オリンピック公害

どうしてこうなるのか?
喜劇やお笑いコントの「落ち」は、予想外の展開におかしさがある。

世の中には、さいしょの意図とはちがうことが起きることがたくさんある。
「天変地異」は、人間が意図するものではないが、防止しようとしてなんの役にも立たない防波堤などの建設は、人間の意図でつくられる。

ケインズは、景気「対策」として、有効需要に注目し、乗数効果によって最初の投資額に倍数をかけた効果が期待できるとして、政府財政支出が役に立つと論じたのは、いま世界の先進国で唯一ケインズ経済学からの政策を採用している日本国の住人なら周知のことだろう。

なんの役に立たないものでも、公共事業なら乗数効果で景気浮揚策になる。
それをあてにして「業」とすれば、公共事業がなくなるとたちまち失業の恐怖にさらされる。
だから、さいしょから、「潜在失業者」なのではないか?といってもやめられない。「票」になるからである。

これを「◯◯の一つ覚え」とは、「政官癒着」の結果である。
なにせ、この国を仕切っているえらいひとはみんな「官僚」という部類のひとたちで、それもほとんど「法学部」をでた、法律のなかでも「行政法」の専門家たちなのだ。

なので、経済学を専門にしているひとはわずかで、しかも、えらいひとたちのなかではあんまりえらくないことがおおい。
そんなわけで、ケインズが自分で書いたケインズ経済学の効果が有効な条件である、「不景気のときの政府の政策として」がすっぽり抜け落ちてしまって、「いつでも」になった。

日本が貧しかった時代、高度成長というすばらしい経済状況があったが、元がたいした「額」ではなかったから、「率」でみるとすごい数字だったが、「貧しい」ことにかわりはなかった。
政府の介入が経済の役に立つという「ウソ」は、政府の役に立った。

当時の国力比較は「GNP」だったが、この「N」はナショナルすなわち「国籍」で、日本なら「日本人」が世界で生産した付加価値の合計をいったが、世界で付加価値を産む活動をする日本人がふえると、ちゃんとした正確な統計がとれない。

それで、1993年(平成5年)に、GDPをつかうように切りかえた経緯がある。基幹的統計数値がここで変わるから注意したい。
この「D」は、ドメスティックすなわち「国境」なので、日本の領土内で産まれた付加価値の合計だから、国内での外国人の分もふくむし、海外での分はふくまない。

日本の製造業のおおくが、円高や安い労働力をもとめて、こぞって外国に進出したのはだれでもしっているが、その分の数字が「はいっていない」ことは、ちゃんと意識しないといけない。
だから、いま、GNPをみたら、GDPよりかなりおおきいのだと想像できる。

すると、日本政府の景気対策は「国内」にしか影響しないから、海外進出したひとたちはカヤの外になる。
グローバル化した企業が本社を置く先進各国が、ケインズ経済学による経済政策を放棄した原因のおおくが、ここにある。

そんなことからも、外国にいった日本企業に影響するのが「TPP」になる。

ところで、経済成長が政府のおかげだったのかというと、ほんとうにそんなことはない。
1973年の石油ショックで高度成長がとまったというのは、「ウソ」であると前に書いた
ほんとうは田中角栄内閣による、経済政策の失敗が原因だった。

角栄が総理にまで上り詰める過程での「政策」も、自由主義経済に政府の介入を促進させたから、結果的に「内外価格差」の問題が巨大化した。
先進国唯一のデフレがとまらない原因がこれだとおもう。
巨大なダムのように蓄えられた「内外価格差」での国内の高い価格が、ダムに穴が空いて流れ出している。

内外価格差をあまりもたなかった先進諸国では、デフレになっていない。
日本政府は、これが決壊するとたいへんだから、と決めつけて、一生懸命に阻止しようとしていて、これが「鉄板規制」となってみえているのだ。
すなわち、内外価格差=過去からの利権、なのである。

外国人観光客が増大して、日本という国が世界に体験されている。
無邪気によろこぶひとがおおいのは、マスコミの定番ネタになっている。

ふだんのおかしな報道をみていれば、じつはこれもおかしなことなのだと気がつくものだが、ほめられて悪い気がしないから、あっさり受けとめているのだろう。
しかしこれは、危険な誘導にみえてしまう。

じっさい、外国人の不満はたくさんある。
おおくが、いわゆる「ガラパゴス化」したもので、政府の規制がかならずからんでいる。

まずは、携帯電話。
外国人が自国から持ちこむ携帯電話は、日本の電波法に準拠した端末でありようがない。
それで、いちおういまは「特例」として利用を認めているが、オリンピックにあわせて、テロ防止の視点から「規制強化」が計画されている。

どういう技術的根拠なのだろうか?という点からもわからないが、空港などでトラブルになりそうな予感がする。
もちろん、わたしたちの端末にも影響する。

それに、今日の記事で、首都高の料金上乗せが議論されているという。
混雑緩和が目的らしい。
用がない車は通行するな、ということだろう。
前回のオリンピックでは、マイカーを所有している国民が珍しかった。

「オリンピックだから」という「魔法の言葉」があれば、なんでも通用するとかんがえるえらいひとたちがたくさんいる。
前回どうやったのか?の研究から、さまざまな「規制」が産まれるはずだ。

あたらしい価値を産むのではなく、その活動を阻止するのだから、もうすでに「オリンピック『公害』」になっている。

なるほど、政府がいう「クールジャパン」は、アニメなどのサブカルチャーにあった。

もはや、政府自身が「コミック」になっている。

教えることのむずかしさ

「教える」ことができるのは、教える側が「知っている」ことがあるからで、知らないものは教えられない。
だから、教える側は、教えられる側より人生の先輩であることがふつうになるので、これを「先生」という。
義務教育の初等・中等教育では、「教えさとす」という行為を想定して、それをするひとを「教諭」というのは、そのまま書いたということだ。

高等教育になると、「さとす」という行為がはずれて、「さずける」に変わる。
これで、「教授」になった。
戦後の学制改革でできた、「新制高等学校」は、旧制度だと「中学」のことだから、高校教師は「教諭」のままになっている。

