絶滅危惧種の「親指シフト」

「キーボード沼」のもう一つが「親指シフト」だ。

パソコンよりも圧倒的に「ワープロ(専用機)」が優勢だった時代があった。
「全盛期」は1985年(昭和60年)から1995年(平成7年)あたりまでの、およそ10年間だといわれている。

もちろん、「発売」されたのはずっと前で、1978年(昭和53年)と記録されている。
当時のお値段は、630万円。

わたしが購入した、人生初ワープロは、上述の全盛期初年の1985年、キャノンの「キャノWord」で、モニターとキーボード、それに独立したプリンターの3点セットだった。
記憶装置は、5インチ!フロッピーディスクでハードディスクの搭載はない。

秋葉原を徘徊してたどり着いた「決定」だったけど、そのお値段は30万円だったと覚えている。(消費税もなかった)
これは、後に、2年間のエジプト生活から帰国して、すっかり3日遅れの「新聞脳」に冒されていたことを実感したのだった。

当時、JALの定期便は週3便ほどだったために、新聞はだいたい3日遅れ(フライト時間だけで18時間)だったし、これらを読まないと日本でなにが起きているのか一般情報を知る方法がなかったのである。

なお、NHKの海外放送は、いまだに批判されているように、ほぼ役に立たない「きれいごと」で、在外邦人に対する日本語放送ではなくて、外国人向け宣伝放送だし、「短波」だからふつうのラジオでは聴けないのだ。

中学のときに、モスクワ放送とBBCの日本語放送を聴いていたことが、モスクワ放送にNHKの海外放送がよく似ていることに気がついたのだった。

そんなわけで、新聞が連日報じた、あたかも日本では「ワープロ」なる機械があっという間に普及して、いまや「当然」の、まるで「平家にあらずんば人にあらず」という感が擦り込まれたのである。

これで、帰国してすぐに秋葉原へ向かったのだった。
用途は、「卒論」。
いまどき「原稿用紙に手書き」はあり得ないと、学生がおいそれと買えるものではないのに、完全なる勘違いをしていた。

以来、新聞に対する不信と不審が混在するようになったのである。

ちなみに、「卒論」は、印刷時の原稿用紙への「マス目あわせ」に苦労したことと、インクがテープ式の1回使い切りだったので、なんだかやたらコストがかかったことが記憶にあって、今となって肝心の「データ」は、5インチ・フロッピーディスクではどうにもならない。

数年前に、ゼミの指導教授が退官するにあたって、原本が研究室から返還されたのが、妙に懐かしかった。
なお、もう一冊は大学図書館に保存されている。

しかして、損ばかりしたかといえばあんがいとそうではなく、会社に入ってキーボード操作に違和感はなかったし、周辺の「おじさま族」がワープロを使えない、という事情から、わたしに当時貴重だった職場の「ラップトップ・パソコン」が与えられたのだった。

このときのパソコンも「過渡期」で、まだ「BASIC」か「MS-DOS」だったし、画面は「プラズマ式」だったのである。
ただし、一体型とはいえ、キーボードの打ちやすさに関しては、当時の作りの丁寧さが懐かしい。

ほんとうに膝の上(ラップトップ)に載せると、江戸時代の拷問、「石抱き」のようになった。
それでもって、パソコン・ソフトも「過渡期」だから、業務用日本語ワープロとしては圧倒的に「オアシス」か、「一太郎」だった。

「Word」の使いにくさは、「原稿用紙文化」がない、アメリカ製だからゆえのことなので、まさかここまで普及するとは思わなかった。
当時、行の文字数と行数の設定が、「できなかった」のである。

また、「一太郎」を実務で愛用していたのは、たとえば、A3用紙を横にして、左右にA4の「見開き一覧」をつくるときに、境界となる中心に罫線を縦に引けば、そこから「別ページ扱い」になるのが、便利だったからである。

これで、たとえば「契約書」の骨子とその理由を一覧にすることが、行のズレがなくなって手間が省けたのである。
「Word」にはこの機能がなかった。

しかし、その後の「バージョンアップ」で、どうしたことか「一太郎」からこの機能がなくなって、結局のところ「システム部」が推奨する「Word」への社内統一に「屈する」ことになったのである。

そんなわけで、わたしの職業人生で、「オアシス」は触ったことがない。
けれども、「オアシス」を導入した部署では、「親指シフト」が普及していて、ふつうのローマ字入力どころか、JISキーボードも嫌がったのである。

この中毒性は、富士通の発明の画期に原因がある。
これには、日本語の「解析」による、「頻度」をもとにした「キー配列」の妙があるのだ。

前に書いたように、英文タイプライターの配列が、高速タイピングができない工夫、であったことの「逆」なのである。

いまでは少数派になった、JISキーボードによる「ひらがな入力」を、はるかに凌駕する「合理性」が親指シフトにはある。
一般にキーボードは、5段のキー配列になっていて、最上段のファンクション・キーの段を入れれば、6段になる。

JISキーボードでの文字入力は、4段を用いるけれど、親指シフトだと3段で済む(ローマ字入力も)。
「シフト」させることで、ひとつのキーに2文字をあてがうからだ。

しかも、3段目だけのキーで、日本語の55%をカバーする設計になっていて、その上の段を加えれば、なんと85%になるという。

しかして、開発元の富士通は昨年、40年間の歴史を閉じて、専用キーボードの販売を終了した。
けれども、いまやキー割当のアプリで、ふつうのJISキーボードを代用できるのだ。

ちなみに、「pomera」は、現存する最後の「親指シフト対応」のワープロ専用機である。

修得するには練習時間が必要だけど、やってみる価値はありそうだ。

快適な「キーボード」は快適か

世に「沼」とよばれる、こだわりだしたら一生抜けられなくなる、悪魔的落とし穴がたくさんある。

むかしの「紳士」がはまった典型の「沼」は、たいがいが「万年筆沼」で、この沼には、もう一段、「インク沼」も用意されているから、容易に抜け出すことはできないのである。

それゆえに、いつしか「収集」することが「目的に化する」という、異常な精神状態になるので、「書く」という目的はそっちのけで、ただひたすら「集める」行為に耽ることになる。

ただし、強者は、ペンの材質やペン先の研磨・調整にも「こだわる」ので、だんだんと経験を積めば積むほど、その知識はそんじょそこらの文房具屋の「プロ」を超えてしまうものだ。

茶道具も含めて、「道具類」とは、およそこういうことになっている。

たとえば、わたしは喫煙道具としての「パイプ」にはまったことがある。
けれども、たまたま「禁煙」することになって、すっかり「抜けた」ら、これまでのコレクションが、ただの「ムダ」になったのである。

