味な自宅レストランの精神

オーベルジュ(Auberge:旅籠)のことである。

いまは、「旅館」とかというけれど、国による歴史の違いは、この分野でも侮れない。

日本の場合、徳川家康から整備をはじめた、「五街道」(完成順に、東海道、日光街道、奥州街道、中仙道、甲州街道)には、その前の織田信長による「関所撤廃」による物流整備の実績がある。

たとえば、後世の『水戸黄門漫遊記』のネタにもなっている、鎌倉幕府の第五代執権、北條時頼をモデルにした観阿弥・世阿弥作といわれる能の名作、『鉢木(はちのき)』では、宿がないので通りがかった家に世話になったときのエピソードとして有名だ。

この家は、とくだん料理を提供するものでもないし、ひとを泊めるのを生業にしているのでもない。
しかし、「おもてなし」の精神があった。
人を見たら強盗と思えという、ヨーロッパ人の精神とは別次元なのである。

実際、はるか昔は、ほぼ全員が農民とその関連の職にあったから、土地から移動しない。
縄文時代の遺跡からずっと、わが国では「虐殺」をやった痕跡が一カ所でもみつかっていない。

移動を要したのは、「防人」とかの軍事と、「納税」のための荷車だったし、都からの連絡と役人の着任・離任だった。
ただし、縄文人はとてつもない距離を移動して、南米大陸の遺跡でも縄文土器が発見されている。
土の成分分析から、日本製だと判明した。

それでもって、後世、豪族(暴れ者)上がりの大名などが勝手に関所をもうけて通行税を徴収したし、山の峠道には山賊がいた。
貨幣経済の発達で様相が変わったのである。

日本よりはるかに進んでいると信じられている、ヨーロッパは、もっと苛酷な旅行移動であった。
小国がひしめいていたからだ。

ヨーロッパ大陸は、あんがいと狭いのだ。

逆にいうと、島国日本の大きさが、あんがいと巨大で、緯度の違いがメルカトル図法で勘違いを生んでいる。

そんなヨーロッパのフランスで、先進国イタリア(フィレンツェの大富豪メディチ家)から王家に嫁入りしたときに、はじめて、フォークやナイフ・スプーンといったカトラリーを持ち込んだ。
それまでは、「手づかみ」であったのだ。

ちなみに、英国王家にカトラリーが伝わるのは、もっと後のことだ。
なので、シェイクスピア劇の食事のシーンにおける時代考証では、王家の皆さんも豪快に手づかみで食べている。

手づかみで食べるインド人をバカにしたひとたちだけど、ほんのすこし前までは、英国人といえども手づかみで、しかも、インド人のように左手を使わないということもなかった。

それでもって、風呂にも入らないし、トイレもないから、街中が臭かった。
ゆえに、香水に需要が生まれた。

人間の三大欲求のひとつ、「食欲」には、生理的なものと、味覚的なものがある。

生理的な食欲は、必要栄養素が不足したときに現れるし、そうでないと、身体に不調という状態が現れて、周辺が病状に気づくものだ。
現代人の栄養失調として、ミネラル不足があって、これが脳の活動を異常にしている。

老若男女を問わず、「キレる」ことの原因のひとつだ、と。
脳内物質の制御をしているのが、ミネラルだからである。
「バカッター」とかの遠因ともかんがえられる。

味覚的なものは、当然に、「美味い、不味い」となる。

「嗅覚」は当然として、「視覚」からの見た目、とか、「触覚」からの口当たりや温度という要素もあるから、あんがいと「美味い、不味い」は複雑で、調理の難しさになっている。

わが家から電車で行けるけど、ふつうの住宅街にあるオーベルジュを友人らと訪れた。
もう20年以上もやっている、というご主人は、元インターハイのテニス選手だったという。
しかし、料理が大好きで、ために、テニスを辞めたという。

いまは、自宅で昼・夜、それぞれ1組限定で食事を提供している。

そのボリュームと高品質に、久しぶりに「舌鼓を打」ってきた。
しかも、「茶の湯」の精神にあふれているから、様々なもてなしの工夫があって、とても気持いい。

子供時分からの夢だった、ひとに自分の料理を提供して、おカネを得るということの喜びは、人生の充実なのがよくわかる。
それは、起業して生業にした「出版業」にはない、直接購入者の反応が確認できることの喜びなのだという。

まるで、「日高屋」でしられる、ハイディ日高の創業者、神田正氏の言葉とそっくりだ。
様々な職業に就いたけど、納得できない理由を、中華料理店で発見した。
自分が頑張った分が、そのままおカネになることの納得感。

こんなプリミティブな感覚を持っているひとが、いまさらに羨ましい。
そして、自分にだけでなく他人にも幸せを分けたいという精神は、まったくもって茶の湯なのだ。

戦闘を生業とする、戦国大名たちが、茶の湯にはまり込んだのは、一体全体、ヨーロッパ人には理解できないだろうけど、いまの日本人にも理解が困難になっているかもしれない。

夜はエンドレス営業なので、帰れなくなった県外・市外からのお客様に、泊っていただくために民泊の許可も得たというから、オーベルジュの誕生そのものだ。

わたしたちは、県外・市外のお客にあたらないので、宿泊はできないうらみがあるけど、常連になりたい「お店」であった。

帰ってこられない産業用電気代

誰のため?、なんのため?がすっかり狂って、政府の自己目的化が進んだら、なにをやっているのかさえもわからなくなって、側近の秘書官を更迭したりして話題をまいている。

まことに「末期症状」を露呈しつづけていて、終わりの見えない終わりになっている。

国民は、そんな「終わり」でも、「安定は希望です」という連立与党のキャッチフレーズ通りに、「末期」の安定を希望しているから、阿片中毒者のように静かな廃人状態に陥った。

どこまで落ちるぬかるみぞ。

40年前に、「40年で石油がなくなる」といっていたけど、40年経ったいまも「40年後に石油は枯渇する」という話をしている。
これが、有限資源であるという根拠になって、サステイナブル(持続可能性)をなんだか優先することが正義になった。

けれども、「世界最大級」の油田やガス田の発見があいついで、有限であってもどうなっているのか?がわからなくなった。

「石油は地球の汗」という説も出てきて、内部から沸いて出てくるほぼ無尽蔵だというひともいる。
それでも、なくなったときのリスクがあるから、サステイナブルの方が優勢で、再生可能エネルギーなる、ちょっとなにをいっているのかわからない方法が、なんとなく、地球に優しいからと支持されている。

