コロナ後の未来社会の下絵

「コロナの全体像」を解説する動画が発信されている。
https://www.youtube.com/redirect?event=video_description&redir_token=QUFFLUhqbGw4c0RpaWItUlFxc2l5SnhMXzU3YVczQWtIUXxBQ3Jtc0tuRnFHSzJQSXZBR3FCM2dSLWp1S1c3VklDOWtzbUdWYWROekhhZFBlcHVTZGJNR1ozTXFlRFRvTG10WXlaV195ajN4VG10QmM2MlVKNkJnbmdaRkZzUUM0dU0wRUpEWGs4TUZ1clZwa00xMEZNRC1nUQ&q=https%3A%2F%2Fwww.bitchute.com%2Fvideo%2Fpli44ULzoGw1%2F

その恐るべき内容は、一見の価値がある。
約1時間の長さがあるけど、歴史的背景から現代世界の「構造」をわかりやすく解説するのだから、見事な1時間だといえる。
その辺の「学者」の解説が、「無意味」に思えてくる。

もちろん、「陰謀論」だとして、話にならないと決めつけるのも自由である。
しかし、自分の「思考」について、少しだけ冷静になって第三者的に自分の思考を別角度から眺める、ということができるのは、「頭の体操」になる。

このブログで何度も書いた、科学的アプローチという手法は、ふつう組織を「マネジメント」するときの、「マネジャー」が実行すべきものとして「常識化」されている。
改めて、その段階を書く。

1.目的を明らかにする
2.事実をつかむ
3.事実について考える
4.実施方法を決める
5.実施する
6.確かめる

さて、コロナの真の目的はなにか?
歴史的大富豪たちの過去の発言に見られる、「事実」として、「人口削減」が挙げられる。

早くも「ここ」で、自分の常識から外れてしまうひとが多いだろう。
平和時における、人為的な人口削減とは、実質的な「計画殺人」に等しいからである。
そして、会社のマネジメントで巨富を得たひとたちは、かならず「科学的アプローチ」で思考するという「癖」がある。

彼ら歴史的大富豪たちは、明言している。
ある大富豪は、望ましいのは地球全体で「5億人」とか、別の大富豪は「20億人」だと、記録撮影される「講演」で発言しているのである。
つまり、彼らのいう許容範囲は、「5億~20億人」だということだ。

事実としての世界人口は、1987年に50億人を突破し、今年2021年は78億7500万人となっている。
34√(78.75/50)=1.013
つまり、この34年間で年率換算すれば、1.3%で増加している。

彼らのいう数字でも大きい方の、20億人を「目標」としたら、現状の4人に3人にあたる75%のひとたちが、「いなくなる必要」がでてくる。

「PCR検査」という「欺瞞(既にCDC:アメリカ疾病予防センターは、PCR検査では「インフルエンザと区別できない」という大問題を正式発表している)」によって、「パンデミックを作りだした」のだけれども、このことの目的が、人々を「ワクチン接種」に追いやるとすれば、方法論として「合理的」なのである。

そして、その「ワクチン」こそが、75%の人口減少という「真の目的」の決め手なのだとすれば、一直線に論理はつながるのである。

では、なぜに人口を削減させる必要があるのか?
理由は二つ。
・歴史的富豪たちの世界支配を永続させるため
・上記目的には、コントロールしやすい「数」が望ましいから

こうしたことの背景には、古代からの人類史としての、支配と被支配の歴史をみる必要がある。
ただし、彼らは俗にいう「欧米人」なので、視点はヨーロッパでの歴史になっている。

もっといえば、支配者と奴隷の二極による歴史なのである。
こんなことが日本人には、馴染みが少ないのは、日本文明がヨーロッパ文明とは別系統にあるからである。

そこで、「マスク」が登場する。
古代、金属製マスクを奴隷につけさせたのは、口中にも棒を差し込む構造として、「会話を困難」にする目的があった。
それで、奴隷たちが組織化を図れないようにした。

科学・医学的見地から、パンデミック以前の常識としてあった、「マスクは患者がつけるもの」で、感染症予防効果は皆無どころか、かえって危険とされていたものが、いつの間にか「マスク着用の義務」という、180度展開が起きた。

これは、欧米思考すれば、「奴隷化」の下準備だという文化的意味がある。

「遺伝子新薬」を「ワクチン」と呼ぶ「欺瞞」は、特に重要だ。
彼らの「目的」を達成する、「手段」そのものだからである。
つまるところ、「自殺の強要」なのである。
だから、ワクチン接種率は、「75%」が目標となる。

支配者たちの永遠の課題だった、永続的支配が、なぜいま実行されたのか?
それは、IT技術の進歩から、「最小限の奴隷」で経済が回るからである。
農業が主たる産業の時代では到底不可能だし、工業の全盛期だって大量の労働者を必要とした。

そこで出てくるのが、「未来社会」の下絵なのである。

これには、「人口削減後の」を枕に書かない欺瞞もある。
わが国で、もっとも何をしているかわからない役所の「内閣府」は、とっくに「スマート・シティ構想」をぶちあげているし、「ムーンショット目標」なるものも、あたかも「別物」扱いという欺瞞で発表されている。

どちらも、内閣府のHPに掲載されている。
スマートシティ構想:https://www8.cao.go.jp/cstp/society5_0/smartcity/index.html
ムーンショット目標:https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/sub1.html

なるほど、わが国の人口が3000万人ほどになった「未来社会」だ。
こうしたことを、国家がやるためには予算がいる。
しかしながら、こんなことをしなくとも、わが国の人口は「自然に」もっと減るのだから、コロナ・パンデミックは、「加速度」を加えたことになる。

すると、世界共通の「反コロナ」の動きとは、被支配者の側の「最後の抵抗」なのである。
なぜなら、支配者に抵抗できない監視社会も準備されているからである。

空恐ろしいことが、現実になっている。

荷物が来ない

「トヨタ式」という「やり方」を、真似ようにも真似られないのは、知恵や知識の不足ではなくて、経営者や経営幹部(管理職)たちの、哲学の欠如が「覚悟」を薄めて「社内文化」にならないから、継続できないのである。

今でも「新刊」が出続けている、「超ロングセラー」にして「ベスト」なビジネ書といえば、『トヨタ生産方式』に他ならない。
これは、副社長だった、大野耐一氏が書いた「哲学書」であって、決してノウハウ本ではない。

