に転換されて、なんでも「平等」を旨とした「格安」が嗜好されるからである。

そんなわけで、「奈良」という僧侶と商人の街が、廃都平城京の奈良でもあって、もう公家もいなかった。

近鉄奈良駅ロータリーの、「小西さくら通り」商店街を抜けると、三井住友銀行奈良支店のある「三条通」にでる。
これを横切って直進すると左手すぐに、「勇人神社」の小さな祠があって、ここに、この路がかつての「街道」で両脇に、「豪商」が建ち並んでいたとの案内板がある。

この情報を意識しながら歩くと、いまはむかしを彷彿とさせるのは、「駐車場」としてみえてくる。
中でも、「奈良市立第一小学校」だった、いまの「椿井(つばい)小学校」は、1876年(明治9年)に、椿井町の酒造「菊屋長左衛門」の屋敷跡とあるから、その繁栄ぶりがみえてくる。

すると、なぜに商家がかくも没落したのか?という疑問の方が、いまの全国における地方の衰退にも結びつく疑問になる。

一方で、ならば奈良中心部の繁栄を支えているのは、いまだ「寺社」という結論になる。
その象徴が、東大寺・興福寺・春日大社といいたいところだが、じつは「元興寺」なのである。
いまや町歩きで人気の、「奈良町」は、そのほぼ全域がこの寺院の敷地だった。
それがわかる大地図が、無料開放されている「ならまち格子の家」にある。

その奈良町界隈を歩いてみれば、数多くの廃屋があって、どこか異様な雰囲気もあるけれど、これを再建して「カフェ」にするなら、それはそれで、「活性化」というのだろう。

しかして、奈良公園を中心にした「エリア」の駐車場は、驚くほどの料金である。
平日と週末・祝日の料金差は3倍。
管理人がいて料金表示看板を人手で出しているところでは、自動車のナンバーをみて料金看板を差し替える、あからさまもあるという。

梅棹先生が指摘した、観光事業者(この場合は、観光客を相手にする駐車場経営者)による、「掠奪」は、中世の経済体制、「前資本」そのものだともいえるのである。

これが、寺社に依存して「ぶら下がっている」ことの意味である。

有名観光地なら、全国どこにでもあることで、青森の「ねぶた祭」における、ホテルが設定した駐車料金の高額が話題になったこともあった。

すると、衰退と駐車場料金には、なんらかの相関関係があるかもしれない。

たんなる、需要と供給の原則ではない。
狭隘な路がおおい歴史地区の生活者のための駐車場経営と、観光客のための駐車場経営は、なんだかなぁのちがいがあるのだった。

奈良を観光する困難

中学・高校時代の修学旅行以来、奈良市の中心街を観光するのは「うん十年ぶり」だし、ましてや自家用車でやってきたのは初めてになる。
ここで体験してみえてきたのは、奈良観光の難易度の高さ、なのである。

まず、たまたま日程が週末にかかったことで、奈良公園周辺の渋滞を指摘しないといけないし、宿の駐車場問題が深刻なのだ。
これは、地方にあって当たり前の、乗用車がないと生活できないことと重なって、圧倒的な市街地への流入に対して、これをプールする場所すなわち、面積がないことが原因だ。

古都として、都市設計にはなから駐車場が用意されないのは当然だ。
それで一時、中心部にクルマを入れない策が採られたというけれど、見事に失敗していまに至っているという。
生活空間と観光地が混じっているので、この失敗は想像に難くない。

さらに、「奈良」の場合、都が「京都:平安京(ヘブライ語で「エル・サレム(シャローム)」)に遷都されて以来、ずっと「旧都」だったばかりか、斑鳩宮とか藤原京とかの「飛鳥時代」があって、その前は「古墳時代」がある。
こんもりした山は、みな古墳に見えるが、それがまた「当たり」なのだ。

なので、平城京に至るまでだけでも、ややこしいのである。

そのややこしさを整理しながら観光しないと、なにを観ているのか?がわからなくなる。
つまり、あまりにも分散して点在しながら、時代区分もとぶのである。
これが、京都の一貫性とぜんぜんちがう点だ。

だから、「奈良ファン」にとって、訪れるたびに発見がある、というのは大袈裟ではない。
しかしながら、このことは奈良観光の難易度そのものを言い当てているともいえる。

そして、こうしたややこしさを整理した観光案内が滅多にないのである。

明日香村の飛鳥にある、奈良県立万葉文化館(元は「国立」だった)は、地下の展示は無料で見学できる。
ここに、「壬申の乱 奈良エリア」と称する、マップが展示されていた。

大海人皇子が吉野宮を脱出するところを「1」として、奈良印傳のある菟田が「2」とはじまって、「8」まで続く。

本稿は続く。

超絶技巧の奈良印傳

革製品のなかでも、バッグや財布などの小物類をつくる伝統的技法に、「印傳」がある。
前に、「甲州印伝」について書いたが、この度は、奈良県の一家にだけ残る、「奈良印傳」(宇陀市、菟田野:うだし、うたの)の工房兼直売所を訪ねたので書いておく。

世界的に有名な歴史学者のひとり、アーノルド・ジョゼフ・トインビー教授(1989年~1975年)は、世界史における「日本文明」の独自性について語ったことでも有名になった。
敗戦によるショックから、それでも立ち直れないのは、民族的レベルで発生した、急性アノミーだと分析したのは、小室直樹著『危機の構造』(1976年)であった。

いい悪いということではなくて、およそ「文化の発展」には、「パトロン」の存在が不可欠なのである。
パトロンになりえるのは、かつて、王侯貴族やらの支配階級のひとたちが、その特権なり階級のシンボルとして欲し、自らスポンサーとなって、優れた職人を育てたのである。
これは、一種の投資でもあった。