何度も書くが、「エネルギー保存の法則」を無視しているのが、サステイナブルだというから、笑っちゃうのである。

そんなわけで、石油はふつうにまだある、のに、採掘しちゃいけないとか、使っちゃいけないとかを、「人為」でやったら、電気代が高騰した。

地球に優しいと、人間の財布には厳しいのである。

生活費を圧迫しても、インフレ目標を達成したい金融当局は、なんのためになにをやっているのか?が、やっぱりわからなくなって、国民生活を苦しめている。

電気代やら、ガス代には、家庭用と産業用の料金体系がある。
電気もガスも、いちおう、民間事業となっているので、大口客には、「割引」制度がある。
これが、公共事業の水道だと、大口客には、「割増」制度が適用されるのだ。

なので、家庭の電気代が高騰したからといって、産業用がどうなっているのか?は、別に調べないとわからない。
もちろん、世界比較もできる。

わが国の電気代は家庭用も産業用も、韓国・中国と比べて「割高」である。
これが、帰国できない理由なのだ。

ヨーロッパは、総じてわが国よりも、もっと割高だけれども、4月からの大幅値上げがあるから、大急ぎでヨーロッパに追いつこうと「努力」している。
なかでも、ドイツの産業用電気代に注目すると、じつは政府が大幅な補助金を出しているから、すでにわが国よりも半額ほどで「安い」のである。

これが、ドイツ車の競争力になっている。
つまるところ、政府が産業のための「環境」をつくっている。

そんなわけで、自公政権の無茶苦茶は、産業破壊にも熱心なのである。

一事が万事これだから、電気代だけが理由ではない。
もちろん、「ものづくり」だけでいいのか?という議論はある。
しかしながら、強みと基幹産業をどうするか?は重要なのはいうまでもない。

なにしろ、何度も書くが、観光業は基幹産業にはならない、からだ。
もし、梅棹忠夫先生がいう、産業連鎖のなかで「全産業の頂点」にまで洗煉された産業になっても、だ。

むしろ、そのように進化を遂げるほど、観光業は基幹産業から遠のく。
なぜならば、食物連鎖のごとく、すそ野を必要とするから頂点に君臨できるものが、観光産業にすそ野がないからである。
部品の調達が必須の、自動車産業や、住宅産業のような「すそ野」のことである。

だから、「観光立国」という政府方針は、「ムダ遣い」なのだ。

すると、肥大化した政府(地方も)による活動の、ムダの削減とは、一種のアナーキズムに向かう。
いわゆる「小さな政府」のことだ。

日本人は「大きな政府」を嗜好するから、どんどんと政府の肥大化が進行して、国民には制御不能になった。
ゆえに、国会も無力になった。

「大きな政府」とは、「福祉国家」のことである。
そして、福祉国家とは、社会主義のことだ。

社会主義は、あらゆる国民活動に政府が介入してくる「主義」なので、いまの日本のようになった。
理論的大矛盾の、「一国二制度」をはじめた、中国共産党の賢さは、おそらく「日本モデル」のいいとこ取りをやった成果なのだ。

この成功モデルを、逆輸入したい、という「倒錯」から、おそらく親中派が生まれたのではないか?
利権やハニー・トラップは、あとからついてきたのではないかと疑う。
それが、とうとう「パブロフ型条件づけ」に進化したのではないか?

「福祉の追求」を、公的健康保険制度からはじめて、老人福祉になった。
公的年金の破綻はいうに及ばず、これを支える、日本国債も、「ネズミ講」に陥った。
そもそも、「賦課方式」という日本の公的年金制度は、最初からネズミ講なのだ。

大元の日本国債には、「格付け」があって、いまは、「A+」(シングルAプラス)だ。
あと何段階で、ジャンク債扱いとなる「BB」になるのか?ではなくて、いつ?「BB]になるのか?が話題になってきて、とうとう、1月末に政府新規発行国債の買い手がいなくなって、全部を日銀が購入した。

これが、帰国できないばかりか、海外流出する日本企業の行動原理を決めている。

気球の移動コース

空を見あげて、ひとびとが叫ぶ。

「見ろ!あれはなんだ?」
「鳥か?」
「飛行機か?」
「スーパーマンだ!」

この気球を見あげたひとたちが、大騒ぎしているのは、まったく『スーパーマン』の登場と一緒なのだ。
「発見」されたのは、アメリカ・モンタナ州上空だという。

ここはどこだ?
モンタナ州は、北西部にあって、北はカナダと接していて、西となりはアイダホ州で、そのまた西がワシントン州、そして、太平洋となっている。

面積は、全米で4番目に大きく、陸地面積ではわが国とほぼおなじ、ただし人口は約100万人でしかなく、全米で少ない方から7番目、人口密度も少ない方から3番目という、「過疎地」である。

この気球がどんな機能をもっていたのか?は、今後米軍が分析して発表されることになる。

中国側が、あっさりと、「気象観測用でコントロール不能になったわが国のもの」と認めたので、その用途はどうであれ、まずは中国のものだということは確定した。

しかしながら、その用途がほんとうに「気象観測用」かどうかは、わかっていないし、信じるものがいないのも、ふだんからの言動でそうなっている。

それに、「ニュースピーク」という、「反語」を多用するのも、全体主義者の常套手段だから、「コントロール不能」ということは、コントロール「可能」な飛行体の意味となる。

上空18,300mの高度を飛行しているものが、地上から見えるのは、それが大型バス3台分ほどの大きさだからという。
なかなか撃墜できないのは、残骸が地上に落下しての被害もあるけど、もしや気球内部に、パンデミックの素があるやもしれぬ、という懸念まで指摘された。

それでも、最新ニュースは戦闘機による「撃墜」を伝えたけれど、どういうわけか?それは大西洋上でのことで、残骸は海上に落ちた、という。

東南に向かっていたはずなのに、どうして「瞬間」移動したのか?
中国はぜんぶが怪しいが、アメリカ軍も怪しい。

怪しさでいえば、有名なのが、「エリア51」である。
イチローのことではなくて、ネバダ州レイチェルにある、アメリカ空軍基地の周辺立ち入り禁止エリアのことで、「ロズウェル事件」の舞台でもある。

この基地での「最新鋭航空機の飛行実験」が、「最高機密」のために、アメリカ国民もその実態を知ることはできないし、ここに勤務していたひとたちにも、厳しい機密保持が義務づけられている。

それで、ナショナルジオグラフィックが、特集番組を製作したけど、やっぱり実態は不明です、という内容になっている。

ちなみに、人口が少ないモンタナ州には、米軍の核ミサイル基地がある。
当然に、最高機密扱いだから、偶然にもこの地域の上空を通過しようとした気球が、なにをしようとしたかを憶測して、それが「観測記事」になっている。

予定されていたブリンケン国務長官の、中国初訪問が中止になって、たぶん、共産党の上層部は慌てているのだろうけど、しれっとこんな「のぞき見」を一方で仕込んでいたことは、だれが責任者だったのか?

