「底辺女性史」の底上げはあるか?

映画やテレビドラマに出演する「女優」を「俳優」というようになったので、いまや出演者を指して、「女優と男優」という区別をするのは、アダルト・ビデオ(AV)の世界に限られるようになってきた。

そのアダルト・ビデオ業界も、いわゆる『AV新法』(22年6月23日から)によって、なんだか混乱している。

ことの発端は、新民法で決まった、「18歳を成人とする」ことだという。

要は、現役高校生がAVに出演できることが問題になったのである。
これまでだったら、出演契約を本人が単独で締結しても、親(いまでは「父兄」ともいわず「保護者」という)が、未成年を理由に契約解除を申し入れて、実際に合法的に解除させることができたのだ。

だから、製作会社側にとって、本人の年齢確認を事前にしっかりしておかないと、あとで損失になるから、かなりの出演防止のための効果があったのだ。
この自然の損得勘定による防止法に、強制を図ったのが新法なのであった。

なんだか、「家電リサイクル法」と似ているのは、どの省に属していようが、所詮は内閣法制局の目を通るので、どんな法案も「統一」される官僚制の性ではある。
自治体が始末してくれていた大ゴミやら、民間の「ちり紙交換」を絶滅させた、悪法(支配者にとってはリベート利権をつくった)とおなじなのである。

法制局にいわれなくとも、わが国の「優れた」官僚制度は、法体系の整合性をかならずとる、という掟を破らない。
なので、さまざまな法律を新規で制定するときに、過去の法律との整合性を壊さないようにも気をつかう。

このために、立法権が事実上、行政府の内閣に移転した。
その専門部署にして最強の部隊が、内閣法制局なのである。
検察官からなる、法務省ではないことに注意がいる。

内閣法制局には、各省庁からのエリート法務官たるキャリア官僚が「出向」してきて、自身の出身省庁担当者と法案の摺り合わせだけでなく、法体系上の整合性もチェックする。

これで、内閣法制局参事官以上の役職を連続5年以上務めた官僚は、退官後、弁護士登録ができるという特権までもっている。
ちなみに、司法試験を経ないで弁護士になるには、大学の法学部教授職を5年以上やると平成16年まではなれた。

それで、大問題になったのが、「2007年憲法改正に備えた国民投票法」だった。
ここで、国民投票ができる国民が、18歳以上になったのである。

どうして18歳以上にしたのか?は、よくわからない。
超高齢化と少子化という二大問題が、考慮の背景にあることは確かだろう。
けれども、この規定が通ることで、明治9年(1876年)の太政官布告以来の20歳成人との整合性が崩れたのだった。

ただし、この布告前は、武家の男子なら13歳くらいで元服式があったし、女子は初潮がきたらもう結婚適齢期だった。
なにせ、平均寿命が40歳とか50歳だったのである。

ついでに、「数え年」から「満年齢」にしたのは、明治6年の太政官布告だった。
とはいえ、これは法令上のことで、わたしの祖父(明治36年生まれ)は、生涯「数え年」がふつうだったし、メートル法ではなくて尺貫法でないとピンとこなかった。

さてそれで、ことが憲法に関することなので、成人を18歳に揃える、ということになった。
ここから、テクニカルな関係法の整備という、お役所仕事がはじまる。

つまり、「法」と「一般常識」との整合性を無視した乱暴を、いまも政府はやって恥じない。

ために、タバコとか飲酒は「20歳から」という、なんだかわからない「特例」になって、そもそも社会にとって「成人」とはなにか?の定義からぜったいに切り離せない、「責任」が曖昧になったのである。

これは、おそらく、原案を作る側のひとたちの「無責任」が表面化しただけで、こんな薄っぺらな人物たちが、知識としての法律をしっている、というお粗末になった。

だから、まさか底辺の「AV」のことなんか気がつきもしなかった、のではないか?
それでもって、慌てて「新法」をつくることにして、公聴会も1回だけしか開催しなかった。

ここに、いい悪いが逆転した、「優しさ」(の押しつけ)が、見え隠れする。

とにかく、AVに出演する女性は売春婦同様の保護が必要で、こんなものに出演していい気になっている男優は男の風上にも置けない愚か者だ、というエリート男性目線だけが見て取れるのである。
なお、エリート女性にもこの男性目線をもっているひとがいることがある。

すなわち、これは、いまどきの「底辺女性」対策法、なのだ。

しかし、とっくに社会は成熟から爛熟に移っていて、一つの価値観でしか行動できない政府の限界と、それがまた、弾圧になることの恐ろしさも気づいていない。
そして、わが国には「伝統的左翼」すら、雲散霧消したのか?と疑わざるをえないことにもなった。

伝統的左翼には、「労働」の概念に、売春もあったのだ。

これは、社会が総じて貧しかったことからの、「わかりやすさ」でもあった。
よくいう「女工哀史」がまだ高級(恵まれていた)だったのは、ふつうに「身売り」があったし、下手をすれば「間引き」されたからである。

その傑作ルポが、山崎朋子『サンダカン八番娼館 底辺女性史序章』(1973年大宅壮一ノンフィクション賞)だった。

なお、このおなじ年には、いまでは入手困難な、『明るい谷間 赤線従業婦の手記』(新吉原女子保健組合編、土曜美術社)という名作もある。
ただし、こちらは吉原の最後のときだったので、「遊女」たちの教養はいまの国文科女子大生の比ではない。

この意味で、いまどきは風俗業勤務だからイコール底辺といえるのか?という問題にまでなっていて、かつての宿場町にふつうにいた「飯盛(めしも)り女」やら、江戸の共同浴場にいた、「湯女(ゆな)」と単純比較することはもうできない。

それでも、「新カラユキさん」や「新大久保のたちんぼ」が話題になるのも、昨今のわが国の貧困化の姿でもある。
しかして、人類最古の職業とされるものが、どこまで底辺なのか?という問題は、あんがいとあたらしいのである。

そんなわけで、とりあえず先進国の看板がまだあるわが国が、先進国で最大のエイズと梅毒の流行国になっている。

凄まじきは、そんな女性を保護する風情で、じつは利権の食い物にしている?ことが、ジワーッと話題になっていることだ。
こちらの悪質は、過去の悪の上をいく。

これを左翼がやっているらしいから、左翼も地に落ちたものだと感心するのである。

トヨタと日鉄が他国に移転仮説

トヨタ自動車には、かつて「日銀管理」になった苦い歴史がある。
豊田家の当主でもある、現社長がこの歴史を知らないはずがない。
なので、知らないのは、自動車ジャーナリストとか、経済評論家で名を馳せているひとたちになっている可能性がある。

クルマ自体の機能や、クルマの売れ行きしか見ないことでも、それなりの解説はできるからである。

とはいえ、新年冒頭に出た、トヨタや日鉄が、日本から出て行くことの「仮説」は、大きな話題になっている。
もしもこんなことが実現したら、「日本(経済)沈没」となるからである。

 

この話の論理は、政府との対立の結末、ということになっている。
いわゆる、日本政府による「トヨタ・イジメ」が、とうとうトヨタをして日本脱出へと決心させる、というシナリオなのだ。

もちろん、鉄板を大口でつかってくれるトヨタの後を追いかけて、関連企業はみんな追随するから、その筆頭に日鉄の名が挙がったのだろう。
産業のすそ野の広さが、自動車産業の最大の特徴なのだ。

けれども、一方で、EV(電気自動車)の雄である、テスラに陰りが見えている。
それが昨年末からの株価の値下がりで、とうとう半値にまでなってきた。
テスラ車ユーザーの半分が、次の買い換えでもうEVには乗らない、と回答したアンケートもこの値動きに影響しているという。