にもかかわらず、「抽象的」で「難解」という、書評があるのは、「読解力不足」を告白するようなものである。
子供は成長すれば必ず、「おとなになる」から、読解力がない子どもは読解力がないおとなになることになっている。

「本が売れない」から、書店がなくなるばかりか、出版社もなくなる。
あるいは、出版社も「生き残り」を模索して、安逸で読みやすい本を出して、これが「万部単位で売れる」という。
「読解力を鍛える」という点では、悪循環になっているのだ。

その「読解力」には、「論理思考」も含まれる。

だから、「読解力不足」とは、「論理理解の欠如」を意味するので、深刻な問題なのである。
端的にいえば、「自分で考えることをしない」ので、考えることが「苦痛」になるのだ。

「安逸で読みやすい本」とは、「鵜呑みにすればいい」という「安逸さ」にまみれる訓練を自己に施すので、より考えることが苦痛になる。
こうして、与えられた情報を、与えられた情報の「まま」に、あとは信じ込めば、安逸な精神状態でいられるようになるのである。

「国語」の重要性はここにあるのだけれども、わが国の学校教育では、国文科を除けば「国語」は、高等学校までとなっている。
つまり、「読解力不足のおとな」を量産している。
これは決して、「国益」にはならないけれど、「省益」になっている。

前にも書いたが、アメリカの大学では、学生に提出させる膨大な「レポート」で、教授は「て、に、を、は、」を含めた、「国語=この場合はアメリカ英語」の正しい表現までをチェックしている。
ちなみに、アメリカ人には、「文系・理系」の区別がないので念のため。

だから、アメリカの大学で教授職を永年勤続するには、ネイティブレベルだけでなく、高等教育を受けた語彙を持つ者でないと務まらない。
ネイティブの学生が書いたレポートに、英語の「赤入れ」をするのは、並みの英語力ではない。

そんなわけで、日本人が外国の大学で永年勤続者となるのは、おそろしく困難であって、「教授」として永年勤続者している日本人は、飛び抜けた実力者といえるのである。
たいがいは、1クルー契約の3年程度で帰国させられる。

さてそれで、「射撃界」でいま、「弾がない」という事象が起きている。
クレー射撃で使う散弾のことである。

大きく、国産と輸入に分けられるけど、両方ともない。
さては、火薬商の在庫管理ミスか?といえばそうではない。
大量消費する「オリ・パラ競技」の影響もないとはいえないけれど、問題の本質は別のところにある。

外国の港湾が、コロナによって機能停止した「余波」なのである。

「国産」といっても、「国産」なのは組み立てるからである。
いまや、わが国の散弾は、外国から「雷管付きの外枠」からして、全部が輸入に依存している。
だから、どこが「国産」なのか?ということで、「コンテナごと」入港しない。

日本にやってくる「大型コンテナ船」を、東京湾に行けば眺めることはできるけど、ほぼ「ローカル航路」としての運航なのである。
主要航路だと、「超大型コンテナ船」が花形で、これらは東アジア地域では、上海港と釜山港が、「国際ハブ港」となっている。

つまりは、上海や釜山で、日本向けローカル航路の船に積みかえられているという、「外国の港湾依存」があるのだ。

だからこれはなにも、クレー射撃という「趣味の世界」のことだけではなく、あらゆる「物流」の停滞が起きていることを意味するのである。
半導体不足から自動車生産が滞っている、ということに加えて、その他の部品がない状態になるから、今後の生産指数は落ち込むだろう。

そこで、「安全保障」という観点から、わが国の生産と生活物資の流通は、とっくに「外国」によってコントロールが可能な状況になっているといえる。
しかも、この二港は、「友好国」といえるか疑問がある。

まさに、「やばい状態」があぶり出されている。

これは、「コロナ福」にあたる。
ふだんなら気づかない、「アキレス腱」が、たまたま「コロナを理由」にして、「危機」の状態が見えたからである。

すなわち、「コロナ禍」だって茶番だけれど、適当でもっともらしい理由であれば、国際港湾を当該政府によって機能不全に貶めることができることがわかった。
一切の対策をしない、と宣言したスエーデン政府なら、コロナよりも恐ろしいこうした危機の構造をどうするのか?

「ローカル」に成り下がったわが国の港湾機能を、いかに直接入港してもらう「主要」とするかは、死活問題なのである。
それは、「トヨタ生産方式」にある、「運搬のムダ」にもあたる。

積み替え作業は、付加価値を創造しないからである。

短い「夏」だった?

わが国の気象のことは、「気象庁」が独占して情報管理をしている。
それが証拠は、国家資格の「気象予報士」だと前に書いた。
この「士」たちは、気象庁が発表する元データから「しか」予報することができない「法」になっているのだ。

それで、優秀であればあるほど、「同じ予報になる」ようになっている。
気象予報が「科学」であれば、元データが同じで違う予報になるはずがないからである。

むかし、「天気予報」といえば、「当たらない」とか「頼りにならない」ことの代名詞だった。
最近の「正確さ」は、観測網の整備と、観測機器の精度、それに、スーパーコンピューターを用いたシミュレーション精度の向上によるものだ。

つまり、元が「税金」の「予算」が執行された結果である。

気象庁という役所で、予算と制度を仕切るのは「高等文官」の専任領域だ。
予報は、学位を持つ「技官」の専任領域(「これだけ」という意味)だから、気象予報士の業務内容を定めているのは、「高等文官」の方である。

こうして、私たちの生活の隅々まで、「高等文官」の息がかかっていることになっているのが、日本という国なのである。

その高等文官の「たちの悪さ」は、予算という金をおさえているから、これを盾に「制度化」して、技官をコントロールすることにある。
技官にだって「高等技官」はいるけれど、なにせ予算を仕切る業務は与えられない。

それで、予算欲しさに「日和る」のだ。
厳密には、「科学」が「思惑」に負けるのである。

高等文官の分散があったむかしは、気象にまつわる「(統計)データ」も分散していた。
農業国家だったから、「水利」にまつわる農林省が農業地域(とはいえ、全国)の気象データを持っていたし、「治水」ならば、内務省と農商務省の争いは有名で、もちろん、「軍」もしかりである。

戦後は「運輸省」から「国土交通省」の外局にあるのが気象庁だ。
だから、親元の「省」から、官界的「天下り」があるし、庁内での出世とは、本省勤務になることだ。

いまは、国交省にある「国土地理院」だって、全国の「地図」を作っているけど、元は「陸軍参謀本部」の下部組織だった。
泉鏡花の名作、『高野聖』の冒頭が示す通りだ。
なお、こうした「名文」は、朗読を耳から聞いて心地よく、名優、佐藤慶のCDがある。