それよりも、アメリカ側は、中共にとって厄介な、「議会」が緊張してしまった。
共和党はもちろん、民主党の議員も、対中強硬発言をはじめている。
バイデン政権を御しやすいとみたことの、反動が起きたけど、どこまで織り込み済みだったのか?

なお、同時期、オースティン国防長官はフィリピン訪問中で、南シナ海防衛力強化のための協定をした。

権威主義的な組織にどっぷりと浸かっていると、ときたま、相手もおなじ価値観だと勘違いして、初歩的なミスを犯すものだ。
それでも、権威主義的な組織のトップは、ぜったいに自身のミスを認めないのは、認めた途端に権力闘争が勃発する緊張が常にあるからだ。

さてそれで、この「事件」は、カナダも揺るがしている。

モンタナ州に侵入する「前」には、カナダ領内を通過しているのである。
それで、カナダ軍と政府は、なにをやっていたか?の厳しい追及になっているのだ。

地球という惑星は、自転をしている。
それがまた、結構な「高速」だ。
なにしろ、24時間で1周する。

赤道の周囲は、約4万㎞だから、時速で1,700㎞、秒速で約460m。
音速は、秒速340mだから、なんと、マッハ1.35となる。
わが国はだいたい北緯35度に位置しているので、これで換算すると、時速1374㎞だ。
秒速で約382mとなって、マッハ1.2となる。

地上のわれわれがふつうに生活できるのは、自転速度にあわせて動いているからだけど、上空ではついていけない抵抗が、ジェット気流になって、それを「偏西風」という。
だから、気球の運行がコントロール可能でも、かならず偏西風の影響を加味しないといけない。

すると、中国のどこかから飛ばされた気球は、日本上空を通過しないと、カナダに到達しない。

これを、自衛隊や在日米軍、あるいは日本政府は、どうしていたのか?
東北地方を通過して、仙台で騒ぎになったり、九州でも同様の「事件」があったけど、「県」の公式見解は「不明(UFO扱い)」で、国は無反応であった。

国が、県に「不明」とする、反応をしたとかんがえられるけど、領空の防衛に穴が開いていることでいいのか?どうなのか?が、大騒ぎにならないのである。

ランド研究所の「負け方の研究」

「ランド研究所」は、世界的に有名な「戦争研究所」だけれども、どうしてここが、戦争の研究を専門にしているかといえば、アメリカ国防総省の研究所だからである。

わが国には、防衛省のなかに、「防衛研究所」があるのと似ているけれど、単独行動が出来る独立国のアメリカの戦争研究と、アメリカの属国の研究とは、残念ながら、比較しようがない。

もちろん、クラウゼビッツがいったように、戦争とは外交の延長線上にあるものだから、戦争を研究することの範囲には、外交戦略も含まれる。
わが国に、一応、戦争という概念を禁止した憲法がある、といわれているから、大っぴらに戦争が外交の延長線上にあるとはいえない。

だから、話し合いで全てを解決せよ、という至上命令になって、外交の最終手段が外交なのである。

こんな理屈は、人類史上の屁理屈であるけれど、屁理屈を屁理屈だというと、政治的に抹殺されることになっているので、なにもいわないことが利口な政治家の生きる道となった。

もちろん、まともな憲法学者なら、日本国憲法第13条が第9条よりもずっと上位の概念にあたるといいたくとも、やっぱり、これをいうと、東大が仕切る学会から抹殺されるのでぜったいにいえない。
一般国民にではなく、こうしたエリート層のひとたちが、完璧な言論統制下にあるのだ。

ちなみに、日本国憲法の「大黒柱」といえる、第13条の条文は以下のとおり。
「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。

欧米人には、外交も戦争のうちだから、なんのための外交か?となれば、自国有利、という結論につきる。
それは、自国民の、「自由及び幸福の追求」を国家が守ろうとするからだ。

この世界の常識を、自国不利にして成功としたのが、戦後の日本という「不思議国家」なのであった。
この「伝統」は根強くて、自国産業を衰退させるだけに役立つ、SDGsやらを、政府は血まなこになってでも推進するのは、日本の滅亡こそが、アメリカの大戦略にあるからだ。

こうして、政府栄えて国民滅ぶ、という、珍奇な事態になろうとしているのに、だれも憲法違反だともいわないのである。

そんなわけだから、アメリカの戦略とは、絶対的有利をいかにアメリカ合衆国「だけ」にもたらすか?にある。
この「絶対的有利」とは、アメリカ人による世界支配をいう。
なにがあっても、アメリカは世界に君臨しつづける、という覚悟が、そのまま文字面になるのが、「ランド研究所の研究成果」なのだ。

さてそれで、今回発表(1月27日)された論文のタイトルは、『Avoiding a Long War:長期戦争の回避』だ。
上記リンクをクリックするか、英文の方で検索されたし。

ここで指す戦争とは、もちろん、ウクライナ戦争のことだ。

そこで、4つの提言をたてているけど。後半の二つには目を疑う。
なぜなら、それこそ、プーチン氏の主張していること、つまり、ロシアのウクライナ侵攻目的そのものだからである。

この提言と、プーチン氏の言い分とを書くと、
・ウクライナの中立に関する保証(NATO東方拡大の停止と同義)
・ロシアに対する制裁緩和(プーチン氏は「制裁解除」)

すなわち、とうとう、「けんかはやめて」が出てきたけれど、それがまた、米軍の頭脳からだったということになる。

これより前の1月20日、マイク・ミリー統合参謀本部議長が、今年中にウクライナからロシア軍を追い出すのは困難と発言してニュースになった。
つまるところ、ウクライナ軍有利という西側メディア(プロパガンダ機関)は、ぜんぶウソで、軍事的にロシアの有利は変わらないことを、アメリカ軍のトップが示したのである。

はたして、ミリー氏の発言を受けて、このランド研究所のレポートには、つづけてあからさまに、「支配のために」とはじめて、「敵の中国に集中せよ」と書いている。
それでもって、「損切りした方がいい」とも。

投資の「いろは」にある、サンクコスト:逸失原価が飛び出した。

どうしてこれが、「いろは」なのか?
それは、あくまでキャッシュ:現金でかんがえないといけないことを教えているからである。

投資行動の判断において、ついやってしまうのが、「いまやめたらこれまでの投資がパーになる」と、過去のキャッシュの流出をあきらめきれずに、追い銭して、もっと大きな損をする教訓をいう。
それで、過去に出たキャッシュは、もう二度と帰らない、逸失原価なのだとかんがえ直すことで、投資のポジションを再構築するのである。

ウクライナを捨てて、中国との決戦に備えよ、という発想は、軍産複合体からしたら、儲けは十分に得ただろうから、これ以上欲張るなという意味にもとれる。
それよりも、グローバリズムの江沢民派(彼らの仲間)を一掃して、権力を固めようとするナショナリストの習政権が、よほど軍産複合体には目障りだということだ。

すると、「戦後」はどういうことになるのか?といえば、いきなり、「米・ロの蜜月」がはじまるかもしれない。
すでに、何を察知したのかしらないが、当の中国メディアという、これまた正真正銘のプロパガンダ機関が、「狂人」だと決めつけた反プーチンキャンペーンを開始した。

ただし、EUのヨーロッパは、アメリカ離れをするのか?どうなのか?