じっさいに、8割と高率でEVが普及したノルウェーは、国民に購入させるための補助金や保有期間にかかる税金が思い切りユーザーを有利にさせる政策で実現したし、充電スタンドの設置も、ガソリンスタンド並みの密度になるよう政府が投資した。

これは、典型的な自由経済への政府の介入(=社会主義政策)といえる。

EVが普及することは、すなわち、充電池需要が増えることになって、いま主流のリチウムイオン電池の原材料で希少資源のリチウムの世界価格が暴騰してしまい、これまでとおなじ額で国民にEVを購入させるための政府の補助金が自動的に増額となって、とうとう福祉予算の削減まで議論される財政の困窮化になっている。

しかも、スエーデンは油田をもっているけど、これはぜんぶ輸出に廻してこれをEV普及の財源にして、電気エネルギーの多くは水力発電に依存している。
このことも一見クリーンで合理的に見えるけど、とかく現代人は「原始人に戻る意味での先祖返り」をしている。

つまり、「エネルギー保存の法則」をすっかり忘れてしまった。

他国に販売された石油は、どこかでかならず燃やされているし、水力がクリーンでないことは、「黒四ダム」で富山湾が壊滅的に汚染されたことでもわかる。

わたしの住む神奈川県も、相模川水系のダムで、相模湾の汚染は手に負えず、ほぼ漁業がダメになった。
水はよどむとかならず腐るからで、腐った水が海へと注いでいるのだ。

治水と環境は、なかなか共存しない難しさがある。

温暖化で「北極の氷」が溶けると海水面が上がって、世界の都市が水没する、という波状攻撃的なプロパガンダで、「アルキメデスの原理」すらわからない状態に追いやられたことの反省がないのである。

この「反省しない」というのは、「大衆」の典型的思考だと何度も書いてきた。
ゆえに、大衆はぜったいに進化しないで、民主主義における絶対権力を持っていると勘違いするのである。

この大衆の、ダメ犬のような習性を利用しようとしているのが、共産主義・全体主義をもって、人類の奴隷化を意図するひとたちだ。

それが、EUであり、国連(UN)である。

どうして決まったのかしらないが、EUであたらしい決定があった。
それは、食料トレーサビリティで、環境や人権を傷めてはいない証明がない物資の、EU圏内への輸入を禁じたのである。

つまり、「フェア・トレードの強制」だ。

たしかに、環境破壊や人権弾圧は、「悪」である。
けれども、いきなりぜんぶ、というのはいかがなものか?
急ブレーキは、乗員の身体を傷つけないか?ということだ。

奴隷的労働が指摘される食品は、歴史的にチョコレートの原材料である、カカオのことが思いつくし、コーヒーもしかりだ。
これに、トマトの缶詰が加わるのかどうかはまだわからない。
まさか、蟹も?

  

これらはかならずわが国にも影響する。

そしてそれが、世界政府、という現実なのである。
トヨタ・イジメは、欧米の自動車会社が、日本車の技術水準にギブアップしたことが、「EVシフト」という政治になった。

ところが、昨年末までに、ベンツやBMW,それに、VWといったドイツのトップが、こぞって「EVシフトの危険性」を訴えはじめたのである。
それが、「自滅」になると気がついた、と。

また、民主党から共和党に寝返って、Twitter社を買収し、さらに「Twitter File砲」が炸裂しつづけていることでの、イーロン・マスク氏への反発が、テスラ株にも影響しているはずだ。
なにしろ、今どきの欧米左翼は、超資産家の大富豪ばかりなのである。

すると、もしや上のEUの決定は、ずっと逆らいそうなイタリアへの嫌がらせを意味しないかと疑う。
トマト缶の闇は、イタリア・マフィアにまで及ぶから、このひとたちがEUを逆恨みしたらどうなるのだろう?

日本の過去の失敗で、その後の歴史的意味合いがおおきかったのは、「金解禁」というグローバル化だった。
これは、昭和5年(1930年)に、浜口雄幸立憲民政党内閣の井上準之助大蔵大臣が断行したものだ。

世界史では、前年の1929年に、「世界恐慌」が起きた、とある。
つまり、わが国は自ら「恐慌の扉を開いた」ことで、昭和恐慌になってしまう。
農業では、昭和5年は史上初の米価下落による「豊作飢饉」があって、翌6年には本物の「冷害大凶作」になったのである。

これで疲弊した東北は、まさに阿鼻叫喚の事態となって、長男以外が軍にいたから、「5.15」(昭和7年)や、その後の「2.26」(昭和11年)になっていく。

そんなわけで、他国がやっているから、とか、日本は遅れている、とかという言動には注意がいて、場合によっては「うそ」だと判断することがひつようなのである。

いま、井上準之助はバカだという評価があるけれど、濱口雄幸や立憲民政党のことをいうひとがいない。
東京駅頭で暗殺されたとはいえ、濱口と立憲民政党の正体とはなにか?は、安倍氏と重ねてなお、重要事なのである。

なので、まだ、日本以外が酷いことになっている。

 

いなづま事故とハインリッヒの法則

海事事故は、いったん起きると被害もおおきいものだけど、今般の海上自衛隊護衛艦「いなづま」による10日の座礁事故は、自力航行不能になったとはいえ、まずは人的被害がなく不幸中の幸いであった。

テレビも観ないし新聞もとっていないから、第一報からはじまって、続報をみるのはもっぱらネットのニュースだけという状態だけど、所詮は地元紙とかの新聞社が配信している記事なので、基本的にそこでの「解説」は信用していない。

たとえば、中国新聞が12日午前に配信した記事には、「海のプロとしてありえない事故」との見出しになっている。
厳しい叱責は、新聞社が伝統とするところの修辞だけど、これ見よがしの書き方は、事実を伝える、という原則から逸脱している。

この事故のどこが「プロとしてありえないのか?」についての記載は、「浅瀬への単独座礁」だけをみているからだろう。

しかし、この記事でわたしが注目したいのは、その文末にある。

「防衛力の大幅強化を巡る議論の中で、自衛隊の装備や訓練などの在り方もさまざまに問い直されるだろう。国民の安全を守るどころか不安を与えるようなミスは自ら信頼を揺るがすことを肝に銘じてもらいたい。」だ。

最後のシメの文ではなくて、「防衛力の大幅強化」からはじまる、なんとなくお決まりの文章の方だ。

これが問題なのは、戦後の安逸なる状態から、とうとう本気で防衛努力をしないといけなくなった、という「大変化」(「事情変更の原則」がはたらくほどの)に、ほんとうに対応する覚悟が、当の自衛隊幹部だけでなく、国民にできているのか?ということが含まれるからだけど、この記事でいいたいのは、忘れなさい、という方の意味になっていることだ。

また、この記事では「前日まで定期点検を受けていた」ことと「試験運転で乗組員とドック関係者の計190人を乗せ」とあるが、同日夕方の別の記事(テレビ新広島)では、「時速およそ55キロで航行していたとみられ、最大速度であった可能性もある」と報じている。

「時速55キロ」とは、「30ノット」と換算できる(1ノット≒1.8キロ)から、いわゆる「最大戦速」(ふつうは機密なのでほんとうはもっと?)を「試験」していた挙げ句の座礁事故とみるのがふつうだろう。

前日までの定期点検で、ドックの関係者(民間人)も乗艦しての試験で、最大戦速(らしき)をだしたとは、いったいどんな点検をドックでしていたのか?
しかも、こんな(超)高速航行試験を、どうして狭い瀬戸内でやったのか?が気になるのである。

いってみれば、狭い路地裏で高速運転(暴走行為)を試みたら事故った、ようなことになって、プロとしてありえないではすまないことになってしまう。
なお、スポーツ・カーもそうだけど、「速い」と「止まること(制動力)」はセットだ。

水上艦船は、たとえエンジンを止めても、水との惰性で何キロも滑るように進んでしまうから、スクリューを逆回転させてブレーキとする。
なので、「ゴー&ストップ」の試験をしていたのではないか?

