「量子もつれ」の大光明

七草もすぎて、正月気分からの転換のために「賀詞」を書いておく。
「量子もつれの実験」が、2022年のノーベル物理学賞だった。

これを、NHKが「特殊な現象」といったから、どうにもならない。
もちろん、わたしはNHKだけでなくテレビを観ないので、「NHKがいった」というのは、ネット検索ででてくる「記事」をみたことによる。

とうとうこの公共放送局は、科学の解説すらテキトーになって、有料でみている視聴者を誤魔化している。
まことに、害悪しか社会に流さないので、もはや「反社」だといえる。

むかしは、原子が最小だったのだけど、それから原子核が陽子と中性子とでできていて、その周りを電子がクルクル回転していると習うまでになった。
だから、原子が最小ではなくなって、素粒子が最小に変わった。

ちなみに、素粒子にはまだ「仮説上」のものもある。

その素粒子のひとつである電子が、やっぱり素粒子(陽子や中性子などは「クオーク」という素粒子)からできている原子核の周りをグルグル回転しているかと思いきや、じつは「電子雲」という状態にあって、電子がどこに存在しているかの場所の特定は、「確率」になった。

なお、「原子」の大きさは、原子核を野球のボールとすれば、電子雲の大きさに換算すると、野球場を呑み込むほどもあって、この間にある空間にはなにもないという「スカスカ」なのである。

有名な二重スリットの実験で、まずは光が波動だとわかった。
粒子として、スリットを超えた側に筋となって届く(あとはクッキリ影になる)こともあるが、光源を動かすと影が縞模様になることもある。

つまり、スリットの裏に光が回り込んできて、波のような干渉をつくるから、粒のようで波のようだから波動であるとされた。
これでニュートン力学の限界となって、ニュートン破りをやったアインシュタインすらも量子の不思議な振る舞いには否定的だった。

この「不思議」が納得できないので、とある仮説を唱えたら、それが破られる実験結果がでたので、今回のノーベル物理学賞に至ったのである。

物理学が二系統になったのは、目に見える物質世界を対象にする、「古典力学」と、目に見えない極小世界を対象にする、「量子力学」になったからなのである。
その意味で、アインシュタインは、両者の橋渡しという驚くほど重要な役割を果たした。

量子力学がおかしなことになるのは、人間が電子という素粒子の位置を目で見て確認したら、その瞬間に素粒子が態度を変えるという現象がじっさいに起きるからである。

目に見えるとは、人間の網膜に光が入ってこれを神経細胞が捉えて脳に伝える、という手順がぜったいに必要なので、量子(この場合は電子)がもつエネルギーが変化するからだという。

ふつうの生活感からしたら不思議だけど、量子はかならずこうした態度をとるから、NHKの説明のようにぜんぜん「特殊なこと」ではない。
むしろ、これが極小世界では「ふつう」に起きている。

それでもって、「量子もつれ」とは、電子やら光子といった素粒子が、ある条件のスリットを通過したときに、二つに分かれて、これがそれぞれ逆方向に回転(スピン)しているのだけれど、一つの回転方向を観察すると、その瞬間に、もう片方の回転方向がその逆に決まるという現象を確認した実験がノーベル物理学賞になったのだ。

アインシュタインは、観察する前から決まっている、として有名な、「神はサイコロを振らない」といっていたのが、上に書いた仮説のことである。
しかし、観察するまでは決まっておらず、観察した瞬間に決まることが確認された。

このときの「その瞬間」が、光の速度よりも速いこともわかった。

だからなんなんだ?
となるけど、これは重大な発見で、最小単位の素粒子の振る舞いが、目に見える世界に影響するのは当然だからである。

つまり、古典力学の方に重大な影響が及ぶこと確実なのである。

それでどうした?

もちろんこの振る舞いを応用すれば、量子コンピュータやらの開発原理になって、いまとはケタがいくつも違う別世界の扉が開くことになる。
その最先端が、量子テレポーテーションの実用化で、実験室ではすでに実現している。

それゆえに、話は宇宙に飛ぶ。
じっさいに、宇宙での観測(見える世界)と理論の不一致が深刻で、見える世界が全体の5%ほどでしかないことはわかっている。

この空白を埋めるのが、目に見えないから名づけられた「ダーク・マター(暗黒物質)」と「ダーク・エネルギー(暗黒エネルギー)」だ。

2020年のノーベル物理学賞は、ロジャー・ペンローズを含む3名で、「天の川銀河中心のブラックホール」だった。
しかして、ペンローズ氏は「量子脳」についての提唱者でもあって、昨今のA.I.についても、量子論が入っていないことで否定的なのである。

 

この点で、数学者の新井紀子氏のベストセラー『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』の主張と合致する。

つまるところ、目に見えない世界の究極にある、人間の心、あるいは意識とは、量子の振る舞いであるという説だ。

これは、日本人のはるか祖先たちがかんがえていた、「たま・しい」とよく似ている。
「たま」とは、「御霊(みたま)」のことで、永遠不滅の意識のことをいい、「しい」とは、「肉体」のことで、こちらは着衣のように着替えるものという。

なので、死とはこれまでの「しい」を捨てて、新規の「しい」をみつけてはそこに入り込むという観念になった。

ちなみに、「勾玉(まがたま)」は、「たま」のかたちを表しているという。
翡翠(ひすい)の勾玉を、古代に、どうやって製作したのか?じつは不明だ。
翡翠の硬度は6.5~7度もあって、加工が極めて困難なため「オーパーツ」扱いされている。

これが、仏教の輪廻転生と結びついたのである。

なお、皇位が男系男子とされたのも、「玉(タマ)」がついている男性が発出する精液こそ、「みたま」の発露であるとかんがえた古代人には、それが母体で「しい」になることからだとの説がある。

さいきん、東大の研究で、宇宙の果てにある「壁」に、量子もつれによる一方のスピンが、全宇宙の物質に関しての情報を自動的に書き込んでいると発表された。
なので、わたしたちの「しい」も、「たま」としての記憶もぜんぶ記録されていると。

これは、死者もおなじなので、量子を応用すると「生き返る」ことになる。
物質としての肉体も、精神も性格も生存時の記憶も、再生できるというのだ。

「意識」が生命体であるとしたのは、あの『2001年宇宙の旅』シリーズでのアーサー・クラークの発想だ。
シリーズ最終作は、『3001年終局への旅』である。
全シリーズを読破してこそ、第一巻が理解できる。

問題は、人間の「意識」なのである。

見える世界しか見ないという態度こそ、唾棄すべき「大衆」なのである。
つまり、いま大衆である自分に発破をかけて、見えない世界も見る努力をするか、しないかが、「たま」となったときに大きくちがう。

これを、仏教が「悟り」といって、この世に生きている間に自身の心を磨くための「修行」を一般人にも要求したのに似ている。
すると、清浄なる心をもって現実世界を生きないと、宇宙に邪悪な精神が刻まれることにもなる。