中学を卒業して、高等学校ではなく「高等専門学校(高専)」に入学すると、「教諭」ではなく「教授」になるのは、高等学校よりも「高等」だからである。おなじ年齢でも、生徒を「さとす」行為が必要ない学校という意味である。
だから、高等専門学校で教えられるひとたちは、「学生」と呼んで「生徒」とはいわない。
日本の高等学校は、ぜんぜん高等ではなく、「後期『中等』教育」の位置づけなので、「生徒」という。

最近話題になった、高校の教諭が生徒に挑発されてした行為を、ネットにアップすることを目的に動画撮影された「事件」は、「さとす」必要があるレベルの生徒によって引き起こされたものだとかんがえれば、「さとす」が口だけではすまない状況になったという証拠にもなっている。
つまり、「さとす」ことの範囲を超えている現実が突きつけられて、おとなたちが右往左往した議論をしているのを、おおくの「さとされる」立場の生徒たちがながめているのである。

学校という塀の中の社会では、「懲りない面々」がたくさんいる。
そのなかの構成要素は、先生と生徒だけでなく、PTAと教育委員会という要素がくわわって、複雑な力学がはたらく場になっている。

しかし、生徒とその親は、生命を維持するための「エネルギーの流れ」のように、たった数年でぜんぶ入れ替わる。
高校はふつう3年で卒業することになっているから、前期中等教育の中学校を卒業してすぐ入学すると、たった3年で「定年」をむかえるようなものだ。
実社会の10倍以上のスピードで「引退」しなければならない。

生徒という巨大な構成要素が、通過してしまうのに、学校がかわらずに維持されるのは先生たちと教育委員会とによる。
公立学校なら、どちらも公務員だ。
そういうわけで、じつは学校を維持するひとたちは、実社会を知る立場にない。
これは大学にまでいえることだから、しぜんと「浮世離れ」することになる。
教育界のタコツボ状態は、構造がそうなるようになっている。

大学は社会人を学生として受け入れるのがふつうになってきた。
社会人が大学で教えるのも、はじまっている。
中等教育の前期・後期では、社会人=企業人経験者が「教諭」になることがのぞましい。
それは、なんのために通学し、なんのために学ぶのかについて生徒を「さとす」ことができるからである。

つぎに、社会人=企業人なら、教えることのむずかしさをしっている。
とくにメーカーでは、かつて「マッカーサー指令」でやらされた、「TWI研修」がのこっている。
この研修では、先輩が後輩に、絶対修得しなければならない仕事を、いかに早く間違えずに確実に覚えさせるためのノウハウを修得するようになっている。

それで、社会人=企業人は、研修を受けたことを契機として、職場で実践するから、現実の困難をしっているのだ。
困難だけれど、それでやめるわけにはいかない。
後輩にはやく覚えてもらわなければ、自分の仕事がすすまないからだ。
だから、研修でやったことを基礎に、じぶんで工夫して目的を達成するのだ。

学校教育の場でこのノウハウが活かされないは、国家的損失だとおもう。
さらに、課外授業でもある「生徒会」や「部活動」に必須の「マネジメント」の知識伝授は、その後の人生でおおいに役立つはずである。

なにも企業は「高等教育」をうけたひとだけが欲しいのではない。
「初等教育」の目的、「中等教育前期・後期」の目的、そして高等教育の目的はそれぞれちがう。
その目的が合理的に現代に即しているかも、議論が希薄ではないかとおもう。

「制度」としてみたら、旧制のほうが優れているようにみえる。
親も生徒も、目的を理解していたからだ。
いま学校でまっさきに教えるべきは、「目的」なのである。
ところが、それは、いまと比べてみたら社会が単純だったからでもあって、一律的な価値感の人生がないのに、一律的な「目的」のままだから、現実の要請がブレてしまっている。

これが、教えることのむずかしさ、になっている。

創造の定義

「日本創造学会」という日本学術会議の登録学会がある。
この学会のHPに、「創造の定義」があって、味わい深い。

人が (創造的人間/発達)
問題を (問題定義/問題意識)
異質な情報群を組み合わせ (情報処理/創造思考)
統合して解決し (解決手順/創造技法)
社会あるいは個人レベルで (創造性教育/天才論)
新しい価値を生むこと (評価法/価値論)

こうやってかんがえるものだ、というお手本である。
文章にすると、
「人が、問題を、異質な情報群を組み合わせ、統合して解決し、社会あるいは個人レベルで、新しい価値を生むこと」
あえて句読点で区切ったが、さりげない文章である。

しかし、区切りごとに「()書きのなかにある『領域』」としてどんなことを指しているのかとリンクさせているから、対照してみると、説得力のある「定義」として完成しているのがわかる。

自社の存在意義をこのように「定義」すると、おおくのメリットが生まれることがわかるだろう。
・それはなんだろう?とあらためてかんがえることのメリット。
・おもいついた単語や文章が適正なのか?をチェックすることのメリット。
・完成したときの「すっきり感」をえることのメリット。
・それを、従業員や取引先と共有することのメリット。
を、すくなくてもえることができる。

この「すくなくとも」のしめす意味は、すくなくない。
経営の「根幹」を意味する「すくなくとも」だからである。

日本人の生活は「欧米化」したとよくいわれる。
これをあらためてかんがえてみると、じつは恐ろしいことがみえてくる。
わたしたちの生活で、日本のオリジナル発明品が、ほとんど「ない」からである。

箸や茶碗、急須といった食器類に一部、畳の部屋が消失したから座布団もない。
それでも、冬場はこたつがあるけれど、赤外線ランプが熱源だから、発明となればエジソンにたどりつく。
インターネットもパソコンも、最重要のICも、ぜんぶ発明となると外国人だ。

かつて、「猿まね民族」と揶揄されたことをすっかりわすれて生活しているが、根幹をたどるとオリジナルが確かに「ない」のである。
しかし、だから日本人を卑下しよう!というのではない。

創造の定義に「異質な情報群を組み合わせ」とあることに注目したいのだ。
「異質な情報群」とは、「既存の」ということがかくれている。
オリジナルの発明という既存を、「組み合わせ」たら、あたらしいものになる。
かつてのソニーの世界的大ヒット、トランジスタ・ラジオがそれだ。