だから、なんだか、地元紙の瀬戸内を行き交うフェリーが座礁したごとくに、「海のプロとしてありえない事故」と書いたことの方が、「プロの取材としてありえない記事」に読めるのである。

ほらね、新聞やマスコミは信用できない。

縁あってわたしも、横浜港の回漕業の安全対策にかかわったことがある。
ここでの基本は、「失敗学」からの学びであった。
「安全工学」という分野があるのだ。

とくに、労働災害の分野では、有名な「ハインリッヒの法則」がある。
それは、1つの重大事故の背後には29の軽微な事故があり、その背景には300の異常(ヒヤリ・ハット)が存在するというものだ。

そのために、現場では、ヒヤリとしたこと、ハットしたことを書き出して、その原因を探るのである。
これをまた、「安全ルール」として、なにをすればよいか、なにをしたらいけないかと二方向から洗い出して、実務規則にする。

ばあいによっては、違反者に罰則も課すのは、とにかく「安全第一」だからである。

そんな目線で、この事故をみると、部外者にはわかりにくい自衛隊という組織の問題も見え隠れする。

単独の座礁事故だから、あたかも艦長以下の操艦に問題があるのは否定できない。
しかし、組織として果たして艦長の権限はどこまであるのか?という問題が対象から漏れていないか?

意図的な(暴走)試験海域を艦長の権限だけで勝手に指定できるのか?という疑問である。

当然に、司令部の許可ないしは指示・命令がないとできないのではないか?
戦時ならともかく、いまは平時である。
自衛艦の航行が、艦長(本件艦長は2佐)の独断でなんでもできるとは、とうていおもえない。

つまるところ、艦長といえども、「中間管理職」ではないのか?ということに思いを馳せれば、陸上には「司令部」やら「総監部」があって、かならず「将官」がいる。

このひとたちは、いったいなにをしていたのか?

そんなことを調べていたら、「オオカミ少佐」というYouTuberが登場した。
このひとは、元海自隊員だとして、本件事件をするどく分析・解説している。
ハンドル名から推測するに、「3等海佐」で除隊したのか?

まったく、ジャーナリストを自称する「プロ」は役に立たないが、このような「元職」が発信する情報にはリアルな価値がある。

わたしの父は旧海軍のレーダー兵だったことを、生涯自慢していたけれど、軍内部の組織のことなどは、いちいち説明しなくともわたしが理解していると思いこんでいた。

それに、父の自慢は、駆逐艦乗りだったことで、そのスピードは「溶接艦」がふつうのいまとちがって「リベット留め」の鎧のようにしなる旧海軍の造船技術の方がはるかに優れていたとしきりにいっていた。
アメリカの軍艦は、ぜんぶ溶接だから折れるんだとバカにしていたものだ。

機密だから上官に聞いても正確には教えてくれないが、ガクンと体感する最大戦速時の加速度からも40ノットは出ていたかもというから、過去の駆逐艦はいまの護衛艦よりはるかに凄いかもしれない。

艦体がギシギシときしんで、船首や艦尾からみたら、艦全体がバナナのように反ってしまう(荒天では上下にも)ことでの運動能力は、空の「ゼロ戦」が有名だけど、日本艦の凄さは格別だったという。

軍の組織やしきたりに、そんことしらないよ、というと、えらく驚いたのは、あの世代の常識だったからだろう。
いい悪いは別にして、徴兵もあったから、一般人には軍を経験したひともふつうに混じっていて、軍との距離はいまよりずっと近かったとかんがえるのが妥当だ。

すると、我々は、陸・海・空のどの自衛隊であろうが、内部の組織規定からなにからをぜんぜんしらないままでいる。
このことの方がよほど異常なことなのだ。

だから、冒頭記事の「防衛力の大幅強化を巡る議論の中で、自衛隊の装備や訓練などの在り方もさまざまに問い直される」ことのなかに、さまざまな情報公開(当事者たちの常識も)があってしかるべきなのである。

そうでなければ、ぜんぶの事故責任が、ありもしないのに艦長の責任にされてしまう。

すると、もはや民間で大問題になっている、「管理職になりたくない症候群」が、国防の最前線で発生することになって、おそるべきブーメランを国民がくらうことになるのである。

そんな状況にしたい、のがマスコミの病理なのだし、もしや自衛隊の将官たちや高級防衛事務官たち、あるいは与党の「とかげの尻尾切り」があるならば、もっと悲惨な組織への疑惑が自衛隊そのものを瓦解させてしまうおそれがある。

ここが、この座礁事故の最大の問題で、その構造がハインリッヒの法則なのだ。

鴨長明と同年になったのに

西洋の古典について、古代ローマ帝国の賢人セネカは、「ぜんぶ読む価値がある」と書いた。
紀元前5年に生まれ紀元後65年に教育係として育てた皇帝ネロから、「死を賜った」ひとで、著作に『人生の短さについて』とか『読書論』などがある。

 

ここで誤解してはいけないのは、彼のいう「古典」とは、当然彼が生きていた時点からの古典なので、もっぱらギリシャ哲学の古典を指す。
すでにローマ時代に氾らんしていた、ゴシップ風の読み物を指してはいない。

つまり、むやみやたらに、多読をせよいったのではないのだ。
むしろ「時間」という資産を大事にすることに拘っていて、ベンジャミン・フランクリンがいった、「Time is Money」の原点を謳っている。

キリスト教とギリシャ・ローマの哲学が、西洋の基礎にあることがよくわかる。

もちろん、いまではセネカの著作そのものが、古典になっている。
しかも、ストア学派の巨匠としてである。
けれども、このひとの人生も決して「枯れた」ものではなく、むしろあんがいとギラついていたのは、西洋人だからか?

あくまでもセネカの主張にもどれば、古代ギリシャ哲学の西洋世界に与えた影響の巨大さを考えざるをえないけど、それならわが国のみならず、「本場」の専門家をうなずかせた碩学、田中美知太郎(1978年文化勲章)がいる。
このひとの著作は、絶対安心のものばかりだ。

それで、田中美知太郎は慶應の小泉信三とともに、サンフランシスコ講和会議に賛成した学者であった。
なお、このふたりは、どちらも空襲(田中は広島原爆、小泉は東京大空襲)で全身大火傷を負って、顔にも大きくケロイドが残ってしまった共通もあった。

保守系といわれる「日本文化会議」を創設し、かつての「反体制雑誌」といわれた、『諸君!』(文藝春秋:1969年5月号~2009年6月号で休刊)の執筆陣を形成したものだ。

2000年代になって、文藝春秋社の社内でなにがあったかはしらないが、急速なる「左傾化」があって、学生時代からの定期購読者だった一般読者のわたしでも、『諸君!』の論説の曲がり方がハッキリわかったので、休刊の2年ほど前に契約を解除して、高校以来読んでいた本誌の『文藝春秋』も読むのをやめて今に至る。

それが急ブレーキだったから、目がさみしくなって、『WILL』とか『正論』とか『VOICE』をみていたが、その論説の「甘さ」が煩わしくなって、結局ぜんぶ読むのをやめた。

中吊り広告の見出しをみただけで、薄い論説の内容が透けてしまうのだ。

学生のとき、遠距離通学だったので、電車のなかで『世界』とか『前衛』も読んでいたけど、すぐに飽きたのは、我ながらあっぱれである。
さいきんでは、もっぱら通勤時間帯に電車に乗ることも少なくなったが、車内で新聞をみているひとを見つけると、なんだか気の毒になるのである。

そんなわけで、中東や西洋よりも進んだ文明社会だったのは、地球上で日本しかないということが、近年の発掘から明らかになって、もはや「縄文文明」は、古代エジプトやらメソポタミアやらインダス、黄河を凌駕していたことはまちがいない。