 

そんなわけで、各地での大雨が「観測史上初」を連発するようになったのは、こうした「他省庁の過去データを無視」して、気象庁が単独でこの30年間で全国に2000カ所も整備した「アメダス」の詳細データから、一カ所でも「初」を見つけたら、「観測史上初」ということにしたのである。

それが昨今連発される、「観測史上初」が量産される理由である。
これは、「統計データの扱いにおける定義の変更」にあたる重要事項だ。
すなわち、国民資産である「データ」を、国民に誤解を与える方法で活用するという「悪質」が見てとれる。

センセーショナルな記事を求める報道機関に、「気象情報独占機関」が日和ったのは、「もっと予算を」という、高等文官が、全予算を握る財務省のより高等文官にアッピールしているだけなのだ。

これだけでも十分に「悪質」だけれども、地球規模の気象変動の影響(とにかく「温暖化」)であることに、無理やりでも結びつけるのは、もはや「悪意」としかいえない。

こうして、気象を独占する役所からの発信が、産業を独占する役所に伝播したり、環境を独占する役所に伝播したことにして、それぞれの役所が、あたかも「新型コロナウィルスが存在するかのような」おかしな前提を基準に政策を立案する。

それが、「脱炭素」とか、「炭素税」となり、予算を大元で仕切る財務省が喜ぶようになっているのだ。
なにしろ、役人の中の役人が、21世紀になっても「主計官」のままなのである。

ちなみに、19年に101歳で亡くなった「大勲位」の中曽根康弘元首相は、「青年将校」を自己演出していたけれど、「海軍兵学校」出の本流将校ではなく、内務省からの「主計将校」であって、軍の予算を握っていた「軍事官僚」(終戦時は「主計少佐」)であった。

現在も変わりなく、各省庁の予算を仕切る高等文官たち(局長級)が、主計官(課長級)におもねるのである。
こうして、予算案と予算執行がされている。
国会は、単なる「承認機関」になったので、特段大きな存在ではない。

「国権の最高機関」だと、口で言っていればいいだけの「でくのぼう」集団が、国会議員になった。
「定数」で、衆議院は465人、参議院は245人、併せて710人もの国会議員がいる。

人口比で議員数みたら、世界標準より少ない、という向きもあるけど、人口が3倍ある宗主国のアメリカでは、衆議院にあたる下院で435人、参議院にあたる上院は100人の併せて535人なのである。

8月までの猛暑が、9月になったら長雨で吹き飛んで、「肌寒さ」を感じるまでになった。
「暑い」のは、「温暖化」のせいだけど、「寒い」のはなにも言わない。

実際の気象(気候)がどうなっているのかに関係なく、あたかも「PCR検査陽性が感染」のように、とにかく「二酸化炭素」を排出してはならない、という「信仰」が広がっている。

これを、「バカげたことだ」という学者を、バカげているというのは、ワクチン大臣が言った「デマだ」という話と、同じなのだ。
その「同じ」とは、「予算がつく」ということだけの共通をいう。

カネが病気をつくったり、気象までも差配する時代になった。

こうしたことが、未整備だった「昭和30年代」が懐かしい。
政府機能は、充実させてはならないことを理解できるというものだ。
しかして、ここでいう「充実」とは、役人目線からのことで、国民目線なら「過剰」がうみだす「過保護」で、人間を腐らせる。

それが、国民奴隷化の「最終目標」なのである。
だから、国民はすぐさま政府依存をやめないといけない。
けれども、総裁選候補者たちは、相変わらず政府に任せれば安心だと「悪魔の言葉」を言い続けるのだ。

絶望的接客サービスが爆盛りにする

知らない街での昼食をどうするかは、ネット検索が当たり前になった。
しかし、レストランガイド的なサイトは「信用ならない」と思っているので、食べたいジャンルから「マップ検索」をすることにしている。

最近では、「SEO(Search Engine Optimization)」という、検索結果で自社サイトを露出させるための技術が普及したので、次の段階に当たる、「MEO(Map Engine Optimization)」の普及が始まっている。
要は、「Googleマップ」の地図検索で自社の場所を指し示すだけでなく、自動生成される「案内情報」機能に、自社の営業時間とかの情報を利用者に提供して、集客にあてるのである。

こうした機能の利用を、提供者である営業者側が意識的に行っているか、そうでないかは、例えば、上述した「自動生成」されて利用者の画面に出る「営業者情報」に、「ビジネスオーナーですか?」という記載の有無でわかる。
この表示があれば、提供者側は何もしていないことを指す。

もし、提供者側がなんらかの「機能設定」を、Googleマップの設定画面で行っていれば、その設定のときに「ビジネスオーナー」としての登録をすることになるから、この部分の記載はされないようになるのだ。
つまり、この一文の記載の有無が、営業者の側の「リテラシー状態」をさり気なく表現してしまっている。
なお、利用者には別途、利用状況の投稿が可能なので、従来のレストランガイドにおける「評価」と同様の情報も得られるようになっている。

さてそれで、知らない街での昼食をどうしようか?ということになった。
ジャンルとして、「そば・うどん」が頭に浮かんだので、さっそく地図検索してみたら数店舗が候補に挙がった。
初めてだからどこでもいいけど、地図なのでたまたま検索した場所から最も近い店順にアルファベットで順番表記される。

それで、「評価ポイント」はイマイチだったけど、空腹と近場という二点から、「A店」に向かうことにした。
やや遅めの昼時になったけど、店の駐車場は一杯で幸いにも1台分だけ空いていた。
「もしや人気店では?」という期待は、他県に混じって地元ナンバーの車が散見されるからである。
それに、アプローチからしてあんがいと高級店にもみえるのだ。

店内はほぼ満席状態ではあったけれど、見渡せば卓数ともに席数はさほどに多くはない。
これを、ほぼ高年の女性三人がフロアー係として仕切っている。
彼女らの「動作」は、驚くほど洗煉されてなく、そのムダな動きに思わずため息が出た。
一つのことに数回の動作を要しながら、また、三人が一つの伝票に集中してしまう「さま」は、格別にイラつかせる。

そんなわけで、入口で待たされることになったのだが、だれも下げものをしないので、空席が空席にならない。
「B店に行こう」と思いだした矢先、席に案内された。
ここから、注文に至っても紆余曲折があるけれど、詳細は省略する。

注文したのは、日替わり定食の本日は「牛丼」である。
税込み990円。
しかして、料理が届いて驚いた。
お盆に盛りそば、牛丼、みそ汁、漬物、だけでなく、ミニサラダ、冷や奴、茶碗蒸しがのっていた。

「完食できるか?」
そばは、最近食した中でいちばん美味かった。
ただし、汁がやや辛い。
牛丼は、ちゃんとした牛肉が山ほど載せてあって、これだけでも一人前はある。

副菜はどれもふつうに美味いけど、茶碗蒸しの具材だっていろいろ入っていた。
人間は空腹が満たされると幸せになってしまうものだが、サービス崩壊も一時忘れる迫力だった。
「これで990円?」
厨房にいる主人の腕前を褒めたいけれど、どこまでホールの状態を把握しているのだろうか?