はしごを外された、フォン・デア・ライエンは、生き残れるか?ということになって、ロシアが敵国認定したままでの、エネルギー危機は、恒常化するかもしれない。
しかし、それがまた、EU解体を目論むプーチン氏からしたら、大成功になる可能性がある。

統一通貨ユーロを維持できなくなるからだ。

コウモリ君のわが国は、股裂きになるどころか、米・中・露による分断統治になるかもしれない、建国以来2000年にして最大の危機が「いま」なのである。

北海道はロシア、本州はフォッサマグナの西側(富士川と糸魚川)で分断され、東日本がアメリカ、その他は中国になって、大阪は、「日本維新の会」がいう通り、西日本人民共和国の「大阪都」になるのだろう。

デジタル・タトゥーの恐怖

デジタル社会とは、全てをアーカイブして「不滅」にする、と書いた。

回転寿司店チェーンの「スシロー」を舞台にした、高校生によるペロペロ事件が「海外」のテレビ・ニュースにも拡散して、本人の発想を超えてしまった。

こうした、いたずらや迷惑行為を、動画などにして投稿する、いわゆるSNSを媒体にした、個人のバカげた行為を、ツイッターなら、「バカッター」、インスタグラムなら、「バカスタグラム」、ティックトックなら、「バカトック」という新語ができた。

けれども、この安易な発想による行為が、経済的損失になると、事業者から本人への賠償請求になるのは、当たり前だ。
その場のリアルだけなら、むかしからあったかもしれない行為だとしても、これを撮影してネットに投稿したとたんに、バーチャル空間へ展開して、もう本人のコントロール不可能な状態になる。

つまり、これは、発信する側の、情報リテラシーが問われる問題となる。

これまでは、情報の受け手としてのリテラシーのことをいっていたけど、誰でも手軽に簡単にアップできることから、もう「子供のいたずら」では済まされない。

今回の「事件」は、店側が被害届を警察に出したから、法律上も「事件」になった。
受理したから今後は、警察による、「捜査」がはじまる。

しかしながら、ネット上では、もうとっくに本人は特定されていて、現場の店舗も特定されている。

ついでに、今回の犯人とはべつに、老婆がレーンを移動中のフライドポテトを1本つまみ食いしている映像やら、またべつの投稿動画では、移動中の寿司にワサビをぶっかける動画も、「関連」としてバズっている。

これらの「犯人」も、すぐさま特定されるのが、デジタル・データが「不滅」ゆえの特性からなる。

では、その犯罪性はどうなのか?
つまり、「刑事事件」としてみたときの、罪深さのことである。
残念ながら、けっして「軽犯罪」とはならないのだ。

これを、また、高橋裕樹弁護士が動画で解説している。
それによると、「窃盗」(10年以下の懲役または50万円以下の罰金)、「器物損壊」(3年以上の懲役または30万円)となるし、ネットに投稿したら、「偽計業務妨害」(3年以下、50万円以下)にもなる。
さらに、そんな目的で入店したのなら、「建造物侵入罪」(3年以下、10万円以下)にだってなる。

なお、窃盗に関連して、店員などから逮捕を免れようとしたり、証拠隠滅をするにあたって、暴行や脅迫をしてしまった場合、「事後強盗罪」(5年から20年の懲役:最も軽くて5年という意味)となるし、それによって相手に怪我や死亡させてしまうと、「強盗致傷罪」とか「強盗殺人罪」になって、無期刑や死刑にまでなってしまうのだ。

つまり、そんなつもりじゃなかった、ということにはならないし、刑罰は「足し算」される。

『レ・ミゼラブル』のジャン・バルジャンより、厳しい社会的制裁を受けることになるのは、データが「不滅」ゆえに、もっと深刻なことになる。

それは、家族や子孫にも及ぶからだ。
なにせ、個人は特定される、ということでの、「不滅」もあるのだ。

よって、これを、「デジタル・タトゥー」という。

一度刻まれたら、一生消えないタトゥー(入れ墨:刺青)だけど、大金と痛い思いをして、皮膚移植をしてなんとかするひともいる。
けれども、デジタル・タトゥーは、本人によるコントロールが不能なので、どうにもならない。

オリジナル・データを削除しようが、いったん拡散されたら、もうどうにもならないのである。

なので、「戸籍」における犯歴の管理とは別に、デジタル・タトゥーは、次元のちがう管理をされていることに気づかないことの、マヌケさは、「バカ」では済まない。

だから、いまの時代は、「正しい生き方」をしないと、一生の不覚どころではない、「不滅の不覚」になるのだ。
これを、大光明だと書いたのは、世界にあるサーバーだけでなく、量子が自動的に書き込んで記録するからでもある。

それでもって、へんなことをしているひとはいないか?を、勝手に監視するために入店したひとが、迷惑だとして非難されたのも、法的には「建造物侵入罪」になろうが、そもそもの「情報リテラシー」がない、マヌケなのである。

これはなにも、「若いから」だけでなく、いい歳をしたひとまでも、平気で目の前にある商品のつまみ食い(窃盗)ができるのは、していいことと悪いことの区別がつかないからである。

これははたして、「脳」の劣化なのか?と疑えば、あんがいと他人事ではない。
なぜならば、脳を破壊する物質を、だれでも長年食べていることに原因があるかもしれないからだ。

すると、単に「育ち」という中にある、躾や道徳の適切さを超えた、なにを食べて育ってきたのか?という大問題が隠されている可能性がある。
このことと、デジタル・タトゥーが結びついたのだとしたら、やっぱり、大変な世の中に住んでいることになる。