時の政府が歴史を作るために作った、『古事記』、『日本書紀』は、その前の歴史を消去する作業も同時にやっていた。

この両書が、似て非なるものになっているのは、一般向けの『古事記』に対して、学者向けともいわれる『日本書紀』のところどころの脚注に、異論を想起させる記述がコッソリあるからだ。

ぜんぶ作り物です、と書くわけにはいかない当時の事情(しっているひとがいる)がうかがえる、というわけである。

しかしながら、「焚書」もやったらしいし、ついでに日本オリジナル「文字」も捨てたのではないか?という疑義がある。
それで、「古代文字」の研究が注目されて、学会が認めない『ホツマツタヱ』の民間研究がおこなわれている。

面倒なのは、歴史学会の方で、こちらは、GHQの指示通りを「保守」しているから、反日を標榜する外国と歴史解釈について共同研究をする、という不可能を可能にすべく(政治)活動をしているムダがある。

さて時代を新しくして、日本三大随筆といえば、『枕草子』、『方丈記』、『徒然草』だ。
西暦でいえば、『枕草子』がちょうど1000年頃(平安中期)。
『方丈記』は、1212年(鎌倉前期)で、『徒然草』は、1330年頃(鎌倉末期)という。

『方丈記』が断定できるのは、著者がちゃんと最後に日付を書いているからだ。
ただし、原本は発見されておらず、写本としての最古が、醍醐寺の親快という僧侶が1244年に残している。

作者の鴨長明は、「鴨氏」だから、さかのぼれば「秦氏」になって、いわゆる渡来人の系統ではあるけれど、もっとも天皇家に近い「賀茂神社」との縁があるし、これが原因して「隠棲生活」となったのである。

もちろん秦氏には、ユダヤ失われた10士族、にあたるのではないか?という説がある。

そうしてみると、この傑出した随筆(名文)を800年経っても読めるのは、賀茂神社の神官に就任できなかった本人の不本意が根底にある。

それでもって、鴨長明の年表で没年齢をみたら、なんといまのわたしと同年だということに気がついた。
なるほど、高校生に理解できない「枯れた感じ」は、いまこそしっくりくるものだ。

そして、とうていこのひとの教養に逆立ちしても追いつけないことに、打ちのめされてしまったのである。

それで、セネカの『人生の短さ』が、沁みてきた。
『方丈記』を高校生に教える前に、セネカに言及すべきだろう。
なにしろ、古今東西、健康な若者は人生が長く退屈だと信じているものだからである。

そうやって、「不惑」から「還暦」ともなれば、いかに人生が短いものかにだれもがたいがい呆然とするのである。

下記は、前半は現代語訳にしてマンガ、後半は原文注釈付き、さらに養老孟司先生の解説まである「豪華本」があるので、自分の人生に呆然としたいひとにはお薦めである。

むかしの「成人の日」に。

暗殺の実態が不明な半年で

作夏の大事件は、参議院通常選挙投票日(7月10日)の直前、7月8日午前に安倍晋三氏が遊説中に暗殺されたことだった。
これは、究極の選挙妨害ともいえるけど、なにせ公衆の面前での殺人事件なのに妙に事件追求の努力がされていない不思議がある。

それから数えて、この8日で半年が経過した。

この間、まったくもってケネディ暗殺犯とされた、オズワルドと似た扱いを山上容疑者は受けていて、「元」とはいえ、憲政史上最長の内閣を率いた人物の暗殺事件について、物理的分析がほとんどないままに放置されている。

マスコミだけでなく、政界からも、警察はなにをしているのか?の質問すらない。
与野党を超えて「真実追究」はもちろんのことなのに、なぜか話が本末転倒の感がある。

この事件を物理学者がきっちり「音声解析」していることも、マイナーなニュースで、大手メディアは一切の無視を決め込んでいる。

襲われた安倍氏は演台を自分から降りたが、手からマイクは放していなかった。
よって、現場ではこのマイクが捉えた音を、拡声器を通して聴衆に聞こえたという。

それは、山上容疑者が放った一発目の0.2秒前の音だった。

しかも、彼の手製の銃は、先込め式の火縄銃のような構造で、込めた散弾は6粒だという。
これらはほんとうに発射されたのか?すら、怪しいが、この物理学者は「空砲だった」と重大な解析結果を発表している。

この解析による山上容疑者の銃とは別の発射音は、4発。
安倍氏の立ち位置からすると、左右から2発、という。
命中したのは3発で、1発は安倍氏が山上容疑者の方に大きく振り向いたことでの失中とみられるという。

なんだか、フレデリック・フォーサイスの『ジャッカルの日』(出版は1971年、映画化は1973年)のラスト・シーンを彷彿とさせる。

 

すると、いきなりプロ(おそらく消音器付きライフル)の狙撃手が複数いないとあり得ない。
日本では、銃刀法で一般人がライフルを所持できるのは、散弾銃の所持許可免許を取得して、10年連続無事故でかつ、狩猟用としての申請をしないと所持できない。

ちなみに、この免許の書換は3年に1回だ。

しかも、消音器はぜったいに販売も所持も許可されない。
なので、日本人なら公務員系(警察あるいは自衛隊)、そうでなければ外国人しか見当がたたない。

日本を舞台にした消音器付きライフルを用いたサスペンスなら、現役エンジニアの榊正志作『レイラインシリーズ3 アマテラス・サーガ: 失われた卑弥呼の金印を探せ! 失われた秘剣 』が、いまもっともスリリングだ。

本作だけでも楽しめるが、前2作から、という順番がお薦めだ。

なお現実の警察は、安倍氏暗殺後もライフル所持者に対する調査もしていない。
果たして、この解析以外の解析を警察すら未発表だから、とっくに「ヤミの中」なのだ。

それを隠蔽するかのように、特定宗教団体を叩くというパフォーマンスが連日報道され、まったくの目くらましをくらっているのが、いつものように国民なのである。

なので、すっかり現行犯逮捕された山上容疑者が単独犯だという前提で、事件があたかも解決した風情になっている。
これにはまた、検察が起訴したら99.6%が有罪になるという、わが国刑事裁判の国際比較でも「異様」な状況が背景にある。

他の先進国は、のきなみ6~7割程度でしかないのだ。

もちろん、わが警察の丁寧な捜査が、刑事訴訟での圧倒的「証拠」提出となる原因であって、他国の警察のずさんな捜査が優秀な法務官の検察をして裁判に勝てないのだ、という意見もあろう。

しかして、99.6%という実績値は、それでも高すぎるとみるのが一般的な感想になる。
これでは、刑事裁判における裁判官の存在がみえないし、起訴するか起訴猶予にするかで、検察が実質裁判の判決を書いているようなものだ。

ちなみに、検察官は、わが国では法務省のお役人様である。

ふつうの省庁は、国家公務員総合職試験(戦前の「高等文官試験」、戦後の「上級職試験」)合格者が「キャリア」として、最終的に事務次官に上り詰めるけど、これからはずれているのが外務省の「外交官試験」だ。

日本ではあまりいわないけど、こうした試験制での役人採用方法を、ふつう「科挙」といい、欧米では「中国式」とよぶ。

しかし、もっとはずれているのが法務省で、この役所のキャリアとは司法試験合格者で検事に任官したものをいう。
なので、おどろくことに、法務省では国家公務員総合職試験合格者でも、本省の局長になれない。

だから、外局に検察庁があるとかんがえるのはまちがいで、法務省全体が検察官たちの牙城なのだ。
それでできた序列が上から下へ、検事総長 ⇒ 東京高検検事長 ⇒ 大阪高検検事長 ⇒最高検察庁次長検事 ⇒ 法務事務次官 というすさまじさになっている。