いや、とっくにわかっていて、それが料理によっての「埋め合わせ」をしているのだ。
なにしろ、本日の定食があと何人前でなくなるのかすら、ホール係の三人は把握していないのだ。
作り手としては、あらかじめ数を教えているはずである。
そして、こんなドタバタが、毎日起きているだろうから、嫌でも状況は知っているにちがいない。

けれども、三人のほぼ高齢者を辞めさせられない。
補充をしようにも、応募がなかったと想像に難くない。
しかも、この席数なら二人もいれば回るはずである。
それを、補充して四人にするくらいなら、食材原価なんて目くじらを立てるほどでもない。

以上のような「計算」から、この店の「爆盛り」が生まれている、とみた。

さて、この街に再びくることがあったら、また来店すべき店であるかどうか微妙である。
これが、「評価ポイント」のイマイチならば、レストランガイド的なサイトよりよほど正直な評価をしている。
この店の主人は、この「評価」を知っているのかどうなのか?

そんなもの、見なくたってわかっている、と啖呵を切るかもしれない。

2枚刃か3枚刃か?それとも?

むかしは、「切れ者」のことを「カミソリ」と呼んでいた。
プロが使う片刃から、刃の角度を固定する両刃カミソリができて、ひげ剃りの形状がどんどん進化した。
それから、「2枚刃」が登場した。
これは、という「切れ者」のことを「2枚刃」と呼んだ。

いまは、5枚刃までにひげ剃りは進化したけど、「5枚刃」と呼ばれる切れ者はいなくなった。
むしろ、ほんとうに5枚も必要なのか?

カミソリ・メーカーは、「電気ひげ剃り」をライバルにしているのだろうけど、いわゆる、「ウエット・シェービング派」からすれば、「電気」のそれは完全に「別物」である。
個人的には、30代までは「電気派」だった。
長距離フライトだと、寝起きの「電気振動」と「ジャリジャリ音」が機内で一斉に始まったのがなんだか懐かしい。

わたしのひげは、柔らかくて左アゴ下に「つむじ」があって剃るのが難しい、と床屋のベテラン理髪師にいわれた。
そもそもが「電気」のそれだと、剃り残しができるのだけど、この一言で「理由」がわかった。
愛用していたドイツ製の電気ひげ剃りが寿命を迎えたので、懸案の「T字カミソリ」を購入した。

初めてのそれは、アメリカ製のものだったけど、世界シェアで圧倒的なメーカーのものではなくて、日本で圧倒的なシェアのメーカーのものだった。
この構図がいまでも変わっていないのは、愛用者が浮気をしないからだろう。
「この手の商品」は、浮気をすると高くつくからである。

それでもメーカーは、いろんな「機構」や「機能」を開発して、例えば、「首振りヘッド」は、いまでは常識になっている。
これが、「乗り換えキャンペーン」になって、消費者は好みのメーカー内の商品を「お試し」させられている。
ところが、同じメーカーの新商品は、従来品と全く別の構造なので汎用性がなく、別メーカーの商品に乗り換えるのとなんら変わらない。

しかも、ライバルの別メーカーも同じような時期に新商品を出すので、「お試しセット」がぶつかり合うのである。

消費者として悩ましいのは、「替え刃」が高価なことである。
いまのアメリカ製2大メーカーのそれの「高さ」は、驚くほどで、長く使おうと「替え刃」を購入すると、高級電気ひげ剃りが購入できる以上の「出費」を強いられることになる。
すると、これらのメーカーは、確信的に「電気ひげ剃り」がライバルとは考えていないということに気づくのだ。

そこで、涙ぐましい抵抗として、本体(柄)よりよほど高単価な「替え刃」がなるべくたくさん付いている「お試しセット」ばかりを買って、「替え刃だけ」を買わないという「手」を実行するのである。
そんなわけで、わが家の洗面所には、ずいぶんな数の本体が眠っている。

さて、以上は、アメリカ製のひげ剃りの話である。
そこで、日本製はどうした?ということになる。

ドラッグストアの片隅に、なんだか「ひっそり」とたたずんでいるのが日本製のそれだ。
「いい物を安く」という「良心」といえばその通りで、文句をいう話ではないのだけれども、アメリカ製のと比較すると、あまりにも安価な「替え刃」に、かえって怯むのである。

しかし、わたしのささやかな抵抗感が後押しして、「買い物カゴ」に入れたのだった。

「両刃」の場合、日本製のものは「切れすぎる」という問題があって、ひげ剃りの度に出血する難がある。
「百均」にあった、韓国製の「なまくら度合い」がちょうどよかったけど、棚から消えてしまったのは残念だ。
だから、いかに安価でも、これまで購入を躊躇してきたし、高級ホテルにあるものも「これはいい」と思ったためしがなかった。

ところが、期待値が低かったことだけではなくて、実際に遣い心地は悪くない。
その意味で、わたしのアメリカ製からの脱却が完遂したのである。
特に、最近の「主流?」になっている、「5枚刃」は、鼻の下とかの狭いエリアを剃るのに不向きだ。
カミソリ・ヘッドの大面積が、必ず「剃り残し」を作るのである。

アメリカ人の鼻の下は、そんなに長いのか?