この意味で、「万年筆沼」とは、人間がなにかを書くことをやめない限り「ムダではない」という自己弁護ができる分、より一層深刻な中毒性があるのだとおもわれる。

そうやって、とうとう「原稿用紙沼」にもはまりこんで、「特注」したくなるという域にまで達すると、はじめて「何を書くのだ?」に気がついて、ロット分の原稿用紙を一生かけても使い切れない現実に、途方に暮れるのである。

そんなわけで、現代の「ペン」にあたるのが、「キーボード」になる。

わが国では、「日本語キーボード」と「英語キーボード」の二種類が売られているけど、言語によってそれぞれのキーボードが存在することは、いうまでもない。

もちろん、キーボードの前には「タイプライター」があった。
それで、「日本語タイプライター」という特殊機器がとくに「公文書」に関する事務所では不可欠だったのである。

大きな盤面に細かくひらがな・カタカナ・漢字・数字・記号があって、これをガイドを滑らすようにあてることで、一字一字をタイプするのだから、どの位置になにがあるかを覚えるという訓練が絶対条件になっていた。

対して、「英文タイピスト」という、とくに女性に人気だった職業もあった。
こちらは、とくにことわらなくとも、「英文タイプライター」を用いるもので、学生向けに「英語学習」と称して廉価版が大きな文具屋さんにはあったのだった。

おもしろいのは、アラビア語のタイプライターもあって、わたしのエジプト人秘書は、英語とアラビア語両方のタイピストだった。

シフトキーを使って、アラビア文字の「次の文字とのつながりルール」をコントロールするし、余白ができそうなら「—-」のように「伸ばして」タイプする美的センスが求められる、意外があった。

これは、アラビア文字の表記にも、「楷書」「行書」「草書」があって、なんと「アラビア書道」もちゃんとあることの影響なのである。
「偶像崇拝の禁止」が厳しいために、アラビア美術における「文字の芸術化」が根底にあるためだ。

そんなわけだから、外国の言語に適したキーボードがあるのも当然である。
前にも書いた「日本語キーボード」とは、「ひらがな入力」のためにデザインされている「だけ」なので、「ローマ字入力」するならば、「英語キーボード」の方が適している

だから、消費者には「ひらがな入力用」とか、「ローマ字入力用」と示せばいいものを、あたかも「日本語」「英語」というから、いまだに「英語」を倦厭するひとが絶えないし、「英語キーボード」では日本語が打てないとおもいこんでいるひとがいる。

それに、「全角」「半角」の切替ボタンが英語キーボードにないから、独立キーがある「日本語キーボード」でないといやだ、というひとがいることも驚きなのだ。

ローマ字入力用の場合の「切替」は、デフォルトで「Alt」+「~」だけど、キーボードのショートカットキー設定で、「Ctrl」+「Space」にするのがふつうだ。

すると、わざわざ「半角・全角ボタン」に手を伸ばすより、だんぜん楽になる。
まぁ、日本語キーボードでも、「変換」「無変換」をこの切替に設定するのとおなじだけど。

しかし、いまも主流の英文タイプライターのキー配列は、ホンモノのタイプライターでの高速タイピングで「からまる」という厄介が勃発したために、高速タイピングができない「工夫」がされていまに至っている。

それで、パソコンのキーボードには、わざわざ高速タイピングができない工夫がナンセンスになったので、「変態キーボード」が出現したのである。

これが、左右に分かれていて、それぞれに「人間工学的」傾きをつけると、好みの肩幅になって、手の角度の「快適性」が劇的に改善する。
もちろん、「肩こり」も劇的に発生しない。

さらに、キーマップの保存と呼び出しボタンとかで複数パターンを設定するとか、あるいは「トラックボール」を一体化させると、もはや、「ホームポジション」から一切ずれずにあらゆる操作が可能になるのである。

これぞ、パソコン、の正しい操作だ。

キーボード内蔵のメモリにパターン設定をいくつか記憶させるから、PC本体が別物になっても、接続すれば、すぐさま「いつも」が実現する。

しかして、この変態キーボードがないと、ふつうのキーボードでは大不満という事態になって、快適さどころか「不快」が襲うことになるのである。

ようやくの沼からの脱出のつぎにやってくる、変態キーボード依存症なのであった。
世の中には、悪魔がいるのである。

そんなわけで、「変態キーボード」にはあえて手を出さずに、せいぜい「静電容量無接点方式」の高級機で我慢するのが、まだ「無難」なのであった。

首席エクソシスト・プーチン

「帝国」の定義とは、複数の民族・国家・地域を包摂している広大な版図を持つ国であって、「皇帝」が統治する。

歴史的には、ローマ帝国からはじまって、モンゴル帝国、ムガール帝国、スペイン帝国、大英帝国、ロシア帝国、ドイツ帝国、大日本帝国などがある。
南米のインカ帝国も、「帝国」である。

わが国の「国体」に関しては、曖昧であるけれど、高校の時に購読していた『リーダーズ・ダイジェスト日本語版』で、「付録」でもらった『世界の国々』には、「日本国」の項目に国体が、「立憲君主制」とあって、国家元首が天皇と明記されていたことを記憶している。

アメリカ文化を紹介するだけでなく、日本人を洗脳するための雑誌のはずが、「うっかり」かどうかはしらないけれど、「まとも」な記述だったから、意外な感じがして忘れずにいるのである。

日本は「単一民族だ」ということの「あたりまえ」が、だんだんと崩れてきて、「アイヌ」や「琉球」は、「別民族」だということをいわないといけなくなってきて、「アイヌ民族支援法」(2019年)ができたのは記憶に新しい。

すると、リーダーズ・ダイジェストが書いていた「定義」を補強して、わが国が「帝国」であることを示した「法」にもなったのである。
なので、「大」をつけなくとも、「日本帝国」というべきことになったから、左翼界隈のひとたちの努力には思わぬ効果が生まれたというべきだろう。

原本が英語であった、日本国憲法で、その第一章は「天皇」と訳されているけれど、原本は「CHAPTER I. THE EMPEROR」である。
つまり、翻訳された「天皇」ではなくて、世界に通じるのは「THE EMPEROR」が統治する「他民族国家」としての、「帝国」なのだ。

たまたま、わが国では古くから「天皇」といういい方があったけど、敗戦後の正式な名称は「THE EMPEROR」が先で、「天皇」はその翻訳にすぎないのに、このちがいを日本人は意識していない。

もちろん、「THE EMPEROR」の国だから、「他民族」がいなくとも、「帝国」なのであるけれど、GHQは憲法を、「The Constitution of Japan」と表記して、国名の訳を「日本国」としたことで、日本人から「THE EMPERORの国=帝国」を奪ったつもりにしたのである。