どこまで警察と検察におもねるのかしらないが、有名大学の有名教授たちが、山上容疑者を「価値ある行為だった」とした言論を発している。

殺人犯を殺人犯ではなくて英雄扱いをしていることが問題なのではなくて、もう犯人を山上容疑者だと、警察・検察のいうとおりに決めつけていることが問題なのだ。

これもまた、社会に真実を隠す努力としての「ノイズ」なのであって、「冤罪」がなくならない原因のひとつである。

国民が恐れないといけないのは、こんな体制だといつなんどき逮捕されるかもしれないし、ひとたび起訴されようものなら、ほとんどが有罪に一直線だということだ。

これを、「暗黒国家」というのである。

1970年、ノーベル文学賞のソルジェニーツィンは、代表作『収容所群島』の冒頭に、「逮捕は突然やって来る」と書いた。

アメリカ下院の影響力

議長選びでもたついた感があったアメリカ合衆国連邦下院議会ではあるけれど、「スタート・ダッシュ」はそれなりに強力だ。

日本の国会とちがって、アメリカ議会は下院と上院とで、役割がちがう。
外務次官でアメリカ大使だった、村田良平氏がのこした、「日本は一院制にすべし」とあるのは、戦後わが国の国会、とくに参議院がたんなる衆議院のコピーでしかないムダをいいたかったとかんがえられる。

わたしが子供だったずっとむかしから、「参議院改革」というグダグダをやっていて、さいきんではもうとっくに「飽きた」感がある。
国民を飽きさせるのがマスコミの役目なので、わざと枝葉末節の話を大袈裟にして、根幹に関わる議論を抹殺してきた成果なのだ。

それでもって、実質的に衆議院(外国では「下院」、身分制の英国では「庶民院」)だけの一院制になっていて、参議院をばかにしくさった結果として、一般人は参議院議員にしかなれない選挙制度をつくった。

むかしは、参議院を「良識の府」なぞとおだてていたが、選挙まで似せたので単なるコピーにした一方で、衆議院は厳しい小選挙区制にしたから、ぽっと出で勝てる要素がなくなった。
これが、議員の「世襲制」をつくって、「あたらしい身分社会」としたのである。

小選挙区制は政権交代を促す、というキャッチフレーズは、ウソだった。

それでも、参議院議員にだって、国政調査権があると「憲法62条」にあるから、あんがいと行政府からは侮れない。
これが、国民にとっての民主主義の「首の皮一枚」なのだ。

組織論として、時代の最先端の研究をするのは、大学という象牙の塔(ほんとうは「タコツボ」)にこもった学者ではなくて、軍隊だ。
同盟国だったヒトラーのドイツが、人類最初の「無差別爆撃」を、スペインのゲルニカでやった。

これで、戦争は兵隊同士の戦闘で決着をつける、という古今東西の常識がやぶられて、戦後の掠奪ではなくて、「戦略」という名目の一般人虐殺が戦争のオプションになった。
この最終オプションとして、核がある。

ちなみに、歴史的掠奪の阿鼻叫喚は、東ローマ帝国が滅亡した、コンスタンチノープルの陥落があまりにも有名だ。
攻めたオスマン帝国のメフメト2世が、自軍のあまりの蛮行に涙したという。

これをツヴァイクが、『人類の星の時間』の、エピソード、「ビザンチンの都を奪い取る」で描いている。

だから、軍のコアな思想には、兵隊同士の戦闘にいかに勝利するか?はいまどきの「紛争」レベルになったけど、これがまた、いまだに有効なのである。
ゆえに、クラウゼビッツの『戦争論』が、現代でも名著になっている。

 

むかしの軍(たとえば、大日本帝国陸軍と同海軍も、アメリカの陸・海軍も)は、それぞれ「陸軍省」と「海軍省」とがあって内閣に属した行政府と、陸の「参謀本部」と海の「軍令部」もまた、それぞれにあって分かれていた。

勝利を目指したら、統合することの有利に気がついて、アメリカは戦後の1947年になって、トルーマン大統領の要請でできたのが、「国防総省:いわゆるペンタゴン」だ。

じっさい、国防総省のなかに、かつての陸軍省やら海軍省が「統合」されているので、省内に省があるのは、官僚組織の壁の厚さを物語る。
しかして、国防総省となっても、行政機関なのだ。
なので、各軍の将官で組織する統合参謀本部は別にある。

これはどういうことかといえば、軍政(軍を維持するための行政)と、作戦(敵国や仮想敵国、あるいは同盟国間)とを分けているのである。

行政には、人事と予算が、統合参謀には作戦という役割が明確にされている。
もちろん、アメリカは合理的思想の国なので、制服を着た軍人はこの両者を人事異動で行き来するし、民間人でさえ専門家なら、「顧問」として両者に配置されている。

わが国の防衛省は、制服組を作戦にだけあたらせて、軍政(予算と人事)には一切タッチさせず、法学部をでた国家公務員だけがこれにあたっている。
これを、(広義の)シビリアン・コントロールだと信じている道理は、GHQの命によるだけなのは、本国のアメリカをみればすぐにわかる。

そんな視点で、アメリカ連邦議会をみると、下院が予算、上院が政府高官人事と外交(条約と批准)、という役割だから、議会においてさえ、より権力の分散を意図していることがわかるのである。

それで、これら「優先権」にあたらない議論は、両院で議決されて、「上」で決まらないと決まらない仕組みになっている。
その「上」は、単純多数決でないこともあるので、単純多数決しかしらない日本人にはわかりにくい。

バイデン氏や民主党、それに行政府のさまざまな「疑惑」について、下院の委員会が発足して、「捜査」を開始すると宣言している。
ただし、これらは大方、上院に持ち込まれるので、どうなるかは不透明だ。

しかしながら、昨年末に滑り込み成立した連邦予算案(4000ページ)を、たった3日で可決させたペロシ前議長が地団駄踏んで悔しがった、ちゃぶ台返しをさっそくやってひっくり返したのは、まずは「快挙」である。

ウクライナへの追加軍事支援予算も該当していて、戦争をやめさせることが明確な意志となっている。

上院で否決されようがなんであろうが、下院の捜査で上院に圧力をかけるばかりか、国民に実態をしらしめることが先だという戦略なのである。

つまり、これから先、アメリカはスキャンダルだらけ、になる。

これが、日本に影響しないわけがなく、70年代にいわれた「アメリカがクシャミをすると、日本は風邪をひく」どころか、もはや、「アメリカがクシャミをしたら、日本は即死しそう」な状態にある。

事実上、アメリカ民主党の日本支部となっているわが国与党は、持ちこたえられるのか?

読者の激減や視聴率の低迷で瀕死のマスコミが、一社でも「裏切って」、アメリカのスキャンダル・ラッシュを正確に報道したら、もしや経営再生になるのだけれど、そこは日本人だから、玉砕するまでがんばるのだろう。

その前に、愚民化しすぎた国民が寝たままのほうが、よほど悲惨で、新聞も、NHKの受信料も払えない貧困に、マスコミは負ける自業自得がやってくるのであろう。

日本は今年デフォルトするか?