最新鋭戦車の運転

欧米からウクライナへの戦車の供与が、321両になるとの報道があった。

これには、英国の「チャレンジャー2(14両)」を皮切りにして、米国の「エイブラムス(31両)」、それにドイツの「レオパルト2(14両)」の合計59両が含まれている。
「その他」の262両は、どこのなにか?はわからない。

それでも、嫌がるドイツを説得したのはアメリカ・バイデン政権だから、ドイツから「お宅も出すんでしょ?」と詰め寄られて、当初出す気がなかった「エイブラムス」を出すと決めた。
これが決め手となったので、二度の世界大戦の「反省」を脱ぎ捨てて、ドイツも供与を決める「歴史」となった。

すると、なんで英国が最初に「出す」と言い出したのか?に話が戻って、「米英の結託」が見えてくるのである。
なにせ、この戦争の目的は、ロシア解体による資源の奪取と、ヨーロッパにおけるアメリカの覇権維持のためのドイツ・イジメという、二方面作戦があるからだ。

今回のドイツに戦車を、戦争当事国に供与させることとは、まさに、米英によるドイツ・イジメが功を奏したのである。
これで、メルケルが20年かけて構築した、ロシアとの蜜月は完全破壊されて、いよいよドイツも本格的参戦の準備が整ったのである。

平和を唱える政権ほど、戦争を引き起こす。
第二次大戦前の、ヨーロッパにおける「厭戦感」が、ヒトラーの台頭を許したように。

永久戦争にすると発言した、フォン・デア・ライエンEU委員長に、態度表明しないドイツを引きずり込んで、いよいよ、ヨーロッパの戦争は、「第三次」状態になった。

もう、だれも「けんかはやめて」といわなくなったのだ。
そんなわけで、わが国が80年近く「国是」としてきた、「平和主義」の仮面も剥がされて、この不純なけんかに加担させられている。

いじめっ子の英米の、パシリをやらされているのが、日・独という敗戦国なのである。

軍事のことは詳しくわからないが、これで戦況がウクライナに有利になるという「解説」があふれているのには、違和感しかない。
いつもの、プロパガンダを疑うことは当然として、戦車って何に使うのか?からはじまる違和感なのである。

しかも、そもそもいまだに「ウクライナ軍」なる軍隊は存在しているのか?からして、おおいに疑問だ。
ナチがつくった、私兵集団「アゾフ大隊」が、とっくに政府公式になったので、国軍としてのウクライナ軍はなく、「旧アゾフ大隊」のことを「ウクライナ軍」と呼んでいると思えてならない。

つまり、ウクライナ支援とは、ナチ政権支援を意味して、世界がナチスを褒め称えているのだ。
この意味で、戦勝国組合である「国連」のなかで、ロシアだけがナチと闘っていて、他はぜんぶ裏切った。

日本は、かつての日独伊三国同盟を継続して、ナチを支援して、ロシアはいまだに日露戦争の敵国としている構図なのである。
この強烈な、時代錯誤に、国民の多数が気づかない。

さてそれで、最新鋭戦車の話になる。

人類史で、「戦車」が登場したのは、一回目のヨーロッパでの大戦争だ。
これをたまたま「第一次世界大戦」といっている。
世界はヨーロッパだけだという、時代背景があったから、こういういい方になる。

これを、「乗り物」としてとらえたら、どんな運転技術が必要なのか?についての解説がない。
それに、一両だけで単独行動するのか?という疑問もある。
二両で行動するとした瞬間に、それは、「小隊」となるのが、軍という組織の常識だ。
ならば、小隊長が持つ「指揮権」とは、どんな訓練の賜なのか?

むかしの戦争ドラマの傑作に、『コンバット』(米ABC、1962年~67年:日本では、GHQの手先、TBSが放送した)があった。
フランスを戦地にした、ヨーロッパ戦線での話だから、敵はドイツ軍で、必ず正義の米軍が勝利する、戦争プロパガンダだけど、日本軍が敵でないから、日本人向けにはちょうどよかった。

なお、このドラマは、「ヒューマン・ドラマ」だといって評価するのも、プロパガンダである。
全話において、「戦略」はなく、「戦術」だけという作り方が、まさに、戦場のファンタジーであって、米軍の強さを宣伝する確固たる意思がある。

その中の、第68話だか、69話に、「戦車対歩兵」というエピソードがある。
単独行動中のドイツ軍戦車に、吾等が英雄、サンダース軍曹が単独で挑む話だ。

このドラマで「敗戦」する、ドイツ戦車は、どんな練度だったのか?はわからない。

しかし、ほぼ「メカニック」で出来ていたはずのものの操縦が、なんだか難しそうなのである。
いまの「最新鋭」とは、おそらく、「メカトロニクス」の塊なのだ。

すると、一番重要なのは、「規格」になる。

それは、燃料の規格から、弾倉と弾丸の規格とか、操作盤のエレクトロニクスとか。
はたして、各国はいかなる規格で自国戦車を設計しているのか?が、ぜんぜん報道されない。
軍事機密なら、軍事機密だといえばいい。

それにつけても、こんなにバラバラな車種を集めたら、そのメンテナンスも面倒になる。

なんだか、いろんな面倒をウクライナに持ち込んだだけではないのか?
これを、ふつうは、「パフォーマンス」という。

我々は、実態のないもので、やっている感だけを擦り込まれている?

理由なき反抗をする経営者たち

理由なき反抗と聞いて、映画『理由なき反抗』(ジェームズ・ディーン主演、1955年)を頭に浮かべたら、そのひとの年齢もみえてくる。

もちろん、青春映画の傑作として有名な作品で、アメリカ政府が1988年につくった、「国立フィルム登録簿(National Film Registry)」に、ちゃんと登録されている。

ちなみに、わが国には、国立映画アーカイブ(National Film Archive of Japan)があって、「主権回復」した昭和27年(1952年)に設置されている。
国立近代美術館の映画事業(フィルム・ライブラリー)に始まって、平成30年(2018年)に、独立行政法人国立美術館となっているから、なんとアメリカよりも古い。

なお、早逝したから実年齢が不詳になるジェームズ・ディーンは、1931年(昭和6年)の生まれで、これに近いのが、石原裕次郎(1934年)にあたる。

印象が強い作品への出演が、俳優人生にとって、幸なのか不幸なのか?という問題がつきまとう。
いわゆる、「一発屋」に終わってしまうことを指す。
成功体験が不幸をもたらすから、人間万事塞翁が馬なのである。

ために、観衆は映像世界の登場人物と、演じる俳優のキャラクターを「おなじ」と錯覚して、その作品世界が現実だと思いこむことがある。

これも一種の、刷りこみなのだ。

勧善懲悪の映画が量産されていたとき、例えば時代劇で、いつもの悪いやつが登場すれば、観客はその姿を観ただけで「あゝ」とすぐさま理解して、それが、期待へと変わる。
もちろん、作り手はこの現象を承知して、期待を裏切らない。