新発明のトランジスタをながめて、発明者はさてどうしようとかんがえていたら、日本人がラジオをつくってしまった。
「家具」になっていた高級真空管ラジオが、ポータブルになったのは、のちの「ウォークマン」を彷彿とさせる。
高分子吸収体にも似たはなしがある。
とにかく「水を吸着する粉」ができたが、なにになる?
これで、使い捨ての紙おむつができた。

紙おむつの功罪は、発達心理学の議論になって、旧来のおむつの不快感がない、ということがいかなる影響を乳幼児の発達にあたえるかが論じられたが、それがどんなに「悪いこと」であろうが、便利さという親の都合がまさった。

むかしのテレビコマーシャルは、「新発売」のオンパレードだったが、いまでは目立たない。
日本の停滞は、あたらしい製品やサービスが生まれていないことにあると警告されている。
だからこそ、創造、が必要なのだが、これがうまくいかない。

モノのおおくが中国製などになったが、もはやアップルの製品がしめすように、どの国製なのかが重要ではない時代になっている。
むしろ、アイデアや設計がどの国だったのか?が問われるのは、「権利」という価値がおカネを生むからで、「製造」という価値が低下してしまった。

これが、ものづくりの国を自負する日本を落下させている。
そして、さらに悪いことに、この落下を阻止しようと行政が強力にうごいて、結果的に落下を加速させている。
まさに、余計なお世話なのである。

どうしてこうなるのか?は「統計不正」とおなじで、公務員のえらいひとは共通して法学部出の「文系」だから、じつは技術のことがわからないし、相手へのリスペクトがそもそもない。
でも、えらいから「わからない」とはいわないし、かえって受験でしたように「勉強熱心」だから、「わかったつもり」のお山の大将になるのは、まわりの技術者が面倒だからおだててその場をつくろうからだ。
なにせ、この坊ちゃん「大将」は予算をもっている。

そんなわけで、会社のえらいひとも文系だから、国や自治体のえらい文系のひとと、はなしが合う。
中途半端な知識同士で、技術開発を語り合うから、トンチンカンになって落としどころが補助金の額と期限になるのだ。
この期限がくせ者で、技術の限界を勝手に超えてきめるから、あとになって「できない」とわかると、投じた予算をどうしてくれるに変容して、責任逃れのムリがムリをよぶ。

文系のえらいひとは、「異質な情報群を組み合わせ」るだけでできるんだろう?
簡単じゃないか!
できないなんて、おまえらはバカか?
ああ、やんなっちゃう、こんな偏差値ひくいやつらと組んだ自分がなさけない。

しかし、悪いのはやつらで自分じゃないから、ちゃんとお仕置きをしないといけない。
さてさて、どんなお仕置きがやつらに一番痛手になるかをかんがえないと、自分のせいにされてしまう。

まるで、ゲーテの『ファウスト』の悪魔、メフィストフェレスとおなじ発想をしたものだ。

これが、わが国の「創造」になってしまった。

 

国家統計不正の後始末方法

「国が溶けだす」のは、いろんなところからゆったりとはじまるので、最初は「過小評価」されるものだ。
ルイ16世とマリー・アントワネット夫妻が断頭台の露と消えたのも、先々代の「太陽王」ルイ14世の絶対王政における「絶頂」からの凋落が原因だ。

まさに、平家物語がいう「おごれるものは久しからず、盛者必衰のことわりをあらわす」という、普遍的なことばどおりだ。

話題になった映画『ルイ14世の死』では、最期の病床にあるルイ14世がのちのルイ15世(5歳)をベッドによんで、「公共事業に大金を投じるな」とさとす場面がある。
ルイ16世の時代、すでに王朝の財政が破たんしていたのは、この遺言を15世が守らなかったからである。

わが国の「絶頂」は、まちがいなく「バブル期」である。
国民が敗戦という精神的ショックからぜんぜんぬけだせず、福沢諭吉のいう「独立自尊の精神」をすっかりわすれたはての「絶頂」だった。
根っこをなくした浮き草国民になったのだ。

「おカネこそがすべて」の価値になったのは、70年代の「エコノミック・アニマル」が、歯をむき出したすがたなのだが、その「エコノミック・アニマル」の原因が、完膚無きまで破壊されたゆえに継続した「アメリカ憎し」の精神の代替である「経済競争」になったというウソがある。

第二次大戦後、すぐにはじまった「冷戦」で、ソ連圏との対立に軍事的にわが国(吉田茂)が独立自尊を「放棄」してアメリカに依存したのは、あとづけの「吉田ドクトリン」なぞではなく、たんに、生きのこった旧帝国陸海軍の将校たちが「アカ」かったから、武器を持たせたら「まずい」と判断したのだった。

日本国憲法第九条で放棄したのは、戦力などではなく、むしろ、独立自尊の精神、そのものである。
この精神を、日本人はその後とりかえしてはいない。

アメリカから食料援助がなくては国民が餓死するこの時期、大量の脱脂粉乳が学校給食で供されていたが、これをしったアメリカ本国では食料援助中止運動がおこる。
脱脂粉乳は「豚のエサ」が常識だったから、日本人はすでに大量の豚肉を食べていると誰もがおもったのだった。

しかし、これを人間が、しかもそだちざかりの子どもが食べているとわかって、アメリカ国民は衝撃をうける。
だから、「経済力」でアメリカに対抗しようなどと、バカなことをかんがえる日本人はだれもいなかった。
あとづけの「神話」にすぎないことを信じている。

戦前の政府司令塔だった企画院から転じた経済安定本部(安本)が、商工省とくっついてできたのが経済企画庁と通商産業省で、傾斜生産方式という経済統制を強力に実施した。
そのお先棒を担いだのが、第二政府の日銀だった。

国内のすくない外貨や資本を、効率的につかう、方法が、役所による統制だったこと自体が、本来は笑止であるのに、これを日本人は賞賛するからはなしがおかしくなる。
日銀が政府から独立したのは、なんと平成9年の日銀法改正による。

しかし、統制・規制に味をしめた役人は、ずる賢いのが万国共通だから、ぜんぶの役所に「やり方」をコピーする。
こうして、誰のため=国民のため、という根本をわすれ、省益=自分たちのため、をひたすら追求するようになるのは、高度成長時代に確立する。