七草もすぎて、いつもの通りあっという間に正月が終わる。

企業活動も本格始動する中で、今年ありそうな出来事の最大惨事はなにかを妄想したら、それはデフォルトだとおもわれるので書いておく。

昨年発足して英国史上最短で退陣した、トラス首相のことは、記憶に焼き付けるまでの時間もなく、気の毒なくらいだれも覚えていない。
しかし、伝統ある英国の民主体制のなかでの、保守党党首選挙を経ての首相就任だったから、なんで辞めたの?という疑問はつきまとう。

トラス氏は、ちゃんと選挙中に公約として「減税」を訴えていた。
しかも、その規模は、かつてのサッチャー氏や、トランプ氏がアメリカでやった規模とは比較にならない「小さな規模」のものだ。

にもかかわらず、勝利して内閣が発足していよいよ実施するための仕事をはじめたら、市場が反応して、英国ポンドと英国国債が暴落した。
減税によって英国政府債務が膨らんで、デフォルトするかもしれいことの、市場からの警告だ、と報道された。

彼女は当初、たいした規模ではないからと減税を強行する態度を示したが、結局曲げて、あたかも市場に屈服したけど、与党内からの批判に絶えられずに辞任に至ったのだった、ということになっている。

しかし、これをよく観察すると、市場とマスコミがグルなのではないか?と疑うのである。
「市場」には、二種類あって、一つが大富豪が動かすという意味、ひとつがその他大勢が動かすという意味で、マスコミはその大富豪たちが会社を保有している。

つまり、減税するな、という命令を自ら「売り」でやってみせて、これをマスコミが書きたて、それから大勢の一般投資家が「売り」をかけて波状攻撃としたのである。

英国でのこの一連の騒ぎは、世界の各国政府を震撼させた。

コロナで傷んで、エネルギー危機でインフレが拡大し、それがスタグフレーションの景気後退になる時期に、むかしだったら増税をやるバカはいなかった。
もちろん、ちゃんとした経済学者たちが、そんな政治家を阿呆呼ばわりしたはずだ。

しかし、いまはちがう。

なにせ、研究費が、どの国も政府予算に依存するようになったから、まず政府批判をするバカが学者世界からいなくなったのである。
それでもって、どちらの政府も、この時期に増税をやるといっている。

国民はそれでは貧困化するので、なんとかしてくれとなって、減税を要求するばかりか、補助金もほしがる。

ところが、どの国の政府も、財政赤字は世界共通なのである。
これには、はるか以前からのケインズ経済学で、政府の財政支出による「景気対策」が恒常化したことによる。

一応、ケインズ自身は、「不景気のときだけだよ」といったけど、そんな律儀な政治家なんて世界にいない。
だから、なんでもかんでも財政支出の対象にして、役所は肥大化をつづけた。

それが、70年代から80年代にかけての、サッチャーとレーガンによる、「小さな政府」への転換運動だった。
日本では、形だけ中曽根内閣で「第二次臨時行政調査会」なる茶番がおこなわれて、土光敏夫氏がまんまとピエロにされてしまった残念がある。

なお、内閣府が小さな政府と大きな政府について、長い蛇足記事で解説しているから、騙されないように批判的に読まれると参考になる。

つまるところ、いまの苦境は、ほぼ100年前から用意されていて、半世紀前の揺り戻しが成功したら、それからまた元の木阿弥になったのである。
英国はブレアの労働党政権になって、アメリカはクリントンの民主党政権に戻ってしまった。

この流れを無視して、いましかみない。

じっさいに、トラス政権の失敗が日本の与党にどんな恐怖を味あわせたのか?についての情報がないことが、その震撼ぶりをかえって想像させるのである。

「世界政府」という、ついぞこの前なら与太話だった単語が、いまではすっかり正体をあらわして、まだ与太話だというひとの情弱ぶりが心配になるほどに変わった。

トラス女史は、世界政府を甘く見た、としか解釈できない。

もちろん、世界政府は支配者のための団体だから、支配される側のことは知ったこっちゃない当然がある。
世界人類を奴隷にしたいひとたちが主宰者なのだ。

だから、景気後退時に増税をやらせる。
そうでないと、財政破綻させるぞ、という脅しなのである。

しかし、財政破綻して困るのは政府自体であって、国民ではない。
ここに国民が気がつかないように脅すのが、脅迫のコツだ。

いま、日本国債の格付けは「A」(A一個なので「シングルA」という)である。
この下は、「BBB」(B三個なので「トリプルB」という)で、ここまでが「投資適格」の位置づけとなっている。

そのまた下の、「BB」に格付けされたら、大変だ。
これは、「投資不適格」というランクだから、いわゆる「ジャンク」扱いになる。
すると、まともな機関投資家(銀行や生保)は、買えないどころか保持することもできない。

資産内容の健全性が規制されているし、預金者や保険加入者に説明責任が果たせなくなるからである。

なので、日本国債の格付けがどうなるのか?は、政府にとっても国民にとっても大問題になる。
それでもって、政府はその大問題を国民に負担させようと画策するはずだ。

しかし、日本人にとって、国内だけでみれば、あたらしい政府樹立の大チャンスでもある。
いまの政府運営者たちにはお引き取り願えるからである。

ただし、これを救済しようとやってくるのが外国勢力だと厄介だ。
たとえば、隣の大国とか。

どちらにせよ、日本国は、身の丈を忘れて発行しすぎた国債によって破綻するのは、時間の問題になりつつある。
これが、麻薬と麻薬中毒者の末路なのだが、もうだれにも止められない。

それをトラス政権が教えてくれた。
わが国のばあいは、亡国の危機だけど。
日本が日本のまま継続していくことが、困難になってきている。

5月に予定の、広島サミット後に、一つ目の「山」がくると予想している。

神頼みの初詣?

七福神めぐりがいつもの年始の恒例ではあるけれど、今年はなんだか参拝者が多くて、列に並ぶと暗くなる畏れが強くて、参拝を断念して次の目的地に向かうことがいくつかあった。

これでは、七福神にならないけれど、巡っていることで神様にはご勘弁いただきたいと、これまた人間の都合を通しているのは、やっぱり日本人なのである。

西洋や中東の神様は、「唯一絶対神」なので、人間の都合を聞いてくれるような存在ではなく、人智を超えているから、どんな仕打ちを人間がされてもそれを「試練」とするのが正しき解釈となっている。

それで、西洋にも中東にも、「巡礼」はあるけれど、日本の、「お遍路さん」とはちがうし、そもそも一神教だから、「七福神」なる概念もあるわけない。

日本的だった、「聖地巡礼」が、もっと日本的になったのが、「聖地=撮影地」にする変換が成功したことでの、「ロケ地巡礼」が、アニメにも適用される現象となった。

これがまた、日本を飛び出したのは、宮崎駿『千と千尋の神隠し』の、モデル地といわれる台湾の「九份」だ。
台北から電車に乗って、最寄りの駅(瑞芳駅)からはご当地が山の上なのでタクシーを利用してだいたい1時間で到着する。

この駅近くの市場には、食堂もいくつかあって、安くて美味いがあるし、瑞芳駅では売り子が「駅弁」をむかしの日本の日常のように、頸から容器を抱えて売っている。
20年ほどのむかしに購入したときは、1個180円の八角風味鶏そぼろご飯で美味だった。

台湾は自動車は右側通行になったけど、鉄道は日本時代のままで左側通行だ。
日本文化の駅弁があるのも、元日本、の意地なのだろうか?
まだ若い売り子の姐さんは、「ベントー、ベントー」と元気いっぱいに叫んで売っていた。

シベリア出兵以来、日本食なかでも醤油が定着した、ウラジオストックはモスクワ行きシベリア鉄道の出発点だけど、この駅に駅弁はない。

いつの間にかに、そんな台湾にも、「ひとりあたりのGDP」で追い抜かれてしまったわが国は、もう神頼みしかないのか?
韓国にも抜かれていたが、為替のために抜き返し、たぶん今年はまた抜かれる予想になっている。

ぜんぶが政府のせいではないにしろ、日本人が日本政府に経済政策を依存したら、歴史的で奇跡的な成功事例だけの、なんとかのひとつ覚えしかできない、見事な経済政策の失敗(社会主義化を目指しているから、本当は成功しているけど)での体たらくだが、30年経っても間違いに気づかない国民もどうかしている。

台湾と朝鮮半島が、欧米的な植民地でなかったのは、歴史を調べるとわかることだけど、欧米的な植民地だとするGHQの戦後価値観を推すひとたちに都合がわるいから、意識的に積極的に調べることをしないとわからないようにしている。