それがまた、「他民族国家」だと法によって定めたから、「帝国」の定義を強くしたということになるのである。
ついでにいえば、「海洋」を含めた面積にすれば、わが国は世界6位の、「広大な版図」があるのも忘れがちなことである。

さてそれで、なぜか圧倒的な「帝国」だった、大英帝国は、どういうわけか「国王」を置いて、「皇帝」と自称しなかった。
「本家(ハノーバー朝)」筋のドイツ皇帝に遠慮したかどうかなのか?もっとも、このひとたちは「インド皇帝」は名乗っていた。

先般亡くなったエリザベス2世女王は、王位に就く前の「王女」時代に、元ギリシア王族のフィリップ・マウントバッテンと結婚(翌日「エディンバラ公爵」授爵)したので、即位までの間は「エディンバラ公爵夫人」であった。

マウントバッテンとは、ヘッセン大公国を統治していたヘッセン=ダルムシュタット家の分家「バッテンベルグ家」を英語翻訳したもので、「ベルグ=山=マウント」なのである。

そんなわけで、73歳で即位したチャールズ王太子(日本ではなぜか「皇太子」といっていた)は、「女系国王」となったので、「ウインザー朝」が「マウントバッテン朝」に「改姓」となったけど、どういうわけか「ウインザー朝」のままになっている不思議がある。

なお、「ウインザー家」というのも、本来の「ザクセン=コーブルク=ゴータ家」だと、第一次大戦でドイツを「敵」とした(「本家」を敵にしたも同然)ために、居城の「ウインザー城」から名前をとった「だけ」である。

ヨーロッパは、中世以来の「各家の政略結婚」がふつうだったから、由緒ある「貴族」ほど、国境を越えて血縁・縁者で固めている。
もちろん、これに「帝政ロシア」のロマノフ家も含まれるから、ほぼ上層部はいまだに親戚同士なのである。

このことをかなり強固にしたのは、「ヨーロッパの祖母」といわれるヴィクトリア女王で、最後のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世と最後のロシア皇帝ニコライ2世とは孫にあたるし(従兄弟同士)、ニコライ2世の皇后は、ウインザー朝に改名した英国ジョージ5世(エリザベス2世の祖父)と従兄弟にあたる。

これにまた、キリスト教会がからむ。
わが国でもそうだったように、「高貴な血筋」は、宗派も好んで受け入れたのだ。

ローマ帝国が受け入れたユダヤ奴隷の宗教だったキリスト教が、ローマ帝国の分裂で東と西に教会も分裂して、西ローマ帝国の滅亡が西ローマ教会を組織化させて生き残り「ローマ・カソリック」となった一方、東ローマ帝国には「東方教会(オーソドックス)」が国家の支援を受けていた。

いまや、東方教会最大のロシア正教が、宗教を否定する共産ソ連時代を生き抜いた自信で活気をていしている。
これには、ヒトラーのナチスと死闘を繰り広げたスターリンすら、教会の支援を求めたことも影響している。

そんなわけで、ウクライナのナチス政権と闘うプーチン氏が、先月末に、ロシア正教の「首席エクソシスト」になったというニュースは、完全に「戦後秩序」の崩壊現象を証明するものとなった。

これを、「カルト」だとする西側マスコミのプロパガンダが盛んだが、そもそもが「三位一体説:父と子と精霊」こそが、「神秘」なのであって、「神秘」なき宗教は存在しない。

はたして、西ローマ教会たるバチカンがこれをどうみるのか?
ローマの教皇庁立レジーナ・アポストロールム大学には、エクソシストになろうとしている司祭のための講座がある。

ちなみに、「教皇庁大学」(学部として、神学・哲学・教会法、その他、の4つ以上があって、福音宣教に協力することが条件)とされる教育機関は世界にあって、日本では「上智大学」が指定されている。
さすがは、イエズス会、なのだ。

むしろ、イスラム教側がスンニ派・シーア派の「怨讐を超えて」支援をいいだすかもしれない。
それにまた、アメリカ中間選挙の「直前」というタイミングが、プロテスタントの異端、清教徒たちに刺戟をあたえることにもなるだろう。

なぜかわが国の「右翼」は「左翼」と一緒に、このニュースを嗤うけど、ならば「現人神」たる天皇をなんだというのか?
プーチン氏やロシア正教会からこういわれたら、ぐうの音もでないのがいまの「右翼」のふぬけなのである。

「産業の頂点」だというけれど

観光業は「第六次産業」だといったのは知の巨人、梅棹忠夫氏であった。

第一次産業+第二次産業+第三次産業=「第六次産業」だというのである。もちろん、足し算ではなくて、かけ算にしてもよい。
これで、あたかも「食物連鎖の頂点」に君臨するライオンのごとく、観光産業従事者の気分はすこぶるよくなったという。

しかし、梅棹氏の指摘は「そちら」方面ではなくて、むしろ、「叱咤激励」の方向だった。

ライオンは、その鬣は立派だが、雌ライオンの狩りの成果で生きているし、老いて群れから追い出されたり、若くして雌にふられた雄ライオンは「流浪の旅」に出るしかなく、別の群れを乗っ取ることに成功しなければ「死」が待っている、あんがい哀しい動物なのだ。

ましてや「万が一」他の群れの乗っ取りに成功したら、いまいる子ライオンは全部が乗っ取ったライオンによって始末される運命にある。
「強者(の遺伝子)」しか生き残れない、「自然の掟」に従って生死が決まるのである。

では、狩られる側の、たとえば、シマウマの側はどうかといえば、その気性の荒さから、人間が家畜にすることができない特徴がある。
なので、シマウマは、なにもライオンに食われるために生きているわけでもない。

おそらく、シマウマ側の生存にあたっての原理は、ライオンやらの肉食獣に食われる数を想定した個体数を維持するようになっているにちがいない。
これを、「調整」しているのが、地面に生える植物の量と水の量に依存する。

つまるところ、ライオンがどんなに人間によって「百獣の王」と、おだてられても、ライオンはシマウマの数も、植物や水の量をコントロールしているはずも、能力もない。
もちろん、ライオンたちが自分たちは百獣の王だと自覚しているはずもなく、そんなことをかんがえる知能を持ちあわせているとかんがえる方がどうかしている。

そうなると、まったくもって「ライオンは百獣の王だ」ということの意味が不明になるのである。
だから、「観光業が産業の頂点だ」ということの意味を、観光業界のひとたちはじっくりかんがえる必要がある。