この「安心感」が、作品を支えていた。

あたかも、ビバルディの音楽が、「大量なる一つの作品」と評されるのにそっくりな、『水戸黄門』のように。
なんであれ、ワンパターンの構成が視聴者にとっての安心だから、毎週月曜夜8時には、観ないでおけない習慣となったのである。

その「変化球」が、『スター千一夜』とか、超長寿番組、『徹子の部屋』だ。
俳優の「素顔」という、本来みせてはならない、秘密のベールを剥ぐかのようなワクワクを提供している。

いまでは、「METライブビューイング」で、世界中の劇場に配信される、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場でのオペラ上演作品に各国の字幕をつけて上映しているものだけど、幕間のステージの向こう側での大道具さんたちの作業風景だけでなく、出演歌手やスタッフに前作の主演歌手がインタビューする企画が新鮮なのとおなじなのだ。

けれども、本当にそれが「素顔」なのか?と問えば、観客にはわからない。

ゆえに、秘密のベールは何枚にも重なっているものだとかんがえるの妥当なのである。
ただし、何気ない所作には、ついうっかり「育ち」が出てしまうので、見る目を持つひとが観ると、まさに一目瞭然となる。

すると、見る目を持つようになるには、どうしたらいいのか?となる。

結論は、自分の「育ち」に帰結する。
ただ経済的余裕がある家に生まれ育った、という意味ではなく、本人を取り巻く家族や周辺、たとえば友人たちも含めたひとびとから得る、経験も、育ちに影響するのはいうまでもない。

良家とは、奥が深いのだ。

ここに、出会いの妙があって、これを、むかしは「縁」と呼んで、「縁は異なもの味なもの」だと表現したのである。
つまり、自分ではコントロール不能の、「偶然」を大事にした。

それが、「袖すり合うも多生の縁」として、「多少」ではなく、「多生」と書くのは、「輪廻転生」のことである。
「次」も、畜生ではなく、どうやって人間として生まれ変わるのか?を手引きするのが、チベット仏教の有名な、日本では葬式のお経にあたる『死者の書』だ。

ここで重要なのは、コントロール不能をコントロールして、あくまでも人間に生まれ変わることをアドバイスすることの論理と信仰があることで、まるで、量子力学での最先端がここにある。

すなわち、「不滅」の概念の具体化だ。

デジタル社会とは、全てをアーカイブして、「不滅」にすることを意味している。
空気中の酸素によるフィルムなどの劣化を、メモリに書き込む作業は、一方で、その記録を取り出す規格が変わったら元の木阿弥になるリスクもある。

しかし、はかないものを永遠なものに変換する、ということは、一方で、「変化」や「違い」を認めない、という意味にもなると、養老孟司先生は指摘している。
ここに、人間だけの性がある。

人間以外の動物は、全部を自分とは別の、「異質」と認識しているからだ、と。

いわば、それが、生きのびるための本能なのだ。
しかし、人間は発達しすぎて、その本能を捨てる努力をして、理性を優先させ、さらに、「育ち」も気にとめなくなったのは、「フラット化;平等」が過剰になったからである。

そんなわけで、エリートのなんぞをすっかり失念した、「大衆」の中から経営者を選ばないといけない、日本型の採用・雇用制度は、エリート教育を受けた明治人たちがいなくなって、ついに、従業員への理由なき反抗をはじめた。

しかし、その本質にある理由とは、自己保身という、およそエリートにあってはならない低俗なのである。

だから、ときたま優れた経営者がいる会社は、もはや突然変異にひとしい。
これを若い、青春時代の学生が見極めることの困難が、「就活」になっていて、親さえもアドバイスできない不幸がある。

若者が、理由のある反抗をする時代になった。

「要素価格均等化定理」再考

前にも書いたけど、書き手のわたしに「埋もれた感」があるので、再考して更新としたい。

新年早々に書いた、2022年ノーベル物理学賞の驚愕が、これからどんどん一般に広がると、哲学や宗教までもが、「書き換えられる」ことになる必然がある。

しかしながら、「書き換えられたら困る」ひとたちが、既存の支配層だったり、超富裕層だったりするから、一般人に知られないように例によって例のごとく、「報道しない」、「報道させない」という手段を用いるのである。

報道しないのは、このひとたちが主要報道機関を所有しているからで、報道させないのは、このひとたちが主要スポンサーとして、広告出稿費をコントロールするぞと脅すからである。

この二つの手法で、ほぼ全世界の報道機関が、プロパガンダ機関への変換を余儀なくされた。

その上手の手から水が漏ることになったのは、「裏切り者」イーロン・マスク氏による、Twitterの「無検閲」だ。
なので、いま、みえないけどバーチャル言論空間の「出島」としての価値を唯一提供する媒体に、逆変貌したのである。

このために、Twitterでの爆発的な情報拡散があっても、主要メディアやその他のSNSが、一切無視することが、かえってあからさまになっている。
それでもグーグルの検索機能に依存すると、人生を間違えるけど、多くのひとが人生を間違えても気づかないほどに、飼い慣らされてしまった。

これを、「奴隷の幸せ」と書いた。

さてそれで、要素価格均等化定理である。
かんがえだした、ヘクシャーとオリーン両氏の名前をとって、「ヘクシャー・オリーンの定理」ともいう。

1977年のノーベル経済学賞だ。

この時期は、「近代経済学(近経)」と「マルクス経済学(マル経)」の論争が盛んで、情報統制されたソ連圏のプロパガンダが功を奏して、「ソ連脅威論」を背景に、あんがいとマル経が頑張っていた。

反体制派のサハロフ博士の活躍や、ソルジェニーツィンがノーベル文学賞(1970年)をとっても、マル経のひとたちは、これを無視できる精神構造があって、いまも健在なのである。
学問を装った政治が優先されていた。

それで、数学者あがりのポール・サミュエルソンが、「数理モデル」という新機軸で一世を風靡していたけれど、数理モデルでマル経を語ると破綻する(ミーゼスが1920年代に数学的証明をしている)のに、サミュエルソン自身が、「新古典派総合」なる、「実質マル経」を考案したのである。

そんなサミュエルソンの、『経済学』が、日本におけるマル経の看板学者で、各種「学会」を牛耳った政治家でもあった、都留重人が翻訳して、これを岩波書店が出して、「主流派一流大学」のスタンダード教科書にせしめた。