この意味で、日本の国名は「帝国」であるし、じっさいに天皇を戴く国体としても「帝国」だけれど、欧米的な帝国主義をどこまで模倣したのかは、ものすごく曖昧なのである。

GHQ内で、日本の労働法を作りにやって来たヘレン・ミアーズ女史が書いた、『アメリカの鏡・日本』は、マッカーサーによって日本語版は「発禁」になって、昭和40年代に出版されても、よほどの意識高い系でないと日本人は興味も示さない、という「大衆化」が既にすすんでいた。

「帝国」が面倒なのは、欧米的な帝国主義の具現者で、世界最大の版図をもっていた「英国」は、自ら「帝国を名乗らない」という混乱がある。
つまり、英国は正式に「大英帝国」を名乗ったことはない。
周りが勝手に言うのを、放置しているだけなのである。

その英国は、もう経済がズダズダで、生活苦が産業革命時の状況になりつつある。
このころの様子がわかるのが、名作『エレファントマン』(1980年:日本公開は81年5月)だった。
「I’m a human being!」という叫びから、人権映画だというひとがいる。

わたしは、作品が描く当時の英国の社会常識表現(時代考証)にこそ価値があるとおもっている。
そこにいる、有象無象のひとたちのうごめく様が、およそ先進的ではない動物なのが、これぞ「品も格もない欧米人の姿」だからだ。

エレファントマン役の名優ジョン・ハートは、1984年に『1984』で、主役のウィンストン・スミス役を見事に演じたことでも記憶に残る。

資本主義は人間を幸せにしない、というマルクスの都合のいい表現に、当時が資本主義かどうかを厳格に規定しないでいるから、いまだにこれを信じているひとが多数派で、それを常識人といっているのがテレビ制作者だ。

この映画がみさせる当時のロンドンからは、ただの人間の汚い欲望しかない。
このひとたちは、ヨーロッパ中世の人間のたんなる末裔なのだ。

人権という概念は、啓蒙主義からうまれた。
それこそが、ヨーロッパ中世の批判的思想ではあったけど、政治家を含む一般人はそのまま中世の価値観で20世紀の大戦争をやってきた。

そこにあるのは、今だけカネだけ自分だけ、という、みごとな「大衆」なのである。

その大衆を、どうやってコントロールして奴隷にするのか?が、啓蒙主義が成りの果てにある、共産主義・全体主義だ。

このひとたちは、巨大な富の独占を背景に、自分たちだけは生き残れるとした安全地帯に身を置いて、経済社会の破壊を試みている。
だから、今年以降は、先進国でいつデフォルトが起きても不思議はない。

その準備として、「昆虫食だ」という噴飯のプロパガンダがある。
奴隷は生かさず殺さず、というまさに奴隷貿易時代が再来しそうだ。

ナショナリズム対グローバリズム全体主義とネオコンのミックスが世界の二元論的構図となって、後者を進めれば奴隷化の道、前者を進めればデフォルトの道となっている。

昨年秋にちょっとだけナショナリズムを選んだら、たちまちデフォルトしそうになって、あわてて首相を頸にしてミックスに戻しめたのがいまの英国だ。
MAGA派のアメリカは、これから財政破綻と向き合うことになる。

すると、もっとも脆弱なのが、わが国だとわかるのである。

ただし、デフォルト(財政破綻)を恐れているのは政府だけ、ということに注目すれば、その余波を一般人が喰らうにせよ、永遠に子孫まで奴隷になるよりはマシ、というものだ。

それが、神頼みの初詣になっているなら、まだ大丈夫?
だんだんと、おかしい?と気づいたひとがいるから、と思いたい。

どうか、ロケ地巡礼ではありませんように。

「あさましき」アメリカ議会

昨日書いたとおり、「あさましい」ということばの意味は、清少納言の現代語訳をしたら、「あきれちゃうわね」とか、「情けねー」、「あれれびっくりだわー」となる。

なのでそのまま、現代アメリカ合衆国連邦下院議会での議長選びこそ、「あさましきもの」としてみえたのであった。

アメリカがつくった憲法だから、日本とアメリカの政治形態は、議院内閣制と大統領制のちがいはあっても、国会のちがいはないとかんがえているのが大方の日本人感覚だろうけど、ぜんぜんちがう、いわば「似て非なるもの」だとわかったのが、今回の騒動だった。

ただ、例によって例のごとく、テレビや新聞をみているだけでは、アメリカの「凄さ」がわからない。
もちろん、わからないように報じているからである。

そもそも、「議長」の権限がちがう。

日本の議長は、ただ「権威」として存在し、三権の長なるおだて方をされているけど、バリバリ仕事をしているようにはぜんぜん見えない。
しかし、アメリカでは、議長の権限は絶大で、議会でなにを議論するかも議長権限で決めるのである。

しかも、議会には「政府に対しての捜査権(個人ではない)」まであって、わが国でいう「国政調査権」なんて甘いものではない。
大統領には議会決議について、拒否権があるものの、再度議決されたらもう拒否できない。

つまるところ、大統領(行政府)に命令することができるのが、議会なのだ。

しかして、アメリカは上院と下院の役割が、日本の衆参両院とはこれまたぜんぜんちがうけど、2年に1回総選挙をする下院の予算に関する権限は絶大で、ここだけは、日本の衆議院の優先と似ている。

そんなわけで、選挙後の最初の議会は、とにかく議長を決めることからはじまるから、これが決まらないと、なんと各議員の就任式さえもできないルールになっている。

与党のトップが談合して、それなりの当選回数があるひとを議長に据える日本のやり方が通じないのは、アメリカの政党に「党議拘束」という全体主義の概念がないからだ。

議員は、政党の看板よりも、自分の主張で選挙を闘う建前だからだ。

なので、議員は議会で自由に個別に投票するし、その投票行動は地元で報道されて有権者は議員の行動をしることになっているから、これがまた、次回選挙での活動実績が相手候補からの批判となるのである。

それでもって、ケビン・マッカーシー氏を議長にするのに、どうしてこんな「混乱」があったのか?には、深い理由があった。
これを日本の報道機関は報じないから、おカネを出す価値がないといっているのである。

アメリカの政治は、共和党・民主党という二大政党制に表面はみえても、実質的に、ナショナリズム対グローバリズム全体主義とネオコン(戦争屋:RINO:Republican In Name Only)のミックスとの対立関係になっている。

昨年の中間選挙という総選挙で、共和党内ではこれまでの反主流派だった、ナショナリズムの「MAGA:Make America Great Again」を提唱する、いわゆるトランプ派が大勝利して、主流派となった。

それで、かつて「共和党主流派」といわれてきた、グローバリズム信奉のネオコンが、いまではすっかり勢力を弱めているかにみえる。
しかし、彼らの背景にある軍産複合体の財力を含めた影響力は侮れず、上院を仕切るミッチ・マコーネルも、下院リーダーのケビン・マッカーシーもRINOなのだ。

日本人なら、多数を占めるMAGA派の議員から議長を選べばいい、と発想するけど、このひとたちはそんな「やわ」なことはしない。
あえてRINOの人物を選ぶのに、RINO潰しの条件闘争をやったのが、今回の議長選びの本質なのだ。

つまり、議長になりたくてしょうがないRINOのマッカーシー氏を、徹底的に追い込んで、MAGA派が目する諸目標を議長権限のなかに盛り込んだり、あるいは、民主党の前職ペロシ氏が伝統を覆した議長解職の封印を、たったひとりの議員からでも提案できるちゃぶ台返しをやったりもした。