よって、ただ高価だ、ということではなくて、階級的に所持すら許されない、というものもあった。
これがまた、その階級の間で認知され、シンボル化すればなおさらに、それ以外の階級との「区別」のためのサインになった。

日本人がしる最も有名なアイテムが、水戸黄門の「葵のご紋」が入った、印籠なのである。

あの小さな、薬入れの小物にどんなシンボル性があるのか?を問えば、徳川将軍家という最高権力者のマークがあるシンボルだ。
ゆえに、このアイテムを所持している人物とは、自動的に最高権力者に近しい、という判断になって、触らぬ神に祟りなしとしての従順の意思を示すために、一同が土下座する。

いわば、生殺与奪の権限を自ら放棄し、権力者におもねることがもっとも身の安全になるという期待の表れなのだった。

そんな存在が、印傳にもいえた。
貴重な鹿革を材料とする印傳は、武士階級のシンボルなので、それ以外が所持することは許されなかったのである。

しかして、この技術のはじまりは、飛鳥時代だという。
その後の天平文化を伝える、奈良の正倉院には、聖武天皇が騎乗の鞍に敷かれたいわばカバーが、印傳なのである。
しかもその、模様を描いた超絶技巧は、およそ煙でいぶして模様をデザインしたとは思えない複雑な図柄を描いている。

織田信長に謁見したことでしられる、宣教師のルイス・フロイスは、この煙でいぶして鹿革に模様を描く技巧に驚嘆したと、ローマに報告している。
ヨーロッパ人なら、染料で染めることしか発想しないだろうけど、それでは天皇の着衣が汗などで蒸れて色移りが心配される。
いぶしたのなら、その心配はないという。

印傳の分野でただひとりの、現代の名工は、この模様を出す方法を再現するのに、20年の研究を要し、いまだ解明されていない技法もあるという。
これは、京都の「清水三年坂美術館」に収蔵される、明治の超絶技巧という工芸品とおなじ状況なのである。

どうやって製作したのか?わからない。
まったくもって、オーパーツのようなものも残されていれば、気が遠くなるほどに細い糸の痕跡が、まるで江戸小紋の「点」に対して「直線」だけで描いたものなどは、技巧もさることながらその異常ともいえる作り手の集中力に、一種の狂気さえも感じる。

台湾の故宮博物院には、象牙で作られたバスケットや、おなじく何重にも彫り込んだ「球体」の彫刻があるけれど、推定で親子三代ともいう気の遠くなる時間を、ひとつの作品の製作にかけることができたのと違って、この「線」による印傳は、材料の糸が木綿の細い糸であると考えられるから、湿度と気温によって収縮してしまう。

だから、信じられないほどのスピードで革に糸がけをするのは、その面積分をどうやったのか?も、作り手からしたら「異常」なのだと断言するのである。

また、染め抜き技法の印傳から、京友禅に発展したともいう。
どうやって鹿革に、いっさい滲むことがなくピシャリと染めることができるのか?

わたしには、わからなかったが、現代の名工はニヤリと笑った。

正倉院といえば、あたかもシルク・ロードの終着地として、輸入品がおおく保存されているというイメージがあるけれど、じつは9割以上が、「国産」の宝物なのである。

この中で、印傳は、世界唯一無二という技法をようしている。

いったい、当時の日本人は、どんな想いで制作していたのか?
その技法を、どのようにして開発し、後継者に習得させていたのか?
詳しいことは、わかっていない。

まことに、謎めいている。

しかし、武具の部品として、武将たちが好んで印傳を身につけたのは、たとえ首と胴体が切り離されたとしても、その様に無様はいやだという美学を見出してなお、邪気払いの意味もあって、燻す煙に香を混ぜたという。
そうやって、いまを生きた印としたのである。

なんだか、宇宙の果てにある壁に、全生涯の情報が書き込まれている量子力学の話と通じるのである。

武士の都は、幕府が置かれた江戸だったので、印傳人気は関東以北にあるという。
商人文化の大阪は、財力があっても、所持を許されなかったからだ。
すると、「苗字・帯刀」のなかに、印傳も含まれるのは武具に用いたことによる。

京都でもなく、奈良にこの技術が残ったのは、奇跡ではなくて、「工人のネットワーク」があったためだとおもった。
鹿を仕留めて、革をなめすことからはじまって、分業制になっているのだ。
これをまた、武士社会が必要から求めたのだろう。

そんなわけで、日本人がかんがえたデザインの現代性は、とても天平時代からの伝統的デザインとはおもえない。
これに、ヨーロッパ人が気がついて、奈良まではるばる見学に訪れるという。

知らぬは日本人ばかりなり、になっている。
ヨーロッパのブランド品の価値が、かすむのである。

おそるべし、日本文明。

四日市の焼き鳥

伊勢・志摩が目的地になると、どうしても通過することになるのが四日市だ。
また、時間に余裕ができたので、自動車での長距離移動にも、なるべく高速道路をつかわないようにしている。
これは、高速代が高いことも理由にあるが、街の息吹をせめて一般国道からでも眺めたいことに大きな理由がある。

もちろん、決して事前期待はしない、「道の駅」にも極力立ち寄るのは、買い物がしたいのではなくて、どんな「名産」があるかを確認したいからである。
なので、よい意味で期待が裏切られると、やっぱり立ち寄ってよかった、とおもうし、期待通りたいしたことがないばかりかその寂れた様子をみるにつけ、地元の役所が全面にからんだ、旧ソ連のショップを思い出して、納得するのである。

そんな意味で、道の駅の成功と失敗は、行政の関与度合いと反比例する。

正月休みを2月中に消化しないといけない家内が、定年を間近にしてはじめて、この時期にまとまった休みがとれたので、なるべく雪の心配がない沿岸地方を回ろうと、四日市にやってきた。