まさに、道徳社会の実現こそが、大衆である個々人の「救済」をも意味するのだ。

これを、西部邁は『大衆への反逆』といった。

しかして、この救済は、「大光明」である。
宗教的な概念が、物理学によって証明されるのだ。

よって、人類が初めて地上に、道徳的かつ倫理に基づく社会を築く最大のインセンティブとなる。
すると、これこそが、アイン・ランドがいった、「未来のシステム」としての「資本主義」がようやく成立する条件となる。

人としてあるべき道を説く宗教を含めた倫理思想に、だんだんと物理学が接近していて、それが欧米発の思想ではなく、古代の日本人の思想と似てきている。
この分野こそ、日本人が世界をリードできるのは、道徳と倫理のエバンジェリストたる人類唯一の民族だからであるとかんがえる。

よきかな、よきかな。

首相の賃上げ要請の意味

いまの首相のことだけではない。
アベノミクスという社会主義政策をやった、安倍晋三氏は、その間に「働き方改革」なる珍奇な政策をもって、「賃上げ要請」を財界にしていたからだ。

それでも、岸田氏が財界の新年会にノコノコと出かけて、名だたる財界人の前で「賃上げ要請をした」ことがニュースになった。
もちろん、「ニュース」としては、「賃上げ要請した」という事実しか伝えていない。

けれども、このことが真の価値あるニュースなのは、「マジ」だからである。

絶対権力を持っている王様が、その権力のあらん限りを尽くして、「インフレよおさまれ!」と命令しても、世の中のインフレがおさまらないことは、むかしの「女・子供にもわかる」ことだった。

けれども、どんどん教育が劣化して、大のおとながわからない国になったのである。

それで、いう方だけでなく、いわれた方も、またこのことを伝える方も、三方みんなでこれをニュースにすることの滑稽は、観るに堪えない「エロ・グロ・ナンセンス」の極みといえる。

いわれた側の代表たる、「勇気ある」財界人は、賃上げできる経営環境の(政府による)整備がひつようだ、と首相に向かっていったそうだが、これをいわれた首相がそのイヤミを理解できるかどうかよりも、自社を儲けさせることができない御仁が財界トップであることのナンセンスが、もうどうにもならないのである。

それでもって、この会場にいたたくさんの財界人たちが、「いやー、首相に一発かましましたな」といいながら、水割りでも舐めている光景を想像するに、いたたまれなくなのである。

まったくの妄想になるけれど、たとえば、財界トップが石坂泰三だったり、土光敏夫だったら、「政府が経済に介入するからこうなる。首相は経済対策なる民間経済活動への邪魔をやめろ」とか、「行政改革として、抜本的に経済産業省を廃止せよ」とかいって、ざまぁみろというすっきり感をあじわいたい。

 

ましてや、株主でもない首相が、どうして民間経営に口をはさむ権利があるものか。
ただし、いまや「上場日本企業群」の大株主になった、日銀総裁がいうなら話は別だ。

日銀が保有している「日本株」を、いつ、いかなる金額で「売り出すのか?」という「出口」問題は、あまりの無惨を日本経済に与えるから、国債とは別に持っているしかない、ということでの、実質オーナーの立ち位置が確定している。

この意味で、すでにわが国の上場企業は、株式会社としての機能を失っている。
日本国債の国債市場がない状態にあることと、そっくりな状況を日銀が株式市場でつくった。

資本主義とはどういう主義なのか?ということを、定義したのはなんとマルクスで、共産主義から理屈立てただけの単純理由で邪悪な主義だと決めてしまった。
それだから、じつは資本主義とはどういう主義なのか?についての議論がずっと止まっているのだ。

ただし、マルクスの親派ゾンバルトによる、資本主義発生のメカニズム解説は、あんがいとユニークでおもしろい。

ほんとうの定義が不明なまま放置されているのをいいことに、いろんな知識人が「ポスト資本主義」を語ってこられたのは、マルクスの独善的な定義に無批判で接ぎ木したからにすぎない。
だから、ポスト資本主義が、ぜんぶ社会主義になるのは、当然なのだ。

ならば、世界で最初に「株式会社」を発明したのは誰か?

オランダ人がつくった「東インド会社」が、本国から遠いために資金調達が困難になって苦し紛れに植民地のインドネシアでやったのが、人類初の「株式の発行」であった。

なんと、これを真似たのが、イギリスで、それから蒸気機関の技術革新と結びついて、イギリス本国での産業革命となったのである。
この意味で、イギリスはいわれるほどの産業資本主義の勃興に貢献していない。

「紘工業」の最初は、鉱山から石炭を掘り出して燃やす技術と、蒸気エンジンから生まれる「回転運動」をもって大量生産した「繊維産業」だった。
このために、最初コショウと阿片を目当てに征服したインドで、綿花を作らせて原材料にして、できた布地をインドに持ち込んだのである。

なお、コショウは自国とヨーロッパで販売し、阿片は清国に運んで銀をえた。
その豊富な銀を通貨にしたらたちまちインフレになるので、貴族の生活に欠かせない銀食器になったのである。

ちなみに、スターリング・シルバーの「スターリング」とは、価値あるという意味だ。
ちまたに銀があふれたので、自分で価値あるといったとかいわないとか?
なお、幕末の日本から大量流出した金・銀も、これに貢献している。

なので、阿片栽培の一部を綿花にしただけだったし、紅茶は規模が小さかった。
インドよりもっと近い、地中海でつながる中近東(本当は北アフリカ)のエジプトでも綿をつくらせたのは、スエズ運河を強奪して管理しながら、もしものリスク回避の一石二鳥だった。

そんなわけで、英・蘭の現在につづく豊かさは、当時の巨大蓄積の恩恵により、それが近年になって、急速に底をついてきた。
これが、いま両国で起きている、社会主義化の原因となる貧困化だし、両王室が妙に威張っていられる原因でもあるのだ。

七つの海を支配した「大英帝国」を、イギリス王室は自ら「帝国」とはいわない。
さすれば、「王国」なのは、ヨーロッパ人は「ローマ帝国」をすぐさまイメージしてしまい、ローマとは地縁も血縁もないことがばれることを恥とするからだ。

それでもって、英・蘭共にあくまでも「王国」なのである。

さてそれで、どうしたことか、こんなざまの英・蘭を自公政権が真似て、わが国も貧困化する努力をしているのである。

それが、社会主義化=共産主義・全体主義を目的としているとしか、かかんがえられないのは、マルクスのリニア(まっすぐな一本道)な思想の実現だと解釈のしようがないからである。

だから、安倍氏もそうだったけど、岸田氏はもっと素直に、自身が独裁的権限があるとおもっていて、賃上げせよ、と平気でいえるのである。
そんなひとに、もっと政府が補助金をくれないとできませんよとおねだりしたのが、「財界トップ」という、いまや乞食の組合長なのである。

ちなみに、わたしがエジプトで暮らしていた80年代のはじめにも、ご当地には乞食組合がほんとうにあって、乞食の子はちゃんとした乞食になるべく、幼児の段階で親が子を不具にする悲惨があった。