これを仕切った政治家が、田中角栄だった。
角栄なき後のいまも、わが国は角栄がつくった制度のうえにあるままだから、これをもって「政官癒着」というのはただしい。
自民党が「ダメ」になったのは、すべての派閥が「家元角栄流」になったからだ。

役所はコピーのたまもので、縦割りだから、省庁ごとに「管轄」する分野に「統計」もある。
今回バレたのは、旧労働省の管轄だけど、全省庁に不正もコピーされている可能性がある。

企業の不祥事でもいえるのが、「第三者委員会」という素性のわからない組織がでてきて、「調査報告」をすることになっている。
今回は、国が「特別」にたのんだひとたちが、あんまり詳しく調べていない疑惑にまで発展した。

しかし、こうしたことがナンセンスなのは、組織の統治と統制が自分でできない、ということだからで、調べた結果の正当性ではない。
民間なら、株主が損をかぶることになるが、官庁なら国民が損をする。
けれども、損だけではこまるのが「統計サービスの回復」をしないといけないからだ。

だから、今回の不正の「原因」をさぐって「処分」するはなしと、「サービス回復」のはなしは別である。
すくなくても、厚生労働省という役所には当事者能力がないとわかったのだから、かれらに引き続き業務をまかせるのは妥当ではない。

「選択と集中」ということでいえば、かつての「総理府統計局」のように、「内閣府統計局」にまかせるのがよい。
この方法は、全省庁がコピーすべきだ。

これは、「政争」ではなく、統計行政の統合だから、かつて政権をになった野党も反対できないはずだ。
不正は、民主党政権の時代の前からだったからで、いま彼らが政府を批判するのは「痴呆」をうたがわれる。
政治家には、さっさとこれを決めて、「原因」と「処分」の方は別にじっくりおやりになればよろしかろう。

国民へのサービスの回復が一番、責任論は二番である。
なのに、責任論を優先させるのは、回復を後回しにすることだから、一種の国民サービスへの破壊行為である。

司法試験をとおった野党の党首は、確信犯で、責任回避の与党側は、やっぱり「家元角栄流」を役人と一緒に踊りつづけたいらしい。

国家の溶解は解けきるまでつづく。

チャンスは一回だけの無情

受験シーズンである。
大雪などの天候で、人生が左右されることもある。
それで、なにか改善があったかというと、みごとになにもない。
せいぜい、試験開始時間がくり上がる程度で、あとは自己責任とされる制度になっている。

「受験戦争」といわれてこのかた、「受験制度」は受験に「とおったひとたち」がつくっている。
受験にとおらなかったひとは、ひとまず無視される「制度」だから、改善のポイントがかたよることになるけれど、おとなになれば自分が受けるものではないから、関心はうすい。

「制度」というものは「形式的」なものであるから、形式で比較する、ということができる。
しかし、その「形式」が、どうしてその「形式」になったか?ということまでかんがえると、あんがいやっかいな事情がでてくるものだ。
それを、ふつう「歴史」という。

卒業と入学の季節が春なのか秋なのか?
これだけでも、世界標準の「秋」とちがうのがわが国で、「秋」にしようとはする動きがあるけれど、いっこうにそうはならない。

大学受験のための「資格」は、わが国にはふたつある。
「高等学校卒業資格」と「高等学校卒業程度認定試験」(旧大学入学資格検定:大検)だ。
いわゆる、「高卒」と、「高認」という。
「高卒」は、履歴書の学歴に「高卒」と書けるが、「高認」は学歴的には「中卒」となる。

しかし、学歴がどうでもいい世界が「官」にはあって、浪人や留年なく大学在学中の3年生までに「国家公務員一種(上級)試験」を合格してどこかの省庁に入省すれば、「高卒」だけど「トップ入省」と認められる。入省が一日でもはやければ、生涯追い越せない「先輩」になるのだ。
だから、一生懸命勉強して、博士号などを取得してからの合格者は、「うとい」としてバカにされる世界である。彼らは「研修期間」中に外国留学も国費でまかなわれ、修士号や博士号を取得するからだ。

若者の数が減って、これから若年者にとっての雇用需要は増加するとかんがえられるから、採用をかんがえる企業にとって、この「資格」問題は、従来とは逆の採用者側にとってハードルの設定にもなる。
はたらきながらの「高卒」資格は、むかしだったら定時制だったが、いまでは「通信制」もある。
「高認」試験は、年二回、8月と11月に実施される。

しかし、供給がすくないのに需要がたかまるのだから、若者の採用には企業間での競争が発生する。
そこで、「高卒」や「高認」の勉強をどのくらい支援して、企業が結果にコミットする、ことも選ばれることの条件になるかもしれない。
つまり、この支援のためのみえにくいコストが、採用経費になってくるというハードルだ。

「高卒」、「高認」、どちらにせよ、本番の大学受験は、やっぱり一発勝負になるのが、わが国の無情であって、しかも、併願すれば受験料がばかにならない金額になる。

文科省という行政の役所が、許認可権を独占し、政治をもって認可させようとした獣医学部を、獣医業界からのはたらきかけでこれを阻止し、「政治の理不尽な介入だ」と反発したのが、なぜか政治の問題にされる国になっている。
行政府を監督指導するのが、選挙でえらばれた政治家の仕事でもあることを、なんと否定してしまうことになるのに、だ。

その役所が、権限を拡大するほど、天下り先がふえるという法則ができて、とうとう自分のこどもをムリクリ入学させるという問題まで発覚した。
これを許した大学は、拒否するとどんな報復があるかしれないから、もはや脅迫であったろう。
本人が退職しようが、制度はのこる。

東京の一極集中はいけないから、東京の大学をムリクリ郊外に移転させる「政策」は、政治家の発案ではなく、役人の勝手な判断だ。
こうして、助成金をやるかわりにいうことを聞けという手法がまかり通るから、大学が自主判断できるすくない分野の「受験料」が値上がりするのである。

これとても、役人のたなごころの上で踊らされている。
こうして、受験生のためでもなんでもなく、役人が肥えるために利用されている。
すなわち、だれのためか?という「マーケットイン」の思想が皆無なのが、日本の教育制度になってしまった。