この教科書のベストセラーぶりは、初版が1948年で、最後の13版がでたのが1985年だったことでもわかる。
なお、日本語版の初版は、1966年で、原書第6版からである。
ちなみにわたしは、原著第9版の日本語新版(1981年:旧版は1974年)を所蔵している。

すると、学者として40年ほどを過ごすとすると、この教科書で学んだことの影響力がわかるというものだ。
つまり、世界が左傾化(グローバリズムに染まった)した原因のひとつに挙げていい。

だから、いまでも評価が高いのは、そうでないと人生の否定になるひとたちが多数になるからだ。

要素価格均等化定理を、ヘクシャーとオリーン、それにサミュエルソンの三人が追及して、ヘクシャー・オリーン・サミュエルソン・モデル(頭文字から、「HOSモデル」という)ができた。

それでもって、要素価格均等化定理が、世界でみごとに「効いている」のが、日本経済なのだ。

資本、土地、労働のそれぞれの「価格」が、貿易を通じて相手国と「均等化する=等しくなる」が、この定理だ。
資本とは、資金の移動に関わるコストだけでなく、調達コストのことだし、土地は、土地そのものの地価だけでなく、農産物の価格にも変換される。

わが国の賃金が30年間も横ばいか、あるいは減ったのに、わが国以外の世界では上がっていることの原因はなにか?がずっと議論になっていて、たいていが政府に依存して、日本政府(予算)だけが肥大化した。

それでもぜんぜん経済はよくならないばかりか、生活はどんどん厳しくなっていて、また政府になんとかしろと依存している。
しかし、ここまで依存させることに成功した政府は、「増税」を掲げてビクともしない。

要素価格均等化定理が「発動する」ことの前提に、「仕事のやり方がおなじなら」という「仮定」があることが、もっとも重要な条件だ。

これには、当然に企業努力もあるけれど、政府依存という他人まかせの努力が、「仕事のやり方を変えない」ことの最大要因になっていないか?
つまるところ、徹底的な現状維持の努力が、世界で唯一、「要素価格均等化定理」が効きまくっていることの原因なのである。

しかし、利権にむらがる政治家も、天下り先でおいしいおもいをしたい役人も、政府依存させることにこそ、旨味があるから、国民には甘言をいって、これをぜったいに手放さない。

そのために、都合のいい理屈が、「新古典派総合」という、社会主義・共産主義の経済理論なのである。

監獄の「15分都市」

「都市計画」をどうする?には、ヨーロッパが先進的だという常識がある。

街の中心には広場があって、そのまた中心に教会をおいた。
それで、その広場には「市」(たとえば、フランス語で「マルシェ:marché」、ドイツ語で「マルクト:Märkte」、英語で「マーケット:market」)が立って、拝礼に来たひとたちの「お買い物」の便とした。

この「ワンパターン」が、ヨーロッパの「旧市街」規格だったから、日本人にはいかにもキレイにみえるけど、当のヨーロッパ人たちには、どこに行っても見なれた金太郎飴のようでおもしろくない。

それで、バラバラで一見秩序がない日本の城下町が、ヨーロッパ人の「通たち」によろこばれることを、こんどは、日本人がしらない。
東京だって、巨大な城下町なのだ。

中世ヨーロッパという、「暗黒時代」の大事件は、なんといっても、波状的なペストの流行だった。
それでもって、全人口の3分の1が失われたから、めったに疫病が流行らなかった日本人には想像もつかない、街全体、村全体での「絶滅」がふつうにあった。

わずかに生き残ったひとたちが、フラフラとあてもなく歩いていくと、突如、誰もいない絶滅したばかりの村や街があらわれた。
なので、「居抜き」で気に入った家に住み始めて、「我が物」としても、とがめるひとすら誰もいなかった。

これが、ヨーロッパ全土で主に14世紀に何度も起きたのである。
そして宗教も無力となって、崩壊した道徳がヨーロッパ人の「しめしめ」と「嫉妬」になって、精神の根幹に定着した。

少数の生き残りでいた街や村の先住民のひとたちは、あらたにやって来たひとたちに襲われて、街や村の「記憶を消した」から、こうしたひとたちが、あたかも先住民であるように振る舞うために、どこかの前例を真似て、それをその街や村の「伝統」に据えることをして、これが「金太郎飴」の街づくり(都市計画)になったという「説」がある。

げにすさまじい、決してファンタジーではない、現実の「暗黒の世」なのである。

同時期、日本では鎌倉から室町時代のはじめにあたり、特にヨーロッパでの記録的ペスト大流行の時期(1347年~1353年)は、「南北朝時代」にあたる。
彼の地の大混乱に比べたら、なんともまったりとした時代ではある。

そんなわけで、ヨーロッパ人の頭には、「人口減少」と「都市計画」は、セットなのだ。

一応、「15分都市構想」は、フランス人の学者が提唱したことになっている。
日本だと、「コンパクト・シティー」といって、なんだかんだと、地方自治体で熱心な地域がある。

それで、山間の僻地に住んでいるひとたちが、みんな高齢化したのをいいことに、「通院の便」とか、公共施設、たとえば、電線や水道管の設置とメンテナンスの非効率を理由にして、街の中心部への強制移住をさせていて、これを拒む老人を「悪意のある老害」として扱っている。

ならば、どうしてこのひとたちが、何代もこの僻地に住まわっていたかを問えば、ときの「お上」に、開墾せよとかといわれたひとたちの末裔だったりするから、はなしがややこしくなるのである。

さすれば、当時は、さても「英雄的開墾事業者」として、ヨイショされたはずだから、まったくもって「南米移民」とおなじく、お上の本音は「棄民」だったのではないか?

それでもって、こんどは、「孤独死」を放置していたと世間体が悪くなるのをおそれただけで、強制することの自己都合(じつは無責任のアリバイ)が、あたかも正義になっているのである。

どこに住もうが勝手でしょ?という、ご老体の覚悟の方が、よほど神々しい。

さてそれで、閉幕した世界経済フォーラムでの「課題」に、「15分都市」があったことで、より一層、この構想の「悪意」を読みとらないといけなくなった。
とにかく、この団体は、その邪悪な本性を隠すこともない、人類の敵なのだ。

ついでに書けば、スイスの片田舎の「ダボス」は、会議開催期間(5日間)に、とんでもない経済効果を地元にもたらして、ただでさえ「がめつい」スイス人を、完全に懐柔している。

スキー場の保養地であるとはいえ、参加者を収容する宿泊施設が足らないから、一気に価格高騰がふつうになって、一軒のホテルを貸し切るのにも、数十億円レベルのおカネが落ちるし、個人宅すら間貸しの対象で、たった5日で、まともに働くことがバカバカしいほどのカネが入る。

これは、「原発村」を懐柔して、住民を腑抜けにしたやり方とおなじなのだ。

前に、田原総一郎の生涯で唯一の傑作、『原子力戦争』について書いた。

 

本来であれば、人類奴隷化を目論む、この会議(平家物語なら「鹿ヶ谷の陰謀」)の参加者を、一網打尽に捕縛するべきところが、スイス軍の務めというものではないのか?