これを題材にした、エジプト版の吉本喜劇のような大衆演劇の上演作品があって、劇場で鑑賞したことがある。

底抜けに明るい乞食たちの暮らしと惚けた主張が、喜劇になっていたのだ。

地中海の真北にある、古代ギリシャの悲劇を超越した深刻な現代劇が、喜劇になって、乞食を卑下する身分が高いエジプト人庶民たちが嗤って観ているという絶望体験だったのである。

それが、首相からの賃上げ要請という喜劇の本質で、ほんとうは絶望的な悲劇なのである。

メルケルの「けんかをやめて」

1982年(昭和52年)にヒットした、河合奈保子の『けんかをやめて』(作詞・作曲:竹内まりや)の歌詞をそのまま思いついたのが、「メルケルの告白」だ。

まずは、歌詞のさわりを。
「けんかをやめて 二人をとめて
私のために争わないで
もうこれ以上
ちがうタイプのひとを
好きになってしまう。。。。。」

昨年12月7日に、ドイツの新聞『ツァイト(DIE ZEIT:ザ・タイム)』に掲載された、メルケル元首相のインタビュー記事が今頃に日本語での話題になっている。

昨年2月からの「ウクライナ紛争」が、ロシアによる西部4州の併合によって、「戦争」になったけど、これはまったくの「見せかけ」で、本当の戦争準備は2014年の「ミンスク合意」からだった、と告白したのである。

なんのこと?

つまり、アメリカと西側各国(EUとNATO)が、「時間稼ぎ」としてやったロシアへの「罠」だったとズバリ言いきったのだ。
この和平合意は、ロシアに有利にみえた。

しかし、われわれ(EUとNATO)は、最初からこの合意を守る気は毛頭もなく、ウクライナとNATOの戦争準備をするための「方便=ウソ」だった、と。

この記事がでたことで、ヨーロッパ主要メディアは、一大反メルケル・キャンペーンを開始して、いつものように「発言をなかったこと」とするために、報道しない自由を発動した。

けれども、当時のフランス大統領だったオランド氏も、このメルケル氏の告白をあっさり「その通りだ」と「追認」してしまったのである。

ミンスク合意の「立会人」が、EUの二大国、ドイツとフランスだったから、両国の首脳による真実がでたことで、当事者のウクライナとロシアは即座に反応した。
もちろん、ウクライナのゼレンスキー氏は無視を決め込む反応だけど、プーチン氏は怒り心頭のコメントを発した。

邪悪なアメリカ人とヨーロッパ人たちが、ロシアを分割して資源を我が物にしようと策略して、ウクライナを利用した、と。

このことを日本語で裏づける記事に、昨年11月9日付けの『PRESIDENT ONLine』で、東郷和彦氏と中島岳志氏との対談がある。
この中で、東郷氏が「こんなにうまくプーチンが引っかかるとは思っていなかった。これでプーチンを弱体化できる」と、アメリカ・ヌーランド国務次官が発言したと「聞いた」といっている。

つまり、ヌーランドが「主犯」だと示唆するものだけど、彼女はオバマ政権下では国務次官補で、なお、バイデン副大統領と共にウクライナ担当だった。
だから、メルケル氏とオランド氏の後にいた「アメリカ」とは、事実上この人物のことなのである。

ちなみに、東郷家とは、生粋の外交官一家で、祖父の茂徳氏は終戦時の外務大臣、父の文彦氏は、外務事務次官から駐米大使になった人物で、和彦氏は条約局長をつとめて駐オランダ大使(本人はライデン大学卒)といったキャリアがある。

すなわち、記事上での「見聞」も、根拠があってのものとみるのは、職業外交官の習性に、曖昧な言質をとられることはしない、があるからだ。

そんなわけで、一方的にロシアが悪い、という理屈は成り立たなくなったのだけど、欧米主要メディアの翻訳コピーした記事しかださないのが日本のマスコミなので、一概に信用できない、という日本人が多数のままなのだ。

これは、人間の心理でもあるけれど、あんがいと「鳥の習性」とも似ていて、最初に見聞きしたものを信じることにある。
なので、プロパガンダの重要な点に、とにかく早く真実がバレる前に、大量に連続的に情報を流すことが肝要となる。

そうすれば、後から真実がわかっても、ひとびとはそれを信じないからだ。

なんにせよ、メルケル氏とオランド氏の告白には、ウクライナの人々の生活がどうなろうが知ったこっちゃない、という恐ろしい意味がある。
この意味で、ナチの手先となったゼレンスキー政権も、国民がどうなろうが知ったこっちゃないし、EUも日本も同類なのだ。

この感覚は、スラブ民族に対する、西ヨーロッパ人の強烈な差別意識が深層心理にあるからではないか?
どんなに口できれい事(たとえば「人道」とか「人権」)をいおうが、彼らの野蛮な本性がしれるのである。

それは、余りにも「従順な性格」のスラブ民族(Slav)のことを、語源にして「Slave:奴隷」としたことによくあらわれている。

つまるところ、ウクライナもロシアも、西ヨーロッパやアメリカ人からしたら、いまも、どうせ奴隷だという位置付けにすぎないことを意味する。
だから、奴隷が天然資源を豊富にもっていることを許さずに、ぜんぶ自分たちのものとするのが「主人としての正義」なのである。

すると、メルケルのいまさらながらの告白の意味とは、ぜんぜん反省していないことに基準をおくと、単なる「いい子になりたい」という、これまたどうしようもない幼稚な精神がみえてくる。

「アメリカの主導に従っただけだも~ん」という責任転嫁を真顔でできる厚顔無恥ぶりに、ただ唖然とするのである。

わが国がちゃんとした国だったら、つまり国民意識が高かったら、とっくにロシア包囲網から離脱しているだろうに、ぜんぜんできないのは政治家や政府のせいだけではなく、「けんかをやめて」ともいえない国民のせいなのであった。

国家主権の放棄がESG投資

各国政府というのは、古い概念になってきている。
つまり、世界政府への主権の移動がはじまっている。

これが証拠が、ESG(E:Environment:環境、S:Social:社会、G:Governance:ガバナンスを意味する)で、国連で決まったSDGsの企業経営版にあたる。

SDGsの下に経済活動としてESGをおこなうことが、事実上義務づけられたのである。
国連加盟各国が、これに承諾して調印をした。

このことは、一部のひとしか指摘していないけど、国家主権の放棄を意味するほどの重大事だ。
この重大事が、あたかもなかったこととか、関係ないといった態度でスルーされている。

関係ないとは、国民の生活に関係ない、という意味にまでなるのだけれど、関係ないはずがない。
それどころか、直結していて、個人として逃れることができないし、個人がルールづくりに関与しないという意味でしかない。

かんたんにいえば、あきらめろ、ということの命令なのである。
誰からの命令かといえば、国連から、だから、国家主権の放棄なのである。
すなわち、国家は国連の下請け行政機関に成り下がったのだ。

これは、巨大なEUで、EUのEはヨーロッパのEだが、文字どおりUNの国連がその本性をあらわにした。
選挙を経ない官僚機構が、選挙で選ばれた各国政府に指令を出すのだから、これを世界共産化政府の樹立というのである。

北朝鮮は金日成バッジの着用を義務づけたけど、いまは、ESGに賛同する企業の社員たちがSDGsバッジを着用させられている。
これは、ESGを表明しないと、国際取引での排除を意味するからである。

つまり、ビジネス契約が継続もしくは、新規にできない。

あたかも、排他的な事業組合を、全産業に強要しているのである。
だから、全体主義である。
これら国際間取り引きのある企業の従業員は、この強制から逃れられない。

ここに、外国人も宿泊する旅館やホテルも含まれるし、外国人の利用がある国内交通機関も含まれる。
また、外国から肥料や飼料を買い付けている農業も、逃れられない。

賛同しない限り、売ってくれないし、買ってくれない。
とにかく、全産業、なのである。

それだから、投資会社は証券会社も、ESG関連株とかと称して「将来性」を謳って販売している。
「持続可能ですよ」と。

しかしてその「持続可能」とは、世界政府のことである。

国家主権を放棄したくない国や、いったん政権によって放棄した国でも政権交代したら主権を取り戻す動きになるはずだ。
このとき、国連はこうした国々に「制裁」をするのだろうか?