途中、岡崎市の、「道の駅藤川宿」に立ち寄った。

岡崎といえば、徳川家康の祖父、松平清康がここに築城した経緯がある。
「家康」という名前は、竹千代にはじまって何度も変えていて、「康」の字があるのは、偉大な祖父の子孫を暗黙に主張しているのである。
また、松平姓を徳川にしたのも、朝廷からの「国主任命」にあたっての有職故実から、源氏の松平ではない、藤原氏の「得川」にするべく、「得」を「徳」に変えている。

家紋の「葵」も、本多氏(こちらは「立葵」のデザイン)が先につかっているので、後付けで「三つ葉葵」とした徳川将軍家としては、葵をつかうデザインは、徳川四天王のひとりだった、本多氏にだけ許していることになっている。

御三家筆頭なのに、とうとう将軍を出さなかった悲劇の尾張徳川家は、筆頭家老が本多忠勝で、忠勝自身も桑名藩主(10万石)であった。
なので、親藩だった四日市(八田藩)も、本多家との因縁は深い。
こちらは、紀州徳川家に縁のある人物が、吉宗によって藩主に取り立てられたからだ。

藤川宿の道の駅では、「和蝋燭」が名産だとして販売されていた。

こうした物品は、民間の店舗なら、ふつう「仏具」の要素をからめて、関連グッズを販売するものだけど、「地元だけ」しかみないので、「和蝋燭」しか売っていない。
線香もなにもないのは、それなりの「潔さ」ともいえるけど、こじゃれた「蝋燭立て」もない。

こうした物品を購入するのは、「道の駅」だから、基本的には観光客である。
ならば、「土産物」ということになるのに、包装のための紙袋はなく、一枚2円の「オリジナル」レジ袋しかないという割り切りに、SDGsに脳を冒された役人のセンスが、テンションを精算時に台無しにするのだった。

むき出しの商品に、購入証明のテープを貼りつけるのは、気持の籠もったプレゼントにならない無粋がある。

そんなことだから、「岡崎城」を見学する気もうせた。
街のシンボルが「城」というのは、150年前に開港しただけの寒村だった横浜からしたら、うらやましいかぎりだけれど、鉄筋コンクリート造りの「城」を城として崇める気にはならない。

秀吉の最初の居城、「長浜城」のちんけと、おなじなのである。

気を取り直して、国道をひたすら走って、四日市についたのは暗くなってからだった。
近鉄四日市駅の周辺は、人口が少ない分、横浜の街より上品で、繁華街もそれなりだった。

工場がそびえるのは、川崎に似ている。

ただ、四日市のひとたち、あるいは名古屋経済圏というべきか?
おそらく、可処分所得のレベルが横浜より高いと感じた。
また、若いひとたちが多い印象も、横浜とはちがう。
しかしながら、中国人女性の客引きの存在は共通している。

初めての土地なので、見当をつけるためいろいろと飲み屋を物色しながら歩いたはての感想である。

それでもって、小さめな焼き鳥屋がよさげなので入店した。
注文した料理がぜんぶ美味かった。

鶏の質がちがう。

残念ながら、いまの横浜には、ちゃんとした飲食店が絶滅の危機にあって、「昔ながら」を探すのがたいへんだ。
気がつけば最後の客になっていた帰りがけ、店主と話す機会を得た。

鶏がちがうようだけど、といったら、こちらには「名産の鶏があります」とのこと。
名古屋コーチンがあるから、名古屋というか愛知県(「愛知地鶏」がある)が鶏の名産地だから、そのつながりがあるのだろう。
ノーリサーチのままとしては、ヒットした。

次回、いつ訪問するかはわからないけど、四日市は焼き鳥だ、と、まるで目黒のさんまのごとく擦り込まれた。

まぁ、何事も最初が肝心なのである。

食育と昆虫食で虐待する

なんでも「無料」にしたがって、それがなんだか「善政」のように宣伝するのは、『共産党宣言』にあるセオリーだと前に書いた。

わが国の政党は、『共産党宣言』の定義にしたがえば、ほぼ「全党」が、名前を変えても「共産党」なのである。
これがまた、自民党、公明党も当てはまるから、手に負えなくなって、日本国民の選択肢はなくなった。

あの「ワクチン」という、よくわからない「注射薬」は、もともと「人口減少を目的としたもの」だと、噂されていたけれど、だんだんとその「効果」が実証されてきて、まだ少数といえども、「禁止措置」をとる、国やアメリカの州があらわれだしたのは、エビデンスに基づいた判断となっている。

わが国における過去の、「薬害」や「公害」は、おおよそ「発症」から3年ほどが経過すると、社会的認知がはじまっていた。
これら過去の例での社会もすでに、「情報化社会」ともいわれていたけれど、それはだいたい、ラジオとテレビの時代であった。

インターネットの時代になったのに、やっぱり3年ほどを要する「鈍感さ」があるのは何故なのか?
しっかり社会学やら、社会心理学の専門家に分析してもらいたいものだ。

敗戦後の食糧事情は厳しく、食うや食わず、だったことはよくしられていることのはずだけど、まともな近代史を教えない、という政策が功を奏して、あんがいと「現代っ子」たちは、自分の祖父母が生きのびてきた食の苦労をしらないし、祖父母もこれを積極的に語らなくなって久しい。

数年前、白昼の電車の中で男子高校生たちが、日本がアメリカと戦争をしたといった友人の一言に、「なにそれ?それでどっちが勝ったの?」と真顔で質問していたのを目の当たりにしたことがある。
アメリカが勝って日本が負けた、という答えに、「ええっー!マジ?アメリカと戦ったんだ?かっちょえー!」に、どうしようもない「教育の失敗」をみた。

しかし、わたしの時代には、「欠食児童」がふつうにいたし、「青鼻」を垂らしてセーターがテカテカになっていた同級生もいた。
なので、小学校では「給食の時間」が、毎日の楽しみだったことになっていたのである。