なんでこんなことを書くかといえば、かんがえていない気がするからである。

すると、まるでサバンナで生きているライオンとちがいがない。
ただ、言葉を解するのがライオンとのちがいだから、なんだか気分がよくなるのである。
そうやって、話が戻って、梅棹氏が指摘した「叱咤激励」の方向にならないと永遠にループする。

なので、ここからは「叱咤激励」である。

第一に、観光産業のひとたちは、自分たちの産業が「サービス業だ」という致命的な勘違いをしている。
第六次産業の「式」には、第三次産業も含まれているのだ。
そもそも、産業分類での「第三次産業」のあやうさがあることもしらない。
人類が最も長く従事してきた、農林水産業を第一次産業として、産業革命以来の鉱工業を第二次産業とした。

第三次産業とは、「これら以外」という分類なのだ。
しかも、産業の頂点にあるのが観光業なので、ぜんぜん「次元がちがう」という意味なのである。

これは、第一次産業における知見、第二次産業における知見、その他の産業における知見、という、おそるべき「広さ」と「深さ」についての知見がないと、存在できないのが観光業という産業だという意味になるのである。
このおそるべき難易度を、観光業界のひとたちは理解しているのだろうか?

残念ながら、まったく認識されていないと思うのである。
ならば、やっぱり自分の立ち位置を理解しないで生きている、ライオンとのちがいがなくなるのである。

第一次産業における知見とはなにか?
第二次産業における知見とはなにか?
第三次産業における知見とはなにか?
産業の頂点として君臨する観光業の知見とはなにか?

こうして並べてみると、観光業から他の産業への知見を求めることは、果たして可能なのか?とかんがえさせられるのである。
むしろ、他産業が「成熟」して、観光業に成る、という順番ではないのか?
まさに、将棋でいう「成る」だ。

すると、いま、観光業を自認しているならば、淘汰の対象になることを意味する。
ライオンが外からやって来て、群れを乗っ取るかのように。
そして、以前からの遺伝子をすべて始末するようなことがおこなわれる可能性がある。

これは、既存産業従事者にとっては致命的な事態だが、利用客からすれば、あんがいと「歓迎」すべき事態なのである。

「業界再編」とは、既存の観光業界の中での嵐ではなくて、他産業からの参入という形態になるとおもう。
これが、もっとも「合理的」だ。
既存観光業の皆さんには「リスク管理」をいいたいけれど、世の中のリスク管理の中核に「確率」があることは絶対だ。
すなわち、「発生する確率」の議論なのである。

あえていえば、廃業のプロセスも「確率的」にかんがえておいた方がいい、ということなのである。

観光「客」の衰退で「新からゆきさん」

変化が激しい時代ほど、「歴史」が重要視されるものだ。

「有史以来」といっても、えらく長い時間を経ているから、人間の営みの積み重ねで出来上がっている「歴史」には、ある程度の「行動パターン」とその「結果」をしることができるからである。

今を生きている人間には、わずかな未来でも「一寸先は闇」で、今この瞬間から数秒先だって、なにが起きるかわかない。
ましてや、ビジネスにおける「将来」とか「未来」が、かんがえたとおりにならないのは、むしろ「当然」なのである。

政府は「間違うもの」というのも、じつは歴史が教えてくれる。

しかし、わが国は、総じて政府が「まとも」だったために、それと、圧倒的な貧しき「農業国」だったために、「飢饉」以外で生活ができなくなったのは、ときたまある「戦乱」ぐらいだった。

しかし、その「戦乱」に兵となったのも農民だったし、少なくとも「戦場予定地」から一般人は立ち入りを禁止されたし、なるべく耕作地は戦場にもしなかった。

もし耕作地を戦場にして荒らしたら、勝った側でも被害が大きく「損」になるからである。

この意味でも、「脱・農業化」して、工業化以上の産業形態になった「いま」の価値観で、むかしを振り返っても間違えるのである。
なので、「大河ドラマ」は、間違いだらけで洗脳させられるから、観ない方が身のため脳のためなのである。

「歴史」には、「歴史解釈」がつきまとって、それがまた、「先進」と「後進」とに分類したがる傾向がある。
「文明論」とか、「比較文化論」になると、「先進」とか「後進」の議論が、専門家の研究目的を超えてより一層「民族の誇り」にもなるのである。

それを「いけない」ことにしたので、わが国は自国の歴史が「政治(=ポリコレ)」になった。
つまるところ、民族の誇りとなるようなことは「教えない」という方針になって、たいしたことなかったとか、ひどかったことにしたのである。

もちろん、これを決めたのはGHQだったし、その命に従った文部省であり、日教組だった。
日教組も、GHQによってつくられた組織だという「歴史」がある。

昭和の時代までならば、つまり、「昭和天皇が在命中」は、文部省はあたかも日教組と争っている風情があったけれども、歴史の生き証人たる昭和天皇が崩御あそばしたら、たちまちにしてこれ見よがしの「転向」をしたのだった。

やらせたのは、国民が選んでいる自民党だ。

それで、平成も終わりになって、「観光立国」なる、絵空事を「国家の成長戦略」に据えた。
まさに、世の終わりなのであった。

日本がバブルの絶頂だったとき、アメリカ人の所得を超える勢いだった。
それがいま、アメリカの成長とわが国の衰退とで、アメリカ人の所得の1/3程度になってしまった。

しかして、そのアメリカが「覇権国」から転落しそうな状態にあるとは、けっして一部の反米論者による「希望的観測」ではない。
2022年中間選挙における、かつてない「攻防」は、もう無理かもしれないところにまで追い込まれたことで起きているのだ。

ゆえに、共和党がかかげるスローガンが、「MAGA:Make America Great Again」なのである。
なぜに「Again」なのか?がキーなのだ。

現実をみれば、たとえば、ニューヨークにおけるちゃんとしたレストランのウェイトレスの月給は、いま日本円にして70万円程度になる。
これを、「高い」と思うから、日本の衰退がわかるのだ。
もちろん、ニューヨークで生活するには「カツカツ」の収入だ。

ならば、ちゃんとした生活をニューヨークで送るには、いかほどの収入がひつようなのか?といえば、日本円にして1500~2000万円程度となる。
日本における年収500万円の3倍だから、上述の1/3と合致する。

それでは、日本でおなじ職業ならば、いったいいくらか?
年収で200万円~250万円だ。
すると、「観光立国」を目指すと、日本人の年収が下がるのである。

ニューヨークのひとたちは、レストランを利用しても、そこで働いてはいない。

このことは、「観光客」が歴史上で「誕生した」ことの背景を思い出させるのである。
欧米では、産業革命後の「労働者」の誕生があって初めて観光客となった。
日本では、江戸の爛熟期があって、旅が庶民に普及したのだった。