じっさいに、常任理事5大国のひとつ、ロシアは主権の放棄をしていない。
英国とフランスは放棄した。
中国は微妙で、アメリカはオバマ政権が放棄したのをトランプ政権がちゃぶ台返しをやった。

その恨みが、トランプ追放を画策したバイデン政権で、しつこくも共和党(トランプ派)は再度取り戻そうとしている。

EU内では、ドイツが放棄したけれど、ハンガリーは放棄を拒否した。
イタリアの現政権は、フランスを植民地支配を続けていると名指し非難して、いまや両国はにらみ合いを続けているけど、マクロン政権の基盤が揺らいでいる。

イタリアがいう、植民地主義とは主にフランスのアフリカ支配のことを指す。

1884年(明治17年)11月15日から翌年の2月26日まで開かれた、「アフリカ分割会議(「ベルリン会議」と誤魔化すこともある)」で、ヨーロッパ列強が、アフリカ大陸の分割を「決めた」のである。
仕切ったのは、ビスマルクで、当時のドイツは「第二帝国」だった。

もちろん、アフリカ人はひとりも参加していない。

これで決まった「分割地図」をみれば、どうしてベルギーがチョコレート大国なのかもよくわかる。
カカオ豆の産地をベルギーが抑えたからだ。

日本人も、チョコレートを食べるときにはアフリカ人の血と汗の苦味を感じるくらいの感性がほしい。

じっさいに、いまフランスが原子力発電大国なのも、フランスがとった北西アフリカがいまでも天然ウランの産地だからである。
イタリアはリビアとエチオピア・ソマリアの一部をとったが、この中心が「白地」なのは、ヨーロッパ人に免疫がない疫病の発生地帯だったからだ。

ムッソリーニのイタリアのリビア支配に反旗を掲げたオマー・ムクターとの死闘の実話を描いた一大歴史絵巻が、『その男ゾルバ』や『アラビアのロレンス』で有名な名優、アンソニー・クインが演じている。
けれども、ムッソリーニだけを非難してもはじまらない、全ヨーロッパ人の強欲がこの大陸を支配していたのである。

 

そんなわけで、いまどきはEUの統一だって、不安材料がたっぷりで、ことしはスペインで総選挙が予定されている。
昨年の2月の地方選挙で、いわゆる「極右」が大躍進して、ラテンの兄弟イタリアと歩調をあわせている感があるからどうなるか?

植民地主義を肯定するマスコミが書く「極右」とは、民族自決をいうひとたちで、アフリカ人の自立を認めて支援する側をいうから、やっぱり主要マスコミこそ過去の植民地主義が忘れられない邪悪で強欲なのだ。

3日に招集されるアメリカ連邦下院では、議長が誰になるのかの混沌があるように、主権を取り戻す共和党トランプ派と、主権を放棄する民主党と共和党のネオコンの争いが、内戦勃発を予想させるほどの緊迫を帯びてきた。

わが国は敗戦で、とっくに主権を放棄したので、誰が首相になろうが、なんど選挙をやろうが変わらない。
ただし、国民にも奴隷にされることに抵抗する小数派がいるので、すでに「奴隷の幸せ」を享受しているひとたちとの対立はこれから起きるだろう。

その奴隷になることの幸せ(な心理)を描いたのが、作者不明の『O嬢の物語』だった。
一応、ポリーヌ・レアージュ作となっているが、誰だか不明のままなのだ。

作品はあたかも「エロ」をもって表現しているけれど、自由を奪われることから積極的(主体的)に奴隷になることを選ぶ。
それこそが解放なのだという逆説の帰結は、あまりにも衝撃的で理解困難であった。

いま、人類はその理解困難な心理に落とし込まれる瀬戸際にある。
そして、『1984年』の主人公同様に、死を許可されることが示唆されて物語は終わるのである。

 

新聞がこない平穏な正月

字を覚えてから、はじめてわが家に新聞がこない体験をしている正月である。
契約していても、ほとんど読んでいなかったから、べつだんどうということもないのだけれど、野菜を包むのに困るからと、「紙」として保存している。

もちろん、電子版も契約していたけれど、こちらもほとんど読んでいなかったので、やっぱりどうということもない。
ただし、クリップしていた記事も読めなくなったので、Evernoteに保存していたことが役に立っている。

新規でEvernoteに保存もしなくなるけど、大勢に影響はないかとおもわれる。
「無料会員」でも、月間2本までは記事を読めるそうだから、これだけあれば十分ではないか?

それほどに、ほとんどの記事の価値がないからだ。

おおくのひとが、新聞社の「余命」についてコメントしていて、だいたいあと10年位を目安に、終わる、と予想されている。
一般紙の方では、記者が配置転換でグループ企業の事務職になっているそうだ。
これをみて、新入社員の応募がないのも、余命の換算につかわれている。

記事の卸業者である、共同通信や時事通信ではどうなっているかが発表されていないので不明だし、自前で情報をとる大勢があるNHKも、内部事情はよくわからない。

物品の流通では、卸業者(いわゆる問屋)が、その役割を失いだして、ネット系に奪われた感があるけど、ニュース記事の問屋である通信社は、購入先の新聞社がなくなると販売先がなくなるのでどうするのか?