残念ながら、わたしは給食が大嫌いで、小学校の卒業文集でも、毎日の給食の辛い時間について書き残している。
なかでも、「脱脂粉乳」には格別の「不味さ」という思い出があって、おとなになってあれが、アメリカでは「ブタのエサ」だったことをしって、「さもありなん」とおもったものだ。

けれども不思議と、おとなたちからブタのエサを食べさせられていたこと自体には深い恨みはない。
子供とは、そんな動物なのである。

だから、「フクシマ」での事故で、さまざまな情報隠蔽(たとえば、各地の放射線量データの不開示とか)が、政府によって平然と行われたことの恨みとか、それによる、「風評被害」とか、あるいは、風評被害からの脱却のためにした、「地産地消」とかで、地元産を食べさせられたフクシマとかの子供たちにも、それがどんなおとなの事情からのことかを知る由もなかっただろう。

世界経済フォーラムが推奨をはじめたから、まず「危険では?」と疑って差し支えのないことのひとつが、「昆虫食」だ。

今年の1月にあった、スイス・ダボスでの定例会議も、世界から数千人の参加者たちが、地球温暖化阻止を標榜しながら、プライベート・ジェットでやってきて、会議中はそれぞれの専用自動車にエンジンをかけたまま待機させることをやって批判されても意に返さない。

この「エリート意識=特権階級の自覚」は、現代の「貴族たち」を自己演出してはばからない傲慢さにあふれている。
だから、一般人には栄養があるから昆虫を食べろといって、自分たちはビーフ・ステーキを食べるといってもぜんぜん恥じない。

それで、このひとたちから広告費をたっぷり得る既存マスコミは、こぞって「昆虫食キャンペーン」を張り込んで、情弱な一般人を騙す、いつもの手をつかうのである。
いつものように騙された感覚すらない情弱な一般人は、それが「トレンド」だというバカな流行に自分だけがよるならまだしも、子供への給食にすることも「栄養価が高い」などといって歓んだりする。

パンデミック前の、いまからしたら少しは「まとも」だった日本政府は、内閣府にある、食品安全委員会がそのホームページで、「昆虫食の安全性への問題」(2018年時点で)を指摘している。

しかし、邪悪な世界経済フォーラムのお膝元であるヨーロッパは、すっかりカネでやられているから、おなじ「昆虫食の安全性」について、「問題なし」(2022年5月時点)という「論」をもって最新としている。

いまやアジアを代表する、「先進国」になったシンガポールの「昆虫食の安全性」は、あくまでも「慎重」(2022年10月時点)なのが初々しいのである。
ヨーロッパの「安全」見解にも、自動的に首を縦に振ることはない。

もうアジアを代表する先進国でもない、むしろ途上国へと突き進んでいるわが国は、少しはシンガポール人の根性を持ったらどうかとおもうほどなのだ。

なお、日本人はイナゴは食うがコオロギは食さなかった。
「毒」があると、むかしからしられていたからである。

アジアの先進国だった、むかしの日本人の的確さを、すっかり退化した現代日本人は、すでに学校給食でコオロギ由来の昆虫食を採用しているのである。

なぜにコオロギが食用となれるのか?

それは、見事な「化学的食品添加物」との「混合食品」としたからである。

IWC脱退の快挙とWHO

2019年(令和元年)に、わが国は「IWC:国際捕鯨委員会:International Whaling Commission」を脱退した。

安倍政権の数少ない、「画期」だといえるし、やればできるのである。

それから3年もしないで、IWCは財政危機に陥ったのは、「日本イジメ」をするくせに、活動費は、「日本依存」をしていたからである。

しかし、よく注意しないといけないのは、1946年に、「国際捕鯨取締条約」ができて、わが国は、1951年(昭和26年)に条約加盟していることだ。

わが国が「主権回復」したのは、 1952年(昭和27年)4月28日であるから、この条約に加盟したのはわが国の意思に見せかけた、GHQの命令のはずだからである。

生前、安倍氏が、「主権回復の日」を国民の祝日にしようとしていたことは、十分に重要なことで、たまたまゴールデンウィークの休日が増えて嬉しい、というレベルの話ではない。
「3度目の首相」があったらば、きっと実行していたにちがいないので、「後継者の資格」としてのリトマス試験紙になるはずの政治課題なのである。

つまり、2000年以上前の神武天皇即位とする、「建国記念の日」が、左右両方からなにかと注目されてきたのは、一種の欺瞞工作で、近代史上最大の「日にち」である、4月28日に国民を意識させないための芝居だったのではないかと疑うのである。

そもそも、ペリーが黒船を率いてやって来た理由のなかに、「アメリカ捕鯨船への補給」があったし、これら船舶の遭難した船員の保護と身柄返還があったのは事実だ。
もちろん、最大の戦略課題は、「太平洋ハイウェイ構想」ではあったけど。

しかしながら、アメリカ人が「捕鯨」をした理由は、「鯨肉」が欲しかったのではなくて、「鯨油」が欲しかったのである。
丸ごと捨てる部位がない、わが国の事情とぜんぜんちがう。

なので、「石油精製」の鉱業化学が開発されると、とたんに「捕鯨」をやめたのがアメリカだった。
しかもはなからある、「反捕鯨」の本音とは、「敵国日本への報復」だったから、カネも理不尽な要求も、欧州、米州、豪州の白人国家には「当然」なのである。

そんなわけで、IWCからの「脱退」とは、安倍氏が主張した、「戦後レジームからの脱却」の、唯一の公約実行でもあったと評価できるものだ。

なので、欧米的政治環境なら、ぜったいに別の政党になる、「宏池会」は、安倍派「清和会」とはまったく裏腹の、戦後レジームの継続がその趣旨にあるために、IWCからの脱退で「打ち止め状態」になるともいわれる。