そうやって、いつなんどきでも、マッカーシー氏が裏切ってRINOの本領を発揮しようものなら、即座に議長職を解職するというすさまじき条件にも同意させたのであった。

なお、「聖書文化」からの契約社会ゆえに、これらの同意は、ぜんぶ「文書」になっている。

これはまったくの、MAGA派の勝利で、粘った(追いつめた)甲斐があった。
MAGA派は、事前(選挙後から年末まで)に、相当な打ち合わせ(マッカーシー氏にサインさせる文書の文言準備も)をしていたとおもわれる。

にもかかわらず、MAGA派の領袖トランプ氏の党内指導力が弱まっている、という、信じがたいウソを垂れ流したのが日米の大手メディアである。
どこまでも、民主党グローバリズム目線だけなのだ。

新年から購読をやめた経済紙は、うわさによると、元旦から連日グローバリズム礼賛記事を特集したらしいが、まったくもって価値のなさを確認できたので、安心感に変わった。
まじめに読むと、脳が腐った情報が宇宙の壁に書き込まれてしまう痛恨からまずは予防ができたからだ。

さらに、RINO潰しは炸裂して、共和党内予備選におけるRINO候補を落選させるより、そもそもRINOの候補者を立てさせないための、既存RINO支持母体に対する、選挙関与の禁止まで要求して、同意させることまでやった。

そんなわけで、先にとぼけてマッカーシー氏支持を表明したトランプ氏は、ボチボチいいだろう、ということで、議場にいるもっともトランプ氏の支持者である議員に電話をして、マッカーシー氏への投票を棄権するように指示して、ようやくにして議長選出が決まったのである。

ただし、下院過半数の218票以上を獲得したわけでなく、棄権を含めない出席者の過半数での勝利(216票)だったから、マッカーシー氏には薄氷だった。
いつでも頸にしてやる、ということが最初から仕込まれている。

「身内」にもここまでやる、のが、「本場」の議会なのである。
あさましきものなのだ。

さてそれで、これからは民主党との闘いがはじまる。
日本にも、もちろん世界にも影響を与えること必至の議論がどうなるのか?
新議長が呑んだ議題の中に、コロナ関連の再調査もあるし、ウクライナ支援予算の凍結もある。

あさましきものの本番がはじまる。

「あさましきもの」になった日本人

初売りの、「福袋争奪現場」の映像を観て、げにあさましき、と思ったので書いておく。

清少納言の、『枕草子』は、紫式部の、『源氏物語』と双璧をなす、日本では平安時代の傑作でしられる。
『源氏』が「小説」で、『枕』は「随筆(エッセー)」の、歴史的作品で、残念ながらヨーロッパで女性が文学作品を残すのは、彼女らから700年以上後になる。

日本人は3つの文字体系(漢字、平仮名、片仮名)を駆使する、世にも珍しい民族だ。
いまではこれにローマ字が加わって、4つの文字体系をもって「国語」としている。

一般に、「アルファベット」という、表音文字は、英語で26文字だと教わるもので、大文字と小文字をあわせれば、52字になる。
ただし、「読み方=発音」について前に書いたとおり、「文字の名前」と「発音」は別だという体系がある

「ABCの歌(ABC Song)」でいうのは「文字の名前」で、「発音」と分けることを英語の先生がおしえてくれなかった恨みは深い。
何度も書くが、「T」と「h」、「i」、「s」で、「This」になったら、どうして「ディス」なのか?で、おおくの子供がつまずくようになっている。

国語として習った、ローマ字読みが通じないことだけは、子供だったわたしでも理解して、以来、英語とはいまだに馴染んでいない。

もちろん、アルファベットを用いる言語は英語だけではない。
たとえば、スペイン語は「27字」、ドイツ語は「30字」、ポーランド語は「32字」、ある。

そんなわけだから、外国人の日本語学習熱がマンガやアニメの「サブカル化」で、毎年ごとに「空前のブーム」になっているけど、「4体系の文字の存在」で、おおかたのひとがひるむのである。

日本で使われている漢字は、2010年(平成22年)に公示された、「改定常用漢字表2136字」ということになっている。
これに、おおかたの外国人には平仮名と片仮名が加わって、まずは呆然とし、さらにローマ字は発音に違和感ができるようだ。

しかし、平仮名と片仮名の表記に関する法則がきっちりしていないことで、とある外国人に、日本語でもっとも難しいのは、片仮名表記だといっていたことを思い出す。

このひとによれば、漢字は覚えるのは大変だけど、「部首」と「つくり」を理解して、ひたすら書き取り練習をすることでなんとかなるから、忍耐力が解決するけど、平仮名と片仮名はそれでは済まない難易度だという。

これには理由が二つあった。

一つは、外来語は片仮名表記にするという法則はよしとして、その片仮名がオリジナルの外来語とぜんぜんちがう発音なのだという。
たとえば、「アップル」と書いても、「Apple」の発音にならない。
なので、彼らの頭の中では、「Apple」を「アップル」と書くことが、たいへん困難だと。

もう一つは、法則がかんたんに破られてしまうことに戸惑うことだという。
たとえば、「アップル」と書くべきなのに、どうして「あっぷる」と書くことが許されるのか?
表音文字の言語のばあいは、おおかた文法が厳密だからである。

つまり、外国人には、「あっぷる」と「アップル」がおなじ「Apple」のことだとわかるのに、相当のタイムラグがあるという。
「あっぷる」とはなにか?がわからないのである。

ここに、「かわいい」という文化の理解がひつようになって、なんらかの理由でかわいい表現をしたいとき、片仮名が平仮名表記に変換される法則を発見するのだという。

日本人が「アップル」を「Apple」とそのまま英語で書くのは、やや堅い、フォーマルな表現なのだという法則にも気づくそうだ。

しかし一方で別のディープな日本語ファンの外国人には、マンガやアニメではなくて、『源氏物語』や『枕草子』を原文で読みたい、というひともいる。

関東の田舎者でそだったわたしや、わたしの周辺の友人に、ほとんど関西人がいなかったので、気づくのにやたら時間がかかったのは、やっぱり学校で習わないことだから、英語とおなじ、あるいは日本人としてはもっと深刻な恨みがあるのが「古文」だ。

平安時代の日本語は、言文一致していたのである。

なので、作品として残った文章は、そのまま「口語」でもあった。
すると、いったいどんな口調で読まれていたのか?もあるけれど、書き手の口調がそのまま記録されている、とかんがえるほうが先になる。

口調とは、発音のイントネーションとリズムだ。
つまり、(古代)京都弁にちがいない。

あたかも、標準語を基準に「京都弁」というけれど、ほんとうはえらく長い間、京都弁が標準語だった。
ゆえに、これら作品の「音読」には、いまでは京都弁の素養がひつようなのだ。

標準語のイントネーションで、「春は曙。。。。。」とNHKのアナウンサーのように読み出したら、味も素っ気もない「コンピュータ読み」となる。
「春」からして、標準語と現代京都弁はイントネーションがちがう。
使い捨ての「貼るカイロ」の「貼る」が、京都弁の「春」だ。

さては、「あさましきもの」の意味が、現代とは異なると辞書をみればわかる。
「取り返しのつかないこと」とかとあるけれど、ニュアンス的には「予想外で驚いた」ことが、のちに「みっともない」になったという。

いまの女子表現なら、「あきれちゃうわね」とか、「情けねー」、「あれれびっくりだわー」と、清少納言はいっている。
だから、「あさましい」と現代女子がいいだしたら、それは立派なことなのだ。

そんなわけで、「デジタル古語辞典」には、単語の「発音」を音声登録して欲しいだけでなく、例文にも正しいイントネーションとリズムがわかるような音声登録も欲しい。

このことは、外国語の英語辞書より、ずっと重要な機能なのではないか?
なにせ、日本人が日本語を忘れてしまうからである。

標準語で朗読するような、「あさましきもの」にしてほしくないのだけれど、取り返しのつかないことになっている?