「教育の荒廃」という問題を、文科省になんとかせよというのは,泥棒にもっとやれというようのもので、まったくの筋違いである。
さいしょに、文科省を廃止すべきなのだ。

80年代、英米両国は、日本に対抗するため日本を研究し、日本の初等教育制度をずいぶんまねたが、その時期、あろうことか日本の文部省は、手に負えなくすさんだ英米の教育制度を輸入してそのまま導入したのが、「ゆとり教育」という自殺であった。

欧米のやり方がすべて正しいとはいわないが、かれらの大学受験方式は、たいがいが「受験資格試験」の点数と、学校や地域生活での活動内容、そして、志望動機や自分の将来像を手紙に書いて学校に送付すると、合否の通知がやってくるようになっている。

そして、「受験資格試験」の受験料は数千円で、しかも何回も受験でき、そのうちの最高成績の点数を記載すればよい。
さらに、大学によっては「点数」よりも、別の項目が重視されることがあるのは、「のびしろ」をみているのである。

「教育機関」として大学をみれば、卒業時のレベルが重要なのであって、入学時のレベルではない。
「やる気」という「のびしろ」があれば、入学させても学校に損はない。
なぜなら、欧米の私立大学は、わが国の数倍どころではない授業料が請求されるからだ。
ちなみに、アメリカには連邦設立の「国立大学」は存在しない。

日本にはない、欧米のやり方で、幹部社員や幹部社員候補の人材を採用するばあいには、かならずトップによる面接がある。
社長面接のことだ。

「企業はひとだ」という社長は、日本にもたくさんいるが、面接すらしないで人事に丸投げの会社はおおい。
こういう会社に、へりくだって入社しても、たいした人生にはならないとかんがえるのが妥当である。

おそらく、一回だけのチャンスをものにしたことだけが人生のよりどころのひとたちがトップの経営者になっているのだ。

その程度では、21世紀は生きていけない。

ただしき「情緒」の育成

数学者は論理的ではない、という議論のつづきである。
今日は、「情緒」の「価値」を深掘りすることがテーマだ。

情緒を最重要としたのは、前回も紹介した、二十世紀わが国を代表する数学者だった岡潔だ。
言わずと知れた1960年の文化勲章受章者である。
岡潔は、物理学者をして名随筆家だった寺田寅彦をいたく尊敬しながら、みずからも名随筆家であった。

このほかに、寺田寅彦の作品は、いまでは電子書籍ならかなりのものが無料化されているから、まったくいい時代になったものだ。
前回紹介した以外に、岡潔の随筆はまだある。
本格的な春にはまだ早いが、こころがポカポカとするから、いつでも読んでいいとおもう。

この本に、情緒の教育が書かれているから、藤原正彦氏の主張は、これを読めばわかる。
そういう意味で,藤原氏は数学の系統ではなく「情緒」の系統として、寺田寅彦-岡潔のながれをくむのだろう。
それは、古きよき日本人のすがたでもある。

ノスタルディックに「情緒」をどのように取り戻すのかをかんがえても、うまくいかない。
いったん失われた教育の修正には、その教育をうけた世代をあきらめて、次の世代に注入しなければならないから時間がかかる、と岡はいう。

「あきらめる」というのは,残念だが「切り捨てる」という意味だ。
すると、年功序列を否定する社会環境が重要になる。
あとから修正された教育をうけた世代が、残念な教育をうけた世代を飛び越えて社会の指導者にならなければならないからだ。

年長者を敬う、という文化の一時的なモラトリアムが必要になる。
これは、いったん日本的伝統秩序の破壊のようにみえるが、そうではない。
なぜなら、年長者ならだれでも後輩から無条件に敬われる、ということは思考停止だから、敬われるべきひとが年長者におおい、ということであればよいからだ。

ぎゃくにいえば、若年者であっても、立派なひとは年齢にかかわらず社会から敬われるということでもあるから、フェアなのだ。
ただ年齢をもって、中身をみずにフィルターをかけて「若輩者」ときめつけるほうが卑怯な社会である。

さて、『春宵十話』の冒頭に、教育、とくに幼児教育や義務教育について書かれている。
ちなみに、この本は文化勲章3年後の1963年の毎日出版文化賞だ。
このなかで岡は、「人」を抜きにした教育を批判しているのだ。
「人」に対する知識の不足を、こどもの教育にないと嘆いている。

まさに、本末転倒という指摘である。
「人は動物だが、単なる動物ではなく、渋柿の台木に甘柿の芽をついだようなもの、つまり動物性の台木に人間性の芽をつぎ木したものといえる。それを、芽なら何でもよい、早く育ちさえすればよいと思って育てているのがいまの教育ではあるまいか。」
「すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい。これが教育というものの根本原則だとおもう。」

そして、人たるゆえんについては、
「一にこれは思いやりの感情にあると思う。」
「いま、たくましさはわかっても、人の心のかなしみがわかる青年がどれだけあるだろうか。人の心を知らなければ、物事をやる場合、緻密さがなく粗雑になる。粗雑というのは対象をちっとも見ないで観念的にものをいっているだけということ、つまり対象への細かい心くばりがないということだから、緻密さが欠けるのはいっさいのものが欠けることにほかならない。」

これは、たいへんな指摘である。
たんに、心理学をいっているのではない。
すなわち、「情緒」である。
だから、「情緒が頭をつくる」と稀代の数学者は断言する。

「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい。」
「単に情操教育が大切だとかいったことではなく、(中略)情緒の中心が実在することがわかると、劣等生というものはこの中心がうまくいってない者のことだから、ちょっとした気の持ちよう、教師の側からいえば気の持たせ方が大切だとわかる。」

「(副交感神経が)活動しているのは、遊びに没頭するとか、何かに熱中しているときである。やらせるのではなく、自分で熱中するというのが大切なことなので、これは学校で機縁は作れても、それ以上のことは学校ではできない。(中略)こうしたことが忘れられているのは、やはり人の中心が情緒にあるというのを知らないからだと思う。」

その気にさせるのは、陽明学の得意とするところである。
「情緒の中心が実在する」とは、最新の脳科学が解明しはじめていることだ。
そして、副交感神経の興奮をうながすことが、じつは情緒の中心を鍛えるのである。