ところが、宏池会の大本は、吉田茂だし、清和会の大本は、岸信介だ。
どちらも、GHQのポチだという共通がある。

ただ、宏池会を旗揚げしたのは、偉大なる宰相、池田勇人であった。

後継者の、大平正芳が首相在任中に死去して、女房役の伊東正義が会津の出にこだわって後を襲わなかった「正義」感があったものを、伊東の代で途切れて空虚な大蔵官僚の宮澤喜一に引き継がれた悲惨がいまに継続(岸田派)している。

吉田が阿片商人、ジャーディン・マセソン商会日本人支配人の「子」として成長したのに対して、岸は、長州閥からの伝統を引きながら、「革新官僚のエース」にして。A級戦犯だったのを、処刑前日にCIAエージェントになる契約で釈放された人物だ。

ゆえに、岸信介⇒佐藤栄作⇒安倍晋太郎とつづいて、戦後レジームそのものの「CIAのコントロール」下にあるはずの安倍晋三が、戦後レジームからの脱却をやり始めたのだから、彼と、実弟の岸信夫の存在は、あちらサイドから都合が悪いことになったのはわかりやすい。

また、「革新官僚」とは、社会主義手法をもって「効率的国家運営」を目指し。「戦時経済=国家総動員体制」を作り上げたひとたちを指すから、吉田と岸は、水と油ほどにちがう。

しかして、近衛文麿から岸やらがつくった「国家総動員体制」が、バブルの崩壊からずっといまも、ダラダラと壊れながらもつづいているのである。

完全分解しない、この体制構造の強靱さよ!

そんななか、WHOが、2024年を目途に決定するという、「パンデミック条約の草案」を発表した。

この「計画」には、あんがいと紆余曲折があって、アフリカ諸国を中心に強固な「反対」があった。
どうしてアフリカ諸国なのか?といえば、「エイズ・ワクチン」という不可思議な薬剤が、WHOによって、乳幼児にまで打たれての被害があったからである。

日本では、邪悪な「国際機関」が、アフリカでワクチン接種の援助になると、ペットボトルのキャップを集めるキャンペーンという、ほとんど詐欺を小学校でもやっていた。
まことに、善意を逆手にとった、悪意しかない。

はたして、「AIDS」とは、ウィルスを原因とする病気なのか?が、よくわかっていないのである。
しかし、「エイズ・ワクチン」は、巨利を製薬会社にもたらした。

この二匹目の泥鰌が、「パンデミック条約」での、「各国政府の主権剥奪」なのである。

いまや、WHOは、拠出金のスポンサーが、加盟各国政府ではなくて、ビル・ゲイツ財団やらの民間団体や中国に依存している。

これを、「公的国際機関」と定義してよいものか?

次の国政選挙の争点は、「WHO脱退」でないと、「憲法第13条」が踏みにじられることになる。
これをおそらく、「護憲派」が推進しようと算段するはずだから、息をするように嘘をつくがごときの邪悪なのである。

とうとう、国民には、自分の命や健康がかかった選挙になるのに、たぶん国民にはしらせない努力をするばかりか、「安心・安全」キャンペーンを大々的にやるのだろう。

港町「横浜遊郭」というカジノ

18日、横浜税関で「長谷川總哲コレクション 税関百五十周年記念錦絵展 特別講演会」があったので出かけてきた。
ちなみに、コレクション所有者で講演者の、長谷川總哲先生は、わたしの恩師である。

60年も横浜に住んでいて、「横浜税関」の館内に入るのも初めてであった。
建物は、今様の「保存建築」で、見た目は旧来の建築を保存しているが、内実は近代(高層)建築になっているという、例のやつである。

東京駅丸の内口は、大がかりな再現がされたのはよかったけれど、たとえば、おなじ丸の内にある、「日本工業倶楽部会館」とか、その先お堀に面した、「東京銀行協会ビルヂング」とか、とにかく古いビルを保存するといって、なんだかなぁ、の無様を「保存」と呼んでいる。

そのまた、恥ずかしい典型が、「歌舞伎座」で、ナショナル・シアターに匹敵する建物が、あんなことになったのは、建築基準法やら税法、はては都市計画やらに、「保存」という概念がないからだ。
これはもう、役人のセンスの問題ではなくて、国会や地方議会が寝ていることに起因する。

街並みごと「復元する」技術は、ポーランドが世界一ではないのかと思うのは、古都クラクフ以外、ほぼ全国の都市が完全破壊されたのを、ありえな正確さで復元した実績をみればわかる。
ワルシャワのそれは、門扉の「錆び」までも復元しているのである。

そんなわけで、税関の旧館3階には、かつてマッカーサーも執務したという、「税関長室」や「大会議室」がそのまま保存されていて、見学できた。
「占領軍」というけれど、「征服者」がいた部屋を有り難がる気分はよくわからないけれど、角部屋の意味は、港を一望できるメリットがあるのはよくわかった。

横浜には、いわゆる「三塔」と呼ばれる「塔」があって、トランプの絵札に模して、キングが神奈川県庁、クイーンが横浜税関、ジャックが横浜市開港記念会館(現在「保存改修工事」中)がある。

そのクイーンの塔の撮影スポットだと三階の窓に案内があった。

浮世絵の技法をもって、写真に相当させたのが、「錦絵」である。
なので、風景だけでなく、珍しい外国人の仕草の一瞬を捉えるようなものもあるのは、「販売戦略」でもあった。

ときに、「横浜」というのは、ほとんどが陸地がない場所で、いま「市中心部」という場所はほとんどが埋め立て地である。
なので、その埋め立ての変遷をしっていないと、どこの絵なのかがわからない。

たとえば、歌川広重の有名な、『東海道五十三次』における、「神奈川宿」は、断崖の急な坂道に家並みが描かれているけど、この崖の下に広がる海は、いまの横浜駅のあたりになる。
開港場と新橋を結んだ鉄道は、『千と千尋の神隠し』にあった、水上鉄道のようなありさまで、海の中を蒸気機関車が走っていたのだ。