日本製のすごさは、自社「替え刃」なら、どんな種類の本体にも合致する設計になっていることだ。
これは、「終売」したものにも適用される。
そこで、いま販売されている「替え刃」は3種類あって、どの本体にも使えるのだ。
「専用」ばかりのアメリカメーカーからしたら、おそるべき儲からないシステムになっているのである。

「2枚刃」が1種類、「3枚刃」が2種類ある。
「刃の数」は、何を意味するかといえば、刃にかかる圧力の集中と分散である。
1枚の両刃が、深剃りでは一番だけどもっともひげ剃りテクニックを要するように、加減によっては肌を削ってしまう。
2枚刃は、両刃ほどの難易度はないが、本体の構造がシンプルゆえに、やはり加減のテクがいる。

このメーカーに、3枚刃が2種類あるのは、刃の前と後にある、「ガイド」の違いだ。
そこで、どちらがよいかがユーザーの議論になっている。
もちろん、使ってみないとわからないから、両方を購入したひとたちによる「好み」となる。

ところで、このメーカーには、5千円ほどもする「本体」がある。
材質とヘッドの首振り構造にお金がかかっている、「一生もの」である。
これも、アメリカのメーカーにはない発想だ。

やっぱり、「日本的」なのである。

「スパイ防止法」の困難

事実上の「退陣」を決めて、とたんにレームダック化した現政権は、この際「コロナ対策に集中したい」という表向きの意向を愚直に実施して、感染症予防法の「2類から5類への格下げ」という、医師会からしたら「自爆テロ」をやって終わりにしてもらいたい。
横浜市長選挙での「指導力のなさ」は、政界引退につながるほどの破壊力だから、最後の「すかしっぺ」という意味である。

それに、「ハマのドン」は、秋の衆議院議員選挙における、「前」首相の「落選」を明言して容赦ない。

人間という動物は、もっとも脆弱な状態で生まれてくると知られている。
特に、乳幼児期の無防備は、他の動物にはない「自分で歩けない」のだから仕方ない。
それで、ずっと「母親」に依存して育つ、ということが行われてきた。

乳が出るから、だけが理由ではなく、父親は食料確保に専念しないと一家が飢え死んでしまうからである。
こうした分業が、子育ての男女分けにもなって、小児期から男の子は父親について将来の生活の訓練を受けていた。
もちろん、「寿命」が短かったので、「成人」の時期も早かった。

『赤とんぼ』の歌詞にある、「ねえやは十五で嫁に行き」でも晩婚だったかもしれない。
初潮があれば、もう嫁に行けた。
人生が、50年もなかった時代の話が前提になっている。

それで、「人生100年」時代の今と直接比較するおっちょこちょいがいる。
逆に、脳科学の世界では、脳の成熟期は「25歳」だということがわかってきた。
これは、「25歳はお肌の曲がり角」とも合致する。
「大脳皮質」という「皮膚」も、25年で曲がり角を迎えるのである。

「脳死」が制度化されたのに、「脳成人」が話題にならず、18歳を成人とする逆行が行われている。
いまの時代を眺めれば、25歳で成人とするのが合理的ではないのか。
ならば、「被選挙権」は、もっとずっと遅くていい。
社会を知っているひとを選びたい。

さて、人間の成長は、生物的な脆弱さからの母親依存という「先天性」がありながら、そこから生活社会を通じた、「後天的」な教育(社会常識とはその社会が個々人を「洗脳」すること)に左右されるようになっている。
「個人」を貫く、社会的伝統と因習がある地域と、「集団」を貫く社会的伝統と因習がある地域が、文化性から文明までも違えることになるのは当然だ。

しかし、同時に、「組織依存」という「本能」が、人間にはある。
自己が属する組織に従う、という行動様式なくしては、太古からの生存競争に生き残ることができなかった。
ところが、この組織には2種類がある。

一つが、「フォーマル組織」で、様々な組織がつくる「組織図」がこれを表現する。
もう一つが、「インフォーマル組織」だ。
組織内の「派」とか、「同窓」「同期」とか、「仲良しグループ」などがこれにあたる。
実際に、組織を動かしているのは、あんがいと「インフォーマル組織」だったりする。

これは、企業内ばかりか官僚組織も、町内会・自治会だっておなじだ。

ところで、「スパイ防止法」を制定する必要性はよくいわれているのに、どうしてできないのか?
わが国が「一等国」だった時代には、「治安維持法」とか、「軍法」とかがあって、特別高等警察とか、憲兵が取り締まりをしていた。
これが、戦後、全部廃止されたから、スパイ天国になったといわれている。

では、スパイとは何か?を問えば、利益相反する組織の一方「だけ」が持つ情報を、相手方に伝える(ふつう「盗み」とか、「漏洩」という)行為のことを指す。
ところが、インフォーマル組織では、フォーマル組織の情報を交換することによって、実際の組織を動かしているのだから、この意味では「スパイ」なのだ。

民間でも、役人の世界でも「出向」はある。
役人なら、初級職にはほぼないけれど、中級職や上級職ともなると他省庁への「出向」はよくあることだし、民間企業との「交換人事」だってある。
これを、「民間との人材交流」とかいったりして、民間人も中級職や上級職に就くことがある。

民間から役所への出向の場合には、「守秘義務契約」が課せられるけど、その逆はあまりない。
それで、他省庁に出向しようが民間に出向しようが、最初に採用された省庁のフォーマル組織に忠実な態度をとるために、まずは臆面もなく「スパイ」して、出向先の情報を漏らすのである。
もちろん、受け入れ先もこれを承知しているから、小さな情報戦が行われている。

しかし、厄介なのはインフォーマル組織への漏洩なのである。
それでも、フォーマルであろうがインフォーマルであろうが、その組織の上司やらが「外国」とつながっていたら、たちまちに本物のスパイ行為になるのだ。

わが国の立法は、とっくに「内閣提出=行政府起案」が主であるので、役人が自分のクビを締めるような法案を書くはずがない。
これが、「スパイ防止法の困難」の最初にして最大の関門になっている。
けれども、「どこまで」をスパイ行為とするかの「定義」をつけて、しかも、取り締まり機関を制定しないと、実質的意味がない。

それは、民間企業内でもいえることなのである。

総裁選の候補者で、威勢のよい発言をするひとが、「保守層」から歓迎されているけれど、恐るべき「強権」を国家に与えることにもなる。
世界を見渡せば、スパイに寛容な処置を許す法体系の国なんてないのだ。

政府が社会に「悪」を作りだして、それを国民の感情のうち「憎悪」の対象に仕立て上げるという手法は、全体主義の常套手段なのである。

この議論に限らず、目的に合致した、「法」を「きちんと」制定してもらいたいものだ。

「人口カバー率99%」だって?