つまり、「労働者」が「労働」している「だけ」の社会に、「観光客」は存在できない。
「余暇」とは、「余貨」がないと「余暇」にならないからだ。

なので、日本人観光客は、自動的に衰退する。
これが、「インバウンド依存」の正体なのである。
しかしもっと重要で恐ろしくも深刻なことが起き始めた。

観光にかかわるサービス業には、良くも悪くも「複雑な人生」とか「家庭環境」のひとたちを「吸収」してきた機能があった。
観光業の衰退とは、この機能の衰退も意味する。
それが、若い女性の「海外出稼ぎ」なのである。

あたかも、海外旅行へ向かう観光客を装ってはいるが、じつは「新からゆきさん」だ。

政府の巧言令色に騙されてはいけない。

BRICsのブラジル暴動

ブラジルの大統領選挙で、元職の左派ルラ氏が勝利した、という報道ばかりという状態になっているけど、現職のボルソナーロ支持者たちによる「暴動」が拡大していることはぜんぜん報じられていない。

まったく、テレビと新聞を観る意味が失せている。

ルラ氏勝利といっても、票差はわずか「8000票」だった。
両者とも8千万票をとっての「差」だから、1万分の1の話なのである。
だから、大接戦だった、というわけにもいかないのは、2020年のアメリカ大統領選挙における「やり方」が「うわさ」されているからである。

残念なことに、ボルソナーロ氏もこのことに触れる演説(「証拠がある」とだけいった)をして、ルラ氏の勝利宣言に冷水をかけている。

もしも、ほんとうに2020年のアメリカ大統領選挙における「やり方」とおなじ手口が使われたとしたら、それは、ボルソナーロ政権の「ミス」にならないか?
あるいは、アメリカ民主党政権の「工作」があったかもしれない。

どちらにせよ、それが人為的なら、対策を怠ったか、対策に失敗したことになる。

もちろん、わたし個人としては、左派政権に戻ることには大いなる疑問があるけれど、ブラジルの事情に詳しくないので評価はできない。
しかし、問題なのは、いま発生している「暴動」の実態が、ぜんぜん見えてこないことにある。

市民が投降しているSNSによると、もはや「抗議活動」の域を超えて、「暴動」といえる状態だが、現政権はこれを支持する立場なので、「拡大」することになっている。

しかも、空港道路封鎖の現場にやってきた「警察」も、封鎖解除を命じるのではなくて、「封鎖支持」をやっているし、陸軍部隊に対する抗議者たちの「声」で、もしや「軍が動く」かもしれないとまで「うわさ」されて、現政権支持派の気勢が上がっているのである。

もしも軍が現政権支持に動いてしまったら、体制側のクーデターになる。
しかして、その「軍」も、はたして一枚岩なのかどうかもわからない。
もしも、「割れる」ことになったら、いきなり「内戦勃発」になりかねない。

BRICsについては、単なる「呼び方」から、機構になったと前いに書いた。
念のために、ブラジル、ロシア、インド、中国、南アフリカの5ヶ国を、「新興国」として最初は呼んでいたものだった。

「s」が小文字なのは、南アフリカが他の4ヵ国よりも経済規模が「小さい」ことを表現している。

けれども、悪乗りかどうかはしらないが、これら5ヵ国が「機構」になってしまった。
それで、「あやかりたい」他国が、「加盟申請」しているのである。

かつての「超大国」だった、ロシアは、ずいぶんと経済規模を縮小させてきたけれど、世界最大級の資源国であることが、いまだにプレゼンスの高い地位を保持している。

しかし、ソ連時代には、大資源国というイメージはなかった。
これはどういうことかをいえば、西側の資源採掘技術が入って、眠っていた資源が採れるようになったからである。

なのに、「ロシア制裁」に、これら技術提供の中止やら禁止がなくて、掘り出した資源価格「だけ」を制御しようという「姑息」なことをやっている。
わかっていて「わざと」だとわかるのである。

インドと中国が、西側の禁輸を横目にロシア産資源を大量購入して、これを「転売ヤー」してアメリカに売っていることがばれている。
民主党のカリフォルニア州と、ニューヨーク州が主な顧客であった。

それでもって、右派のボルソナーロ政権は、ことごとくトランプ政権と親和性があって、バイデン民主党政権になってからは、きわめて的確な批判をしていたから、「目の敵」になったことは否めない。

のこり僅かな中間選挙投票日に、外国のサプライズをあてるというのは、なんだか民主党的な「インチキ」の匂いがする。
すると、ボルソナーロ氏は、正式に「共和党MAGA派=トランプ派」と提携すべきだったのではないか?

ブラジルがコケると、メキシコだってどうなるか?
こうした「やり方」が、中間選挙へどんな「サプライズ」になるのか?

しかし、現地事情がわからなすぎる。
ただし、返り咲いたルラ氏は、マネロンと汚職の容疑で逮捕され、実刑を受けていた、ヤバイ人物なのだ。

それでも、おそらく、正規に当選したひとへの恣意的な弾圧が、右派から行われている、という内容に統一されてわれわれの耳目にさらすのだろう。
このことだけが、わかっていることなのである。

かゆいところに手が届かない

新製品を世に問う、ということの意味がどんどん「重く」なって、コケてはいけないために、とうとう新製品がめったにでない国になってきた。
それで、なんだか挑戦的なアイデアの製品は、中国製ばかりになって、我々の生活を助けてくれている。

おそらく、中国社会は最低でも3分割されている。
共産党と、政府、それとこれらが制御できない意味での「民間」だ。
アナログで人員をたっぷり使って、この意味の「民間」を制御しようとした「ソ連」は、そのコストが軍事費を超えて自滅した。

なんだかよくわからないけれど、「中国人を豊かにしたら自由主義になる」というキャンペーン(じつは「プロパガンダ」)が、半世紀の蓄積を経て、気がついたら「制御」のためのコストがやたら安くなってしまって、不自由(奴隷)化の方が「効率的」ということになってきた。

「効率的」という概念は、気分のことではなくて計算できる。
投下資本(=資源)に対して、アウトプットの方が大きければ大きいほど「効率的」だと、誰が計算してもなればいえるからである。

このブログでいう、「世界経済フォーラム」メンバーの富豪たちとは、「経営者として大成功した起業オーナー」ともいえるので、「効率的」という概念が、大好物なのである。

それで、人民を監視して余計なことをやらせないことのコストが少ないことに気がついたら、がぜん「共産主義・全体主義」をやりたくなった、という合理性がみられるのである。

つまりこれは、自由主義経済が達成するはずの、「自動調整機能(アダム・スミスがいった「神の手」)」よりも、ずっと魅力的になったのだから、まさに「反経済学」という「ダークサイド」状態に陥ったのである。