しかし、ヨーロッパ人からの嫌われ者、スイス人にはそんな気概はとっくにない。

15分都市の構造的問題は、街の入口にあたる道路に設置されるべきとする、「自動検問」の悪意がある。

住民の電子デバイスやら、自動車などの移動手段に位置情報装置の設置を義務づけて、その行動を監視するのである。
そうやって、街からよそへ移動する自由を奪うことで、住民間の分断をはかるのが主目的だ。

これで、住民を完全コントロール下におけるからだ。

なんだか、『進撃の巨人』の「壁構造」なのである。
この街は、実質的な監獄で、移動できないひとびとを、何世代も閉じ込めたら、世界は15分都市だけしかないと、長老すら認識するようになる、というわけである。

マンガが現実になるマンガ世界。

生物学的「学習」をさせない

大学での授業のいくつかの場面を、いまでも鮮明に覚えている。
張り切っていろんな科目の履修届を出していたら、気がつけば3年で卒業単位を満たすことになって、慌てていくつかの試験を受けずにわざと落として、「無事」4年に進級した。

ある日、学務課に呼び出されて、「このままだと卒業しちゃう」といわれ、危うく就職浪人になるところを回避したのだった。
もちろん、一切の就職活動をしていなかったからで、自分の取得単位数ぐらい、自分で管理しろ、と学務課長に呆れられた。

そんな暢気な学生だったわたしでも、なんだか記憶に残った授業のひとつに、発達心理学があった。
まだ少し珍しかった、女性助教授が担当していて、毎回熱のこもった授業であった。

ここで気になったのは、「学習」ということの本質を教わったことである。

人間だけでなく、昆虫だって「学習」するし、コロナ・パンデミックにおいては、ウィルスでさえ、生存と繁栄のために変異するのも、ひとつの「学習」であろう。

いまは絶版して復刻もあるらしいが、小学生だったころ、学研の『科学』と『学習』を学校で斡旋していて、生徒の誰かの家が配本業務を引き受けて、それを毎月とりに行ったものだった。
担任の先生の「お薦め」は、『科学』で、各科目のドリルがついていた、『学習』は、先生のいう通り、わたしの親は購入対象にしなかった。

『科学』は、毎号の「付録」の方が厚みがあって、本誌を読むより付録にある模型などの組立に集中したものだった。

夕方の確か5時半頃からの、教育テレビ、『みんなの科学』(1965年から1980年まで)は、毎回とはいわないが、それなりにチェックしていて、一度だけ、自噴する噴水の模型の作り方がわからなくて、NHKに手紙を書いたら、丁寧に手書きの解説付き設計図を送りかえしてくれた。

建物はいまでもある、『神奈川県立青少年センター』の2階は、かつて、いまでいう科学館になっていて、さまざまな実験や、体験が無料で楽しめたし、最上階には一回50円のプラネタリウムもあったから、毎月通ったものだった。

アルバイトで小遣いを稼いで、渋谷の『五島プラネタリウム』を観に行ったら、50円どころか封切り映画並みだったので、以来、一度もいかずに閉館・解体された。

博物館巡り旅行として、名古屋に行ったときは、『名古屋市科学館』の最新プラネタリウムを観て、その進化に驚いたけど、「科学館」としての展示では、あんがいとかつての「青少年センター」とのちがいや進化を感じなかった。
むしろ、青少年センターの「レトロさ」が妙に懐かしく思い出された。

基礎や原理はおなじ、ということだろう。

これらは、総じて「実物なりを観る」体験を中心にしていてけれど、一部に「触る体験」とか、身体のバランスを計測する機械もあったから、何度行っても飽きなかった。
いわば、無料のゲームセンターのようなものだったのである。
その割には、いつもすいていて、順番待ちは滅多になかった。

狭いとか、近隣に匂いがいくとかで、当初「閉園」が決まっていた、「野毛山動物園」は、横浜市の中心部にある、都市型動物園として継続希望があいついで、いまでもある。
わたしが幼稚園児のころに、確か入園無料になって、ずっとしばらく、チケット売り場が残っていた。

象とシロクマはいなくなってしまったけれど、齧歯類のウサギやモルモット、それにハツカネズミを好きなだけ「触れる」コーナーができた。
これは、十分に珍しいことで、「視覚」と「聴覚」ばかりから、「触覚」を使わせるのは、なかなかに傑作のアイデアである。

母親が発する、「汚いから触っちゃダメ」が常識になってしまったのは、女子教育が廃れたからだろう。
「ジェンダー平等」という美辞麗句にある、「家庭破壊=文明破壊」の悪魔的設計がここにある。

いまどき、「良妻賢母」とか、「孟母三遷」とかと公衆の面前でいったら、どんな批判を喰らうかわからない。

それでいて、父の死よりも母の死が重いのは、人間の中にある、生物的であって高等な感情がそうさせる。
しかして、母の胎内では、子供はあくまでも「異物」なのではあるけれど。
それが「つわり」となって、身体の異変をしらせる生理になっている。

とはいえ、この世の全ての人間は、母から生まれるという自然があった。

それがまた、量子論によって、胎内で発生するどこかのタイミングで、宇宙から「意識」が入り込む、という仮説にまでたどり着いた。
さらに、出産で空気に触れても大丈夫なのは、しっかり免疫を保持しているからである。

そうやって、人間の子供は、五感をつかって、あるいは第六感まで駆使して成長する。
この感覚器官から繰り返し得る情報で、「学習」しているのである。
もちろん、この「学習」のなかに、「母語」もある。

音を聞いて理解するのは、驚くほど早いけど、これを自分から発音できないために、この過程の記憶を失ったおとなは、しつこいばかりに話しかけて、じつは本人に「定着」させている。

天井から吊されてグルグル廻る「メリー」を観ているわたしに、毎度「今日はご機嫌だ」とか、おとなが話しているのをなんだか記憶している。

この意味で、共感したのは、中勘助の小説『銀の匙』だった。
驚くほど他愛のない話が、延々と続くけど、それはメリーを観ながらおとなの会話を聞いている、わたしの目線とおなじなのである。

五感をつかって、学習させることを奨励するひとが少ないのは、無責任社会の証なのである。