じっさいに、幕府とアメリカが結んだ、『日米和親条約』(1854年)からはじまる、わが国の「開国」で、1858年に結んだ『日米修好通商条約』によって「神奈川」の開港が決定した。
この「神奈川」が、いつの間にかに「横浜(村)」になったので、相手国からクレームがはいったのである。

この港は、「神奈川じゃない」と。
ちなみに、いま京浜急行の、「神奈川駅」から青木橋の跨線橋を渡って山側にある、「本覚寺」が最初のアメリカ領事館だった。

JRと京浜急行が走る跨線橋の下は、切り取られた地でアメリカ領事館からは、さぞや港が遠くに見えたことだろう。
それで幕府は、神奈川奉行所を移転させて、「神奈川」には「横浜も含む」ということにした。

横浜税関の位置は、開港以来1回も変わっていない。
ここから海に突き出た、赤レンガ倉庫は、もとは税関の保税倉庫だった。
要は、横浜税関こそ、「港の付け根」に位置していたのである。

それでオランダ領事から、「遊郭」の要請があった。
船乗りにとって、「陸に上がる(上陸)こと」の意味は、いろいろある。

なので、いまの「横浜スタジアム」がある、「横浜公園」を埋めたてた地域を囲って、「港崎遊郭」を建設し、外国人用と日本人用とに内部でも区画したという。
その威容を誇る錦絵が展示されていた。

これはあたかも、「カジノ」なのだ。

かつて東横線高島町駅があったあたりから、京浜急行戸部駅、それに桜木町駅の三角地帯に、火事で横浜遊郭が移転した。
元の地は、横浜公園になって、あらたに「高島遊郭」となって、最大の「岩亀楼」の名残が、「岩亀稲荷」として残っている。

ここも火災で遊郭がいまの「大通公園」にある、伊勢佐木警察署あたりに移転した。
それで、岩亀楼の遊女たちの療養所としての機能がそのまま病院になっている。
移転したのは、「永真遊廓街」で、いまはラブホテル街だ。

いちおう、「カジノ反対」を公約したひとが市長になったので、話はなくなったかのようだけど、港町である限り、ついて回る問題ともいえるのだ。

それにしても、外国政府からの「公式要請」だったことに、時代を感じざるをえない。

「ガリヴァー」の日本旅行記

誰でもしっているはずの「物語」でも、たいがいが「うろ覚え」だったり、そもそも有名すぎてはいるけれど、読んでいないのに読んだつもりになっていたり、あるいは、「絵本」や、子供向けの、「簡略本」で読んだのをもって読んだことにしているものがたくさんある。

たとえば、このブログではおなじみの、『ロビンソン・クルーソー』しかり、『ドン・キホーテ』、あるいは、『千夜一夜物語:(アラビア語は右から左に書いて)ألف ليلة و ليلة‎‎, Alf Laylah wa Laylah』も、その典型例だ。
アリフ:千、ライラ:夜、ワ:と(andの意)で、「千の夜と一夜」になる。

ちなみに、千夜一夜物語の別名、「アラビアン・ナイト」は、文字通り「アラビアの夜話」という意味だけれど、本文の設定は、ササン朝ペルシャの王様に毎夜物語する話になっている。
ペルシャの話で、アラブの話ではないのだ。
その語り部が、王妃シェヘラザードで、リムスキー=コルサコフが同名の交響組曲に仕立てている。

    

これらは、長大な物語という共通があるので、どうしても、端折って読んだことにしてしまうのである。

もちろん、長大ではない短編の物語でも、しっているつもりになることは十分に可能で、たとえば、トマス・モアのあまりにも有名な、『ユートピア』(1516年)を挙げることができる。
この物語の語り部は、「ヒスロデイ(くだらないことをしゃべる男の意)」であった。

「ユートピア」の本意は、「存在しない世界」、「どこにもない」、あるいは、「空想社会」だったのが、いつの間にかに、「理想社会」になってしまった。
この物語は、まったく悲惨な、支配者と被支配者の二分された社会を描いているから、じつは、「ディストピア」なのだ。

だから、ユートピアの逆がディストピアだとすれば、ディストピアこそが「理想社会」になるのだけれど、言葉の定義が初めから歪んでいるので、歪んだままのいい方がふつうになってしまった。
これもおそらく、『ユートピア』を読まないで、勝手に解釈したひとたちが多数だったために起きた、テキトーを起源にしているとおもわれる。

それはあたかも、ハイエクの、『隷従への道』(日経BPクラッシックス版:2016年)にある、ブルース・コールドウェル教授の序文にも、英国の著名な批評家が、「読まずにこの本を非難した記事を書いた」とあるごとくだ。

ところで、『ガリヴァー旅行記』(1726年)の主人公、ガリヴァー船長の名前である、「ガリヴァー」とは、「愚者の意」であると、岩波文庫版を翻訳した平井正穂氏が、「解説」で書いている。
だから、この「風刺作品」は、ヨーロッパ人伝統の、「道化」を用いた狂言回しとなっていて、それはもう、上述の『ユートピア』や『ドン・キホーテ』(1605年)のそれとおなじなのである。

そんなわけで、この長大な物語の「第三編」(「第四編」まである)は、「ラピュータ。バルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリップおよび日本への渡航記」となっていて、英国へ帰る最後の第11章といってもわずか5ページが、唯一現実世界である「日本」のことを書いている。

この点、『ロビンソン・クルーソー』は、阿片貿易で大儲けしたクルーソーが、黄金の国と聞いた日本を目指す旅を試みるも、台風によって阻まれて結局断念するのとちがって、ガリヴァー船長はほんとうに日本に立ち寄るのである。