90年代からこれまでに、学者の研究予算も、「効率的」というふれ込みで政府が握るように法改正した。
これが、全世界の自由経済圏で実施されたため、たとえば従来からの経済学者が、ぜんぜん声をあげなくなったし、コロナにおける科学者たちの沈黙もこれである。

下手に逆らうと、研究費を削られるばかりか、「大学」から追われるかもしれない。
これは、学者にとって「永久失業」を意味するので、「反経済学」をいわずとも、黙っている方が「おりこう」なのだ。

それで、「あがった」名誉教授たちしか、ご意見を発信しなくなったのである。

しかして、こないだの中共大会における人事の結果だけから判断すれば、圧倒的な不自由をやると決めたも同然なので、上述した意味での「民間」は、きっと驚くほどのスピードで「縮小」するにちがいない。

ならば、まわりまわって、我々の生活も不自由になるのである。

松下電器が成功したのは、二股コンセントの大ヒットだったことは、もはや伝説だけど、伝説にしたのは松下電器自体が、二股コンセントを作らなくなったからだ。

共産主義的「効率的」が大好物の、わが国「経済産業省」は、とうとう白熱電球の生産を禁止して、LEDを作れと業界に命じた。

何度も書くが、株主でもなんでもないこの「単なる」行政機関が、どうして民間企業になにを作るかを命じるのか?も、その法的権限がどこにあるのか?も、わたしにはわからない。

さいきんの子供の目が悪くなるのは、勉強机のライトが紫外線波長が強いLEDのせいだとおもうが、これをしらない親が多いし、眼科医もいわない。
なるべく、「白熱電球」の目に優しい光源が望ましいが、将来ある人間の子供の目より、地球環境が優先だという「理屈」には、とっくに「屁」がついている。

もはや「国産」の白熱電球は売っていない、というお粗末な生活を強いられている。

ならば、ハイテクの典型である、ノート・パソコンの電源はどうか?
新製品は、パワーデリバリー規格の充電器と、USBタイプC(じつはこれも複雑な規格である)のケーブルとで充電できるようになってきている。

しかし、もはやパソコンの性能がよくなりすぎて、高性能を誇る新品でなくとも、ネットサーフィンや、ワープロ作業のレベルなら、企業のリース落ち中古でも十分な性能である。

すると、まだ専用電源のものもあって、外出先でも充電しながら使いたい、といった場合には「荷物」になるのである。
ところが、今度は「充電器」が大出力かつ小型・軽量化の進歩をしているから、DCコネクタさえあれば、大きくて重くかさばる専用電源はいらない。

なんとも悩ましいのが、メーカーごとに「DCコネクタ」の形状規格がちがうから、ピッタリあったものでないといけないが、これをみつけて購入すれば、グッと快適な「モバイル環境」になるのだ。

さてそれで、新製品のモバイル・ノートでもいまだにDCコネクタを専用電源アダプターでつなぐものがあって、なおかつ、USBタイプCからも充電できるという、両刀遣い的「過渡期」の製品がある。

逆に、専用電源がなくて、USBタイプCだけからの充電としている製品もあるけれど、今度はUSBタイプCの接続口が2カ所しかない端末もある。
すると、「ハブ」を別途購入しないと、拡張性がないという意地悪な状態になるのである。

ゆえに、貴重なUSBからではなくて、DCコネクタに小型充電器から電源供給したくなるというものだ。
ところがどっこい、これには「トリガー・ケーブル」というものが必要になる。

このケーブルのUSBタイプCの側の接続口には、電流と電圧調整のためのチップが組み込まれている。
それで、充電器側に欲しい電気の情報を提供(命令)して、いわば無理やり、DCコネクタにPC本体にとって適した電気を供給させるのである。

この、チップが、充電したいパソコンのDCコネクタ規格と合致していないと、充電できないから、ただDCコネクタの形状が合致しているだけではいけないし、過電流ともなればパソコン本体が危険な状態になる。

そんなわけで、自分のパソコンに合致した「トリガー・ケーブル」が世の中に「ない」ことが、検索に2日もかけてたどり着いたのである。
なんという「不効率」。

なんでもかんでも、売れそうなら中国で作ってきたのに、もうやらないかもしれない。
ならば、日本のメーカーは?と、期待はつのるばかりなのだけど。

あと1週間で決まる命運

残念ながら、「他力本願」にならざるを得ない。
これが、「パクス・アメリカーナ(「アメリカによる平和」という意味)」の現実だ。

もちろん、古代の「パクス・ロマーナ」(「初代皇帝から5賢帝時代までの平和」という意味)をもじったものだ。
「から、と、まで」があるので、ローマ時代ぜんぶを指してはいない。

すると、「パクス・アメリカーナ」だって、アメリカ建国以来からこれまでを指すわけではない。
すくなくとも、「パクス・ブリタニカ」が終わった、第一次大戦後からをいう。

しかしながら、「パクス・アメリカーナ」となってからこの方、アメリカは戦争ばかりをやっていて、あんがいと「平和」を世界にもたらしてはいない。

わが国の戦後でみたら、「平和」だったのは、朝鮮戦争とベトナム戦争による「利益」があって、なんだか日本だけの平和なのである。
これを、「憲法9条のおかげ」だと思いこませるような努力があった。

しかし、あの共産党の小池晃書記長が、テレビ放送で「9条で平和は守れない。そんなこといったこともない」との暴言を吐いたことが話題になっている。

さすがに「気づいた」ということなのか?

わが国では、軍産複合体に迎合しないと「おカネ」がもらえないからか?とにかくトランプ氏を徹底的にディスることをして、国民の多数がコロナ脳になったのとおなじで「感染」して、トランプ憎しが浸透した。

だから、トランプ政権の4年間が、戦後初、の「平和」だったことをぜんぜん評価しない。
つまり、彼の政権は、戦争をしないばかりか仕掛けることもせずに、中東から米軍を撤退させたのである。

これで、なんと中東各国にイスラエルとの「平和条約締結ブーム」が起きる、「奇跡の時代」となったのだ。
その「仕上げ」が、アフガニスタンからの撤退だったけど、バイデン政権はこれを「逃亡」にしてしまった。

それから、アメリカは「正気を取り戻した」かのように、ロシアを挑発して、ウクライナ侵攻をやらせたから、平和を希求しない軍産複合体が主流のいつものアメリカになったのである。

ところが、これが、「世界史的破壊工作」を旨とするひとたちの、あからさまな「支配」だと、ようやくアメリカ人が気づきはじめた。
それが、「わざと」エネルギー危機をつくってはみたけれど、半世紀ぶりのスタグフレーションもつくりだしたのである。