記事あたりの料金を下げるのか?あるいは、品質にあたる記事の信憑性を高めるのか?しかないけれど、後者はできない相談なので、もろともに沈没する覚悟なのだろう。

民間テレビ局はどこも、親会社が新聞社なので、親がコケたら子もコケる構造から逃れられない。
地方紙は地銀とおなじで、大合併とかしないと当面はいけないけれど、おカネじゃなくて地元情報が商品だから、合併を躊躇して余命を短くしている。

そうなると、生き残るのはNHKだけになる。

もしや、県庁所在地ごとにあるNHKの支局が、地方新聞社を買収して、ローカルテレビを複数チャンネルもつようになるのかもしれない。
さすれば、NHKが映らないテレビを買う意味も失う。
ただ、それで視聴者たる国民が満足するかどうかはしらない。

社会学者がどんなテーで仕事をしているのか?も、国からの研究費に依存させられて久しい。
なので、新聞社の余命について、社会的な問題としていうひとが少ない。

それなりに高度な文明社会を生きるには、第一に識字率を上げるための教育が必要だということは誰にでもわかる。

これが、欧米に倣った明治からの学校教育の普及が急速だったというファンタジーになっているけど、江戸時代の寺子屋の普及こそが世界に誇れる識字率を確保していたのである。

しかも、賢明なことに江戸幕府は、教育庁を置かないで民間での教育をやらせていた。
浪人対策もあっただろうけど、その大方針が「読み書き算盤」だったのは、同時代の欧米からしらしたら驚嘆に値することを庶民が自主的にやっていた。

これだけでなく、支配層となる武士には、朱子学を奨励して幕閣だけでなく各藩ともこれに倣ったから、四書五経を解さない武士はいなかったのである。
それで、江戸も後期なれば、有力農民でも四書五経を率先して学んで、次の時代に備えていたのである。

それゆえに、じつは知識人はもとより、一般人も、それなりの教養があった。

このレベルは、現代の知識人をおそらくゆうに超える程だから、いま知識人とよばれているひとたちの知識は、むかしの庶民が鼻で笑う程度にすぎないとかんがえるほうが妥当だ。

なので、新聞が発刊されても、これを「聞屋」と「売文」の「文屋」とかけて、比較的蔑まれた職業が「新聞記者」というものだった。

いまのひとは、「学歴」に頼ってひとの能力を天秤に掛けるような乱暴をするけれど、むかしの庶民は人生の早くから働いて、余暇に和歌や俳句をたしなんで、世界文学全集を読むほど自己研鑽に余念がなかったので、学歴だけでは役に立たなかった。

そうやってみると、むかしよりはるかに高度で複雑な情報社会に生きるしかないのに、情報が偏ることの身の危険に気がつかないのは、まちがいなく「退化」である。

だから、偏向を旨とする新聞社が余命を迎えるのは、需要と供給の原理からすれば当然のなりゆきにすぎないけれど、それでもって、ハッピーになれるわけではない。

かえって、邪悪なNHKが情報独戦企業体になってしまえば、もっとひどいことになる。

だれであろうが、Twitter社の大変化をみたら、倒産間近になった新聞社を買いたたいて、それでもってちゃんとした報道機関にすることができないといけないのである。

敗戦後、GHQは内務官僚だった正力松太郎に、経営が傾いていた読売新聞を買わせて、その後CIAのコントロール下において日本人の洗脳機関とした。
ならば、その逆を誰がやるのか?という問題になっている。

個人的希望をいえば、もうトヨタ自動車しかないのでは?とおもうのである。

そうなったら、購読契約をするかもしれない。
それまでは、とにかく新聞がない平穏を楽しみたい。

機能不全の政府がいよいよ

今年は悪い予想が、去年のうちから世界を席巻している。

世界的な食糧危機の指摘である。
国連食糧農業機関(FAO)と国連世界食糧計画(WFP)は、揃って警告を発している。

もちろん、両機関とも「国連」の機関なので、全面的に信用できない原則に変わりはない。
ただ、なにはともあれ、結論にあたる「飢餓」については、意識しないといけないのは自己防衛からだ。

信じてはいけないのは、そうなる「理由」で、ありもしない温暖化をいうからである。

我々の食料は、ぜんぶ植物に依存している。
植物(海中ならプランクトン)を、動物が食べて、それをまた食べるという連鎖をしらないものはいないのに、温暖化の危機という嘘にコロッと騙される。

植物の成長には、温度の高さはもちろん、二酸化炭素濃度が高い方がよく育つからだ。
恐竜が栄えたのは、人間活動とは全然関係ない植物の繁栄が原因で、当時の二酸化炭素濃度はいまよりもずっと高い5倍もあったのだ。

だから、園芸系の農業では、「炭酸ガス肥料」が使われていて、ビニール・ハウス内の炭酸ガス濃度を外界よりも人工的に高くしている。
イチゴやメロンなどが、甘くて大きく育つのだ。
ナス科のピーマンなども同様だ。

火星移住計画のなかで、NASAがやった食料栽培実験でも、いまの数倍の二酸化炭素濃度にしたら、植物が巨大化した。

しかし、これは化学でかんがえれば当然で、植物は空気中の二酸化炭素を光合成を通じて食べているからである。
それで、セルロースをつくって細胞膜にする。

ちなみに、セルロースの化学式は「C6H10O5」だ。
炭素Cが6個
水素Hが10個
酸素Oが5個 でできている。

コメも小麦も、ぜんぶが炭素からできていて、可食部にあたる「タネ」もおなじだから、二酸化炭素濃度を下げる努力とは、愚の骨頂なのである。
人間がこれを食べるのは、でんぷんとなった炭素をグルコースとして消化して生きているのである。

ちなみに、グルコースの化学式は「C6H12O6」だ。
植物は、セルロースで身体をつくり、でんぷんでタネをつくっている。

中学生ぐらいの理科でこれを理解できるのに、どうして脱炭素との矛盾が問題にならないか?といえば、すくなくとも日本国内では、「暗記教育」が主におこなわれていることで、かんがえる力を弱めるからだ。

昨年の10月27日に文部科学省が発表した、令和3年度の小中学生の不登校者数は、約24万人で過去最高を記録したという。
人数の絶対値でいって過去最高というけれど、少子化の時代だから、全体に占める割合はもっと深刻な数字になるだろう。

しかも、この調査のタイトルは、「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査結果の概要」であって、「問題行動」だと決めつけている。

問題行動をしているのは、文部科学省の方なのだ。
自分でかんがえる力をもっていれば、学校が苦痛になるのは正常行動だろう。

わざわざ嘘を教わりに学校に行く。
これに気づいた子供は不登校になり、鈍感でなにもかんがえずに暗記さえすれば成績がよくなる子供は、エリート扱いされている。

そんなわけで、自分でかんがえる力がない者たちが、高級官僚になっている。

だから、「国連」のいいなりで構わないし、国連から命ぜられたままにするのが、一番楽で、これによる結果責任をとる気もない。
「だって国連のいう通りにしたんだもん」で済むのだ。

これがワクチン接種で実施されて、ちゃんと「前例」までつくった。
なので、食料がなくなると警告をいっておけば、対策なんか適当でいい。
そもそも、小規模農家ばかりにしたのは、GHQだったのである。

それがまた、元小作農家の方も、「先祖代々」ということにしてきた。
もちろん、地元の自作農や元庄屋からは、いまでも小作だったことで差別されても文句をいったこともない。

けれども、温暖化とかには関係なく、ロシアから制裁されて肥料の原材料供給が止まったから、耕しても肥料がない。
不足すれば高騰もするので、よしんば購入できても採算があわない。

丹念に育てた子供はみんなサラリーマンになって、都会暮らしだ。
だれも農家を継ぐものはないから、ボチボチ廃業しても仕方がない。

こんな具合で、農地はあっても作付けしないということが、今年はいよいよブームになりそうなのである。

一方で、世界は干ばつの被害が拡大していて、食料安全保障を名目に、生産国が輸出を規制する動きになっている。

国内でないならば、外国から買えばいい、という金満なわが国は、すでに貿易赤字国になっていて、金満とはいえないけれど、そもそもが売ってくれないという事態が目の前にある。