さいきん、脳にダメージをあたえる「ミネラル不足」の指摘があるのは、食品栄養成分からおどろくほどのミネラルが欠乏しているからだ。
キレる子どもにミネラル強化療法をほどこすと、症状が改善されるのは、半世紀前に大数学者が指摘したはなしと合致する。

やっぱり、数学者は論理的なのだ。
むしろ、それを変人とする社会に論理が通じない。

ビジネスも論理である。

論理的ではない数学者

『国家の品格』で有名な、お茶の水女子大学でながく数学の教鞭をとってこられた、藤原正彦氏(いまは同大学名誉教授)の講演を聴いてきた。
冒頭、「数学者は論理的ではない」という「論理」を展開されていた。
ふつう、論理の修得には数学が重要視されるから、聞き手に「おや?」とおもわせる「掴み」なのだろう。

また、氏は「新自由主義=グローバリズム」と定義されて、いまの日本経済や世界経済を批判的に論じているが、これはたしかに定義自体が「論理的ではない」から、「氏=数学者」と限定すれば、数学者は論理的ではない、と証明できる。
しかし、数学者は氏以外にもたくさんいるので、数学者は論理的ではないときめつけることは、わたしにはできない。

新自由主義が、どうしてこの国で忌み嫌われるのか?
むしろ、この国で愛されるのが社会主義であることをおもえば、こたえはむずかしくない。

富の集中と分配をどうすれば適正化できるのか?
これを数学的な計算にもとづいて計画しようとすれば、それは、社会主義計画経済になる。
社会主義計画経済は、ソ連の実験で破たんした事実があるけれども、これをソ連成立の「前に」、数学的に成立しないことを証明したのは、ミーゼスであった。

だから、ソ連での実験は、ミーゼスの証明を70年かけた事実でもってした証明にすぎないのだが、いまだにソ連のやり方が下手だったのだという「論理」をかかげるひとびとがいるのは承知のとおりだ。

こうしたトンチンカンな論理的結論がでる理由を藤原正彦氏は、まちがった「情緒」だという。
なるほど、感情的になれば、論理などふきとんでしまう。
しかし,それはただの「感情論」ではなく、論理を構成する「出発点」の設定をまちがえるからだと説明するのは、たいへん論理的だ。

たとえば、A点とB点を結ぶ直線は一本しかない、のはユークリッド幾何学の基本中の基本だ。
線分の出発点AからBを目指すとどんな線が描けるのか?
ひとは、その線の結果のすがたをみたがるものだ。
そして、ゴールであるB点に注目する。

けれども、もっとも重要なのは、出発点Aをどこにするのか?という選択で、あとは決まってしまうものだ。
これを、論理にあてはめれば、その論理の出発点をどこに設定するのかがまちがっていれば、論理的に展開させればさせるほど、結論となるこたえはあさっての方向になる。

そこで、出発点をただしく設定する能力こそ、ただしき「情緒」ということなのだ。
数学者のことばから「情緒」というと、わたしは岡潔『情緒と日本人』、『情緒と創造』をおもいだす。

 

「情緒」の源泉はなにか?と問えば、言語、とくに母国語になる。
日本人なら日本語が情緒のみなもとである。
人間は思考する動物であるが、この思考を支配するのが「ことば」だからである。

だから、ただしい日本語がただしい人格を形成するのだ、という教育論になる。
70年代にいわれた、「ことばのみだれ」は、すなわち「社会のみだれ」という論理の出発点だ。
それで、小中学校における「国語」教育の重要性が訴求される理由になっている。

日本語の話者、すなわち日本人が、世界的にみて外国語習得が不得手な集団であることは、言わずもがなではあるけれど、それが「国語教育」に原因があるという説がある。
小中学校でまなぶ、国語文法の目的は、高校でまなぶ古典理解のための基礎、という位置づけであるということから、これを「学校文法」とよんでいる。

外国人の日本語学習者がつかう教科書は、「日本語文法」と表記されていて、「国語文法」と書かないのは、日本語が外国人には「国語」ではないから、という理由ではなく、「日本語文法」と「国語文法=学校文法」がまったくの「別物」だからである。
さいきんは、「国語」のことを「日本語」とわざわざ言い換えて、このちがいを混同しているひとがいるのは、「情緒」の問題なのだろうか?

そのちがいとは、「日本語文法」は諸国語と比較できるように整理されている文法で、日本語を外国語とおなじ位置づけにしているが、「学校文法」は日本語の独自世界にとどまっているということなのだ。

国語教師は「国文科」卒、英語教師は「英文科」卒がふつうだから、このクロスオーバーは、ない。
だから、国語教師は英語との比較をおしえないし、英語教師も国語との比較をおしえることができない。

「日本語文法」を外国語をまなぶ直前の時点で学習することが、じつは修得の秘訣なのだと、外国人向け日本語教育の専門家が耳打ちしてくれた。
反グローバル化、はこんなところにもある。

さてそれで、藤原先生の主張は、価値論へとつづく。
それは、次回に書こうとおもう。

外部経営環境の巨大さ

自社の経営戦略を構築するうえで必須の現状分析の手法のなかに、「外部経営環境」と「内部経営資源」の分析がある。

このうちの「外部経営環境」は、自社の一存ではどうにもならないけれど、自社の経営に影響があるとかんがえられる社会事象を抽出して、それにどう対応するのかをかんがえるための題材にするものだ。

残念だがこれが、巨大化している.