「宿の再生」をお手伝いしていると、どうしてもふつうのビジネスマンが行く出張とは趣が異なる。
その典型が、通信手段における「苦労」なのである。
パソコンやタブレットなどをスマホとともに持ち歩くのがふつうだから、スマホのテザリングでは割高感がある。
そこで、いわゆる、「ポケットwifi」を別途持ち歩いている。

公共の場所で使える「フリーwaifi」も避けたいのは、やはり「暗号化されない」という問題が、「もしも」のリスクとなるからだ。
「業務用」としては、ただほど高いものになりかねない。
「ポケットwafi」の電池切れは、絶望的な状態になるので、予備の電池も持ち歩くからそれなりの重量になるのである。

「SIMカード」を端末に入れる「べき」論はよく聞くことだけど、全部の端末にそれぞれ入れるのも「割高」になる。
最近は、複数SIMのトータルサービスがあるけれど、だ。
しかも、なぜか「先進的」であるはずの、アップル社は、「MAC」にSIMカードを刺す機能をつけていない。
だから、やっぱり「ポケットwafi」が必要になるのである。

そこで、よく議論の種になるのが、「格安はどれだ?」というものである。
もちろん安いに越したことはないけれど、「つながらない」ということが、最悪を生むから、優先順は「安い」にならない。
同じく、「速い」というのも優先順としては落ちるのである。

すると、世に喧伝されている「ポケットwafi」の「評価」は、わたしには混乱の元になる。
「(月あたりと通信単位あたり)安い」と「速い」ではなくて、「とにかくつながる」ことが絶対条件だからである。

そうなると、「キャリア回線」という選択になる。
しかし、厄介なのが、キャリアがキャリア回線の貸出をすることでの「格安」なので、「格安」では、混雑時間帯の速度が
極端に落ちることがある。
キャリアがキャリアと直接契約しているユーザーの利用を優先させるからである。

つまり、キャリアと直接契約するメリットは、ここしかない。

思わずボヤきたくなるのは、テレビのニュースを主たる情報源にしている、いわゆる、「情報弱者(情弱)」のひとたちほど、安易にキャリアと直接契約しているのである。
電話といえばNTTだと骨髄反射するからだと思われる。
それがテレビCMにも反映されていて、「無料のスマホ講座」を売りにして、高齢者の不安解消をアッピールしている。

情弱な高齢者は、「格安」ならぬ「割高」を喜んで選択しているのである。

けれども、悪いことばかりではなくて、「つながる」という当たり前が担保されている。
これは、都会ではなくて地方の生活ではより強く言えるメリットなのだ。
例えば、山間の農地での作業であっても、これからの季節になる山中での「きのこ狩り」でも、なにかあったら誰かと連絡ができることが、本当の「安心」だ。

地方にキャリアの「サブブランド」の店舗がないのは、「つながらない」ということの、提供側の不安心理が、契約者からのクレームになって都会に拡散することをおそれているからにちがいない。
そのクレームは、事実だからである。
だけれども、契約時に「つながりませんよ」とはいえないから、売らないのだ。

そんなわけで、地方の山間部に出かけることが想定できるわたしには、「格安」「高速」は、「役に立たない」ことのアッピールに聞こえるのである。
現に、都会を行動基盤にしている家内は、「格安」「高速」の端末をふだんは愛用している。
けれども、すこしでも田舎に踏み込めば、たちまちにして「つながらない」ことを体験できるのだ。

つまり、「人口カバー率99%」ということは、実際の数字ではなく、「理論上」のことなのである。

もはや、温泉旅館でも「wifi」は客用サービスとして必須になっているけれど、ほとんどが冒頭に述べたように「暗号化されない」ものだから、実務では使えない。
それで、有線LANにケーブル接続して、これを無線化するガジェットも販売されていた。
ところが、もはや多くのビジホでも有線LANの設備が、より安価な「無線化」にされてしまったから、遅れた旅館も無線化が一般的だ。

世の中は「5G」の普及がはじまったばかりだが、「電磁波問題」でオランダなどの一部の国では「禁止」されている。
それで、わが国は「6G」の実用化を急ぐという。
どちらにせよ、端末側の機能にもそれぞれの規格に準拠することが必要なので、すぐさまその恩恵を受けられない。

「高級」ホテルなどでは、どのような通信設備設定をするのか?
自身のPCなどがハッキングされないための「防御」を、「サービス要件」とすべきではあるけれど、不特定多数がおなじ部屋に宿泊するというなかでの機能提供は、オフィスとちがってあんがいと技術的困難を伴うことなのだ。

今や、誰も振り向かない、超低速な「音声カプラー」を自身で持ち込んでいた外国人客を見たのは、もう20年も前になる。
当時だって、超低速の時代遅れではあったけど、「世界中絶対につながる」という理由は、納得できるものだった。

さてこの問題、どうやって解決を図るのか?
それとも、あきらめて、「暗号化されない」けど「wifiあります」とするのか?

全国チェーンホテルのバラツキ

出張族にはおなじみの全国チェーンのビジネス・ホテルに泊まって気がついた「バラツキ」は、次回の宿泊施設選択に覚えとしてメモをしておく。
ただし、ここでの議論は、ビジネス・ホテルゆえの「人的サービス」ではなくて、「ハード上のこと」である。

ホテル業が「接客」サービス業だと信じているひとはたくさんいるけど、そんなことはない。
「グレード」によって、サービスの質と利用客へのまとわりつき方が違う。
だから、今ではあまりいわない「格安ホテル」は、人的サービスよりも「設計者が用意するサービス(ハード=機能)」が重要になってくる。

これは、例えば旅客機内のトイレの設計に似ている。
あの強烈に狭い空間は、用意するべき座席数との「トレードオフ」の関係から導きだされた、極めて綿密なる設計を要するものなのだ。
それは、「狭い」からといって、トイレとしての機能性を一切放棄していないことから理解できる。

しかも、高度1万メートルの上空でも、地上と変わりない「水回り」の機能を完遂させねばならない。
更にいえば、上水と下水との区分すら必要で、氷点下50℃を超える外気にあっても、地上ではふつうに処理できることが必須なのである。
清潔に使用できるようにするのは、客室乗務員の人的サービスではあるけれど、基本機能は「設計段階」という人的サービスで決定的になっているのである。

そんなわけだから、同じホテルチェーンの名前を冠していても、独自設計で建てたホテルと、赤の他人がやっていたホテルを買収した場合とでは、「中身が違う」のは当然なのではあるけれど、むしろ、赤の他人が建てた物を、「チェーンらしくする=統一」ことの方がずっと手間がかかることがある。