これには、いろんな「材料」をレシピ通りに混ぜる、料理のようなやり方が準備されていて、その最大の原材料が「コロナ禍」だったのである。
ラーメンでいえば、スープにあたる。
麺にあたるのが、わざとつくったエネルギー逼迫だ。

しかし、スープの最大の原材料は、「水」で、これが、「アメリカ国債」である。
「国債」は、「ダシの骨」にあたる、「金利」と反応するようにできている。

そんなわけで、世界最大の「債務国」であるアメリカは、インフレ対策による金利上昇圧力(もちろんFRBは金融引き締めをやる)で、国債価格を爆下げするという「自爆」をやらざるをえない。

おそらく、邪悪なバイデン政権は、これが「狙い」なのだ。

「債権国」の日本と中国が、たとえば、日本は、そのアメリカ国債を売却して、円防衛のための「介入資金:ドルを売って円を買う」にした感がある。
わが国にとって、せっせと貯めてきたアメリカ国債をかくも大量に売却したのは、初めてではないのか?

よくもこれをアメリカ(財務省)が許したものだが、それこそが「破壊工作」の狙いだから、「もっとやれ!」なのかもしれない。

さてそれで、わかりやすいことが英国とイタリアで起きた。
英国は、「財源なく減税」を打ち出した新政権が「潰された」けど、わが国は、ずっと財源なくバラマキをやっているけど潰されない。

問題は、「減税」なのだ。
国民をあまねく幸せにするな、という意味だ。
しかも、英国で計画された減税規模は微々たるものだった。
岸田自民党政権が、是が非でも減税をしない理由がこれだ。

なので、インド系の新・新政権は、バラマキをやるはずで、もちろん財源はないけど、「市場は評価する」ことになるのだろう。

対する、イタリアの新政権は、「極右」のはずだけど、早速に新首相は「EUに従う」と表明した。
ただし、「これまでのコロナ対策は科学的ではなく失敗だった」とも明言して、その「極右」性は保持したのである。

3党で連立を組んだけど、元首相のベルルスコーニ氏は、さいきんの「誕生日」で、プーチン氏からのプレゼント交換があったことを披露して、首相だった以前からの「親密」さを国民に思い出させた。
これも、現首相の了解があってのことだろう。

イタリアはヨーロッパ中央銀行によるイタリア国債の引き受けがないと「国家破綻する」から、しばらく「EUに従う」のだろう。

それで、気になるのがサウジアラビアや中東産油国たちが、急遽、政府系ファンドに資金のテコ入れをしていることだ。
もしや、突如「イタリア国債」の引き受けを発表するかもしれない。

これら関係者がみんな気になる、それが1週間後のアメリカ中間選挙なのである。

「お目こぼし」の裁量

人口の8割以上が農民だった江戸時代、「年貢」こそが「税」の根本だった。
この意味で、完全消費者の「武士」を除くと、都市部に住んだ「工・商」に対する税収は大きくはない。

ただ、支配者たる武士も貧乏だったのは、「格式」という「強制」で、「石高」に応じた「家人」を雇わなければいけなかったことによる。
この家人が、いざというときの「お伴」になるのであるから、武士として拒否できるモノではない。

この「制度」の「設計思想」が、世界にも稀な「権限と責任の合致」だったのである。
つまり、武士は政権を担うだけでなく、責任も担うことを「公然のこと」とした。

これを集大成したのが、『武士道』だったから、絶対的権力者たる徳川将軍家をして、ヨーロッパのような「絶対王政」を、自らすすんで不可能にしただけでなく、自分の上に朝廷を置いて、これを崇めたのであった。

これにはまた、世界にはない日本独特の歴史があった。
それは、古代より天皇が詠んだ歌にある、「大御宝(おおみだから)」としての国民があったからである。

このことを、庶民でもしっていたのは、「和歌集」の「御製」にあるからで、家康が農民を「百姓」といったのは、大和言葉を漢訳した意味でのことだったのではないか?

「おほみたから」は、漢字で、「百姓」「蒼生」「衆庶」「人民」「民」といった字が当てられたのである。
つまり、「百姓」とは、蔑視語ではぜんぜんなく、むしろその逆で「リスペクト」の表現だった。

すると、幕府の位置づけは、朝廷と庶民の間にあって、朝廷に代わって「大御宝」を預かるという意味になる。
朝廷と庶民をつなぐのが、各地の「神社」だったので、寺社奉行の地位が高かったのは、支配の機構として重要このうえないことがわかる。

あの織田信長が、「弾正台」の家系を自慢したのも、朝廷の組織にあって、行政の中心たる「太政官」を弾劾できる地位にあったからである。
それは、天皇直属で、太政官の政治が、「大御宝」への統治に失敗したときの保険機構であったのだった。

これが、信長絶頂期にあった、弾正にして右大臣という地位の意味である。
上司に当たる、左大臣と太政大臣を、いつでも断罪・罷免できることの重みは、現代にはない「スーパー権力」なのである。

しかして、そんな信長が、「楽市・楽座」を敢行した意味も、「大御宝」に通じるものだったとかんがえれば、まったく筋が通っているのである。
それがまた、安土桃山時代という、絢爛豪華な時代の背景となる経済繁栄のおおもとにある思想なのだ。

そんなわけで、勘定奉行の配下にあった「お代官様」は、幕府直轄地における「税務署長」であったし、各藩においてもおなじであった。
ただ、支配される側として、なんだか、天領が上で藩領が下とかんがえる思考構造におかしみを感じるのである。

それがわかりやすいのが、京都から電車で10分の大津だ。
詳しくは書かないが、この街を歩いていると、天領という自慢と藩領という後ろめたさが同居しているのである。

さてそれで、年貢の納め時は、代官屋敷に米が運ばれてきて、これを一升枡で計測しながら、あたらしい俵に米を入れていく。
あたらしい空の俵が、「税収袋」になるのである。

このとき、代官は立ち会って作業をみているのだけれども、手慣れた配下の役人が作業のたびに、土間の床に米をこぼすのである。
このこぼれた米は、「穢れた」ことになるので、あとから履いて集めても税収袋には入れずに、農民に持ち帰らせる。

これが、「お目こぼし」だ。

豊作のときにはお目こぼしも増えるけど、不作のときはどうしても厳しくなる。
それで、代官はふだんから管轄地をくまなく見回りして、収穫予想を上司に報告する。

そうやって、勘定方では税収予測をたてないといけないし、代官の側はお目こぼしの許容量を決めていたのである。
なので、地元からしたら「堅物」が赴任してくると困ったのである。