新年早々、気の重い、逃げようもない現実がある。

口が曲がるカルビクッパ

口中がヌルヌルした気持ち悪さがずっと残る化学調味料の味を感じてから、焼き肉屋での食事で納得したことがなくなった。
それに、わたしは「赤身」が好みなので、サシがたっぷり入っている「トロ」のような肉は好みではない。

焼肉店の高級感は、どうしてもサシがある脂肉の高級さに向かうのだろうけど、わたしにとっては高級の意味がちがうのである。
だから、「すき焼き」や「しゃぶしゃぶ」の専門店も、有名な店ほど美味いと思ったことがない。

どうしてあの脂肉を煮るのか?とか、湯に潜らせてわざわざ脂肪分と旨みを湯に溶かすのか?がわからない。
「シメ」のうどんとかラーメンが美味いのは、捨てた旨みを麺が吸い取るからだろう。

中学か高校生の頃だったか忘れたが、『美味しんぼ』で、「肉をもっとも不味く食べる方法」とあったのは、無条件に合点がいった。
なので、自宅でやるのはせいぜい赤身で作る「すき焼き」までで、「しゃぶしゃぶ」には興味がない。

ずいぶん前にとある機関投資家から、チェーン化したしゃぶしゃぶ店の再生のために社長職を依頼されたことがあったけど、自分が嫌いな料理の店を経営することの不道徳が嫌だったので、候補から落ちるように面接で嫌われるだろうことを発言して、無事を得た。

やっぱり肉は焼いたのが一番美味い。

父親が魚嫌いで肉好きだったので、子供時分から近所の焼肉店におそらくボーナスのたびに連れていってもらった。
何度か会社の集まりで、横浜駅裏にあった焼肉店にも同席したが、近所の店の方がずっと美味かった記憶がある。

いまからしたら、よく会社のカネで子供が飲食できたものだ。
同席している子供は、いつもわたしだけだったからである。

群馬、栃木、茨城の三県を「北関東」というけれど、神奈川県に住んでいるひとにはあまり、「南関東」という実感がない。

そもそも、横浜人は神奈川県民であることすら意識しないで暮らしているものだ。
せいぜい、神奈川県立高校に通ったことぐらいしか、神奈川県との付き合いがないし、かつての青春ドラマを絵に描いたような、ハッキリいってどうして教師になったのかに疑問を感じる教師陣であった。

県の有名度ランキングという、なんだかわからないもので、これら三県の全国における不動の下位に、「北関東」の意識がかえって高まっているようだ。
それでかしらないが、どういうわけか南関東にない飲食チェーン店が、北関東にはたくさんある。

神奈川県は「令制」でいう「相模国」と「武蔵国」とでできていて、いまの横浜市や川崎市は武蔵国にあたる。
なので、相模国との統一感はいまでも薄いと思われる。

それに、神奈川県から見ても、千葉県から見ても、「南関東」で一緒にされる道理はない。
東京湾すら、しっかり分断の原因なのである。

浦賀水道がアジアとヨーロッパを分けるボスポラス海峡のようでもある。

横浜から見たら川崎を下位においてきたけれど、川崎側のアンチ横浜意識はそれなりで、ずいぶん前に横浜中華街に対抗して、川崎コリアタウンを企画したことがあった。

東京の会社に通っていたとき、途中下車して川崎の焼肉店にはずいぶんお世話になったものだ。
けれども、化学調味料の味にどうして気づかなかったのか?はわからない。

この10年で、気がついたのである。

最初は、北関東の焼肉チェーン店で、カルビクッパを食べた後味の悪さであった。
それから、横浜の有名店での水キムチの「水」が、舌にこびりついて、シメのカルビクッパでとどめを刺された。

以来、焼肉店行脚がはじまって、なかなか合格店が見つからないでいる。
これは一体どういうことか?
結局のところ、「出汁文化がなかった」というのが結論か?

ここにも日本人の特殊性があるのかもしれない。
とにかく、日本人のふつうとは、料理の基本に出汁がある、という常識だからだ。
フランス料理でも、中華料理でも、それぞれに出汁がある。
フォンドボー(fond de veau)しかり、中華スープしかりである。

けれども、朝鮮半島に出汁文化はなかった。
それで、科学調味料使用が世界一になったのだという説がある。
つまり、何にでも入れる。

しかし、人類の歴史で科学調味料を発明した(1908年:明治41年)のは、日本人で、あの会社(製品化は1909年)を設立した。
朝鮮併合が1910年だから、あの会社の科学調味料が「同胞」のもとにも普及して世界一になったのだろう。

すると、正統なカルビクッパだから、化学調味料の味がする、ということになるし、それが全ての料理でそうなっているのだ。
さいきんでは、科学調味料不使用、という調味料が販売されていて、科学調味料完全不使用を看板にしているお店もある。

口が曲がるカルビクッパが正統だから、これは一体どう考えればよいものか?

ニューヨークの中華料理店で大量に使っていた化学調味料で口が曲がったのを、ニューヨーカーは「チャイニーズシンドローム(中華料理店症候群)」と呼んだが、これはスープの出汁をとる手間を省いたからであったけど、そもそも出汁文化がないものを「シンドローム」というのか?になる。

なんにせよ、唐辛子も日本から半島に伝播した(ちゃんと記録がある)ものなので、全部がここ数百年のあたらしい料理なのである。

やっぱり『チャングムの誓い』は、料理もファンタジーだった。

【2023年頭】日本語再考

謹賀新年
2023年、年頭にあたって

2017年10月31日からはじめたこのブログも、5年以上が経過して、おそらく年内に1700本を超えるとおもわれる。

よくも話題があったものだと我ながらおもうこともしばしばだ。
もとは、「思索の時間」という個人のかってな楽しみだったものを、どうせならとブログにしただけだった。

ちょっとアーカイブのようになってきたから、話題がダブらないかチェックすることもある。
言葉については、何度も書いている。
それが「母語」となると話は深くなるからだ。

要するに、人間は思考する唯一の動物で、その思考から文明も文化も生まれて、日々の仕事も生活も、ぜんぶが「母語」に頼っていることの確認になるからである。

このところ、日本語がやたら達者な外国人が増えている。
その中でも、「母語」が日本語だというひとたちがいるのは、べつに不思議なことではない。

片親が日本人で育った環境とか、幼少時に来日してそのまま成人になったとかの人生があれば、「母語」が日本語になっておかしくない。
日本語しかつかわない、ふつうの日本人がうっかり忘れてしまっていることを、こうしたひとたちがハッキリと自覚していることに新鮮味がある。

やっぱり一種の、アウトサイダーなのだ。
とはいえ悪い意味ではない。
外側から観察できる視点は、貴重だといいたいのである。

母語とは、かんたんにいえば、脳内で思考するときにつかう言葉である。
だから、どんなに日本語が巧くても、深くかんがえるときに、もしも英語をつかうなら、そのひとの母語は英語である。