交通や通信がいまのように発達していない時代でも、その時代ごとに「最先端」があった。
江戸時代なら飛脚制度がそれだし、特別料金で「早飛躍」という特急便もあった。
当時は、政治の江戸と経済の大阪という二極があったから、どれほどの飛脚需要があったかは、かんたんに想像できる。

ましてや、経済の中心価値は年貢から得る「米」という物資の価値に依存していた。
幕府も大名も、非力といわれた公家も、さらに寺社も、領地からの年貢収入がなけれな生存できない。
その価格は「米相場」できまったから、相場の情報は東西どころか全国を飛び交ったはずである。

それが、明治になってわずか5年で、郵便と電信ができる。
わずかな金額で全国どこにでも配達される郵便は、いまならインターネットの出現のようだったろう。
電信にいたっては、仕組みが理解できなくても、時空を飛び越えた驚異の通信だったにちがいない。

しかし、これらはおもに国内のことだったから、国内の事情が経営に影響した。
それが、だんだんグローバル化すると、ヨーロッパやアメリカの事情が影響するようになる。
けれども、ずいぶん時間差があったから、考慮のための時間もあった。

いまは、とてつもないスピードで変化をキャッチできる。
これらは、もっと早くなることはあっても、遅くなることはない。
それで、地球上の異変が自社の経営におもわぬ影響をおよぼすことになってきた。

だから、「外部経営環境」が自社に影響するとかんがえることは、「想定」すること、と言い換えられる。
つまり、「想定外」とは、かんがえていなかった、という意味になるので、ときと場合によっては、第三者に恥をさらすことになる。

組織運営上、最悪のシナリオ、をつくる意味はここにある。
ところが,あんがいどちらさまも「本当の」最悪のシナリオをつくっていない。

企業における最悪とは、倒産だ。
どうしたら自社が「倒産するのか?」を研究していない。
おおくの経営者は、倒産したら意味がないから研究の価値もない、とかんがえている。

そうではないだろう。
「倒産」といっても、きれいな倒産だってある。
きれいな倒産とは、事業資産をちゃんと配分できて、他人に迷惑をかけずにおわることだ。
これぞ、究極の経営責任である。

もうひとつ、倒産シナリオの研究には、取引先の研究が不可欠になる。
これが役に立つのだ。
「産業連関」的な目線である。
それは、一種の「回路図」のようなイメージである。

巨大な事象が発生して、日本経済全体が不調におちいったなら、自社だけが生きのこることはできないから、しょうがないじゃないか。
しかし、察知する能力をたかめておけば、ちがう状況になる可能性がある。
そして、そうした察知能力が、各社にあれば、天変地異以外の人間がおこなう行為から発生する各種危機を、回避することすら可能ではないか?

たとえば、海洋航行の自由が特定の国の軍事力によって妨げられるとどうなるのか?
東南アジアの海域でおきたら、中東からの石油が止まる可能性がたかまる。
それは、太平洋側の三角波が危険だから、それを避けるための台湾海峡のばあいも同然である。

こうしたわかりきった想定でさえ、民間企業がこぞって政府にはたらきかけることがないのは、どういう意味なのか?
力のある外国が、阻止せんと行動することを、評価せずに批判するのもどういう意味なのか?

こうした事象が、「外部経営環境」になっている。
これは、ネット用語でいえば日本経済の「巨大な脆弱性」である。
ふつう、こうした「脆弱性」がみつかれば、ソフトウェアの手当をする。
あるいは、別の新規ソフトを提供して、古くなって危険なソフトの使用を中止する。

それがだれにでもわかるかたちで放置されているのだが、だれも声をおおきくしない。
すなわち、「放置」=「無責任」という「巨大な外部経営環境」が存在している。

しかし、これはほんとうに自社の一存ではどうにもならない社会事象なのだろうか?
責任ある経営者なら、声をあげなくてどうするのだろう。

なにもしなくても、日本経済は発展をつづける、というかんがえこそ、思考停止だ。

自社最大の危機の想定から、自社の生きのこり戦略がみえてくる。

政府機能停止のメリット

アメリカ合衆国という現代を代表する文明国で、一部とはいえ連邦政府機能が一ヶ月も停止している。
理由はなんであれ、わが国だったらかんがえられない事態であるが、大混乱にいたっていないのはどうしたことか?

「日本国籍」があって、日本国に「居住」していて、「日本語」を話せば、定義として日本人になる。
ここに特定の宗教が「ない」のが、むしろ日本的でもある。

真逆はユダヤ人の定義だ。
ユダヤ教徒という宗教「だけ」で、「ユダヤ人」と呼ぶから、国籍も人種も関係ない。

その日本では、日本人はふつう日本語しかできない。
かくも外国語が不得意で、近代文明を享受している国民は他に類がない。

さいきんはネットで投稿動画がかんたんに視聴できる。
そこで、日本好きのアメリカ人とオーストラリア人コンビが、日本語でさまざまなレポートを配信している。
ある動画では、東京の焼き肉店で料理を注文するのに、日本語のメニューで苦労しているのだが、店員がもってきた英語のメニューの「英語がわからない!」といっていた。

「あんた、なにいってんの?英語だよ!わかるじゃん」
「あゝ、ヨコ文字みるときもちわるくなるから読みたくない」
「それはわかるね、よくこんなの読んでいるわ」

日本に慣れた瞬間はなにか?という外国人ネタの定番は、外国人が日本ではじめて会う外国人に、何語ではなせばよいのかわからなくなったとき、という回答がある。
もっと慣れると、道で見知らぬ外国人にすれ違うと、「あっガイジンだ」とおもって、なるべく声をかけられないようにする、という回答もおおい。

どうやら外国人が、かなり日本人化する、なにかがこの国にはあるようだ。
それで、日本語のニュースしかしらない日本人と、情報という面でも一体化できるのだろう。
アメリカ連邦政府が止まって、こんなことになっているというニュースが、ネットでも目立たないのである.

ちらりと出た記事に、「連邦政府職員80万人」とあった。
日本における国家公務員数が引き合いに出されないけど、わが国の一般職公務員はざっと64万人の5:4、すなわち1.25:1である。
それで、人口はアメリカが31千万人、日本が12千万人だから、2.6:1になる。

単純に、わが国の公務員数はおおすぎる。
人口比なら、30万人程度でよいことになってしまう。
もちろん、あちらは「州」という実質「国家」があつまっている「連邦」だから、単純比較は乱暴だ。

対して、OECDの調査では、日本は世界最低レベルの公務員数なのだ。
どうやら、国際比較における公務員の「定義」に問題がありそうだし、業界支配を考慮するのは困難だ。

一方で、教育社会学者の舞田敏彦氏による2016年10月5日『ニューズウィーク日本語版』によれば、日本の公務員の収入レベルは世界的に突出している。
その安定した「身分」も考慮すれば、よくある「役人天国」という指摘とあいまって納得できるものだ。