いまは、「大御宝」という概念が政府からすっ飛んでしまった。
これは、戦後教育の成果なのである。

どのくらいの日本文化破壊をやられたのか?もはや想像もできないけれど、古代からの「大御宝」の喪失が、国民生活を苦しめるもっとも基本的な「問題」なのである。

日本政府の役人は、朝廷の役人であることを「失念」したので、誰のための「裁量」かも忘れて、もっぱら役人たちの都合によるから、一般国民を虐めてもなにも感じない。

これを、かつては「悪代官」と呼んだのである。

しかも、代官には「監査の目」が厳しく、まさに「目付」から監視されていたし、その「目付」も、「大目付」から監視されていた。
それでもって、もしも不正が発覚しようものなら、たちまちにして切腹を仰せつかるだけでなく、家門の廃絶という処分を受けた。

もちろん、この「不正」とは、私腹を肥やすという意味だ。

すると、いまの役人は、切腹も家門の廃絶という処分もないので、自由気ままなのである。
たとえば、国家の教育制度を司る役所の事務方トップを務めたひとが、法律違反をして解職されたことを逆恨みして、テレビ放送に出演する不思議がこれである。

これゆえに、末端の「木っ端役人」すらも裁量権を振り回す。
法律のどこに書いてあるのか?と質問しても回答はない。
勝手に立法するなといっても、自身の「解釈」を曲げないばかりか「脅迫」もするのである。

江戸時代が、高度文明社会であって、かくも「退化」したと嘆いても、悪代官様はとりあってくれないのだった。

人間をダメにする「昼呑み」

天気がいいので散歩に出たら、ついうっかり「歩きすぎて」昼食時間帯をはずしかけた。

いつしか、「空腹感」すら忘れていたのである。

それで、腰を据えて「飲食しようと」横浜中心部にある初めての中華料理店に入った。
厨房からの洗い物の音が「小物じゃない」ので、店員さんに問うてみたら案の定、昼食時間と夕食時間のあいだに「休憩時間」があるという。

時計をみたら、まもなく「休憩閉店」となるのであった。
なんだかせわしく、つまみとセットだった2杯目のビールを飲み干して店を出た。

中途半端な腹具合だが、ふだんは2杯もやらないビール腹になってしまった。

それで、横浜人として(さいきんは「浜っ子」とはあまりいわない)、「昼呑みの聖地」とされる、桜木町駅前「ピオシティ」の地下2階の飲食街、通称「ピオ地下」を久しぶりに探訪することとした。

いわずもがな、ことしは「鉄道開業150年」の節目だ。

横浜でもなにかイベントをやっているらしいけど、桜木町駅の変遷についてはあまり語られていないようにおもう。
ただ、JR駅構内には「常設」で、往年の駅の様子が写真展示されていて、小学校の同級生にそっくりな子供の写真もあるから気になる。

もしや?◯◯君では?

なんだか、青森駅の橋上通路にある、「青函連絡船」の思い出写真展示に似ているのである。

東急東横線の廃止に伴う、駅舎の大改修工事で、なんと駅そのものが横浜駅寄りに「移動」した。
いま「北口」といっている、横浜市役所側の改札が、往年の桜木町駅なのである。

ここには、「鉄道開業100年」を記念した、土台に蒸気機関車の動輪を置いた「碑」があって、「落成式」も盛大に行われた記憶がある。

東横線の旧駅舎の解体だけでなく、JRの移転工事によってその「碑」も30mほど、「移転」したけど、わざわざ「ここ」という地図表示と、地面にはオリジナルの跡地と移転先とが点線矢印で示されていた。

いまでも「碑」はあるけれど、そんな「丁寧な扱い」を受けてはいない。

これが、文化破壊をやる「JR東日本」という会社の体質なのであって、これを許す現在の横浜市は、とっくに市民から「乖離」している。
ただし、役人だけが悪いのではなくて、市議会議員の劣化がそうさせているのである。

こうしたことがわかるのは、市議会議員がつかう「敬語」である。
彼らは、役人に対して「謙譲語」を用いるのだ。

おとなとしての「対等」という意味ではなく、役人のほうが序列が高い、という感情表現になっている。
偉ぶればいい、というものではないけれど、なんのための「議会」なのか?についての意識がないことを自己表現している。

それで、とってつけたような「後援」とかのポスター印刷をさせて、あたかも市役所だって関わっているのだ見せるけど、ならば「市役所口」となった駅前の「歴史遺産」を何故にないがしろにするのか?を質問する地元議員すらいないのである。

もちろん、全国で最悪の市民税流出が起きている横浜市にあって、「ふるさと納税」なるめちゃくちゃな「税制」をやらせた、張本人たる菅義偉氏も、この桜木町がある選挙区から当選しているひとだから、有権者の「間抜け」が糾弾されても仕方がない。

市民税の枯渇が、カジノ誘致になって、これを拒否するならば市民は市民税を横浜市に納めよう!という議員もいないのである。

そんなわけで、産業道路の「中州」にできたのが、かつて「ゴールデンセンター」で、いまの「ピオシティ」ビルなのである。
このビルが開業(1968年:昭和43年)してから、横浜市営地下鉄の桜木町駅ができた(1972年:昭和47年)。

なので、「野毛」に行きたいひとは、たいがいがこのビルの横か中を、地下通路で通り抜けることになっている。

東横線の終点だった時代の野毛は、まったくもって「おじさんの街」で、家族で賑わう伊勢佐木町とも、そのすぐ裏の夜の街、福富町ともちがう、より怪しげな雰囲気があったものだ。

これは、京浜急行のガード下に日ノ出町あたりから黄金町まであった、「旧赤線」の名残でもあったけど、新人類的だった中田宏市長によって完全排除された。
よって、横浜からいかがわしい「戦後」の姿がまた薄くなったともいえる。

そのいかがわしさを、これほど「地獄」として描いた映像はないのが、黒澤明『天国と地獄』であった。
若き山崎努の演技が光る。

野毛地区はいまや若者が中心になって、なんだか「おじさん族」には居場所がすくなくなった感がある。
その玉突き状態で、「ピオ地下」は、「聖地」的な要素でおじさんが蔓延しているのである。

まだ明るいうちなのに、どうしてこんなにたくさん呑んでいるひとたちがいるのか?
まったく不思議だが、自分もそのひとりとなって景色の中にあるのだから、妙な安心感に包まれるのである。

こんな時間からアルコールを入れるのは何年ぶりだろうか?と思いつつ、空腹にいれた2杯のビールが効いて、眠くなってしまった。

家に帰ったのは夕方6時前。

ふとんに包まれたら朝になっていた。
こんなことでは、人間がダメになる。
呑兵衛の鉄則は、やっぱり暗くなってから、を痛感したのである。