すると、不思議でもなんでもなく、やっぱり文化的態度が英米人のものとなる。
日本語が母語だと、見た目ではどこからしても外国人の文化的態度が、どうみても日本人になるのは当然なのである。

そこに、言語のもつ力があって、人間が言語による思考と行動をすることの証左となっている。

これが支配者によって悪用されると、言語の入れ替え政策がおこなわれて、ある日「公用語」がかわる。
たとえば、台湾では日本語から中国語への転換強制が実施(1946年10月26日)された。

人間から言葉(しかも母語)を奪う、というのは、究極の自由剥奪なのである。

しかしながら、日本人がこれを「他人事」としている。
じつは、日本人も言葉を奪われたのだ。

それが、「旧仮名遣い」あるいは「歴史的仮名遣い」の禁止と、「新仮名づかい」の強要なのである。
かくいうわたしも、新仮名づかい「だけ」を教わったから、この文章も新仮名づかい「でしか」書けない。

明治に起きた「言文一致運動」の破壊もあって、江戸の庶民が愛読していた「滑稽本」でも、いまではスラスラ読むことができない。
その本に書かれている、行書体がもう読めないというだけではない。
「鑑定団」に出品される書画の多くが、そのまま読めないのだ。

つまり、外国語のように言葉による壁をつくって、過去の日本人が残した文書を、後世の日本人に読めなくした。

だから、「新訳」という「訳本」をみないといけなくなった。
ところが、その「訳本」の対象は、もう明治期の作品にまでなっている。
「旧仮名遣い」と漢字がそのまま読むのに難易度があるからだ。

このことをよくよくかんがえてみたら、作家のオリジナル日本語を堪能していないということに遅ればせながら気がついた。
昭和40年代、つまり高度成長期に、文庫本がつぎつぎと「新装版」になった記憶がある。

かつての表紙は、どの出版社も「パラフィン紙」だけだったのが、きれいな紙の表紙カバーになった。
しかし、中身も「新訳」として、歴史的仮名遣いを現代仮名遣いに訳したのを「新装とした」のだ。

たとえ文語でも、作家の脳内は「書くとき」には、ぜったいに文語で思考している。
あるいは、言文一致運動以降でも、まだ「旧仮名遣い」で思考しているはずだ。

そうでなければ、書けない。

いま、「旧仮名遣い」をあえて学ぶのは、国文学の学生に限られるような状況になったけど、昭和の敗戦までは、「旧仮名遣い」がふつうだったのである。

そんなわけで、今年のわたしにとっての「はじめ」は、旧仮名遣いへの挑戦である。
読者に旧仮名遣いで書いたものをお見せするという意味ではない。
ここで公言したものの、あくまでも個人的嗜好のはなしだ。

先ずは、こんな入門書から入門を試みたい。

なお、旧仮名遣いにこだわった作家としては、福田恆存が代表だろう。
このひとは、シェイクスピア全集の翻訳もしたけれど、もとは教員だった。
戦後になって、保守言論人の重鎮にまでなったけど、政治家ではなかった。

挫折しそうになたっら、上記をガイドにして踏ん張れればいいとおもっている。
しかしながら、ほんとうに今さらながら、旧仮名遣いの価値に気づかなかったのかと新年早々にして恨めしいのである。

この意味で、学校教育の日本語破壊は、かなり練られた意図があるとわかる。
最初のトリガーを引いたのはGHQであっても、実行して80年近く継続しているのは、日本人の教育者なのだ。

日本語の破壊とは、日本文化の破壊を意味して、日本人の破壊に至る。

その破壊された日本人のひとりが、ここにいる自分なのだ。
残りの人生で、ちょっとだけでも日本人を取り戻しておきたいものだと改めて思った元旦だった。

今年もよろしくお願いします。

天然ガスの戦時保険

抜け駆けなのか、底が割れたのか?
ロシア制裁という茶番の一つの姿が、日本への天然ガス輸送に関する損害保険の継続適用だ。
もちろん、日本に住む日本人としては喜ばしい「事件」に見える。

ヨーロッパの愚鈍たちは、自滅のロシア制裁をどうしてやり続けるのか?という各国国民の疑問に、ぜんぜん答えていない。
それがまた、反動になって、反EUの勢力が支持者を増やしているのに。

もちろん、これをEUにやらせているのがアメリカ民主党バイデン政権だ。

何度も書くが、EUという国際機構は、EU委員会という官僚組織が、各国政府の上に君臨する建て付けになっている。

どういう立場なのかはっきりしない、「EU大統領」という欺瞞の役職もつくったけれど、「EU委員長」の英語表記「President of the European Commission」でわかる通り、こちらが真の大統領なのだ。

しかし、EU委員長は、加盟各国の国民による選挙を通じて選ばれているのではない。
つまり、その権力の源泉が、最初から邪悪なのである。

一方で、これも何度も書くが、EUをカネで支えているのは「ヨーロッパ中央銀行(ECB)」だ。
この組織も、加盟各国の中央銀行の上に君臨していて、「表向き」は、統一通貨ユーロの価値を維持するための施策を実行しているかに見える。

けれども、各国レベルのマクロ経済を、どうやって圏内経済としてのローカルに落とせるのかといえば、目に見えない「為替操作」をやるからだ。
つまり、各国中央銀行がやるべき為替操作をさせないことで、君臨しているのである。

ふつう、中央銀行が持っているオプションは、通貨量のコントロールで、そのまたオプションが、金利操作である。

これによって、政府が発行する国債の価値が決まる。
なぜなら、中央銀行が国債の購入を通じ(引き受け)て、市中銀行の中央銀行口座残高をコントロールするからである。

しかし、ヨーロッパはユーロという統一通貨にしたために、各国中央銀行はECBの支店に落とされた。

EUから離脱した英国は、市場としてのEUに未練たらたらだ。
その英国には、世界の保険の「再保険」を握る、ロイズがある。
再保険とは、保険会社が掛ける保険の引き受けである。

成り行きからできた「ロイズ」は、もとはコーヒーショップ(喫茶店)だった。

開業した場所が金融業の集積地でかつ、船員がいたために、気の利いた店主(ロイド氏)が街のビジネス情報を提供した。
そうしたら、保険屋たちが集まってきて海上保険の再保険投資が常連たちによってできたのである。

座礁事故や海賊の襲撃がふつうにあった時代のベニスを描いたのが、シェークスピアの『ベニスの商人』だ。
この喜劇(少なくとも作者は喜劇とした書いた)のそもそもは、とある船の積荷を買い占めていた人物が、座礁によって破産したことからはじまる。

それで、ユダヤ人商人が貸したカネの回収にあたっての要求と裁判が、この物語の白眉になっている。
もちろん背景には、キリスト教徒からみたユダヤ人差別が常識としてある。

生命保険は、被保険者が死んだら支払う、を前提とするけれど、損害保険は損害のリスク発生確率が前提となっている。

なので損害保険会社は、自社の儲けを確保した上での発生確率をもって保険料とするが、たまに外れ値的な事故が起きたら、やっぱり支払い義務を負う。
このリスクを再保険の対象にするのである。

つまり、顧客と契約する保険会社は、再保険を掛けられない保険商品を販売しない。

生命保険の外れ値も、長生きしないで逝ってしまうことだから、おなじように再保険の対象としている。
どちらも、確率統計が事業の基礎をなしている。

すると、海上運送で保険を最初に申し込む荷主は、再保険料も加味した全部の保険料を負担させられる。
これが運送コストに加算されて、そのまま流通価格なって消費者が全てのコストを負担する。

消費税とは、こうしたコストに対してさらに国が消費者から掠め取るものだ。

消費者は、所得税を取られた残りで消費生活をしているので、広い意味で二重課税になっている。
同じく、贈与税も相続税も、所得税の後からやってくる二重課税だ。

さてそれで、サハリンから出た天然ガスの日本への輸送分が、どうして再保険禁止のお目こぼしの対象になったのか?