普通なら、独自設計の建物の評価が高いのだろうけど、今回は違う。
どこか別のホテルを買収したと思われる、客室の合理的設計に納得したのである。
だから、明らかにこのホテルチェーンが量産している客室では、不満が残るのだ。

このような現象があるのは、なにもホテルだけでなく、温泉旅館も、経営者のみならず従業員も、「泊まり慣れていない」という怪奇なことがあるからなのだ。
自社にすら「泊まり慣れていない」から、他社比較を「お客目線」ですることができない、「まさか」がある。
なので、客室の快適性をレポートするのは、何度も様々な宿に泊まり慣れているひとがやっている。
けれども、これらは「個人的見解」なので、なかなかに「決定的要素の発見」になっていないうらみがある。

いつの間にかに、「ビジホ」というグレードの分野が確立して、それがおよそ「14㎡」に集約されてきた。
個人が一人で棲まう「ワンルーム」なら、およそ「18㎡」だから、一泊毎に販売するビジホは、月額単位で住所登録ができる部屋より、4㎡の有利がある。
すると、50部屋で200㎡の違いが生まれる。

毎日の清掃の手間を考えたら、1㎡当たりの単価は上乗せされるから、ワンルームよりは割高に設定しないと「割に合わない」けれど、200㎡のアドバンテージが有効なのだ。
これに鉄道会社が目をつけて、「沿線」とは関係のない「展開」を開始した。
子会社の旅行事業を放棄して、ビジホ事業に熱心になったのである。

それでもって、旅行会社への手数料を負担と考えて、自社HPでの「最安値保証」をしている。
これもまた、奇怪なる現象なのである。
ところが、海外勢も含めた「ネットエージェント」は、「宿泊ポイント」なる手法で、「最安値」を流動化させてしまった。

利用者が得られるメリットは、なにも「宿泊料金」だけでないからだ。
航空券の手配や、レンタカーなど、「足」にまつわる各種予約の「ワンストップサービス」が売りになっている。
利用者は、こうしたトータルを「買っている」けど、それが簡単にできることにメリットがあるのだ。
そして、こうしたことの、個人と法人需要のちがい、についての研究が、外国ほどよく行われている。

そんなわけで、鉄道会社が系列で旅行会社をやっていたのに、「本社」にあたる鉄道会社はそのノウハウを全然理解していなかった、ということもバレたのだった。

さて、ビジホの全国チェーンの話である。
「接客」における「人的サービス」がどんどん縮小されて、「自動チェックイン」も当たり前になってきているし、「前払い」が原則になっているから、チェックアウトすら鍵を返すだけでよい。
その鍵も、「暗証番号」にしたら、とうとうそのまま何もしないでホテルを後にできるようになった。

つまり、このグレードのホテルは、「設備」こそが「サービス」になっているのだ。
リモートによる業務という時代から、夫婦二人の宿泊でも、デスクは二人分が必要だ。
おそらく、かつては「パウダー・コーナー」だったものを、ミニ・デスクとして改装したセンスが光ったのである。
ついでにいえば、テレビがある部屋とない部屋という選択肢もあっていい。

狭い部屋の空間にある、テレビがリモンコンとともに邪魔で仕方がないのだ。
すると、テレビがない部屋は、料金が安いと考える「昭和世代」の経営者が出てくること必定だ。
私には、テレビがない分の面積を他の電子機器で埋められるから、よほど価値が高い。
それが安いという料金発想をするなら、「もってこい」なのである。

JTBの情けない「広告」

「神奈川県にお住まいの方へ」として、都道府県民限定プランというタイトルの配信が、「るるぶトラベル」から着信した。
そして、直下に以下の文章が掲載されている。

新型コロナウィルス感染症防止のため、各地域により外出自粛要請等が実施されている場合があります。
お出かけの際は最新の情報をご確認ください。
また、ご旅行にあたっては旅のエチケットの実施等、感染拡大防止へのご協力・ご配慮をお願いいたします。

こういうのを、「マッチポンプ」というのである。

確かに、JTBは「日本交通公社」という、国家が仕切る電電公社とおなじ「公社」だったという歴史的背景があるのは理解できる。
しかし、電電公社がその後「NTT]となって、厚顔無恥にも国民財産を横取りした腹黒さを臆面もしないのに対して、なんというお行儀のよさであろうか。

例えば、「電話加入権」がその典型で、今とは金銭価値が違う時代に、数万円もの「債権」を強制的に買わされた。
そうしないと、電話線を引いてくれなかったからである。
しかし、「民営化」の折、一切の返金をしない、という強奪が白昼堂々と行われたのだ。
個人だけでなく、大量に回線を要したホテルは、従順にもこれに従っているけれど、どうして「株主」が文句を言わないのかいまだに不思議である。

それに、高利貸しの代名詞でもあった「電話金融」という、電信柱によくみた看板も、担保となる電話債権が紙切れになってこの世から消えて、サラ金地獄に変換された。
それでもって、法定金利の上限が過去に遡及するという「法外」で、現代の徳政令となって、それが「救済措置」になったのだけど、法人クライアントがいない司法書士や弁護士を救済することにもなった。

これを「恥の上塗り」というひともいない。

かつての大卒就職で、人気を誇ったのが、分割民営化された「JTB」で、もう一方の「公益財団法人日本交通公社」は、観光を研究する機関として生き残っている。
「わが国の観光文化の振興に寄与」とあるけれど、どんな「振興」があって「寄与」しているのか不明の、「公益」がつく不思議組織ではある。

もちろん、「エリート校」の卒業生が大挙して入社したのは、JTBの方である。
それでもって、他の大手旅行会社(昔は「旅行代理店」といった)とは一線を画して、「お山の大将」のような振る舞いも、あるいは万年赤字の「国鉄」をも見下しても、文句を言われない存在でいられたのは、なんとなく、かつての「興銀」のような匂いがしたものである。

興銀の東大偏重は、長銀の京大偏重という文化をつくって、日債銀のその他を見下しながらも、三社ともバブルの泡とともに、この世から消えた。
みずほ銀行のシステム不安は、興銀の呪いがあるとしか思えない。
「うどの大木」といわれた第一勧銀と、東京都の金庫番だった富士銀を、潰れた興銀マンたちが見下しているにちがいないからである。

ところが、見下される側にも「矜持」が乏しい。
受験の「偏差値」による格付けが、おとなになってもとれない「秩序」が、社内だけでなく業界にも形成されるからである。
このパターンが、旅行業界にもあるのだ。