しかしその前の、第9章からはじまる、ラグナグでの話が興味深い。
ここで彼は、拘禁されるが、国籍を質問されて、「オランダ」と嘘をつく。
目指す日本が、オランダ人しか相手にしないことをしっているガリヴァーは、ラグナグにおいても、自分の国籍情報(英国人)が日本に漏れを畏れたのである。

そして、このラグナグ国には、「不死人間」(「ストラルドプラグ」という)がいた。

物語はここで、「死のある一生」と、「死の無い生涯」の哲学に展開する。
作者のスウィフトは、英国国教会の主任司祭という高い地位にいたひとである。
しかし彼の生きた時代は、クロムウェルの清教徒革命の後(国教派の衰退)の時代でもあったし、アン女王の後のジョージ一世は、ドイツ語しか話せない君主であった。

つまるところ、「生きる」ことが面倒な時代であった。
日本では、八代将軍吉宗の時代がはじまる少し前にあたる。

そうして、ガリヴァー船長は、日本の南東部、「ザモスキの港」に到着する。
狭い海峡の先北西部に首都「エド」がある、と書いているから。房総半島の「内房」か?
そして、江戸で皇帝に謁見し、「ナンガサク(長崎」)行きを所望しながら、「踏み絵」の免除も申し出る。

さり気に、オランダ語ができたのはライデンで研究したことがあると、「経歴」を述べている。
もしやヨーロッパ最古の日本研究機関、「ライデン大学日本学科」か?とおもったが、創設は1855年だから146年もの「誤差」がある。

長崎の「出島」がオランダとの貿易専門になったのは、1639年だったから、ガリヴァーの「来港」は。70年後という計算になる。
あんがいと、その様子は、アイルランドに住んでいたスウィフトでも知りえたということなのだ。

しらないのは、日本人の方であった。

「文明レベル」という尺度

天文学が示すのは、「天文学的数字」になって、なかなかの「巨数」になる。

そんな数字を日用している天文学者たちがかんがえついたのが、「文明レベル」という尺度で、エネルギーの総量をもとに基準尺度を設けている。

最初に考案したのが、旧ソ連のニコライ・カルダシェフだったので、「カルダシェフ・スケール」という。
オリジナルは、レベル1~3までを定義したが、その後さまざまな研究者によって、レベル0~7までに拡張分類されたという。

それで、『コスモス』(朝日新聞、1980年)で、一世を風靡したカール・セーガン(1934年~1996年)が、レベル間のスケールを算出できる計算式を提案し、現代文明のレベルを評価して「技術的な思春期」と表現した。

セーガンが算出した、1973年時点の人類の文明タイプは「0.7」だった。
なお、2018年時点での計算の答は、「0.73」ほどで、73年より約0.03増えた。

 

「レベル1」にも達しない現代人類の計算だから、この数字の意味はもっと高い「文明レベル」でみて、どうなのか?ともなって議論がループしてしまう。
なので、いったん、0.73という計算結果は受け入れておく。

まず、いま現在の「レベル0文明」の定義とは、居住している惑星の天然資源を活用している状態、のことだ。
その計算式は、1秒あたりのエネルギー総量として、「10^16W以上(10の16乗ワット以上)となる。

この数値を、0.1上げるためには、エネルギー総量を10倍にしないといけない。
つまり、地震のマグニチュードとおなじで、「指数関数」になっている。

原始時代に、人間は「火」を手にいれた。
ギリシャ神話なら、「ヘファイストス」、日本神話なら、イザナミが最後に産んで死因にもなった、「ヒノカグツチ」だ。

このころは、薪を使うだけで、移動手段にも内燃機関は存在しない。
なので、かぎりなく「レベル0文明」となって、いわゆる「泰明期」といっていい。
日本なら、「縄文文明」をイメージすればいい。

上述のように、1973年から2018年までの45年間で、「0.03」増加したことからすれば、「0.1」上がって、「レベル0.8」になるのに、ざっと100年以上かかる計算になる。
すると、我々人類の文明レベルが「1」になるのに、300年ぐらいかかる。

しかしながらその時間数は、人類のうち、日本人が「絶滅」している可能性が高いのだ。

いまの「特殊出生率」は、「1.34」(2020年)になった。
「2.1」ないと、人口は維持できない。
どうして、「2.0」でなく、「0.1」を加算するのかといえば、「早世」があるからである。
乳幼児の死亡率と、若者の場合には、「事故率」があって、無視できない数字なのである。

すると、1.34/2.1は、67/105≒0.64という数字になる。
人口を維持するのに必要な数から、64%レベルでしかない。
つまり、36%分が、足りないから人口は「減少」するのである。

もっと深刻なのは、韓国で、この国は、「0.84」(2020年)と、おそるべき速度で「絶滅」に向かっている。
だが、なにも、悪い例で安心するような話ではない。

ちなみに、アフリカのマリ共和国は、ピークよりやや減ったとはいえ、「6.04」(2020年)だ。

特殊出生率の統計があるのは、1930年(昭和5年)からで、「4.72」だった。
戦後のベビーブームで、「4.54」(1947年:昭和22年)。
戦争直前の1940年(昭和15年)は、やや減って、「4.12」だ。
※いずれも参議院の調査

だいたい「4人兄弟姉妹」だったことがわかる。

すると、「文明レベル」を高めることよりも、「人口レベル」を維持することの困難さの方が問題なのだ。
ましてや、昨今の「脱炭素」とかは、文明レベルすら向上させない。

次の、「文明レベル1=惑星文明」を支えるエネルギー源とは、「核融合」なのである。
つまり、どこにも効率が悪い、「再生可能エネルギー」の存立する余地はない。
これが「持続」できる条件は、「補助金」でしかないからだ。

他人からの補助金がないと成立しないものを、持続可能というのは詐欺だ。
それがいま、社会問題になってきたのは、次の文明に移行するためのハードルなのか?