国際比較における定義の問題では、公務員に軍人をいれることや社会保障事業の取扱がある。
とくに日本では、介護事業者などのあつかいを公務員とはしないだろう。
また業界支配では、自由に参入ができない事業分野や、自主的に料金を決定できないタクシー事業なども、わが国では公務員とはいわない伝統がある。

連邦政府の機能がとまるとどうなるのか?ということは、国民に「もし連邦政府なかりせば」ということの重要さも、不要さもあきらかにされる。
じっさいにいま、アメリカ合衆国でおきていることは、たっぷりウオッチされていることだろう。

日本だったらどうなるのか?
これは十分に興味深いテーマである。
なにが必要で、なにが重要で、なにがどうでもよく、なにが不要なのか?
念のため、ここでは「誰が」ではなく、「業務」であることに注意したい。

いろんな「業務」がとまって、こまるひとは「誰か」は、とまってみないとわからない。
じつは、予想外にこまるひとはいないかもしれない。
かえって、自由競争が促進されれば、誰が日本経済を停滞させていたかが明確にもなる。

かつて、わが国で政府機能がマヒしたといえるのは、70年前の敗戦直後しかなかった。
安定した政府の存在は、ふつう国民にとって望ましいことではあるが、支配力が強くて安定した政府は、国民にとって望ましくない。

そういう意味では,たまには政府機能がとまるのは、国民にとってわるいことばかりではない。
しかし、残念だが実験ができない。
だから、思考実験という方法しかない。

かんがえる、ということだ。

「ウザン」ドレッシング

健康志向から、「サラダバー」があるレストランがずいぶんふえた。
野菜を食べると健康にいいというのが科学ではなく気分である証拠は、ドレッシングの選択にあらわれる。
ノンオイルならまだましだが、脂質たっぷりのドレッシングを大量にかければ、なにが健康的かがわからなくなる。

しかし、糖質と脂質という成分には、飢餓の時代がながかった人類にとって、「おいしい」という味覚の遺伝子が、ちゃんと機能するようにできている。
だから、野菜という低カロリー食品に、高カロリーの調味料をつかうのは、バランスがとれているのである。

そういうわけで、野菜を食べると健康にいい、ということにはすぐにはならない。
また、エグミというのは、からだによくない成分であることがおおい。
それで、苦く感じて注意を喚起するようにもなっているから、あんがい生野菜には温野菜にくらべて不健康な要素がある。

生野菜は基本的に食べない、というひとがいるのは、理にかなっている。
これに食べ合わせも考慮すると、食べ物というのは化学知識をようしないと理解できない。

中年をすぎて、尿管結石を何度かやったことがある。
その痛みたるや、表現できないほどのものだ。
主たる原因は、緑の野菜におおい「シュウ酸」が、血中のカルシウムと結合してできると医師から説明をうけた。

こうした野菜をとるときには、カルシウムもいっしょに食べると予防になるという。
たとえば、ほうれん草にはたっぷりのシュウ酸があるから、グラタンにして乳製品といっしょに食べれば、乳のカルシウムとすぐに結合して排出されるから、体内でわるさをしない。
伝統的な調理法には、そうとうの経験的知恵がつまっていることをしる。

「医食同源」とはよくいったものだ。
現代は、専門領域が深くなった分、範囲がせまくなった。
それで、「医」学、「薬」学、「栄養」学が、独立してしまった。
さらに、業界のためなのかそれぞれに国家資格ができたから、専門家は専門外のことをいえなくなった。

トータルで、医学の「医者」が、領域を超えても許されるようになっている。
しかし、むかしとちがって、患者の側の知識が向上した。
それで、家父長的である「ぞんざいな態度」を、医者がすることがなくなって、「インフォームドコンセント」や「セカンドオピニオン」があたりまえになった。

出版不況は深刻な状況になってひさしいが、一般人も一般書で知識を得ることが容易になったのは、なにもネットの普及だけが原因ではない。
たとえば、『マギー キッチンサイエンス』は、邦訳が2008年にでているが、アメリカでの出版は1984年である。

1984年といえば、レーガン大統領一期目で、米英ともにスタグフレーションに悩んでいた時代であって、わが国は『ジャパンアズナンバーワン』(1979年、エズラ・ヴォーゲル)の絶頂期だった。
この本は、そんな不況期の真っ最中のアメリカで大ベストセラーになったのだが、平成不況のわが国で大ベストセラーになってはいない。

いわゆる「グルメブーム」というのは,経済成長いちじるしいわが国あって、1975年スタートのテレビ番組『料理天国』が象徴的だったが、猫も杓子もになったのは、やはりバブル時代前後であろう。
そういう意味で,『キッチンサイエンス』は、「食」を食材と調理法という側面から科学(化学)的に解説したものとしての画期があった。

しかし、わが国の「軽さ」は、たんに豪華さをくわえた「美味追求」に終始し、それが転じて「B級」という分野に発展したから、ついに現在・ただいままで、「なぜ?」の領域にふみこんではいない。

残念だが、ここに日本がアメリカをとうとう凌駕したとおもったとたんに凋落がはじまり、アメリカが復活するメカニズムの一端をみるのである。

ちょうどこの本がアメリカで出版された頃、アメリカは国家プロジェクトとして、歴史上二度目の日本研究を終えていた。
一度目は戦時中、捕獲した「零戦」の解体研究だったが、このときは「日本経済の強さの理由」だった。

それで、かれらは「品質にこそ利益の源泉がある」という結論にいたったのである。
料理についても、食材と調理法を科学するというのは,品質の追求と同様ではないか?

これを追求した国と、怠った国が、気がつけばとても「凌駕した」とはいえない差になってしまったのは、当然の帰結である。

とあるレストランのサラダバーで、ドレッシングの種類説明のシールが一部はがれて丸まっていた。
これをみた、中年男性客がおなじグループのひとに、
「『ウザン』っていうドレッシングがいちばんうまいよ」とおしえていた。

「サ」が丸まっていたのだが、それをいわれたお仲間が、「へー、『ウザン』か、めずらしい」といって選んでいたが、「なんだ『サウザン』じゃないか」という声はきこえなかった。