わが家では年内で契約期限がくる経済新聞によると、なんでも日本国政府なかでも、資源エネルギー庁と金融庁が保険の継続を画策したおかげのような書き方で、いつも通り懲りずに国民を騙していないか?

日本の損害保険会社は、どこも再保険の業務をやっていないのだ。
生命保険なら、日本にも再保険を引き受ける会社はあるけど。

むしろ、ロイズがロシア制裁に賛同しているなかで、どこと再保険契約をしたのか?という肝心な情報が何もないのである。
まったく記事としては「速報レベル」で、役に立たない。

つまるところ、再保険禁止をかかげたロイズが引き受け手なら、日本にだけ抜け駆けを許したことになるし、ロイズ以外、ということになると、これはこれで「事件」である。

世界の再保険業界の、ほぼほぼロイズ独占が破られたことになるからだ。

もし前者なら、ドイツをはじめとした国々からの怨嗟の声となるだろうし、後者なら、今後ロイズからの逆襲(制裁)を食らうことになろう。
しかも、「ロイズ破り」をしたがる意思と可能性のある国は限られている。

一貫性を欠いた、自公政権のいいとこ取りが、貿易立国を支える我が国の「海運」を保険の根幹から破壊するかもしれない。
しかも、相手がクリスマス・ニューイヤー休暇での仕業なのだ。

おそらく、年初早々に、なんらかの動きが英国やEUからやってくるだろう。

これが今年最後の本ブログ記事になった。
皆様には良い新年をお迎えください。

ヤバイ民主主義

民主主義がぜったいに正しい政治手法か?といえば、そんなことはない。
にもかかわらず、日本人は民主主義がぜったいに正しい政治手法だと思いこまされてきた。

この論理は、帰納法である。
なので、反対側からの演繹法だと、民主主義がぜったいに正しいとはいえなくなる。

帰納法は、論理による積み上げ方式の思考で、演繹法とは「はじめにありき」からの落とし込みの思考法なのである。

だから、あるべき姿を最初に設定して、それを実現するための方法をかんがえると、帰納法からの答と異なることはよくある。
いまある問題のより良い解決策を論理的に導く方法だと、あるべき姿という最終ゴールがわからなくなることがあるからだ。

なので、企業実務では両方のアプローチから解決策を「寄せる」ことがおこなわれてきた。

しかし、これがこと「国家」となると、検討すべき事項がやたらと増えて、なにがなんだかわからなくなって、ついには多数決で決めることに合理性があるようにみえるのである。

判断には、事前の情報がないといけない。
これを本業としたら、生活のための業務をおこなう時間がたりない。
それにまた、国民の全員が事前の情報に触れるのは困難だし、個人の能力には「ムラ」があるから、情報が与えられてもおなじ結論に至るとは限らない。

それゆえに、「代議制」が発明させた。
意見や思想をおなじくする大勢のひとたちの代表として選ばれたひとが、みんなに代わって情報の収集と判断をすることが、いちばん合理的だったからである。

対して、直接民主制をやっている国もある。
よくしられているのは、スイスだけれど、そのスイスのやり方の細かいところまでしっている日本人はすくないし、スイス人のかんがえ方の根本についてもくわしくしっているわけではない。

大雑把にいえば、スイス人は万遍なく優秀である、という前提がある。

この自画自賛の発想は、かつてヨーロッパ最貧だった山国のどこから生まれたのか?
あまりに喰えないために、ヨーロッパ各地の王侯に雇われた傭兵となって、出身地の村はちがえどスイス人同士が殺戮を繰り返していたのに。

逆に、そんな貧困が一歩まちがえると再び実現するので、「儲けること」についての貪欲さが他のヨーロッパ諸国よりも強烈になって、「一国平和主義」を国是とするようになった。

つまり、よその国がどうなろうが関係ない、というのがスイス人なのである。

なので、独特の民主主義を採用したのも、論理的帰結であった。
それが代議制と直接民主制の両方を採ったことにある。
ただし彼らの心の深層には、激烈なカルヴァン主義があるから注意がいる。

直接民主制のミクロな本音に、他人がどうなろうと関係ない、があるゆえに、政府や特定政党による宣伝工作で、投票行動への誘導がおこなわれているから、見た目では他の民主主義諸国と似たような現象にもみえる。

愚民がかならず混じっていることを懸念して、ふつうの民主主義国家では代議制が採用された。
しかし、代議士の愚民化で、代議という制度自体に疑問がうまれてきた。

そこへ、ネット社会の爛熟で、SNSという手段が愚民にも与えられたのである。

これは、あたらしい直接民主制を意味する。
ゆえに、SNS企業への政府の介在という憲法違反が内緒でおこなわれていたことが、「Twitter File」からバレた。

今後は、Twitter社から他社への疑惑解明というかたちで、さらなる情報開示がおこなわれるかどうかに興味が移りつつある。
おそらく、来年はこの話題で持ちきりになるだろう。

けれども、愚民の投稿問題という直接民主制を隠す話にもなりかねかい。

しかも、愚民のレベルが、「論破」を旨とする論理構築へと動いて、その内容がどんなにバカバカしくとも、論理さえあればこれを賞賛するのが、一段低い愚民なのである。

つまり、ネット社会の爛熟とは、愚民に階級をつくりだしたことを意味する。
文字も、文章もまともに書けないレベルを最底辺とすれば、あらゆる「屁」理屈を駆使してでも相手を「論破」できれば、それはあたかも「王」のように、ネット上で君臨できる。

しかも、こうしたやからの存在を許すのが、民主主義なのである。

悪貨は良貨を駆逐するという、「グレシャムの法則」を持ちだすまでもなく、愚論がまともな議論を駆逐して、最終的には「抹殺する」ところまでいく。

そのまともな議論とは、公衆の役に立つものだから、じつは公衆の福祉に反するのが、愚民たちの大量意見表明なのである。

厄介なのは、こうした言論をやめろ、と命令できないことにある。

さすれば、論破には論破でのぞむしかないのか?といえば、そうではない。
論破に論破でのぞむとは、愚民の土俵にあがることになって、もっと混沌が深まるからである。

残念ながら、時間をかけて「再教育」を社会に施すしかない。
それが、「修身」ということになる。

民主主義は、参加者全員が「修身」を修めてこそ実現する、高度な倫理を要求するものだからである。