しかし、核融合が実用化されても、石油が重要な資源なのに変わりはない。
なぜなら、プラスチック(樹脂)の原材料としての、「資源」だからである。
この文明レベルだと、人類は太陽系の惑星間を自由渡航するようになる、というけど、放射線の「太陽風」をどうやって防ぐのか?という難問がある。

なお、医学や薬学の進歩で、人類の寿命が延びる、というけれど、その前に、量子もつれの光明があれば、「生命」とはなにか?が哲学的にも見直されることになる。

このレベルを卒業するのに、ざっと3000年かかるという。

けれども、おそらく、「フクシマの始末」はつかないだろう。

それでもって、ようやく「文明レベル2=恒星文明」ともなれば、太陽を「直接」エネルギー源にするようになるという。

本当だろうか?

そんなことをしたら、地球や太陽系の惑星は、「寒冷化」してしまわないのか?
なんだかやっぱり、「エネルギー保存の法則」が怪しくなるのであった。

ただし、このレベルで、10~100万年後というから、まあいいか、なのである。

「決断と実行」されたら困る

街を歩けば、いたるところに「政治ポスター」があるのは、日本的な風景の一部をつくっている。

おおくのひとは、これを、「無意識」に観ているけれども、記憶の深いところにインプット(Input:押し込まれるイメージ)されるので、これをしっている政治家や政党は、ポスター製作に余念がない。

セブンイレブンを成功させた、鈴木敏文氏は、「心理学」をよく研究したひとだった。

これが彼を、カリスマ経営者としたけれど、従業員や加盟店オーナーの心理を読むのに失敗してしまったのが、まさに晩節を穢した話になっている。

残念ながら、江戸期や戦前までの、「商魂」が、なんだか古めかしいものになってしまって、なんでもアメリカ製をありがたることになったので、マーケティングにおける高度な「心理学の応用」についても、アメリカ人のやり方をコピーすることになった。

困ったことに、経済学も、じっさいは「アメリカ経済」の研究・分析のことになって、日本経済には役立たない。
これがまた、日本における資本主義きらいという素地と反応して、アンチ資本主義が跋扈するので、アメリカ型の経済学が通用しないのである。

日本人なら義務教育でぜったいに習う、明治初期の失敗事例、「武士の商法」は、当時だれもがしっていた、「あきんど:商人」の常識を、武士という上から目線で客に接して真逆をやって失敗したという話になっている。

これも一種の、「革命賛歌」で、時代に対応しようにも対応できない、「石頭」を嗤って、政商であろうがなんであろうが、身分の低い商人を持ち上げたのである。

仕えた幕府も藩もなくなったので、禄が得られなくなった武士には、公務員になるか帰農して農民になるか、あるいは商人になるしか選択はない。
それで、急遽、刀を算盤に持ち替えた、という話になっているけれど、『武士の家計簿』(2010年)のごとく、武士たちはとっくに刀を算盤に持ち替えていた。

 

わたしは、むしろ、武士の商法とは、「武士に二言はない」ことで、あまりにも「律儀」だったことが、禍してしまったとかんがえている。
いってみれば、詐欺師同然の一部商人たちから、食い物にされてしまったのではないのか?

なんだか、いまの「コラボ問題」のような。
もちろん、都とかの役人が騙されているというよりも、「共犯」の様相はあるけれど。

その武士たちは、名誉(たとえば、「家名」)を最大級に重んじていたから、あえてヨーロッパ文化のことばでいえば、「ノブレス・オブリージュ」という常識があった。

それがまた、「決闘」になったのである。
別に、「果たし合い」とか、不良少年用語では、「タイマン」という。

1889年(明治22年)に制定された、「決闘罪ニ関スル件」で、わが国では禁止されて現在に至っている。

つまり、この法律が改正も廃止もされていない。
法律(条文)とは、社会における最低限のルールにすぎないので、あんがいとふつうに守らないから、法律が残っている、ともいえる。

子供という動物は、この意味で「原始的」だから、子供社会の方では、決闘はふつうにあった。

そこでは、「正々堂々と勝負する」という武士道に起因するDNAが発揮されて、親の出番も否定されていた。
「子供の喧嘩に親が出る」ことは、子供社会のタブーだったのである。

大のおとながやった決闘で、有名なのは、宮本武蔵と佐々木小次郎の、「巌流島の決闘」とか、『忠臣蔵』のサブストーリーにある、「高田馬場の決闘」がすぐに思い出される。

これを、「野蛮」という一言でかたづけると、「名誉」が霞む。
そのくせ、「名誉欲」は衰えることをしらない、厄介なことになった。

それが、「理性主義」なのである。
しかしながら、その理性が、ウクライナをダシに使った「戦争」を招くのだから、いまは、歴史上でもっとも野蛮な時代に生きている。

岸田政権がこの戦争に加担するのも、この野蛮のなせる技なのである。

その岸田総裁を全面に出した、自民党のポスターには、「決断と実行」と大書してある。
わたしとしては、こんなキャッチコピーをよくも思いついたものだと、その厚顔無恥ぶりに驚くばかりなのである。

けれども、キャッチフレーズが先に決まっていて、誰だかの写真が後だったのかもしれない。
要は、党組織として、トップは誰でもおなじだという意味だ。

そんな状態だから、もはや、決断と実行されたら、国民は困るのである。

お願いだから、なにもしないで欲しい。
経済政策も、福祉政策も、政策と名がつくものは、とにかくなにもしないで欲しいのである。

日本国を、内部から、あるいは、根底から腐らせている、腐敗菌が自民党と公明党なのではなく、これらの「タネ」はとっくに溶けて、すでに周辺に「心理的」大繁殖してしているのだ。

もちろん、すでに腐った部分は、大胆に切除して廃棄しないといけない。

ならば、廃棄と消毒を同時にしないといけないのだけれども、それが国内にないから、アメリカ共和党トランプ派頼みとなっている。