それは、旅行業のなかだけでなく、宿泊業にも及ぶ。
鼻っ柱が強いホテルマンたちは、「士農工商エージェント」といってはいたが、客室販売の「流通ルート」を握る「エージェント」に、結局は頭が上がらない。
これを払拭するチャンスは、「ネットエージェント」が勃興したときだったけど、「業界が違う」という「堅気」の理由で、宿泊大手が買収して傘下に置くことなく、おなじパターンで支配下に入ったのだった。

ただし、当時の宿泊業経営者が、「インターネット社会」を理解できていなかったのは否めない。
航空会社系の「ディストリビューター」の天下でもあった時代背景を「常識」としていたのである。
これは、「天下のJTB」もおなじだったはずで、今日の苦境の原因といえるからである。
けれども、なにもJTBだけでなく、業界が読み間違ったのではあるけれど。

すると、いかなるマネジメント(社風)だったのか?ということになって、やっぱり「興銀」を連想してしまうのだ。

日本の報道はなくても、あるいは外国でも報道されなくても、ヨーロッパでは、どんなことが起きているのかの「生」情報は、旅行会社なら入手できるはずだ。
すると、なぜに日本政府のいう「緊急事態宣言」やら「まんぼう」に従順であるのかが問われるのである。
むしろ、「意味なし」を発信してこその「信頼」というものだ。

旅行会社の経営者は、この期に及んでもまだ「旅行商品を売る」と考えていることの証明が冒頭の配信だ。
そうではなくて、「情報を売る」ことが本業なのである。
このブログのタイトルを飾る、拙著の副題(本当は「本題」)の『観光、ホテル、旅館業のための情報産業論』を手前味噌ながら読めばわかることである。

なぜに「天下の興銀」が滅亡したのか?を、「間に合う」うちにJTBの社員は再考すべきであろう。

現代の信玄の道

「中部横断自動車道」が、8月29日16時に全線開通した。
せっかくなので、静岡ICから東名高速に乗って、新清水ジャンクションを直進したら、新東名も横切ってさっそく「新道」に進入した。
終点(=起点)は、中央自動車道の双葉ジャンクションである。

このルートの「旧道」は、「駿州往還」といわれた富士川沿いの道である。
いわゆる、「武田信玄の今川攻め」(1568年)は、このコースを辿ったのだった。
JR身延線も、この道をなぞっているのは、その急峻なる山岳地帯の谷間を抜けるしかないからだ。

富士川といえば、本州を弓なりに曲げているフォッサマグナの西の縁にあたる。
つまり、この谷間は地質的にも別格な造山活動の隙間なのである。
それで、古来より海と山とを行き来する「往還」の道だった。
このルートしか、人間の足では通れなかったのだ。

21世紀の人類がかんがえる、「地球のために」という「うわごと」が、じつは「たわごと」なのを実感できる。
それでも、高い橋脚とトンネルの連続で、「難所」を制覇したのは、土木技術の勝利といえるだろう。
どんな橋脚なのかを下から確認する「ツアー」があってもいい。
もちろん、宿泊先は下部温泉だ。

この温泉地域の難点は、食事の貧弱にある。
それがまた、あまりの山間地ゆえのものではあったが、行楽目的にしては地味すぎる。
「身延山久遠寺」という、一種のストイックな祈りの聖地がここに選ばれた理由にちがいない。
湯はいい、でもね、が特徴なのだ。

デトックスやダイエットの「聖地」になれそうなものなのに、誰もやっていない。

下部には射撃場があって、またここが「クレー(素焼きの皿)」のメーカー工場でもある。
久しぶりに訪ねると、会長がひとりで番をしていた。
道路が開通してまっ先に、家族で清水港の寿司屋に行ってきたと話してくれた。
「50分だよ!」という声には、張りがあった。

「旧道」しかなかったつい数日前までと、生活世界が変わったのである。
その意味で、富士川水系は静岡経済圏に編入された、ともいえる。
ちなみに、合流する笛吹川は、秩父を分水嶺として甲府盆地を横断している。
すなわち、山梨県の中央部が静岡県になったも同然なのだ。

武田氏滅亡後の甲斐国は、徳川家直轄になったので、駿府との一体感に不自然はない。
むしろ、自然が別天地として分けていたのだ。
こんどは本州の背骨に当たる「中央構造線」の真上を通る甲州街道の出口になる、八王子に鉄砲隊を配置した家康の用意周到こそは、自然の地形を十分に利用した「智恵」がある。

現代人の「知識」の頭でっかちが、家康の「智恵」にかなわないといえる。

すると、甲府盆地の東側、山中湖周辺を水源とする桂川は、反対の谷間を並行にする道志川とともに相模湖に注ぎ込むから、神奈川県の経済圏にある。
道志村の面積の8割を、横浜市水道局が所有するのは、相模湖が横浜市水道の水瓶にあたる水源地ゆえのことだ。
「道の駅道志」にも、横浜市水道局の自動販売機が設置されているし、道志村村営の「道志の湯」には、横浜市民も村民価格で入浴できる。

落選はしたが、道志村を横浜市に合併すると「公約」した候補が、先日の横浜市長選に立候補していた。
しかし、この話は、とっくに道志村議会と横浜市議会が「決議」していて、当事者ではない山梨県と神奈川県の反対で、現実化されていないだけなのだ。
これをもっても、民主主義が無視されている、といえるのである。

さてそれで、新しい道は高速道路なのではあるが、今回開通した30Km程の道は、なんと「無料」なのである。
なので、静岡IC(正確には新清水ジャンクション)から富沢ICまでが有料で、それから先の六郷ICまでが無料となり、ここから先の双葉ジャンクションまでが再び有料となる。
これは、国土交通省直轄の「国道」ということになっているからである。

つまり、なんだか「お得」で、そのトンネル工事の大変さを考えれば、むしろ「無料は悪」にも思える。
家族で寿司をつまみに清水に行くのが、なんだか羨ましくもあるのはこのことだ。
ついでにいえば、中央道の大月と新東名の御殿場も直結したから、富士山を中心に「口」の字型が完成した。
すると、大月を起点に、神奈川県と静岡県の経済ベクトルができたことにもなる。

神奈川県央の東名厚木から、圏央道の八王子ジャンクションでまた中央道と連結するので、「日」が横になった状態でもある。

滅多にいけなかった土地が、グッと近くなったのは、素直に有難いことである。